2020/4/3, Fri.

 立ち止まったとたんに、往来の賑わいには変わりもないのに、あたりが静まった。騒がしさはどうやら、足がのろくなるほどに先を急ごうとする自分の内から出たものらしい。おのずと立ち静まり、往来をつくづくと眺める姿になった。こんなふうに用もなく人を待つでもなく路傍に立ちつくしたのはじつにひさしぶり、何十年ぶりどころか、はるか昔のことに思われた。それにつれて、物が見えてくる。いや、何も見えてはいない。何も見えない明視感というものもある。そのうちに、壮年たちのまだしなやかな足取りに、腰や膝やの内に、老年のよろぼいのすでにひそんでいるのが、わずかずつ見えてきた。
 事があればいまにも駆け出しそうな若い脚も、生涯が詰まれば長年のどこかの歪みが積もって歩行に苦しむことになる。だからと言って、往来がよろぼいの群れに変わるわけでない。ひとりで陰気なようなことを思うほどに、まわりは賑やかに盛んになる。昔の人出の、朝の市へ急ぐ、あるいは宵の祭りへ集[つど]う、そんな景気が重なって浮かぶ。敗戦からまだほどなかった頃の、三本立ての映画館から吐き出されて帰る道の、来る時よりもいそいそとした足取りが思い出されて、そのはずみで角をついと離れ、膝の揺るがないのを確めて、約束の時刻もあるので、足を急がせてから、三分と立ち静まっていなかったぞ、本性違わずか、と笑った。
 (古井由吉『ゆらぐ玉の緒』新潮社、二〇一七年、27~28; 「後の花」)



  • 正午直前に起床する。身体が重って、寝床となかなか分離できない。再三に渡ってその意を表明していながら一向に果たせずにいるが、もう少し早寝の方角に向かっていかなくてはならないだろう。
  • 昼過ぎ、洗濯物を取り入れる。朗々として気持ちの良い陽気で、タオルを畳むあいだ、ベランダのガラス戸を開けっ放しにしていた。
  • (……)書店が閉店してしまう前に最後の猟書に行きたいのだが、明日は午後一〇時から通話をすることになった。加えて勿論、溜まっている日記も書かなければならない。
  • 二時過ぎに家を発った。コートを身につける必要はなかった。長閑で安穏とした春の大気であり、道を縁取る林からは葉擦れが大きく湧き立って、居並ぶ樹々の隊列が音響の膜で覆われるものの、寒さはまったく感じられない。空に雲の生きる余地は完全に除かれたわけでなく、淡く混入したところどころもありながら、それでも曇っているとは言えず、陽射しも明るく通い漂う。その日向のなか、家の脇の道端で、ガードレールの際に杖を突いて佇む(……)さんの姿があった。温みを浴びつつ景色を眺めているのだろうか、放心めいて南の山川の方を向いている老婆のその背に、こんにちはと声を掛けたところが、思いのほかに低くて鈍いような、愛想の弱い挨拶になってしまった。応じて相手が振り向いたのに、どうも、こんにちはと声を重ねて頭を下げながら過ぎると、陽光が身体の前面に接着してきて暑いくらいだ。
  • 坂道をゆるゆる上って行けば、中途に立った一本の、あれが多分山桜というやつだと思うが、桜の樹から花がだいぶ少なくなって、茶や黄の風味が混ざって土着っぽいような、野生じみた葉っぱの色が混淆していた。
  • 最寄り駅の階段を行きながら陽に撫でられて、その温柔のうちにあるかなしかの、微弱な恍惚感めいたものの萌さないでもなかった。ホームには例の独話の老婆がいたものの、今日は不可視の相手と言葉を交わさず、見る限りでは黙っていたようだ。
  • (……)駅。ホームを歩いて階段付近まで来れば、二番線に停まっている車両の連なりがそこで終わり、対岸の小学校の光景が露わになる。校庭の端に何本も咲きひらいた桜木のもとで、子供らが思い思いに、沸騰した鍋のなかの気泡のように錯綜的に駆け回って遊んでいる。空中に吸い上げられて霧散していく牧歌的な歓声。
  • (……)
  • (……)
  • (……)
  • (……)
  • そうして五時前に退勤した。コンビニに行って年金を支払う。中年の男性店員の丁寧な接客ぶりに応えて、こちらも正面から相手を見つつ、有難うございますときちんと礼を言った。店を出ると駅前にはまだ薄陽があって、ビルの側面に降りかかっており、マンションの高層階の窓ガラスには落日の姿が集束的に映りこみ、融かした金属めいて密に貼りついている。
  • 最寄りの駅で小さなコーラを買って出て、いくらか東へ歩いた先の肉屋の横から坂に入れば、鵯たちの鳴き交わしが、頭上の樹冠のあちらこちらから快活に立っては落ちてくる。家の傍では山桜が、林の外周で木叢の端を、品の良い白髪の鬢のように彩っている。
  • 日記を書かねばならないはずが、どうでも良いようなことにだらだらとかまけたり、本を読んだり書抜きをしたりしているうちに一日がよほど押し詰まってしまい、結局いくらも綴れない。今日は午前三時からようやく取り掛かった。二二日のことを大雑把に形作ったあと、文を途中まで直し整えただけで半端に終わってしまう。
  • 石田英敬現代思想の教科書 世界を考える知の地平15章』を読み進めてから四時半に就寝。これでも一応、僅かずつではあるが就床時間を早めることはできている。落灯の刻限を一日に一〇分ずつ手前にずらしていくことを目標としたい。