2020/4/19, Sun.

 大戦後東西に分裂したヨーロッパでは、ナチズムによる被害に関して対応が分かれた。
 いわゆる西側諸国の間では、ドイツの軍事的復活は牽制しながらも、一方で西ドイツ(ドイツ連邦共和国)の西側資本主義体制への復帰を促進するため、被害にあった西欧諸国や、戦後イスラエルなどへ脱出したユダヤ人への、西ドイツによる国家的補償がおこなわれた。
 それに対して、東ドイツドイツ民主共和国)を擁する東側諸国では、補償に関する態度は消極的だった。ソ連東ドイツを東西冷戦の最前線と位置づけ、その経済および軍事力を最大限に活用せざるを得なかった。そのため、第二次大戦の功罪はすべてナチス政権にあるものと見なし、それを一掃した東ドイツの統一社会党政権に謝罪や補償の義務はないものとした。
 ベルリンの壁が崩れ、いわゆる社会主義陣営が崩壊した後、かつて被害にあった東側諸国は、統一ドイツに対して戦時中の補償を要求しはじめた。ドイツおよびオーストリアでは、国家とそれに関わった企業が強制労働に対する補償基金を設立し、二〇〇五年五月には、ソ連在住の二五万人に対する補償一時金の支払が完了したと発表した。
 (花元潔編集・解説/米田周インタビュー『アウシュヴィッツの沈黙』東海大学出版会、二〇〇八年、201~202)



  • 雲の見事に払われた晴天。マトリョーシカが送られてきた。Tくんの誕生祝いとして、ロシアの兄夫婦が作家にオーダーして作ってもらったのだと言う。多分わりと質の良い方の品で、確かな腕のある作り手に頼んだのだろうと思われ、値段もきっと結構したのではないか。
  • 新聞。「赤池王子様」という名前だった人が名を改めたその経緯が語られている。さすがに凄い名前だ。彼の母親曰く、私にとっての「王子様」だから、ということで大切に思う気持ちや愛の念を籠めたと言う。意味と物語と自我が十全に行き渡った磁力場の強固な君臨ぶり。それで件の赤池氏は「肇」という名前に名を変えたのだが、それは高校の倫理だか現代社会だかの教科書に載っていた河上肇から取ったということだった。友人と談笑しながら教科書を見ていた時に、何となく、良くね? という感じになったのだと言う。
  • 天沢退二郎入沢康夫・宮沢清六編『宮沢賢治全集Ⅰ』(ちくま文庫、一九八六年)を読みながら少々眠ってしまう。昼寝という倒錯のあまりにも甘美な、麻痺的な快楽。自分では布団の上で手を動かしているつもりでその感触も確かに伝わってくるのに、薄い視界のなかに見える手そのものはまったく動いていないという不思議な自己欺騙の状態。まさしく乖離だ。あれは、脳は命令を発しているものの、睡魔によって拘束された肉体がそれに従えないという事態なのだろうか。
  • John Pizzarelli Trio『Live At Birdland』。John Pizzarelli(vo / g)、Ray Kennedy(p)、Martin Pizzarelli(b)のドラムレストリオ。二〇〇二年九月二五日から二八日のあいだに録音され、Telarcより発売。文句なく直感的に楽しく気持ちの良い演奏。音使いとしては伝統的な方であり、古風とすら言って良いのかもしれないが、単純に格好良く、技量も素晴らしい。
  • John PizzarelliJames Taylorの作品にも四枚ほど参加しているらしい。ほか、Paul McCartneyの『Kisses On The Bottom』にも寄与していると言うので、それでこのアルバムの演者を見てみると、Tamir Hendelman、Stevie Wonder、Anthony Wilson、Eric Clapton、Bucky Pizzarelli、Robert Hurst、John Clayton、Christian McBride、Vinnie Colaiuta、Karriem Riggins、Jeff Hamilton、Mike Mainieri、Alan Broadbentの指揮でLondon Symphony Orchestraという具合に大層な名前がずらり並んでおり、さらにはアレンジ及び指揮でJohnny Mandelの名前が見られる。Johnny Mandelとかまだ生きていたのかよ! びっくりだ。失礼ながら、完全に二〇世紀の人間だと思っていた。この作品はジャズやポップスのスタンダード曲をカバーしたもので、プロデュースが例のTommy LiPumaだと言うので、これらの錚々たるミュージシャンたちは多分彼の人脈だろう。つい先日情報を集めて日記にも記したところだが、Diana Krallのアルバムに参加している名前も見られ、そのKrall自身も(何とボーカルではなく!)ピアノとリズム・アレンジで一役担っているようだ。
  • 一応、詩が一篇完成した。言葉の完全性にこだわると一向に区切りがつかず仕上がらないので、別に詩集を作るわけでもないのだし、適当なところで無理せずに切り上げたい。エミリー・ディキンソンみたいな感じで、もっぱら個人的に、長く楽しんでたくさん作り続けられれば良いだろう。
  • 作品番号第一番、題はなし。

 真っ白な雨だ

 雨粒は
 無調の静穏を奏でる

 その聖なる永遠の反復が
 人
 であることの浮薄を隠してくれるなら

 魂よ 君は歌い
 そして踊るがいい
 歓待の風が君を満たしながら横切り
 境界を突き抜けていくその瞬間

 名はほどけ散ってかたちを失い 君は一つの比喩となるだろう

  • まあ一応ネタ元と言うか、部分的なアイディアの参照先を明かしておくと、終わりの三行、もしくは結びの一行を考えるに当たっては、石原吉郎のエッセイ「望郷と海」の素晴らしい一節が念頭に浮かんでいた。それと同時に、同じく石原の「辞書をひるがえす風」に記されたこれもまた素晴らしい「風」の記述にも、いくらかなりと思いを致していたようである。

 四月三十日朝、私たちはカラガンダ郊外の第二刑務所に徒歩で送られた。刑務所は、私たちがいた捕虜収容所と十三分所のほぼ中間の位置にあった。ふた月まえ、私が目撃したとおなじ状態で、ひとりずつ衛兵所を通って構外へ出た。白く凍てついていたはずの草原[ステップ]は、かがやくばかりの緑に変っていた。五月をあすに待ちかねた乾いた風が、吹きつつかつ匂った。そのときまで私は、ただ比喩としてしか、風を知らなかった。だがこのとき、風は完璧に私を比喩とした。このとき風は実体であり、私はただ、風がなにごとかを語るための手段にすぎなかったのである。
 (柴崎聰編『石原吉郎セレクション』岩波現代文庫、二〇一六年、127; 「望郷と海」)

 風の流れるさまを、私たちは現実に見ることができない。ただ水が波立ち、樹木がざわめくとき、風が流れることに私たちは気づく。風は流れることによって、ものたちの輪郭をなぞり、ものたちに出会う。それが風の愛し方である。私にはそれが、風がそれぞれのものを名づけて行く姿のように見える。それが風のやさしさである。辞書のページをひるがえすように、これは海、これは樹木と、手さぐりで世界を名づけて行くとき、風は世界で最もうつくしい行為者である。(……)
 (153; 「辞書をひるがえす風」)

  • 言うまでもないことだが、だからと言って勿論、これらの文章が上に掲げた詩篇全体の拠って来たる源として第一に先んじて据えられていたわけではない。作品番号第一番の起源と一応言えそうなものをかりそめに設定しておくならば、それは、この詩の一端がこちらのうちに訪れてきたその日に、結構厚めの雨が降っていたというただそれだけのことに過ぎない。その天象を「真っ白な雨だ」とひとまず簡潔に言い当ててみて、その一言を冒頭の一行として置いたあとは、まあ何か適当に考えて繋げていったわけである。
  • ウィキペディアによると、Linkin Parkは「21世紀で最も売れたとされた音楽バンド」なのだと言う。そんなに人気だったのか。彼らの音楽をきちんと聞いたことは、多分こちらは一度もないと思う。ボーカルを務めていたChester Benningtonという人は、二〇一七年の七月に首吊り自殺をしてしまったらしい。
  • 夕食は筍のソテーや同じく筍の味噌汁など。新聞を読む。中国が新型コロナウイルスの感染者及び死者に関するデータをきちんと正確に公開していないと言って、ドナルド・トランプやマイケル・ポンペオが批判しているという話だ。また湖北省の公務員も、昨年の一二月時点には感染の発生がわかっていたのに当局が適切な情報公開をせず、一月に至ってもまだウイルスの存在を否定していたその結果、市民あるいは国民の生命と財産が危険に晒されたとして、省政府を相手に訴訟を起こしたと言う。一方香港では、昨年の無許可デモに参加したことを理由として民主派の人間が一五人ほど逮捕されたらしい。
  • 書評欄には苅部直と、何とか言う、進化生物学者という肩書だったか、何かそちらの方面の人との短い対話があって、確かウイルス禍という時勢に合わせてそういう種類の本をいくつか紹介していたと思う。書評記事としては中沢新一と山極寿一の対談本や、みすず書房から出た『オーケストラ』という直截な題の新刊や、浅田次郎の小説などが取り上げられていた。
  • テレビは『ポツンと一軒家』だったと思う。(……)
  • 夕食後、散歩へ。夜風が豊かに湧いてさまよっており、道を歩き出せばすぐさま快くなる。常に動いてやまない外気に肌を撫でられ吸着されつつ足の筋肉を駆動させて空気を分けていくのが気持ち良く、身体がちょっとぞくぞくとしたくらいだ。物質的な官能性。空気はわりと肌寒かったが、やはりなるべく毎日歩かねばならない。夜だろうが昼だろうが朝だろうが時間などいつでも良く、また場所だってどんな道でも構うことなし、殊更長く歩く必要もない。いつであれどこであれ、ただゆっくりと外気のなかをくぐっていけばそれで良いわけだ。
  • 坂の途中に建ったYNさんの宅の前を通る。リウマチと言っていた。以前行き逢った時には八二歳とも言っていたか。少なくとも自分とのあいだに五〇年の歳月のひらきがあるわけである。こちらのこれまでの生涯がもう一つと三分の二ほどすっぽりと入ってしまう、仮に等質的な数量として考えるならそのくらいの年月を生きてきたわけで、まったく凄いことだ。こちらも五〇年後にはまあ大方何らかの病気には捕らえられていようし、臓器の一つ二つくらいはいかれてもいるだろう。それどころか既に死んで、大気の泡に、地の粒子に、銀のアトム(*1)の一片に還元されているかもしれない。――日中、空は青かった覚えがあるが、今や夜空には雲が湧いて、色をつゆも漏らさず張られているようで、星の光は窺えない。だが、星があろうがなかろうが、曇っていようが晴れていようが、空などというものはどうせいつだって完全無欠なのだから、それはどちらでも良いことだ。
  • 街道に上がって西へ向かう。風が流れ、今しがた出てきたばかりの裏通りで、ガードレールの向こうに斜面の下から伸びた大樹の葉が蠢いている。車道沿いを歩き、何の変哲もない家屋の並びやその脇に佇む車に目を向けながら、文化あるいは文明というものの偏在を思った。地球表面は今やそれら人為に占領し尽くされている。人間は時に移住し、定着し、戦い、争ってはひとまず和解し、そのあとでまた殺し合い、たまにはまあ一応愛し合うこともしながらこの惑星に宿ってきたわけだ。そのなかで、喜びだの悲しみだの多種多様な情念が繰り返し飽きもせずに綿虫のごとく生まれ落ちて、一人ひとりの微小な身体のうちに、またそれらの中間に訪れ降っては過ぎていくわけだが、そうした情の一次的な発生そのものについては他人がどうこう言えることではないだろう。こちらという存在も遥かな時空のうちの一片を占め、今こうして空間のなかをゆっくり泳いでいく。対岸には、電話をしているようで声をちょっと漏らしつつ歩く男性があった。そしてそのほかに人通りはまったくない。
  • 車の流れも乏しい。頻繁に途切れがちで、そうすると無音の、がらんどうの道路の上に、こちらの靴が足の圧力を受けてかすかに変形しては鳴き呻く音が際立って浮かぶ。最寄り駅前で下り坂に折れた。道は草木の屑で汚れており、昨日か一昨日の雨によるものか端には時折り落葉が集まり、まとまり盛り上がっていて、沢も強化されたようで水音が騒ぐが、その奥に、水音と言うよりむしろ風音めいて、飛行機の唸りのような風切る騒音のような、低い響きが潜んでいる。
  • 十字路からさらに坂を下りて、普段は通る機会もない裏の道を行く。公営住宅を過ぎて家々のあいだを横切っていると、途中の一軒で吐息が聞こえ、見ればあそこは縁側と言うのかともかく家の外面[そとめん]で、悠然と煙草を味わう黒い影人ひとりがあった。樹々の色もあまり良く見えないなかを通っていき、坂を上って帰宅する。
  • 散歩後に茶を注いでいると、台所で洗い物をしていた父親が、歩いてる人いた、と声を掛けてきた。ほとんどいなかったと返す。父親と直接言葉を交わしたのはかなり久しぶりのことだと思う。普段はとりたてて話す主題もない。ジョギングしている人はひとりもいなかった、前は結構いたのだが、などと報告してから自室へ。
  • 日記はようやく四月二日分まで片をつけることができた。
  • 入浴。湯を浴びながら、もっと雑多な、ごった煮的な、猥雑で錯雑としておりいかがわしいような、そういう存在でありたいと思った。およそどんな物事からも学びを手に入れ自分のうちに取りこめるような――あるいは取りこむまで行かずとも、容易に化学反応を起こしてしまう節操なしの好色分子のような、と言うか。新聞の書評欄に浅田次郎が紹介されていたけれど、いわゆる大衆小説などの方面ももっと読んでみても良いのかもしれないという気がちょっとした。何かしら己のなかに浮かび生じるものが、ないということはないだろう。
  • 「(……)」というのは筆名として良いかもしれない。今のところ筆名を使う予定もその意志もないわけだが。
  • 入浴後にふたたび日記。椅子の上に腰を据え続けて下半身がたいそう強張ったので、ベッドに逃げて『宮沢賢治全集Ⅰ』を読む。大変面白い。ほとんど一頁ごとに自分の表現庫のなかに見当たらない語や言葉遣いが出てきて、メモするためにペンを持つ。全然何でもないような、軽くささやかな風景の描写など見ても粗雑な通有性に、通俗に流れておらず、細部の表現のニュアンスが通り一遍でなく入念に練られているように思われる。
  • 川上眉山――「大学予備門で尾崎紅葉、山田美妙と知り合って、硯友社の創設に参加」。「1908年(明治41年)6月15日未明、文学的行きづまりにより剃刀で喉を切って自殺した。享年40歳。前日は幼い息子が遊ぶ様子を眺め、自殺の予兆はなかったという」。
  • 硯友社が発行した『我楽多文庫』というのが、日本で最初の「純文芸雑誌」なのだと言う。
  • 小栗風葉。「田山花袋と親しく、花袋の示唆で西洋文学を読み、エミール・ゾラ、ギ・ド・モーパッサンショーペンハウエルなどに影響を受け、数々の作品を発表(……)」。「また師紅葉が『金色夜叉』を未完のまま死ぬと、その続き『終編金色夜叉』を執筆した」。「一躍風葉を有名作家としたのは、紅葉の没後、日露戦争後の世情の中で、ツルゲーネフ『ルージン』に想を得て1905年より読売新聞に連載した『青春』三部作である。これは広く読まれたが、次第に自然主義文学が勃興し、以後あまり振るわずに終わった。谷崎潤一郎がデビュー前、自身の将来に不安を抱いていると、「君だって小栗風葉くらいにはなれるよ」と言われたという」。また、「妹は哲学者・梅原猛の義母に当たる」らしい。
  • 内田魯庵。「1888年明治21年)、山田美妙の『夏木立』が刊行されると長文の批評を書き、それが巌本善治の『女学雑誌』に『山田美妙大人(うし)の小説』として掲載され、文壇にデビューした」。その「翌年、処女小説「藤野一本』を『都の花』に連載。同年ドストエフスキーの『罪と罰』の英訳を読んで衝撃を受け、さらに二葉亭四迷坪内逍遥と親交を結ぶことによって文学について深く考えるようになり、尾崎紅葉、山田美妙らの硯友社の遊戯文学を批判、1894年(明治27年)に三文字屋金平の名で刊行した『文学者となる法』では当時の文壇の俗物性を皮肉った」。「1892年(明治25年)、『罪と罰』(前半部分)の翻訳を刊行し翻訳家としてデビュー(英語からの重訳)。以後ヴォルテールアンデルセンディケンズ、デュマ、ゾラ、モーパッサン、シェンキェヴィッチ、ワイルドなどの翻訳を発表した。トルストイ『復活』の翻訳(1905年)も有名」だと言う。加えて、「1925年(大正14年)に刊行された『思ひ出す人々』は、政治小説の時代から二葉亭の死までの回想録で、明治文壇史についても史料的価値をもつ傑作である」などと書かれているが、本当かよ。この著作は岩波文庫に入っているようだ。山口昌男がこの人を研究していたようで、『内田魯庵山脈 〈失われた日本人〉発掘』という本が岩波現代文庫から出ている。
  • 宮本百合子。この人は、「日本共産党元委員長宮本顕治の妻」なのだと言う。それは全然知らなかった。「1918年、父と共にアメリカに遊学、翌年コロンビア大学聴講生となり、そこで知り合った15歳年上の古代東洋語研究者荒木茂と結婚、12月に帰国した。しかし、夫婦の間には生活の面での食い違いが生じ、1924年に離婚。野上弥生子を介して知り合ったロシア文学湯浅芳子と共同生活をおくりながら、破綻した不幸な結婚生活を長編『伸子』にまとめた。近代日本文学の第一級作品といわれた」。「近代日本文学の第一級作品」とか、ほんまかいな。その後共産主義に傾いてソ連を訪れ、「映画監督のセルゲイ・エイゼンシュテインらと親交をもった」と言う。「夫とかわした約900通の書簡はのちに二人の選択をへて、百合子の没後『十二年の手紙』として刊行された」とのことだが、これはちょっと読んでみたい。そして、「没後50年の2001年からは新日本出版社から宮本百合子全集の刊行が始まり、2004年に全33巻として完結された」。普通に多くない? かなりの量の文書を綴ったようだ。この全集には加藤周一が推薦の言葉を寄せていると言う。そう聞くと、宮本百合子という人にもちょっと興味が出てくるものだ。


・作文
 17:34 - 19:01 = 1時間27分(19日)
 19:28 - 20:28 = 1時間(2日)
 21:25 - 21:33 = 1時間8分(2日)
 21:47 - 21:56 = 9分(3日)
 22:26 - 24:03 = 1時間37分(3日)
 計: 5時間21分

・読書
 13:54 - 16:20 = 2時間26分(宮沢)
 24:05 - 25:50 = 1時間45分(宮沢)
 25:55 - 26:28 = 33分(ウィキペディア
 28:41 - 28:58 = 17分(宮沢)
 計: 5時間1分

・音楽