2020/4/26, Sun.

 というのは、たまたま地下鉄に乗っていたというだけで、不幸にして命を落とされたり被害を受けられた一般のお客様だっていらっしゃるんですよ。まだ苦しみの中に心を痛めている方もおられる。そんな方のことを思うと、いつまでも自分は被害者なんだというものの見方をしてはいられない。だから私は、「自分はサリンの被害者[﹅3]ではなくて、体験者[﹅3]なんだ」と思うようにしているんです。正直に言って、後遺症はある程度あります。しかしそれについてはできるだけ考えないようにしています。それに寝込むようなこともないわけですからね。後遺症だと言われるから、ますます落ち込んでしまうんです。それよりはプラスにものを考えて克服していこう。少なくとも自分はこうして生き残ったんだから、そのことに感謝をしていこうと。
 (……)
 私はオウムが憎いとも思わないようにしているんです。それはもう当局の人に任せちゃっています。私の場合、憎いとかそういう次元はとっくに通り過ぎてしまっているんです。彼らを憎んだところで、そんなもの何の役にも立ちはしません。オウムの報道もまず見ません。そんなもの見たってしかたないんです。それくらい見なくてもわかります[﹅15]。そこにある状況を見ても、何も解決しません。裁判や刑にも興味はありません。それは裁判官が決めることです。

 ――見なくてもわかるというのは、具体的にどういうことなんですか?

 オウムみたいな人間たちが出てこざるを得なかった社会風土というものを、私は既に知っていたんです。日々の勤務でお客様と接しているうちに、それくらいは自然にわかります。それはモラルの問題です。駅にいると、人間の負の面、マイナスの面がほんとうによく見えるんです。たとえば私たちがちりとりとほうきを持って駅の掃除をしていると、今掃き終えたところにひょいとタバコやごみを捨てる人がいるんです。自分に与えられた責任を果たすことより、他人の悪いところを見て自己主張する人が多すぎます。
 (村上春樹アンダーグラウンド講談社文庫、一九九九年、87~88; 豊田利明; 当時五二歳; 営団地下鉄職員)



  • 一一時に覚め、しばらく転がったまま膝で脹脛を揉んでから上へ行くと、自治会の用事で出かけていたらしい父親が帰ってきたところで、その声が何故かやたらと嗄れていたので、コロナウイルスにでも掛かったのか? とちょっと思った。
  • 天麩羅と豚汁の残りを食いながら新聞。ジョセフ・スティグリッツのインタビューがあったが、これはまだ読まずに書評欄を覗く。各書評子のゴールデンウィークに勧める本、みたいな特集で、ところどころ適当に目を向けながら、形容詞というのは確かに制度性が如実に表れる場だなあと思った。書き手が使う形容詞や比喩を見れば、その人のステレオタイプに対する姿勢、つまりは批評性がある程度わかる。新聞の書評はごく短い紹介文に過ぎないが、それでも読めば大体、各々の作文者が言語制度とのあいだに結んでいる関係が見えてくるものだ。言わば、形容修飾を通じて、人は大勢あるいは体制に、イデオロギーに取りこまれる。だがその一方でロラン・バルトは、形容詞は「欲望」への回路であるとも言っていた。

 ことごとく形容詞なしで話し、書くというのはウリポ〔グループ「潜在的文学工房」〕の文学者たちが企てている遊戯――しばしばたいへん面白いものですが――と同様の遊戯にすぎないでしょう。実際には(大発見です!)、良い形容詞と悪い形容詞があります。形容詞がもっぱらステレオタイプな仕方で言語活動にやって来る時、それはイデオロギーへの扉を大きく開いているのです、なぜならイデオロギーステレオタイプの間には同一性があるからです。しかしながら、他の場合、それが繰り返しをまぬがれる時、主要な属詞として、形容詞は欲望の王道でもあるのです。それは欲望の「言葉」なのです、わたしの悦楽への意志を肯定する、わたしの対象との関係をわたし自身の喪失という常軌を逸した冒険へと導き入れる方法なのです。
 (ロラン・バルト/松島征・大野多加志訳『声のきめ インタビュー集 1962-1980』みすず書房、二〇一八年、247; 「形容詞は欲望の「言葉」である」; 『ガリバー』誌、五号、一九七三年三月)

  • 一時から「(……)」の人々と通話。"(……)"と合わせる動画の展開と言うか、物語的構成について多少口を出して考えを述べた。「居場所」への到達で終わるのはどうか、と。初めは少女が世界とのあいだに感じていた齟齬の解消を表現するのに、主客合一と言うか、少女が世界のなかに同一化して消えてしまうというイメージが思い浮かんでそのように話したのだが、それはちょっとこちらの好みに寄せすぎだった。やや宗教的な、あるいは神秘主義的なヴィジョンになってしまう。そういう表現を採用したとして上手く解釈されるかどうかはこちらにも定かでなかったわけだが、MUさんが、それだと死んでしまったように取られてしまうかもしれないと指摘して、それで彼女の意見も聞いたあと、確かに世界内で存在の根拠、要するに「居場所」を見つけるという筋書き、言い換えれば堅固な主体性を獲得して自己肯定ができるようになる、という捉え方のほうが現世的で良さそうだなと修正した。典型的な「探索 - 発見」の物語、すなわち自己確立の構図にはなるわけだけれど、先のこちらのヴィジョンは「神秘主義的」と言い表したように、一種の神としての世界そのものとの合一であり、つまりは超越であって、その場合、少女が行き着く先は天国か楽園のような領域になってしまう。彼女はこの世界から別の場所、その外に出ていってしまうわけで、しかしそれよりはこの世界の内で確固たる地盤、足の踏み場を得るという構図の方がわかりやすいし、この場合の趣旨に合っているだろう。少女はどこか別の場所に行くわけではなく、認識あるいは主体としてのあり方の変容によって世界とのあいだに調和を感じるようになり、どこに行くわけでもないが現にいまいるこの場所そのものの見方が変わることでその一部として承認され、位置づけられる、そういうストーリーの方が良さそうだ。とすると、宇宙を通過したあとに地球に戻ってきても良いのかもしれない、と加えて述べた。技術面でどういった手段があるのかこちらにはわからないが、冒頭に登場するのと同じ映像を最後にまた用いつつ、それに何かうまい効果を施すことで、世界の見え方が変わったということを示せるのではないかということだ。
  • 夕食には茄子と豚肉を炒めた。
  • 先の会話の途中で、五時から打ち合わせがあると言ってTTが離脱したので、九時からふたたび通話するという話だったが、こちらは日記を書いたりしたいので、と伝えて欠席を取った。
  • Chris Potter Quartet『International Jazz Festival Bern 2017』。Chris Potter(ts / ss)、David Virelles(p)、Joe Martin(b)、Nasheet Waits(ds)。二〇一七年四月二六日のライブ。流し聞きした限りでは全篇凄いが、特に最終曲、一九分に渡る"Strikt"はやはり凄い。ブルースというのはジャズになっていようがブルースロックだろうが何だろうが、まったくもって面白い、素晴らしい音楽だ。
  • 夜半、ふたたび書見を始めたが、またしてもその途中で眠ってしまう。(……)
  • 書抜きをしたり一年前の日記を読み返したり、人のブログを読んだりもしないといけないなあと思ってはいるのだけれど、どうにもだらだらする時間が多くなってしまい、勤勉さというものを己が身に引き寄せて確かに宿らせるのはなかなか難しいものでござる。あとはやはり、一日に一曲だけでも良いので、できれば毎日、音楽を集中して身体に取りこむ時間を作りたいものだ。いつも一日の終わりに近づくとそういったことを思い出すのだが、日中は気散じに遊んでしまって忘れている。


・作文
 12:03 - 12:33 = 30分(26日; 24日)
 26:39 - 27:36 = 57分(26日; 25日; 6日)
 計: 1時間27分

・読書
 18:09 - 18:30 = 21分(シェイクスピア; 287 - )
 24:31 - 26:18 = 1時間47分(シェイクスピア; - 310)
 27:57 - 28:13 = 16分(日記; ブログ)
 計: 2時間24分

  • シェイクスピア/野島秀勝訳『ハムレット』(岩波文庫、二〇〇二年): 287 - 310
  • 2019/3/3, Sun.
  • 2019/3/4, Mon.
  • 「わたしたちが塩の柱になるとき」: 2020-02-16「恋人が首を吊ったと想像し涙に暮れる彼は童貞」

・音楽