2020/4/8, Wed.

 (……)それから親の家を離れて、北陸の金沢の街で暮らすことになり、戦災を受けていない、経済成長にもまだ呑みこまれていない、その閑静さを日々にあやしんで過ごすうちに、初めの冬に大豪雪に見舞われた。来る日も来る日も雪は夜昼降りしきり、十日あまりしても降り止むけはいも見えず、雪おろしに追われていた町内の人も徒労感のあまり手を拱いて眺めるばかりになった日の、雪の下の底知れぬ静まりを肌身に覚えて、そうして三年暮らして東京へもどって来れば、市街はさらに変わっていた。
 (古井由吉『ゆらぐ玉の緒』新潮社、二〇一七年、97; 「時の刻み」)



  • 今日、祖母が次に入る病院について、父親やそのきょうだいたちのあいだで話し合いがなされていると言う。彼女がいま身を寄せているのは、(……)の(……)だ。
  • Jose James『Lean On Me』を流す。Bill Withersへのトリビュート。サポートは、Kris Bowers(org, p)、Brad Allen Williams(g)、Pino Palladino(b)、Nate Smith(ds)、Lenny Castro(conga)。
  • 日記。たかだか八〇〇字を書くのに一時間一五分も費やしている。まるでフローベールの怨霊に取り憑かれたかのようだ。もう少し手間の掛からない書き方を開発しなければ、この日記はいつまで経っても、いま書き手が生きている現在の日に追いつかないだろう(ちなみにこの一節が書き記されたのは、四月二九日の午前三時手前である)。
  • Kurt Rosenwinkel『The Remedy』。Kurt Rosenwinkel(g)、Mark Turner(ts)、Aaron Goldberg(p)、Joe Martin(b)、Eric Harland(ds)の五人で二〇〇六年一月、Village Vanguardにて録音。端的な名盤。現代のジャズにおける最高峰の一つ。凄まじいライブ。
  • ところで、Kurt Rosenwinkelは最近は何をしているのか? と思って調べてみると、昨年の一〇月にKurt Rosenwinkel Bandit65なる名義で『Searching The Continuum』という新譜を出したようだ。Tim Motzer(electro-acoustic guitar synth, electronics)、Gintas Janusonis(drums, percussion, electronics)という二人のメンバーと一緒にやっているらしいが、どちらもまったく知らない名前である。
  • Lee Konitz & Zoot Sims『Star Eyes - Live In Amsterdam 1958』。Phineas Newborn(p; 1 - 7)、Red Garland(p; 8 - 12)、Oscar Pettiford(b)、Kenny Clarke(ds)、Lee Konitz(as; 4, 5, 10)、Zoot Sims(ts; 6, 7, 10)で、曲によってピアノトリオだったりサックス入りだったりする。一九五八年九月二七日録音、AmsterdamはConcertgebouwでのライブ。
  • 夕食の支度――野菜炒めである。モヤシ、人参、白菜、玉ねぎに冷凍のシーフード、そしてコーンを合わせて炒める。塩胡椒で味つけ。もう一品、麻婆豆腐を拵え、小松菜も切り分ける。ラジカセからはケツメイシの音楽が流れ出しており、母親がそれに合わせて下手くそな歌をちょっと口ずさむ。
  • 今日は日記をわりと頑張って書いている――どうもやはり些細な点に随分とこだわってしまい、まったく少ない分量に大層時間を掛けてしまうが。まあ、一日分で一〇〇〇字くらいの短い文章を力を尽くして丁寧に作り上げる、というやり方を続けてみても良いかなという気もしてはいる。今日は既に――二五時四五分の時点で――四時間半ほど文を綴り、三月二五日から二八日の記事まで四日分を仕上げたのだから、そこそこよくやった方だろう。

二宮  ガラン写本の言葉は、いまとはかなり違うのですか。

西尾  違います。実はガランも誤訳しているぐらい(笑)。アラビア語は現代でも口語と文語が基礎語彙から違う言語です。アラビアンナイトはもともと語り部が語っていたものなので、典雅でなく、辞書にない口語が交じっている。そこに方言が交じれば太刀打ちできない。ラテン語の研究者によると、キケロなど古い時代のラテン語は、辞書や注釈書が揃っているから訳せる。一方、中世のヨーロッパは、共通語がラテン語で、別の地域の言葉が交じりあってラテン語化し、判別できない言葉がたくさんある。古典より読むのがずっと難しいのだと。アラビアンナイトの言葉もこれに近い。
 アントワーヌ・ガランは東洋学者で、語学に堪能だったため、外交使節団として東欧地域にたびたび派遣され、足掛け二〇年暮らして直に言葉を学びました。フランスに戻った一七〇一年、アラビアンナイトの十五世紀の古写本三巻本を手に入れて、翻訳を始めます。アラブ世界でも忘れられていたアラビアンナイトが、ガランの再発見により、日の目を見ることになったのです。

西尾 ガラン写本に収められているのは二八二夜の途中までです。ガランはほかに写本があるはずだと信じていましたし、それに影響を受けて、後世の書き手たちが物語を探し、どんどん収載していったという経緯があります。ほかの版との重なりを比べてみると、原本はこの二百数十夜ほどの物語だったのではないかと考えられるのですが。
 アラビアンナイトとは、アラブ世界とヨーロッパ、二つの文明を往復しながら、様々な訳者や写本探しに奔走した人々の間で、変幻自在に出来上がってきたものです。アラブ文学ではなく世界文学、というより、もはや、文化現象だといえます。
 これまでに出版されているアラビア語版のアラビアンナイトには、主なものにカルカッタ第一版(一八一四~一八)、ブレスラウ版(一八二四~四三)、ブーラーク版(一八三五)、カルカッタ第二版(一八三九~四二)の四種類があります。中でもカルカッタ第二版は決定版といわれ、その後ヨーロッパで訳される多くの翻訳本の底本となりました。中世の様々な語彙を内包している点でも重要なテキストです。でもそれは決してオーセンティックなものとはいえないんです。

二宮   アラビアンナイトには、翻訳者の違うレイン版、ペイン版、バートン版、マルドリュス版が知られているそうですね。ガラン版との差異やそれぞれの特徴も教えていただけますか。

西尾   これらはいわゆる「超訳」です(笑)。比較するのに「ガランは子ども部屋に、レインは図書館に、ペインは書斎に、バートンはどぶに」と形容されています。原本のエロティックなシーンを改変したガラン、生真面目にまとめたレイン、資料的価値が高いけれど難解なペイン、エロティックな場面を強調したバートンという違いです。
 僕は、マルドリュス版を評価しています。それはガランの仕事を最も受け継いでいるのが、マルドリュスだと思うからです。彼は様々な版を編集し、文学的な薫り高いアラビアンナイトを紡ぎ出しました。どこからもってきたか分からない物語も含まれているので、アラブ研究者にはまがい物のように考える人もいますが、アラビアンナイトを、人類が生み出した文学現象だと考えるならば、ガラン版が原点にあり、その後継者はマルドリュスです。カルカッタ第二版は、世界の文学にガラン版やマルドリュス版以上の影響は与えていません。

西尾 そして実は、多くの人がアラビアンナイトといってイメージする、「アラジン」「アリババ」「シンドバット」は、ガラン写本に入っていないんです。「シンドバット」はガランが別で見つけた物語ですが、アラビアンナイトの一部だと思い込んでいたようです。

西尾  物語の中に語り手がいて、数々の物語を語っていくという形式は、やがて文字で書く小説にも取り込まれていったのではないかと考えられています。近代小説では背景や周囲との会話などで、人物の内面を描いていきますが、登場人物に物語を語らせることで人物の内面を描く、それがある時期の小説の手法だったということです。イギリスの小説でも、巡礼者がひとり一人、自分の人となりを語るスタイルを生みだしました。

西尾  人間はその場にAとBがあれば、必ずストーリー性を見出していく生き物なのだと思います。僕はストーリーテラーではないので、人間の中にどういう動機づけの力があるのかに関心がある。動機づけるときに作用するのは、人類にとって普遍的なものなのか、文化によって規定されているのか。それを考えるとっかかりが、民話学でいえばモチーフからの分析でした。先程の「ヴェニスの商人」でいうと、自分の肉一ポンドを与える、というモチーフを、時代や地域で並べて分析していくと、出てくる文化圏と出てこない文化圏がある。出てこない文化圏には、別の補完的なモチーフがあるわけです。 
 ではモチーフとはどこから生まれて来るのか。本書での結論は、自然との繫がりや社会環境など、広い意味での環境要素と、人間の身体的な属性、それから人間の頭の中にある言語。三つが作用して、地域性や文化性を作っているのではないかと。そうであれば、シェイクスピアのモチーフを、我々が根本的に理解するのは不可能です。

二宮  その当時、その文化圏にいた人だけが分かる話になってしまうということですね。

西尾  それが人文科学として考えていった結論なのですが、それでは極端ないい方をすると、文化が違えば理解し合えない、ということになる。それではあんまりなので、それを越える何かがあるのではないだろうかと。言葉の力なのか、人類共通にもつ普遍的な何かが別にあるのか。もしかしたら、言葉をめぐる認知科学的探究の中に、そうした人類共通の何かが見つかるかもしれない。ただ話は戻るけど、人文科学に、絶対的で科学的な説明言語はない。厄介ですね(笑)。というわけで、とにかく人間が言語で何をしているのかを、広い目で見ていこうと思っています。