2020/5/2, Sat.

 (……)統計的には一九三三年から三六年までの「第一次四カ年計画」によって失業者が六〇一万人から一五五万人に四分の一近くまで減少したこと、一九三二年に最低水準であった国民総生産が三六年までに約五〇%上昇したこと、国民所得も四六%増大したことなど、彼が経済回復・景気回復に成果をあげたのは事実である。
 (對馬達雄『ヒトラーに抵抗した人々 反ナチ市民の勇気とは何か』中公新書、二〇一五年、10)



  • 一時四〇分まで鈍漫な寝坊に耽る。快晴で、暑い。昨日の夕刊には、今日の最高気温は二八度だとか書かれてあった。茶を注ぐ際に肌を張ってみたところ、空気に含まれている熱の感覚が既に夏を思わせるもので、五月になったその途端にいかにも初夏らしい。外では風が流れているようで、レースの白いカーテンの向こうで樹々の緑が黄色い光と混ざって明るく揺らいでいる。と見る間に、室内にもいくらか風は入りこみ、慎ましやかに身に触れてきながら肌をさらさら快く撫でてくれる。
  • 夕刊。一面に「コロナ最前線@北京」、【住宅地に「防疫隣組」/検温 出入り厳格管理】。「北京では4月15日を最後に新規感染者は確認されていない」ものの、例えば「北京中心部に位置する居住人口約1万人の集合住宅地「三源里社区」では、今も人の出入りが規制されて」おり、「通行証を持ち、体温検査をクリアした人だけが立ち入りを許される」。この出入検査を行うのは、「集合住宅地の一つ一つを単位とする「社区」ごとに住民の管理を担う共産党末端組織の居民委員会が組織した"ボランティア"だ」と言い、習近平国家主席も二月、北京市内を初めて視察した際に、「社区は防疫の最前線」だと述べたらしい。彼らはほかにも共用スペースの消毒や各家庭への宅配などの仕事もこなすということで、ボランティアの一人が「社区の安全と健康は、私たちにかかっている」と語るように、「組織の統制力」のみならず「個人の熱意」も一面では感染症対策に寄与しているようだが、「あまりに厳格な管理体制」に不満を抱く住民も当然いるわけで、「3月には市内の別の社区で、マスクをせずに門前まで宅配物を受け取りに来た住民が委員会のメンバーから注意されたことに立腹し、相手を押し倒して身柄を拘束された」などというトラブルも起こっている。
  • 日中から日記に邁進して四月一二日分を綴り、夜には一三日分にも入った。
  • 「bookbang」や「週刊読書人」のサイトから、気になった書き手や面白そうな本の書評記事を次々と「あとで読む」ノートにメモしておいた。
  • 夕食はまたしても筍の天麩羅。例によって父親が採ったらしい。そのほか蕎麦を茹でたのだが、これは隣のTさんの息子さんから貰ったと言う。息子さんと言っても親が遠からず一〇〇歳になろうとしているところだから、多分もう七〇代ではないかと思うが、彼は蕎麦屋をやっているのだ。悪くない味で、わりと美味い蕎麦だった。
  • 夜歩き。西方面へ進む。草木の吐いたものらしき匂いが大気のうちに、気温が上がったためにやはり多少濃く混ざっているようで鼻に触れてくる。月は先日と比べてだいぶ高くなり、形も厚みも半月ほどにまで膨らんでいて、道端からは虫の音が湧き、夏蟬の先触れ先達者、そんな感じでざらざらとしたノイズを撒いて騒いでいる。
  • 十字路の自販機で「Welch's まる搾りGRAPE50」の空ボトルを捨て、同じ品を買ってから先に進みつつ、まったく時間が過ぎるのがやたらに速いなあと思った。いつの間にかまた夜を迎えてもう散歩に出ているとは、まるで時間というものが繋がっているなどとはとても信じられないようであり、ラッセルが唱えたと言ういわゆる世界五分前創造説がにわかに信憑性を帯びてくるような感じだ。と言うかむしろ、五分前どころか、この世は一瞬ごと刹那ごとにその都度創造し直されているのではないか、というような感覚で、「時間が過ぎる」という捉え方そのもの、時間を持続として考えるものの見方そのものが、人間の認識によって生み出された途方もない錯誤なのではないかという気もしてこないではない。全然知らんので適当だけれど、ことによるとニーチェあたりは、(あるいは狂気を引き換えにして?)その外にある世界を垣間見ていたものかもしれない。
  • 坂を上ったあとで裏通りをまっすぐ進まず、今日は早めに街道に向けて細い急坂に折れたのだけれど、その入口傍で横の石段上から低木が大きく茂って張り出しており、しかし先日ここを通ったときにはこんなにはみ出していた覚えはない。何の樹だか知らないが、この数日で一気に育ち、膨らんだとでも言うのだろうか? 街道に至るそのすぐ手前の一軒にも随分大きな樹があって、梢が頭上を覆っており、その幹の太さにこの日初めて意識が行って、めちゃくちゃ太いやんと思った。ギリシア神話に出てくるような巨人の腕か太腿でも想像させそうな感じだ。何の樹だったかよくも見なかったが、樹皮のひび割れた模様からすると多分松の類だったろうか? 小学生の時分にこのあたりで松ぼっくりを拾った覚えもあるから、おそらくそうだろう。
  • 街道を行けば、向かいから流れてきた車が急にスピードを上げて大きく甲高い嘶きを立て、それが六台連続した。外観上の新しい古いには多少差があったものの、いわゆる「シャコタン」というものか、この言葉ももはや死語かもしれないが、いずれもことごとく車体の下端が低くて地面に近く、餅を上から押し潰して伸ばし広げたような、一様に平べったい姿を取っていた。多分、車で走るのが好きな、おそらくちょっとやんちゃな人種の仲間たちだろう。ほかに車通りがないのを良いことに、思う存分走り回って愛機を鳴かせることができるというわけだ。
  • 最寄り駅前まで来ると通りの向かいの道端に赤い花の茂みがあって、あの紅紫は、あれも躑躅らしいなと車道を挟んで目を送った。葉の緑と花の赤味でもって、粗い市松模様みたいな像を成している。それから今日も街道沿いを東へ歩き、習慣に拠って肉屋の脇から下り坂へ折れると、入ってすぐ横の草むらには黄色い花が増えており、顔を寄せてみれば、四弁が十字を描いているだけの実にシンプルな、飾り気のない花だった。帰ってから検索してみた限りだと、多分クサノオウという花だと思う。Wikipediaの記述によれば、「植物体を傷つけると多種にわたる有毒アルカロイド成分を含む黄色い乳液を流し、これが皮膚に触れると炎症を起す。皮膚の弱い人は植物体そのものも触れるとかぶれる危険がある」と言い、「全草に約21種のアルカロイド成分を含み、その多くが人間にとって有毒である」一方で、「古くから主に民間療法において薬草として使用されてきた歴史がある。漢方ではつぼみの頃に刈り取った地上部を乾燥させたものを白屈菜と称し、特にいぼ取りや、水虫、いんきんたむしといった皮膚疾患、外傷の手当てに対して使用された。また煎じて服用すると消炎性鎮痛剤として作用し胃病など内臓疾患に対して効果がある、ともされている。しかし胃などの痛み止めとして用いる際には嘔吐や神経麻痺といった副作用も現れる」らしい。「西洋ではケリドニンの中枢神経抑制作用を利用してアヘンの代替品として用いられたり、がんの痛み止めにも使用された。日本では晩年に胃がんを患った尾崎紅葉がこの目的で使用したことで特に有名である(……)」とのことだ。命名の由来については、黄色の乳液から取って「草の黄」となったのではという説のほか、「皮膚疾患に有効な薬草という意味で瘡(くさ)の王」、あるいは「皮膚疾患以外にも鎮痛剤として内臓病に用いられたことから、薬草の王様という意味で草の王」と呼んだなどと、諸説あるようだが、それにしてもあのような小さくささやかで慎ましげな花に対して「王」とは、また随分大仰な名づけである。「属の学名 Chelidonium は、ギリシャ語のツバメに由来する。これは母ツバメが本種の乳液でヒナの眼を洗って視力を強めるという伝承に基づいている」というのも面白い。そのほか、タンポポが何個か綿毛のドームを、カプセルを、バリアーを、ATフィールドを、あるいは魂を、惑星を、この地球の最小の縮図をと、どんな比喩で言っても良いのだけれど、ともかく冠毛を無数に結合することで構築された綿球をふっくら丸々と拵えていた。
  • 坂を出て自宅へ向かうあいだに、一瞬だったが和笛の音が家並みのあいだの宙に響いて、祭囃子のメロディを作った。おそらくSさんの宅で吹いていたのだろう。今日は本来ならば、青梅大祭の一日目だったのだ。
  • Ibrahim Maalouf『Diasporas』。Ibrahim Maalouf(tp)、Alex McMahon(electronics)、Francois Lalonde(ds / perc)などの演者。ほか、ウードやブズーキ、またカーヌーン(Kanun)とかいう楽器や、ヴァイオリンやチェロなどの弦楽器が曲によって入っている。Maaloufという人は何と、『アラブが見た十字軍』とか『アイデンティティが人を殺す』(小野正嗣訳)などの著書がちくま学芸文庫に入っているアミン・マアルーフの甥なのだと言う。まさかここが繋がるとはまったく思っていなかった。
  • Sさんのブログ、二〇二〇年一月一五日。マーク・ファリーナなる名前は初見である。テクノとかハウスとかドラムンベースとかそういう、クラブ系の音楽と言ってしまって良いのかわからないけれど、そういった方面についてはいままで全然触れてこなかったのでまるで知らない。

ハウス・ミュージックにおけるマーク・ファリーナのサウンドは、他のDJとは一味も二味も違っているように思われる。ふつうに聴いていると単に陽気で能天気な、いかにもな四つ打ちのパーティー音楽に聴こえるのだが、なにしろ元曲の分解度が半端じゃないというか、とにかく一曲がずたずたに、粉々に粉砕されて、細かい切り身になった要素が再び強引に結びつけられて、ズレをはらみながらも危うく元の一曲としての均衡を保ちながら無理やりビートに乗せられている感じで、テイストとしてはぜんぜん違うけど、それこそJ Dilla的な世界と通じ合うところもある気がする。なまじ明るくて陽気な雰囲気なので、まるでげらげらと笑いながら、深い部分で手の施しようもなく狂ってしまっている感じがして、そういうとこが好き。

  • 青空文庫」を何となく閲覧して、気になった作家や文章の記事を大量に「あとで読む」ノートに追加した。樋口一葉などやはり読んでおきたい。
  • Bill Evans Trio, "All of You (take 2)"(『The Complete Village Vanguard Recordings, 1961』: D2#3)を聞く。開幕すぐに、思ったよりもベースが膨張的と言うか存在感が強いと言うか、低音部が思いのほかに膨らんでいるという印象を受けた。テイク一と比べてのことだろうか? 先日聞いたときの記憶が定かでないのだが、予想していたよりも意外と、という感を得たのは事実だ。そのテイク一はとにかくドライブ感が凄まじかったのだけれど、それに比べるとテイク二はおとなしいと言うか落ち着いているような感じがあって、緊張感みたいなもの、あるいは音楽的結合の統一性は、ことによるとテイク一よりも緩いかもしれない。まだしも隙間があるような印象だけれど、そういう感じ方がもし当たっているのだとすれば、それは一つにはおそらく、Paul Motianがスティックに持ち替えないまま最初から最後までずっとブラシで通しており、なおかつ基本的に二拍四拍のハイハットをきちんと保ち、一貫して崩していないからだろう。また、もしかしたら全体のテンポもテイク一よりいくらか遅いのかもしれない。そうした諸要素が作用したものか、ピアノソロの終盤でEvansがまっすぐ駆け上がった瞬間など、クラシック音楽的なニュアンスと言うか、慎ましやかな怜悧さに貫かれている室内楽みたいな均整の感覚が一瞬生じた。そのような印象に引きずられたのかもしれない、ベースソロも何となくやはりちょっと落着き気味で、知性を用いてやや抑えながら構築しているような感触を得た。終盤、テーマに戻ってからはMotianが、あれはハイハットのオープンなのか何なのかわからないけれど、ツッ、ツーッ、という短音と長音を組み合わせた二音単位の、目立って装飾的なシンバルの響きを四回くらい、いかにも彼らしく根拠の見えない気ままなタイミングで差しこんでいて――最初の三回は大体同じくらいの間隔を置いて連続していたはずだが、最後の一回だけそこからちょっと間が空いたと思う――それが毎回、聞くたびに印象的である。
  • Horace Silver, "Blowin' The Blues Away"(『Blowin' The Blues Away』: #1)も聞く。ソロはまずJunior Cookのテナーサックスだが、ソロよりもHorace Silverのバッキングの方が思いのほかに元気いっぱいで、細かくリズミカルに打ちこんでおり、こんなに活発だったのかと気づかされた。いかにもファンキーな、弾むような伴奏のつけ方である。一周ごとに結構アプローチを変えているのも聞き取れて、手札も意外と多彩なのだなという印象を持った。サックスソロの中程ではドラムもピアノの強調的なリズムにシンバルを合わせに行っており、Cookはソロ全体も短いし、そうしたバックの活気に負けてしまっているような感じを受けないでもない。この曲ではまあ、トランペットのBlue Mitchellの方に軍配が上がるのではないか。Silverのピアノソロは、主役なので管楽器よりもだいぶ長めで、同じフレーズ形式、同種の音形を活用しながら巧みに展開していく場面が多くてわかりやすいし、なおかつ嵌まっている。全体に渡って弛緩しておらず、余計な音もなく気持ち良く跳ねていて、充実したソロだと思う。ピアノソロのあとは管楽器の細かなチェンジが交錯し、その後サブメロディと言うか、テーマに回帰する前のキメとなるユニゾンがあって、リズムのブレイクとともにテーマメロディが戻ってくるのだが、このユニゾン・ブレイク・テーマの流れは見事に格好良く決まっていた。
  • 四時二〇分に床入りしたものの、眠りは全然やって来ない。まったくもって退屈だ。夜の、夜と言うかもはや明け方だが、一日を終わらせるための眠りというものは、この上もなく面倒臭い。眠りの訪れをただ待つだけの瞑目の寝床では、今日の出来事を思い返したり、詩句をちょっと考えたりするくらいしかやることがない。外では鳥がもうことさら熱心に、ひっきりなしに、絶えることなく鳴いている。ウグイス、カラス、ヒヨドリ、そのほか知識不足で名前と結びついていないものたち。彼らはこの夜明けから、昼日中を通過して、夜中までではないにしても少なくとも暮れ方まではずっと、とどまることなく鳴き続けるわけだ。それが鳥の労働であり、まあ言ってみればおそらく本能でもあり、もしかしたら思考ですらあるのかもしれない。この地球上に、鳥という種族が生息していない土地はあるのだろうか? 彼らの鳴き声が響かない大地が。
  • 今日は書抜きや「英語」及び「記憶」記事の復読をできずに終わったが、とは言え久しぶりに音楽をきちんと聞けたのはとても良かった。音楽に耳を傾けるという時間は、やはりとてつもなく面白い。一日に二曲だろうと一曲だろうと良いので、確実に時間を取っていくべきだろう。疑う必要のない完璧な真理だが、音楽を鑑賞するという行為は、この現世においてもっとも豊かな時間の一つである。


・作文
 14:51 - 16:24 = 1時間33分(12日)
 19:08 - 20:02 = 54分(12日)
 21:17 - 21:35 = 18分(12日)
 23:29 - 24:24 = 55分(13日)
 26:40 - 27:13 = 33分(詩 / 2日 / 13日)
 計: 4時間13分

・読書
 16:24 - 17:40 = 1時間16分(シェイクスピア『夏の夜の夢・あらし』: 74 - 159)
 24:24 - 25:36 = 1時間12分(シェイクスピア『夏の夜の夢・あらし』: 159 - 181)
 25:38 - 26:07 = 29分(日記 /ブログ)
 27:37 - 27:46 = 9分(蓮實)
 計: 3時間6分

・音楽
 27:46 - 28:18 = 32分

  • dbClifford『Recyclable』
  • Ibrahim Maalouf『Diasporas』
  • James Levine『James Levine Plays Scott Joplin
  • Bill Evans Trio, "All of You (take 2)"(『The Complete Village Vanguard Recordings, 1961』: D2#3)
  • Horace Silver, "Blowin' The Blues Away"(『Blowin' The Blues Away』: #1)