2020/5/8, Fri.

 すでに触れてきたが、ナチ政権は党シンパ「ドイツ的キリスト者」の「帝国協会」派を後押しし、福音派教会全体をナチ化しようとした。告白教会はそれに反対して結成された。それは信仰闘争として始まったが、ユダヤ系信徒を庇護する反人種闘争、教育界からの聖職者の排除に対する教育闘争の側面もあった。これにさらに障害者抹殺への高位聖職者たちの抗議、戦争協力の説教の拒否という行動も加わった。この点ではカトリック教会も同様である。
 これにたいしてナチ当局は逮捕、強制収容所への拘禁、教会財産の没収、さらに戦時下には懲罰的な前線送りなどの弾圧をもって応じた(福音派のばあい牧師総数一万九〇〇〇人中、三〇〇〇人が投獄され、約八〇〇〇人が兵役に就き一八五八人が戦死したという)。また一九三七年以降、ドイツ社会に反宗教の気運をつくろうと、ヒトラーユーゲントを先兵にした教会の排斥運動、宗教教育放棄のキャンペーンも大々的に繰り返されていた。
 にもかかわらず、帝国教会をのぞく福音派教会とカトリック教会はナチズムに順応せず、キリスト教信仰を守る唯一の砦、ナチ化されない存在でありつづけた。しかも戦況の悪化とともに、教会離脱者が減り、逆に教会信者が増えていった。そのためヒトラーの意をうけて、強硬論者の党官房長ボルマンも教会解体を戦後の課題に先送りしたという。
 こうした事態の推移を注意深く見ながら、[ヘルムート・ジェームズ・フォン・]モルトケ、ヨルクそれにメンバーの政治学者オットー・フォン・ガブレンツ(一八九八―一九七二、戦後ベルリン自由大学教授)たちは、国家のあり方について議論しはじめていた。最初は彼らも、国家を「個人の自由の庇護者」と位置づけて、信仰にしろ、宗教倫理にしろ、個人的問題という前提から出発した。だがこの前提そのものがあまりにも現実から遊離したものであることを、自覚せざるをえなかった。
 ポグロムに始まり、戦時下のユダヤ人やシンティ・ロマ人の強制移送、ホロコーストの進行、民族絶滅というすさまじい戦争犯罪、ナチ犯罪を問うべき司法の崩壊、無関心をよそおう国民大衆の態度が現実を覆っている。人権の抹殺と暴虐のかぎりをつくす不法国家とそこで利己的に生きる人びとを前にしながら、これまでのように世俗的な国家を絶対視するのは単なるフィクションではないのか。最悪の現実世界を無視して、形式的な政教分離にとどまる議論だけではすまないはずだ。宗教倫理はもはや個人レベルにとどめおくべきではなく、国家的なレベルでも、つまり世俗の権力をも絶対的なものとはしない「神の国の尺度」(キリスト教倫理)が必要とされているのではないか。こう考えるようになった。
 (對馬達雄『ヒトラーに抵抗した人々 反ナチ市民の勇気とは何か』中公新書、二〇一五年、182~184)



  • 一一時頃に覚醒した。窓の外はこれ以上ないほどの快晴であり、ほんのひとひらも塩一粒ほども雲のない完璧な無雲領域いっぱいにまろやかな水色が満ちていて、それを背景にガラス表面の汚れが、本当は黒点のはずだがその黒さを吸い取られて漂白されたように銀髪めいて白く輝き、掃除などまったくしていないので汚れはひどく溜まって無数に付着しており、光の作用でそれが一面砂子を敷かれたように見え、その上でところどころ、やや大きめの粒が浮かんで銀光し、全体はさながら地上に移植された天の川、まさしく宇宙の縮図めいて映る。その絵を描かれたガラスの先では蜘蛛の糸が風に震え、白く固まって姿を現したり背景の空に没したりを素早く行き来し、様相間の往復運動を繰り返していた。
  • 風呂洗い。窓を開けると、隣の空き地に立った旗が絶えず身をうねらせて、その足もとにははっきりと濃い影が地に投げかけられて同じように軟体動物めいており、林の外周部の樹々も明るい緑で緩やかに波打っている。
  • ベランダで日光浴をしながら書見。シェイクスピア/大場建治訳『じゃじゃ馬馴らし』(岩波文庫、二〇〇八年)。手もとのシェイクスピアを色々読んでいて、まだ何作か残っているものの、なぜか何となく、次はカフカを読もうかなという気になった。熱に包まれ浸されて汗を肌に浮かべながら読むなかに、林の葉擦れが時折り響いてくる。
  • 職場にメールを返信。オンラインはやはり「性に合わないので」、対面授業を担当する方針で行きたいと伝えつつ、なおかつ「その場合、仕事がないならないで、致し方ないと思っております」などと殊勝ぶった言を加えたが、むろん本当は仕事がないほうがむしろ有り難いわけだ。わがままを言って申し訳ないが何とかご寛恕を、と言って締めておく。「寛恕」なんて言葉、生まれてきて以来初めて使ったわ。結果、承知しましたとやすやす受け容れられたので、これでもうしばらくはニートできるわけだ。有り難い有り難い。対面授業の再開は、六月以降になるのではないかという見込みらしい。
  • (……)
  • (……)さんのブログ、二〇二〇年二月二九日。バッタについての言及。やばくない? 東アフリカから新疆まで移動するの? と言うかそんなに長距離を移動できるのだったら、普通に日本もやばいのではないか? 海は渡れるのだろうか?

 (……)どんつきにある駐車場を兼ねた空き地――子供の時分はたびたびここでバッタを捕まえたものだ、というかバッタで思い出したのだけれども東アフリカの蝗害がやばいのだった、大群はこのままさらに数を増やしつつ新疆に達するという予測があるらしいのだが、中国としては踏んだり蹴ったりではないか? というかすでに絶滅した種であるらしいのだが「ロッキートビバッタ」はWikipediaによると「比類を絶する大群をなして移動することで知られ、特に1875年の大発生時は、広さにして51万平方キロメートル (19万8千平方マイル) にわたり、コロラド州の面積2倍相当(日本の国土全体の1.3倍以上)の規模であった。これは一説によると質量にして2750万トン、個体数にして12兆5千億匹と推定され、「史上最大の動物の群集」としてギネス世界記録に登録されている」らしく、まったくもってあたまがおかしいとしかいいようがない――(……)

  • 夕刊。一面、「コロナ最前線@ブリュッセル」、【欧州議会がDV避難所】。「EU欧州議会は4月27日、ブリュッセルにある議会施設の一部を、DVなどで行き場を失った女性の一時避難所として提供し始め」、「普段は職員が利用する部屋を約100人分の宿泊室に改装したほか、浴室や洗濯機を設置し、食事も提供する」とのこと。「欧州議会のダビド・サッソリ議長は声明で「困難な時には、自分たちが働く都市で社会的に排除されている人々を助ける義務がある」と述べた」と言う。古き良き欧州的価値を我々は確固として守っていきますという決意及び確信を明瞭に表明した良心的な発言という印象で、ヨーロッパの政治家は(少なくともそのうちの優れた人々ならば)こういう基本的なところがきちんとしているのだろう。このようなアピールは、とりわけ現在のような「危機」的状況ではやはり必要だと思う。
  • 三面には【米司法省/フリン氏の訴追取り下げ/露疑惑 大統領の政治的勝利】の記事。「米司法省は7日、2016年米大統領選を巡るロシア疑惑偽証罪に問われた元大統領補佐官(国家安全保障担当)のマイケル・フリン被告(61)の訴追を取り下げた」。「司法省は7日に首都ワシントンの連邦地裁に提出した文書で、17年1月に連邦捜査局(FBI)が行ったフリン氏に対する聴取は「合法的な捜査の根拠を基に行われたとは納得できず、供述が虚偽だとしても重要だったとは考えられない」と指摘した」らしい。 「フリン氏は17年12月、駐米ロシア大使との接触に関してFBIに虚偽の供述をした罪で訴追された。いったんは罪を認め、司法取引でロバート・モラー特別検察官(当時)の捜査に協力したが、現在は無罪を主張している」。
  • (……)の「(……)」を読んだところ、五月六日の記事に「家早何友」という言葉が出てきて、何だこれは? と思ったら、「いやはやなんとも」ということだった。永井豪に『イヤハヤ南友』という漫画があるらしいのだが、多分それを元ネタにしているのではないか。(……)氏はいま、『鉄筋コンクリート建築の考古学』という本を読んでおり、建築についてこちらは何も知らないので、「ペンデンティヴ構法」とか「シマン・アルメ構法」とか、何が何だかわからない単語がいくつか出てくる。人名としてはアナトール・ド・ボドーというものが登場しているのだが、検索してみるとこの人はヴィオレ・ル・デュクの弟子だとかあった。このデュクという名は聞いたことがある。と言うのは、たしか『失われた時を求めて』のなかに出てきたのだったと思うのだが、しかもプルースト、と言うか語り手は、この建築家の中世建築の修復ぶりを批判し、それにけちをつけていたような覚えがある。

ではなぜフランス思想なのか、フランス思想など、一部のオタクのジャルゴン的思想の最たるものじゃないのか、こういわれそうです。もちろんそれにはさまざまな個人的来歴はあるのですが、そんなことはいっさい省くと、やっぱりここ百年くらいのフランスの哲学というのは、軽薄だとか流行にすぎないとかいわれながらも、思考のかたちとしては大したものではないのかと想うのです。たとえば私が、<私>ということのリアリティー、<生きている>ことのリアリティーを何とか語ろうとしたときに、フランス思想は、時間・身体・経験・制度からはじめて、ことば(記号)・こころ(精神)・いのち(生命)に結びついていくさまざまな位相の襞や連関を丹念に明らかにしていくという傾向が強いとおもうのです。それはよくフランス思想の弱点だともいわれますが、これらの主題が切りはなされることなく結び突いているありかた、たとえばメルロ=ポンティの<両義性>でもいいですしベルクソンの<直観>でもいいですが、それは、さまざまなものが錯綜したことがらの原理をそのままに提示する強力な手段であるとおもうのです。明確なシステムをなしているとみえながらも、システムそのものが自身を裏切るような虚点をはらみ、そこでシステムそのものが流動する・・・それで、われわれにできることは、この錯綜を錯綜のままエクリチュール化せずに(それだと中途半端に流れに身をゆだねるエッセイの思想にすぎないですから)、彼らが何をいっているのか、その錯綜した原理性をできるだけモデル化してとりだすことだとおもうのです。(……)いい方をかえれば、たとえば私のあり方だとか、リアリティーだとかを語るときに、私の特異な・一回限りのこの生、私にしかえられなかっためくるめき体験・他者(たいていは神)との事件のような(実は選民的な)出会い、他者に毀損されないかまたは焼き付けるように毀損されるがままの内面性、これらを不意に、不用意にいってしまう傾向は結構根強くあると想うのです。

ところが20世紀のモダニスムは、この内面への捉えられから、どのように外にでるか、それをどうして対象化するのか、要するに酔いながら醒めるのか、これを描くことに本質があるように見えるのです。フランス思想は、実に他面的な結びつきで(科学・精神分析・言語・政治・制度)、この<内面>の<特異さ>の感覚を大事にしながらも、そこに拘泥して不毛な自己反復言語にとどまるのではなく、何かをやろうという実験に見えるのです。特異性・個別性を廃棄して普遍性・一般性に、というのではありません。特異なものがあって、あるいは<いま・ここ>でしかないことがあって、そのリアルさの切っ先のようなものが確かにあるのですが、それを<内>にも<無底>にも<曖昧さ>にもからめ取られるのではなく、<普遍>との包摂関係でどうにかいえないか、というのがともあれ重要なことです。無数に増殖していく蟻の大群のようなものがあって、それを押し流していく風のつよさ、季節の転換、環境の変化、大時代的な変動があって、一匹一匹の蟻は、それにはかなくものみこまれてしまう存在の一項にすぎないのだけれど、おそらくは蟻という<私>である動いている視点のみをとるのではなく、一面では風や季節の中に全面解体されながらしかも生きているその状態を描ききることが必要だとおもうのです(……)

浅田 7月7日のトークが豪雨でキャンセルされたのを、さすがは粘り強い島袋さんらしく、「せっかくだから次の土曜にやろう」というので、7月14日にやった。

島袋 今度それが猛暑だったわけです。人が動きたくないようなね。

浅田 京都市でも連日38度の暑さになった、その猛暑の最初の日です。トークの後、JR学研都市線で大阪に行くつもりが、京田辺のちょっと先の四条畷駅でレール温度が59度を超えたので…。

島袋 レールが曲がっちゃったんですよね。

浅田 というか、その危険があるので、59度を超えたら自動的に運行停止になるらしい。それで、やむなく京都市に戻ったんです。

     *

浅田 ついでに、予備知識として歴史的な文脈をざっと復習しておくと、室町幕府3代将軍の足利義満がいまの金閣寺鹿苑寺)を含む華麗な北山第をつくり、8代将軍の足利義政が、政治的には応仁の乱(1467-1477)に突入するなか、いまの銀閣寺(慈照寺)を含む東山殿をつくる。そこで、人類史上最も洗練されていたと言いたくなる宋の白磁青磁や窯変天目のような陶磁器、書画、禅や朱子学、その他さまざまな文化を摂取して、北山文化・東山文化が成立し、そこから能や茶の湯などが生まれて来る。要するに、宋の洗練をさらに日本で洗練した時代です。
 荒っぽく言うと、それを1回ひねったのが15世紀の一休で、さらにもう1回ひねったのが16世紀の利休と言ってもいいんじゃないか。そのあげく、たとえば中国で高温焼成された最高級の窯変天目のようなものに対し、手で土をひねって焚火で焼いただけのような楽焼の茶碗のほうがいいんだということになる。つまり、茶道のわびさびの文化を最初から素晴らしいものと考えてはいけないので、あれは技術的にも美的にも最高に洗練された北山文化・東山文化を前提とし、それをあえてひっくり返したものなんです。その無茶苦茶な価値転倒をやってのけたのが一休であり利休であると思えばいいんじゃないでしょうか。

     *

浅田 むろん、一方的に威張るのではなくて、逆説に次ぐ逆説で相手を翻弄するタイプの人でしょう。仏教の修行だけではなく、若いころから漢詩で認められ、和歌も詠んだ。「有漏路[うろじ]より無漏路[むろじ]へ帰る一休み 雨ふらば降れ 風ふかば吹け」(煩悩に満ちた現世から、死んでなのか、悟ってなのか、煩悩のない来世に至る一休み、雨が降るなら降れ、風が吹くなら吹け)という歌を詠み、それを認めた師の華叟宗曇[かそうそうどん]が道号にしてくれたんだけれど…。

島袋 そう、そのときの「一休み」が一休という名前の由来と言われています。

浅田 修行のあと悟ったと認める印可状を師から渡されると、そんなもの要らないよと言って勝手に出ていく。あとは、放浪ですよね。

島袋 当時、そういう印可状を左券 [さけん] といったらしいんですけど、そういう肩書で生きている禅の坊さんも多い時代だったらしいんですよ。

浅田 特に兄弟子がそうで、大徳寺の住持になって威張っているが、禅の精神などまったくわかっていないと、ぼろくそに言うわけね。

島袋 そうですね。兄弟子は、18歳ぐらい年上の養叟宗頤[ようそうそうい]という人ですね。

浅田 朱太刀像といわれる一休像があるけれど、朱塗りの鞘に入った木刀を持ち歩いていた、それは「悟ったようなふりをして威張っている禅僧は実は使いものにならない木刀である」という嫌味だ、と。

島袋 見かけ倒しだ、と。

浅田 他方、自分は漢詩を書くときの号も狂雲子。

島袋 自分のことを、狂った雲だ、と。

浅田 で、どんな内容かと思ったら、美少年にも飽きたからいまはもっぱら女三昧だ、俺に会いたかったら色街に来い、みたいなことが書いてある。で、77歳にもなって、森[しん]という鼓を打って歌を歌う盲目の女性と出会い…

島袋 50歳ぐらい年下の盲目の恋人が最後に出来るんですよね。

浅田 88歳で死ぬまで同棲する。ふたりの愛の営みも流麗な漢詩に書いちゃうわけですよ。

島袋 書いているんですよね。枯れ木にも花が咲くみたいなことを。

浅田 円相の中の一休像の下に森の描かれた肖像画もあって…。

島袋 泉北にあるやつですね。

浅田 そう、堺より南にある忠岡町の、町工場や畑の点在する一画に、相国寺あたりにあってもおかしくない室町の書画の名品を集めた正木美術館というのがある、そこのコレクションだけれど、円相が盲目の女性の夢のようにも見えて、魅力的な絵です。

島袋 これは墨斎という、もしかしたら一休さんの息子じゃないかとも言われている一番弟子みたいな人が描いたやつなので、本人にいちばん近いんじゃないかと言われている肖像なんですけど、これが87歳。88歳で亡くなる前年ですね。このとき、やっぱり墨斎に、生きている自分の木像をつくらせ、自分の毛やひげを抜いたのを移植させているんですね。それが一休寺にあるものです。

浅田 真珠庵にもひとつあるけれど、いずれにせよ異様な迫力がありますね。そもそも、昔は絵でも彫刻でもリアリズムからは遠く様式化されたものが多いけれど、仏教で師から弟子に渡される頂相 [ちんぞう] という肖像だけは、昔から一貫してリアリスティックなんです。仏教は単に本を読めばすむ学問じゃなく、師と弟子の一対一の間身体的関係の中で伝えられるものだからでしょう。昔はリアリスティックに描けなかったのではない、意識して様式的に描いていたのだけれど、頂相だけはほかならぬその人のリアルな分身でないといけなかったんですね。(……)

     *

島袋 袈裟といえば、一休さんの話で大好きなのがあるんです。あるとき法事があって、一休さんは最初、髪はぼさぼさ、洋服もぼろぼろの格好で出かけたそうなんですよ。そうしたら中に入れてくれなかった。そこで上等の袈裟を着て出直していったら、今度は、どうぞどうぞと言って招き入れられた。そして法事が終わって食事を出されたときに、一休さんはお膳の前の座布団の上に自分が着ていた上等の袈裟を畳んで置き、自分は食べずに横でもそもそしていた。「どうして食べてくれないんですか」と聞かれたので、「いやいや、あなたは自分の中身じゃなくて袈裟に価値を見出したわけだから、このご飯は袈裟に食べさせなきゃいけない」と言ってお膳に手をつけずに帰ったという話があるんです。

  • 上の逸話は、『正法眼蔵随聞記』中にある藤原頼通のエピソードとまったく同じである。

(……)亦云く、宇治の關白殿、ある時鼎殿に到て火を焚所を見玉へば、鼎殿是を見て云ふ、いかなる者ぞ案内なく御所の鼎殿へ入ると云て、追出されて後、關白殿先の惡き衣服等をぬぎかへて、顒々として裝束して出たまふ時、さきの鼎殿、はるかに見て恐れ入てにげにき。時に殿下、裝束を竿の先にかけ拜せられけり。人これを問ふ。答て云く、吾れ他人に貴びらるヽこと我が德にはあらず、只此の裝束ゆへなりと云へり。(……)
 (https://eiheizen.jimdofree.com/正法眼蔵随聞記/正法眼蔵随聞記-続/; 6-11)

  • 引用続き。

浅田 ともあれ、はっきりした確証はないけれども、わび茶の創始者とされる村田珠光(真珠庵や虎丘庵の庭も彼の作とされる)も、一休に学んだと言われるし…。

島袋 そうそう。村田珠光は面白い人で、一休さんの弟子なんですけれども、居眠り癖のある人で、座禅をしたら悪気はないんだけど寝てしまう人だったので、「僕は修行したいのにどうしたらいいか」と聞いたら「濃いお茶を飲んだら起きていられるんじゃないか」と言われて、そこからお茶に入ったらしい。それが千利休まで続いていく。

浅田 もともと栄西が中国からお茶を持ってくるわけだけれども、明らかに眠気覚ましだったんだと思いますよ。そういう意味で実用的なものだったお茶を、「茶の湯」というアートに転換していく。一休のかけたスピンがそこで効いてくるとすれば面白いですね。

島袋 そうですね。とにかく一休さんは当時の芸術家にすごい慕われているんですよね。

浅田 足利義満に寵愛された世阿弥能楽を大成するんだけれど、その女婿の金春禅竹[こんぱるぜんちく]は一休に学んだと言われ、酬恩庵でも能をやったらしい。あるいは連歌師の柴屋軒宗長[さいおくけんそうちょう]も一休に学び、一休の死後は酬恩庵に住んで菩提を弔った。

島袋 どうしてなんだろうと少し調べてみたんですけど、能楽師とか連歌師というのは要するにフィクションに関わる人たち、言ってしまえば嘘をつく人たちじゃないですか。それは仏道に外れるんじゃないかという悩みが当時の芸術家にはあったらしいんですよね。それに対して一休さんは、いやいや、そんなことはない。フィクション、つまり嘘の中にも仏道はあるんだということをはっきり言った。それで当時の芸術家が一休さんの周りに集まったというふうなことを知りました。

浅田 さっきの大雑把な話に戻ると、15世紀の一休の後、16世紀に利休が出てきて、一休と同じ堺や大徳寺を舞台としながら、茶道具のみならず、書画や花、建築や作庭に至るすべてを含んだ茶の湯の文化をアート・ディレクターとしてつくりあげていく。またそれが現代美術にもつながっていくわけですよ。

島袋 僕もそう思います。だから、今日なんでこんな話をしているかというと、ヨーロッパとかで美術をやっていると、すぐ「始まりはデュシャン」みたいなことになるんだけど、僕は「始まりは一休さん」と言いたい。自分のコンセプチュアル・アートの始まりは一休さんだ、と。

     *

浅田 能と歌舞伎、伊勢神宮桂離宮日光東照宮、つまりはミニマリズムバロックという対立があるとして(もちろん本当はそう簡単な話ではないけれど)、後者はわかりやすいんですよ。いまだと伊藤若冲とか村上隆とかかな。じゃあ前者はどうなっているかというと、いま世界の人たちは安藤忠雄の「住吉の長屋」や杉本博司の「海景」なんかにそれを見ているんじゃないか。それはそれで悪くないけれど、スタイライズされた様式として受け取られていて、本当はそこにも働いている逆説や転倒の力学はあまり理解されていないような気がする…。

     *

浅田 いまちょうど京都国立博物館雪舟の「慧可断臂図[えかだんぴず]」が出ていて、コレクション展示は空いているのでゆっくり眺められます。達磨が壁に向かって座禅しており、手前で慧可が弟子入りを願い出ている…。

島袋 達磨の後ろに立っているやつですね。

浅田 そう。だけど、慧可が手を出しているように見える、よく見るとそこに赤い線が入っていて、それは切断した腕を差し出しているのだとわかるんですよ。何度願い出ても、達磨は壁を向いたまま振り返ってもくれない。それで、自ら腕を切断して命がけの覚悟を示し、それでやっと入門を許される。そこで達磨が振り向く直前の場面が、太い輪郭線である種ブラック・ユーモアをたたえたマンガのように大胆に描かれているわけです。言ってみれば、作者の雪舟も、描かれたふたりと同じくらい過激にやろうとしている。そこには一休の激越さに通ずるものがあるんじゃないか。墨斎の達磨像も悪くないけれど、それと比べても雪舟のこの達磨像は破格ですよ。

     *

島袋 暑いときどうしていたんでしょうね、一休さん。そしてこれが「華叟の子孫、禅を知らず」。

浅田 華叟というのが師の華叟宗曇。

島袋 そして華叟の子孫というのは、18歳年上の兄弟子、養叟宗頤のことを言っている。あいつは禅なんかわかってない、「狂雲面前」、つまり狂った雲である自分の前で誰が禅のことを語れるんだ、30年間俺は肩の身が重いぞ、自分ひとりで松源以来の禅の伝統を背負っているんだぞ、と。松源というのは、華叟さんよりずっと前の代の師匠にあたる中国の僧です。一休さんはすごい自信満々の人なんですよね、俺にしか禅はわかっていないというようなことを言って。

浅田 宋に渡って臨済宗松源派の虚堂智愚 [きどうちぐ] から禅を伝えられた南浦紹明 [なんぽしょうみょう] (大応国師)が大徳寺なんかの禅の祖だ、その流れを汲む自分は虚堂の直系だ、ほかのやつらは形だけで本当の禅を継承しているとは言えない、と言い続ける。嫌なやつだよね。

     *

島袋 [一休宗純「七仏通戒偈」中、「諸悪莫作・衆善奉行」部分について]ここのかすれても気にしないところとか、いちばん最初の「諸」という字の伸びている感じとか。吉増剛造さんの書く「ノ」にちょっと共通しているところがありますね。

浅田 ただ、吉増剛造には一休の書の男性的な切断力はあまり感じないな。だいたい、吉増剛造はイタコみたいな詩のだだ漏れ状態になっていて、イタコを見ていると面白いという意味で若い人たち吉増剛造をキャラクターとして面白がるのはわからないでもないけれど、詩人としてはどうなのか…。

島袋 そうですか。僕にとっては尊敬する芸術家のひとりですが。(浅田さんの言葉で言うだだ漏れになるほどの日々の積み重ねみたいなものは僕にはやはりすごいと思えるのです。)

浅田 僕がマラルメ的な詩のパラダイムに縛られすぎているのかもしれないけれど、だだ漏れで溢れ出る生きた言葉の洪水を死の冷気によって凍結し数学的に構造化するからこそ詩が成立するんだと思うんですよ。詩でもアート作品でも、作者のキャラクターを超えたところで非人称の構造として成り立っていないとダメじゃないか、と。いずれにせよ、一休は全身で禅を生きた人だとして、だだ漏れではない、むしろ切断力の人だと思うな。

島袋 切断力。どういうことですか。切るということですか。
 
浅田 うん、切るということ。修行をしたこともするつもりもないからよくはわからないけれど、禅というのは一言で言えば切断でしょう。例えば、無心で庭を掃き続けていて、石がこつんと竹に当たったときに、ふと悟るとか。

     *

島袋 これ、[ナム・ジュン・]パイクさんは「エスキモーとしての自分」というタイトルを付けているんですけれども、カナダでつくられた作品です。これ、顔と腰をよく見てほしいんですけど、顔に変な線を引いているでしょう。もにょもにょもにょって変な線を引いている。こういうところに僕はぞくっと来るんですよ。腰に至っては、この塗り方。ディテールですけど、こうは塗れないなというか、何かすごいなと思うんですね。きれいに塗ろうとかじゃなくて、ヘタウマでもないし、ヘタヘタみたいな。ヘタヘタのすごさ。僕にとってはこれがいちばんなんですよ、ヘタヘタ。
 ヴィデオの作品をやるじゃないですか。あの人、自分でインスタレーションしたものって、電気のコードをぐちゃぐちゃにしたままなんですよ。いまだったらコードを見えないようにしたり、きれいに束ねたりするでしょう。パイクさんはぐちゃぐちゃ。絡まったままで、それが結構、田中敦子の絵みたいになっていていいんですよ。よくこんなままにしておけるなというところがあって、僕はその辺に感動するんですね。

     *

島袋 黄永砅[ホワン・ヨンピン]は1980年代半ばに、厦門(アモイ)だったかな、中国の地方で中国のダダイズムみたいなことをやっていました。彼も最初意識していたのはまずやっぱりマルセル・デュシャンジョン・ケージなんですよね。彼らに対してどう落とし前を付けるかみたいなことをやっていて、1989年にフランスのポンピドゥー・センターで開催されたジャン=ユベール・マルタンの『大地の魔術師』展に選ばれたことが中国国外に出るきっかけになった。で、そのまま亡命しちゃったんです。『大地の魔術師』展というのはすごく大切な展覧会で、僕がいまヨーロッパのいろんなところで活動しているのも、その展覧会があったからとも言えると思います。

浅田 まあ、そうでしょうね。

島袋 西洋人の現代美術と非西洋人の美術を初めて一緒に展示したと言われている展覧会で、すごく重要だと思うので皆さんもノートにメモして家に帰ってから調べてみてもいいものだと思います。
 当時天安門事件とかあったころですから黄永砅はもう帰りたくないと言って亡命した。いまもフランスにいて、ヴェニスビエンナーレのフランス館の代表にも選ばれました。

     *

島袋 あと、もうひとり、一休さんで思い出すのはデイヴィッド・ハモンズです。ハモンズは1990年前後に一気に有名になった、アメリカで最初の非白人アーティストのひとりだと思います。『大地の魔術師』展より少し後ですけれども。そのころ、片一方で黒人のアーティストにはジャン=ミシェル・バスキアがいた。バスキアというのはさっきの話でいう桃山文化みたいな人ですよね、どっちかといったらデコラティヴな。社交界とかああいうところで、いまでもたくさんお金出して買う人がいる。

浅田 グラフィティをうまくアートに持ち込んだ。しかし、他のグラフィティ・アーティストと違って、最初からアート・ワールドで通用する作品を目指したし、良かれ悪しかれ作品がうまく仕上がっている…。

島袋 いまでもバスキアはみんな知っているでしょう。その反対側にハモンズがいて、アメリカの黒人のアーティストからはいまでもものすごい尊敬を得ている人で、これ何しているかといったら、冬のニューヨークで、雪でつくった雪玉を路上で売っている。もちろん買ったところで、家に持って帰ったら溶けてなくなるし。でも、これって逆に言うと、いま僕たちは形がなくならないと思っていろんなものを買うけれど、何年か後には潰れてしまったりするだろうし、そういうのをニューヨークというすごい資本主義の場所であざ笑っているみたいなところがあると思うんです。この作品を僕が20歳ぐらいのときに知ったときは衝撃でしたね。
 デイヴィッド・ハモンズは90年代後半に日本にレジデンスで来ていたことがあるんですね。東京の青山にあったギャラリーシマダが招待して、山口県にしばらくいたことがあって、そのとき僕は偶然会う機会があって、少し話したりしたんですけど、そのとき名刺をもらったんですよ。今回思い出して、探したら見つかって、写真撮ってきました。

浅田 これは傑作だね。

島袋 神妙な顔して名刺を出されたんですけど、これ、僕だけじゃなくて、当時いろんな人に渡したのだと思います。日本に来ると、名刺交換ってすごいするじゃないですか。あれが彼にはすごい不思議で、ばかげたものに見えたんでしょうね。だから、「名刺」と書いた名刺をつくって、それを名刺交換のときに出している。これも彼のひとつの作品だなと思います。20年ぐらい前にもらったんですけど、きのうたまたま見つかって。裏返すと、「CARD」と書いてある。一応英訳もしているんです。