2020/4/28, Tue.

 雑誌『世界』九六年六月号に越智道雄氏が、アメリカの連続小包爆弾犯人、ユナボマーについて文章を書いておられて、その中にユナボマーが『ニューヨーク・タイムズ』に掲載させた長い論文の一部が引用されていた。それをそのままここに引用してみる。

 「システム(高度管理社会)は、適合しない人間は苦痛を感じるように改造する。システムに適合しないことは『病気』であり、適合させることは『治療』になる。こうして個人は、自律的に目標を達成できるパワープロセスを破壊され、システムが押しつける他律的ワープロセスに組み込まれた。自律的パワープロセスを求めることは、『病気』とみなされるのだ」

 ユナボマーの郵送爆弾という手段は、オウムが実行した都庁の小包爆弾事件の手口とも呼応しており、そういう点でも興味深いのだが、それはそれとして、この連続爆破犯人セオドア・キャジンスキーの語っていることは、オウム真理教団事件の本質ときわめて密接にリンクしているように思える。
 ここでキャジンスキーが述べていること自体は、基本的には正論であると思う。私たちを含んで機能している社会システムは多くの部分で、個人の自律的パワープロセス獲得を圧迫しようとする。私も多かれ少なかれそれを感じているし、おそらくあなたも多かれ少なかれそれを感じておられるに違いない。もっとざっくばらんに言えば、要するに「自分自身の価値を掲げて、自由な生き方をしたいと思っても、世間がなかなかそれを許してくれない」ということになる。
 そしてたとえばオウム真理教に帰依している信者たちの目から見れば、自分たちが自律的パワープロセスを獲得、確立しようとしているときに、社会や国家がそれを「反社会的行為」であると決めつけ、「病気」であると言ってそこから引きはがそうとするのは、間違ったことであり、まったく容認できないことである。だから彼らはますます反社会的傾向を深めることになる。
 しかしキャジンスキーが――意識的にか無意識的にか――見逃していることがひとつある。それは「個人の自律的パワープロセス」というものは本来的には「他律的ワープロセス」の合わせ鏡として生まれてきたものだということだ。極端に言い換えれば、前者は後者のひとつのリファレンスに過ぎないのだ。つまり孤島で生まれ、親に置き去りにされてひとりぼっちで育ちでもしない限り、発生的に純粋な「自律的パワープロセス」などというものはどこにも存在しない。だとすれば、その二つの力はしかるべきネゴシエーション(歩み寄り)を内包する関係にあるはずだ。それらは陰と陽のように自発的な引力で引かれ合って、しかるべき所定の位置を――おそらくは試行錯誤の末に――個人個人の世界認識の中に見出すはずのものなのだ。それを「自我の客体化」と呼ぶこともできる。それこそがつまりは、人生にとっての真のイニシエーションなのだ。その作業が達成できないのは、バランスのとれた自我のソフトな発達が、どこかの段階で、何かの理由で阻害されているからである。その阻害を棚上げして、「自律的パワープロセス」というハードな論理だけで乗り越えようとするときに、社会的論理と個人とのあいだに物理的(法律的)軋轢が生じることになる。
 (村上春樹アンダーグラウンド講談社文庫、一九九九年、745~747; 「目じるしのない悪夢」)



  • 二時二〇分まで腐り果てた堕眠。だが、そのわりに身体は軽い。軽いのに何故起きられなかったのか?
  • 夢の記憶が多少残っている。山梨にある父親の実家が旅館の一部になっている――と言うかむしろ、のちにはショッピングモールの一部となっていた。家族の生活スペースと泊まり客の区画が分かれており、一応仕切りと言うかそのあいだを閉ざして往来を制限する柵のようなものが設けられていたのだが、これは素手で簡単にどかせるもので、こちらもたびたびそこを出入りしていた。この夢はいわゆる明晰夢と言うのか、夢中にいながらこれは夢だと気づいていたようで、ショッピングモールを歩いて店舗に並べられている物品に目をやりながら、夢のわりにずいぶんなまなましくてリアルだな、目が覚める気配も一向にない、このまま覚めなかったらどうしよう、などとちょっと不吉な考えを抱いたことを覚えている。小中の同級生だったYM.K(という名前だったと思うのだが、漢字までは覚えていない)や、Tなどが登場人物として顔を見せていた。
  • 上階に起きていくと、母親は掃除と言うか、棚の上の物の整理などに立ち働いている。父親はソファにぐったりともたれかかって欠伸を漏らし、疲労にやられて眠たい様子。空は白い曇天だがそこまで暗くなく、寒くもない。大気から動きの気配は伝わってこず、鶯の鳴き声が立って広がり溶けていくのが唯一の揺らぎだ。
  • 朝日新聞社主催による手塚治虫文化賞の結果が発表されたと言う。漫画大賞は高浜寛『ニュクスの角灯』で、新生賞は田島列島『水は海に向かって流れる』及び『田島列島短編集 ごあいさつ』。最終候補作品中には、巷で大人気らしい吾峠呼世晴の『鬼滅の刃』や、三島芳治『児玉まりあ文学集成』、伊図透『銃座のウルナ』といったこちらでも見聞きしたことのあるような名が見られる。
  • 昨年の日記の読み返し。二〇一九年三月八日金曜日に二〇一六年七月七日木曜日から風景描写の引用がある。音調も含めてそれほど悪くない。馴染みのテーマではあるけれど、ひとまず違和感は免れている。

 窓外をちょっと眺めると、空は水彩画の淡く滑らかな水色のなかに、かすかな皺が寄っている箇所の一つもない。折れ曲がった手のひらのような棕櫚の葉に陽が宿って白さを塗り、その輝きのなかで葉脈の筋が隠されるどころかかえって明らかになって、その棕櫚の向こうから横に広がる梅の葉は、太陽の快活さに喜ぶというよりは辟易するかのように浅緑に乾いてくしゃりと身を曲げていた。視線を手近に巻き戻すと、よほど小さな虫でなければ通れぬ網戸の目に光の微細片が極小のビーズとなって引っ掛かり、青空を背景にして上から下へと星屑のように雪崩れているのだが、塩粒のようなその星々はこちらの頭が僅かに動くに応じて一瞬で宿りを移していくので、白昼の窓に生まれた天の川はまさしく現実の川のように、一刻ごとにうねってその流れを変化させるのだった。

  • また、男子高校生の声色を、「輪郭の曖昧で連結の緩いような、いかにも、まあ言ってしまえば馬鹿っぽい雰囲気の声」などと評している。二〇一九年三月一〇日日曜日の記事には、二〇一六年七月五日火曜日からやはり風景の引用。これも悪くはない。当時の実力の範疇で力を尽くしているとは思う。

 それからまた文字を追って、何かの拍子に顔を上げて窓外に目をやった。視線の貫き抜けていくその軌跡の中途に立ちふさがって視認できないほどの雨粒が何層にも重なっているのだろう、空気には石灰水のような濁った白さが染み渡っており、電線の姿は消え、川岸に広がる木々の葉のあいだの襞にもその白濁した粒子は浸透して、そのために横に連なる木々の姿はまるで二枚の透明な板によって前後から押しつぶされたかのように、あるいはそれ自体が窓ガラスの表面に描かれた単なる絵であるかのように平面的に感じられた。空は普段よりも遥かに下方まで垂れ下がって、山は表面の模様を完全に失ってただの薄影と堕し、そのせいで並ぶ丘のいくつかの盛りあがりは植物と土の集積だとは思えず、むしろ巨大な生き物が霧のなかでじっと動かず寝そべっているかのように見えるのだが、しかも眺めているあいだにも雨が強まったのだろうか、白い空の断片が宙から剝がれ落ちて山の周りに次々と堆積していくようで、霧の幕は深み、稜線の半分以上は没して途切れてしまうのだった。

  • 夕食の支度。茹でられた小松菜を切り分け、滑茸とエノキダケを合わせて和え物に。ほか、葱と筍と豚肉を炒めて麻婆豆腐の素で味つけ。豆腐も最後に加えて混ぜる。汁物は母親が作ってくれた。
  • シェイクスピア安西徹雄訳『十二夜』(光文社古典新訳文庫、二〇〇七年)を読み進める。飲んだくれと愉快な仲間たちによる執事マルヴォリオへの悪戯がえげつないもので、率直に言ってひどくたちが悪い。どういうものかと言うと、まず、女主人オリヴィアとの結婚及びそれに付随する伯爵の地位を妄想する執事に、オリヴィアの筆跡を装った宛先曖昧な偽の恋文を掴ませるところからそれは始まる。この手紙を拵えた小間使いマライアの思惑通り、マルヴォリオはすぐさま恋文が自分に向けられたものだと思いこむわけだが、そのなかにはまた、格好を「世人のアッと目を見張るがごとき独得、異形の態[てい]」(97)に装ってください、というお願いの言葉が記されている。具体的には、「黄色のストッキング」(同)を履き、「十文字の靴下留め」(98)を身につけるという服装が指示されているのだけれど、それはオリヴィアが「大っ嫌いな色」(101)であり、「忌み嫌ってらっしゃるスタイル」(同)なのだ。さらには、「私とお会いになる時は、いとしい方、いつでもニッコリ、ほほえんでいてくださいますよう」(99)というまた別のお願いの文句で手紙は結ばれており、これらの要望に忠実に従ったマルヴォリオは、「異様ないでたち[﹅4]に身を包み、顔は満面ニタニタ笑いをたたえながら、オリヴィアの前にしゃしゃり出る」(218; 「解題」)ことになる。そんな様子に加えて、オリヴィアにとってはまったくわけのわからないことばかりを口にするものだから、事前に伝えられていたマライアの証言も寄与して、マルヴォリオは頭がおかしくなったと判断されてしまうのだ(「もう間違いない。この夏の暑さで、まるきり狂ったんだわ、この人!」(130))。そういう次第でこの哀れな執事は悪魔憑きの狂人と見なされて、「牢獄」(161)としての密室に、あるいは本人の言によれば「身の毛もよだつ真っ暗闇」(162)のなかに軟禁された挙句、物語も最終盤に至ってようやく解放されながらも、恋文がまったくの偽物だったという事実、自分は小間使いたちのおふざけに嵌められていただけだったという真実を知ることになり、かくして彼の高慢な夢想は身の程知らずの馬鹿げた妄念として消滅せざるを得ない。こうした経緯は物語本線の脇に展開される単なるサブ・エピソードではあるけれど、この喜劇を読んできたこちらはまったく単純に、え、これ、普通にかなりひどくね? という感想を持ってしまったのだった。実際、マルヴォリオの視点からすればこの戯曲の説話は、踏んだり蹴ったり、泣きっ面に蜂どころではない、それより遥かに不幸な最悪の成り行きだろう。しかし悪戯犯たちの言い分を拾ってみると、口調からしていくらか軽薄そうな印象を受ける召使いフェビアンは、「かねてから、マルヴォリオさんの強情、傲慢な振舞いに対して、私ども、いささかふくむ[﹅3]ところがございまして、つい」(198~199)と大して悪びれる風でもないし、卓越した詭弁の使い手であるとても愉快な道化のフェステも、自分を「下らぬロクでなし」(38)呼ばわりしたマルヴォリオの過去の発言を引きながら――ちなみに、フェステの再現では、「ロクでなし」の語は「ゴロツキ」(199)に変わっている――「因果の車はひとめぐり、人を呪ったその報いが、おのが頭に降りかかってきたというわけだ」(199~200)と言って、彼には珍しくいくらかの酷薄さを滲ませつつ、あまり鋭いとも思われない一般論で落ちをつけて弁明としている。つまりこの物語は、傲慢な執事の居丈高な「自惚れ病」(38)が、因果応報によって手ひどく裁かれた、という世間知風の教訓じみた図式に収まって終わっているのだ。しかし、それにしても随分とひどくはないか? とこちらなんかは思ってしまったのだけれど、悪戯の被害者マルヴォリオ自身も無論それで納得するはずもなく、「一人残らず、復讐してやるからな、お前ら、みんな!」(200)という強烈な呪いの言葉を吐き捨てながら退場することになる。幸福感に満たされた大団円の幕切れに突如として鋭く闖入するこの「禍々しい」(225)、「耳障りの強すぎる雑音」(224)には、訳者安西徹雄も「解題」の最後で注目を向けており、この劇を書いたシェイクスピア自身もさすがに、「マルヴォリオが身に沁みて味わったはずの痛々しい屈辱感」(226)をまるでなかったこととして消し去ってしまうのが憚られたのではないか、と作者の心持ちを推測している。
  • 夕刊。McCoy Tynerが三月に亡くなっていたようだ。確かに、Sさんのブログでもその事実に言及されていたような記憶がある。死因は書かれていなかった。ほか、高橋源一郎のインタビューが載っていて、何でも『論語』を二〇年掛けて完全訳したとか言う。その下には岩手県胆沢地方及び阿弖流爲の紹介。高橋克彦が阿弖流爲や東北地方についての小説を書いているらしいのだが、この直木賞作家は『写楽殺人事件』の人だ。
  • 食後に散歩。自宅の向かいの家を四分の一ほど囲う垣根の葉っぱがほとんど全体に渡って真っ赤に、あるいは深紅に、てらてらと粘るがごとく染まっている。これも多分ベニカナメモチだろうか。道を西へ歩き出すとちょうど飛行機が二機、結構低い位置に現れて、無骨な音波を降りそそぎながら空をまっすぐ切っていき、その音壁に飲まれて紛れつつも、周囲からもかすかな音の気配が兆して、林の樹々の身じろぎだけでなく固めの響きが家屋の方からも立つので風に押されて家が鳴っているのかと思ったところが、しばらく行けば雨が降り出したのだと判じられた。しかも路上に印される淡黒点、消炭色の水玉を見れば、粒がわりあい大きそうだ。傘を取りに戻ろうかとも思ったが、面倒なので濡れるならそれも良いと払って先を目指す。空はもちろん雲が一面畝を成しているわけだが、北西寄りの一角、一軒の屋根のすぐ上に、光とも何ともつかず目にもほとんど映らず捉えがたい無意味な端切れがそっと漂って、あんなところに月があるのかと見た。
  • 十字路の自販機に寄り、ボックスがその脇のちょっと引っこんだところにあったので、手を伸ばしてコーラのボトルを捨てさせてもらい、それから品目を見てたまにはカルピスソーダでも飲むかと一四〇円を支払った。雨も降りはじめたしもう引き返して帰っても良かったが、まあもう少し行ってみるかと木の間の坂に入って上ると、沢の音が意外に厚くざわめいて立ち昇ってくる。途中にある家の傍を通ったときに風呂の香りらしいものが匂い、その辺りではもう沢も遠いので周囲は静かそのものだけれど雨が葉を打つ響きが生まれないので、早くも止んだようだなと知れた。実際、樹の下から出ても、肌に当たってくるものはない。街道に至って東に折れて、右手にペットボトルを掴み左手はポケットに収めながらぶらぶら行けば、月が先ほどよりも露わになっていて、ほとんど輪郭の一部を半端に映しただけのごく細い弧を描いたそれを、線月と言うか糸月とでも言おうか、まあそんな風情で橙に、または赤黄色に染まった月である。肉屋の脇から林中の坂に曲がって帰った。階段の一段一段の上に濡れそぼった落葉の群れが泥のように崩れて蟠っており、下りていくと電灯の白さが降りそそいで視界の上部からさらさら染み入ってくる。
  • Aaron BellやIdrees Suliemanなど、往年のジャズメンについてのWikipedia記事を読む。Aaron Bellは六〇年代にDuke Ellingtonのバンドにいたベースで、EllingtonがJohn Coltraneと一緒に作ったアルバムなどでも弾いているが、五六年にはBillie Holidayの『Lady Sings The Blues』に参加している。Billie Holidayもまだきちんと聞いたことがないので、早く手を出したいと思う。
  • Idrees Suliemanはマイナー極まりない知名度のトランペットだと思うけれど、Thelonious MonkによるBlue Noteへの初録音、『Genious Of Modern Music』に加わっている。四七年のことである。そのほかMary Lou WilliamsやCab Callowayといった古めの人々とも仕事をしたことがあるようで、Mary Lou Williamsという人は個人的に何となく気になる名前で、と言うかQueenなどがカバーしている――彼らは『Live At Wembley '86』で披露している――古き良きロックンロールの"Hello Mary Lou"はこの人を題材にしたものなのかなと思い当たったのだが、検索してみた限りではそういうわけではなさそうだ。Suliemanに話を戻すと、六〇年代から七三年まで彼は欧州でKenny Clarke/Francy Boland Big Bandのソロイストを務めていたらしい。そして八五年には、Miles Davisの最晩年の一作である『Aura』に参加している(ちなみにこのアルバムのベースはNiels-Henning Ørsted Pedersen、ギターはJohn McLaughlinである)。
  • 試みに『Clarke Boland Big Band en Concert avec Europe 1』というライブ盤の情報など見てみると、SuliemanのほかにはArt FarmerJohnny Griffin、Ronnie Scott、Sahib Shihab、Jimmy Woodeなどのよく知られた名があって、結構充実した顔ぶれである。またSuliemanは、Eric Dolphyの『Stockholm Sessions』なる音源にも参加している! これはちょっと気になるところだ。ほかにライブ盤を拾うとThad Jonesの『Live At The Montmartre: A Good Time Was Had By All』があり、これは七八年三月の録音で、地元デンマークの人たちが集まったようで全然知らない名前ばかりだが、唯一わかる人としてNiels-Henning Ørsted Pedersenがいる。あとはMal Waldronの『Mal-1』及び『Mal-2』にもSuliemanは入っていて、後者にはJohn ColtraneJackie McLeanも加わっている。
  • 次に、Seldon Powell。テナー、あるいはフルートの奏者。気になる作品を適当に拾っていくと、まず一つにはDuke EllingtonのドラマーだったLouis Bellsonの『The Driving Louis Bellson』なるアルバムに参加しており、Jimmy Witherspoonの『Goin' To Kansas City Blues』でも吹いている。後者は五七年の一二月録音で、ギターはKenny Burrellである。Jimmy Forrest『Soul Street』という名前も見られるが、この人はMiles Davisと同じくSt. Louisの出身で、Miles Davisは五二年に彼のバンドでいっとき仕事をしたようで、『Live At The Barrel』という音源が残っているところ、何故か知らないけれどこちらはそれを持っていて、しかしほとんど聞いてはいない。『Soul Street』の方は六〇年から六二年に掛けての録音を集めた作であり、Art Farmer、Idrees Sulieman、Jimmy Cleveland、King Curtis、Pepper AdamsRay Bryant、Mundell Lowe、Richard Davis、George Duvivier、Wendell Marshall、Roy Haynes、Osie Johnson、Oliver Nelsonといった具合に面子は結構なもので、なおかつVan Gelder Studioで録られてもいる。
  • Seldon Powellは六〇年あたりからはソウルやR&Bの方面をメインの仕事にしていったらしく、Cal TjaderとかBernard Purdieなどの名前がディスコグラフィーに見て取れる。Cal Tjaderの『Soul Burst』は六六年の作品だが、これには何とChick Coreaなんかも加わっていて、そんな仕事してたの? という感じだ。Bernard Purdieの『Soul Drums』はだいぶ昔に持っていたような記憶があるけれど、多分売ってしまったと思う。さらにはAlbert Aylerの『New Grass』というアルバムにもPowellは参加していて、これはもちろんフリーではなくてAylerがソウル方面に手を出した、と言うか回帰した作品らしく、何と歌まで歌っているとのことだ。当時のファンや批評家からは、売れ線に走りやがって糞が、みたいな感じで概ね酷評されたようだが、まあそりゃそうだろうとは思う。
  • あと目を引くのはAnthony Braxtonの名前があることで、彼の『Creative Orchestra Music 1976』というものにPowellは入っているけれど、これはどういう音楽なのか特に情報がない。まあタイトルとかメンバー――Roscoe Mitchell、Wadada Leo Smith、Kenny Wheeler、Jon Faddis、Dave Hollandなどがいる――を見る限り、多分普通にアヴァンギャルド方面のことをやっているのだと思うが。
  • それにしても、こうやって情報を集めることも興味深くて面白いには面白いのだが、そればかりでなくて実際に音楽を聞かなければ何も始まりはしないのだけれど。
  • Sさんのブログ。二〇二〇年一月四日、「この世界の(さらにいくつもの)片隅に」が素晴らしい記述。「(……)この映画は、なにしろ音だ。クラブサウンドを聴くくらいの心構えが必要だ。人を死に至らしめる際の音とは、まさにこれだ。中盤からの空襲における爆撃音は、観る者のこころの中を根こそぎさらい、そしてただ茫然とさせるようなもので、それはあたかも自分の傍らでふいに起こった死を、なすすべもなく見届けたかのような錯覚を起こさせるに十分なほどの衝撃である。可聴域全部に爆音が鳴り響き、遠くの山に濛々と火柱と煙幕が上がり、目の前の地面が生き物のように掘り返され、それが自分に命中しなかったことが偶然にすぎないことを明確に意識しながら頭を上げつつ、ああ死ぬのはなんて大変なことかと、こんな思いをしても、まだ死は依然として遠いのかと、さっきと今がまだ繋がっているのかと、あとどのくらい凄絶な思いをしなければ死のラインに手が触れないとかと、ほとんど途方に暮れる思いがする」。
  • 「偽日記」も凄まじく久しぶりできちんと読む。二〇一九年一〇月二八日、江川隆男『超人の倫理』から。

 「(…)意志とは何でしょうか。それは、何よりも〈肯定する能力〉あるいは〈否定する能力〉です」
 「意志を結びつけて自由を考えることは、道徳的思考のもっとも典型的な表象だと言えます。逆に言うと、道徳的思考や感情は、自由を意志と関係づけることでしか考えられないのだとも言えるでしょう。端的に言うと、道徳とは、知性や感性から意志を区別することそのもののうちにあると言えます」
 「これに対して、これまで述べてきたような倫理作用の発揮にこそ自由があると考えること、これは、それ自体がまさに非人間的な様態の産出であり、超人の感性の産出につながっているのです。(…)自由とは、個人が、たとえ人間の道徳のうちにあっても、部分的に個人化して超人の倫理へと移行することなのです」
 「人々が一般的に意志と知性とを区別しようとする理由は、何とか愚鈍(=判断力の欠如)に陥らないようにと努力し続ける道徳的な〈人間=動物〉の産出のためだったわけです」
 「意志が認識の欠如や知覚の非十全性から発生したとすれば、意志はまさに虚偽の観念の一つになります。あるいは、知性と意志を区別するのは、虚偽の観念において成立する思想だということです。(……)」
 「改めて自由意志とは何かと問いましょう。それは、認識や知覚が非十全であればあるほど、つまりそれらが虚偽の観念から成立していればいるほど、そうした認識や知覚に対して或る決定の形相を与えていると強く実感すること以外の何ものでもありません。すなわち、意志とは自らの出自である欠如性を埋めようとする意識なのです」
 「ニヒリズムとは何でしょうか」
 「第一にそれは、自分たちより高い存在---すなわち、個々の人間の生を超越した価値、例えば〈善〉あるいは〈真〉---を想定して、自分たちの現実の状態、つまり実存の価値を低く見積もるという人間に本質的な傾向性のことです」
 「第二にそれは、そうした諸価値がまやかしだと気づいて、自分たちの実存を遅ればせながら肯定しようとするが、実際にはすべてが手遅れで静かに死に行くことしか残されていないことに人間が気づいていく仮定でもあります」
 「私たちがいる地点は、実はこの第二の過程のほんの入り口にあります。しかしながら、それでも重要な問題が、この地点ではじめて提起可能になります。つまり、こうした受動的消滅に対して、別の仕方での消滅を考えることができるということです。それは、まさに積極的な消滅の仕方、すなわち「能動的破壊」です」
 「(……)問題は、既に述べたように、否定的で反動的なニヒリズムからいかにしてこうした受動的ニヒリズムへと移行するのかということです」
 「それは〈無への意志〉に囚われた反動的な精神をそこから解放して、少しでも意志そのものが無であることを知ること、もはや意志しないことです。(……)」

  • 零時過ぎから日記に取り組み、四月七日分を何とか仕上げ、その後八日の分も仕舞えることができた。この調子である。一日のうちで二日分片づけることができれば、計算上はいつか現在に追いつくわけだ。日記作成のバックには『Corinne Bailey Rae』を流した。わりと気持ちの良い音楽で、なかなかよろしいのではないか。#3 "Put Your Records On"がわかりやすく快適でいかにも売れそうな音だけれど、と言って低劣でない。「売れ線」ど真ん中のポップスでさえこれだけ良質なのだから、アメリカという国の音楽文化的蓄積はやはり大したものだと思う。
  • Wikipediaで「吸血鬼を題材にした作品の一覧」という記事を見る。七日の日記に「吸血鬼」という語を書きつけたときに、何故か検索してしまったのだ。ゲーテに『コリントの花嫁』という吸血鬼譚があるらしい。また、リチャード・マシスンという作家も知った。スピルバーグ作品の脚本を書いたりしているようで、この人の『吸血鬼』という長篇が、二〇〇七年の映画『アイ・アム・レジェンド』の原作なのだと言う。この小説はそれ以外にも過去に二度、従って全部で三回も映画化されているらしい。
  • Corinne Bailey RaeLed Zeppelinが大好きで"Since I've Been Loving You"をライブでカバーしていると言うので、検索して出てきたものを視聴した(https://www.youtube.com/watch?v=DznSalRqVBU)。序盤はピアノとウッドベースのみを伴って大人しく歌っていることもあり、彼女の声質と歌い方はこの曲にあってはどうもまろやかに過ぎるのではと、そう思いながらも聞き続けるうちだんだん声を張るようになり、熱が籠ってきてからはそうでもないかな、意外と行けるかなと傾いたのだが、終盤にブレイク及び短い独唱を経た直後、ドラムや歪んだギターなどバンド全体でいきなり入ってくるのにはちょっと驚いたと言うか、こうなってみるとベースとピアノだけで最後までしっとり収めた方がむしろ良かったのではという気もされて、と言うのはバンドでやるとこの人の声ではやはり角がなさすぎるように感じたのだ。よくも悪くも随分と優しい声をしている。この曲を普通にやるにはその優しさが仇となってある種平板に過ぎると言うか、粘りとか、どろどろしたような情念的なニュアンスがあまり乗らない声なのではないか。
  • その後、本家の演奏も聞く。もちろん素晴らしく、ぞくぞくさせられる音楽で、こういう雰囲気のマイナーブルースとしてはやはり、これ以上のものはちょっとできないのではないか。ギターソロなんかも、まあやっぱりJimmy Pageでないと多分できないでしょうこれは。それにしても、こういうのって、ブルースって言っていいんですかね? いわゆるブルースとはだいぶ違うと言うか、ブルースブルースしている感じはむしろ全然ないような気がするのだけれど。ただ、「ブルース」と呼ばれる音楽の形態様相は別として、「ブルースの精神」みたいなものを漠然とイメージしたときに、こういうサウンドがそれをわかりやすく、かつ高度に表象しているものとして広く受け入れられるというのはわかる気がする。源泉にあった「ブルース」そのものよりもかえって余計に「ブルースらしい」と言うか、本物よりも本物らしく精巧によく作られた紛い物、みたいな。


・作文
 15:12 - 15:25 = 13分(28日)
 24:01 - 24:48 = 47分(28日)
 24:49 - 26:00 = 1時間11分(7日)
 26:34 - 27:12 = 38分(8日)
 計: 2時間49分

・読書
 15:29 - 16:07 = 38分(日記 / ブログ)
 16:09 - 17:00 = 51分(シェイクスピア十二夜』: 78 - 132)
 17:32 - 19:27 = 1時間55分(シェイクスピア十二夜』: 132 - 171 / シェイクスピアハムレット』: 219 - 305)
 20:33 - 21:41 = 1時間8分(Wikipedia
 22:30 - 23:26 = 56分(Wikipedia / ブログ)
 26:13 - 26:34 = 21分(ウィキペディア
 28:08 - 28:35 = 27分(シェイクスピア十二夜』: 171 - 204)

・音楽
 27:34 - 27:55 = 21分