2020/4/29, Wed.

 オウム真理教に帰依した人々の多くは、麻原が授与する「自律的パワープロセス」を獲得するために、自我という貴重な個人遺産を麻原彰晃という「精神銀行」の貸金庫に鍵ごと預けてしまっているように見える。忠実な信者たちは進んで自由を捨て、財産を捨て、家族を捨て、世俗的価値判断基準(常識)を捨てる。まともな市民なら「何を馬鹿なことを」とあきれるだろう。でも逆に、それは彼らにとってある意味ではきわめて心地の良いことなのだ。何故なら一度誰かに預けてさえしまえば、そのあとは自分でいちいち苦労して考えて、自我をコントロールする必要がないからだ。
 麻原彰晃の所有する「より巨大により深くバランスが損なわれた」個人的な自我に、自分の自我をそっくり同化させ連動させることによって、彼らは疑似自律的な[﹅6]パワープロセスを受け取ることができる。つまり「自律的パワープロセス対社会システム」という対立図式を、個人の力と戦略とで実行するのではなく、代理執行人としての麻原にそっくり全権委任するわけだ。おまかせ定食的に、「どうぞお願いします」と。
 彼らはキャジンスキーが定義するように、「自律的パワープロセスを獲得するために社会システムと果敢に戦っていた」わけではない。実際に戦っていたのは麻原彰晃ただ一人であり、多くの信者たちは闘いを欲する麻原彰晃の自我の中に呑み込まれ、それに同化していたのだ。そしてまた信者たちは一方的に麻原にマインド・コントロールされていたわけではない。純粋の受け身の被害者であったわけではない。彼ら自身、積極的に[﹅4]麻原にコントロールされることを求めていたのだ。マインド・コントロールとは求められるだけのものではないし、与えられるだけのものではない。それは「求められて、与えられる」相互的なものなのだ。
 (村上春樹アンダーグラウンド講談社文庫、一九九九年、748~749; 「目じるしのない悪夢」)



  • 六時間二〇分の布団滞在で一一時に起床したので、まあそう悪くはない。
  • 食事とともに朝刊をめくると春の叙勲の報があって、宮本輝旭日小綬章を受けたと取り上げられていた。名簿を見てみるとそのほかに、外国人の欄においてAbdullah Ibrahim、すなわちDollar Brandの名があった。旭日双光章というものを与えられたらしい。あとで部屋に戻ってからIbrahimのWikipedia記事を覗いてみたところ、ジーン・グレイ(Jean Grae)という子がいると書かれてあり、何でもニューヨークのアンダーグラウンド・ヒップホップなるシーンで活躍していると言う。それで記憶が刺激されて思い出したのだけれど、この人はRobert Glasperが『Black Radio 2』に収めた"I Don't Even Care"において、Macy Grayとともにフィーチャリングしていた人ではないか。Abdullah Ibrahimの娘だとは思わなかった。

 (……)クーンズの彫刻作品「ラビット」(1986年)が去る5月、ニューヨークのオークション、クリスティーズで存命の美術家として史上最高額となる9107万5000ドルで落札されたことが伝えられた(……)日本円に換算して、だいたい100億円で落札された(……)。

 この「ラビット」について初めて知ったのは、1987年くらいのことだったように思う。その頃、僕は毎月、ニューヨークの最新動向を撮影した35ミリのポジ・フィルムに、いの一番に触れることができる機会を得ていた。その時、初めて耳にしたのが「ネオ・ジオ」という言葉だった。これは「ネオ・ジオメトリック・コンセプチュアリズム」の略称で、強いて言えば新幾何学概念主義とでも訳したらよいのだろうか、しかしちょうどその頃、音楽家坂本龍一が『ネオ・ジオ』と題する新作を発表していて、そちらは「ネオ・ジオグラフィ」の略称で、世界中の音楽地図を混在させ、書き換えるという意味合いであったはずだが、ニューヨークを活動拠点に据える坂本が美術界の最新動向にも敏感であったであろうことは容易に想像できる。(……)
 (……)ジャーナリスティックな話題性ということで言えば、このネオ・ジオという命名は、あきらかにその直前までニューヨークの話題を席巻していた「ネオ・エクスプレッショニズム」と対比させたもので、ちょうどこの頃から、ニューヨークのアート・シーンは美術をめぐる主義主張を競うイズムの時代を終え、ファッションを参照し、アートの変遷を一種の流行現象のように捉えるモードの時代に様変わりしつつあった。まだ現在のように莫大なお金の取引は行われていなかったものの、そのような対象として、アートの意味が高尚な精神の結晶としての芸術から、相場によって一喜一憂する経済的な投資の対象へと抜本的に変化していく兆しは、すでに十分に伺うことができた。(……)
 このネオイズムについて言えば、ネオ(新)であること自体が目指されている点において、すでにかつてのアブストラクト・エクスプレッショニズム(抽象表現主義)やミニマリズムとは根本的に違っている。ネオイズムには「抽象・表現」や「ミニマル」のような内実、ないしは主張にあたるものがない。ただ単に先行するモードを「刷新(ネオ)」することだけが目指されている。「現代美術」から「現代」という時制を示す頭字さえ消えて、ただ単に投機の対象としての「アート」に変身するためには、このモード化という手続きがどうしても必要だった。先行するものを否定するイズムはヘーゲル以来の歴史的弁証法の産物だが、モードは先行者を刷新こそすれ否定はしない。イズムは精神の産物ゆえ一度倒れたら容易には復活できないが、モードではリバイバルは当たり前のように(むしろ進んで)起こる。そこには精神の刻印はなく、実体もなく記号化した「モノ」だけが現れたり消えたりを繰り返す。作り手本人さえ、この「モノ」の行方を予測することは不可能だ。ようは、すべてがその時々に応じての操作と選択の対象になったのだ。簡単に言えば、それが市場に委ねるということだ。いろいろ言われることだが、根本的には批評の衰退もここから始まっている。

 美術作品の近代化とはなにかについて考えるうえでおおいに参考になるのは、お金をめぐる近代の取り決め方である。言うまでもなくお金は大事なものだ。なくてはならない。なくてはならないものだけれども、無限にあっても困る。無限にあるなら誰もがお金持ちになってしまう。貧富の差があるからこそ、お金持ちでいることもできるのだ。そのためにもお金は無限であってはならない。有限なお金がどう配分されるかでお金持ちかそうでないかが決まってくる。商品は誰にでも作ることができても、それと交換し、欲しいものを手に入れる媒介となるお金は、誰もが作れるものであってはならない。だからこそ、お金は古くは貴金属(典型的に金貨)で作られたのだ。もしくは巨石で作られた時代もある。いずれにしても希少なものだ。しかし貴金属や巨石には、そのままお金とするには決定的な難点があった。それは、貴金属や巨石が希少であるがゆえに、人工的に再生産することができず、最大量として有限にしか流通できないことだ。いや、お金が有限なのはよいことのはずだった。けれども、他方では人類の人口は増え続け、それに伴って商品の生産量も増え、人々の移動も頻繁となる。金貨やましてや巨石なんていちいち運んでいられない。そこで出てきたのが信用経済だ。今ここに金貨は持ってきていないけれども、確実に私はそれを持っているし、後日それを渡すことができるから、今はその手形だけ発行するので、ひとまず欲しい商品と交換してはくれないか、というものだ。その人を信用するか、しないか。こうなってくると賭けのようなものだ。
 ところが、信用というものには肝心のかたちがない。だから手形を発行するのだが、当初はこの手形は貴金属に紐付けされていた。金兌換制度というのがそれだ。その人が保有する金の量に応じてしか手形は発行できません、ということだ。けれども、もともと信用にはかたちがないのだから、金に紐付けするといっても、本当にその人が該当する金塊を保持しているかどうかまでは本当のところ定かではない。ということは、肝心なのは、すでにこの時点で金塊よりも信用の方が重要になっている、ということだ。言い換えれば、信用さえ揺るがなければ、人はその人にいくらでも商品を渡す(まさしく「クレジット=信用」カードという通りだ)。言い換えれば、信用され担保されていれば、お金が貴金属や巨石である必要はとうになく、ただの紙(手形)で代行できるということだ。実は、これこそが近代的な紙幣制度の大原則であって、その紙に信用を与えているのは国家が発行している、という保証である。強い国家が発行する紙幣には為替上でも大きな価値があり、不安定な国家が発行する紙幣には国際市場での交換価値がない。その強い弱いを決めているのは政治力、経済力、軍事力などいわゆる「国力」と呼ばれるもので、実はそれ自体不安定なものだ。けれども、信用自体が本来不安定なものなのだから、当面は強い国家へと紙幣価値は傾かざるをえない。重要なのは、ここでは貴金属的な実体的価値ではなく、無形の信用取り引きこそが経済的価値を主導しているということだ。
 長々と経済の話をしてきたが、美術作品の近代化も、ほぼこれに沿って考えることができる。財宝などと呼ばれる「お宝」は、近代化以前の代物である。それらの価値が、モノ自体を構成する原材料の稀少性(通俗的、かつ典型的なものとしてダイヤモンド)に多くを負っているからだ。ところが、どれだけ山と積まれても、札束そのものには原材料としての価値がない。原価だけで考えれば紙にインクを擦り付けただけの代物だ。それに総額と見合う経済的な交換価値が生じるのは、国家による信用(1万円札を例にとれば、この紙幣を持ってきた者には1万円相当の買い物をさせても損はしないことを国が保証する)のためである。
 近代絵画も、実際にはこれとまったく同様なのだ。モネやセザンヌピカソマチスの絵に莫大な経済的(交換)価値があるのはなぜだろう。それ自体はキャンバスに絵具を擦りつけただけのものではないか。かつての財宝のように金箔が貼られているわけでもない。宝石が埋め込まれているわけでもない(原材料の稀少性とその物量で価格が決まる日本画はその意味ではいまだ絵画の近代化以前の名残を留めている)。キャンバスに絵具だけでできた布に数億、数十億、数百億円の価値を与えているのは、信用なのだ。これこれの絵画を持っている者は、次に市場に出す際にはそれ相応の交換価値を行使してよい、ということだ(実際には投機的価値ゆえさらに増えている可能性がある)。
 しかしそこで疑問もわく。紙幣に価値を与えているのは国家による信用だった。では、ピカソマチスの絵に対し相応の経済的価値を保守しているのは、いったいなんだろう。それが美術史的価値という信用なのだ。人類の英知の歩みのひとつである美術史において、その絵画が行使する力が権威ある研究や調査、評論によって確定しているから、その稀少性が事後的に経済的な信用として付与されているのだ。
 このことにいち早く気付いたのが、マルセル・デュシャンだった。もしも美術作品の価値が実体ではなく信用にあるのだとしたら、信用さえ得られれば実体はなんでもよいことになる。事実、近代絵画は信用を得ているからその価値を疑われないけれども、元来はキャンバスに絵具を擦り付けただけの安価なものだ。安価なものが信用によって高価になる——この錬金術が近代美術の核心であるのなら、そのメカニズムをはっきりさせるためには、できうるだけ価値のなさそうなものが信用へと転化されるのがよい。立派な額縁に入れられた絵画や重厚な彫刻はそのことを忘れさせてしまう。それなら、いっそ便器のほうがいい。誰からも尊敬されず、むしろ汚がられる。しかも、街の店で気軽に誰でも手に入れられる。そんな「くだらない」便器に署名だけして、もしも美術館に飾ることができたら、それこそ安価なものが高価へと転化する近代美術のメカニズムそのものを透視することではないか、と。デュシャンによるこの企ては美術館への展示を拒まれることで失敗に終わったけれども、それから100年が経過した現在、その美術史的な信用は天井知らずのものとなっている。

 (……)クーンズが選んだのは、この風船ウサギを型取りし、ステンレス・スチールで鋳造し、さらにその表面を徹底的な鏡面仕上げにすることだった。ここで重要なのは、以下の2点だろう。
 1. ステンレス・スチールで鋳造したとはいえ、イメージの上ではもとの風船ウサギと根本的に異なるものではない。その証拠にビニールで膨らませた皺までもが克明に再現されている。風船ウサギの原材料はビニールだが、中身は空気にすぎない。鋳造された「ラビット」にどの程度、中身が詰まっているかどうかとは無関係なところで、モチーフが空気であることに変わりはない。つまり両者ともに問題とされているのは空気である。ところで空気には経済的価値がない。特別な空気なら値段もつくかもしれないが、クーンズがモチーフにしたのは口でも膨らませることができる空気である。そんなものに価値はない。便器でさえ価格はあっただろうが、誰もが息をして生活している(時に風船ウサギを膨らませることができるような)空気はまったくの無価値である。無価値なものが美術作品であることで経済的価値を得ることに成功すれば、それこそデュシャンの試みをより高い精度で達成することになる(ちなみにクーンズにはバスケット・ボールやアクアラング、ボートのように空気を原材料とするものが多い)。それこそアートのように純粋(=ファイン)なバブル=泡ではないか。とんでもない高価で売られるにもかかわらず、泡の原材料はしょせん空気なのだから。
 2. 鏡面に仕上げられたウサギの顔には、それを見る者の顔が映りこむ。つまり「ラビット」はその時々の当の作品への人々の反応(表情)そのものを映している。ゆえに「ラビット」の撮影は困難だ。作品を撮影するにはその前にカメラを置かなければならないが、そのカメラがどうしても作品の表面に映ってしまう。しかしこれは避けがたいことなのだ(上掲写真群でも確認できるが、ソナベントでの最初期の展示でも、よく見ると「ラビット」の顔に、台座の上にカメラを載せ、黒い幕をかぶって台座のうしろに身を潜める撮影者の姿を見てとることができた)。まだ若手の無名な美術家による作品として飾られた時、そこに映し出された顔と、時価100億円を記録したいま、(仮にこの「ラビット」を実際に見る機会があったとしての話だが)そこに映し出される人々との顔には決定的な開きがあるだろう。つまり、この鏡像そのものも「ラビット」の一部なのだ。「ラビット」はこれからも、無価値が価値へと転ずる近代以降の美術の錬金術の飛躍が大きければ大きいほど、そこに映し出される人々の顔の様子を変貌させていくだろう。この意味で「ラビット」は、時代を超えて持続する信用のあり方と不安、そして、それをめぐる時の経過そのものを「人間=ウサギの顔」を入れ子に彫刻しているのだ。

  • 部屋の床に掃除機を掛け、猛威を振るっていた埃の堆積をぶち殺した。
  • 四時過ぎ、臥位のまま読書を続けていると、窓外から母親の驚いた声が聞こえてきて、気持ち悪い、とか何とか言っている。ムカデでも見つけたのだろうかと思って窓をひらいて顔を出したところ、イヤフォンをつけた母親はこちらの呼びかけに気づかないまま、何やら携帯を地面に向かって構えており、どうも写真を撮っているらしい。何がいるのかよくも見えなかったのだが、まもなく地の上に動きが生まれ、草の方に滑り逃げていく生き物が視認され、トカゲだと判別できた。写真を終えた母親もこちらに気づいて、何か、共食いみたいな、などと言う。一匹のトカゲが別のトカゲを食っていたらしい。地に伏していたもう一匹も、多分食われていた方だと思うのだが、大した痛手ではなかったようで、そのうちに動きを取り戻してどこかに消えていった。
  • たまにはまだ明るいうちから外に出て風でも浴びるかというわけで、そのあと読書を切り上げてサンダル履きで戸口を抜けた。母親のいる南側の敷地に回ると、以前は所狭しとたくさん並べられていた植木鉢が大方片づけられて消えており、あたりは随分すっきりしていた。母親に、先ほどのトカゲの写真を見せてもらうと、確かに一匹が大口広げてもう一匹の頭を丸呑みにするような形で繋がっている。喧嘩でもしていたのだろうか?
  • しばらくその周辺で伸びをしたり、立位前屈をしたり屈伸をしたりと、身体の筋をほぐしながら風に当たった。空は無雲の淡白な一平面であり、風はひとときも消えることなく流れつづけ、すぐ南で(……)家の屋根の上に取りつけられた色とりどりの、柱を支えに縦に並んだ七、八匹の鯉のぼりたちも、体を宙に伸ばし浮かべて、軽くうねりながら絶えず泳いでいる。その家はまだ弱い陽射しのなかにあるので、鯉たちの鱗は遊泳のうちに時折り濡れて、つやめいている。
  • 畑にもちょっと下りてみた。今はジャガイモや水菜などを育てているらしい。最奥の区画には玉ねぎが、太くまっすぐな濃緑の葉を直立させつつずらりと列を成している。ジャガイモの皺ばんだ葉っぱにテントウムシが一匹いたので、しゃがみこんで間近に目を寄せ、しばらく眺めて様子を追った。オレンジ色のくすんだ脚は糸屑の細さなのだがそれでも葉っぱと体のあいだにわずかながらきちんと隙間があるので、しっかりと立って身を支えているわけだ。テントウムシは一向に動かなかった。何度か息を吹きかけてみても無反応だったが、それでも見ているうちに緩慢に、ほんの少しずつ脚を動かし、ようやくのろのろ移動を始め、その動きを見ていると、いかにも自然が組み立てた精巧極まりない極小の機械じかけの感が立って、つまりカジュアルな言葉を使えばすごく「メカメカしい」ありさまだった。テントウムシはじきに葉の端までたどり着いたので、飛び立つだろうかと期待を寄せて注視を向ければ、しかし翅は広がらず、虫はそのまま葉っぱの裏にのそのそ曲がって隠れてしまった。
  • 隣家、(……)さんの庭では薄ピンク色の、可憐なみずみずしさのハナミズキが盛りを迎えている。
  • 屋内に戻ってからアイロン掛けの用を片づけていると、外で鶯がよく鳴いて、泡を食ったような狂い鳴きもまま聞こえてくる。終えると夕食の支度。と言って母親が昼にカレーを作ってくれていたし、昨晩の汁物も余っていたので、あとは適当にサラダでも用意すればよかろうということで、キャベツや胡瓜や人参をスライスし、そのほか何なのかよくわからない、レタスみたいだがレタスそのものではなさそうな葉野菜をちぎって混ぜた。桶に水を注ぎこんで野菜をかき回し、一旦笊に上げたあと、さらにもう一度水に浸して置いておく。
  • 下階に帰るとギターで遊んだ。いつまでも、一弦が切れた不完全なギターなどで弾いていても話になりはしないのだけれど、ブルースを適当に散らかす遊びに没してしまい、一時間ほど費やす。

 「ディポーティズ」(https://www.woodyguthrie.org/Lyrics/Deportee.htm)は、第二次大戦後期から戦後にかけてのひどい労働力不足で、カリフォルニアの農園はメキシコからの出稼ぎ労働者を大量に導入していたが、一九四七年の収穫の頃、法律が変更されメキシコ移民は強制送還されることになり(強制送還される不法移民は収穫まで働いたにも拘らず賃金を支払われることもなかった)、翌一九四八年一月二十八日に多くの強制送還者をのせたメキシコ行飛行機がロス・ガトス峡谷に墜落する。新聞記事には死亡した乗客三十二人中四人のアメリカ国籍の白人の名が記されただけで、残り二十八人の犠牲者はただdepotees(追放者)二十八名と記されていただけだった、ウディ・ガスリーはこの新聞記事に衝撃を受け、この曲をつくったのである(https://www.youtube.com/watch?v=qu-duTWccyI)。

     *

 [一九七五年から七六年に掛けて行われた「ローリング・サンダー・レヴュー」ツアー中の一公演(一九七六年五月二三日、ヒューズスタジアム、フォート・コリンズ)について] ディランは現世的な都合(権益)で決められたにも拘らず、あたかも歴史的起源をもつかのように騙る国家秩序(その具体的現れとしての国境)に振り回され、移動を強いられ、利用される移民たちを、メキシコ国境でいまだ続くアメリカ国内問題と重ねて、歌っているのである。が、ゆえに移民は所詮、歴史的アリバイを騙っても目先だけの区切りにすぎない政治的秩序には結局は束縛されない。続いて歌われる“ I’m one too many mornings/And a thousand miles behind"(https://www.youtube.com/watch?v=3s_KYywhd_8&feature=youtu.be&t=1m23s)がこの流れをさらにひとひねりして、高みにあげる。一夜の和解(恋愛)を終えれば、再び、われわれは標識と境界線に縛られた現世に戻らなければならない、この束縛がつくりだす、さまざまな交差点、を生き延びていくことこそ、われわれの背負う十字架である。この(歴史を騙った)拘束の中で結局、君はこちら側で俺はあちら側であるということは逃れられない。けれど、われわれは、たくさんすぎるくらいの朝を迎え、千マイルも歩いてきたそういう人間である。だからこそ、きっと、またもうひとつ余分な朝を迎えることができるのだ。“ I’m one too many mornings/And a thousand miles behind"、いまだ訪れない、このもうひとつ余分な朝(それを持つのが人間である証だ)までも分類され、支配されることはない。われわれ移民は、このいまだ訪れない、もうひとつ余分の朝の中にこそ棲んでいるのだ。

 *よく知られているようにローリング・サンダー・レヴューは、まだレコードを出す前だったパティ・スミスとそのグループのクラブでの演奏にディランが衝撃を受けたことがきっかけになっている。ディランはパティとの共演を望んだが、パティは断った(http://alldylan.com/wp-content/uploads/2012/03/Dylan-adoring-Patti.jpg)。がディランはパティ・スミスの毅然とした姿に大きく影響され、長い間中断していたコンサートツアーを再び始めたのである。ノーベル賞授賞式でパティが(今度は断らず)、途中で言葉を失って中断しながらもローリング・サンダー・レヴューのテーマ曲でもあった「はげしい雨が降る」を歌った(https://www.youtube.com/watch?v=941PHEJHCwU)とき、われわれも感銘のあまり、言葉を失ってしまったのは当然である。われわれは何千マイルも歩いて何を見てきたのか?

I was out on the road when I received this surprising news, and it took me more than a few minutes to properly process it. I began to think about William Shakespeare, the great literary figure. I would reckon he thought of himself as a dramatist. The thought that he was writing literature couldn’t have entered his head. His words were written for the stage. Meant to be spoken not read. When he was writing Hamlet, I’m sure he was thinking about a lot of different things: “Who’re the right actors for these roles?” “How should this be staged?” “Do I really want to set this in Denmark?” His creative vision and ambitions were no doubt at the forefront of his mind, but there were also more mundane matters to consider and deal with. “Is the financing in place?” “Are there enough good seats for my patrons?” “Where am I going to get a human skull?” I would bet that the farthest thing from Shakespeare’s mind was the question “Is this literature?”

     *

But there’s one thing I must say. As a performer I’ve played for 50,000 people and I’ve played for 50 people and I can tell you that it is harder to play for 50 people. 50,000 people have a singular persona, not so with 50. Each person has an individual, separate identity, a world unto themselves. They can perceive things more clearly. Your honesty and how it relates to the depth of your talent is tried.(……)

 

  • 夜歩き。暗い大気は涼しく、ちょうど良いくらいの肌触り。右手北側に見上げた林の樹影の隙間に明かりがあって、初めは電灯かと思ったがまもなく、どうも月だなと見分けられた。随分と強くはっきりした明るさで、じっさい樹々が途切れると全貌をあらわし、空は日中からずっと変わらず雲を排して澄みきっているので、頼みの綱をなくした月はどうあがいても身を隠せない。昨日とおなじくまだ孤月、曲り月だが、前夜に比べて結構太くなった風に見えた。左を向けば公営住宅の棟の口で、煙草に憩うているらしい人の影があり、あたりからは虫のノイズが、電気機械のノイズと区別がつかないごとく無個性無色に乾いて詰まった翅の音[ね]が、道の途中にぴんと張られたテープのように差してくる。気温はだいぶ上がったらしい。
  • 十字路角の自販機にボトルを捨てつつ先を行き、坂を上ればひらいた空は鋼の青さとでも呼ぶか、雲がないから一面染みて、さながら青味をはらんで固まった鋼鉄板である。対向者が一人あり、男性で、おそらくは若く、コンビニに行ってきた風。進めば一軒の塀上に白い紫陽花が、果物めいてみずみずと咲き膨らんでいた。まっすぐ伸びた通りを抜けて表に向かって緩く曲がる角の垣根に躑躅が咲いていて、躑躅という花の質感には何となくぷるぷるとした弾力があり、水っぽいゼリーみたいにつっと吸いこんで食べられそうなと想像が立つ。特に白いやつなどそうだ。
  • 街道で、東から風が来る。歩いてきたので肉が温もって背は汗の気を帯びている。消防署まで来ると向かいの歩道でジョギングに励む姿があった。もう一人、対向者に年嵩と見える女性があって、その人はまだだいぶの距離があるうちに車の切れた通りを越えて向こうに渡ったのだが、こちらがマスクをしていなかったので、ことによるとこの時勢、何となく敬遠したのかもしれないなと思った。もちろん、単に渡ったほうが家に近かったとか、ただ渡りたかっただけということも充分考えられるが。
  • 街道を東へ進んでいくと、最寄り駅にはちょうど電車が停まっているところで、けれどその扉が残らずすべて開いている。(……)線では通常、電車の扉は閉まっておりボタンを押して開閉するのだが、コロナウイルス対策で停止のあいだは換気をしているということだろう。ただこの時勢でこの時間なので、乗客は多分、一人もいなかったように見えたが。その後、タクシー会社の前の自販機でコーラの缶を買う。もう一品何か買おうかとすぐそばの別の自販機も見たが、特に欲しくなるようなものがなかったので何も買わずにそこを離れ、道を横切り肉屋の脇から木の間の坂へ。入ってまもないあたりには緑の草むらのなかで薄紫やら黄色やら、あるいは白の細かな花が咲いていて、そのうち白いやつに対して身を屈めてちょっと目を寄せた。花弁の内部のほうに青と黄色の、アヤメの紋様を思わせる筋が入っていたようだけれど、何の花かはむろん知れない。それでのちほど検索してみたところ、これは多分シャガという花だったと思う。まさしくアヤメ科アヤメ属とあったので、連想の印象は間違っていなかったわけだ。坂道は昨日よりは乾いていたが、端の方に集まった葉っぱのあたりなど、まだいくらかじわじわと湿っている。コーラの缶が意外と冷えていて右手の指先を冷たく刺すので、持ち方をたびたび変えながら下りていくと、足もと左脇の草むらは以前よりも随分と厚くなった印象で道にはみ出してきており、野草や雑草と言うよりもほとんど畑で育った野菜のようなしっかりとした茎と葉の草が生えていて、採ればあるいは食べられそうである。
  • 「(……)」から始まる例の詩に多少の文言、あるいはアイディアを加えておいた。昨晩の寝床で、また今日の入浴中に考えた案。もっとも、まだ意味とイメージをおおまかにメモしておいただけで、言葉をきちんと成型したわけではない。
  • またしても怠けてしまって、一時半前からようやく日記を書きはじめ、四月九日分を仕上げた。分量としては全然少なかったのだが、途中でForeign Affairsについてなど調べだして、余計な時間を使ってしまった。一〇日の半ばまで書いたところで今日の一日が尽きる。やはりもっと早い時刻、昼間のうちから取り組まねばならない。