2020/4/24, Fri.

 (……)ところでまた田舎から来た男に対しても彼は思いちがいをしていたのだとされるのです。それというのも、彼は自分がこの男に対して従属的な立場にいながら、そのことを知らないでいるからです。彼がその男を自分に従属する者としてとり扱ったことは、多くの点から読みとれることだが、これはあなたもまだ覚えているでしょう。ところが、じつは門番のほうが、従属的な地位にあるのだということが、この意見によれば同じようにはっきりあらわれているというのです。何よりまず、自由な人間というものは拘束されている人間よりも上位にあるものだ。ところでその男は事実自由であり、どこへなりと意のままに行けるわけなのです。ただ掟への入口だけが禁じられているのであり、それもたったひとりの門番によって禁じられているにすぎないのです。ドアの脇の床几[しょうぎ]にすわって、生涯そこにとどまっていたのも、自分の自由意志からやったことであり、この話に語られているかぎり、そこには何らの強制も見出せません。これに反して門番は、その職務上自分の位置にしばりつけられており、他の場所へと離れて行くことも許されず、さりとてまた、彼が望んだところで、掟の内へも入って行けないらしいのです。それに彼は掟に仕えているとはいっても、実際にはただこの入口に仕えているのであり、したがってこの入口からだけ中へ入ってゆけることになっているその男のために、仕えていることになるのです。この理由からもまた、門番は男に従属していることになります。彼は長い年月にわたり、自分の男盛りの全期間を通じて、いわばただ無意味なつとめだけを果たしてきたと考えられるのです。なぜなら本には一人の男がやって来たと書かれているのですから、だれか男盛りの人間が来たのであり、そうなると門番は、自分の目的が満たされるまで、長いあいだ待っていなければならなかったわけで、しかも自分の自由意志でやって来た男の気持いかんによって、長かろうと短かろうと、そのあいだは待たねばならなかったのです。そしてまた彼のつとめが終るのは男の生涯の終りなのですから、門番は最後の最後まで男に従属していることになるわけです。しかも、くりかえし強調されているのは、門番自身はこうした事実について全然何も知らないらしいということです。しかしこの点には、別に目に立つことは見られません。というのも、この見解によれば、門番はもっとはるかに重大な思いちがいをしていたからで、これは彼のつとめに関したものです。つまり話の最後の個所で、門番は入口のことを口にし、『さあわしも行って、門をしめるとしよう』と言っているのだが、実際にこの話の発端の個所には、掟への門はいつものように開かれている、と書かれています。しかしもしいつもあいているのだとすれば、いつも[﹅3]というのは何もこの門にきめられている男の生涯とはかかわりないことになりますから、門番もその門をしめることはできないでしょう。門番が、門をしめに行こうと言ったのは、ただたんに男に対して何らかの返事をしておこうというだけのことだったのか、あるいは男をその臨終の瞬間においてもまだ後悔と悲しみとのうちにつき入れようとしたのか、この点については注釈者たちの見解もまちまちです。けれどもそうした彼らの見解も、門番は門をしめることができないだろう、という点では完全に一致しているのです。また彼らは、男が掟の入口から射してくる光を認めたときにも、門番は門番としておそらくその入口に背を向けて立っていたろうし、またなんらかの変化を認めたというそぶりは全然見せていないのだから、少なくとも最後のところでは、知恵という点においても、門番は男より劣っていたのだ、とさえも信じられているのです」
 (辻瑆・原田義人訳『世界文學大系 58 カフカ筑摩書房、一九六〇年、128; 『審判』)



  • 二時半までずっとだらだらと、まさしく堕落堕落と、甚だしく寝過ごす。詩句を考えながら微睡んでいた。沸騰的な怒りに駆られて風呂場で喚き散らしつつ、洗面器を壁に投げつけるなどして暴れる夢を見たことを覚えている。覚えていると言うか、風呂を洗うために浴室に踏み入った時に思い出した。夢中の自分が何故あんなにも怒り狂っていたのか不可解だ。
  • シェイクスピア/野島秀勝訳『ハムレット』(岩波文庫、二〇〇二年)を読み進める。弟のクローディアスに暗殺されたことを王子ハムレットに明かす父王の亡霊はその証言のなかで、簒奪者の用いた「劇薬ヘボナ」(69)なる「毒液」(同)が「五体の動脈静脈、血管のことごとくを/水銀のように素早く経巡り」(同)、血流を凝固させて死をもたらしたのだと語っているのだが、この水銀という物質が具えている活動的迅速性に拠った直喩を見て、プリーモ・レーヴィも何か似た風なことを書いていたような、と思い浮かんだ。それで、まだ読んでまもない『プリーモ・レーヴィ全詩集 予期せぬ時に』(竹山博英訳、岩波書店、二〇一九年)をさらってみると、「作品」という篇の冒頭に、「さて、これで終わった。もう手を付けるところはない。/手の中で何とペンが重いことか! /少し前まではとても軽くて、/水銀のように生き生きと動いていた」(96)という一節が見つかった。多分、この「生き生きと」した動きの持つ生命性が、「素早く経巡」る液体運動の滑らかさに通じて記憶が刺激されたのだと思う。ついでに言及しておくと、三月後半に読んだ『周期律――元素追想』(竹山博英訳、工作舎、一九九二年)にも「水銀」という題の章が含まれており、そこではこの元素は「冷たく、活発な物質」(160)と形容され、「本当に奇妙」(165)で「捕え難く、常に動いて」(同)おり、「スープ皿に入れて回すと、三〇分間は回り続けた」(同)と報告されている。また語り手の「逆上」(163)を表現するに当たっては、「おそらく私の血管にも水銀がめぐっていたに違いない」(同)と『ハムレット』における亡霊の口ぶりに似た比喩的想像力が導入され、さらに、「砂丘の砂を金に変える」(162)実験に失敗してオランダを逃げ出してきた「錬金術師」(163)の胡散臭い理論によれば、「それは飛翔する霊を固定したもの、あるいは女性原理」(同)なのだと言う。
  • 五時半に階を上がって、夕食の準備。豚汁的なスープを作ることにまとまって野菜を切り分ける。母親の職場に新しく入った子供がとにかく「クソガキ」で、人を簡単に叩いたり蹴ったりしてとても手がつけられないと言う。公園への行き帰りにも、手を繋いでも歩こうとしない、それですごく疲れたという嘆きを聞いて、犬みたいではないかとちょっと思った。話を聞きながら料理をしていると父親が帰ってきてケンタッキー・フライドチキンを買ってきたと言うので、助かると礼を述べ、魚を焼くのは取りやめにした。
  • コロナウイルスによって自宅にいる時間が増え夫婦仲が危うくなるという世間的事情を報告した新聞の一頁が炬燵テーブルの上に置かれていたのは起きてきた時から気づいていたのだが、ソファに座った父親に向けて母親が笑いながら注意を促し、「コロナ離婚」があるんだってね、と言う。わざわざそんな話題を振らなくても良さそうなものだが、父親の方はと言えば、DVとかな、と穏当に受けていた。それからこちらは豚汁の野菜を炒めて水を注ぎ、沸騰するのを待ったあと、まるで長期間蓄積された精液のように黄濁した――というこの比喩は、さすがに食べ物に対して使うのはどうかと思うが――灰汁を取り除いて、残りのことは母親に任せた。
  • Chet Baker Sings』から、"That Old Feeling"や"But Not For Me"や、"There Will Never Be Another You"、"I Fall In Love Too Easily"など久しぶりに流して歌う。Chet Bakerの声と歌唱というのはかなり物憂げな感じで甘い方なので、柔弱と評する向きがあっても不思議ではないと思うが、こちらも一〇年くらい前には無益に陰鬱ぶった虚無的な青年だったので、うじうじしたような雰囲気の感傷曲は結構好きでよく聞いていた。わりと繰り返し聞いては歌っていたので、曲によってはトランペットとピアノのソロも大体歌える。このアルバムのパーソネルはリズム勢が曲によって色々で、Chet Baker(tp / vo)とRuss Freeman(p / celesta)が固定で、あとはCarson Smith(b)、Jimmy Bond(b)、Joe Mondragon(b)、Bob Neal(ds)、Larance Marable(ds)(のちにCharlie HadenのQuartet Westに参加していたドラマーだ)、Peter Littman(ds)、Shelly Manne(ds)といった感じなのだが、ソロイストの二人はBakerもFreemanも、それこそ口でも歌えるわけだから、それくらい無駄なく綺麗にまとまった音取りで素敵な演奏をしている。
  • 試みに"But Not For Me"の歌詞を一部取り上げてみると、"They're writing songs of love, but not for me. A lucky star's above, but not for me"、"Although I can't dismiss the memory of her kiss, I guess she's not for me"と、こういった調子である。上に名を挙げた四曲とも単なるセンチメンタルなラブソングと言えばそうなのだが、いわゆる古典的なジャズ・スタンダードになったようなポピュラー音楽というのは、大体ミュージカルの劇伴とか映画音楽として書かれたもので作詞家も実力者揃いなので、大衆歌のわりに言語表現がさほど空疎でなく、わりとこなれていて素敵なものが多い気がする。"But Not For Me"は、GeorgeとIraのGershwin兄弟が作ったものだ。"That Old Feeling"はSammy Fain作曲、Lew Brown作詞だが、"There'll be no new romance for me, it's foolish to start"の一節など結構好きである。
  • (……)
  • 夜、散歩。東へ。坂道に入ると眼下にひらいた闇の底、まさに純然たる暗黒の奥から、川水の響きが昇ってくる。例によって「(……)」の詩句案を頭に巡らせながら歩いていると、坂を出たところに行商の八百屋が来て停まっていた。こんな時間だから客は二人のみ、中年から高年に掛かる頃合いの女性と、比較的若い年頃の息子らしき男性。男性は何となく、鬱屈したような顔つきの人だった。こんばんはと挨拶を掛けたところに振り向いた顔を見れば、八百屋の旦那は、隙間を作らず肌をぴったり覆うタイプの灰色マスクをつけている。どこ行くのと軽く問うので、散歩ですよ、やっぱり歩かないと、と応じ、降られるんじゃねえのと続くのに、どうですかね、降りますかねと視線を上向けていると、降るんじゃねえの、俺気象庁に勤めてたことねえからわかんねえけど、とあちらも空を見上げながら冗談を飛ばすので、笑い声を合わせた。
  • 詩句を考えていたので知覚印象の記憶はほとんどない。「(……)」の前の自販機でコカコーラ・ゼロのペットボトルを買ったその頃には、もう既に軽い雨が落ちだしていたと思う。最寄り駅前で木の間の坂に折れ入って、濡らされながら住みかに戻った。
  • Gary Mooreなどというひどく暑苦しくて汗臭いようなハードロックを凄まじく久しぶりに流した。『Wild Frontier』である。これは一九八七年の作品で、Wikipediaを見るとGary Mooreは二〇一一年に亡くなっているのだが、五二年生まれの彼はその時まだ五八歳だったので、随分と若い逝去だなという印象を受ける。
  • Gary MooreのWikipedia記事のなかにGary Husbandというドラマーの名前が現れて、この人は確か阿呆みたいにハードなフュージョンやってる人じゃあなかったっけと思ったところ、果たしてそうで、例えばJohn McLaughlinのバンドなんかに参加している。John McLaughlinと一緒に音楽をやろうなんていう人間は、まあ大概頭がおかしい方面の人類だろう。Husbandという人は元々八〇年代からAllan Holdsworthのバンドで叩いていたらしく、Level 42のメンバーでもあったようだ。このバンドもこちらは一度も聞いたことがないのだが、ベースの人がやはり頭のおかしいタイプのプレイヤーだった覚えがある。
  • Gary Mooreと同様、凄まじく久々でJohn Sykesの『Bad Boy Live!』を流す。Gary Mooreから飛んでThin LizzyWikipedia記事を読んでいたら聞きたくなったのだ。John Sykes(g / vo)、Marco Mendoza(b)、Tommy Aldridge(ds)、Derek Sherinian(key)によるライブ盤。John Sykesというギタリストはこちらがハードロック小僧だった時代から全然新作を出していなかったし、こいつ実力は文句なしに凄いのに何やってんの? と当時のこちらも思っていたのだが、どうも結局、二〇〇四年の(こちらはまだ一四歳の中学生だぞ!)このライブ盤以降、トリビュートアルバムにちょっと参加するくらいできちんとした作品は仕上げられていないようだ。勿体ない。仕事しろよ!
  • Marco Mendozaは二〇一八年にソロアルバムを発表しているし、再結成後のThin Lizzyにも参加しているし――Thin Lizzy自体は二〇一二年以降、オリジナルメンバーのScott Gorhamを中心として、Black Star Ridersという名前で活動しているようだ――、二〇一五年からはThe Dead Daisiesというプロジェクトにも加わっている。これはDavid Lowyなる人がハードロック界隈の有名なミュージシャンを様々集めて活動しているものらしい。現状のメンバーとしてはDoug AldrichにGlenn Hughesや、Deen Castronovoの名が見られる。
  • Tommy Aldridgeはと言えば、最近ではWhitesnakeの最新作に参加しているらしい。Whitesnakeも随分と息の長いバンドだ。David Coverdaleは今や六八歳である。さすがにもう声も満足には出ないのではないか?
  • John SykesとBlue Murderで一緒だったTony Franklinという人もフレットレスのやたら上手いベースで、この人もいま何やってんの? と思って例によってWikipediaを見てみると、二〇一四年にはKenny Wayne Shepherdのアルバムなどに参加している。そのKenny Wayne Shepherdの『Live! In Chicago』という音源のデータを見てみれば、ゲストとしてWillie "Big Eyes" Smithの名があるので驚く。Muddy Watersのバンドで叩いていたレジェンドである。メインのドラマーはChris Laytonで、この人だってStevie Ray Vaughanと組んでいたプレイヤーだから凄いものだ。Wayne Shepherdというギターを聞いたことはないけれど、遥か昔にヤングギター誌か何かで、Ray Vaughan直系、みたいな評を見た覚えがないでもない。
  • Tony Franklinに話を戻すと、彼のディスコグラフィーのなかにはRoy Harperという名が多く見られて、Franklinは八〇年代からその作品に関わっているのだが、この人はイギリスのフォークシンガーであるらしく、Jimmy PageRobert Plant、それにPete TownshendやPink FloydKate Bushなどに影響を与えているということだ。やばくない? Led Zeppelinのサード・アルバムの音楽的源泉というわけだ(実際、これまでその名前を意識的に見留めたことがなかったが、『Ⅲ』の最後には"Hats off to (Roy) Harper"という曲が収録されている)。HarperのWikipediaを見ると彼はジャズも好きでキーツを愛しているとあり、初期の影響源としてはLeadbelly、Big Bill Broonzy、Woody Guthrieの名がある上に、文学方面ではジャック・ケルアックなんかも挙がっているので、大変に面白そうな音楽家だ。Jimmy PageのThe FirmにTony Franklinが参加したのはこの方面の繋がりというわけか。
  • Tony Franklinの参加作に戻るとWillie Waldmanという名前があって、これは知らんなとリンクを飛んでみると、Banyanなるバンドの記事に繋がった。このグループも初めて聞く名だったが、Los Angelesを基盤にしたアート・ロックのバンドだと言う。Willie Waldmanという人はトランペッターとしてその中心に関わっていたらしいのだけれど、それと並んで、何とNels Clineの名前が見られた。Wilcoのギターである彼は、二〇一四年にはJulian Lageとデュオアルバムを出しているし、Banyanの作品にはFleaやJohn Frusciante、さらにはBucketheadなどという珍しい人も参加していて、このようにして世界というものは繋がっているわけだ。
  • Led Zeppelinの『Ⅲ』を流しながら探索していたのだけれど、"Since I've Been Loving You"はやはりどう足搔いても素晴らしいと称賛せざるを得ない。多くの人が愛聴している曲だと思うが、こちらも好きだ。Zeppelinではこの曲か、"The Rain Song"か、"Babe I'm Gonna Leave You"あたりが一番好きな気がする。
  • あと、全然関係ないけれど、UFOの名ライブ音源として広く知られている『Strangers In The Night』をそのうち聞いてみようと思っている。UFOというバンドをきちんと耳にしたことがないのだ。
  • 就寝前、久々に音楽を聞く。まず、Led Zeppelin, "The Rain Song"(『The Song Remains The Same』: D1#9)。ライブの演奏である。とにかくコードワークとアルペジオが素晴らしく、Jimmy Pageの才が冴え渡り煌めいている。この和声の流れを作れたらそりゃもう勝ちでしょ、という感じ。
  • 次に、Bill Evans Trio, "All Of You (take 1)"(『The Complete Village Vanguard Recordings, 1961』: D1#5)。これを耳に入れるのも久しぶりのことだが、音楽を鑑賞するとなったらやはり聞いておかなければならない。そして、今回また聞いてみても相変わらず物凄く、緊密さが尋常でないわけだ。と言って本当は、その「緊密さ」の具体的な内実こそが問題であるはずだけれど。このトリオに関しては多くの人々が、緊密とか、調和とか、一体感とか、対話とか、丁々発止とか、インタープレイとか、内省的とか、示し合わせたかのようにそういった言葉を進んで口にし、嬉々とした表情で語ってやまないわけだが、それらの神話的な語彙が、このトリオの特異性を言い当てることも描出することも決してない単なる贅言だということは勿論言うまでもない。この音楽がこの世界に出現して以来、ここに表出されているものを充分に捉えて十全に言語化した人間は、多分まだ存在していないと思う。誰かがやらなければならない仕事であることは間違いないはずなのだけれど……。
  • 三位一体、という西洋神学由来の用語を借りてくるのも常套手段ではあるのだろうけれど、その語を用いたとしてこちらが言いたいのは、弁証法的ではない一体性と独立性との共立、みたいなものを感じるということだ。この上なく一体的でありながら同時にまたこれ以上なく独立自存している自律性の印象、というようなことで、もう少し言い換えれば、部分あるいは個々が組み合わされることで全体を構成しているというのではなく、個別性と全体性とが同一の位相において二重化されているみたいな、いくらか矛盾的とも思える図式イメージだろうか。で、これは言ってみれば自由及び平等という観念の音楽的形象化であり、ほとんど理想的な体現としての「民主主義」的音楽……? とかいう形容も一応思いつきはしたけれど、あまり確かなものではない。


・作文
 15:43 - 15:52 = 9分(詩; ほか)
 18:30 - 19:12 = 42分(24日; 23日)
 19:38 - 20:03 = 25分(4日)
 21:25 - 22:06 = 41分(詩)
 22:09 - 23:52 = 1時間43分(4日)
 計: 3時間40分

・読書
 15:05 - 15:39 = 34分(シェイクスピア; 71 - 107)
 16:10 - 17:27 = 1時間17分(シェイクスピア; 60 - 120)
 24:13 - 25:29 = 1時間16分(シェイクスピア; 103 - 144)
 計: 3時間7分

・音楽
 28:12 - 28:30 = 18分