2020/4/12, Sun.

 腰をあげて表をのぞけば、日はもう隠れて、西の空は一条の赤光を低くに余して黒い雲に覆われていたが、上空には暮れながら淡い光が渡り、東寄りの空に白い月が掛かった。上弦よりは長けた月のようで、それにしても日没からまだ間もない時刻にあんなに高くまで昇るものだろうかと、錯覚ではあり得ないのにあやしんで眺めるうちに、月は夕靄をかぶったまま青く照り、つれて西からさらに押し出す雲がひときわ暗く垂れ、雨の近づきに触れて息を吐く青葉の匂いがふくらんで、いつだかどこかで、同じように明暗の不吉なように際立った光景に、目を瞠ったことがあると思った。見つめるままに底知れず重くなる体感は樹々の熅[いき]れとひとつに現在[いま]に伝わったが、はるか遠くからのようでもあり、つい近年のことのようでもあり、これと思い出せることもない。何のことはなく、昼間の点眼がまだ利いていて、暗から明へ、明から暗へ視線を移すたびに、瞳孔の反応が遅れるだけのことらしい。しかし物に怯えて見つめる目の、瞳孔が開いたままになるということは、あったようだ。明るいものは異様に明るく、暗いものは異様に暗く映る。恐怖と恍惚は一体のものか。
 (古井由吉『ゆらぐ玉の緒』新潮社、二〇一七年、171; 「孤帆一片」)



  • まったくの昼日中、二時一五分まで寝床に留まった。午前のうちに目覚めていたが、昨晩もだいぶ重った頭痛が夜明けを迎えて朝寝を過ごしてもまだ解消されていなかったので、休息を選んだのだ。何となく風邪っぽいような、身体が全体的に痛むような感じもあったが、その後快癒して支障はなかった。
  • 前日の余り物である筍の天麩羅を食う。傍ら覗いた新聞では、北岡伸一後藤新平について書いていた。後藤は、日清戦争後に二四万人ほどの帰還兵に対する検疫を成功させた実績を買われて、台湾総督府の民政局長に抜擢されたという話だ。出自は岩手県水沢、ということは高野長英と同郷になるが、それどころか縁戚らしい。そして後藤も高野と同じく、元々医師をやっていたと言う。
  • 夕食に向けては小松菜を切り分け、米を新しく磨ぎ、野良坊菜と葱を混ぜた麻婆豆腐を拵えた。
  • 蓮實重彦を主題論的に分析すると言うか、そこまで行かなくとも彼の文章に出てくる目立ったキーワードを逐一拾い、書抜きをしてずらりと並べ広げるということをやってみようかと考えて、六時過ぎから八時前まで『小説論=批評論』(青土社、一九八八年)を読みながら気になった頁を熱心にメモしていたのだが、夕食後に風呂に浸かっていると、いや、面倒臭いしわざわざそんなことやらなくても良いか、と気が変わった。そもそも自分はテーマ批評が物凄く好きだというわけでもない。蓮實重彦にしても読んでいて、凄いなこんなことよく気づくなとは思うし、作品がその上に成り立っている原理の抽出とか、言語が演じる具体的な運動に即した描写の仕方とか、構造分析をする際の卓越した手並みなどには勿論感銘を受けはするけれど、それでもテーマ批評の類を読んでいてびっくりするほどの知的興奮を得たという体験は、今まで味わってこなかった気がする。それに、自らそれをやりたいというわけでもない。と言うか正確に言えば、きちんとまとまった形で何らかの批評的な文章を書いてみたいという欲求はまったくないではないのだが、そのためにはやはり一定の体系性=物語を構築することが、基本的には必要になってくるはずだろう。ところが自分は、物語を全然書けない。だから、何かそれらしい批評文の類を書いてみたいなあと漠然と思いながらも、結局は極めて原始的な読み方、つまりは個々の細部を取り上げて、何だかわからんけどここ良くね? 凄くね? といった具合で素朴に芸もなく称揚するという態度、至極断片的で、そこから新たな意味=言語の産出へと広がっていかない読み方に、いつだって立ち戻ってしまうわけですね。まあ別にそれで良いと言うか、結局自分にはそういう楽しみ方が向いていると思うし、それこそ蓮實重彦御大だって、川上未映子の『ウィステリアと三人の女たち』を褒め称えた記事(https://www.bookbang.jp/review/article/551726)で、「では、作品に向けられるべき「敬意」とは何か。そこに書かれている言葉を、そっくりそのまま受け入れることだ。言葉を受け入れるというのは、音としては響かぬ声で書かれている言葉を律儀にたどりなおすこと、つまりは暗唱することである。そらんじること、あるいは引用することこそ、批評に先だち、書かれた言葉に向けられた深い敬意の表明にほかならない」と述べているわけだ。かくして、自分の思考と感性の平面に何かしらの意味で一定以上の揺動をもたらし波を走らせた言葉、要は気になった記述や気に入った表現を書き抜き集めておくだけでひとまず良いのではないか、といういつもながらの結論に還帰することになる。そして、そのなかからさらに己のうちに取りこんで血肉として一体化させたい文章に関しては、「記憶」記事に収めておいて、繰り返し読んではなぞるわけである。このような、実に原始的と言うかある種の愚直な振舞い方こそがむしろ、言葉を読むということ、文学を、あるいはそれ以外の書物を味わい礼賛するという行為の、そう言って良いなら「本質」らしきものに何がしか触れているような気もするが、そうした抑制的な断片性を下敷きにしながらも、敢えてそこから更なる言葉の連なりを生み出していこうとするならば、それは批評文と言うよりは随想や随筆のようなもの、つまりはいわゆるエッセイと呼ばれる文章に似てくるのではないかという予感もないではない。
  • 夕食時、テレビは『ナニコレ珍百景』を映す。(……)こちらはひたすら新聞に目を向けてニーアル・ファーガソンのインタビューを読む。現代社会の隅々にまで緊密に張り巡らされているネットワークは、どのような質の情報であれ、容易に拡散し増幅させずにはおかない。悪辣なフェイクニュースもあっという間に広まって、まさしく嘘のように滑らかに受け容れられていく。アメリカ大統領選においてドナルド・トランプも、少なくとも一つには、フェイスブックの広告を利用して他陣営を狙い撃ちにしたネガティヴ・キャンペーンを大々的に展開することで勝利したわけだし、二度目の当選に向けて既に多額の資金を費やしはじめている。ネットワークは異質なものをシャットアウトし、同質性を増長・自足させる方向に強く働いており、同質的なネットワーク空間のなかではその実態にかかわらずどんな情報でもやすやすと受け容れられていく――と、ファーガソンがこう述べているのは、いわゆるエコー・チェンバー効果と呼ばれている現象のことだろう。それは民主主義(とはしかし、一体何なのか?)をむしろ損なっている、と彼は言う。現代世界は言わば第二次冷戦のような状況に突入しつつあるところで、それは米国と中国との、ネットワークを主な舞台あるいは武器とした戦いだ。さらに言い換えればこの対立は、自由民主主義とIT全体主義との抗争だとも表現できる。そうした情勢下にあってコロナウイルスの災禍が起こったわけだが、強権的な国家制度を誇る中国が市民の権利を迅速に、つまり強引に制限した結果としてウイルスの抑えこみにどうも成功しつつあるように見えるのに対して、残念ながら遅きに失したと言わざるを得ない米欧においては紛うことなき惨状が拡大し続けている。この騒動の現時点での帰趨を見る限りでは、危機への対応という面からしてIT全体主義が正当性を得ることになってしまうわけである。それによって自由民主主義の理念が退潮するのではないかというのがファーガソンの危惧のようだが、これは正当な、容易に予想されるべき未来図への堅実な懸念だと言えるだろう。確か「中華未来主義」と言ったか、よく覚えていないのだが、ニック・ランド界隈のいわゆる「加速主義」を奉じる人々の周辺では、「加速」の行き着く先にあるテクノロジカル・ユートピアと言うか、資本主義を突き抜けたその向こうに存在するとされる(彼らにとっての)あるべき世界のモデルを、現代中国の飛躍的発展――高度情報技術と結びついた効率的強権体制の実現――に見てそれを称揚する風潮が出現してきていると、そんな話を以前インターネット記事に読んだ覚えがあるけれど、その種の動向が今後さらなる支持を得て、大きな勢力を持つことになるのかもしれない。
  • Muddy Waters『Muddy 'Mississippi' Waters Live』。名ライブ盤。聞くべし("After Hours - Stormy Monday Blues"; https://www.youtube.com/watch?v=qWJPvM9q5uc)。Muddy Waters(g, vo)、Johnny Winter(g on 1, 5, 7 / vo on 1)、Bob Margolin(g)、Luther "Guitar Jr." Johnson(g on 1, 2, 4, 6)、Calvin "Fuzz" Jones(b on 1, 2, 4-6)、Willie "Big Eyes" Smith(ds)、Pinetop Perkins(p)、Jerry Portnoy(harp on 1, 2, 4, 6)、James Cotton(harp on 3, 5)、Charles Calmese(b on 3, 5)。Johnny Winterによるプロデュース。マスタリングはGreg Calbiがやっている。この人はSterling Soundというスタジオのエンジニアで、現代ジャズのアルバムでやたら名前を見かけるのだが、七〇年代から活躍していたらしく、John Lennonのソロアルバムなども担当していたようだ。ウィキペディアで彼の手掛けた作品を見てみると、Rainbow『On Stage』なんていう名前もある。
  • Oscar Peterson, Joe Pass & Niels-Henning Ørsted Pedersen『The Trio』。Norman Granzプロデュース。一九七三年五月一六日から一九日に掛けて、ChicagoのLondon Houseで録音。凄まじい勢い、熱量、明朗さ。物凄く御機嫌でびっくりする。称賛せざるを得ない。
  • Patricia Barber『Verse』。Patricia Barber(vo / p / ep)、Neal Alger(g)、Dave Douglas(tp)、Michael Arnopol(b)、Joey Baron(ds on 1-8)、Eric Montzka(ds on 9)。二〇〇二年二月一〇日から一四日の録音。場所はChicago Recording Company, Studio 4、Jim Andersonによるレコーディング及びミックス。Dave DouglasとJoey Baronの名から窺われる通り、少しアヴァンギャルド的な辛味の混ざった歌物。なかなか良い。きちんと耳を寄せる価値はあるだろう。
  • Free『Free Live』。Paul Rodgers(vo)、Paul Kossoff(g)、Andy Fraser(b / ag / p on "Get Where I Belong")、Simon Kirke(ds)。一九七〇年一月から七一年三月までのライブ。
  • Bad Companyをきちんと聞いたことがないので、そのうちに音源を探ること。
  • 日記が全然進まない。三月三〇日の分をとっとと仕上げなければならないのだが、一段落新たに書き足したあと、それ以前の文章を推敲して時間を使ってしまい、それでもう午前二時を迎えることになった。やはり仕事を夜中に回しておかないで昼間のうちからさっさと取り組まなければ駄目だ。