2021/1/16, Sat.

 助手がどういう人物か知るには数時間接するだけで十分だった。三〇歳で、結婚したばかりで、トリエステ出身だが、祖先はギリシア人で、四ヵ国語に通じ、音楽と、ハクスレイ、イプセンコンラッド、それに私のお気に入りのトーマス・マンを愛していた。物理学も愛していたが、ある目的を持った活動にはすべて疑いを抱いていた。だから気高いまでに怠惰であり、本性からファシズムを嫌悪していた。
 彼の物理学への態度は私を当惑させた。彼は実験室で目の中に浮かべていた、「二次的な無意味な活動である」という考えをはっきりとした言葉で表明して、いささかのためらいもなく、私の最後の幻想のかけらを打ち砕いてしまった。私たちの慎ましい実験だけでなく、物理学全体が、その本性からして、召命において、見せかけの宇宙に規範を与えるよう定められているという意味で、二次的なものである。一方、真実、現実、事物や人間の内奥の本質は他の場所にあり、一枚のベールに、あるいは七枚のベールに被われている(何枚と言ったか、はっきりと思い出せない)。彼は物理学者、正確に言えば宇宙物理学者で、勤勉であり、熱意にあふれているが、幻想は抱いていない。真実ははるか彼方にあり、望遠鏡では近づけない。入会儀礼を受けたものだけが接近可能だ。それは長い道で、彼は苦労しながら、深い驚きと喜びを覚えつつ、その道のりをたどっている。物理学は散文だ。優雅な頭の体操、被創造者の鏡、人間が惑星を支配する鍵だ。だが被創造者の度量、人間、惑星の度量はどれくらいあるのか? 彼の道ははるかに長く、まだ入会儀礼を終えたばかりだ。しかし私は彼の弟子だ。彼に従うべきなのだろうか?
 (プリーモ・レーヴィ/竹山博英訳『周期律――元素追想』(工作舎、一九九二年)、89~91; 「5 カリウム」)



  • 「ある目的を持った活動にはすべて疑いを抱いていた。だから気高いまでに怠惰であり、本性からファシズムを嫌悪していた」。
  • 六時のアラームで覚めたと思うのだが、アラームを耳にしたおぼえがないのだ。ただ、たしかに六時には覚めていた。起き上がるにはそれから半頃までかかったが、二度寝をしたわけでもなく、昨晩脚をほぐしたおかげでからだの感じはかなり軽かった。時間がないので瞑想はせずに上階へ。母親に挨拶し、髪を梳かしうがいをしてから焼豚と一緒に卵を焼いた。いつもどおり黄身が固まらないうちに丼の米の上に取り出し、醤油をかけて混ぜて食べる。さっさと食って片づけると下階にもどり、早朝、出勤前にコンピューターを準備したり日記を書いたりしている余裕はないので、それだったら書見しながら足の裏を刺激しようというわけで、ベッド縁でハーマン・メルヴィル千石英世訳『白鯨 モービィ・ディック 下』(講談社文芸文庫、二〇〇〇年)を読んだ。三〇分。それでわずかに柔軟したあと、着替えてもう出発。腹を軽くしておきたかったのだが、トイレに入って便器の上に腰掛けても腸が動かなかった。母親も今日はちょうどおなじくらいに仕事に出るということで車に乗せてもらうことになっていたのだが、彼女はこちらが上がってきた時点ではモタモタしていたのに、こちらがトイレに入っているうちに支度を済ませて外に出て、車に乗りこんでおり、トイレを出て玄関を開け、鍵をかけていると家の前に停まった車の内から急かすような身振りを見せてきて、こちらが助手席に乗ったあともなんとか文句を漏らした。また、道中、隣から、マスクはとか昼過ぎまでとか訊いてくるのだが、その声が大きく、くわえて矢継ぎ早なのでうるさく、朝時でまだ活力を帯びていない頭にさわるようで、思わず、うるせえよとつぶやいてしまったのだけれど、全然大きな声でなく、荒いトーンでもなく、一粒のかすかなつぶやきという感じの声になっていたので良かった。母親はそうかとこたえてしばらく黙っていたのでそれも良かった。
  • 駅に近い通りの途中で降ろしてもらい、職場へ。今日は日中一八度になるとか言われていたのだが、朝はやはり空気がけっこう冷たいので、つけていなかったマフラーを首に撒いた。空は淡い色の晴れ。(……)そこで保護者とやりとりをするのもわりと疲れる。一応ある程度はまっとうな人間としての社会的な役割をもとめられるので。つまり、声とか口調とか言葉とかを多少装わなければならないので。しかも電話だから身体性が希薄な声と言語のみでそれをやらなければならないし、相手の身体性も見えないので。
  • (……)
  • 天気も良いし、歩いて帰ることに。年金を支払うためにコンビニに寄った。年金もさっさと口座振替にしなければならないのだが、書類を記入して事務的な手続きをするというのがこちらは本当に嫌いというか、マジで何の興味も湧かないというか、そもそも興味うんぬんの問題ではないと思うのだけれど、まったくやる気にならずやろうと思ってもすぐに忘れてしまい、ずっと放置している。しかしそろそろきちんとやらなければならないだろう。(……)
  • 金を支払うと、徒歩で帰った。天気は良い。正午をむかえたばかりの光はまぶしく、一八度まで上がるとかいうのは本当のようで、そのなかにあれば、モッズコートを着ていては暑いくらいで、のちには汗の感触が服の内の肌の上や尻のあたりに発生するのも感じた。疲労感はそこそこにある。そう豊かにも寝ずに朝から働けばそうなりはする。歩いているあいだはおりおり自分をしずかにするよう意識するのだが、気づけばすぐに散漫な物思いのほうに流れている。とはいえやはり歩く時間は取ったほうが良い。ひとにとって必要なのは、ひとりで、ゆっくりと、余裕を持って、しずかに歩くことである。歩行とは、きわめて単純かつ良きこと、太古以来のうつくしきことなのだ。ローベルト・ヴァルザーもそのように書いている。どこで書いているのか? 「散歩」のなかにおいてである。「そう、足で歩いてゆくというのは、この世のこととは思えぬほどに美しきこと、良きこと、太古以来の単純なことなのです。むろん、履いている靴、長靴が整っていればの話ですが」(ローベルト・ヴァルザー/新本史斉、フランツ・ヒンターエーダー=エムデ訳『ローベルト・ヴァルザー作品集4』鳥影社、二〇一二年、232)。ヴァルザーの作品集をすべてまた読み返したいし、彼が書いた文章はどれでも、どんなものでもすべて読みたい。ヴァルザーは長距離の散歩をよくしたらしい。そのときには常に、降っていようと晴れていようと、黒い傘をたずさえていったらしい。たしかに背広にそうした装いのヴァルザーを映した写真はインターネットを検索すればいくつか出てくる。彼はまた、ベストの一番上のボタン(だったと思うのだが)をはずしておくということに強いこだわりを持っていたらしい。それを留めてしまうと何か不吉で良くないことが起こりでもするかのように、このボタンはかならずはずしておかなければならないのです、そうでなければならないのです、と言っていたらしい。しかしなぜそうなのか、その理由はわからない。彼は精神病院に入ったあと、小さな紙片に言葉を書きつけているところを目撃されているが、その姿を見られていることに気づくと、まるで恥ずかしいこと、道徳に反することでもしているところを発見されたかのように、すぐに、そそくさと紙片をポケットに隠してしまったらしい。これはゼーバルトが『鄙の宿』のなかで、テレビか何かで見た情報、精神病院でヴァルザーの世話をしていた看護士か誰かの証言として記していたことだ。ところで、レベッカ・ソルニット『ウォークス 歩くことの精神史』も読みたいと前から思っているのだが。しかし、ただ、勤務に向かうときだと、どうしてもそのあとに勤務があるという意識が、つまり何時何分までには着かないといけないという意識や、職場に着いたらこういうことをやらなければならないという頭が、自認していなくともかならず心身に侵入しているので、行きよりは労働が終わって、いつまでにかならず帰らなければならないという義務感に支配されず、心身に余裕が生まれる帰路を歩くようにしたほうが良いかもしれない。

 ……そうした過激な手立てを見ていくなかで、私の胸をとりわけ揺さぶったのは、数か月前にフランスのテレビ番組を見たときである。ヨーゼフ・ヴェールレという、スイスのヘリザウの精神病院でヴァルザーの看護人をしていた人の話だった。ヴァルザーは、当時文学は完全に背を向けていたものの、いつもチョッキのポケットにちびた鉛筆と手製の紙片をしのばせていて、ちょくちょくなにかメモをしていた、というのである。ところが、とヨーゼフ・ヴェールレは続けていた、人に見られていると思うや、ヴァルザーはまるで悪いことか恥ずかしいことでも露見したかのように、そそくさと紙片をポケットに押し込んでしまった、と。……
 (W.G. ゼーバルト/鈴木仁子訳『鄙の宿』白水社、2014年、6; 「まえがき」)

  • 白猫はいなかった。街道に出て陽の照る歩道を行き、北側から南側に渡ったところで、そのときこちらの居場所は日蔭だったような気がするのだが、目の前にある一軒の、低い石段の上に生えた草木の取り合わせに光がかかっており、とりわけそのなかの、地表面を埋めている緑色の、髪の毛をちょっとまとめた細い束を集めたような、ゆるいアーチ状の曲線を描いている無数の草たちの、その低い上下運動の線描の軌跡の集合があかるみに触れられて際立っているのが目に留まり、おいおい、マジかよと思った。それから裏道に入っていっても、植物というのはやはりすごいというか、あらためてその色彩とかたちをじっくりと見てみると、いつもびっくりさせられるような、肌をちょっとふるわせられるような具体性をどの一体も、どの部分もそなえている。ガードレールの向こうの斜面下から伸び上がった杉の樹の、その葉の緑色でさえ、ある部分とべつの部分とでは、その色調がかすかに異なっている。(……)さんの家の前、道脇の段上をススキやら何やら草たちが占領して、冬色と複雑怪奇な形相を混淆させているのがすごかった。そのまますすんで下り坂に入ればガードレールの外を交錯している草と木のその隙間は彼方に、川の水が太陽を押しつけられて、もはや銀色ですらなく真白くかがやく金属板となっているのが見え隠れし、その金属板はしかも表面が、色の内がこまかくちらちら泡立つように揺れている。坂の右側、林からいくらか突出してならんでいる葉叢の肌理を見てみても、まいったなというか、植物というものの、やはり複雑さということになるのか、非還元性というか、アメーバ的なところというのか、形がないわけではまったくないのだが、しかしなんの形を成しているとも言えないような要約不能性にはあらためておどろかされる。植物はそのどのひとつを取っても、怪物というか物の怪みたいなところがある。くわえて植物がすばらしいのはそれだけ複雑でありながらやはり意味がないこと、まったくないとは言えないだろうし、ときに積極的に人間領域の性質を帯びることもあるだろうが、しかしすくなくとも押しつけがましくないところで、それは最高だ。それと比べると人間は、どんな人間でもだいたい、存在自体がすでに押しつけがましい。善人だろうが悪人だろうが、何をしていようが、自分だろうが他人だろうが、存在しているだけでもう大方押しつけがましい。本当にまずしくてあさましい生き物だと思う。
  • 帰宅すると手を洗ったりうがいをしたりして、室に帰って書見した。ボールを踏んだり寝転がったり。さすがに眠くなって、途中いくらかまどろむ。一時半で食事へ。母親がつくっておいてくれた五目ご飯を食べる。新聞から何かしらの記事を読んだはずだが。それは国際面だったと思うのだが。しかしどの国について読んだのか、記憶が蘇ってこない。何か別の面を読んだのだったか。いや、そうだ、たしか一面に載っていたと思うが、厚生労働省の諮問委員会みたいな組織で、知事の入院指示を拒否したり、保健所の調査を拒否したりした感染者に罰則を課すという案がおおむね固まったみたいな話があった。委員のなかからは重大な人権侵害だとか罰則の実効性が明確でないとか反対意見も出たというが、厚労省の担当者は、罰則が可能になったとしてもすぐに適用するわけでなく、政府の感染対策の有効性を担保するための措置だ、みたいな説明をしたらしい。罰則は入院拒否がたしか一〇〇万円以下の罰金もしくは二年以下の懲役だったか? 保健所拒否が五〇万円以下の罰金とあったような気がする。
  • 食後、洗濯物を始末。もどって二時半から書き物。昨日の生活を記述。三五分経って三時を回ったところで、からだがかなりこごっていたので調身した。だいぶ丁寧になったようで、一時間使った。それだけやれば相応の効果はある。難しいのは背というか、背面は全体に難しいが、わけてもちょうど肩甲骨の合間あたりの背骨の周辺である。ここはなかなか和らげる方法が見つからないでいたが、のちほど試したところでは、やはりひねりの動きが良いのかもしれない。すこし前から腰や背骨をやわらげるために上体をひねる運動を導入しなければと思っていたが、それが良いような気がする。横方向のストレッチというのはあまりやらないからおろそかになってしまうのだ。しかし、普通に立って、横を向き、そちらにある棚なりなんなりにつかまって姿勢を維持するだけのことだ。
  • 日記をさっさと書きたいところではあったのだが、今日は七時半から職場の会議がオンラインであり、したがって音読をできる時間的領域がすくない。それなので声を出せるうちに先に読んでおくことにした。「英語」を五〇分間。悪くなくて、意味がしっかり、かなり明晰にと言って良いほどに認識できたのだが、ただ読み方自体はややはやくなったり、たびたび噛んだり、うまく発音できなかったりして粗かった。それなのに意味はおのずと頭に入ってくるのだ。
  • 上階へ。五目ご飯と汁物があったのでもうそれで良かろうと。茹でてあったほうれん草のみ絞って切った。母親はフライパンでメカジキか何かをソテーしだしたのだが、火をつけたままどこかに行ってしまうので、それもこちらが焼く。そうしてもう食事。新聞からは、めずらしく政治面を見た。たしか小松なんとかいう名前の九州大学名誉教授だったかが、日本学術会議はやや偏向気味だと批判しているような記事。二〇一七年に学術会議は軍事目的の研究はしないという点を再確認して声明を出したらしく、この人はその検討委員会みたいなものに参加しており、策定の文言の調整などをしたようなのだが、この人の考えでは、軍事目的の研究はしないからと言って自衛にかかわるような研究まで禁じてしまうのは良くないということで、またそもそも最近だと、民生的な研究と軍事にかかわる研究の境が区別しにくくなってきている。衛星技術やネットなどはむろんその例である。また、軍事目的の研究を一律に禁ずるとなると、国産の武器開発などをできなくなるが、現実自衛隊は存在しているわけで、防衛の必要もあるわけで、武器はいる。で、海外産の高価な武器を調達しているともちろんそれだけ費用がかさんでしまうから、国内での武装の研究開発は必要ではないかという立場を提示していた。それで議論の場で、「軍事目的の研究」というのは具体的にはどういうことか、自国防衛にかんする研究も含むのか、そのあたりを議論するべきだと何度か訴えたが、聞き入れられなかったということだった。話し合いのなかで、ある学者に対して、それでは自衛隊はいらないということですか、と訊いたところ、必要ない、すべて話し合いで解決するという返答が来たというエピソードも語っていたが、これが正確な情報なら、さすがにそんなことはあるまいと言わざるをえないだろうと思う。この小松教授の意見では、学術会議は、たぶんとりわけ科学技術系の分野にかんして言っていたと思うが、民間企業で研究をしている人や、大学組織以外の研究者をも含めて代表するような人員選考になっておらず、一部の学者によって意思決定されているのが実情だ、という話だった。だからそのあたり、全国のさまざまな研究者の意思をもっとうまく反映できるような仕組みにするべきだと。
  • 食事を終えて部屋にもどるとまた日記。昨日の記述をすすめ、七時で完成。投稿。会議は七時半過ぎからでもう時間がないので活動を切り上げ、一〇分だけ柔軟をしてから、ビデオを映すと聞いていたので一応服を着替え、ジャージではなくて普通のシャツの姿になり、隣室に移動した。まだ数分あったのでそこにある錆びつきまくったテレキャスターをいじって待ち、時間になると知らされていた番号を入力してZOOMにアクセス。しばらくまた待つようだったが、じきにひとが集まってはじまった。
  • (……)
  • いかに中学三年生を受験が終わって高校に入って以降も通塾させつづけるかというのが毎年の大きな課題なのだけれど、これはもう要するに、その塾、ひいては個々の講師たちに生徒をなつかせるということに尽きると思う。通塾継続もそうなのだが、普通に授業の効果を上げて知識をおぼえさせ、学力をアップさせるという方面にかんしても、(……)さんもよく言っているけれど、こちらになついてもらうということが基盤的に肝要なのだと思う。知識を確実に頭に入れさせるにはたいていの場合は復習をして以前当たったところを繰りかえし扱って何度も触れるしか方法はほぼないと思うのだけれど、生徒たちのほうは当然それは嫌がるわけである。なぜか彼らは、一度やった問題はもう一度やらなくても良いと無条件に思いこんでいることが多いので。しかし、よほど脳細胞のスペックが高い人間でなければ、反復をしなければ知は身につかない。生徒たちが嫌がる反復をスムーズにおこなうには、個人的な信頼関係がその前になければならない、というわけだ。ただ、なんというか、個人的に仲良くなろうとしたとして、無理に近づくというか、成績を上げてもらい塾の業績や経営に資するためというような、ある種の下心のみでそうしたところで、あちらはこたえてこないだろう。邪心はバレる。若くおさない一〇代の子どもであるとはいえ、相手は人間である。そして、人間をなめて軽んじてはいけない。だから、生徒たちの成績を上げてひいては職場の業績や評判をもアップさせるという経営上の目的にいくらかなりとも貢献しようと思ったら、結局は、生徒たちを個々人としてよく見、対峙し、誠意を持った関係を築くということが、おそらくは一番の方法になる。こういう結論に至るあたり、こちらは性根としてやはり優等生だなと思うのだが、こういう風に考えて、ひとりひとりの相手にとって、もちろん全員におなじように力をそそぐことはできないが、自分のできる範囲で良いことを試みようと思うことはままある。同時にときには、もう面倒臭えし人間を相手にする仕事などうんざりだから、公園の植木を世話する仕事にでもうつりたいと思うことも非常によくある。
  • いまこの時間における自分の言葉と行動が、いま目の前にいる相手のこれからを、それほど大きな割合ではなく微小な部分であるにせよ、しかし多少は左右することになるかもしれないということを、きちんと自覚的に意識しつづけながら言葉と行動を決定するというあり方が、曲がりなりにもものを教える人間であるということの意味ではないのか?
  • ちょうど一〇時に会議は終わり、入浴へ。出て(……)さんのブログを見ると一四日がこちらの誕生日だったことに気づいており、何か用意しなくてはとあったので、こちらの誕生日などどうでも良いので『(……)』に傾注してくれと送っておいた。(……)と(……)くんも何か送ってくれるらしくて、ものをもらえること自体はありがたいのだけれど、こちら自身はこちらの誕生日というものにまるで興味が湧かず、本当に心の底からどうでも良いと思っている。三一になったからどうということも特にない。誕生日とはフィクションだ。そして、そのフィクションは現時点では、こちら自身にとってほぼ意味を持っていない。
  • (……)さんのブログの最新記事のタイトルになっている「まどろみを竈門にくべる明日から天気予報はあてにならない」という一首を一読した瞬間、なんかわからんが良いなという感覚が立った。よくわからないのだが、意味と語の結合のあいだの隙間のひろさというか、ひとつひとつの部分のあいだにゆったりと、余裕をもってスペースがはさまれているような感じがあって良かった。それでいてなおかつ、たしかに結合はしているわけである。たぶんこういう余白の手触りというか、手を差しこめるような空隙の感じというのが、散文と対比した場合の詩の特質というものなのだろう。散文というものはことの性質上、もっと緊密に結びついていなければならず、詩に比べれば紋切型として固まっていなければならないので。詩という言語のつらなりがある種の人々を誘いこみ魅惑するのは、そういう風に、語と語のあいだの空白に手を差しこんでそこから色々なものをつかみ取ってこれそうな、そこに何かがひそみ隠れ息づいていそうな予感をもたらすからだろう。それが解釈の誘惑というものなのだろう。
  • 午後一一時。万が一職場に見つからないうちに、過去の日記の読み返し兼検閲をさっさとすすめないといけないなというわけで、二〇二〇年の元日からそこそこ大雑把に読みはじめた。固有名詞や、個人情報にすこしでもつながりそうな事柄はもう基本的に検閲していくつもり。二〇二〇年一月一日は、その一年前、鬱病様態から回復して書き物を再開したばかりの二〇一九年元日に(……)さんに送ったメールを引いていて、それが原点回帰的な内容となっている。

 (……)自分は日記を書くことによって、つまりはこの世界から意味を読み取ることによって、自分の生に意味を与えているのだと思います。絶え間ない生成の差異/ニュアンスを取り込むことによって、生命を活性化させているとも言えるかもしれません。
 ちょうど一年前の日記でも考察したことですが、自分の生の隅々まで隈なく目を配り、それを言語化するということは、こちらにとっては書くことと生きることの往還のなかに自分を投げ込み、それによって、彫刻家が鑿を使って木や石から像を創り上げるように自己を彫琢し、洗練/変容させて行くという意味合いを持つものだと思います。短く言い換えればそれは、自己を芸術作品化して行くということです(ミシェル・フーコーが晩年に追究していた主題です)。それはさらに換言するならば、自己のテクスト的分身を作り、それとのあいだに相互影響関係を築くということですが、要するにテクストそのものになりたいということ[﹅18]、それがこちらの欲望の正体なのかもしれません。

  • 「この世界から意味を読み取ることによって、自分の生に意味を与えている」はそう悪くないが、「絶え間ない生成の差異/ニュアンスを取り込むことによって、生命を活性化させている」はやや胡散臭い気がするし、イメージや考え方としてありがちでもある。「書くことと生きることの往還のなかに自分を投げ込み、それによって、彫刻家が鑿を使って木や石から像を創り上げるように自己を彫琢し、洗練/変容させて行く」は、一応そのとおりだとは思うが、これもありがち。「自己を芸術作品化して行くということ」もわかりやすすぎるが、いまだこちらにとっては一定の魅力を持った定式ではある。「テクストそのものになりたいということ」も安直だが、しかしこの一文のなかではこの一言が、いまだにやはり、どうしても、もっとも心惹かれる言葉かもしれない。
  • 2020/1/2, Thu.も。おのれの死をもっと思い、その厳然たる事実性を引き受け意識しながらいまを生き、今日の行動を決めなければならないと言っている。発想としては実にありふれたものだが、これは要するにハイデガーだろう。いまからしてみるとそのマッチョさがいくらか気に入らないし、そんな風に意気込んだところで、強い意気込みなど人間いつまでも続けられるわけでないのだから、もっと自然な、無理のない状態としての営みを目指していかないと、それは遠からず破綻する。「つまりは、死というものをもっと思わなくてはならない、ということだ。死の方から己の生を見つめるということ。ということは、別に明日死ぬかもしれない、という事柄の、「明日」が本質的な問題ではないということだ。そうではなくて、明日なのか数十年後なのか、いつかは知れないが、いつであろうとも自分はいずれ必ず死ぬ[﹅18]という確定的な事実の、そのリアリティをもっと感じるようにしなければならないということだろう」という部分だけはちょっと面白かったというか、何かしらの手触りのようなものを一抹感じはした。今現在の自分はこういう言説に同意はしないが、しかしむしろいまのほうが、ここで言っている死を思う、とか「死の方から己の生を見つめるということ」を実践できているのではないか? という気もする。なぜそう思うのかはわからないが。ハイデガーがまちがえたというか、彼がナチスに親和してしまったのは、死を思うところから生の本来性に反転して、それを熱情的に、雄々しく追究するという、その反転の、極から極への思考の動態ゆえだったのではないか? 明確な根拠はない、あやふやな印象にすぎないが。死を思うところまでは良かったのではないか。そこから本質主義に一気に走るという論理展開がまずかったような気がする。だから、「死の方から己の生を見つめるということ」の、何かべつのかたちを構想しなければならないのではないか。『存在と時間』も何も、ハイデガーの文章をひとつも読んでいないくせにそんなことを言っていても仕方がないが。

 (……)新聞も読まず、テレビも点けず、一人で黙々と食べながら、もっと鋭さと言うか、徹底性みたいなものを纏わなくてはなるまいなと考えた。昨日読んだ(……)さんのブログの記事にも書いてあったが、自分は明日死ぬかもしれないというありそうもない可能性をほとんど現実的に捉えて現在の行動を決めると言うか、明日死ぬとしたら今自分は何をやるか、という物事の観点をリアルなものとして引き寄せるというか、そういう厳しさが必要だと思ったのだ。だらだらしてはいられない。宮本武蔵が何か似たようなことを言っていなかったか? 坂口安吾が書いた宮本武蔵論のなかに関連するような記述があったような気がする。と思って今、坂口安吾堕落論・日本文化私観 他二十二篇』の書抜きを調べてみたが、それらしい記述は見当たらなかった。この文庫本(岩波文庫)は確か、既に売り払ってしまったはずだ。ともかく、話を戻すと、明日死ぬかもしれないという可能性を、半ば現実のものとして身に引きつけて行動を定めるという話なのだが、これは発想としては非常にありきたりな、誰でも考える類の事柄である。しかし、こうした発想を現実のものとして、リアルなものとして生き、実践できる人間はまずほとんどいないだろう。それに近づかなくてはならない。だからと言ってしかし、生に急いではならない。焦る必要はないのだ。急いだり、焦ったりすることは禁物である。ただ、つまりは、死というものをもっと思わなくてはならない、ということだ。死の方から己の生を見つめるということ。ということは、別に明日死ぬかもしれない、という事柄の、「明日」が本質的な問題ではないということだ。そうではなくて、明日なのか数十年後なのか、いつかは知れないが、いつであろうとも自分はいずれ必ず死ぬ[﹅18]という確定的な事実の、そのリアリティをもっと感じるようにしなければならないということだろう。自分は死ぬ。自分は死ぬのに、今、これで良いのか? ということだ。この実に明快な単純性。そういう思考形式を、リアルなものとしてインストールし、実践していくこと。しかしそれは結局、残された時間というものの有限性の観点から、有益な事柄と無駄な事柄とを峻別して取捨選択する、という行動様式に繋がらないか? いや、俺が目指したいのはそういうことでもないのだよな。そういう効率性の権化みたいなことを目指したいわけではないのだが。ではどういう様態を目指すのか? 有益/無駄の二項対立を解体しながらも、死という現実[﹅2]のリアリティをもっと切に身に引き寄せるということ。ひとまず今はその点に留まっておこう。
 さっと米一杯を平らげると、皿を洗って、続いて風呂も洗った。風呂を洗いながら考えたことに、死を思うという話の続きなのだが、それによってもっと厳しく生きることが実現したとして、それは自分のことのみにひたすら邁進するということではない。他人や、社会や、世の中というものから要求/要請される義務的な事柄も同様に、こなしていかなくてはならない。社会から離反してはならないし、離反することなどおそらくはできない。ただ、外見上/表面上、何と言うか、世間的な価値観から照らしても受け入れられるような人間であること、一面としてはそれが求められる。しかし同時に、ある種訳のわからないと言うか、無償的な存在でもあること。この二面性が肝要だと思われる。イメージで語るならば、仮面をつけるのだが、装うのだが、その仮面を時折りは、自ら〈指差す〉(「外す」のではなく)、敢えて指差してみせる、ということ。〈明晰な狂気〉である、というのは、イメージとしてはそんな感じか。

  • 二つ目の段落に書かれてあることは現在でも同意だし、むしろより賛同するところがある。おのれの特異な営みを粛々と続けながら、同時に、世間一般的な価値基準から見て常識人でなければならないと思う。他者もしくは共同体からの要求や要請を、ある程度、どころかある程度以上高度に、満たしていかなければならないと思う。仮面をみずから指差すというここにあるイメージは、フーコーがどこでだか忘れたがデカルトについて書いていることと、バルトが『零度のエクリチュール』(石川美子訳)の80ページでフローベールについて書いている言葉をもとにしているはず(「フロベールの芸術は自分の仮面を指さしながら前進するからである」)。あと、この頃のこちらは、そのバルトの『声のきめ』などを読んだ影響で、いわゆる現代思想の風味をまぶした「文学的」な表現みたいな語彙を、〈〉という括弧にくくってたびたび使っており、それがわりとうざったい。バルトの訳本を真似して、個人言語というか、あまり一般的でないと思われる自分独自の言葉遣いみたいなものをそのようにして特殊化してあらわすことに気が向いていたようだ。
  • その後零時前からこの日のことを記述した。一時四〇分まで二時間弱。そうしてからだも疲れたので切りとし、翌日が日曜だから気がゆるんだようで久しぶりにだらだらとした夜更かしをしてしまい、消灯が三時五〇分まで後退してしまった。ひとまず三時一五分まで今日(一月一六日)はもどしたいのだが、果たせるかどうか。やはり性質として夜に親和的な心身なのか、深夜の時間が短く終わってしまうのがもったいないというような感覚がある。

2021/1/15, Fri.

 今では、ある人物を言葉で覆い尽くし、本の中で生き返らせるのは、見こみのない企てであることは分かっている。特にサンドロのような人物は。語るべきでも、記念碑を立てるべき人物でもなかった。彼は記念碑をあざ笑っていた。彼は徹頭徹尾行動の人で、それが終わってしまえば、何も残らなかった。まさに言葉以外は、何も。
 (プリーモ・レーヴィ/竹山博英訳『周期律――元素追想』(工作舎、一九九二年)、79; 「4 鉄」)



  • 一一時半の起床になった。いつもどおりだ。滞在は八時間。本当はもうすこし減らしたいのだが、しかし考えてみれば、あまり長いとまたそれはそれでまずいけれど、睡眠を多く取って休むぶんにはそれだけからだが安らぐのだから、無理に意志的に短く起きようとしなくても良いのではないかと思った。日々心身を調えているうちに、無理なくおのずと睡眠の必要量が減ってくる、ということを目指したい。起き上がってベッド縁に腰掛け、両腕を背後に伸ばしたり首をかたむけたりして筋をやわらげたのち、瞑想。一一時四一分から五七分まで。悪くない身体の感触ではあった。しかし、もっとからだの内部にある存在の時間を減速させたい。
  • 上階へ。母親はそろそろ働きに出るところ。天気は曖昧で退屈気な曇りなので洗濯物を入れたらしいのだが、こちらがジャージに着替えていると、なんかあかるくなってきたねと言ってタオルだけベランダにもどしていた。べつに晴れていないだろうとそのときは思ったのだが、それからすこしするとたしかに大気に陽の色が混ざりはじめたので、こちらも食後、肌着などを吊るしている円型ハンガーを出しておいた。食事は昨日のケンタッキーフライドチキンと米と味噌汁。鶏肉と白米をともに食いながら新聞を読む。国際面。香港で、台湾に渡ろうとした例の一二人のひとびとを援助した廉で、犯罪幇助として一一人ほどが逮捕されたと。なかに区議や、民主派の人々への支援で知られている黄国桐という弁護士が含まれているとのこと。米国については、二〇日の大統領就任式に向けて首都ワシントンが厳戒態勢を敷いているという旨。州兵は二万人動員される見込みだし(前回の就任式の際には八〇〇〇人だったという)、先日ドナルド・トランプの支持者が押し入った議会議事堂の周囲には二メートル以上の高さのフェンスが「何重にも」設置されたという。あとは韓国の記事。懲役二〇年の刑が確定した朴槿恵に対し、文在寅が恩赦をくだすかどうかが注目されていると。政権の主要敵である保守系野党勢力朴槿恵にかんしては対立があるらしく、朴槿恵を支持した人々とその弾劾に賛成した人々と混じっているようで、恩赦によって彼らを分裂させることができるのではとの目論見も多少聞こえるらしい。年末に文在寅と会談した与党(「共に民主党」)代表の李洛淵 [イ・ナギョン] が年始に、朴槿恵ではなく李明博について、適切な時期に大統領に恩赦の判断を申し入れる、みたいなことを発言したといい、直前に会談していたわけなのでそれが文在寅の意向をほのめかしたものではないかと取られたらしい。しかし、支持層を考えると普通に恩赦などしないのでは? と思うのだが。実際世論調査だと、全体では朴槿恵への恩赦についての賛否は拮抗しているのだが、与党支持層では九割が反対と言っているようだし、文在寅政権自体が朴槿恵政権への反対運動のなかから生まれてきたようなもので、たとえばいわゆる従軍慰安婦問題にかんしてもそれはきわめて顕著にあらわれているのだから(前政権が日本とむすんだ協定を完全にくつがえして反故にしているわけだから)、ここで朴槿恵へ恩赦をくだしてしまえば、政権の中核的な支持層を大きく失って相当なダメージになるのではないかと思うのだが。
  • 食後は皿と風呂を洗う。つい忘れてしまいがちだが、排水溝のカバーに集合して死んでいる毛を取り除いておいた。排水溝自体と床も多少擦っておき、自室に帰ると、いい加減にもう髪を切りたかったので、美容室に電話をかけた。来週の木曜日、二一日の一二時からと決まる。その前夜がWoolf会でまた夜更かししてしまう予感があり、起きられるかどうかやや不安だが、用事があれば起きられるというのがこちらのいままでの体質である。アラームをしかければなんとかなるだろう。
  • LINEには(……)くんからメッセージ。昨日、Twitterやめたんですねと来ていたのにそうなのだとこたえてあったのだが、日記を読もうとしたらなくなっていたのでとさらに来ていたので、もうしずかにやろうと思いましたと言っておき、ちょうどWoolf会の日が最新なのでよかったら読んでくださいとURLを貼り、宣伝しておいた。
  • それからここまで記述して一時半過ぎ。まずは何より、からだと肉を調えることだ。この三〇分はわりとしずかに、急がず書くことができた。
  • 調身へ。合蹠・前屈・胎児・コブラを二セット。くわえて最後に左右開脚と背伸び。合蹠は主には股関節をやわらげるための姿勢とされているはずだが、脚の付け根の内側、すなわち股の至近の内腿の筋を伸ばすには、足先を持って前傾するのではなく、上体を立て気味にしたまま両脚に手を乗せて下へ押すような感じにしたほうが効果がある。もしくは、それでなくとも左右開脚をしたほうが良い。背伸びはごく単純に両手を直上に向けて掲げ伸ばした姿勢を保つだけで、ヨガで言うとこれはたぶん「太陽のポーズ」というやつに近いのだと思うが、結局肩こりとか首周辺の肉に一番きくのはこのきわめて単純な直線的伸張の運動ではないかという気がする。
  • 四〇分くらい柔軟すると二時を越えているので洗濯物を取りこみに行った。陽はまだ出ていて、起きたときには雲が、明確な形をなさずぼんやり溶けこむようにして空の全体に白くはびこっていたのだが、いつかそれらの黴はおだやかな水流によって徐々に流されたように、不可視の掃除夫によって拭い取られたように、あるいは完全に溶け切って空のなかに吸収されたかのように消え去って、いまは牧歌的な弱い青さがあらわになっていた。タオルをさわるにやはり完全に乾いてはいないので、せめてもと室内に入れながらも陽の射しこむガラス戸の前に吊るしておく。西方面から来るその陽射しもいくらもしないうちに去ってしまうはずだが。
  • 音読。ダンベルを持って腕の筋肉もあたためたかったのだが、ここでは脚を優先した。すなわち、足首あたりを持って背後に引っ張り上げた姿勢で文を読む。「英語」。最初のうちはかなりぎこちなかった。最近音読をしていなかったことにくわえ、舌先に軽い炎症ができているようで少々痛かったからだ。しかし次第になめらかに発語できるようになった。George SteinerがHadrian France-Lanordという学者のPaul Celan et Martin Heideggerという著作を評した記事など。題材も題材だし当たり前だが、Steinerの文章は、「英語」ノートに引かれているほかの文と比べると、読むのがあきらかに難しい。語彙にせよ一文の長さにせよ文構造にせよ負荷が大きい。
  • 四時で上へ。小さな豆腐とモヤシのみ食べる。新聞からは予想外の電力需要の高まりによって供給がかなり逼迫しているという記事を読んだ。年末以来の日本海側地域での降雪によって関西電力の電気が足りなくなり、関東などから融通してもらったり災害時用の緊急発電車を三〇台くらい稼働させたりしたというのだが、電気って融通できるものなのか、どうやってやるのだろうと思った。まあそれは実際発電されたものが我が家にも届いているわけだから融通はできるのだろうけれど、ある会社の管区内からべつの会社の管区へと電気を移行させるというのはどういう仕組みや制度になっているのだろう。
  • 食後、麻婆豆腐をつくった。「丸美屋」の黒いパッケージの辛口のもの。冷蔵庫を覗くとちょうどカットされた白菜もあったので、葉を二枚くらい取ってそれもくわえておく。こしらえ終えて下階にもどると四時半。歯磨きと着替えを済ませるとベストを身につけた仕事着姿でまた音読。今度は「記憶」。腕をあたためたかったのでダンベルを持ったが、ワイシャツを着たまま腕の筋肉に力を入れると肘のあたりなどシャツの通路の内側でちょっと引っかかりが生まれてやりづらいので、袖のボタンをはずして腕をまくった。二〇分のみ。ロラン・バルト石川美子訳『零度のエクリチュール』からの書抜きなど。言っていることがわかるところとよくわからないところがわりと入り混じっている感じ。
  • 五時。出発。寒くはない。からだの肉があたたまっているのを感じる。鼻先や唇は多少冷たいが(すなわちこのときはまだマスクをつけていなかったのだ)、それがからだの内を目指して下がってくるでもないし、肌もふるえない。今日は時間に余裕があったのでかなりゆっくりとした歩みで道をたどる。天気はまごうことなき曇りであたりはどこを取っても薄暗く、公営住宅の踊り場や側壁についたライトの白さや宙の色を見ているに、曇りというよりもほとんど雨が降っているような感覚もきざすが、もちろん濡れるわけではない。カラスが一匹、しずかに鳴いていた。
  • 坂道もゆっくり一歩一歩上がっていく。今日も無音である。林の向こうで街道を走る車の音しか聞こえてこない。冬のことであらためて見れば木立は薄くなっており、隙間が生まれていてそこから車の動きも多少はうかがえる。出口に近づいたころ、しずけさが満ちた。周囲にだけでなく、みずからの内にも深く染みるようで、心身が明鏡じみてきて、歩が丹念なようになり、ところに頭上から葉音がはじまって、竹の葉房だと見なくともわかるが、見れば冬にもあかるい軽やかな緑がわずかしなっており、音はよほどかすかな、ささやきめいた漏れ方揺らぎ方で、微風がそこをつかのま通ったらしいが道のほうにまでは降りてこない。
  • 最寄り駅の階段にかかって西の空を見上げればフェルトをつなぎ合わせてところどころほつれて失敗しながらもできあがったカバーのような雲が一面ひろくを覆い尽くして、その下の、山や木々との合間には覆われることを免れた、白に近い淡青のほそい領分がわずかに覗いているのだが、それが西陽を見送って暖色を失ったあとの空があらわになっているのか、それともそこもまたべつの雲に占められた層なのか、判断がつかない。
  • この日は久しぶりに最寄り駅のベンチに就いて手帳にメモ書きした。左には白人の高年の人。おりおり見かけ、居合わせるがどのあたりに住んでいるのかは知らない。余裕を持って出たこちらよりも先にベンチにいたから、だいぶ余裕を持って来ている。脚がやや悪いようで杖を突いてゆっくり歩いているひとだ。この時間にわりといると思うが、どこに出かけているのかは知らない。(……)で降りてその先には行かず駅を出るようだが。
  • 車内でも書き、着いてからも少々書いて、切りの良いところで立ち上がる。メモ書きは簡素に、圧縮して、あとで想起のよすがとなるような語をうまく記しておくのが良い。電車を降りると階段通路へ。ホームの先のほうに足もとが濡れている一所があり、濡れているのがわかったのはそこに、それよりもさらに遠くにある線路上の赤い信号灯がかすかに映りこんでいたからなのだが、雨が降ったわけでないのになぜあそこが濡れていたのか。
  • 駅を出て裏通りを見通せば視線が建物を越えていった奥にそれらの隙間を満たしてひろがっている空は灰一色、灰というよりも鼠色か煤色か薄墨色というべき濃さに近いか、その背景に地味な色のマンションの輪郭線は溶け入るようになっている。勤務。(……)
  • (……)
  • (……)
  • それで一〇時半過ぎに退勤。ここ最近では一番遅くなったし、疲労感もなかなかだ。駅に入って電車に乗り、休んでいるうちに最寄りに着くと降車。のろのろ帰路をたどる。帰り着くと手洗いうがいなどして休息。ゴルフボールを踏みながらハーマン・メルヴィル千石英世訳『白鯨 モービィ・ディック 下』(講談社文芸文庫、二〇〇〇年)を読んだ。基本的には、からだをほぐし調えること、日記を書くこと、本線の読書を進めること、音読をすることの四つが毎日の日課としてこなせれば良いのではないか。やりたいことはいくらでもあるが、その日にやらねばということを増やしすぎてもうまく行かない。ゆるくかまえて、現代の風潮に合わせて無理なく持続可能な習慣を確立していくべきだろう。最優先はとにかく調身である。あとは書き物をなるべく現在時に追いつけること。そして読書・音読以外に、その他のやるべきことをひとつでも触れられたらOK、というあたりが落とし所だろう。最悪触れられなくとも仕方はない。本線の読書ですすめる書物についてもメモや感想は、気分が乗ったらその日の記事に書いても良いが、けっこう時間がかかるので、書き物を現在時に追いつけることのほうを優先して、それができて余裕が生まれたら記しておくという方針が良いかもしれない。
  • 一一時半で切って上階へ。麻婆豆腐などで食事。夕刊で、群馬県だったかにある国立ハンセン病治療院みたいな施設で発行されていた「高原」という文芸誌が惜しまれながら終刊をむかえたという記事を読んだ。藤田三四郎という自治会長もつとめた中心人物が死去してしまい、致し方ないと。また、昔は一二〇〇人だったか二〇〇〇人だかいた入所者も、いまは五三人にまで減っていて平均年齢も八八歳とあったと思う。この文芸誌からは一般文芸誌でも評価されるようなひとも輩出されたと言い、村越化石という俳人と、谺なんとかという詩人の名が挙がっていた。「村越化石」という名を見たときは、ちょっとおお、となり、なんかいいなと思った。「化石」とはなかなか思いつきそうで思いつかない名前のような気がする。ハンセン病と作家というと、北条民雄がたしかそうではなかったか? 川端康成が評価して世に知らせたひとだったはず。名前が思い出せなかったのでいまウェブに頼ったところ、この施設は群馬県草津にある「国立療養所栗生楽泉園」というものだった。谺なんとかというのは谺雄二というひと。『死ぬふりだけでやめとけや 谺雄二詩文集』という本がみすず書房から出ているようだ。みすず書房という会社は本当に、面白そうな本しか出さない。みすず書房の本を見てすこしも興味を惹かれないということはほぼない。
  • 零時を過ぎて入浴。あがって洗面所を出ると、居間のテーブルの前の椅子に母親がまだ残っていてうなだれて座りながらまどろんでおり、台所とシンク上のカウンターを通した先にそれを見た瞬間、異物の闖入というか、もう誰もいなくなっていると無意識に前提していたところに何かがあったため、一瞬、それが母親だとも認識できず、べつの知らない外部の人間か、あるいは何かの事物が侵入しているような錯覚が立って、すこしびくっとした。母親はこちらの気配を聞きつけて目のひらきのはっきりしない顔を起こした。彼女も翌日ははやく六時には起きるようだったのだが、すでに一時、起きられるかなと漏らしていた。
  • こちらも翌日は朝からで、六時過ぎには起床する必要があったが、まあ四時間寝ればどうにかなるだろうと判断し、一時過ぎから二時までまたメルヴィルを読んだ。ゴルフボールを踏んだり、仰向けで脹脛をマッサージしたり、あるいはベッド上に辞書を使って文庫本をひらいたままに固定し、合蹠で前かがみになり太腿や股関節をほぐしながらと、色々調身しながら読む。就寝前はやはり本当はそういう風に、からだをいたわる習慣にしたほうが良いのだろう。瞑想はせずに消灯するとすぐに布団に入った。

2021/1/14, Thu.

 山でサンドロを見ることは、ヨーロッパに覆いかぶさっている悪夢を忘れさせ、世界との和解をもたらした。それは彼向けにあつらえられた、彼の場所だった。顔つきや鳴き声をまねてみせたテンジクネズミと同じだった。山に入ると彼は幸せになった。その幸福感は輝き渡る光のように静かで、他人にも伝わってきた。それは私の中に、天や地を共有するという新たな感覚を呼び起こした。そして私の自由への欲求、力の充満、私を化学へ押しやった、事物を理解する渇望が、その中に流れこむのだった。私たちは明け方に、マルティノッティ避難小屋から目をこすりながら外に出た。すると周囲が一望のもとに開けて、朝日を浴びたばかりの山々は暗褐色と純白に輝き、立ち去ったばかりの夜の間に作り出されたかのように真新しく、同時に年を数えられないほど古くも思えるのだった。それは孤島であり、地上の別の場所だった。
 (プリーモ・レーヴィ/竹山博英訳『周期律――元素追想』(工作舎、一九九二年)、73; 「4 鉄」)



  • 「立ち去ったばかりの夜の間に作り出されたかのように真新しく」!
  • またしても一一時半起床となってしまった。今日は休日なのでそれでもどうにかなる。天気は晴天。わりと暖かい日和の気配だ。トイレに行って黄色い尿を捨ててきてから瞑想。しかしあきらかに焦りがある。はやく動き出したいという心があった。それで一三分しか座れず。
  • (……)からメールが入っていた。以前のメールに返信しようしようと思っていながら結局できていなかったので、ひとまずすぐに返しておく。ガラケーで文字を打つのが面倒なので、あとでパソコンから正式に返すと。
  • 上階へ行き、カレーうどんで食事。父親が腰を痛めたと母親が言っていた。その父親は食事中に帰ってきて、ケンタッキーフライドチキンとコンビニのケーキを買ってきた。ケーキがあるのは今日がこちらの誕生日だからである。それでモンブランをいただく。甘味を食べながら、母親が図書館で借りてきた『ヨーロッパの絶景』という本をちょっとめくった。ベルギーのグラン・プラスやブリュージュの写真を見ながら記憶を思い返したり、プラハの都市を見ながらこれがカフカが生きていたところかと思ったりしたが、最初に載っていたバルセロナの市街を朝か夕かわからないが斜陽のなかで上空からとらえた写真が一番印象的だった。碁盤の目状、と平城京平安京についてよくいわれる言葉がここでも使われていたが、マジで一ブロックごとの大きさがほぼ揃えられてきちんとならんでおり、そのあいだを縦横に通りが差しこまれて非常に整然としている。ブロックをなしている建物はどれも形はだいたいおなじ、石造りのビルみたいなやつだと思うが、白っぽい側壁はともかくとしても褐色とオレンジを混ぜたみたいな屋上の色がどこも共通していて、どうもそれも規格的に揃えられているらしい。地平線にいたるまでそれが続いているビルの平原のなかに、縦横の線を意に介さず切り入っていく斜めの通りが一本差しこまれているのがなかなかこころ憎かった。バルセロナだとむろんサグラダ・ファミリアの写真も載っており、ガウディだとあとはカサ・バトリョというやつと、例のカラフルなトカゲ(「ドラゴン」という説明だったが)が有名なグエル公園が載っていた。
  • 皿と風呂を洗って、今日は休みなので茶を持って帰室。LINEを覗くと誕生日祝いのメッセージが届いていたので返事。(……)さんからも届いていたのが意外だ。なぜおぼえていたのか? もう三〇くらいかなと言うので、三一になってしまいましたと苦笑を送っておいた。コロナウイルスが落ち着いたらまた(……)の「(……)」に行ってライブを見ようとのこと。(……)さんとは普通に会いたい。二〇歳の頃に継続的にかかわりを持った年上の大人として、やはりなんとなく特別な感じがある。
  • その後、ちょっとウェブを見、また昨日のWoolf会で(……)くんが言っていた奨学金関連の情報について(……)さんにメールを送っておき、それからNotionを準備してここまで記述。もう二時二〇分である。さっさと合蹠をやって脚をほぐしたいのだが、昨日駅の自販機で買ったチョコレートをいま食ってしまった。ミスった。腹にものが入ったばかりでは前かがみになって腹を圧迫することは避けたい。
  • とりあえず、爪を切ることに。手の爪である。それで北川修幹 "弱い心で"を流し、ベッドにうつってティッシュ一枚の上に爪を切り落とし、断面をやすっていくらかなめらかにした。そうしているあいだ、上体をあまり倒さずにしかし合蹠をしていたのだが、その姿勢でもけっこうストレッチできるじゃんと思い、爪を整え終えるとそのまま小沢健二 "天使たちのシーン"とともに調身に入った。前かがみにならずとも、足の裏を合わせて上体を立て気味にしたまま両手を太腿の上に置いて下に向けてちょっと押すような感じにすれば、わりと筋肉を刺激することはできる。"天使たちのシーン"は以前、ワンコーラスのまとめ方が綺麗に円を描くようで手本みたいにうまく構成され収束していると書いたけれど、メロディを歌っていると一部ちょっとひねりというか、独特のニュアンスが入っていることに気づく。一六小節あるうちの一~四と九~一二の後半、四分割したときの一回目と三回目ということだが、ここのメロディの後半部には微妙に、緩慢に引きずるようにしてちょっとだけ下降する動きがあって、そのアンニュイな感じは自分で歌ってみると出すのが難しい。コードも何かしら通り一遍でない感じになっている気がする。
  • 合蹠以外に前後左右に開脚したり足首もしくは足先を持ってからだの背後で尻のほうへ引き上げるストレッチなどをやった。後者のものは、太腿をほぐすこともできるのだけれど、この姿勢のまま胸を張って背を反らすようにすると背面を激烈に伸ばし和らげることができてすごい。柔軟運動とは心身をしずかにする営みである。しずけさとは無音や無言のことではなく、明晰さのことである。
  • 半藤一利の訃報というか、保阪正康磯田道史が寄せた追悼文を読んだのを忘れていた。保阪正康によれば、半藤一利は話を聞く相手が過去に書いたものやその発言をできる限り調べてから対面に臨んでおり、証言者の言ったことを鵜呑みにせず、きちんと史料批判的な視線を向けて確実性をもとめていたとのこと。また、たしかこれは磯田道史のほうが書いていたと思うが、半藤一利は、戦後の昭和は皆が「平和」という理想を追い求めていたわりと良い時代だったが、平成にはそうした理想がないのでこのままでは単に便利なだけの時代になってしまうという危機感を表明していたらしい。
  • この日はほぼからだをほぐすか日記を書くかしかしていない。三時から五時までは日記を綴っていたし、その後上がってアイロン掛けをして、もどってきてからもまた日記。夕食はフライドチキンなど。夕刊にはドナルド・トランプへの弾劾訴追決議案が下院で可決されたと。共和党から一〇人造反が出て、賛成は二三二人だったか。朴槿恵の上告が大法院で却下されて懲役二〇年に決まったという報も。あとは音楽情報。Lee Ritenourが新作を出したらしい。ギター七本で自分だけで多重録音した作品と。下部の紹介は、Lou Reed『New York』や、ショーン・メンデスという人や、ダーティー・プロジェクターズというものや、KANなど。ショーン・メンデスという人はまだ二三歳のカナダ出身の人だがこれまでに出したアルバムがどれも全米一位を取っているとか。こちらとしてはダーティー・プロジェクターズというやつにより興味を惹かれる。なんとかいう人のソロプロジェクトらしいのだが、このなんとかいう人が幅広い音楽性を身にそなえているらしく、ジャンル横断的な音楽になっているみたいなことが書かれていた。KANというのは"愛は勝つ"の人のはずで、こちらはその曲しか知らないし、正直、現役だったのかと思ったくらいなのだけれど、なぜかちょっと聞いてみたい気がする。
  • 食後はまた日記。九時半前まで。風呂に入ろうと思って上がると母親が先に入ると言うので了承してもどり、ギターを久しぶりに弾きたかったので一〇時まで三〇分だけいじった。わりと良い感じだった。音と指のポジションがけっこうよく見えた。ギターを弾くときの姿勢をどうするかというのはずっと迷っているのだけれど、やはり左の太腿に楽器を預けるようにしたほうが良いかもしれない。弾いているとどうしても前かがみになってきてしまって、次第に腰が痛くなり、そうすると当然演奏が乱れるのでなるべくからだに負担がかからない姿勢を保ちたいのだが、左足に楽器をたくすようにしたほうがそうしやすいような気がする。
  • その後入浴。出るとまた日記。gmailを見ると、誕生日ということで兄と(……)さんからそれぞれメールが届いていた。要返信。(……)にもメールを書かなければならない。
  • 現在もう一五日の零時に入ったところなのだが、今日はここまで、活動としては、ギターを弾いた以外には日記を書くことしかしていない。先ほど完成させた一三日の記事には今日だけでも三時間四〇分ほどを費やし、昨日と合わせると四時間半で仕上げていて、けっこう長くなった。現在のところで今日日記を綴った時間は、だいたい五時間ほど。まあ悪くはない。だいぶ勤勉だとは言えるし、このくらい書くとライティング・マシーンに近づいたような感じは多少はある。ただ、もうすこししずかに、落ち着いた心身的動作で書きたいというか、もっと機械に近づきたいとは思う。あらかじめプログラムされた機械のようにして、人間的感情とか情念とかを排して自動的に、しずかに、ゆっくりと、本当に自動的な自律的な動きとして書きたいという欲求もしくはイメージはある。わりとありがちなものだとは思う。けっこうみんな、そういうことは考えるだけは考えると思うし、これはこれでまたひとつのロマンティシズムであるとも思う。たぶん、もう古臭い発想なのだろうとも思う。あるいは、Post-humanという語とかAI技術とかを思い合わせたときには、むしろこの先の時代において流行的風潮になっていく考え方なのかもしれないが、ただ、精神性としては二〇世紀前半のいわゆるモダニズムをそのまま延長させただけのものだと推測され、いまさらその方向でやってもなんかなあという心はないでもない。とはいえ、そういう種類の欲望はやはりこちらにあるし、べつに作品をつくったり活動としてやったりしているわけでもなく、個人的な性分としてそれをもとめるということなので、古臭かろうが行き詰まろうが良いのだとは思うが。なんとなく、一九六一年六月二五日のBill Evansはそういう感じになっている気がして、あのしずけさと不動性と明晰さがほしいなあというのは思う。あそこのEvansには、ペースがずっと一定で揺動がまるでないから情念がすこしも感じられないし、あまりにも明晰すぎて機械的な印象、つまり上に記したような、あらかじめ自分がどの音をどういう風にどういう順番で弾くのかを完全に知っているような、そのように定められているかのような印象すらあたえられるもので、すなわちあそこでEvansは、束の間であれ、なかば人間以外のものになっているように感じる。その人間以外のものがなんなのかというのはしかしよくわからない。機械、というのは非常にわかりやすいイメージだ。音楽自体、あるいはピアノ自体になっている、というのも、あまりにも容易に言える言い方だが、表現としてはそれは単なる労を欠いた神秘化にすぎないだろう。なおかつ不思議なのが、人間性をできる限り削減もしくはほぼ超越したかのように聞こえるBill Evansの演奏が、あのTrio総体の音楽としては、この上なく人間的としか感じられない美と温かみのニュアンスをふんだんに湛えているということだ。本当はもっとああいう感じで自分も書いたり生きたりしたいんだけどなあとは思う。
  • もうすこし駆動速度や振動数を落としながら安定的な動きを持続させたい。
  • 歯磨きしながらウェブを見て休憩し、その後ストレッチ。ヘッドフォンでSarah Vaughanの『Crazy And Mixed Up』を"Autumn Leaves"から聞いた。この"Autumn Leaves"はどうしたってすごい。ほかの曲もボイスコントロールは抜群で、特に音程調整があんなにも乱れず常になめらかなのは意味がわからない。歌唱としてはけっこう暑苦しいというか、太めの声で情念的に歌う感じはあるが、Sarah Vaughanにかんしてはそれで何も問題ないし、昔のジャズの人はわりとみんなそうだ。"Autumn Leaves"以外だと"Love In Vain"が良かった。切なげなあかるいきらめきみたいな感じのキャッチーさがある。長めに取られて見せ場として提示されているベースソロも弾性があってスウィンギーである。ここのベースはAndrew Simpkinsという人だが、ソロを弾きながらみずから出す音とユニゾンで歌うタイプの奏者で、メロディを口ずさんでいるのが聞こえる。
  • (……)
  • 「玉の緒を虹につないで世界中雨の遺跡をたずねてまわる」、「東雲に追い立てられて戦場へ塹壕の夜の歴史家となる」という二首をこしらえた。

2021/1/13, Wed.

 私たちは物理学を一緒に勉強し始めた。私が当時もやもやと暖めていた考えを説明しようとすると、彼はびっくりした。人間が何万年もの間試行錯誤を繰り返して獲得した高貴さとは、物質を支配するところにあり、この高貴さに忠実でありたいからこそ、私は化学学部に入学した。物質に打ち勝つとはそれを理解することであり、物質を理解するには宇宙や我々自身を理解する必要がある。だから、この頃に、骨を折りながら解明しつつあったメンデレーエフの周期律こそが一篇の詩であり、高校で飲みこんできたいかなる詩よりも荘重で高貴なのだった。それによく考えてみれば、韻すら踏んでいた。もし紙に書かれた世界と、実際の事物の世界との間に橋を、失われた輪を探すのなら、遠くで探す必要はなかった。アウテンリースの教科書に、煙でかすんだ実験室に、私たちの将来の仕事の中にあった。
 そして最後に、根本的なことがあった。彼は物事にとらわれない正直な青年として、空を汚しているファシスト流の真実が、悪臭を放っているのを感じないだろうか、物事を考えられる人間に、何も考えずに、ひたすら信ずるよう求めるのは恥辱だと思わないだろうか? あらゆる独断、証明のない断言、有無を言わさぬ命令に嫌悪感を覚えないだろうか? 確かにそう思う。それなら、私たちが学んでいることに新たなる威厳や尊厳を感じられないはずはない。生きるのに必要な栄養物以外に、私たちが糧としている化学や物理学が、私たちの探しているファシズムへの対抗物だということが無視できるはずはない。というのも、それは明白明瞭で、一歩一歩が証明可能だからだ。ラジオや新聞のように、虚偽や虚栄で織り上げられたものではないからだ。
 (プリーモ・レーヴィ/竹山博英訳『周期律――元素追想』(工作舎、一九九二年)、67~68; 「4 鉄」)



  • 「物事を考えられる人間に、何も考えずに、ひたすら信ずるよう求めるのは恥辱だと思わないだろうか?」「生きるのに必要な栄養物以外に、私たちが糧としている化学や物理学が、私たちの探しているファシズムへの対抗物だということが無視できるはずはない」。
  • 一〇時に覚醒。それから起床するには一〇時半までかかりはしたものの、いつもよりはやくてよろしい。最近、また夜更かしが深くなって消灯時間が後退しており、昨晩は三時半を過ぎたのだったが、この時間に離床できたので滞在は六時間四五分となり、ここ最近では短いほうだ。やはり単純に、脚をほぐして血流を良くしておけばわりと起きられるのではないか。このまま消灯をまたはやくしていきたい。
  • 快晴。カーテンを開けて起床をつかむあいだに浴びていた光も、まぶしさと温かさがなかなか強いように感じられた。水場に行ってきてから瞑想である。一〇時四四分から一一時七分。瞑想をする前から身体感覚はかなりなめらかに整っている感じがあった。終えると上階へ。母親がカレーをつくってくれていた。今日は彼女も久しぶりの勤務で、一二時半から六時半。こちらも短いが労働がある。洗面所で髪を整えうがいをしたあと、食事。新聞は国際面に、二〇日にあるジョー・バイデンの大統領就任式に際して、全米で武装集団が抗議デモをおこなう計画(可能性?)があるとFBIが警告したとの記事。首都ワシントンと全米五〇州の州都で、とあったが、そんなに大規模になされるのか。二〇日を待たず一六日からはじまる見込みみたいなことが記されていたので、たぶんFBIは内通したりして計画の存在をつかんでいるのだと思うが。そのすべてが連携しているわけではなく、各地で個々の団体がそれぞれやるという感じなのだとも思うが。なんかマジで、内戦までは行かないけれど、まるで内戦みたいだなあという雰囲気をおぼえる。仮にこの全米の武闘的集団すべてがより緊密に連帯し、それを統括する強力なカリスマ(いままでは一応ドナルド・トランプがそれだったのだろうが、それよりももっと団体側に距離が近く、公的制度の枠内にいない人間)が出てきたら、かなりやばくない? という気がする。米国内に反政府の一大勢力が生まれてしまうじゃん、と。
  • あとは一面および二九面あたりの、震災から一〇年を期した東北復興関連の記事。岩手県石巻市相川地区(もとは十三浜町という町だったらしい)では、住民たちがそれぞれの知恵や経験を活かして避難所の環境を快適なものに整備したと。山の源流から水を引いてきたり、ワカメの養殖用タンクみたいなものを風呂にしたり、漁師が冷凍保存していた貝類を供出したり、瓦礫からかまどをつくって米を炊いたり。トイレも昔ながらのボットン便所をこしらえたと。これはちょっとたしかにすごいなと思った。高齢者が当然多いわけだが、ものがいまよりもなかった時代の記憶や、培ってきた経験がものをいったということで、まさしく年の功というわけだ。地震発生後わずか一週間で、二〇〇本だかつなぎ合わせたパイプを通って避難所に水が供給されるようになったというから、仕事がはやい。手仕事の技術というのはこういうものなのだろう。
  • 食後は皿と風呂を洗って帰室。今日は空気がかなり暖かい気がする。LINEをひらくと(……)から、住所を教えてくれと入っていたので返信。明日がこちらの誕生日なので何か送ってくれるらしいのだ。(……)くんもこちらと誕生日が一緒なので、本当ならこちらからも何か送るべきだろうが、いずれ飯をおごるということで勘弁してもらいたい。(……)の誕生日もコロナウイルスなどで集まれず終わったので、こちらもいずれ飯をおごるつもりでいる。
  • Notionを準備して書き物。一月一一日月曜日。一時間二〇分ほどで完成。時刻は一時一八分にいたった。一一日分には総計で二時間半つかっている。まあ悪くはないだろう。投稿する前に、(……)という人のブログを覗いた。先日読者登録してくれた人で、この人も日記の類を記している。(……)さんのブログでスターをつけているところからたどってこちらもその存在を知っていたのだが、ここであらためてブックマークしておいた。その後、自分のブログの最近の記事をちょっと読み返して時間を使ってしまってから、一一日分を投稿。二時である。
  • からだがこごって疲れていたので柔軟に入った。昨日と同様、北川修幹 "弱い心で"をAmazonで流し、合蹠しながら歌う。そのあとおなじく小沢健二 "天使たちのシーン"も。自分ひとりで我が身を養うようになったのちも、週に一回くらいはスタジオに入って歌ったりギターを弾いたりしたいのだが、やはりたぶんその余裕はないだろうなとも思う。金銭的にも、時間としてもないのではないか。
  • 二時半にいたって洗濯物を入れにいく。今日はやはりかなり暖かいようで、ベランダに出ても冷気のかたまりがほぼないし、柔軟中もダウンジャケットを羽織っていると暑いので脱いだくらいだった。タオルをたたんでおき、足拭きとともに洗面所に運ぶと、ここでもう出勤前の食事を取ることにした。普段は直前に取るのだが、働きに出る前にまた柔軟をしておきたいというわけで、しかし合蹠や前屈などは腹が圧迫されるので食後すぐはできないから、もう食べてしまってあとで柔軟できるようにしておこうという考えである。それで大根やニンジンや卵をシーチキンとマヨネーズで和えたサラダと、ジャガイモにワカメの味噌汁を用意して自室へ。食いながら授業の予習。(……)のために(……)大学の英語二〇一八年度を確認した。けっこう難しいというか、あまり見ないような表現を選んで出してきているような印象。食後もゴルフボールを踏みながら並べ替え問題まで確認し、疑問点をいくつか調べておいた。それから今日の日記をここまで綴れば、いま四時になっている。基本的にはやはり日記をまず仕上げ、生きればその都度発生して増えていくノルマを片づけて記述をひとまず現在時に追いつけるということを優先するのが良いような気がしてきている。そう言いながら、いまはもう昨日の記事を書き足す意欲が薄れており、それよりも音読をするか音楽を聞くかというほうに気が向いているが。あと、日記もそうだが、とにかく最優先するべきはからだを整えることだ。これはまちがいない。一日のうちのなるべくはやい時点で柔軟とりわけ合蹠をおこない、その後もおりにふれて調身の時間を取ること。
  • 予習後、今日の日記をまた書き足した。四時を超えるまで。そうして柔軟。そこそこにして出勤までに音読と音楽鑑賞と両方の時間を取りたかったのだけれど、柔軟中からどうも無理そうだなと感じていた。それでも良い。からだを調えることを優先するべきだ。それで三五分間、肉を伸ばして、スーツに着替えたあとに音楽だけ聞く。Bill Evans Trioの『The Complete Village Vanguard Recordings, 1961』から、"announcement and intermission"と、"My Romance (take 1)"を聞いた。"announcement and intermission"は、Evansがいったん休憩に入るみたいなことを言っているのと、そのブレイクのあいだのクラブ内の音声が収録されているだけなので、べつに聞かなくても良いのだけれど、一応きちんと聞いた。Evansの発言があってからまもなくはまだざわめきが薄いのだが、次第に煙が満ちていくようにして話し声や食器の触れ合う金属音や人々の気配が密に充実していき、それが空間をかなり埋めきったところで"My Romance (take 1)"の冒頭、ピアノの和音がいきなり入ってきてはじまる、という流れになっている。"My Romance (take 1)"はEvansがテーマの提示を終えてベースとドラムとが入ってきてから(LaFaroは小節頭よりも一拍はやく、待ちきれないようにして入ってくる)しばらく、最序盤のLaFaroの動き方がなかなか馬鹿げていて、最初からこんなに跳ね回ってしまって良いのか? と思う。"My Romance"は曲のせいか、このライブのほかの曲とはちょっとトーンが違うような印象で、なんとなくより明快なあかるさ、快活さみたいなものがいくらか強い気がする。曲調だけでなく、Evansのピアノもふくめて演奏もそちらに寄っているような気がした。"Alice In Wonderland"に雰囲気として近いように感じないでもないが、あちらは三拍子だし、Motianの気体的な役割がたぶんより濃いし、やはりどこか淡い霞のなかを通る微光というイメージなのだけれど、My Romanceのほうはもっとはっきりとした、光のままの光、というイメージにより近い雰囲気に思う。いま調べてみたところ、作曲はRichard Rodgers、作詞はLorenz Hartの著名なコンビの仕事らしい。あと、気のせいかわからないが、このディスク1の"All of You"までと比べて、"My Romance"に入るとLaFaroの音がより強くなって左方を占領し、存在感を増しているように聞こえる。休憩をはさんだので多少調整を変えたりしたということももしかしたらあるかもしれない。
  • それで五時を過ぎたので出発。道に出ても、そこまで寒くはなかった。肉をほぐしてからだを温めたのでコートの裏の肉体の芯まで寒気が侵入してこない。やや大股に行く。南西のほうに見える山やその手前の木々はともに合わさって黒い影の平面であり、その上に無雲でひろがる青い黄昏空もおなじように平面で、黒のほうは青の平面上に貼りつけられたように見えるというか、むしろそのような段もなく二領域ともひとつのおなじ平面上を区切ってそれぞれ占めているだけのように映るのだけれど、黒はともかくとしても青の一面のほうは、表層的平面としか見えないそのなかに視線をどこまでも吸いこみ続ける無限の距離が内蔵されているわけである。木々の黒影から端を発するようにして道の左手には公営住宅の棟がいくつか斜めにひらいてこちらの横までならんでいるが、平面の印象に引きずられたようでその建物にも、紙を折ってかたちづくったペーパークラフトのようなイメージがかぶせられる。近づいていくと、当然だが、黒い一枚の影だった木々も、こまかなところまではもう見えないが、葉の群れの肌理といくらかの量感をそなえはじめる。
  • 坂を行けば木の間に余計なものを掃かれたように整った薄縹色が覗いて、五時過ぎでもまだ空に青さが残る日の長さになった。坂道は相変わらず無音である。唯一、左のガードレールの先にひろがる斜面の底から何かガサガサいう音が立っていたので動物がいたようだが、なんとなく、音の間の取り方からして鳥ではないような気がした。
  • 最寄り駅に着いて階段にかかりながら見上げれば光を滅しつつある夕刻の空は完全な晴れで、青が頭上のどこをも占めてつつむごとくひらいているが、西の山際にかろうじて微量の赤味がなごっているのが塵のようなプランクトンの粒子のような感じだ。階段を上って東に向きを変えればそちらの空気はもうだいぶ暗く、空間が夜の先触れに沈みはじめており、通りの脇に立っている二軒は両方ともシャッターを閉めていて、道路上をいまは軽自動車が一台、ゆっくりとしたペースで走り過ぎていった。
  • ホームを先頭のほうに向かってゆるゆるすすむ。線路の伸びていく先は、すぐ近間の踏切を最後に光が途切れ、その奥、森に面して続いているはずの通路はまるで見えず純然たる黒があるのみで、彼方の丘の影とその下端で融合している。踏切の光は地面上に引かれる横線と左右の枯れ草を宿り場として頼った低い縦線とをつくり、要するにコの字を、そのひらいた口を上に向けて置いたような形でその先の黒を、下部のみ枠づけている。
  • 電車に乗ってしばらく瞑目し、降りると職場へ。勤務。(……)これはすべての生徒について言えることだが、やはり以前こちらが当たった箇所を着実に、適切に再確認して復習し、何度も繰りかえしおなじところに触れることによって知識や理解を確実に固めていかなければレベルアップはできない。人間が何かをおぼえたり習得したりしようと思ったらそういうやり方を取らざるを得ないよ、ということをこちらが導きながら実践させ、心身でもって理解させないといけないだろう。つまり、あ、おぼえられた、思い出せる、ということを体感させないといけないだろう。
  • (……)それで八時四〇分頃退勤。本当はこれよりも一本はやい電車で帰るつもりだったのだが。駅に入ってホームに上がり、電車のなかを見ると(……)らしき男が一番端の座席に就いているのが見えた。おととい遭遇したばかりである。だから避けたというわけでもないのだが、なんとなく今日は自販機で売っているちいさな菓子でも買うかという気になっており、それでひとまず乗らずにホームの先へすすんで菓子を売っている自販機のところまで行った。チョコレートとグミを買うと、もどらずすぐそこの車両に乗った。それで席に就くと往路のことを思い出して手帳にメモ。日記に書く情報を手帳にメモするのは久しぶりだが、また時を見てはこの手動による記録の時間を取って、それを活用していく必要があるかもしれない。必要があるというか、そういう方策をまた取っていこうかなというかたむきを感じる。手指とペンでもって紙の上に文字を書きつけていくという行為には、たしかに、キーボードで文を打つのとはまた違った身体感覚があってそれは悪くない。
  • 最寄りで降りてゆっくり行く。先の男が(……)だとしたら追いついてきて声をかけてくるかなと思ったのだが、階段通路にかかってもうしろに気配は感じるが声はかからない。通路を出て街道に面したところで車の通りをうかがって左右に向くと、背後にいた影が通りをわたらず西へと帰っていくのが見えたが、その影の歩き方がやはり(……)だったようにも見えた。方角もおなじである。本人だとしたら、あちらも面倒臭くて声をかけなかったのかもしれない。こちらは渡って木の間の下り坂に入る。夜空はこのときも晴れ渡っていたはずだが、星を見た記憶がない。帰りながら、以前は冬でも毎回、歩いて出勤帰宅していたのだがと思った。なぜそのようなバイタリティがあったのかわからない。しかも、けっこう寒くなってもコートを着ないという時期すらあったのだ。考えてみればこちらは高校生の頃も、たぶん三年間でほとんど一度もコートを身につけなかったと思う。ずっと標準服のブレザーと兄のお下がりであるPaul Smithの灰色のマフラー(いまも使っている)で通し、冬に駅で電車を待っているあいだなど、吹き過ぎていく寒風に身をぶるぶる震わせていた。なぜなのかわからないが、コートを着ようという気になることがなかったし、そもそも上着としてコートを身につけるという発想自体がほぼなかったようにすら思う。周囲はけっこうダッフルコートなど羽織っていたおぼえがあるのだが。
  • 帰宅して、自室でボールをちょっと踏んだあと、カレーなどで食事を取った。夕刊に半藤一利の訃報。九〇歳。編集小欄にも触れられていて、たしかそこに、東京大空襲の体験者だと書かれていた気がする。食後、もう一〇時に至っていたのだが、母親の職場の話をちょっと聞く。例の、自己紹介の文が「改竄」されていたという件である。面倒臭いので詳述はしないが、話を聞くに、職場長のほうはもともと書いてきてもらった紹介文をもとにして自分で文をつくるつもりだったのではないかという気がされた。しかしそうだとしても、そのあたりの説明はまったくなかったし、こういう文にしたけれど良いですかという確認もなかったのは事実なわけで、だから単純に、いわゆる社会人がきちんと身につけるべき基礎として盛んに言われている「報・連・相」、すなわち報告・連絡・相談といったコミュニケーション的手続きができない人なのではないかと思った。性格や能力としてできないということもあるだろうが、なんとなく、話の印象からすると、べつにそんなのは良いだろうという風に高慢に横着して面倒臭がっているような雰囲気を感じる。もしそうだとすると、それは職員たちを人間として軽んじているということになるわけで、そのようなタイプの人が経営者などつとめても普通にうまく行かないのではないかと思うし、実際、職員たちからの評判はすこぶる悪く、みんな蔭ではいつも悪口や文句を言い合っているし、私たちバカだよねえ、と嘆いているという。だからたぶん、この職場はそう長くはないのではないか。本当はそういう劣悪な場からはみんなさっさと撤退して、すなわちどんどん辞めてべつの場所に行き、営業所自体を潰してしまったほうが、つまりこの職場長には経営をやめてもらって何かべつの方法で生きていってもらったほうが、社会として良いとこちらは思うのだけれど、客を放棄してそういうことはできないということもあるだろうし、職員たちにもそれぞれ再就職先を探すのが難しいとか面倒臭いとか、いま辞めると生活が立ち行かなくなるとか、そういう事情もあるだろう。
  • それで一〇時を一五分くらい過ぎてしまってから下階にもどって、Woolf会。たぶん第二六回だと思う。To The Lighthouseを、わずかずつではあれ読んで訳していこうという会がすでに二六回も続いているとは、これだけでもうわりと大したことである。今日の箇所は第一部第四章の"The jacmanna was bright violet;"からはじまる段落。翻訳担当は(……)くんで、段落が長かったので半分を越えたあたりまで。例の、starringと見分けづらい"staring white"についてこちらは指摘した。それでその場で(……)くんや(……)さんが調べてくれたところ、staringでけばけばしい、みたいな感じで色彩にも使うようだ。この場面でLily Briscoeは、Mr Paunceforteが来て以来すべてを淡くエレガントに描くのが流行だけれど、私にはこう見えるという定かな視覚像をいじって歪めてしまう(tamper with)のは誠実(honest)なやり方とは思えない、と独白している。尋常の教科書的な理解をするなら、Mr Paunceforteはいわゆる印象派以後の作家、それに対してBriscoeはまあたぶん写実主義をわりと標榜するタイプ、ということになるのではないか。で、このLily BriscoeのスタンスはMrs Ramsayの絵画に対する好みとも相応している。以前、Charles Tansleyと町まで出かけていったとき、波止場かどこかで絵を描いている男性を見かけたおりに、Mrs Ramsayは、やはりPaunceforteの名を挙げながら、それと同時に祖母の友人たちの時代のことを持ち出して、より堅固な表現像を持った絵画への好みをほのめかしているからだ(すくなくとも話相手のCharles Tansleyはそのように解釈している)。だからBriscoeの絵は、"one could not take her painting very seriously"などとMrs Ramsay自身思ってはいるけれど、そこそこ彼女の好みに合う種類の絵なのではないだろうか。それはMrs RamsayがBriscoeに向ける視線や、彼女に対するMrs Ramsayの接し方を考える際に、多少の考慮材料として入ってくることがあるかもしれない。いまのところの理解では、Mrs Ramsayは、女性の主体的・労働的自立性にそれなりに理解を示しながらも、でも女性はやっぱり結婚しないと、結婚して男性を庇護し包みこむのが女性のよろこびというものですよ、だからやっぱり、女がひとりで絵を描いて生きていくなんてとてもできるものではありません、というくらいの考えを持っているようにこちらは理解している。そこに多少は、Lilyの絵は悪くないから本当は応援してあげたいんだけどねえ、みたいなニュアンスがもしかしたらくわわってくるのかもしれない。
  • あと、この段落にはto the verge of tearsという表現が出てきており、vergeという語は境とか縁、境界線というような意味と、傾き、そちらに向かう動きというような意味とがあるのだけれど(ちなみにconvergeは一点に向かうことであり、convergenceは意見の一致)、その二種類の意味の語源が違うようだという話が(……)くんからあった。どちらもラテン語起源ではあるのだけれど、境界線をあらわすvergeはもともと「杖」をあらわす語からはじまり、それが古英語とか中期英語とかを経て、まず「竿」にうつり、その後ペニスすなわち男性器の意味にひろがり(日本語でも陰茎のことを「竿」というし、形態的イメージを考えても納得の行く派生だ)、で、そこから、たぶん貴族などにつかえる執事が持っている杖に移行して、その杖が空間的に権威や権力の範囲をあらわす象徴として用いられたあたりから、どうも境界方面の意味が生まれてきたのではないかという話だった。ペニスという卑俗領域から一気に高貴な権力へと反転的に飛躍するのが面白いのだけれど、男性器が権力を象徴するというとらえ方は非常にありふれた、ほとんど普遍的なイメージと言っても良いくらいのものだろうし、精神分析理論においてその方面はめちゃくちゃ研究され探究されているはずだから、(……)くんが言ったように、これめっちゃフロイトが好きそうな言葉ですねというのは同意である。
  • この話のなかで、フランス語の辞書にはsens figuratifというのがよく載っていて、象徴的・比喩的な意味の派生がどういう風になされてきたのか、その起源をもとめる系譜学的な情報が記されていると(……)くんは言ったのだが、そういうのをsens figuratifと言うのだなあという点がこちらにはちょっと面白かった。figureの意味論的根幹となる概念は、おそらくは「かたち」だろう。そこから人の姿とか、登場人物とか、人形としてのフィギュアとか、形象とかになるわけだ。だからsens figuratifというのは、意味のかたち、かたちとしての意味、形態的意味、ということになる。英語でもfigureには「比喩」という意味があるようだが、なるほど、比喩というのは(ここでいう比喩とはメタファーのことで、換喩はおそらく省かれるはずだ)かたちとして似ていることやおなじであること、形態的共通性・類似性・同一性を媒介にして発展し派生していくものなのだなあと思った。考えてみればいまさらの、当たり前のことではあるのだろうが、いままでこういう道筋でその点を意識したことはなかったのだ。メタファーにおける「類似性」というのが、とりわけ形態的、ということはおそらく構造的類似性である、ということを明確に認識したことが。ただ、比喩はわかるが、「象徴」にかんしてはまたちょっとべつの要素が入ってくるような気もするのだが。形態的類似性だけでは、象徴というのは導き出されないのではないか。
  • Paunceforteにかんしては(……)くんと(……)さんが持っている版には註が付されており、画像を載せてくれたのだが、そこに、St. Ivesには一九世紀末にWhistlerやSickertが移り住んで制作をした、みたいなことが書かれていた。そういう人々の動向を反映した"an invented artist"(という言葉で説明されていたと思うのだが)だということだろう。Whistlerはともかく、Sickertというのは全然知らない名前だったが、Walter Richard Sickertという一八六〇年生まれの画家がいるらしく、いわゆる「切り裂きジャック」事件の真犯人だとする説があって有名だとWikipediaには書かれていた。
  • 今日はわりと脱線的で、おりおりTo The Lighthouseからべつの方向に逸れていき、(……)さんなどは、まあ年始ですからねと言い、(……)くんはすぐ連想的にずれていってしまうみずからの性分を反省していた。こちらとしては、脱線してもきちんと流れを整えてやっても、どちらでも良い。本篇が終わったあとは、最近(……)くんがやや嵌まっているというか、そのドキュメンタリーというか番組を見て面白かったというNiziUについて語られた。こちらも、たぶん大晦日だったと思うが、テレビでこの人たちのドキュメンタリーみたいなものがやっているのをちょっとだけ見かけて、そこではじめてNiziUというアイドルグループを知った。NiziUという単語自体はそれまでも目にしたことがあったかもしれないが、それがアイドルグループの名前だということはそこではじめて認識した。J.Y. Parkという韓国のプロデューサーが仕掛け人らしく、それで、ああ、あのテレビで女性らにアドバイスか何かかけていた人かと思い当たった。(……)くんによればこの人はすぐれたプロデューサーだと言い、厳しいことは言うけれど、自分があたる相手をけなしたりおとしめたりすることはまったくなく、いつも良いところを見つけてうまく褒めて、きちんと人を育てるということをやっているらしい。また、本人も歌手として、三〇年だか何年だか毎日一日も欠かさず、音域をひろく使ったボイストレーニングをやっており、歌い手としてのからだを鍛錬しているらしい。で、(……)くんは、各方から良い良いという評判を聞いていたけれど、いやいやアイドルなんて大したことないでしょ、どうせ顔で決まるんでしょ、という偏見を持って皮肉げに見ていたところが、番組を見てみるとプロデューサーもパフォーマー本人たちもマジできちんと訓練し、非常に一生懸命努力していたので、いや俺のほうがこの人たちより全然努力してないんじゃないか、もっとがんばらなきゃ、という気持ちになったという。そこに(……)さんが入ってきて、日本人ってそういう努力の物語がめっちゃ好きだよねと幾許かの批判的な感情を示し、それで(……)くんと彼のあいだで論争がはじまった。この二人はよく論争をしている。このときは(……)くんも、完全に真面目に論争するというよりは、ちょっと大げさにふざけながら、(……)さんの反対者を演じて楽しんでいるような調子があったと思う。こちらはベッドに移ってストレッチをやりながら、(……)さんが好きじゃないのは努力の物語なのかそれとも努力の物語を消費することなのかどっちなんですかとたずねたのだが、そのあたりはあまりはっきりしなかった。ただ、のちの発言からするに、パフォーマンスの高さとか楽曲のクオリティとかを取り上げて語り、賞賛するなり広告するなりすれば良いのに、日本で売るってなるとそういう本人たちが必死に努力する様子をアピールして売るのがなんかなあ、という感じらしい。(……)さんは自分で昔(というのは主に高校生の頃だと思うが)はアイドルオタクだったと言っており、そういう売り出し方はいままでにもう幾度も見てきて使い古されたパターンなので、いまさらそれをやられても、という気持ちになるらしい。釈然としない要因はそれだけではないのだと思うが。とはいえ、やはりひろく売るとなるとどうしても実存のドラマが必要になるのではとこちらは言わずもがなのことを言った。で、それはべつに、おそらくとりわけ日本に限ったことではないと思うのだが。ただ、日本社会におけるそういうドラマの受容のされ方の特殊性とかはもしかしたらあるのかもしれない。
  • そういう話と絡めて、また並行して、韓国のポップミュージックの質が最近桁違いに高くなっているという話がなされた。韓国のアイドルは実際マジで人気になっているらしく、たしかにこちらの職場の生徒や講師にも韓国の(主に)男性アイドルのファンだという女性がいくらもいるし、BTSだったかどうか忘れたが、全米マーケットで一位を取るという快挙を成し遂げたものもあるらしい。それはやはり地殻変動的な、時代が変わったというような事件なのだと。で、それを実現するまでには、それまでのここ何十年かの文化的社会的蓄積が当然必要だったわけで、(……)さんも「俺の屍を超えていけみたいな」、と言っていたが、そのあたりの内実が、NiziUの番組でちょっと見えたというのも(……)くんには面白かったようだ。ただ彼が語るに、それを成し遂げたのは高度な訓育システムというか、つまり、ダンスをやるならこう、歌を歌うならこうだという、ひとまずはそれに向かって鍛錬し技術を磨き上げていく共通目標としての型ができあがっていてみんながとりあえずはそれを模範に切磋琢磨するという環境があるからで、ただ一方でそのことがK-POPをどれもわりと似たような、規格化されたような印象をあたえる要因にもなってしまっていて、本当に面白いのはその(かなり急ごしらえではあるかもしれないが)一種の伝統としての型の規範から離反する人々が次々とあらわれはじめるだろうこれからだ、ということだった。まあ文化とか芸術とかいうものはたしかにいつでもそうやって、アンダーグラウンドとメインストリームのあいだを行き来する上下の動きで耕されて進んできたのだとは思う。また、最近のK-POPのクオリティの高さというのは、そういう話にとどまるものではないはずで、しかしその内実の詳細はまだよくわからないという。(……)さんはたぶん、そういうめちゃくちゃ努力して切磋琢磨してというマッチョなシステムの抑圧性が釈然としないのではないか。アイドルっていうと、もうすこしゆるいというか、競争だけではない存在であってほしいというような気持ちがあるのではないか。こちらの想像だが。(……)も最近というかここ一、二年くらいアイドルにやたら嵌まっているようで、Youtubeの音源や映像をよく「(……)」上に紹介しているけれど、彼もいつかの記事に、アイドルっていうくくりなら歌がうまくなくても、ダンスの技術がそんなに高度でなくても、何かひとつでも漠然とした魅力があれば許されて、アイドルとして成り立つというのが良いみたいなことを書いていたおぼえがある。
  • あと日本の(主に女性)アイドルと韓国のアイドルの違いという点についても多少話題になって、このときは(……)さんが話にくわわって、日本のアイドルの恋愛禁止っていつなくなるんですかね、人権ないですよねと口をはさんでいた。たしかに馬鹿げた話だと思う。そこから容易に導き出される展開だが、日本ではやっぱりアイドルってなると、乙女性、要するに処女性ですよね、それが重要なんですか、と訊いてみたところ、やはりどうしてもそういうことはあるのだという答えが口々に返ってきた。(……)さんが言うには、日本だと、アイドルがファンの「所有」の対象になっている、結局は仮想的な所有願望の向かう先になっている、と。したがってまあいわゆる「清純さ」とか、性交をしたことがない、誰にも抱かれたことがない、肉体的精神的にけがされていない、恋愛をしない、パートナーがいないという無垢性が重要になってはくるのだろう。アイドルというのは偶像だから多かれ少なかれどこの国でも、どういう場合でもそうだとは思うが、そういう意味で日本においてはとりわけ「キャラクター」になって完璧に演じることをもとめられるのかもしれない。日本だとそういう感じで女性アイドルはどちらかと言えば少女的な雰囲気で演出されるというか、そういう感じの人が多いのに対して、韓国はもうすこし「大人」な感じがする、という話も多少あった。「大人」というのは単純に、性的なエロスを醸しまとっているような感じ、ということだろう。本当にそうなのか、こちらにはよくわからないし、そんなに確かな話でもなさそうだったが。ただ、(……)さんによれば、韓国にはアイドルは恋愛禁止という慣行的原則はないらしい。それで自分のパートナーを公の場に連れてきたりすると言っていたので、それいいっすねとこちらは思わず受けたのだったが、しかしそれはそれで、そのパートナーやその人との関係が広告塔として使われたりとか、苛烈なバッシングの矛先になったりとかして、問題なのだということだった。TwitterやらSNSやらインターネット上でのバッシングの嵐というのは日本でもどこでもすごいと思うが韓国でもやはりそうらしく、(……)さんは、これまでにいったい何人が自殺してきたかと言っていたし、たしかにこちらの耳目の範囲でも、韓国のアイドルや歌手が自殺したという話題は入ってきたことがある。そういう話を聞きながらなんとなく、韓国のアイドルとか芸能業界での醜聞というのは、ハリウッドのスターとかセレブリティ界隈のスキャンダルに近いのかなというイメージをおぼえたが、そのどちらについてもこちらは何も知っていることはない。
  • ほか、(……)さんが、カニエ・ウェストと仕事をしていたデザイナーが他人のデザインをパクったのか、それともそのひとがパクられたのかおぼえていないが、黒人間の階層問題にも重なりつつそういう事件があったということを話したり、(……)くんが"Richard Gear"というタイトルのちょっと変な、つまりトラックとラップを合わせに行かず、結合をかなりゆるくして隙間を空け、ビートや音でもって空間をこまかく区切って嵌めこもうとせずに気体的なラップをやっている音源を紹介したりとあったのだが、もう気力がないのでひとまず割愛する。
  • あと、(……)さんが再就職についての相談をしたり。(……)
  • みんなそれぞれにああしたらこうしたらとアドバイスをしていたのだけれど、こちらは皆の発言にそれぞれうなずくばかりでなんら助言を思いつけず、やはりいままで己の力でもって現代のコンクリート・ジャングルをサヴァイヴしたことがないから、俺はこういう方面にかんしての経験とか発想とかが弱いのだろうなと思った。それで、二時半になって風呂に行くために離席する際に(今日は一時に終えるのが目標、などと(……)くんも言っていたのに、話しているうちに結局このような遅い時刻に深入りしていくわけである)、世間を全然知らないもので、何も言えずにすみませんと言うと、みんな笑って、(……)くんは、卑下しすぎですとこたえていた。
  • それで入浴に行って、出ればもう三時なので、今日は柔軟をして瞑想をしてもう寝ようと思った。これは進歩である。以前だったらもったいない気がして、もうすこし夜更かしをして遊ぶなり何かをやるなりしていたところだ。しかし進歩したこちらは三時一五分に粛々と明かりを落とし、一〇分間柔軟運動をしたあと枕の上に尻を乗せて目を閉じ、静止状態に入った。心身の疲労はそこまで強くないようだったし、このまま三〇分くらい座って己をすぐれてしずかにしてから寝ようと目論んでいたのだが、いざ座って目を閉じるとやはりからだと意識の実態が立ちどころにあらわになって、いくらも耐えられなかったので六分程度で切って横になった。本当はやはり、就寝直前でなくてそれよりもはやいうちに一回座っておかなければならない。

2021/1/12, Tue.

 化学研究所の壁の外は夜だった。ヨーロッパにはたそがれが訪れていた。チェンバレンミュンヘンでいいようにあしらわれ、ヒトラーは銃弾を一発も撃たずにプラハに入り、フランコバルセロナを屈服させ、マドリッドに腰をすえていた。小悪党でしかないファシズムのイタリアは、アルバニアを占領していた。迫り来る破局の前兆は、家々や、道路や、ひそひそ話や、眠りこんだ良心の上に、ねばりつく露のように凝結していた。
 (プリーモ・レーヴィ/竹山博英訳『周期律――元素追想』(工作舎、一九九二年)、60; 「4 鉄」)



  • 一一時過ぎに一応覚めたはずだが、例によってすぐに起きられず、だらだらととどまって正午。やはり寒気のために布団から出るのに気後れするところはあるようだ。あと、とにかくまぶたをあける努力をしなければならない。当然の話だが、意識を失わなくとも目を閉じたままでいるとなかなか起き上がる態勢にはならない。
  • ベッド縁に座ってヒーターに当たりつつ、手首や指を伸ばしてから上階へ。瞑想はいったん省いた。雪の予報がいわれていたが、降っていない。とはいえ窓外は曇りの白さを強めている。食事を終えた頃に上がってきた父親が窓に寄って降り出したと言い、それで洗濯物が取りこまれたが、かすかなもので、午後一時現在、続くものはない。
  • ハムエッグを焼いて大根の味噌汁とともに食事。新聞の訃報欄には、宇波彰の名があった。ドゥルーズなどを訳している人だ。八七歳とあったような気がする。ほか、国際面から、ローマ教皇がマスクをつけないことが物議を醸しているという話題。バチカンの一般職員はマスク着用を課せられているのだが、なぜか教皇自身は公の儀典の場などでマスクをつけず、一部で批判の声があるという。若い頃に片肺を摘出しているらしいのでそれが関係しているのではとの憶測もあるが、真相は知れない。バチカンは人口八〇〇人のうち、二六人が感染していて、教皇の側近もそのなかに含まれているという。より深刻なのが東方で、正教会地域では高位の司祭などが感染に倒れ、死んだ者もあると。こまかい職掌は忘れたが、死んだある司祭だか司教だか主教だかの葬式を執りおこなった司祭だか司教だか主教だかが続けてウイルスに倒れ、亡くなり、その二人目の葬儀を仕切ったまたべつの司祭も感染する、というような連鎖が起こっているらしい。彼らはいずれも葬儀のときにマスクをつけず、遺体にキスすることもあったと。まあ実際の感染源は不明だろうが、正教会組織内部で感染がけっこうひろがっているというのは事実のようだ。そして、教会運営側はマスクをつけない事情について何もあきらかにしていないが、一部信徒にはマスク着用は神への冒瀆だという声があるという。いわく、神の加護によって我々はまもられている(したがってマスクをつける必要はなく、着用はむしろ神の力を信じない不敬虔だ、という理屈だろう)、神聖なる教会で感染は起こらない、とのこと。しかし現実に感染は起こっているわけで、この信徒の言い分は、彼らにしてみれば信仰の問題だから切実なのだろうとは思うけれど、とはいえ現象的事実を認めない非明晰主義だと言わざるをえない。現象的事実と照らし合わせる限り、「神聖なる教会で感染は起こらない」という命題は偽である。この一文が偽でないとしたら、「神聖なる教会」だと思われているものが、実は神からは「神聖なる教会」と認められていない、ということになる。
  • 食後、母親と、茶がうまくないと文句を言い合う。いま茶壺に入っている緑茶は母親がメルカリで買ったもので、一二〇〇円のけっこう値が張るものが三つセットで半額、すなわち三六〇〇円が一八〇〇円になっていたもので、メーカーもしくは茶屋が売っていたものらしいのだけれど、それにしてはうまくないなとけなし合う。しかしそれがあと二袋もあまっているわけだ。俺は飲まんぞ、つぎ茶壺が空いたらさっさともっとおいしい茶にうつるぞと宣言しておく。母親もおいしくないという点に同意しており、淹れ方が適当だから悪いのかもしれないが、いましがた飲んでみても、やはり苦味が、なんというのか、粗雑な感じの苦味でまとまりがなく、全然うまくない。飲めないほどまずくもないが、全然うまくはない。それで、うがいのときに使うくらいしかないかと案が挙がったが、どうなるかは不明。どこか他人にあげるのも手だが、自分で飲んでうまくなかったものをひとの家に贈るというのも不義理な話だろう。
  • それでも飲まなければなくならないので、食後に皿と風呂を洗うと用意して帰室。コンピューターを準備し、飲みながらここまで記述すると一時半を過ぎたところだ。
  • Notionを準備している最中に、「あやまちがわたしを生かす地獄から追放されたのちの朝まで」という一首をつくった。
  • 次いでいま、歯を磨きながら、「檻に似たこの時空では夢想しかやることがない生きるためには」、「月よ知れ君に照らせぬ場所があるかの地にて待とう次の宇宙を」という二首をつくった。
  • 歯磨きをしたあと、調身。Thelonious Monk『Solo Monk』とともに。やはり一日のうちでなるべくはやく、さっさと柔軟をしてからだを整えるに限る。このときは三〇分強。合蹠を三度繰りかえしてかなり深いところまでやった。柔軟をしていると思い出すのだけれど、小中学校時代の同級生に(……)という女子がいて、彼女はバレエだか新体操だかを習っていて、小学校時代ですでに左右にまっすぐほぼ一八〇度に開脚しながら上体を前に倒してぺたりと床につけるということができていたおぼえがある。あと、中学のときの同級生には(……)というやつがいて、こいつはなんだかちょっと変な感じのやつで、『天空の城ラピュタ』の台詞を暗記していて全部言えるとか豪語しており、実際に、全部かどうかはわからないがすくなくとも一部は暗唱できたのだけれど、彼もなぜか、柔軟が趣味だったのか、座位前屈でからだをぺたりと倒すことができていた記憶がある。彼らはすごかったんだなあ、身体的エリートだったんだなあと思うものだ。それで言えば数年前、嵐の相葉、なんといったか下の名前を忘れたがあの相葉という人がMCをつとめていた『グッと! スポーツ』とかいうタイトルの、午後一一時頃からやっていたテレビ番組にヨガの世界チャンピオンみたいな女性が出演したことがあって、そのパフォーマンスはすごく、まさしく人間業ではなかった。人間種族としての身体性を完全に超越して、骨のない生物か液体になったかのような動き方だった。あれはマジでめちゃくちゃにすごい。どういう訓練をしたらああなるのか理解できない。
  • 柔軟後、二時半から音楽を聞いた。一日活動したあとだと疲労で意識が濁ってどうしても音がよく見えなくなるので、音楽も聞くなら一日のうちのはやい時間のほうが良い。まず、Bill Evans Trioの『The Complete Village Vanguard Recordings, 1961』から、"All of You (take 1)"。Bill Evansの恒常的不動性がこのトリオの基底を敷き、音楽に軸を通して支えているというのは先日書いたとおりである。で、それにもとづいて音楽の加速減速をその都度設定しているのが、すくなくともこの曲ではScott LaFaroである。まあ当たり前と言えばそうだろうが。Paul Motianは相変わらず、あまりよくわからない。Bill Evansはずっと一定なので、LaFaroはかなり自由に、音の配置や長短を調整して、ビートや進行感や拡散/集束の相をあやつることができる。この曲だと、すくなくともMotianがスティックに持ち替えてワンコーラスあと、本格的にフォービートを叩き出してLaFaroもそれに応じて一拍に四つ刻みはじめるまではそうだと思う。で、そこでのLaFaroの調節の仕方は、やはり尋常のベーシストや尋常の音楽にくらべてかなりこまかく聞こえる。そんなに音を多くしたり、脇道に逸脱したりはしておらず、わりと普通に、朴訥気味に置いていると思うのだけれど、ずらし方や休符のつくり方などがこまかく、流体的あるいは流動的である。ここ数年、この"All of You"やこのライブアルバムを聞いてはその都度、ここでのBill Evans Trioの様相をさまざまな言葉や比喩で言い表そうと試みてきたわけだけれど、そのなかでは、固体・液体・気体の物質の三様態にたくしたイメージが、なんとなく一番相応するような気がしないでもない。Evansが宝玉的にかがやかしく不動の堅固な固体、LaFaroがときにすばやくときに緩慢にしかし常によどみなく流れゆく液体、Motianが空間を淡く煙らせながらつつみこむ気体である。ところでベースソロが終わってテーマにもどるとき、たぶん一小節か二小節くらいするとすぐに、LaFaroは急に、ほとんど直角的な動きでもって下方に飛びおりて、バースチェンジでドラムがソロをはさむまであとはずっとシンコペーションを反復するのだけれど、いままで何度も聞いていたここに今日あらためておどろいた。自分のソロが終わって直後に、これなのかと思った。すくなくとも数拍のあいだは、普通に行く気配ではじまっていたのだけれど、数秒すると突然にきっと方向転換して位置を定めるそのクイックネスの高さにちょっとビビった。Motianのソロはやはりキックの入れ方が意味がわからない。
  • 次にFISHMANSの『Oh! Mountain』から"RUNNING MAN"と"夜の想い"。前者は冒頭から、右のギターの音色が気持ち良い。また、キックの打音と合わさったベースの重さ、中身がしっかり詰まっている感じがすばらしい。すくなくとも『Oh! Mountain』に限っても、柏原譲のベースがすばらしくない瞬間など存在しないし、ほかのアルバムにおいてもだいたいそうだと思うが。"夜の想い"にしても、FISHMANSの楽曲全般にしてもそうだが、パターン化されたリズムを反復することの魅惑と快楽に満ちみちている。音楽ってだいたいどれもそうかもしれないが、FISHMANSはとりわけそれを体現している。"夜の想い"は最後の、ラララランララーラ、ラララランララランラララン、の素朴なコーラスの繰りかえしでそのまま終わっていくのが良くて、肌がちょっとふるえた。
  • 最後に、Jesse van Ruller & Bert van den Brink, "Amsterdam", "Good Bait"(『In Pursuit』: #6, 7)。このあいだ聞いたときは眠くてうまく聞けなかったので。"Amsterdam"はたしかvan Rullerのオリジナルで、五拍子の曲。やはりBert van den Brinkのうまさが際立って聞こえる。van Rullerのソロのあいだは、バッキングで彼が完全に流れと展開を先導的に生み出していると思う。ソロにせよバッキングにせよ、そういう構築の仕方がどうしたってうまい。こういうのはやはりピアノとギターではピアノのほうが最高で一〇音鳴らせるし、両手を使うから離れた音域を混ぜやすくて、どうしてもそちらのほうが多彩になるのだろうなと思う。van den Brinkはソロもうまく、"Amsterdam"でもそうで、とにかくセンスが良い。通り一遍の退屈な弾き方を全然しない。van Rullerが大したことのないギタリストであるわけがないが、どうしても聞いているとピアノの巧みさのほうに印象を持っていかれてしまう。
  • "Good Bait"は誰がつくったのかと検索してみると、Tadd DameronCount Basieの曲らしい。四四年に世にあらわれたらしい。John Coltraneがやっているやつしかほかに知らないが、かなり色々なところでやられているようだ。この音源ではvan den Brinkが最低音域でゆっくり這いながらはじまって、そこにギターが茫洋と入ってくる。van Rullerはソロのあいだ、ブルージーな曲なので、けっこう後ノリというか流れをちょっと減速させてゆっくり弾く場面があるのだけれど、やはり端正さと几帳面さが捨てきれないというか全然レイドバックした感じになっておらず、それがちょっと面白かった。しかしひとつらなりの流れの中心部でこまかく動かすフレージングは洒脱で良かった。で、van Rullerを受けてはじまるピアノのソロは左手をしずかにバタバタやって和音をひろげて柔らかく敷くようなアプローチからはじめており、うーん、この流れでこういう風に受けてはじめるのか、というのはやはりうなる。右手のメロディも鮮やかで、歌い上げており、二コーラス目かどこか忘れたけれど、たぶんコーラスの転換部だったか、小節の頭からわりと高いほうで六連符の単位的フレーズを繰りかえすところがあって、前回聞いたときもここは印象に残り、ロックギターでいうところのラン奏法だと書いたところだが、こういう風に飛べるのだなあというのはやはり耳に残る。後半、バースチェンジの途中にも似た展開があって、このバースチェンジはギターもピアノも良かったが、その最中にピアノが上記の箇所よりも出し抜けに連続フレーズに行ったところがあった記憶があるが、よくおぼえていない。このトラックは次回もう一度聞く。
  • 音楽を聞いていたのは二時半から三時四分まで、三四分間なのだが、その感想を綴るのには四時過ぎまで一時間ほど、だいたい倍だけかかっている。どうもそういうものらしい。上記の感想まで記したところで四時を越えて、ふたたび柔軟をおこなった。BGMはまたも『Solo Monk』。合蹠がとにかくすごい。合蹠のポーズで音楽を聞きながら静止しているだけで、太腿や脛まですべて筋肉のなかのほうが呼吸の動きで伸縮するからだろうが、血流がよくなるらしくからだが楽になる。ただ、あまり急いで負荷を高くし、深いところまで行こうとしないほうが良い。つまり、あまり性急に上体を倒しすぎないほうが良い。まずは浅いところできちんと止まって、そこでじっと耐え、その付近の肉からほぐしていくべきだろう。あと、最近心臓のあたり、左胸がたまに痛くなるのも気になる。昨日、号令時にそこそこ強い緊張の訪れもあったし、不安障害パニック障害のなごりがささやかに回帰していて心臓神経症が垣間見えているのかもしれないが、どちらかといえば器質的なもののような気がする。だとすれば、ストレッチをして血流が良くなったときなどに痛むというのは、血管になんらかのダメージがあるのではないか。そのうち死ぬかもしれない。
  • 雪は降らず。雨はいくらか降っていたようだが、柔軟をしているときには、右側からスピーカーが吐き出すMonkの、ちょっとごつごつとした感触の、しかし滋味深い色をしたピアノの和音が聞こえるのに対して(曲はたぶん、"I Hadn't Anyone Till You"だったと思う)、左手の窓外からは鳥の鳴きが入ってきて、あまり雨中でああいう声は聞かない気がするのでもうやんでいたか、降っていてもかすかなものだったのだろうと思う。
  • 四時四〇分で上階へ。アイロン掛けをする。テレビは母親が、録画しておいたなかから適当に選び、たしか『京都音めぐり』とかいう番組を流した。「洛中レトロさんぽ」とか題された会。冒頭、大正時代の蒸気機関車の黒光りするパーツや車体とその周りで体操をする中高年の男性たちの映像からはじまって、なかなか良い雰囲気。どこかの公園で機関車が利用されているらしく、幼稚園の子どもたちが所狭しとそれに乗って楽しげにしている。母親は、昭和記念公園みたいだねと言い、また、あれは何年か前の映像だろうね、いまだったらあんなことできないもんねと続けた。座席に寄り集まっている児童たちが誰もマスクをつけていなかったことについてそう言ったのだ。それから旧明倫小学校という場所にカメラは移り、廊下を映したのだけれど、これがなるほど昭和もしくは大正の、戦前を思わせる雰囲気の、白壁に重い黒茶色の木張りの廊下だった。その学校には大正時代に父兄から寄贈されたチェコ製のピアノが一台あり(Petrofというメーカー)、男性がそれを調律しているさまが映される。忘れ去られて五〇年間、倉庫に眠っていたらしい。その後、舞台は新京極に移り、老舗の鰻屋で寄席がひらかれているところが紹介されて、壁掛け時計がカチカチ鳴っているカットで終了。たしかはじまりも、蒸気機関車よりも前に壁掛け時計が映っていた気がする。そのあと今度は『知ってるワイフ』とかいうドラマが選ばれたのだが、これはいまのところ特に面白い点はない。幼子二人を育てる若い夫婦がそれぞれに苦労や負担やストレスをかかえていがみ合うという導入部までしか見ていない。男性は神木隆之介だろうか? とちょっと思ったのだけれど、違うよう。誰だか知らない。女性は広瀬アリスという人だったと思う。ストレスが溜まると爆発して感情的に怒鳴り散らす女性を演じていて、夫である男性はソクラテスなど引いて「悪妻」と独白しており、たしかにあんな風に怒鳴り散らされたらこちらなどは死んでしまうが、子育てと労働に奮闘する世の女性にしてみればきっと言い分はあって、ああやって怒鳴りたくなるときもあるよねえという感じではないだろうか。
  • アイロン掛けを終えると食事の支度。豚肉があるのでタマネギとそれを炒める。一方で煮込みうどんが食いたかったので用意。ソテーは焼き肉のタレで味つけ。タマネギがどうもしんなりしてしまう。野菜炒めをやるといつもそうで、本当は肉をもっと熱して赤味がもう完全になくなったくらいでタマネギを入れ、野菜はちょっと火を通すだけで調味したほうが良いのかもしれない。しかし単純に、家庭用コンロの火力では不足ということもあるのかもしれない。こちらがソテーとうどんをつくるかたわら、母親はストーブの上で茹でておいた里芋を面倒臭がりながら剝き、固いから駄目だといくつかはじきながら鍋で煮転がしていた。
  • うどんができるとそのまま食事。六時頃だった。夕刊を見る。まず「日本史アップデート」。いわゆる鎖国について。国を完全に閉ざして国際社会から孤立していたという従来の「鎖国」論はもう古く、いわゆる「四つの口」で外交交易を安定的に保っていた江戸時代の日本、というとらえ方が主流になってきていると。「四つの口」はたしかにこちらが高校生のときもすでにそう教えられていたが、七〇年代くらいからだんだんと見直しがはじまり、二〇〇〇年以降、「鎖国」の表現に留保をつける学者が増えてきたらしい。もともと「鎖国」の語は、ケンペルというドイツ人の医師が『日本誌』という著作のなかで「国を閉ざしている日本」と書いたのを、一八〇一年に志筑忠雄という蘭学者が訳した際に「鎖国論」という語をもちいたのが起源らしい。このあたりの知識はたしかに高校日本史の範囲でやったおぼえがある。ケンペルというのは一七世紀末に来日した人で、当時はたぶん五代目の綱吉の時期ではないか。たしか昔、山川出版社から出ている「日本史リブレット」の『徳川綱吉』を読んだとき、本の冒頭付近だった気がするが、ケンペルが将軍に謁見した際に見た江戸城中の様子が紹介されていたような記憶がある。で、「鎖国」の語が一般にひろまったのは明治二〇年代以降、すなわち一九世紀末以降だというが、明治政府が「開国」と対比して江戸時代の日本を「鎖国」と称していくらかおとしめるようなキャンペーンを展開したというのがその要因のようだ。記事下に載っている参考文献をメモしておくと、荒野泰典『「鎖国」を見直す』(岩波現代文庫)、『近世日本と東アジア』(東京大学出版会)、大島明秀『「鎖国」という言説』(ミネルヴァ書房)の三つ。
  • 一面には、朝刊の一面にも載っていたが、ソフトバンクから楽天モバイルに移った四五歳の男性が、いわゆる5Gにかんするソフトバンクの機密情報を持ち出して、不正競争防止法違反で逮捕されたとの報。この人は二〇一九年一二月三一日までソフトバンクの社員で、たしか「伝送エンジニア」とかいう役職をやっていたらしいのだが、その最後の日に社外から私有のパソコンでソフトバンクのサーバーにアクセスし、情報を添付したメールを自分に送ることで盗み出し、翌二〇二〇年一月一日に楽天モバイルに転職したのだという。持ち出された情報は、4Gおよび5Gの基地局の情報や、5Gを構築するネットワークについての情報とか書かれてあったと思うが、それがどういったものなのかはもちろんこちらにはまったく理解できない。
  • 一面にはほか、米下院で民主党ドナルド・トランプに対する弾劾訴追決議案を提出した旨。一三日に採決の見込み。ペンス副大統領に大統領の権限を移譲する手続きをおこなうようもとめる決議もなされる予定らしく、副大統領がそれに応じなかったら弾劾訴追を採決、という流れのようだ。下院議長をつとめている民主党ナンシー・ペロシという女性はたしかもう八〇歳くらいの人で、若々しい人だが、たぶんここ数年ずっと下院議長をやっていて、おそらく民主党にとってはめちゃくちゃ安定的で頼りになる重鎮、みたいな感じではないかと思うのだけれど、その経歴とかはちょっと気になる。
  • 食事を終えると食器を始末し、アイロンをかけた自分のシャツを下階に運び、かわりに急須と湯呑みを持ってきてまたうまくない緑茶を用意する。そのうまくない緑茶を部屋に持ち帰るとうまくないと想いつつ飲みながら日記をここまで書き足し、七時半を越えた。あと、忘れていたが、夕刊の編集小欄みたいなところには鈴木牧之の『北越雪譜』が触れられていて、これも高校日本史で名前を知ったおぼえがあり、たしか川端康成が『雪国』の後半に出てくる村だか小さな町だかの記述の下敷きにしたのがこの本だったような気がする。ちょっと読みたい。高校日本史ではたしか鈴木牧之とおなじくくりでほぼ隣り合って菅江真澄が出てきたようなおぼえもあるのだけれど、これもちょっと読みたい。
  • 食後、八時から半頃まで「英語」を音読。そして入浴。風呂に入っているあいだ、この日だったかこの前日だったか定かでないが、徹底的に防戦的な主体になりたいみたいなことを考えた。つまり以前も記した他人に何かをもとめたくないということの延長線上で、まあ何かをやっていればなんだかんだ言ってくる人はいつもいるし、他人のほうは本質上こちらに何かをもとめてきたり攻撃してきたりする存在なのでそれは良いのだが、自分のほうからはそれに対してなるべく反撃したくない、というような感じだ。周囲から攻撃され続け、無数の傷を負いながらも最終的には倒れず、かといって相手に攻撃を返しもせずにただボロボロに傷つきながらも毅然と立って歩みつづけるというロマンティックなイメージ。それを徹底的に防戦的、という形容で言い表した。まあ実際、反撃はしてしまうし、しなければならないこともあるだろうが、できればそういう主体もしくは存在に近いものになりたいなと夢想した。
  • 黙るということができない、というのが人間の不幸のひとつだと思う。完全に黙る必要はないとしても、すくなくとも、自分の関心ではないことについても黙ることができない、というのが人間の不幸のひとつだと思う。文字として毎日これだけべらべら喋っているこちらが言えたことではないが。
  • 入浴後は「(……)」の三人と通話。(……)
  • (……)
  • それで零時過ぎに終了。終わったあとも、Google Documentに取っていた簡易記録をちょっとのあいだいじっていて、(……)の名に脚注を付して、「9割方はじゃがいも。」などというくだらない文言を付けくわえるおふざけを設置したりしていたのだが、そのうちに、どうせだからなんかエピグラフでも仕込んでおきたいなと思って、記録文書だからなんか記憶とか記録とか歴史にかんするアフォリズムでもないかなと思い、記憶をたどっても思いつかなかったのでネット上を適当に検索しているうちに、記憶っていったらやっぱりプルーストじゃね? と思い、プルーストの名言をまとめた俗っぽいページを閲覧し、なかに、"Time passes, and little by little everything that we have spoken in falsehood becomes true."という一節を発見して、『失われた時を求めて』のなかでこのような文言を読んだ記憶がないし出典はわからないが、これで良いかと決めてドキュメントページに付しておいた。「時は過ぎていき、そしてすこしずつ、我々が口にしてきたすべての嘘は真実となる」と訳しておいた。現実味の欠けた嘘のようにして口にされた夢想が時を経て次第に真実となっていく、という実現物語の意で取ったのだが、プルーストのことだからむしろ、過去の記憶は当てにならないもので、不正確に口にされて当時は虚偽だとわかっていた言葉が時を経ると真実として確定されてしまう、というような意味なのかもしれない。まあどちらにしても記録文書に付すものとしてそれほど悪くはない。それを貼りつけたあたりでこちらのカーソル以外にも画面上にカーソルが生まれ、「nice!」と出たので、(……)がまだ起きているのだなと思って「寝たまえ。」と打っておいてこちらも去った。
  • あとは下の(……)さんのブログを読み、一一日の日記を書き足し、メルヴィルをすこしだけ読み進めたくらい。
  • (……)さんのブログ、一月三日。

「動乱」、「擾乱」、「突然変異」において「考えることは、見ることと話すことのあいだの間隙、分離において行われる」。ゆえにそれはダイアグラムの新たな創出であり、それは賽の一擲、切り札を繰り出す賭博者の「勝負」だ。競争でも利益でもなく、純然たる分娩の、概念の戦いだ。〈外〉の風に曝された、博徒どもの永遠の戦い。その静謐なる擾乱。そう、ブランショは、この外の風が吹きつける案出の時を、「夜」と呼んでいたのだった。彼はこう言っていたのだった。「夜のなかで、獣が他の獣の声を聞くような瞬間が常にあるものだ。それがもうひとつの夜である」。書く-者たちの戦い。その夜の、〈外〉の嵐。永遠の夜戦。確認する。〈外〉は内部の外部だから外なのではない。そのような実体化された外部など全然問題ではない。内部において内部を創り出す者が生きるものこそが〈外〉なのだ。主体は、創造行為の賭博において、〈外〉の襲来の襞となり、かぎ裂きとなる。「かぎ裂きは、もはや、布における偶発事ではなく、外側の布がねじれ、嵌入し、二重化するときの新しい規則となるのである。『随意』の規則、または偶然の放出、賽の一擲だ」。「内とは外の作用であり、それはある主体化である」。そして、われわれは作者となる。われわれは無限の案出の、アントロポスの中空の、歴史の絶対的な終わり無さのなかで「〈外〉の嵌入」として生き続けるのだ。われわれは、作者である。「『もはや作者はいない』などという人々は、……自惚れもいいところです」。
 (佐々木中『定本 夜戦と永遠(下)』p.369-370)

  • 同日。

また、以下のくだりを読んだとき、高校生のころのじぶんがまさしくこのような「暇」に取り憑かれていたことをはっとして思い出した。思い出すと同時に、あれほどまでに悩まされていたものをも失念してしまいかけていたじぶんの愚かさにちょっと薄寒いものをおぼえもした。

熊谷(…)これもやはり以前、上岡さんから教わったエピソードなのですが、いわゆる「非行少年」に、「なぜ薬物を使ったのか?」と聞くと、「暇だったから」と答えることがあるそうです。そうすると多くの大人はどうしても「暇だから薬物をやるなんて!」「とんでもない。けしからん!!」と思ってしまう。でも、大人はしばしば、少年が使う言葉の意味を取り違えます。上岡さんは、「非行少年」は単に悪ぶってそう言うのではなく、「暇」という言葉で、地獄のような苦しみを表現しているのだと。そしてそこから救われようと、いわば祈りの行為として非行に走ったのだ、と言われていました。
 いっぽう國分さんは、『暇と退屈の倫理学』のなかでパスカルを引きつつ、退屈は、人間の苦しみのなかでも最も苦しい苦悩だと書かれていました。「退屈」なんてたいしたことではないと思われているが、それがしのげるのであれば、じつは人間はどんなことでもやるんだと。「退屈」は、それほどたいへんなことなのだと説明されていた。
國分功一郎/熊谷晋一郎『〈責任〉の生成ー中動態と当事者研究』 p.124-125)

「暇」というのはまさしく「地獄のような苦しみ」であったし、「人間の苦しみのなかでも最も苦しい苦悩」といいたくなるほどきついものだった。だから「そこから救われようと、いわば祈りの行為として非行に走った」と自分の場合はおそらくいえない、むしろ非行も含めてまた暇であり退屈であったというのが率直なところであるのだが、留年をおどされたのでやむなく試験勉強した倫理の教科書で知ったアパシーという言葉にこれこそいまのじぶんではないかと驚いたのが高校一年生のたしか三学期、以降このアパシーという言葉を呪いのようにずっと持ち運び続けていたのだったし、いまでもはっきりおぼえているのはたぶん高校二年生のときだったと思うが、風呂場に足を踏み入れてシャワーを浴びる直前、鏡の前でたちつくし心臓の上に右手の指先の爪をつきたてながら、いまがどん底だ、これ以上苦しい時期は今後の人生で二度とおとずれない、ここを乗り越えたらおれは今後なにが起きても絶対に生きていける、だから絶対にこの苦しさを忘れてはいけない、忘れようとする動きに絶対に抵抗しなければならないと誓った夜のことで、その苦しさそのものはもう思い出すことができないがそのときの誓いのほとんど狂気じみていた執心はいまでもおぼえている、だからこの本の一節を読んだときに思い出すことができた。

  • メモ: Kassel Jaeger『Swamps/Things』、Sesoneon『Nonadaptation』。ノイズミュージックを全然聞いたことがない。ノイズ以前に、そもそも電子音楽方面を。昔読みまくっていた「(……)」というブログが、Zbigniew KarkowskiとPITA(Peter Rehberg)とRussell Haswellという人々をよく推していたが、まったく聞いたことがない。Megoというレーベルの名前はそこでおぼえた。

2021/1/11, Mon.

 パンフレットには、初めに読んだ時に見逃がしてしまったある事項が書いてあった。亜鉛は非常に敏感で、繊細で、酸には簡単に屈し、あっという間に解かされてしまうのだが、純度の高い時は大きく違った反応を示すのだった。亜鉛は純粋なら、酸の攻撃にも執拗に抵抗した。このことから、相反する哲学的考察が引き出せた。一つは鎖帷子[かたびら]のように悪から身を守ってくれる純粋性の賛美、もう一つは変化への、つまり生命へのきっかけとなる不純性の賛美だった。私はうんざりするほど教訓的な第一の賛美を拒絶し、はるかにふさわしいと思えた第二の賛美をあれこれと考えてみた。車輪が回り、生命が増殖するためには、不純物が、不純なものの中の不純物が必要である。周知のように、それは耕地にも、もし肥沃であってほしいのなら、必要なのだ。不一致が、相違が、塩やからしの粒が必要なのだ。ファシズムはそれを必要とせずに、禁じている。だからおまえはファシストではないのだ。ファシズムはみなが同じであるように望んでいるが、おまえは同じではない。だが汚点のない美徳など存在しないし、もし存在するなら、忌むべきなのだ。だから試薬びんの中の硫酸銅の溶液を手に取り、硫酸に一滴加え、反応が起こるか見守ってみる。亜鉛は目を覚まし、水素の泡が作る白い膜に身を包まれ始める。そら、始まった。魔法がかかった。もうそのままにしておいて、実験室を歩き回り、他のものたちが何をしているのか、何か目新しいことがあるか、見ることができる。
 (プリーモ・レーヴィ/竹山博英訳『周期律――元素追想』(工作舎、一九九二年)、54~55; 「3 亜鉛」)



  • ファシズムはみなが同じであるように望んでいるが、おまえは同じではない。だが汚点のない美徳など存在しないし、もし存在するなら、忌むべきなのだ」。
  • 一〇時に覚めた記憶があるが、結局一一時過ぎ。いつもどおり。一応消灯ははやくなっていて、昨日は二時三二分だったのだが、なぜか起床がそれに応じてはやまってこない。したがって滞在は長くなり、ここのところは大抵八時間台で、七時間に収まることがなくなってしまった。からだはよくほぐしていて以前よりもよほどコンディションは良いはずなのに、どういうわけなのか。
  • 今日はあまり晴れ晴れしくない天気で、曇りである。今日の夜から明日にかけて東京でも雪だとかいわれている。トイレで小便を捨ててきてから瞑想をした。一一時二八分から四六分まで。たしかに座っていても、顔の肌に触れる空気の冷たさが強い。今日は最初のうちは動きを止めてしずかにしなければという能動性が漏れていてそれがかえって良くないようだったが、途中から、ただ座って呼吸をしていれば良いのだの意識にほぼ落ち着いた。身体感覚としてはそこまで平滑化しなかったようだが、べつに良い。
  • 上階へ。炒飯とモツ煮。温めて食べはじめると両親が帰宅。墓参りに行っていたのだ。新聞では東浩紀が『ゲンロン戦記』刊行を機に紹介されていた。会社を運営して実社会でのあれこれを経験したために、人間がよりわかるようになったと。具体的にどういうことがあったのかわからないが、この一〇年を通してわかったのは、「ぼくがばかだったということ」と言っていた。面白かったのは、昔、難しい言葉遣いで色々言ったり書いたりしていたのは、あれは一種の「エンタメ」に過ぎなかったと言っていたことだ。学問とか芸術とかの高貴さ偉大さ輝かしさを強く信じている人からはまた叩かれそうな言葉選びだが、哲学思想界隈の文章が主には大向こうに対するパフォーマンスになるという側面はどうしたってあるだろう。ここでいう「エンタメ」とは、ひろく大衆性を獲得したコンテンツというよりは、そういう一部の通人を楽しませるだけで終わってしまうもの、ということだろう。東浩紀はずっとそういうことを、つまり、批評とか思想とかの業界は狭い、その外の世界に届けたりその世界を取りこんだりすることができていない、と、すくなくともある時期からは(それがいつからなのかは知らないが)一貫して言い続けてきていると思う。そういう姿勢と考えはときに俗っぽいものとして現象することもある(あった)ので、その点においては完全に乗り切ることはできないが、しかし彼の言っていることは正論である。で、そこから導き出される順当な展開として、近年のいわゆる「リベラル派知識人」は、上から目線で「説教」をしているだけという風に、すくなくとも世間とか門外漢からは映ってしまう、という懸案が出てくる。この点にかんしてはここ数か月、(……)さんもブログにおりおり書きつけているし、こちらとしても多少考えるところはあるのだけれど、いまはからだが疲れていて面倒臭いので詳述はのちにゆだねる。ただ思うのは、正論を言うだけでは人間は変わらないということ、SNSなどの社会的およびもっぱら言語的な領域ではともかく、個人として人間と関係してその人になにがしかの影響を与えようと思ったら、身体的かつ長期の関係が必要だろうということ、ある意味で「取り入る」ことが必要なのではないかということ、そしてそれはもちろん常に、「取りこまれる」危険性と隣り合わせなのだということ、上から目線で「説教」をされたと感じて反発し、かたくなに硬直化した人々が生み出したものこそがまさしくドナルド・トランプだったのではないかということ、ことには実存と承認がかならずついてまわるのだということ、というあたりだ。
  • 食後、皿と風呂を洗い、帰室。コンピューターを準備して昨日の記事を綴りはじめたのだが、キーボードの上を動いて打つ指が冷たく、固くてあまりうまく動かないので、いったんヒーターの前に行って手首や一本一本の指の筋を引っ張り伸ばした。それでデスクにもどって記述。昨日の分も今日の分も一挙に書いてしまった。打鍵ぶりはなかなか悪くない。というのは、あまり指を急がせず、バタバタせずに書けているということだ。キーボードを使って文章を書くということを、もっと身体的なおこないとして意識していく必要がある。現在二時過ぎ。
  • ベッドでハーマン・メルヴィル千石英世訳『白鯨 モービィ・ディック 下』(講談社文芸文庫、二〇〇〇年)を書見。374に、料理人の「羊皮紙色の太鼓腹」。どんな色なのかまったくわからないのだが、どうも色の業界ではパーチメントという語でやや黄緑がかった薄灰色を指すらしい。420には「鹿角精 [アンモニア]」という表記が出てきた。検索すると、hartshornという語に行き当たる。これが雄鹿の角のほか、そこから採取される粗製炭酸アンモニウム、すなわち気付け薬(smelling salts)を指すらしい。439には「水面に波紋を描く同心円が、外へと広がりながらも消えがてに消えて行くのに似て」とあって、「~がてに」というのはどこかで聞いたことがあるがどういう意味なのだろうと思ってメモしておいた。古語で、「~できずに」とか、「~に耐えられず」とか、「~しかねて」というような感じらしい。もともと「かてに」だったのが濁音化し、くわえてのちに「難し」の変化と混同されたという。ここの例だと、消えられずに消えていくというのはどういうことやねんと思うが、消えかねながらもついに消えていくというようなニュアンスだろうか。440には「面差し」が出てきて、べつにいま知った語ではないが、これはなんだか良い言葉だなと思った。顔つきを「差す」という語をつかってあらわすのが良い。
  • 四時前で切り。柔軟をしてから上階へ行って食事。豆腐と味噌汁を食ったはず。母親が送ってくれるというので甘える。音読の時間を確保したかったのだ。それでもどり、歯磨きのあいだ、小出斉『ブルースCDガイド・ブック 2.0』という本を適当にひらいて見ていたのだが、これはすごい仕事だ。非常に価値のある仕事だと思う。このときひらいたのは454ページで、Ted Hawkinsという人を知った。ずっと路上で歌っていた人らしい。アコギ一本だけを伴奏にして歌うというスタイルでやっているすべてのミュージシャンに対する憧れをこちらは持っている。Freddy Robinsonという人も同ページに載っており、ジャズファンク方面で活躍した人らしく、John Mayallのバンドに在籍したこともあるというが、この人の『The Real Thing At Last』も「弾き語りに近」い作らしい。イスラームに回収して以後はAbu Talibを名乗っていたようだ。
  • 「英語」を音読したのち、五時半に出発。宵空は全面曇って灰色に沈んでいたおぼえがある。車の助手席に乗ってしばらく。道の先の建物が、くすんだ空を背景にして黒くかたまっていた。駅前で降車。時刻表をもらってきてくれと言われていたので、駅に入って窓口でもらってから職場へ。
  • 勤務。(……)
  • (……)
  • (……)
  • (……)
  • (……)
  • (……)
  • (……)
  • そういうもろもろをやっていて退勤は一〇時半とかなり遅くなった。駅に入って電車に乗ると、(……)と遭遇。この日が成人の日だったので、成人式がどうのと雑談を交わす。最寄りでともに降り、雑談を続けながら彼の家のほうから遠回りして帰る。やたら寒かったが。(……)の姉が行方不明になっているという話があった。(……)というのは三丁目に実家がある地元の同級生である。昔、料理人になったとか聞いた気がするが、いま何をやっているのかは知らない。からだの大きなやつで、風貌を裏切らず食べることも大好きな子どもだったので、料理人になったと聞いたときはイメージそのままだなと思った。その姉という人はこちらはよくおぼえておらず、彼の家に遊びに行ったときにちょっと見かけたくらいでないかと思うが、付き合っていた男のところに行ったあと、別れてから連絡がつかないとかいうことらしい。そういうこともある。
  • (……)の家に着いて、新調したという自転車や育てている植物をちょっと見せてもらってから別れて帰宅。(……)のやつもいつもちょっと険しいような、苦いような、疲れたような顔をしているし、仕事行きたくねえとばかり口にしているから、それなりに苦渋を噛み生きづらさのなかに生きているのだろうなあと思いながら夜の坂を下っていった。
  • 帰宅後のことは大しておぼえていない。日付が変わる直前の夕食時に、『世界ふれあい街歩き』をちょっと見た。ローテンブルクというドイツの都市。町並みを見るに、やはり日本、というかこちらの身の回りにあるような町景色とは全然違って、家の建てこみ方が整然としており、通りの両側にきちんと整列しながらおのおのその平面的な顔を内側の道にまっすぐ向けている。建物と建物のあいだの隙間もほとんどないように見られ、ああいう秩序立って揃った感じというのはやはりこちらの周囲にはない。あと、映った範囲では街路樹が全然見当たらなかった。これだとある程度の大きさがある樹木に触れるには、郊外に出なければいけないのではないか、あるいは公園に集めているのか、ヨーロッパだとやはり都市のなかに自然を持ちこむというよりは、自然のなかでそれを排除しながら都市という堡塁をつくるという感じなのだろうか、とか思ったが、あちらの都市に街路樹がないということではないと思う。ローテンブルクの場合は、たぶん昔の町並みをわりとそのまま残して保存しているような感じだと思うので、街路樹をつけくわえる余地がないということではないか。その後実際、一三九九年からあるという家がそこの住人によって紹介されて、六〇〇年以上前、日本でいえば室町時代の一般家屋が普通に残っているというのはないなと計算し、もちろんその都度リフォームは何度も繰りかえされているのだとは思うが、これはやはり石のなせる業なのだろうと思った。実にありがちな話ではあるのだが、木造を基本としてきた日本の場合、木という素材自体にすでに消滅が前提としてふくまれているような印象をおぼえる。石だって風化はしていくわけだし、木だって何もなければひたすら伸びていくのかもしれないが、しかしなんとなく、石材で家をつくってそれが六〇〇年以上前から残っているというヨーロッパにおいては、やはりこれを残していこう、記録していこうという意志が顕著に感じられるような気がするのに対して、木をもっぱら用いることを選んだ日本においては、家などのものがいずれ消えていくことが前提化されていて、べつに消えて良いのだという発想が濃いような気がする。法隆寺などは一応残ってはいるわけだが。で、消えていったもののあいだをつなぐような精神的な(霊的な?)もののほうをむしろ残し、つなげていこう、みたいな? 目に見えるものを目に見えるものとして残していこうとするヨーロッパと、消滅のあとにそれでも残り、続くものを続けていこうとする日本? 仮にそうだとして、それはときには、たとえば「絆」だのなんだのという空疎極まりない概念および言辞として結実してしまう事態をも招きかねないわけだけれど。とはいえこういう整理は世に非常に流通している紋切型のもので、上記は目にした具体的な映像をすでに知っているそういう図式に当てはめ、引きつけて理解しただけのものなので、なんとなくあやしい感じもある。
  • ほか、あとは下の英文記事を読んだくらい。
  • Justin McCurry, "Japan's 'love hotels' accused of anti-gay

discrimination"(2020/10/30)(https://www.theguardian.com/world/2020/oct/30/japans-love-hotels-accused-of-anti-gay-discrimination(https://www.theguardian.com/world/2020/oct/30/japans-love-hotels-accused-of-anti-gay-discrimination))

Despite rising awareness of LGBT rights, Japan is the only G7 country that does not recognise same-sex marriages, and much of the country’s multibillion-dollar love hotel industry accepts only heterosexual couples.

Taiga Ishikawa, Japan’s first openly gay MP, estimated that of 143 love hotels in Tokyo’s Toshima ward, where he began his career as an assembly member, 30 refused entry to same-sex couples.

     *

Akira Nishiyama, assistant executive director of the Japan Alliance for LGBT Legislation, said hotel rejections of same-sex couples were common, even though it is illegal under a 2018 revision to the hotel business law, which states that hotels “should not reject guests on the basis of their sexual orientation or gender identity”.

     *

Modern love hotels, so named after the first of their kind – Hotel Love – opened in Osaka in the late 1960s, originally catered to couples desperate to escape their extended families, who traditionally lived under one roof, for a few hours of intimacy.

But a decline in the young population, the rise in single households, and the pre-pandemic boost in international tourism have prompted many to undergo image makeovers to appeal to travellers, including single guests looking for comparatively cheap and comfortable accommodation.

As a result, the number of hotels with an overtly sexual theme has dwindled to less than 10,000 in recent years, compared with around 30,000 two decades ago. Still, every day an estimated 1.4 million Japanese people visit a love hotel, and analysts believe the industry generates between ¥2-3tn (£14.8bn-£22.2bn) a year.

     *

Japan has not passed an LGBT equality act, and a survey published this week found that 79% of LGBT respondents said they had heard discriminatory remarks about sexual minorities at work or school, although a large proportion – 67% – said social attitudes towards diversity of sexual orientation and gender identity had improved over the past five years.

2021/1/10, Sun.

 私はP教授が好きだった。その講義の抑制された厳密さが気に入っていた。試験の時に、定められたファシストのシャツの代わりに、手のひらほどの大きさの、奇妙な黒いよだれ掛けをつけ、侮辱をあらわに示すやり方が面白かった。そのよだれ掛けは彼が不意に体を動かすたびに、上着の襟からはみ出してしまうのだった。私は彼の二冊の教科書を評価していた。それは徹頭徹尾明晰で、簡素で、人類全般と、特になまけ者で愚かな学生に対する、不愛想な侮辱に満ちていた。というのも、すべての学生はその定義からして、なまけもので愚かだったからだ。そして至上の幸運から、そうでないことを示したものは、彼の同輩になり、短いが貴重な賛辞にあずかるという名誉を受けるのだった。
 (プリーモ・レーヴィ/竹山博英訳『周期律――元素追想』(工作舎、一九九二年)、49; 「3 亜鉛」)



  • 意識が復帰して枕横の携帯を見ると、一〇時ぴったりだった。カーテンを開けて陽を顔に浴びるが、いつもどおりなかなか起き上がることができない。それでも二度寝に入ることもなく、だんだんと目をひらいたままに固定する方向に向かってすすんでいき、一〇時四〇分になってようやくからだを起こすことができた。太陽は、はじめのうちは光を顔にもらってもほとんど感触をおぼえず、冬の一〇時だからこんなものなのかと思っていたが、浴びつづけているとやはり熱が溜まってくるのか、一〇時半頃にはわりと頬に温もりが宿っていた。
  • 水場に行ってきてから瞑想。一〇時四六分から一一時七分まで二一分。今日も肌をなめらかにした。座って一五分か二〇分くらいするとかなり皮膚が均されておうとつがほぼなくなり、からだのどこでもノイズが除去され、肌表面が未踏の雪原めいてひとつながりに、まっさらな感じになる。
  • 上階へ。ジャージに着替える。天気は最上の明晰さを持った快晴である。南窓の先、すぐ近間の瓦屋根は白さをコーティングされているが、ただやはり冬のことなのでかがやくというよりは微光を漏らすといった感が強く、いまは光が凝縮している一所も見られず、屋根の全体に染み入るようにして白光が流れている。風はすくないようで、(……)さんの宅の鮎幟はゆるやかな泳ぎ方、その果ての空はひたすらに青く澄んでおり、山の稜線の微妙な、蟻の歩いた軌跡みたいな上下の揺れがくっきり見られ、雲の粒はひとつも見えず、つるりと剝かれたような、皮を綺麗に剝ぎ取られた肉や内臓みたいになめらかな水色がひろがりひらいている。ハムエッグを焼こうかと思っていたが、冷蔵庫のなかにサンドウィッチがつくられてあった。これを食べて良いのかと母親に訊こうと思い、居間にいなかったので外に出ているのかと玄関に行くと赤いスリッパがそこにあるからやはり外にいるらしく、サンダルを履きかけたところで玄関脇の小窓から車がバックで入ってくるのが見えたから出かけていたのかと判断を更新して台所にもどった。鍋の味噌汁を火にかけ、室内に入ってきた母親にサンドウィッチを訊くと食べて良いと言うのでありがたくいただく。母親はたらこの焼きそばをつくりだして、こちらもあとでちょっともらった。食事中は新聞。ものをまだ取り入れていないからだではやはり寒く、震えて、そこに、一面の編集者小欄でシベリアに抑留された香月泰男という画家が触れられていたものだから、シベリアはマジで、本当に致死的な寒さだったろうと思った。こちらはダウンジャケットを羽織っているわけだが、そのような装備などあったはずもないだろう。肉体労働で発された汗は、肌の上で凍らなかったのだろうか? アウシュヴィッツもそうだっただろう。プリーモ・レーヴィも、『これが人間か』のなかで、自分が書いている「寒さ」や「飢え」という言葉と、読者がイメージするそれとはまったく違うものだと言っていた。言葉の定義が断絶的に変化する場所と環境。
  • 新聞記事には米国の件も載っていたが、このときは書評面と、一面の岩手県陸前高田市の復興事業についての記事を読んだ。今年から新たに書評委員になった六人のなかに、柴崎友香中島隆博の名があった。中島隆博がどのような本を紹介するのかはちょっと気になる。柴崎は今日もさっそく記事を載せていて、岸本佐知子の『死ぬまでに行きたい海』(スイッチ・パブリッシング)というのを取り上げている。その下には梅内美華子という、歌人の肩書を持った人が、ふかわりょうの『世の中と足並みがそろわない』を紹介していて、これが意外と面白そうだった。アイスランドに旅したときのことがひとつには語られているらしいのだが、「人間に改良されて毛が重くなったためか、羊は転倒すると自力で起き上がれず窒息してしまうという。自身の手で助けたことが契機となり、仰向けになってバタバタしている羊を遠くからでも見つけられるようになった」というエピソードがまず面白い。そしてそのあと、「そのまま骨になって地面に吸収されている羊もいました」という、本の原文を短く引いているのだけれど、正直、え、すばらしいじゃん、と思った。
  • あと書評ページの入口には、「コロナの時代を読む」と題したシリーズとして、加藤聖文という日本の近現代史を扱う学者が、吉田満戦艦大和ノ最期』(講談社文芸文庫)を取り上げていた。「科学的・合理的な判断」を軽視し、「間違ったらすぐに修正して改善を図る姿勢」が欠けているか、すくなくとも薄いように見える日本のコロナウイルス対策が、集団的情緒を優先し、漠然とした見通しで太平洋戦争に突き進んでいった戦時下の日本と重なるように思える、というような趣旨の記事。
  • 陸前高田市の記事は、復興事業の一部がどんどん肥大化していって、住民の声を取り入れないまま、修正できずに進んでしまったというような話で、これも上の内容と重なる部分はある。いわく、最初は一五メートルの防潮堤を計画していたのだが、県からは一二・五メートルにするよう言われた。一方で、高台への宅地造成と、町そのものの高さのかさ上げという計画があって、かさ上げは最初は地震で沈んだ地盤をもとに戻す程度の、すなわち二メートル程度の計画だったのだけれど、国からの補助金を得るとか、住民としても高いほうが安心だろうとかいう思惑からどんどんそれが拡大していき、最終的に一〇メートルだったか、そのくらいまで土地を高くすることに決まって、その事業はこの春で仕舞える予定らしい。ところが、そうして再興された新しい町に、肝心の住民がもどってこず、いま六割ほどが空き地になっているという話だった。市行政側に一応理屈はあるにはあって、低地に通るJR大船渡線とかさ上げした土地の道路を立体交差にしようと考えていたところ、そのためには土地の高さが必要だということがひとつ。また、これは表には出ていなかった話のようだが、高台地区を造成するにあたって生まれた土砂を、国側は運搬費などを考慮してどうするか困っていたところ、それを土地のかさ上げに使えるという活用法に思い至ったという事情があったらしい。ただその後、結局JR線はバスに転換されることが決まったし、町の現況も上のような感じで、これからどうなるかというところだろうが、市の説明会か何かで事業規模に疑問を呈したという住民のひとりによれば、みんな生活を再建し保っていくのに必死で、余裕がなく、市の計画に口を出せるような状況ではなかった、とのことだ。二四面あたりに関連記事が載っていてそこもすこし読んだのだけれど、復興計画委員会みたいな組織に住民代表者もけっこう参加していたのだが、やはり彼らも生活に精一杯で、意思決定は実質、大学教授やコンサルタント会社の人員を含めた行政側の少数者に託されていたらしい。計画に疑問をはさんで見直すとなるとまた手間がかかるし、そうなれば復興はそれだけ遅れるわけで、住民のことを考えると気後れして口を出しにくいという空気もあっただろう。
  • 食後、皿と風呂を洗ってからアイロン掛けもした。自分のワイシャツだけとりあえず始末しておき、残りはのちほどとして帰室。歯を磨くあいだだけ、ゴルフボールで足裏を刺激しながらハーマン・メルヴィル千石英世訳『白鯨 モービィ・ディック 下』(講談社文芸文庫、二〇〇〇年)を読んだあと、Notionを準備して昨日のことを記述。一時一五分で仕上げて投稿。散歩に出る気になっていた。それでその前に脚をほぐそうとベッドにうつって合蹠をはじめると、ベランダにあらわれた母親が干しておいてくれた布団を取りこみはじめたので、協力して寝床を整えた。それからすこしだけ柔軟をして、服を着替えてモッズコートをまとい、散歩へ。
  • 玄関を出ると、自治会の用かなんかで出かけていた父親がちょうど帰ってきて階段にかかったところだったので、挨拶して道に出た。空気は思ったよりも寒くはない。大気の質感や気温そのものはさほど冷たくはないようだが、ただやはり、空気が動くと途端に冷感が固まりはする。しかしそれもそこまで強く厚くはない。道脇の林からは、老いた草が風に揺らされる響きと、鳥が草々のなかを動いている音とが重なって聞こえる。歩みは西に向かっている。空間の向こうに見える南の山は、太陽が降らせる光の背面に当たる一面が、明るみの大気をはさんだ先で蔭に沈み、密集して生え揃っている樹々の深緑がそのなかに同じて押し延べたようになっているが、暗さはなく、といって蔭だから淡いとも靄っているとも言いづらく、青いように希薄化している。
  • 顔は西向きだから、歩くあいだ太陽はずっと正面にあって、まぶしさが常に瞳にかかり、目の前には単眼鏡のレンズみたいに綺麗にまるい虹色のセロファンが、いくつか小さく貼りついている。小橋にかかって沢のほうを見てみたが、今日は羽虫の数が乏しかった。気温としては先日とおなじくらい暖かいような気がするのだが。坂を上っていくと、左のガードレールの向こうにひろがる斜面の冬草のなかに、何が入っているのか知らないがビニール袋に包まれたゴミがけっこう投棄されているのに気がついた。たぶん比較的最近、草の勢力が衰えてから捨てられたものではないか。
  • 空は本当にあさましいまでに明快な青で、skyにあたる語とemptyにあたる語が、日本語もしくは漢語においておなじ文字で表されるのは何かしら示唆的なような気がする。とはいえ、西洋圏にもおなじ発想はあると思うが。空とはすべての言葉とすべての比喩を受け入れ、飲みこみ、包みこみ、吸収する領域です、みたいな文が、マリ・ゲヴェルス『フランドルの四季暦』のなかにもあった。坂を上ってのちの裏路地は西にまっすぐ続いているから全面日向がひろがっていて、途上に浮かんでいる太陽の高さを見てみても、山との距離もまだけっこうあるし、一番近くの電柱の先に刺さるかどうかというところだし、年も明けてだんだんと日が長くなってきているようだ。道の左手は家のあいだに木立や茂みが配されており、その先、見えないものの斜面を下った向こうは川である。なかの一軒の横に草木の集まって枯れた一帯があり、老いた色調のなかに常緑の葉が鈍い光をいくらか溜め、垂れ下がったススキの湾曲した茎もその一部のみそれぞれに白さを強くして際立ち、空間に引っかき傷をつけたようになっており、またべつの緑葉はこまかな光点をやどして雪崩れており、その光の点こそが果実の房であるかのような、つまりたとえばベリー類の実を思わせるような微小な粒が連続して流れているという感覚があった。
  • 街道に出て渡ると方角を変えて東を向くのだが、同時にゆるい上りになった裏道に入って、すると道路と家並みの上に空がひろく押し渡り、それがどこまでも切れ目も乱れもなくひとつの青さに染まり尽くしているのがやはり見事で、とりわけ西も東も低みに至ってもほとんど色の濃さに変化がないのがたぶんこの時期の特徴なのだろう。夏とか秋とかは、雲のない快晴でも空が地平線に近くなるにつれて、だんだんと色が淡く、弱くなっていくものだと思う。坂の左側の斜面の上で、機械を操って草を刈っている男性がいた。それを見上げながら過ぎ、また右方に視線をもどせば近間の緑樹の、梢にひろがった枝葉のその隙間にも水色がくまなく染みており、葉の集まりのあいだにその先の空が入りこんで、細片化した小さな空を無数に生み出し、それがこちらの歩みや風に揺らぐ葉の動きに応じてざわめく光景はかなり好きだ。前方には真っ赤なコートを身につけた老女がひとり、ゆるゆると坂を上っていたが、前から来たべつの女性が知り合いだったようで、声をかけられた老女は、下ばかり見ちゃって、などと受け、坂を上るのが大変だよね、あたしも最近はもう一日一回、前は二、三回やってたけど、などと二人で話し合っていた。
  • 保育園とそれに接した遊園には今日は誰もいなかった。先日、保育園の敷地がフェンスで画されてこちらの通っていた昔とは違って遊園とのあいだを自由に通行できなくなっているという事実から、もろもろ考えたことを綴ったけれど、あらためて見てみれば遊園はこじんまりとしたもので、児童の世話が行き届かなくなるほどかというのは疑問だし、少子化で園児の数もだいぶ減っているのだろうから、責任とリスクを先回りして回避する時代の趨勢をそこに見たのは穿ちすぎだったかもしれない。というかそれこそ単純に、遊園をひろく使って遊ばせるほどの数の子どもがいなくなったから、小さな区画で事足りるということなのかもしれない。それにしても、フェンスを設けたのはなぜなのかよくわからないが。白いフェンスの内側にはたしかに小さな滑り台などいくつかの遊具が置かれているので、園児たちは実際あそこで遊ぶのだと思う。遊園のほうで遊ぶ時間というのはもうなくなったのだろうか?
  • 保育園周辺の裏道では羽虫が多く湧いている。カラスが眠たいような声でやる気なさげに鳴く。日向のなかをすすんでいるとだいぶ暖かい。羽虫たちのなかにこちらのからだに当たったり服にとまったりするものはほとんどなく、こちらの周りをおのおのの自律した描線で遊泳し交錯しながら、向こうから迫ってくる巨大な障害物である人間のからだのすぐ前でなめらかに逸れてうまく回避していく。黒と白の毛の混ざった猫が左の一軒から道を渡って右の一軒の車庫に音もなく駆けこみ、ヒヨドリが電線にとまって声を張っているそのくちばしのひらきが青空に黒く映っている。
  • 駅横の広場のベンチは、先日は埋まっていたがこの日曜日には誰もいなかった。街道に出るとフェンス向こうの茂みにまたスズメが集まってガサガサやっている。最近、昼間にここを通ると、葉はくしゃくしゃに萎びてかろうじてぶら下がっているだけになりほぼ枯れた茎だけで構成されているこの茂みに、かならずスズメたちが集まっている。あんなところに餌があるのだろうか? 餌を食べているのでないとしたら、何をやっているのか?
  • 街道の北側、日向の多いほうの歩道をのっそり行きながら、山に行きたいなと思った。山に行きたいというか、森に入ってひとりで長時間とどまり過ごしてみたい。木立なら家のすぐ前にもあるし、昔はそこを毎日通って小学校にかよっていたが、身の回りにあってなかに入るのはせいぜい林という程度の木々の集まりに過ぎず、もっと大規模な森のなかに入って時間を過ごしてみたいと思ったのだ。登山を趣味にしている人間も意外と多いけれど、あれはあれでやはり面白いのだろう。山を登るというのも良い。こちらだと体力がおぼつかないが。というか、山まで行かなくとも普通に(……)丘陵にハイキングコースがあるわけで、そこをいずれ歩いてみるのが良いかもしれないと思った。
  • 肉屋の横の坂を下って帰っても良かったのだが、なんとなく川の音を聞きたい気がして、そうするともうすこし遠く回らなければならない。それで表道をじりじりすすみ、交差部で裏に入れば、ここにもやはり羽虫は大挙して生まれており、宙をゆるやかに行き交い混ざっており、道脇の段の上にススキが生えて、こちらの場所は日蔭なのだがそこには光がかよって穂を白く光らせているから、その穂の粒が剝がれ落ちて舞っているような、あるいはそこから生まれて吐き出された泡のような具合で、しかしこの舞はいつまで経っても地面に落ちることはない。ところでススキっていまの時期にも穂が実るのかと思って検索してみたが、季節は基本的には秋のはずである。冬や年明け頃にどうなっているのかはよくわからない。ススキではなくてそれに似たべつのものなのかもしれない。
  • 下り坂に入りながら、今日は川の音が全然聞こえないなといぶかしく思った。川向こうの集落から、なんだか知らないが機械の音が響いてうなっているのでそれと同化しまぎれているのかと思ったところ、やはりそうで、機械音がやんだときにいくらか水の響きが伝わってきたが、しかしそれも先日の苛烈さはなく、よほどかそけくしずかな音で、耳に入ってくるのは近い周囲の草木が風に触れられた音や、そのなかで鳴く鳥の声ばかりである。坂の下端付近まで来ると下方に川の姿が見えるようになる。水は鈍く落ち着いたエメラルドを深く溜めており、流れはやはりしずまっているようだが、波の白い頭がところどころ、サンタクロースのもののように豊かな白鬚を流したみたいに盛り上がって差しこまれている。
  • 帰宅。たぶん四五分くらい歩いていたと思う。相当にゆっくり歩いているのだが、脚を中心にからだがけっこう温まって動いた感がある。むしろゆっくり歩いたほうが疲れるのだろうか? 洗面所で手を洗って出るとちょうど母親が洗濯物を取りこんだところだったので、タオルをたたんで足拭きとともに運んだ。そうして帰室。とりあえず今日のことを書き出す。一時間半書いて四時一〇分に至ったところで、そろそろ身を休めたいと中断。散歩の途中まで記述した。ベッドでハーマン・メルヴィル千石英世訳『白鯨 モービィ・ディック 下』(講談社文芸文庫、二〇〇〇年)を読んだが、上階で両親がなんとか話しているのが聞こえてくる。言い合いというほどのものではまったくないが、母親が何か言ったことに対して父親がすぐに文句を言う声のトーンになっていて、その文句を言うような声のトーンがこちらは嫌いである。べつに父親に限らず、母親においてもそうだし、たぶんすべての人間においてそうだと思う。文句を言わなければならないときや言いたいときは誰もあるだろうが、ごく小さな、そういうトーンになる必要もないようなことで、すぐにそういう声音を持ち出すのが嫌いである。
  • のろのろ歩いただけなのにやはりけっこう疲れていたようで、途中でちょっとうとうとした。五時直前で切って上階へ。ハムエッグを焼いて食おうと思っていた。母親がすでに餃子スープなどを作ってくれていたので、アイロン掛けを済ませたらすぐに食事を取ろうと思っていた。というのも、やはり歩いたためか、腹がかなり減っていたのだ。それでシャツとエプロンの皺を取り、母親が整理片づけのために散らかした葉書やら通知やらの色々な紙類を大きさごとにだいたいまとめて東窓の下の棚の上に置いておき、それで卵を焼こうと思ったところが、父親が下階から上がってきてモツ鍋をつくるとかで台所に入り、そうすると手狭になるので三人もいられない。仕方ないのでしばらく日記を書き足すかと思って部屋にもどり、ここまで記して現在時に追いつくと六時一一分となった。今日は記述がわりとうまく流れる。先ほどの一時間半はちょっと急いだようなときもあったと思うが、この四五分間は落ち着いて、明晰に、しずかな指で書けている。今日は九時から通話。それまでに日記に切りをつけられたのは良い。勤勉と言って良い。
  • 上階へ行き、ハムエッグを焼いて米に乗せて食事。モツ煮や餃子入りスープもいただいた。新聞は国際面を覗く。アメリカではドナルド・トランプに対する弾劾の機運が高まっている。下院で(ドナルド・トランプにとっては二度目となる)弾劾訴追が可決されても、解任にまで至る可能性は低いだろうが、民主党としては任期の最終盤に起こった今次の事件を看過せず、最後まで追及を続ける姿勢を示すべきだという思惑があると。同意する。こういう事態にあたっての議員たちおのおのの態度を、記録し、歴史に刻んでおかなければならない。ロイターがおこなった世論調査では五七パーセントがドナルド・トランプの辞任を支持。しかし共和党支持者だと二四パーセントに落ちる。民主党支持層ではたしか八八パーセントだったか。
  • ほか、香港で、親中派の警察官や業界人などの個人情報を詳しく載せていたサイトが接続遮断されたと。国家安全維持法にもとづくインターネット規制の最初の例。ネット制限がある大陸側と変わらなくなってきていると懸念の声。
  • 食後は帰室して音読。「英語」。悪くない調子。ゆっくり個々の部分の意味を認識しながら読むことがわりとできた。四〇分で切って、八時になる前に調身。これを四〇分もやってしまう。何をそんなにやったのかおぼえていないのだが、気づけば四〇分経っていた。コブラをやるとき、突いた手をちょっと横にずらして上体を曲げるようにすれば、腰の横や脇腹を伸ばすことができる。
  • 入浴。温冷浴をやってからだを温めているうちに九時が迫ってしまい、出るともう過ぎていた。部屋にもどってLINEをひらき、遅れてすまんと言ってURLをもらうと隣室へ。ZOOMで通話。(……)
  • (……)
  • (……)
  • すでに一時頃だった。コンピューターを運んで自室にもどり、持ってきてあった魚肉ソーセージを食ったあと、歯を磨いたりインターネットを閲覧したりして、二時から新聞記事を書抜き。それで二時半前には活動を切り上げ、二時三二分に消灯した。そこから柔軟をして二時四六分に就床。最近は、記憶に頼るのが面倒臭くなったので、コンピューターが点いていないとき、すなわち起床時と就床前の日課の時間は手帳にメモするようになった。
  • この前日、九日の記事に書くのを忘れていたのだが、その日、労働から帰ってきて昼食を取っているあいだに、例の「ナスD」というディレクターが無人島の岩場で鮫を釣り上げようとする番組の続きを見た。面白かったというか、マジでめちゃくちゃすごいと思った。今回はマジで鮫を一匹獲るところまで行っていて、かかった鮫を仕留めに海中に潜っていくのだけれど、あたりにはほかの鮫も何匹も集まってきていて、しかもそいつらがナスD氏の持っているカメラに向かって体当たりしてくる。これ、このときに食いつかれたら普通に死ぬやん、と思った。まだそこまで大きくない鮫だったから良かったが、これがもっと巨大なやつだったら食いつかれなくても体当たりの衝撃だけでやばかっただろうとのことだ。それでかかっていた鮫のもとに行き、銛を撃って仕留めにかかるのだが、この銛も普通にエラのところにあやまたず見事に撃ちこんでいて、この現代人にあるまじきサバイバル技術の高さはなんなんだよとわけがわからない。その後、鮫を素手で捕まえて岩に打ちつけて弱らせ、抱きかかえたり、馬に乗るごとくその上に乗ったりしながら岸へと運んでいき、最終的に岩の上に引き上げた。そこでナスD氏が語るところによれば、鮫というのは魚のなかでもたぶん珍しい胎生の種で、つまり生殖器で交尾をして卵をからだのなかの胎に発生させる。普通の魚類はメスが産んで卵にオスが精子を撒きかけるわけである。だからめちゃくちゃたくさんの卵を産んで、無数の子どもをつくってその多くは死ぬがいくらかは残るという形で種を存続させていくのだが、鮫はそうではなく、多くても一〇匹くらいしか子どもをつくらない。そのように少数精鋭で手厚く(?)育てるという方式を選んだ魚類で、それでもってもう四億年だか忘れたが、ずっと地球上を生きてきているわけだけれど、近年は人間が増えたことによって数を減らし、五〇〇種類以上いる鮫の種のなかで七割くらいが絶滅危惧種になっているという話だった。あと、魚のなかで鮫とエイだけは軟骨魚類というやつで、背骨以外に骨がないらしい。それでそのあと実際に、七時間もかけて深夜までずっと鮫を捌く映像が流れたのだけれど、骨はたしかに全然ないということだった。鮫の身はとてもなめらかなピンク色で、綺麗な肉だった。
  • こういう映像がテレビで流れるというのは、たぶんかなりすごいことなのではないかと思う。一応、濱口優の試みとかも過去にはあったけれど。『いきなり!黄金伝説』がやっていたのはたぶんこちらの中高時代ではなかったか? それで濱口優が島に行って海に潜っては魚を捕らえて「獲ったどー!」とか叫んでいる様子は、こちらも多少目にした記憶がある。濱口もあれはあれですごかったのだと思うけれど、ナスD氏はなんかマジですごいなという驚嘆の念を禁じえない。知識の幅とそれを注いだ実践のすばやさ有効性が半端でないし、本人が飄々としているキャラクターで笑いを交えながらこともなげにそれらをやってしまうから、余計にすごい。

2021/1/9, Sat.

 実験室のガラス器具に私たちは魅せられ、おじけづいた。ガラスは壊れるから、手に触れてはいけないものだった。だが親密に触れてみると、他のものとは違う、特有の、神秘ときまぐれだらけの物質であることが明らかになった。この点では水に似ていたが、同じ属性はなかった。しかし水は日常的な習慣や様々な必要性から、人間に、生命に結びついており、その独特な性格は慣れという衣裳の下に隠れている。だがガラスは人間の作り出したもので、歴史も浅い。そのガラスが私たちの初めての犠牲、あるいは初めての敵になった。実験室には直径の異なった、長短様々の作業用ガラスの管があり、みなほこりをかぶっていた。私たちはブンゼン・バーナーをつけて、作業に取りかかった。
 ガラス管を曲げるのは簡単だった。それを火であぶるだけでよかった。しばらくすると炎が黄色くなり、同時にガラスがかすかに輝き出した。こうなると、ガラスは曲げられた。曲げられた角度は完璧とは言えなかったが、何かが実際に起こったのであり、新しい形、思い通りの形が作りだされたのだった。潜在力は行為となった。これこそアリストテレスが望んだことではなかっただろうか?
 銅や鉛の管も曲げることができた。だがガラス管は独特の性質を持つことがすぐに分かった。柔らかくなった時に素早く両端を引くと、非常に細い繊維になったのだ。それは極端に細くすることができて、バーナーの炎の上昇気流で上空に舞い上げられてしまうほどだった。まるで絹のように細くて柔らかだった。それではガラス塊の持つ無慈悲な固さはどこに消えてしまったのか? 絹や綿も固まりにしたら、ガラスのように堅くなるのか? エンリーコは祖父の故郷で、かいこが大きく成長し、まゆを作りそうになって、木の枝をやみくもにぎこちなく登ってゆくところを、漁師たちがつかまえると話してくれた。つかまえると、二つにちぎり、胴体を引っぱって、粗製の太い丈夫な絹糸を作り、釣り糸にするとのことだった。私はその話を鵜呑みにしたのだが、おぞましいのと同時に魅惑的に思えた。殺し方の残酷さと、自然の奇跡を空費するやり方がおぞましかったが、神話上の創造主が賦与した、先入観にとらわれない、大胆なひらめきの行為が魅惑的だった。
 (プリーモ・レーヴィ/竹山博英訳『周期律――元素追想』(工作舎、一九九二年)、41~43; 「2 水素」)



  • 六時四〇分の起床になってしまった。本当は六時に起きて瞑想をしたかったのだが。ダウンジャケットを羽織って上階へ行き、前夜のスンドゥブと古い米でこしらえたおじやなどを食べる。食後はすぐに下階にもどってゴルフボールを踏みながらハーマン・メルヴィル千石英世訳『白鯨 モービィ・ディック 下』(講談社文芸文庫、二〇〇〇年)を読んだ。そうして七時半をむかえると身支度。スーツになってバッグを持って上へ行き、便所。やはり勤務の前にはできれば腸を軽くしておきたい。朝だし寒いし出ないかと思ったが、腹を揉んでいるとおのずと通じるものがあった。臍の左斜めすこし下あたりを揉んでいると出やすいように観察される。
  • 出勤路へ。当然寒い。林からは終始鳥の声が散る。この時点では空はすっきりと晴れていて、太陽も清水色の椀のなか南に浮かんでところどころで光を送りつけてくる。歩調をはやくするではないがやや歩幅を大きめに行った。木の間の坂でも木立のなかで鳥たちが動き回っているのが聞こえる。
  • 最寄りから乗車。ホームではけっこうみんな日陰のなかにいる。寒くないのだろうか。こちらは日向にとどまり、電車に乗ると着座して瞑目。降りてホームをゆるゆる行けば、右手、南東のほうから光が、まだあまり陽が高くないからさほどの厚みも持たず射しこんで、正面、視線の先で、いまこちらが乗ってきた電車の車体の低みに行き当たり、ホームの足もとに淡く気体の溜まりをつくっている。ホーム上を歩くあいだ源はあまりあらわれず、低い屋根と右手に停まっている電車の隙間にときに覗くのみ。電車の横を過ぎれば視界がひろがり、朝の光が浸透した線路上の空間が出現し、線路の伸びていった奥ではおそらくマンションの陰になって空気が青くなっているものの、そこすらも洗われたような清潔さを醸している。ホームに寄らず、支線で待機中の電車も、その側面が全面銀色を帯びてかがやき、ながくからだを伸ばして寝そべった竜のよう。
  • 職場へ。(……)
  • (……)
  • (……)
  • 一二時四五分かそのくらいに退勤したと思う。電車まで間もあったし、徒歩で帰ることに。力を抜いてのろのろ行く。このときは空には雲が多く湧き、結構こびりつくようになっていて、太陽も雲に引っかけられがちで陽射しは弱く、路上に明確な日向の色が生まれる時間と、それが減退してほとんど無色と化して大気に同化してしまう時間とが交替していた。駅前から折れた道を行っていると、前方の突き当たりから子どもらの賑やかな声々が飛んできて、そこを右に曲がって道なりにすすむと小学校があるので下校してきた幼子たちだが、こちらの向かう先、T字路の頭の横棒にあたる路地を、右からランドセルをカタツムリの殻のように背負った低学年の子どもらが、順々と、一〇歳にも満たない子たちのことでいたいけな速度で緩やかに走ってあらわれては左に過ぎていく。こちらもその道に入ると、子どもたちは皆小学校一年か二年かという年少のさまで、大きな声で別れを交わしておのおのの道に帰っていった。こちらがすすむ裏道にも何人かいたが、そのうちひとりの男児がずいぶん先を行っていて、ほかの三、四人はひとかたまりになってその子を遠目にうかがいながら、アパートの陰に隠れたり電柱の脇にひそんだりと尾行観察の真似事をしており、なかのひとりが、俺、「忍び」の修行をしたんだぜとかなんとか言っていたけれど、彼らが一箇所からべつの場所にうつるときは、ランドセルをガチャガチャいわせて揺らしつつ、また楽しげな声を空気のなかに立ち上げながらドタドタ走るものだから、まったく隠れることができていないのは誰の目にも明白でいかにも微笑ましく、先を行く男児もけっこう距離があったけれどそれに容易に気づいているようで、途中でなんとか呼びかけながら道を引き返していた。
  • 道は寒く、とりわけ日が陰ればもちろん正面から顔に触れてくる空気が冷たく、マスクをしていてもそうだし、また風もそこそこ流れて道脇の木が乾いて痩せさらばえたような響きで葉を鳴らしているし、音と流れが生まれると冷気は楽々コートを越えてきて、首に縛りつけたストールのなか、もっとも隠れているはずのうなじの部分にすら触れてくる。この雲と風は、雪の前兆なのだろうか。
  • 白猫の姿はなかった。家が両側に建てこんでいるだけの裏路地を行きつつ、あたりを目にして、視覚にせよ聴覚にせよ知覚が意識せずとも常に、自分のからだの動きとは無関係に働き続けていることを認識して、自分がいま現に生きているということ、存在しているということもなんだか不思議で妙なことだなあという感じがした。たしかに生きてはいるのだろうが、どうもそれが腑に落ちないというか、べつにそれは実感が湧かないとか離人症的な非現実感とかそういうものではなく、不安とか不健康な気配をおぼえる感触ではなかったのだけれど、ただどこか不思議な平板さもしくは平穏とでもいうようなものが身に生じた。とはいえ、こういう光と(というのもそのときはちょうど陽射しがいくらか復活して路地の宙に漂っていたからだが)、こういう一日と、こういう時間とが、こちらがあとどれだけ生きるか知らないが、ひとにあたえられた平均的な時間を死までのあいだに過ごすとすれば、何千回か何万回か繰りかえされることになるのだろうと思い、それはやはりとてもすごいこと、凄まじいことだと思った。しかし思ってみれば、こちらの生の範囲内で見てもすでに何千回もの一日が、ほんのすこしずつだけ違う固有の差異の模様をはらみながら反復されてきたわけだし、こちらの生を離れて人間と星と世界の過去を思えばその数字は誰にも理解などできるはずのない非人間的なものに膨れ上がる。それはどうしたって凄まじいこと、何とも言い表し得ないことだ。人の生の範疇で考えても、その一日一日をすべて、なんらかの形と言葉でもって、ともかくはなるべくすべてを記録しようと、記録しなければならないと考えた者が、いままでこの世にいなかったわけがないのだが、しかし実際にそうした試みを試みた者が、これもいなかったはずがないのだが、いまに伝わらず知られていないのはなぜなのか?
  • 街道に出て行けば左手の間近を車がいくつも風切り音を撒きながら通り過ぎていき、道沿いの右手にはいくつか家が置かれていて、そのなかにひとつ、あれはもう空き家なのかまだ住まれているのかわからないが、こじんまりと古びた木造の家があり、その手前は枯れ草が萎びた色で渦を成すように占めていて鄙の景色、それがそこにあるというただそのことは、どうにもやはりうつくしいと感じてしまうなと思った。と言って、一般に見てうつくしさをはらんでいると言える視覚情報ではないだろうし、かといって殊更にうつくしくなく、汚かったり醜悪だったりするわけでもないから、逆説的な醜のかがやきというものをふくんでいるわけでもない。なんでもないものである。そして、なんでもないものが存在しているということが、やはりどうもうつくしいのだなと思ってしまった。美とは存在である。ものが存在しているということを、それだけをただひたすらに描き、述べ、主張し、訴え、指し示す小説が書けないだろうか? パルメニデス的汎存在論を小説作品に具現化するということ。それはもしかして、フローベールが書簡で述べた有名な言葉とそう遠くないところに位置することになるのではないか? 見たものはただ見たと言い、あったものはただあったと言うこと。ものがかつて存在したこと、いまも存在していることを書きあらわすのが、小説家の、作家の、詩人の、文を書く者の、言語を時空に刻む者の、最終的な、究極的な使命なのではないか。書き手はことごとく、証言者なのではないか。収容所のなかにいたことがなくとも、証言者なのではないか。何の証言者なのかはおのおのあるだろうし、実際のところ、書き手自身にもおそらくわからない。すべての証言者は証言者に固有の、避けがたいアポリアに直面する。すなわち、証言はかならずしなければならない(しかしそれがなぜなのかはわからない)、だが、どうすれば十分に証言することができるのかわからないし、そもそも十分な証言などこの世には存在しない。
  • 上に綴った発想は特段にあたらしいものではなく、昔から繰りかえし言っていることをすこしべつの言い方でまた繰りかえしたにすぎない。つまり、原理的には、書き記すに値しないものなどこの世界には何一つ存在しないという昔ながらのこちらの主義に、「証言」というテーマを横から挿入しただけのことだ。すべてのものとすべての時間は本質的には書くに値する(しかし、なぜそうなのかはわからない)。これがこちらの信仰である。こちらは二〇一三年に文を書きはじめてそう経たない頃からいままでずっと、この言葉をただ繰りかえし、この言葉から導き出されるおこないをただ続けてきただけである。それに根拠はない。信仰というものが強いのは、それに根拠がないからであり、それが根拠を必要としないからだ。
  • なんでもないものがただそこにあることに対してうつくしさを感じる、というときのそのうつくしさのなかには、切なさやはかなさ、一口に言って感傷性の類がふくまれているように思われ、それはやはり存在がすでに消滅と無を仮想的にはらんでいるということ、すくなくともこちらがものを見るときにそういう発想に至ることがままあるということを指しているのだろう。これは実に典型的な「無常」観念に沿った感じ方だが、こちらのなかにもたしかにそういう感性はある。あらゆる事物と時間はいずれ消える。したがって、Eric Dolphyの言葉にもとづけば、この世のあらゆる事物は音楽と、音と、大気の振動と性質を共有している。長期的に見れば、すべてのものは音楽である。生起しては、束の間、かりそめに宙に浮かびとどまって、かえっていくものたち。事物たちと時間たちは単にあらわれては去ることの自動運動を果てしなく永続させているだけで、そこに美だの感傷だの情趣だのをおぼえるのは人間の我執であり迷妄にすぎないが、それを殊更に排斥し、感じないように殺す必要も特にないだろう。ただし、警戒はしなければならない。感傷と感動とヒロイズムには常に警戒しなければならない。
  • あらゆる物々はいずれ記憶へと変わり、そして言語になっていく。言語にならなかったもの、なれなかったもの、なりたくなかったものももちろんあるが、ともかくも、どうせいつかはすべてが言語になってしまうのだ。ひとつの言語が時空から姿を隠し、消えていったそのあとに、またべつの言語が生じて続く。
  • ユーディット・シャランスキー/細井直子訳『失われたいくつかの物の目録』(河出書房新社、二〇二〇年)のことを思い出した(と言って、名前を正確には思い出せなかったので、検索に頼って確定させた)。昨年の秋頃だったか夏頃だったか、地元の図書館の新着図書で見かけて興味を持ち、一度借りたのだがまったく読めないうちに返却したのだった。
  • そういったことを考えながら帰宅。マスクを始末し、手を洗い、部屋で着替えた。今日は意外と休息せずとも動けるような余裕がからだに残っている感があった。それで食事へ。煮込みうどん。米国の記事を読んだ。連邦議会議事堂侵入の件の続報だ。警察に撃たれて死んだ女性は三五歳の元空軍兵士でドナルド・トランプ支持者だったと言い、また、騒動のなかで怪我をした警官がひとり亡くなって、死者は合わせて五名になったという。議会警備の体制にも不備があったのではないかという批判の声が出ているとのこと。人員はすくなく及び腰だったり、乱入してきた人間と一緒に写真を撮る警官がいたりもしたと。議事堂内に押し入った人間をとらえた写真が紙面に載っていたのだけれど、防弾チョッキと迷彩服をまとった姿が複数見られ、その写真の人々はたぶん銃を持ってはいなかったと思うがなかには所持者もいたようで、この格好に銃や武装を帯びて入ってきたらそれはもう戦闘である。Gretchen Whitmer誘拐を目論んだ人たちもそうだったけれど、米国の武闘的右派はマジで武力装備を整えていて、物々しい格好で写真にあらわれていることが多く、militia(武装組織、民兵)と呼ばれる。Guardianには以前、militiaという言葉で彼らの実態をごまかすのはやめ、domestic terroristsと呼ぼうという記事が寄稿されていた。
  • 食後は風呂を洗って帰室し、Notionで昨日の習慣記録を埋めると今日の記事を準備する。そのまま昨日の記事を記述。三時半に仕上がった。今日のことも少々記し、それから八日分を投稿。四時を越えてさすがに疲れたので、ベッドに転がってハーマン・メルヴィル千石英世訳『白鯨 モービィ・ディック 下』(講談社文芸文庫、二〇〇〇年)。ゴルフボールを背の下に置きながら、わざわざからだを左右に揺らしてグリグリやらずとも、置いたままで脹脛マッサージをすればその動きで同時に背の肉も刺激できるということに気づいた。
  • 途中、一五分ほど意識を手放しながら、一時間読んで五時二〇分。
  • 昨日の職場の記憶を思い返して思ったのだが、最近は(……)先生と(……)さんの仲が良い。最近というか、けっこう前から頻繁に仲良く話しているが。また、恋愛にまで発展することはおそらくないだろうが。(……)さんが(……)先生によくなついているようだ。年上の、しかしそれほど年齢が離れているわけでもない二〇歳くらいの男性講師に中学生の女子が好意をいだくというのは珍しいことではない。こちら自身にもおぼえがある。近年はさすがに歳が離れすぎてそういったことはまったくないが。何しろ三〇にもなれば、中学生とは一五年ものひらきが生まれる。しかしそう考えると、はじめていまの職場に入ったときからもう一〇年以上経っているわけで、その事実には多少ビビるところはある。もうだいぶベテランである。そろそろべつの労働にうつっても良いだろう。なんか人間でなくて植物や自然の事物を相手にする仕事か、ガスや電気の検針員みたいに外を歩く仕事か、それか以前一度考えていたようにマジでどこかの古本屋でアルバイトさせてもらうか、そのあたりが良い。
  • こちらは正式に文筆業をやるつもりはないので、日記と読み書きとできたら作品制作を続けながら、何かべつの生計の手段を持たなければならない。作品か、なんらかのきちんとした文章をつくって金にしたり、多少文を売ったりすることを目指す可能性が完全にないではないが、日記を金にする気は完全にない。で、コンスタントに十分な量で日記を書き、ものを読む生活を続けるには一日のうちにそう長く働いている暇はなく、労働時間がすくなければすくないほど良いので、いまはのうのうと親元に置いてもらっているが、出たあとは自分ひとりの身を養うに足りるギリギリの貧困生活を送ることになる。で、それは一時的なものではなく、おそらく死ぬまでずっと続く。月に一〇万以下の生計でかつがつ暮らし、病気になったら終わり、と、さしあたってはその路線で行くしかない。こちらの欲求は、死ぬその日まで文を読んで文を書くことを続けたいという、そのことに尽きる。文を金にしたいという気持ちはないし、評判を得たいとも思わないし、影響をあたえたいとも思わないし、なんらかの地位や立場を得たいとも思わないし、むしろどちらかといえば積極的に得たくない。自分なりに作品をつくりたい気持ちはあるし、それが自分ですごいと思える作品だったらより良いが、絶対につくらなければならないわけではない。ただつくったとして、それを出版したいという欲求はない。おのれの望みを虚心に見据えてみると、自分がいまのところやりたいと思うのは、死ぬそのときまで毎日、文を読み文を書く暮らしを続けたいという、その一事だけである。そして、そのことをなんらかの仕事や立場や公共性においておこなうのではなく、単なる一アマチュアというか、一個の個人として、己自身として独学を続けたいという、それだけのことだ。金にならないことは問題ではない。名声を得られないことは問題ではない。影響をあたえられないことは問題ではない。他者に貢献できないことは問題ではない。あとに残る文章をつくれないことは問題ではない。それらすべて、何も問題ではない。問題は、今日を読んで今日を書くことを実際におこない、おこない続けるということのほかにない。やめたくなったらさっさとやめれば良いが、やめたくなるまではそれをやめるつもりはない。ただ現実、そういう生を続けることはなかなか困難だろう。先人に学ばなければならない。そこで、独学者の先人として思い当たるのが、エリック・ホッファーという名前であり、先日久しぶりにこの名を思い出して、彼がどういう風に暮らし生きたのか調べ、参考にできることは参考にせねばなるまいなと思ったのだった。それでとりあえずWikipediaを瞥見して、註に付されていたURLをいくつかメモしておいた。エリック・ホッファーは相当前に、邦訳された自伝を読んだが、これはたしか三〇〇〇円くらいのあまり長くない本で、そんなに大したことは書かれていなかった記憶がある。あと、『波止場日記』も読んで、当時はやはりあまり感銘を受けなかったが、いま読んだらもっと面白いかもしれない。
  • 食事の支度。チンゲン菜やタマネギなどと豚肉を炒める。汁物は母親が準備し、鍋で煮ていた。米もセットしてくれていた。ソテーをこしらえたあとはアイロン掛け。ズボンやエプロン。自分のワイシャツも、どれもノーアイロンタイプのもので、以前はかけなくとも大丈夫な程度皺はすくなかったのだが、最近はどうもくたびれてきたのか皺が明瞭になってきている。しかし明日は休みだし、そう急がなくても良かろうと払って、米が炊けるまでのあいだねぐらに帰還して音読。「英語」。『Solo Monk』をかけてはいるが、なるべく小さな声でつぶやき、ゆっくり読む。主に脚を引っ張り上げて伸ばしながらやった。あとは多少、左右にからだをひねって腰回りや背を和らげた時間も。四五分で切り。今日はなんとなく音読がふるわなかったというか、そんなに長くやらなくとも満足する感じがあった。のちに「記憶」を読んだときも同様。しかしそれでも良いだろう。ともかく二種のノートに毎日触れて読めればそれで良いだろう。はやくもっと英語をガンガン読めるようになって、次の言語に行きたい。
  • 夕食。新聞を多少覗きつつ。しかしあまりきちんと読まなかった。韓国で出た判決がとにかく異例のものだと強調する記事を見たおぼえがある。慰安婦問題を越えて、国家と国家の関係そのものが成り立たなくなるようなものだという外務省官僚の声が紹介されていた。さっさとものを食い、食器を始末すると帰って「記憶」を音読。四〇分で満足した。だいたいロラン・バルト石川美子訳『零度のエクリチュール』からの引用で、長い項目がいくつかあったので。
  • 八時半を越えていた。ジャージのズボンを脱いで股間をさらけだし、ベッド上にティッシュを置いて陰毛を処理した。ペニスの周りの毛が伸びてきてモジャモジャすると特に夏などはけっこう鬱陶しいので、ときおり短く切っている。まず普通の鋏で大雑把に切っていき、そのあと本当は眉を整える用の小さな鋏でこまかい部分を除いていくのだが、当然手もとをちょっと誤れば性器を傷つけかねないわけなので、慎重にゆっくりと手を動かさなければならない。ティッシュの上に集積された縮れ毛の群れは無数に重なり合って、漫画家がひたすら線描を繰りかえしてつくったような不規則かつ非定型な格子模様を呈しており、しかもところどころ層が絡まり合って合一するようで、線が太く黒々となって円を描いている箇所がいくつか見られる。
  • その後、柔軟をしてから入浴へ。温冷浴や指圧や束子健康法をやって、一〇時過ぎに出る。ひとりになって以後も、なんとか毎日自宅で風呂に入ることだけはしたいのだが、やはり貧乏では難しいだろうか。帰室すると歯を磨いてから今日の日記に取り掛かり、ここまで一気に書いた。零時二二分になっている。ちょうど二時間が経った計算。なかなか悪くない、勤勉な仕事ぶりと思う。かなりすらすら書けた。やはり形など大して気にせず、おぼえていること蘇ってくることを順番にひとつひとつ言葉にしていけばそれで良いのだ。形はだいたい、言語変換しているうちに勝手に結ばれる。
  • 豆腐と即席の味噌汁とおにぎりで夜食。その後はけっこうだらけて、特段の活動はしていない。メルヴィルを多少読み足したくらい。本当は音楽を聞きたかったし、部屋に溜まっている新聞の記事の書抜きもしなければならなかった。本も新聞も、書抜きを着々と進めていかないととにかくやばい。二時三五分で消灯。柔軟と瞑想は今日はせず。

2021/1/8, Fri.

 (……)エンリーコの兄は怒りっぽい謎めいた人物だった。エンリーコは兄について進んで語ろうとしなかったが、化学を学ぶ学生で、ある建物の中庭の奥に実験室を作っていた。それはクロチェッタ広場から発する、狭く、曲がりくねった奇妙な小路の奥にあり、その界隈は幾何学的に配置されたトリーノの街並みの中で、哺乳類の発達した体組織内に取り残された、原初的な器官のように異彩を放っていた。(……)
 (プリーモ・レーヴィ/竹山博英訳『周期律――元素追想』(工作舎、一九九二年)、40; 「2 水素」)



  • 一一時半まで寝過ごしてしまった。九時前、一〇時台と間を小さく何度か覚めているのだが。いつもどおりの体たらくで、滞在は八時間半と長くなった。とはいえ消灯は二時四二分、はやくできているので良い。あとはスムーズに起きられるように、就寝前にからだを調える習慣をつくることか。
  • ダウンジャケットを羽織って瞑想。だが、今日は晴れているわりに気温が低いようで、起き抜けの肉がほぐれていない、胃が空っぽのからだに背から寒気が忍び寄る。実際、のちほど食事を終えてから階段や廊下を通っていても、足裏に触れる冷たさが一段変わっているようだったし、足もとに限らず空気全体もずいぶん締まっていた。それでもそれなりに座ったのだが、まあだいたい良いかなと思って目をあけてみると九分しか経っていなかったのにはびっくりした。
  • 上階で食事。前夜の残り物。すなわちタマネギと鶏肉のソテーなど。新聞は緊急事態宣言発出と、ドナルド・トランプの支持者が米連邦議会へ押し入った件が一面。昨日の夕刊で読んだときは死者はひとりで、詳細は不明なものの議事堂敷地内で胸を撃たれた女性がいたとのことだったが、ここでは死者はすくなくとも四人と情報が更新されていた。今回の事件で共和党や政権内でもドナルド・トランプからの離反が明確になりつつあると。閣僚内でも、副大統領に権限を移譲するべきではないかとの声が出ているという。副大統領本人と閣僚の半数が賛同して議会に通告すれば、そういう手続きが取れるらしい。すでに任期があと二週間の時点なので、遅すぎると言わざるをえないが。ジョージア州での上院選挙でも、僅差であったとはいえ民主党が二議席とも獲得したし(ところで昨日、ウィットマーという姓だったと思うと書いた牧師の人はウィットマー姓ではなく、ワーノックとかいう名前だった。いったいどこでウィットマーの文字を見たのか?)、そこにくわえて今回の件が起こったからドナルド・トランプとしてはまったくあてが外れたというわけだろうし、求心力は失われ、退任後の影響力にも陰りが出るのではないか。任期の最後の時期を、濁らせ汚したことになるだろう。しかし支持者はそうは思わない。昨日の新聞のどこかで、支持者のひとりの声として、トランプ氏はこれからも永遠に偉大な大統領であり続ける、彼の影響力は衰えないみたいな言が紹介されていた。ひとりが永遠に大統領であり続けることは米国政治の制度上、もちろんできない。
  • 暴力の誘発や分断の煽動という方面にかんしてはたぶんずっとそうだと思うが、ドナルド・トランプは直接的な言明を避け、支持者にとってのみ暗示的な意味を持ちうるような、遠回しな言い方をしている(ジョー・バイデンはそれをドナルド・トランプのdog-whistleと言った)。つまり、ことが起こったあとに、あれはそんな意図で言ったことではなかった、人々が勝手に取り違えただけだと言い張ることで、一応言い逃れができなくもない言葉遣いをしている。今回の件で言えば、「議員たちに我々の強さを示さなければならない」みたいな言葉があったと思うのだが、それがdog-whistleに当たるだろう。たしかにドナルド・トランプは議会に向けて行進しようとは言ったが議会内に押し入ろうとは言っていないし、強さを示すという言葉はそのまま即座に襲撃侵入を指すとは限らない。とはいえ、こういう言葉を聞いた支持者たちの、そのうちの一部が暴力的な行動に出る可能性の高さは、誰の目にもあきらかなわけである。ドナルド・トランプ自身もそうしたことがわかっていないはずはないと思うのだが。あるいは本当に、彼はそういうことをまったくすこしも気にしていないのだろうか? わからないが、こちらとしては前者の路線で考えて、ドナルド・トランプは普通に支持者のすくなくとも一部が騒擾を起こすことを予測しながらああいう発言をしたのではないかという気がしている。いわゆる確信犯である。事件後に彼はTwitterで騒動をおさめて家に帰るようにと鎮静を促す投稿をしたと言うが、上の流れで考えるとそれはもちろん単なるポーズということになる。
  • あとは国際面に、黄之鋒ともうひとり、「民衆力量」みたいな名前の団体のリーダーだったという譚なんとかという名前の人が、国家安全維持法違反で再逮捕されたとあった。ここで民主派の議員や関係者五三人が一斉に逮捕されたわけだけれど、その容疑は国安法違反で、昨年におこなわれた議会予備選が直接的には違反行為ということらしい。今日の記事にそれがより具体的に書かれていて、いわく、議会の多数を民主派で握ることを通して行政長官の解任を画策したのが国家政権転覆罪に該当する、というのが当局の言い分らしいのだが、これは通常の民主主義的議会制度の完全な否定ではないか。しかもまだ民主派は実際には議会で多数を占めてはおらず、ただ候補者を絞るための予備選をおこなっただけである。これには親中派の弁護士からも、現在のところ予備選など彼らの行動が国家安全維持法に違反したようには見えない、という声が聞かれているらしい。
  • 食後、皿と風呂を洗って帰還。コンピューターとNotionを用意。脚が冷たかったので先に足裏をほぐそうと思って、ベッド縁でゴルフボールを踏みながら書見。ハーマン・メルヴィル千石英世訳『白鯨 モービィ・ディック 下』(講談社文芸文庫、二〇〇〇年)。一日の最初にまず足裏をほぐすというのは良いかもしれない。飯を食ってすぐ、横になれないあいだでもできる。メルヴィルは305から324まで。海に落ちて見棄てられて以来狂人になったというピップの心象の描写が良かった。鯨脳油の塊を手で揉みほぐして液状にもどす作業のところで、仲間と一緒にそれをやっており、いつの間にか脂のかわりに仲間の手を握っていたという話があって、イシュメールの船内での具体的な作業従事が語られてはいるのだけれど、ただ手を握られたその仲間がどんな反応を返したかとか、作業中彼とのあいだにどんなやりとりがあったかとかはまったく触れられていない。そもそもその仲間も「仲間」という一語で言われているだけで、それ以上なんの情報もない。だからイシュメールはやはり、彼と同僚とのかかわりについては最大限に寡黙になって言及を削減しているように見えるし、船に乗って以降は登場人物としてではなくもっぱら語り手として立ちあらわれようとしているように思われる。
  • あと、前に読んだところだが、277に、「破産した悲運尽夫氏が、家族を飢えさせまいとして金貸しの竹藤金太郎氏に金を借りに行くと、予め利子をがっぽりと差し引かれた金を手渡される」とあって、これはもちろん金融業者の「武富士」をパロディしているわけだろう。普通に笑った。原文がどうなっているのかわからないが、その後も続けて、大司教「救済亭魂之助」とか、「愚昧博之輔侯爵」とかいう名前が出てきて、ここまでやってしまって良いのかと思った。ただ意外と奇をてらった違和感はない。この人の訳の調子のなかだからこそ許される荒業だろう。
  • 一時半前まで文を読み、それからここまで記述して二時一五分。今日は五時過ぎに出て労働。それまでに前日の記事を仕上げてしまいたいが。あとは都立高校入試の社会の過去問、平成三一年度も見ておきたい。
  • いったん上階に上がって洗濯物を取りこんだ。母親が居間にいた。今日は休みらしい。ベランダには陽射しが寄せているものの、絶えず回遊する空気の冷たさのほうが常にまさっている。洗濯物もそれにやられて、乾ききってはいないようだ。だからまだたたまなくて良いと言うので、入れただけで自室に帰り、七日の日記を書き足して三時に完成。投稿。ベッドにうつると都立高校入試の社会、平成三一年度(二〇一九年度)の問題をコンピューターに映して確認した。途中、母親が部屋に来て、予約カートがどうとか言う。地元の図書館のホームページで本を予約カートに入れたがそのあとどうすれば良いのかというようなことで、まずそもそもパスワード登録をしていなかったのでそこからだろうと言って、寝転がったままときおり携帯を借りながら母親を導いた。母親が去るとふたたび予習をすすめ、四時過ぎで起き上がり、柔軟。ストレッチをしながら、「宝玉を削った粉で肌を塗りミイラのように残酷になる」という一首をつくった。
  • 上階へ行って食事。レトルトカレーを食おうと思っていたら母親がスモークサーモンや野菜をはさんだサンドウィッチをつくっておいてくれたので、ありがたくそれをいただく。あと即席の味噌汁。みじかく平らげて皿を片づけ階段を下りると、父親が声をかけてきて、源泉徴収票か所得証明を用意してくれと言う。確定申告に使うらしい。了承してもどり、歯磨きや着替えや身支度。五時過ぎで出発へ。
  • 道に出て見上げれば、東方は雲が少々塗られて灰汁のようになっているが、向かう先の西方は一枚の紙として青くひろく澄んでいる。その裾にあたる山際には去っていった西陽のなごりがほんのかすかくゆって、空のなかでそこだけが別色をまねいてあるかなしかのグラデーションをつくっている。歩調をはやめはしないが、やや大股で行った。いつも時間がやや遅くなってしまう。本当はもうすこし余裕を持って出たい。
  • 坂道はしずかである。風は通らずあたりは停止しており、葉がこすれる音も何かが落ちる音も木の間から聞こえてこず、およそ音の気配というものがつかみとれない。耳に入ってくるのは木立を越えた先の街道を走る車の響きのみである。
  • 駅まで着くとまだ電車は来ておらず、間に合うことが確定したので途端に足をゆるめて鷹揚に階段を上る。ホームに入ったところでちょうど来て、乗車すると着席して瞑目。(……)にうつるとここでもゆっくり駅を抜けた。とにかくしずかに、無力になりたい。東と西でだいぶ明暗と深浅が異なる空の青さを見上げて見比べながら職場へ。
  • 勤務。(……)
  • (……)
  • (……)
  • それでも問題なく間に合い、着座して最寄りへ。帰路の記憶は特にない。晴れて星の見える、洗われたような磨かれたような夜空だったと思う。帰宅すると手洗いや着替えなど済ませて、今日は横になるのではなくゴルフボールを踏みながらメルヴィルを読んだ。足裏を柔らかくするのもやはり大事なことだ。そのあとでたぶん多少寝転がったとも思う。よくおぼえていないが。
  • 夕食。スンドゥブなど。鰹のふりかけを開封して米にかける。新聞を読んだのかテレビに目を向けたのかよくおぼえていない。夕刊の記事を多少読んだような気もするのだが。イーロン・マスクが世界一の富豪になったとか、バイデン政権の閣僚人事とか、そのくらいの、あまり大きな印象をあたえない記事だったはず。あと一面にはいわゆる元従軍慰安婦の人々の日本政府に対する請求(たしか日本円でひとり一〇〇〇万円ほど)を韓国の司法が認めたという報が大きく出ていたが、これを読んだのはこのときではなくて、出勤前の食事のときだったはずだ。国際司法の領域には「主権免除」という慣例的原則があるらしく、国家の行為を他国の司法が裁くということは基本的にはおこなわれないということで、それに従わない異例の判決、としてセンセーショナルに扱われていた。日本政府は当然反発するし、外務省も反発するし、保守としてカテゴライズされる方面の政治家も反発するだろうし、市井の右派も反発するだろう。この問題にかんしてはものの本をひとつも読んだことがないし、ちっとも学んでいないからどう考えれば良いのか、確かな思考がこちらのなかにはない。ただ、戦時中の歴史的事実の認定を除けば、ことの中核になっているのはあきらかに一九六五年の日韓請求権協定なわけで、そこにおいて日韓両国がなんらかの一致点や共通了解を見出せなければ外交問題としての公平な(理想的な)解決はおそらくないだろう。つまり六五年において個人請求権がなくなったか否かが問題の最大の結節点のひとつなわけで、そこに立ち戻ってテクストと歴史とその解釈を丹念に精査し直す、という手続きが両国においてまずおこなわれなければ、リアルポリティクスとしてはともかく理念的な意味での解決はないし、それがおこなわれたからと言って解決するとは限らず、むしろそこが起点となるのではないか。
  • 夕食中やそのあと、額や眉のあたりやこめかみを揉んでいると母親に、頭が痛いのと訊かれたが、そういうわけではない。というか実際、頭痛というよりは額痛みたいな感じで、重苦しさがわだかまっていたのだが、顔とか頭蓋とかは意外と簡単にこごりがちで、額をぐりぐり指圧すると頭がかなり軽くなる。
  • 入浴中、久しぶりに束子で全身をこすったが、やはりこれは毎日やったほうが良い気がした。皮膚に刺激をあたえるのは気持ちが良くてさっぱりする。あまりゴシゴシやる必要はなく、ただ全身の肌をくまなく撫でるような感じで良い。
  • 出るともう一時過ぎだったはず。帰室して今日のことをいくらか記述。それからFISHMANS, "感謝(驚)"(『Oh! Mountain』: #8)と、Eric Dolphy, "God Bless The Child"(『In Europe, Vol. 1』: #3)を聞いた。さすがに眠かったので明瞭に聞けず、特に印象が残っていないが。"感謝(驚)"のB部におけるギターの単音カッティングがやはり記憶に残ったくらいだ。消灯し、ヒーターの赤さが浮かび上がる暗闇のなかでしばらくゴルフボールを踏んだあと、柔軟をしてから布団に入った。

2021/1/7, Thu.

 (……)私にとって化学は形の定まらない雲のような未来の潜在力、私の未来を黒い渦巻きになって覆い、炎のきらめきで裂け目をのぞかせるような雲、シナイ山を覆い隠したような雲だった。私はモーセのようにその雲から、私の律法を、自分自身や周囲や世界を律する秩序を待ち望んでいた。私は慎しみのない貪欲さで本を呑みこみ続けていたが、本には飽き飽きしていて、至高の真理に通ずる新たな鍵を探し求めていた。そうした鍵は存在するに違いなく、しかも私たちや世界をそこなう何か恐ろしい陰謀のために、学校からは決して得られないと私は信じこんでいた。学校で私は与えられる何トンもの概念を勤勉に消化してはいたが、私の血管は熱くならなかった。私は春にふくらむつぼみや、花崗岩の中にきらめく雲母や、自分自身の手を見て、心の中で叫んでいた。「これも理解してやる、みな分かってやる、だが彼らが望むのとは違ったやり方で。近道を見つけてやる、鍵を開ける道具を作ってやる、扉をこじ開けてやる」 私たちのまわりのものすべてが謎で、謎解きを迫ってくる時に、存在や認識についての論議を聞くのは、気疲れと嫌悪感を催させた。古びた木の机、窓ガラスや屋根の向こうに輝く太陽、六月の大気中をあてもなく飛んでゆく冠毛。そうだ、哲学者や世界中の軍隊が総がかりでも、この蚊さえ創造することができなかったのだ。いや、理解することさえできなかった。これこそ恥辱であり、嫌悪の的だった。他の道を探す必要があった。
 (プリーモ・レーヴィ/竹山博英訳『周期律――元素追想』(工作舎、一九九二年)、38~39; 「2 水素」)



  • 数日ぶりに正午前まで寝坊。八時間を費やした。年始の山場を越えたので、これで当分はどうにでもなる。しかし緊急事態宣言も発出されたようだし、オンライン授業も増えるかもしれない。オンラインは面倒臭いので以前のときはやらなかったし、今回もやりたくないのだけれど、さすがに受験が間近に迫っているとなるとやらないわけにもいかないだろう。それに社会は教える人がこちらともうひとりくらいしかいない。
  • 用を足してきてから瞑想。一一時五八分から一二時一九分まで二〇分。とにかく心身をしずかにしていく、それが瞑想である。今回はわりと無動にできた。呼吸の音も自分の耳にすら聞こえないほどのかすかさにしたし、からだにすこしの動きもなくて背が服にこすれる感触すらない時間もそこそこつくれた。難題なのは唾である。唾というか、こちらの場合は喉の奥に薄い痰みたいなものがけっこう湧くので、それをどうしても飲みこんでしまうし、飲みこまないわけにいかないのだけれど、そのときはやはりわりと大きな動きが生まれる。目を開けて二〇分しか経っていなかったのはやはりちょっと意外というか、体感だともうすこしいっていたような感じだ。だいたい二〇分座ればからだの感覚はかなりまとまるような具合の心身になってきている。
  • 上階へ。天麩羅と素麺の煮込み。新聞を読む。香港で民主派議員ら五三人が一斉に逮捕されたとの記事。昨日の夕刊でも見たが、そのときは五二人だった。民主派議員のリーダー的な人や、「雨傘運動」を提唱した香港大学の載なんとかという(元?)准教授がふくまれていると。蘋果日報をはじめとしてメディアにも捜査の手がおよんでいる。今回逮捕された人々にかんしては、昨年七月の予備選実施が問題視されたのではないかということ。そして彼らはおそらく次の立法会選挙には出馬を認められないだろうから、香港の議会から民主派は一掃され、親中派が覇権を握るということになるのだろう。
  • ジョージア州の上院選挙の報も。民主党が一議席取ったらしい。たしか牧師の、なんとかウィットマーという人だったと思う(Gretchen Whitmerとおなじ姓だと思った記憶がある)。もう一議席は未確定。州のなかでも地方にあたる町では共和党支持者の白人層が力を持ち、大都市アトランタでは黒人などの人々がけっこうな勢力を占めているようだ。アトランタは人口五〇万人のうち半分が、全部黒人だったか忘れたが、非白人だと書かれていたと思う。地方のほうのなんとかいう町(ドールストンみたいな名前だった気がする)の投票者の声を拾ったなかに、ドナルド・トランプは史上誰よりも多くの業績を成し遂げた大統領だ、と熱烈に称賛しているものがあり、その人はまた、自分が共和党に投票するのはこの国を社会主義国家にしようとする民主党の企みを防ぐためだ、みたいなことを言っていたのだけれど、アメリカにおけるこの社会主義アレルギーというのはいったいなんなのだろう。ひとつにはソ連との対峙の歴史から来ていることはまちがいないのだろうけれど、たとえばこの人がこう口にするときの「社会主義」がどういうものとして考えられ、イメージされ、とらえられているのかがこちらにはよくわからない。ソ連的独裁を想定しているのか? 個々人の自由、および経済的自由競争を制限し収奪する体制のことを言っているのだろうか。
  • ついでに思い出したのだけれど、昨日の新聞にもジョージア州の動向については伝えられていて、そこでも市井の人の声が多少載せられていたのだが、彼らの言うことを記述した文(かならずしも直接話法ではないが)の述語がだいたい「信じる」になっていたのだ。ドナルド・トランプが言っている不正選挙の主張を信じる、QAnon的陰謀論を信じる、「Q」が米軍幹部であるという説を信じる、したがって彼は民主党に大打撃をあたえる策略を計画しているはずである、とそういった調子だ。政治言論が、判断とか推測とか思考とかではなく、「信」の問題になっているのだ。で、それは、この人たちが積極的にこの「信」を選び取ったというよりは、既存の政治空間や枠組みがもうまったく信じられなくなったという、不信の裏返しとしての信であるわけだろう。不信と懐疑に追いやられて安定せずにさまよう主体の不安を癒やすよりどころとして、ドナルド・トランプとかQAnonとかが具合良く出現してきたのではないのか。だから熱狂するのではないか。既存の物事に対する懐疑は皆持っていて、それ自体は何も問題ないと思うのだけれど、懐疑を懐疑としてそのままにしておき、宙吊りの状態にとどまったままでいるというのは、やはり難しいことなのだろう。懐疑をなんらかの信に解消しなければ、確固たる足場を得てそれにすがらなければ、やはり人は生きづらい。他者から見れば、ドナルド・トランプやQAnon支持者における懐疑から信への解消の仕方はかなり反動的で、飛躍が相当大きいように見えるのだけれど、本人たちにしてみれば、不安定な空間の持続のなかでやっと見つけた安住的なよりどころなのではないか。もしそうだとすれば、それは主体の存在的アイデンティティと強固に結びついているものだから、彼らはそれに執着する。それを脅かそうとして批判や意見を向けてくる他者に対しては、熱烈に反発し、敵意をいだく。批判や意見が論理や言語として正論か否か、適切か否か、確実か否か、などは関係ない。自分の信が崩れることは自分自身のすくなくとも大きな部分が崩れることであり、それは主体の危機だから、彼らはなんとしてでもそれを防ごうとする。彼らの信を疑わしくするものはすべて敵であり、彼ら自身を削り取り収奪しようとする盗っ人である。だから彼らは、選挙が「盗まれている」と口にするのではないか。そして思うのだけれど、この先の世で現在の米国や世界の歴史的評価がどうなるか、もちろんわからないが、たとえばドナルド・トランプが大統領だった時期は、あれはまるで馬鹿げた一時的逸脱だった、気狂いじみた愚行だったという回顧的評価が確定的となったときに、彼らはいったいどうなるんだろうなと思う。そうなったとしても、みずからの信をかたく守りつづける人ももちろんいるだろう。しかしそこでもし、彼ら自身にとっても現在の信が疑わしくなり、あの頃の自分はおかしかったな、という風になったら、またそのとき世界的な規模でもって虚無が深まりはしないだろうかという気がする。
  • 食後は皿と風呂を洗って下階へ。コンピューターを用意し、歯を磨いてからここまで記述すると二時半。天気が良いので散歩に出たい気もあったが、それよりも音読などをしたい。あと日記作成。ただすでにからだが、とりわけ背の下部が疲れているので、やはり調身が最優先だ。
  • ベッドで休みながら翌日の授業の予習。(……)大学の英語過去問。BBCのStoriesの文章が使われていた。二〇二〇年度と二〇一九年度の途中まで確認すると、音読。三時四〇分から五時まで。「英語」を。今日はダンベルを持たず、手首や指を伸ばしたり、足首を持って後ろで引っ張り上げたり、首や後頭部を指圧したりしながら。五時を超えると食事の支度へ。米を磨ぎ(冷水で右手が痺れ、凍えて痛む)、タマネギ二個と鶏肉のササミのソテー。ものを切るというのも、いざ意識してやってみると難しいものだ。まず姿勢がつかめない。右利きなので、右足をちょっと後ろに引いたほうが包丁をまな板に対してまっすぐ置けるのだろうが、足を引くというより、半身みたいになって横から切るようなポーズになってしまう。包丁をものに切り入れるときも、まっすぐにうまく差しこめているとは思えない。ササミを切るときの感触はちょっと良かった。肉にやや粘り(ねばねばとした感じ、ではない)があって弾力的であり、やわらかく、特殊な餅を思わせる感じ。
  • 炒めると米が炊けるまで待たなければならなかったので、下階にもどって英文記事を読んだ。日記にメモしてあったエマニュエル・マクロン関連のもの。

Macron, France’s president since 2017, could be pitted against far-right politician Marine Le Pen at the polls in 2022.

He said foreign media did not understand the concept of “laïcité” – secularism, or the separation between church and state.

“There is a sort of misunderstanding about what the European model is, and the French model in particular,” Macron said. “American society used to be segregationist before it moved to a multiculturalist model, which is essentially about coexistence of different ethnicities and religions next to one another.”

Macron described the French model as “universalist, not multiculturalist”. He said: “In our society, I don’t care whether someone is Black, yellow or white, whether they are Catholic or Muslim. A person is first and foremost a citizen.”

At the start of October, Macron announced a series of measures to combat “radical Islamism”, including placing greater control over mosques and the requirement that imams are trained and certified in France. Some English-language newspapers have been critical of Macron.

On Thursday, Amnesty International criticized the president and his government, saying they had “doubled down on their perpetual smear campaign against French Muslims, and launched their own attack on freedom of expression”.

In a report, the charity pointed to the conviction in 2019 of two men who burned an effigy of Macron at a protest, and suggested Muslims did not enjoy the same freedoms as others in France.

“While the right to express opinion or views that may be perceived as offending religious beliefs is strenuously defended,” the report said, “Muslims’ freedoms of expression and religion usually receive scant attention in France under the disguise of Republican universalism.

More than 250 people have died in terror attacks in France since 2015, the most in any Western country. Mr. Macron, a centrist modernizer who has been a bulwark against Europe’s Trumpian right-wing populism, said the English-language — and particularly, American — media were imposing their own values on a different society.

In particular, he argued that the foreign media failed to understand “laïcité,” which translates as “secularism” — an active separation of church and state dating back to the early 20th century, when the state wrested control of the school system from the Catholic Church. The subject has become an increasing focus this year, with the approach of the 2022 election in which Mr. Macron appears likely to face the far-right leader Marine Le Pen. Mr. Macron didn’t initially campaign on changing the country’s approach to its Muslim minority, but in a major [speech](https://www.diplomatie.gouv.fr/en/coming-to-france/france-facts/secularism-and-religious-freedom-in-france-63815/article/fight-against-separatism-the-republic-in-action-speech-by-emmanuel-macron) in early October denouncing “Islamist separatism,” he promised action against everything from the foreign training of imams to “imposing menus that accommodate religious restrictions in cafeterias.” He also [called](https://www.nytimes.com/2020/11/09/world/europe/france-austria-terrorist-attacks-marcon-kurz.html) for remaking the religion itself into “an Islam of the Enlightenment.” His tough-talking interior minister, meanwhile, [is using](https://www.nytimes.com/2020/09/04/world/europe/france-ensauvagement-far-right-racism.html) the inflammatory language of the far right.

     *

Some French grievances with the U.S. media are familiar from the U.S. culture wars — complaints about short-lived headlines and glib tweets by journalists. But their larger claim is that, after the attacks, English and American outlets immediately focused on failures in France’s policy toward Muslims rather than on the global terror threat. Mr. Macron was particularly enraged by a Financial Times opinion article on Nov. 3, “Macron’s war on Islamic separatism only divides France further,” which argued that he was alienating a Muslim majority that also hates terrorism. The article said he was attacking “Islamic separatism” when, in fact, he had used the word “Islamist.” Mr. Macron’s critics say he conflates religious observance and extremism, and the high-profile misquote — of his attempt to distinguish between the religion of Islam and the ideology of Islamism — infuriated him.

“I hate being pictured with words which are not mine,” Mr. Macron told me, and after a wave of complaints from readers and an angry call from Mr. Macron’s office, The Financial Times took the article off the internet — something a spokeswoman, Kristina Eriksson, said she couldn’t recall the publication ever having done before. The next day, the newspaper published a [letter](https://www.ft.com/content/8e459097-4b9a-4e04-a344-4262488e7754) from Mr. Macron attacking the deleted article.

In late October, Politico Europe also deleted an op-ed article, “[The dangerous French religion of secularism](https://www.fr24news.com/a/2020/10/the-dangerous-french-religion-of-secularism-politico.html),” that it had solicited from a French sociologist. The piece set off a firestorm from critics who said the writer was blaming the victims of terrorism. But the hasty deletion prompted the author to [complain](https://orientxxi.info/magazine/le-debat-censure,4262) of “outright censorship.” Politico Europe’s editor in chief, Stephen Brown, said that the article’s timing after the attack was inappropriate, but that he had apologized to the author for taking it down without explanation. He didn’t cite any specific errors. It was also the first time, he said, that Politico had ever taken down an opinion article.

But French complaints go beyond those opinion articles and to careful journalism that questions government policy. A skeptical Washington Post [analysis](https://www.washingtonpost.com/outlook/macron-france-reform-islam-paty/2020/10/23/f1a0232c-148b-11eb-bc10-40b25382f1be_story.html) from its Paris correspondent, James McAuley, “Instead of fighting systemic racism, France wants to ‘reform Islam,’” drew heated objections for its raised eyebrow at the idea that “instead of addressing the alienation of French Muslims,” the French government “aims to influence the practice of a 1,400-year-old faith.” The New York Times [drew](https://www.nytimes.com/2020/11/09/world/europe/france-austria-terrorist-attacks-marcon-kurz.html?searchResultPosition=1) a contrast between Mr. Macron’s ideological response and the Austrian chancellor’s more “conciliatory” address after a terror attack, and [noted](https://www.nytimes.com/2020/11/06/world/europe/france-attacks-beheading-terrorism.html?searchResultPosition=3) that the isolated young men carrying out attacks don’t neatly fit into the government’s focus on extremist networks. In the Times opinion pages, an op-ed [asked](https://www.nytimes.com/2020/10/31/opinion/france-terrorism-muslims.html?searchResultPosition=4) bluntly, “Is France Fueling Muslim Terrorism by Trying to Prevent It?”

     *

As any observer of American politics knows, it can be hard to untangle theatrical outrage and Twitter screaming matches from real differences in values. Mr. Macron argues that there are big questions at the heart of the matter.

“There is a sort of misunderstanding about what the European model is, and the French model in particular,” he said. “American society used to be segregationist before it moved to a multiculturalist model, which is essentially about coexistence of different ethnicities and religions next to one another.”

“Our model is universalist, not multiculturalist,” he said, outlining France’s longstanding insistence that its citizens not be categorized by identity. “In our society, I don’t care whether someone is Black, yellow or white, whether they are Catholic or Muslim, a person is first and foremost a citizen.”

Some of the coverage Mr. Macron complains about reflects a genuine difference of values. The French roll their eyes at America’s demonstrative Christianity. And Mr. Macron’s talk of head scarves and menus, along with the interior minister’s [complaints](https://www.politico.eu/article/gerald-darmanin-france-complaint-religious-food-aisles-sparks-criticism/) about Halal food in supermarkets, clashes with the American emphasis on religious tolerance and the free expression protected by the First Amendment.

Such abstract ideological distinctions can seem distant from the everyday lives of France’s large ethnic minorities, who complain of police abuse, residential segregation and discrimination in the workplace. Mr. Macron’s October speech also acknowledged, unusually for a French leader, the role that the French government’s “ghettoization” of Muslims in the suburbs of Paris and other cities played in creating generations of alienated young Muslims. And some of the coverage that has most offended the French has simply reflected the views of Black and Muslim French people who don’t see the world the way French elites want them to.

Picking fights with American media is also an old sport in France, and it can be hard to know when talk of cultural differences is real and when it is intended to wave away uncomfortable realities. And reactionary French commentators have gone further than Mr. Macron in attacking the U.S. media, drawing energy from the American culture wars. A flame-throwing article in the French magazine [Marianne](https://www.marianne.net/societe/medias/apres-les-attentats-islamistes-en-france-la-presse-americaine-fait-le-proces-de-la-laicite) blasted U.S. coverage, with an adapted English version [in Tablet](https://www.tabletmag.com/sections/news/articles/caroline-fourest-liberalism-france) adding an American flourish by denouncing “simplistic woke morality plays.”

But the ideological gaps between French and American points of view can be deceptive. The French commentariat has also harped on the #metoo movement as an example of runaway American ideology. Pascal Bruckner, the well-known public intellectual, called the sexual abuse case against Roman Polanski “neo-feminist McCarthyism.” But perhaps the most prominent American journalism in France this year came from The Times’s Norimitsu Onishi, who [played](https://www.nytimes.com/2020/01/07/world/europe/france-pedophilia-gabriel-matzneff.html?searchResultPosition=29) a central role in forcing France to grapple with the well-known pedophilia of a famous writer, Gabriel Matzneff. A recent [profile](https://larevuedesmedias.ina.fr/bureau-new-york-times-paris-enquete-matzneff-attentat) in a French news site described Mr. Onishi and others as “kicking the anthill just by naming things” that had previously gone unspoken. Mr. Matzneff is now facing charges.

  • 夕食中のことは特に印象に残っていない。新聞を読んだと思うが、このとき読んだ米連邦議会での騒動については、今日(一月八日)の日記にすでに記した。部屋にもどると上の記事を読み、ついでに下の記事も読んだ。ここで引いた部分に典型的な、「~だが」「~したが」をずっとつらねていくやり方というのは、こちら自身はやはりどうしてもやりづらく、避けてしまうところがある。金井美恵子という人は、この記事を読んでみても、たぶんこれは小説作品などよりよほど手を抜いてというか、力を抜いて楽に書いているのではないかと思うのだけれど、それでも特有の感じというのはちょっとある。小説にせよ、こういう時事的なエッセイの類にせよ、どういう風に書いているのかな、というのがちょっと気にはなる。たしかこの人は、推敲をして文章を減らして整えていくのではなく、むしろどんどん書き足して分量を増やしてしまう、ということを以前聞いたおぼえがあるのだけれど、やはりあまり切り詰めて固め、完全につくりあげていくという感じではないのだろうか。

 11月からの3月までの通院の間に、新型コロナウイルスの感染がこれ程の規模になるとは、もちろん想像もつかなかったのだが、11月から通院して2月の定期的なCT検査に行った時は、横浜港に停泊中の大型クルーズ船で乗客乗員の10人に感染が確認された後だったが、それから2週間もたたない24日には、政府の専門家会議が「これから一~二週間が拡大に進むか収束できるかの瀬戸際」という見解を発表し、28日には北海道知事が道民に週末の外出自粛を要請したのだが、2月にはタクシー運転手の屋形船での新年会で感染者が出たのも、テレビのワイド・ショーレベルでの話題の一つで、後、4月10日には、天皇・皇后に流行中の感染症について進講することになる「新型コロナウイルス感染症対策専門家会議副座長を務める尾身茂・地域医療機能推進機構理事長」は、いかにも気の利かない、実直だからこそ表現力に欠けているのだと言わんばかりの拙い言葉づかいで、屋形船やライブハウスの、人々が密集した空間が感染を広める、と不器用な説明をし、現在の日本はどういう状況なのかという記者たちの質問に対して「ぎりぎり持ちこたえている状態」と答えたのだったが、昔から使われているこの病状の説明用語が、いったい、「持ちこたえている」の主体は誰というか何なのか、まったく訳がわからないのだ。
 現在ではどうか知らないが、昔、重症の病人について、そういう言い方をしていたし、「この山を持ちこたえてくれたら」といったような言い方を、60年以上前、実際にというわけではなく映画や芝居や小説の中で耳にしたことを思い出し、そこで医者と患者の家族たちとの間で取り沙汰されていた病気は、ガンとか心臓病とか生活習慣病とかではなく、感染症だったのかもしれないと思ったのだったが、後になって、ということは、3月28日、首相が記者会見で、水面下で実際は感染がもっと広がっているのではないかという質問に、そういうことはない、死者の数は多くないし、「現状の感染状況には「ぎりぎり持ちこたえている」と従来の見解を繰り返した。」(東京新聞4月3日)という記事を読んで、おそまきながら、爆発的な拡大にはなっていない、という意味だったのかと思ったのだが、「進講」を受けた「両陛下」が、現場で働く医療関係者へのねぎらいの言葉を繰り返し「国民が一丸とならなければならないのですね」と語ったと話す「新型コロナウイルス感染症対策専門家会議副座長を務める尾身茂・地域医療機能推進機構理事長」と、その長い肩書きを念入りに、つい書いてみたくなる人物が言いたかった「ぎりぎり持ちこたえている」は、現場でウイルスと闘う医療関係者たちの状況だったのかもしれないと思いあたったが、むろん、メディアの記者たち(と読者と視聴者)が知りたかったのは、「ぎりぎり持ちこたえている」といった、少し前に使われた言い方で言えばエモい [・・・] 言い方ではなく、何がどうなっているのか、私たちはどうすればいいのかという明確な事実だろう。尾身茂は4月1日朝日新聞のインタビューに答えて「新型コロナウイルスが1年後に地球上から完全になくなっているとは考えにくい」と言い「いまできることは、みなが心を一つに、感染を広げない努力をすることだ」と語るのだが、私たちはいくらなんでも、「両陛下」のような素直さで「国民が一丸とならなければならないのですね」などと答えはしない。それに、上皇夫妻用語にも「国民が一丸となって」というナマな [・・・] 言い方はなかったはずだから、これは戦前の医者を連想させる尾身的用語なのかもしれない。

  • それから、八時前からまた音読。「記憶」。「英語」と「記憶」でだいたいそれぞれ一時間くらいできれば悪くないだろう。ただ、「記憶」は日本語の文が多く、なぜだかわからないのだが日本語の文を音読していると、「英語」よりもはやく飽きてしまう感じがあって、それでこのときも一時間まで至れず、三〇分ほどで切り上げることになった。英語にもっと馴染んで、もう音読して語彙を習得しなくても良いだろうというレベルにまで達することができれば、もっぱら「記憶」のみをガシガシ読んでいき、あるいはまたべつの言語の記事をつくって今度はそちらを身につけていくということになるだろう。
  • 今日「記憶」から読んだなかには、フィリップ・ソレルス『ステュディオ』中に引かれていたヘルダーリンの手紙の文言があって、ここははじめて読んだときからかなり好きである。『ヘルダーリン全集』はたしか河出から四巻のものが、けっこう古くて六〇年代か七〇年代くらいに出ていて、こちらはそれの四巻目、論文と書簡の巻を持っていて、下記の引用部にあたる箇所もこの全集には入っているのだけれど、以前覗いた際には『ステュディオ』内のこの訳のほうが全然良いと思った記憶がある。

 一七九九年七月に、ヘルダーリンは彼より二歳年下の妹ヘンリケにあてて書く、
 「それにしてもひとにはそれぞれそのひとなりの喜びがあるわけで、だれがいったいそれを完全に軽蔑することができるだろうか? ぼくの喜びは現在のところ晴天、明るい太陽それに緑の大地なんかだ……もしぼくがいつか灰色の髪の毛を持つ一人の子供になるとしても、きっと春と朝と夕暮れの光とは毎日、まだいくらかはぼくを若返らせてくれることだろう、ぼくがこれで最後なのだと感じ、自由な風にさらされてすわりに行く、そしてそこから立ち去って――永遠の若さへと向かうそのときまで!」
 (フィリップ・ソレルス/齋藤豊訳『ステュディオ』水声社(フィクションの楽しみ)、二〇〇九年(Philippe Sollers, "Studio", Gallimard, 1997)、252)

  • あと、岩田宏の「神田神保町」の冒頭と最終連を読んだのだが、「やさしい人はおしなべてうつむき/信じる人は魔法使のさびしい目つき」の二行にあらためてびっくりし、この二行はマジですごいなとビビった。入るタイミングも、そのあとで一人称「おれ」に転換するのも嵌まっている。「やさしい人はおしなべてうつむき」もかなり良いし、好きかどうかで言ったらこちらのほうが好きかもしれないが(一時期ブログのタイトルにもしていた)、しかしとりわけ「信じる人は魔法使のさびしい目つき」はマジですごい。完璧な語のつらなりだと思う。

 神保町の
 交差点のたそがれに
 頸までおぼれて
 二十五歳の若い失業者の
 目がおもむろに見えなくなる
 やさしい人はおしなべてうつむき
 信じる人は魔法使のさびしい目つき
 おれはこの街をこわしたいと思い
 こわれたのはあのひとの心だった
 あのひとのからだを抱きしめて
 この街を抱きしめたつもりだった
 五十二カ月昔なら
 あのひとは聖橋から一ツ橋まで
 巨大なからだを横たえていたのに
 頸のうしろで茶色のレコードが廻りだす
 あんなにのろく
 あんなに涙声
 知ってる ありゃあ死んだ女の声だ
 ふりむけば
 誰も見えやしねえんだ。
 (『岩田宏詩集』思潮社(現代詩文庫3)、一九六八年、24~25; 「神田神保町」)

  • その後入浴。入浴しながら短歌をいくつか作成。一番上のものは一月二日か三日くらいの朝につくって忘れていたものだし、二つ目のものも三日前くらいに大方できていたものだが。冬晴れ以降のものは風呂のなかでゼロからつくった。

 週末は狂気の歴史へ参入しダンスフロアで信仰を知る

 産道をもどって母の卵子まで届けにいくよ死者の啓示を

 冬晴れの空が奪ったあのひとのこころの音を見つけるために

 海鳴りのなかにまたたく去りびとの声を拾って風に流して

 雪原に遊ぶ動物おれもまた死後はああして色になりたい

 吐血した夜の手を刺す朝雪がしずけさの意味をおしえてくれる

 風だけが問いを知ってる不確かなものを絶滅させた世界で

  • 帰室して日記。五日と六日。零時まで。五日は終わって投稿した。疲労したのでベッドで休みつつ、授業の予習。「(……)」国語から古文を引用した文章の章、すなわち都立高校入試本番の大問五にあたるところを読んだのだけれど、どれもけっこう面白いというか悪くない文章が選ばれていて、けっこう良いじゃんと思った。出典をメモしておくと、尾崎左永子「古典いろは随想」、石毛直道「日本の食文化史――旧石器時代から現代まで」、高階秀爾田中優子山口昌男「橋と象徴」。尾崎左永子石毛直道田中優子は初見の名前。田中優子という人は法政大学の総長を二〇一四年からやっているらしい。「橋と象徴」の初出は、おそらく『日本の美学28 特集・橋 つなぐもの、わけるもの」(ぺりかん社、一九九八年)のようだ。インターネットで出てきたデータを見ると、ほかに寄稿者のなかに淺沼圭司の名がある。この人はたしかロラン・バルトニーチェを絡めた本を出していて、何年も前に買って以来ずっと積んであったはず。
  • なぜか疲労感が濃かった。それで予習の終盤では臥位のまま目を閉じてちょっと休んだ。本当はそこでもう眠ってしまうのが良いのだと思うが。しかしその後ふたたび六日の日記を記し、二時半に完成させて投稿してから消灯。すこしだけ柔軟をして、瞑想はできそうになかったのでそのまま就寝。
  • どこかでメルヴィルを読むべきだった。やはり読書の本線は毎日すすめていきたい。あとは書抜きもしなければまずいし、調身の時間を寝る前にしか取れなかったのもあまりよろしくはなかった。活動よりも心身を調えることを先にしたほうがたぶん良いのだと思う。ウェブ記事を読めたのと音読をできたのは良い。あとは音楽を聞くことと、(……)や(……)くんにメールも送りたいところ。

2021/1/6, Wed.

 我らが祖先はトリーノで拒絶されたり、冷たくあしらわれて、ピエモンテ地方南部の様々な農業地帯に定住し、絹の技術を導入したのだが、最盛期でも、非常に数のすくない少数派の状態を超えることはなかった。彼らはさほど愛されなかったし、ひどく憎まれもしなかった。激しく迫害された、という情報は伝えられていない。しかしながら、嫌疑と、漠然とした敵意と、嘲笑の壁が、彼らを実質的に残りの人々と分けていたに違いなかった。それは一八四八年の解放と、その結果としての都市移住の数十年後まで、続いたのだった。もし私の父の、ベーネ・ヴァジェンナでの幼年時代の話が事実だったらの話なのだが。つまり、父の同年代の子供たちは、学校を出ると、(悪気はないのだが)父をからかったというのだ。上着の端をこぶしで握って、ろばの耳の形を作り、「豚の耳、(end10)ろばの耳、ユダヤ人の好物だ」と節をつけてはやしたてたのである。耳へのほのめかしは勝手につけたもので、もともとその仕種は、敬虔なユダヤ人がシナゴーグで交わしていたあいさつのパロディだった。ユダヤ人たちは「聖書」の読書に呼ばれた時、祈禱用のマントの端を互いに見せあっていた。その房飾りは典礼によって、数、長さ、形が詳細に規定されており、宗教的、神秘的意味がこめられていた。だが子供たちは自分の仕種の起源をもはや知らなかった。ここでちなみに思い出すのは、祈禱用のマントへの侮蔑は反ユダヤ主義と同じくらい古いことだ。SSたちは流刑囚から押収したこのマントでパンツを作らせ、強制収容所[ラーゲル]に囚われていたユダヤ人の囚人に配ったのだった。
 (プリーモ・レーヴィ/竹山博英訳『周期律――元素追想』(工作舎、一九九二年)、10~11; 「1 アルゴン」)



  • 本当はもっとはやく起きたかったのだが、六時半を過ぎた。今日は鍵開けをまかされたので、七時半には出なければならない。一時間しかなくては瞑想などできない。それですぐ上へ。前日の残り物のチンゲン菜とハムのソテーなどで食事。即座に下階に帰り、身支度を整える。ゴルフボールをいくらか踏んだ。
  • 出る前に便所へ。いつもより時間がはやいし、寒いし、起き抜けだしまだ出ないかと思ったが、意外と比較的スムーズに大便を捨てることができた。最近ときおり腹を揉んでいるためかもしれない。それで七時半過ぎに出勤路へ。もちろん寒いし、今朝は天気もふるわない。猶予はややあったので今日はゆっくり小幅な歩で坂道を行くが、それでも息苦しくなってマスクをずらす。(……)さんがこちらの横を抜かしていった。久しぶりに見かけた。
  • 最寄り駅では殊更足をゆるめ、乗車。扉際で瞑目。降りるとのろのろ職場へ。
  • 労働。(……)
  • (……)
  • (……)
  • 二時半頃退勤。今日はまた宵から労働があるし、電車の時間もすぐだったので、体力を温存しようというわけで徒歩を取らず駅に入った。(……)行きに乗って着席。コロナウイルス対策で基本的には扉があけっぱなしなわけだけれど、最近は寒くなってきたので、待ち時間が長いときは押しボタン式に変わっている。それで自分の席の前のドアは閉めたのだが、車両の端のほうは開いているのであまり効果はなく、開口部が遠くても普通に冷気が足もとを通っていてかなり寒く、足先に触れた寒気が胸のあたりや背にまで波及して肌をいくらかふるわせる。そんななかでしかし瞑目し、じっと停まって気力体力の回復を図った。
  • 最寄り駅に着くと降りてのろのろと、誰よりも遅く、すでに無人になったホームを行く。今日は天気が小暗く曇っていて陽もないので、駅正面から坂を下った。右手のガードレールの向こうの木立が一部薄くなったように思われ、その先の斜面下、沢をいだいている窪みみたいな谷間がよく見えて、こんなによく見えたかなと思ったが、昼間に、しかもこの向きでここを通ることがあまりないからかもしれない。鳥たちが朝と同様、かしましく鳴き競っていた。
  • 平ら道を自宅へ向かっていると前方に荷を積んだトラックが停まっているのが見えて、(……)さんだなと判じた。久しぶりに見かけた。行商の八百屋だが、最近は母親も出かけていることが多いし、あまり我が家にも停まらないようだ。このときは自宅からはまだすこしだけ距離のある地点に停まっていて、そのあたりの家々に来訪を告げていたようだが、もどってきたところにちょうど行きあったので挨拶した。寒いねと言うのでいや本当に、と受けると、霧雨みたいなパラパラしたやつが、走っててもガラスに当たる、雪になるよこりゃ、と続くので、空が暗いですもんねと応じる。今日は夜また行くようなのだ、中学生が今日まで休みなので珍しく朝からだったのだが、と話した。教えるってのもやっぱり大変だ、とねぎらってくれる。せっかく遭遇したのでタマネギでも買っておくかと思い、五個袋に入れてもらった。二〇〇円。どれもわりとまるまるとして大きめのものだった。それで挨拶を交わして別れ、帰宅。
  • 父親が在宅。手を洗うなどしてから帰室して休息。ベッドでハーマン・メルヴィル千石英世訳『白鯨 モービィ・ディック 下』(講談社文芸文庫、二〇〇〇年)を読んだ。今日はまだ疲労感がマシだったような気がする。もしかすると昨晩も今朝も足裏をほぐしておいたためかもしれない。とにかく脚だ。脚のコンディションを常に調えることが肝要。『白鯨』のなかで、その台詞回しの観点からして一番好きなのは第二航海士スタッブかもしれない。ドストエフスキー『悪霊』のときもそうだったが、こちらはなぜか粗野だったり蓮っ葉だったりする連中の喋りが生き生きとした調子で言語化されているのがけっこう好きである。
  • 四時を回ってレトルトカレーで食事。母親帰宅。送っていこうかと言う。図書館に行きたいのでまた出るらしい。まだはやかったので断ったが、再帰宅後に結局送ってもらった。日記を記しておく時間を確保したかったためである。それで身支度を整えるといくらかこの日のことを記述して、五時半に出発。
  • 雨がかすかに降り出していた。からだにはあまり感じられないが、車のライトによってそれが見える。乗車して出してもらい、瞑目して体力を温存する。音楽はAir Supplyの"Even The Nights Are Better"。駅前につくと母親がコンビニで買い物するあいだ、車内にとどまって待つ。短い時間だが、そこでそこそこ休息できた。数分でも目を閉じてじっとしていれば多少楽にはなる。母親がもどってくると降りて職場へ。
  • ふたたび勤務。(……)
  • (……)
  • もともとこの夜は、電車に間に合わないこともわかっていたし、今日で山場も終えて翌日は休みだし、寒いなかだが歩いて帰ろうと思っていた。そのために、モッズコートに灰色のマフラーではなく、Journal Standardの真っ黒なコートを今冬はじめてまとって、ストールを持ってきたわけだ。Paul Smithの灰色のマフラーは短くて縛れないが、ストールのほうはけっこう長さがあるので、結ぶようにして首に巻きつけ、しっかり防護できるという頭である。それで九時四〇分くらいに退勤すると徒歩で帰る。夜空は曇りで光はなく曖昧に灰化している。普通に寒い。とりわけ膝頭のあたりが冷たく、それ以外のからだの部分や上半身はそうでもないがスラックスの生地を通る冷気の刺激があって、女子高生などこの季節でも堂々とスカート下の脚を露出しているけれど、マジで正気の沙汰ではないなと思った。あれがスタンダードとして通行している世の慣習を見直すべきではないかと思う。そもそも学生に制服など不要だと思う。中学校までは義務教育として服装規定を課すにしても、高校の制服は廃止して良いと思う。とはいえおのおのの学校でデザイン面で努力したり、制服のファッション性を気に入って着たいという生徒もいたり、私服を毎日調えるのが面倒臭いという人もいたりするだろうから、制服と私服とどちらでも良いという風にするべきだと思う。こちらの高校はそうで、制服ではなく「標準服」というものが用意されており、かく言うこちらも高校時代はほとんどそれを着て通学していた。
  • 膝は寒かったのだけれど、歩いているうちにそれも散ってきたし、耳が痛くならないあたりまだ寒気が本格でないという気もした。裏路地はしずかである。通行者はほかにほとんどない。夜のしずかな、音のない裏道を、こうしてひとりで黙々と、しずしずと歩くのも久しぶりだなと思った。その雰囲気は決して悪くない。しかし歩いているとやはり習慣化されていないから脚が疲れてくる。特に、膝の裏側すなわち膕の上のあたりの筋肉に引っかかりが生まれてくる。ハムストリングスと言うのだったか? 革靴だとやはり踏み台が固いようで、地を踏まえてからだを送るときの脚の伸び方に反動めいたものが含まれているようだった。よほどのろのろ歩いていてもそうである。あるいは、ゆっくり動くとかえってそうなるのか?
  • 家に続く下り坂には、日中よりもよほどしずかな分、立ち昇ってくる川の響きが明瞭に際立つが、しかし音の性質や音色自体は昼だろうと夜だろうとあまり違いを感じるものではなかった。とはいえたとえばこの冬の夜に、先も見えない真っ暗闇のなかで河原にまで降りてあの音を間近に浴びたら、それはすさまじく苛烈でめちゃくちゃ寒いだろうなと思った。自宅のすぐそばまで来ると、(……)さんが林に鹿が棲んでいると言っていたのを思い出してちょっと停まり、木立のほうへ耳を張って気配を探ってみたのだが、聞こえてくるものはない。何かが動いて葉を鳴らす瞬間もない。正確には、奥のほうで葉を踏んでいるような響きがかすかにとらえられないでもなかったのだが、あれは実際には林から漏れてきたものではなく、手近のマンホールの下で水が発している音だったと思う。
  • あとそうだ、夕食中に、録画しておいたものらしく『blank13』という映画が流れているのに多少目を向けた。リリー・フランキーが子どもを放ったらかして麻雀に耽るような父親を演じており、最初、これがもしかして『万引き家族』かと思ったのだが、母親に訊くとそうではなかった。その場でタブレットで検索してみると、斎藤工が監督をやった作品らしく、Wikipediaの記述を読んだところでは、借金をつくって一三年前に失踪した父親が、胃癌で余命三か月の状態で見つかり、父親のせいで大変苦労をした息子たちは彼を当然憎んでいたが、死後に形ばかりの葬式をやると、そこに来た知人たちが、息子には想像もできなかった人情味あふれる父親の生き方を語る、というような趣向らしい。原作者の実話をもとにしたと言う。枠組みとしては珍しくはないだろう。ただ、雰囲気はけっこう良かったように思う。映画というものを見つけないので評価の軸がわからないのだが、全体に大仰さやわざとらしさがなく、終始抑制された陰鬱なトーンに貫かれていて、台詞回しや場面における挙動なども、通常の芝居らしさというか演技としての約束事とはちょっと違うリズムになっているような気がした。ドラマでなくて映画だとけっこうどれもああいう感じなのかもしれないが。わけても、顔の白さが良かった。顔の絵が良かったのは二度あり、一度目は子供時代の長男の顔で、母親が自転車に乗って猛然と走っているところを車と追突してしまい、一回転して地面に落下するような形になって、顔に大痣をつくりからだもなかばがたついて苦しそうにしながらも、生活のために鏡の前で口紅を塗り夜の仕事に出ていくのだが、それを押入れみたいな一段高くなった開口部のなかからなすすべもなく見送る長男の顔の、のっぺりとして固化された白さはかなり良かった。もうひとつは現在の時間軸、成長した次男を演じる高橋一生の顔で、彼は一度病院に入っている父親に面会しに行く。そこで屋上に出てやりとりしているあいだに父親の携帯にかかってきた電話からして、彼が変わらず借金をつくっていることが知れて、次男はそれに愛想を尽かしたというかほとんど怒りすらおぼえた様子で去っていくのだが、彼の恋人の女性(この役の人が松岡なんとかという人だったと思う)がその後、喫茶店のテーブルで、お見舞いに行ったほうが良いよと強くすすめる。高橋一生はほとんど呆けたようなというか、理解ができないような表情に顔を強張らせながら、いいよと断るのだけれど、恋人は間を置きながらしずかに、しかし有無を言わせぬ調子でもって催促を繰りかえす。このときの恋人のうざったさもなかなかのものだった。そこからたしかすぐにシーンが変わって、直接、件の高橋一生の顔のアップになったと思うのだけれど、この顔がやはり白く、とはいえ先の白さとはやや異なって、あまり白々と冷たいというほどでないものの、粘土質で実に不健康そうな白さといった感じで、口がちょっといびつに曲がったまま強張りきっていて、この顔もなかなか良かった。すこしのあいだその顔が静止的に映ったあと、高橋は、じゃあ、行くわ、とか口にして、そこでカットが病室に来ている高橋と恋人を後ろから撮ったものになり(父親が寝ているベッドはカーテンで遮られて映っておらず、二人はそのカーテンの脇、ベッドの足もとのあたりに立っている)、恋人もお大事にとかなんとか別れの挨拶をするので、喫茶店から即座に時間が飛んで見舞いの場面にうつっているのがわかる、という趣向だったはずだ。

2021/1/5, Tue.

 私たちの呼吸する大気には、いわゆる不活性ガスが含まれている。それらは「新しいもの」「隠されたもの」「怠惰なもの」「よそもの」といった、学術的な起源の、奇妙なギリシア語の名を持っている。それらはまさに、不活発すぎて、自分の状態に満足しきっているから、いかなる化学反応にも介入してこないし、他のいかなる元素とも結合しない。だから、まさにこのために、何世紀もの間、見すごされてきたのだ。やっと一九六二年になって、ある熱心な化学者が、長い間、様々な工夫をこらして、「よそもの」(クセノン)を、非常に活発で貪欲なフッ素と結合させることに成功した。この企てはとても素晴らしく思えたので、この化学者にはノーベル賞が授けられた。これらのガスは高貴なガスとも呼ばれる。だが本当にすべての高貴な人々が不活発で、不活発なものが全員高貴なのか、話し合う余地があるだろう。あるいはこれらは希ガスとも呼ばれる。だがその一つのアルゴン、「怠惰なもの」は、大気中に一%というかなりの割合で存在しているのである。この量は、それがなければこの地上に生命の影もない二酸化炭素に比べると、二〇倍から三〇倍なのである。
 (プリーモ・レーヴィ/竹山博英訳『周期律――元素追想』(工作舎、一九九二年)、8~9; 「1 アルゴン」)



  • 六時にアラームをしかけていたが、寝坊。六時四五分頃になってしまった。瞑想をする余裕もなし。さっさと上がり、食事を取って歯磨きや身支度など。Notionで昨日の日課記録を確定させ、今日の記事をつくっておくような猶予もない。久しぶりにゴルフボールを踏んで足の裏をほぐした。これもおりにふれてやったほうが良い。
  • 八時過ぎに出勤路へ。曇り気味。そこそこ大股で行っていたが、坂道を上っていると苦しくなってきてマスクを一時ずらした。やはり吸収できる酸素量が減るのだろうか。肉体労働のひととか、たとえば建設現場で働いているようなひとなど、どのように対策しているのかわからないが、ずっとマスクをつけていなければならないとすると、めちゃくちゃきついというか普通に働けないだろうなと思う。場合によっては死ぬだろう。中国で、マスクをつけたままランニングしていた学生が死んだ事件もあった。フェイスガードで対応しているのだろうか。
  • 電車に乗って職場へ。普通に眠いしだるいし、駅を抜けるあいだ、すたすた歩く気にならず、ほとんど誰よりものろのろ行く。生徒が挨拶をかけずにこちらの横を追い抜かしていく。駅を出るとそこにある菓子類の自販機でチョコレートとグミを買った。昨日鍵閉めを受け持ってくれた(……)くんに対するお礼である。
  • 勤務。今日は朝のみ。まだどうにかなる。助かった。(……)世界各地の紛争の記述と地図上の場所を一致させる問題があって、ユーゴスラビア内戦とパレスチナ問題について触れたのだが、ショアー(説明の際には「ホロコースト」という語を使った)とイスラエルパレスチナの話を簡潔にするときに、やはりちょっと動揺するというか、感情が揺らぐようなところがあって、くわえて朝時でからだに血も巡りきっておらず、立ちながらそういう内容を喋っていると血圧にも影響するようでからだ自体もすこし揺れるような感じがあり、言葉を出しづらくなった。本当はスレブレニツァの虐殺なども触れたかったのだが、うまく話せるほどにこちらに知識がインストールされていない。
  • (……)
  • 退勤は一時頃。疲労が濃かったので、歩くほうが良いのだがと思いつつ今日は電車に乗った。便所に行ったついでに自販機で小型のポテトチップスやグミを買う。最寄り駅につくと、今日も正面ルートでなくて街道を折れる。この頃には空は晴れて陽射しがあり、歩いていると身をいたわるような暖気が背後から触れてきて、気分が和らぐような快感がからだに生じる。のどかな感覚があった。気温が昨日よりも高いようにも思われたが、しかしのどかさはやはり、こちらの心境の問題なのではないか。つまり、今日はこのあとは労働がなく、翌日の勤務までけっこう時間があるから急がなくとも良いぞという心が、自分で意識していなくとも前提されていて、それが心身をゆるめているのではないか。そう考えるとやはり、みずからでどれだけ落ち着いているように思われようとも、労働を近くひかえた日や時間には、どうしても心身そのものが急いているところはあるだろう。そういう状況でももっとしずけさを保てるようにしたい。
  • 帰宅。母親が冷凍のクリームパスタを用意してくれると言うので、休まずすぐに食うことに。着替えてきて食事。新聞を読む。朝も一応読んだ。しかし内容はあまりおぼえていない。これは昨日の夕刊の記事だったような気がするが、Washington Postがすっぱ抜いたところでは、ドナルド・トランプジョージア州共和党責任者みたいな人に、票数を改竄するよう圧力をかけたとも取れるような発言を向けていたとのこと。あなたが票を再集計したと公に言ってもなんら問題はない、私がもとめるのは一万何票の確定のみだ、みたいな、記憶が曖昧でけっこう抜けていると思うが、そんなようなことを言ったと。共和党の責任者的なひとは、あなたのデータには根拠がないみたいなことを言って断ったらしい。ジョージア州ではちょうど明日だったか、上院選が行われて最後の二議席が確定する。いまは共和党五〇、民主党四八だったはずで、民主党は二議席取れれば過半数を握れるが、一議席でも落とせば共和党がまさっていわゆるねじれ議会になるという話だったと思う。それにしてもドナルド・トランプも、姑息な言い方をするというか、圧力をかけたと非難されても、そんな意図はなかったと言い逃れできるような言葉回しになっている。ドナルド・トランプ自身が選挙の不正を、票が「盗まれた」ことを信じているのかどうかよくわからないのだが、彼はもう良い。それよりも問題なのは、共和党の議員たちのほうだと思う。よくおぼえていないのだが、今回すっぱ抜かれた発言にかんしてだったか、テッド・クルーズなど一一人くらいが同調しているという話だったし、たしか五日か六日に最終的な票数確定が議会でおこなわれるのだけれど、ドナルド・トランプはその形式的な場で再集計をするようもとめているとかいうことで、共和党議員は一四〇人くらいがそれに賛同するだろうという見通しが記されていたと思う。ドナルド・トランプの、明確かつ具体的な根拠のない言葉にすすんで乗っかり付和雷同しに行っているこれらの迎合者こそが、何よりも問題なのではないのか。ドナルド・トランプ自身は選挙の不正を信じていてもおかしくはないと思う。しかし、これらの共和党議員一四〇人が全員、不正選挙を信じているとは思えない。彼らのなかにはあきらかに、みずからの保身と生き残りのために、戦略的にドナルド・トランプに迎合している人間が何人もいると思う。この人々が、ドナルド・トランプドナルド・トランプとして成立させている。事態が道理に合わないことを理解していながら、道理を曲げて既得的地位を取ろうとするこういう振舞いこそが、言論の空間を悪辣化させていくのではないのか? もちろん彼らには彼らで支持者がおり、仕事もあるとは思うし、現実を知らない理想論だと言われればそれに反論はしづらいのだけれど、しかしどうしてもなあ、と思うし、これでまたひとつ、米国の政治空間と歴史が毀損されてしまうのではないのだろうか。こういう事態を先例として残してしまって良いのだろうか。まだ読んでいないのだけれど、エティエンヌ・ド・ラ・エボシが『自発的隷従論』で述べているのは、おそらくこういう状況のことではないのだろうか。
  • それで思い出したが、今日の夕刊には、歴代の国防長官が共和党政権の人も民主党政権の人も揃って一〇人くらい、連名で、選挙結果を確定させ、認めるべきであり、スムーズな政権以降に協力すべきだという提言をWashington Postに掲載したという記事があった。
  • ついでに先に夕刊のことを書いてしまうと、「日本史アップデート」は神道の話題。いま我々が知りイメージを持っているような神道は自然発生的にできたものではなく、仏教や儒教など外来の思想の影響を受け取り、それに対峙しながら歴史的に成立していったものだという話。古代において、天皇神道のなかでどのように位置づけられていたのかは気になる。神の直系の子孫として神に等しいものとしてとらえられていたのか、それとも祭祀の代表者という感じでもうすこし神とは区分されていたのか。天皇崇拝的な傾向が神道において明確になるのは、どうも江戸以降の国家神道成立後から、みたいな話の印象だった。というかこの夕刊を自室に持ってきていたのを思い出したので見てみるに、鎌倉以降、本地垂迹説にもとづいて神道は仏教と混淆し、両部神道伊勢神道山王神道とかいうものものができるらしいのだが、そのあたりから「外界にあったカミを心の中にも見いだすようになった」(伊藤聡・茨城大教授)という。また、古代ではカミとは主になだめなければならない祟り神の類で、「カミへの祈りは集団的なものであり、個人祈願は基本的になかった」ともいう。だからやはり、天皇個人を神と同一視するような発想はその時点ではまだなくて、祭祀を司る第一の媒介者的な位置づけだったのではないかと思うのだけれど、どうなのだろう。
  • あと、田中泯の「村のドン・キホーテ」という舞台の評があった。書き手は「舞踊評論家」という肩書の、村山久美子という人。松岡正剛が「言語演出」をした舞台らしい。「田中泯ドン・キホーテは、終盤に至るまでは、小説同様、外見は夢想の世界に身を置き正気とは思われないが、その中身は、全身が緻密な"思考"を続けている。馬に覆いかぶさるように身体をあずけ、その後、馬から床にゆっくりと落ちてゆく登場の動作からすでに、物体の様々な面と、それに触れる身体の各部の"吸いつき"が見事。筋肉を精密に動かして、触れる面と常に一体化させているのである。ストイックに鍛え上げ意のままになる強靭な筋肉ゆえに、キホーテ老人の緩慢な弱々しい動きや、3メートルほどの棒を片手で横に保ったまま、我を忘れたように考えにふける姿などが生み出せるのである。/このように夢想家の外見を保っていた田中のキホーテは、終盤、翼のついた獄の前で、内面と外見を一致させる。上衣を脱ぎほっそりと引き締まった裸体で意識を集中させて立つその姿は、磔になったキリストのようでもあり、さらには、自由への希求や苦悩する世界への思いが詰まった、魂の祈りそのものになったかのようだった。それは、田中泯の「踊り」とは、細部に至るまで筋肉が魂をもつことのように思わされた瞬間だった」とのこと。
  • 食後は帰室して日記。しかしめちゃくちゃ眠かった。だが、ものを食べたばかりではベッドに寝転がれない。
  • 現在四時前。一月二日の日記を終わらせたが、マジでクソ眠い。あまりにも眠くてビビるくらい眠い。
  • 上の一言は先に漏らしておいたもので、ここまで記せばいまはもう一月六日の零時四〇分。五時頃から七時前まで仮眠を取らざるをえなかった。その後音読し、そのときや風呂のなかで、みずからをもっとしずかにすること、消え去ること、瞑想とは起きたまま眠ることなのではないかということなどについて思い巡らせたが、そのあたりはまた明日以降記す。
  • この日のことであとおぼえているのは、その入浴中のことくらいだろうか。音読の途中から、なんとなく、とにかくもっとしずかな存在になりたいなと思っていた。あまり音を出したくないし、存在としての気配を周囲に発したくない。誰にも必要とされたくないし、誰かに何かをもとめたくもない。本当は誰かに何かをもとめられたくもないが、それは無理で、他者や世界というのは自分に対して何かをもとめてくるものなので、そちらは仕方がない。誰かが何かをもとめてくること自体は受け入れるほかないが、自分からはなるべくなら何かをもとめたくはない。意味と力をあまり放出し、伝達したくない。
  • そう思って、実際その後、食事のあいだなどなるべく音を立てないように動き食べるようにして、けっこうしずかに振舞うことができた。風呂のなかでは瞑想風に瞑目して浸かりながらとまっていたのだけれど、そのときひとつ思ったのが、死にたいとは特に思わないが、消えたいという気持ちはあるかもしれないということだ。というか、自分がいずれ死ぬと考える、死体となると考えるとあまり良い気持ちはしないが、自分がいずれ消えると考えると、それはかなり安心感があるというか、心がなごむような感じがして、ほとんど嬉しいと言っても良いかもしれない。いずれ死ぬことよりもいずれ消えることのほうがはるかに好ましい。だからといっていますぐ消えたいとは思わないが(あるいはそう思っているのかもしれないが)、消滅もしくは消去というのはとても良いイメージで、最終的には喜んで消えたいと思う。消滅の「滅」にはどうしてもやはり多少情緒的なニュアンスがつきまとうので、どちらかと言えばやはり、消去もしくは消却が良い。
  • 瞑想というのはその最終的な消却を仮想的に先取りする練習と言っても良いのかもしれないが、瞑想とか、神秘的体験とか、そちらの方面ではよく世界との一体化ということが言われる。主には主客合一という言葉でこちらもいままでおりおり取り上げてきている事態だけれど、主体としての自己が世界のなかに同化的に調和して溶けこんでいく、という考え方よりも、自分がただ消えていって世界だけが残るというイメージのほうが良いなとこのとき思った。世界に吸収されて一体化したいとは思わない。ただ、自分という存在が希薄化し、削減され、世界の表面から剝がされ、すこしずつ小さくなって最終的には跡形もなくなる、というのが良い。忘我と没我というのは、辞書的にはあまり意味の違いはないのだろうが、こちらの話に合わせるなら、前者よりは後者のほうが相応することになるだろうか。自分で自分を忘れて対象のなかに同化的に投げ身し吸収されるというよりは、自己を没する、世界から剝がし、落とす、というようなイメージ。没落、あるいは日没の、落ちていくイメージ。
  • 瞑想という時間はわりと自己が削減されていく時間でもあるのだが、しかし根幹的には自分がなくなるなどということは、死ぬか眠るかしなければ現実ありえないわけである。もっと鍛錬を積めばもしかしたら本当に自分というものが解体していくのかもしれないが、こちらはそんな領域にはいない。南直哉が、たしか『日常生活としての禅』のなかで、瞑想が深まると五感がなくなり、自分が光の粒子だったか波だったか、なんという比喩で言い表していたか忘れたのだけれどそんな風になっていき、合わせている両の親指のその接触面の感覚だけが残る、みたいなことを言っていた記憶があるのだけれど、そんな経験はしたことがない。ただ、感覚自体は消えないとしても、自己が剝奪されて感覚自体になっていくな、というのはわからないでもない。目を閉じてからだの動きをなるべく停めていると、世界が感覚的刺激と思念だけになり、それが閉ざされてもののない暗闇となった視界のなかの意識平面上に生滅し、その配置が視覚のかわりに見えるような感じになるから、自分がただの観測点となったような感じはわりとする。そこでは自分の肉体上に生じる感覚も、自分から独立している世界の動向とおなじ領域内に置かれたものになる。どこまで行っても自己を殺すことはできないし、できるとしてもおそらく束の間のことに過ぎないだろうが、自分自身を剝奪していって、ひとつの観測点にまで削減していくことはそこそこ可能だと思う。作家や文学者、芸術家や詩人といった人々は多かれ少なかれそういう志向や性質を持っているものだと思うし、ジョン・キーツが書簡で述べているというネガティヴ・ケイパビリティという考え方はだいたいそういうことだろう。彼が言っているのは(谷川俊太郎がたしか講演をまとめたみたいな短い本か、それか尾崎真理子のインタビューに答えた本で言っていて知ったのだが)、詩人は積極的な性質や属性を何も持たず、何ものでもないがゆえに何ものにもなれる、というようなことらしい。ただ、一個の観測点と化したとしても、そこでこちらの脳内言語、思念、自動筆記装置は普通に残っているので、それは果たして自己を削減しきったと言えるのか? という疑問はあるが。
  • 自己の縮減や消失というテーマで考えると、その理想というか、その路線で考えたときの到達点はもちろん意識の無化であって、それが実現されるのは基本的に人間においては死か眠りにおいてしかないわけである。だから、実際には完全な無化は達成できないわけだけれど、瞑想という営みを、起きたままで眠る訓練と言っても良いのだろうなと思った。もちろんそれを、生きながらにして死ぬ訓練という風におなじくらいありがちでわかりやすい言い方に変えても良いわけだが、眠りの比喩の方向で考えを続けるに、しかし眠っているあいだも我々の意識が対象を得ていることはおりにあり、それは言うまでもなく夢のことだ。この構図を瞑想実践に当てはめると、瞑想は起きながらにしての眠りであり、そこで見られている夢とはこの世界だということになる。だからなんだということはそれ以上なく、この発想がなんらかの意味や射程を持つのかわからないのだが、昨年の八月だかに自分で書いた小文を思い出した。最後のほうで見られた夢がどうのとか言っているからだ。

 ここはどこだ? どこかではあるはずだ……あるものは、どこかにあらねばならない。強制されているのだ……嵌めこまれ、置かれているのだ。牢獄に……割り当てられた間隙に……どこであっても、そうなのだ。ここでは何も聞こえない。声はない……音も。振動も。光はない……だからといって闇があるとも思えない。光がなければ見ることはできないが、闇がないならば見ないこともできないだろう……ここにあるのは、ことばだ。ことばしかない……さしあたりは何もない。ことばしかないところから、すべてがはじまる。ことばしかないところ……そこからしか、すべてははじまらないのだろう。はじまりの原子……だがそれは、声でもなく、文字でもなく、ものでもない……それが何なのか、知っているものはいないだろう。たとえば、緑の球体。透き通っており、濃密に満ちている。さざめき立ちさわぐ無数の葉っぱ、そのひとつひとつ違う緑の本質が一緒くたに注ぎこまれ、混ざりながらぶつかり合い、絶えずゆらいでは固まり、消えかかり、変化しつづける……複雑美妙な神奇のエメラルド。だが、まるですでにあったかのようではないか? たとえばエメラルドが……ここよりも先に、はるか以前から、存在していたかのようではないか? 開闢とともに。そうではないのだ。ここで生まれたのだ……常にここで、その都度、生まれる。いつだってそうだし、どこだってそうだ……そして、裁ち落とされる。吹き捨てられてはすぐに割れる、風にさらわれた泡玉のように。だから、点滅なのだろう。すべてが、何もかもが。そこで、ここで、はじめなければならない。だが、どうはじめようか? 問題は蛇だ……あの神々しい、悪辣なもの。空白の目と二股の舌を持った白痴の賢者……すべてを巻きこみ、引き寄せ、摩耗させる螺旋。あれをかいくぐらねばならない。あれはなんでも丸呑みにしてしまう……ことばさえも。空隙さえも。だから、ここを、存在させてはならないし、存在させないわけにもいかない。託さなければならないだろう……夢に。目を閉じ、まどろみ、夢見るものに危険はない。動けないのだから……だが、見られた夢そのものは危険きわまりないだろう。そして、夢を見ながらでも動けるものがあるならば……動きながら見る夢、そしてその夢もまた動き、うごめき、泡立ち、ふるえ、ふるわせる。それがことばだ。

  • もうすこし何か考えたような気もするのだが、いま思い出せるのはそのくらい。肝要なのは、とにかくできるだけしずかになりたい、というそのことだけだ。あとは余談。

2021/1/4, Mon.

 一旦知的好奇心に取り憑かれた者は、決して結果を恐れてはいけない。あらかじめ何らかの見返りが期待できるような仕事に手を染めるのは、すでに学者研究者ではなく、単に資本主義に侵されきって、一切のオルタナティヴを思いつかない小市民の発想である。そもそも学問研究は、同時代において直接役に立たなければ立たないほど、その将来的価値が高いという着想から出発するべきだろう。仮に知的探究の成果がまったくのドン・キホーテ的誤謬で終わり、探求者本人もその段階で人生を終えなくてはならなかったとしても、問題は些細な結果ではなく、あなたがいかに気宇壮大な知的ストーカーたりえたか、いかに前人未到の領域へ踏み込もうとしたかという、知的探求へ挑む「思い」そのもののスケールにある。微々たる収穫よりも絶大なる徒労の方が、知的ストーカーの名誉にふさわしい。
 (巽孝之『メタファーはなぜ殺される ――現在批評講義――』(松柏社、二〇〇〇年)、279; 第三部「現在批評のリーディングリスト」)



  • この日は朝から昼過ぎまで働き、四時過ぎからまた労働で夜までだったので、日記を書く余裕もなかった。わずかに朝、出勤前に前日分を足して完成させたのと、この日のことをほんのすこしメモしておいただけ。
  • 朝の出勤時、坂道に枯れて淡色になった葉や木肌のような色に茶色く変わった杉の葉たちが群れているなかに、まだまだ緑を保った杉の葉がなぜかいくつも散らばっていた。それだけ風が強かったのか?
  • 労働。(……)
  • 一二時四〇分くらいに退勤したはず。天気も良かったし、なるべく歩こうと思って徒歩で帰った。道中で印象に残っているのは、まずひとつ、文化施設を過ぎたあたりにある一軒のこじんまりとした塀内に柿の木が立っているのだが、その枝にメジロが何匹も集まっていたこと。歩いていると頭上から気配が伝わってきて、見ればまずヒヨドリらしき鳴き声を落とした鳥が一匹飛び立って林のほうに去っていったのだが、そのあとの枝には本当に抹茶の粉末をまぶしたみたいな緑色の小さなメジロたちがたくさん遊んでいて、相当に熟れたような、血色が良すぎる赤子の頬みたいな赤に満たされた柿の実をついばんでいるものもあった。柿ってこんな時期にも、年を超えて実を保っているものなの? と思って、本当に柿なのか疑わしくなるようでもあったのだが、こちらの知識のなかでは柿にしか見えなかった。林のほうからは鳥の音がいくつも立ち、ピヨピヨ言っているのでヒヨドリだろうと単純に判断してしまうのだけれど、それも本当にヒヨドリなのかわからない。なんとなく、縄張り争いみたいなことをしているのか? と思った。柿の木の件も、メジロの群れがヒヨドリを追い出したのだろうかと思った。
  • 白猫を久しぶりに見かけたが、家の前には出ておらず、駐車スペースの奥、戸口近くにたたずんでいたので、さすがにそこまで侵入していって戯れるわけにはいかない。
  • (……)さんの宅のあたりの大気に湧いている羽虫の量がすくなかったので、今日も気温は低めのようだ。ここはガードレールの向こうがけっこう深く下って林になっているからか、あたたかいと虫の量が多い。昨日書くのを忘れていたのだが、散歩でここを通ったときにマスクを通して清潔そうなにおいが鼻に触れ、気づいてもとを探すとともに、そうだここにはロウバイがあるのだったと思い当たれば、首を振った先に生えている木はもう黄色をいくつもともしていた。
  • 家の至近に続く坂道を下ると、木の間の彼方に、まさしく銀紙をかぶせたというか、銀の板をそのまま流したみたいになって川の水面が発光しながら揺らいでおり、斜面をはさんで一段下の道に立っている常緑樹も、西面にあたるその片側だけ上から下まで陽光を浴びてまばゆく、光を葉や体にとどめて白くまとっているのが、ぶっかけた水が即時に凍りついたかのようである。
  • 帰宅すると何はともあれ休息。ベッドでひとのブログを読んだ。(……)さんのものと(……)さんのものと(……)。(……)さんのものは一月一日二日と、六月一〇日。元日に、「(……)ちゃんがいうには、(……)はかなりのこわがりらしく、夜トイレにひとりで行くこともできずたびたび(……)を連れていくのだという。こちらにもおぼえがある。年長かそこらのとき、(……)保育園で(……)先生から「もうじゃ」(いま思えばたぶん「亡者」だったのだと思う)の話を聞かされてからというもの、ひとりでトイレに行くことができなくなり、小便をするところを見せてあげるからという謎の誘い文句で、物心のほとんどついていない弟をたびたび同伴させたのだった。」とあったが、このなかの、「小便をするところを見せてあげるからという謎の誘い文句」にマジで爆笑した。
  • あと同日、『エルマーのぼうけん』が小学校四年生の教科書に載っているとあるが、そうだったのかと思った。『エルマーのぼうけん』は記憶する限りこちらが最初に自覚的に好んで読んだ本なのだけれど、学校の教科書に載っていたおぼえはまったくない。家に本があって、小学校三年生か四年生のときに繰りかえし読んでいた。
  • おなじ記述のならびに(……)さんが小学校五年でなぜか読書に嵌まって、『罪と罰』やら『戦争と平和』やら『ジャン・クリストフ』やら『若草物語』を集中的に読んだ時期があったと記されているが、それにもおどろいた。初耳だった。そのなかで『罪と罰』だけは後年までずっと強い印象が残っていて登場人物の名前も正確におぼえていたくらいだから、ドストエフスキーってやっぱりすげえわと称賛されているのだけれど、小五で『罪と罰』などを読んだ児童が、なぜその後、もっぱら週刊少年ジャンプを座右とする暗黒武闘会的ヤンキーになってしまったのか。
  • 六月一〇日には『(……)』のシーン一二が載っている。それを読みながら思ったのだけれど、自分はずっと持ち家で育ってきたわけで、アパートとかマンションのような集合住宅の仮住まいで長く暮らした経験はなく、友達の家に遊びに行っていくらかはそういう空間にも触れてはきたけれどそこを常住の場としたことはないから(家を新築するときに、いま(……)ちゃんが住んでいる下の借家に数か月住んでいたことはあった)、一応なんだかんだ言ってもやはりそこそこ金のあるほうの家庭であり、そういう生い立ちはやはりなにかしらこちらの心身に影響しているだろうなという気がした。端的に言って、こちらは、古い家のときは違ったはずだが、小二で新しい家ができたときから自室をあたえられているので、孤独を知ることができたわけだ。
  • (……)さんのブログは八月九日から二二日まで。八月二一日にはレコードにおけるA面とB面のあいだの断絶、B面の一曲目という位置づけに置かれた曲の強力な印象について語られている。なるほどなあと思った。こちらは一九九〇年生まれで、自覚的に音楽を聞きはじめたのは二〇〇三年くらいなので、当然はじめから媒体はCDで、レコードをきちんと鑑賞した経験はいまに至るまでない。両親はThe Beatlesなどいくらか持っていて寝室にプレイヤーとともに置かれていたが、それが流れているのを聞いたことはない。(……)の家に遊びに行ったとき、やつの父親が持っていた古いノイズ混じりのジャズのレコードをちょっと聞いたくらいだ。Bobby Timmonsだったような気がする。だからB面の一曲目という特別な位置づけにたいする感覚は、たしかにこちらにはまったくなかった。
  • その翌日、「罪」にある、「昨日のみすぎたのか、あまりその自覚はないのだけど、たぶんのみすぎていて、最近のみすぎるときの、身体にもたらされる感覚というのが、若い頃とは如実に違っていて、若い頃であれば二日酔いとか気持ち悪いとか、そういうはっきりした苦痛に責め苛まれて、要するにわかりやすく罰を受けてる感じになるので、苦しみながら後悔すれば良いだけなのだが、この年齢になってのみ過ぎた場合には、身体的にはとくに、ことさら変調らしいものはないのだが、何か妙に気掛かりな、たまたま忘れているだけの重大事実を背中に背負ってるかのような、あとで卑劣かつ陰惨なやり方で、恫喝され連行されて最終的に詰め腹を切らされるのかもしれない、そんな落ち着きのない、心身の前と後のどちらに問題があるのか判然としないような、どっちつかずのもやもやした気分の悪い予感につつまれて、何とも落ち着かない時間を過ごすことになる。」という記述も、そういう感じなのかと思って面白かった。
  • (……)は最新の一二月二七日ともどって一二月八日。休んだあと、三時前に、「どん兵衛」の鴨蕎麦で食事。身支度をととのえてふたたび出勤。「どん兵衛」を取りに行った際、風呂洗いと米磨ぎをついでにやっておいた。
  • 出勤路は省略。勤務(……)。
  • 帰路も特になし。帰宅後、メルヴィルを読みつつ休息。一一時半頃から夕食。母親の職場の話を聞く。なんか冊子だかなんだかわからないが、おそらく職員の紹介をするための文書みたいなものを作ったようで、母親も簡易な自己紹介文をそこに寄せたのだが、それが勝手に変えられていたと言う。相談やことわりはなく、内容が少々変えられて、自分が書いていない言っていないことが加えられていたらしい。おかしいよね、と母親は言うので、おかしいと受けた。この職場、「(……)」の長は以前から母親の話を聞く限り、偉そうだったり怒りっぽかったり粗雑だったりであまりよろしくないような人間らしく、職員からの評判もおしなべて悪いという。ひとが言っていないことを勝手に言ったことにするという振舞いには、こちらも第三者でありながら、反感をおぼえざるをえない。なぜ言語とひとをそのようにないがしろにできるのか。そういう人間が長なので、たぶんこの職場はもうそう長くない。もって三年だろうと適当に見込んでいる。

2021/1/3, Sun.

 黒人奴隷は「自由」を欲した。自由を得るには白人並みにならねばならず、そのためには白人文化の産物である言語の「読み書き能力[リテラシー]」が必要だった。ところが、読み書き能力はさらに黒人を白人的諸学諸芸術という制度の奴隷にしてしまう。要するに、黒人種族が自由になろうとしたら、白人言語の奴隷になることが不可欠であるという逆説。したがって白人側が奴隷制を保ちたいなら、くれぐれも黒人の言語技能を助長しないことこそ得策であり、実際一七四〇年のサウスキャロライナ法令では黒人に読み書きを教えるのを禁止するのが決まったほどだ。
 理由は簡単。当時は万物が階層秩序を、アーサー・ラヴジョイのいう「存在の大いなる連鎖」を形成しているというのが西欧的イデオロギーの根本だったからであり、その中でアフリカ黒人はオランウータンよりは上位だが、ただ「文字」を持たないがゆえに人間よりは下位の部類とみなされていた。理性は文字がなければ反復できない。「理性がなければ記憶もなく、記憶がなければ歴史もなく、歴史がなければそもそも人間性など持っているわけがない」(二一頁)――これが、ヴィーコからヘーゲルにまで継承された「真理」であった。
 (巽孝之『メタファーはなぜ殺される ――現在批評講義――』(松柏社、二〇〇〇年)、218~219; 第二部「現在批評のカリキュラム」; 第十二章「アフリカの果ての果て ヘンリー・ルイス・ゲイツ・ジュニア『黒の修辞学』を読む」)



  • なかなか起きられず、一一時半まで寝坊。こめかみや腹を揉みながらしばらく陽を浴びて離床。八時間半ほどの滞在。これだとやや長い。水場に行ってきてから瞑想。良い感じの落ち着きではあった。下半身も、寝る前によく柔軟したからコンディションは良い。明日は朝も晩も労働で、あいだの空き時間が短いから帰らずぶっ続けでやるつもりだったのだが、仔細に計算してみると帰っても多少は休めそうだったので帰宅することにした。一回帰って脹脛をほぐしでもしなければ、とてもやっていられない。瞑想は一一時五〇分から一二時一〇分まで。
  • 上階で食事。冷凍してあった天麩羅と、おでんのスープで煮込んだうどん。新年三日目にもかかわらず、はやくも新聞が来ていた。一面の、東京都とその周りの県の知事が緊急事態宣言を政府に要請、との記事を読む。正直さっさと出してもらって、労働が休みになんねえかなという気持ちはある。といって二回目だから会社のほうもなんだかんだ口実を見つけて休みにはしないかもしれないし、宣言が出るとしてもたぶん明日までには出ないのではないか。また、出たとしても会社が対応を確定させるまで多少かかるだろうから、いずれにしても明日からの三日間はおそらく休みにはならないだろう。
  • 国際面には、香港で周庭が重大犯罪者を入れる刑務所に移されたとの記事。最後のページ、社会面には「千人計画」の話題がふたたび。東大や京大の名誉教授がけっこう参加しているようなのだが、教授らはだいたいみんな、以前の教え子や共同研究者だった中国人から誘われたと。彼らが手続きをしたり、教授の業績を審査会みたいなところに説明したりしてくれたらしい。発言が紹介されていた人の研究分野としては、甲殻類の研究とかダニの研究とかとあって、すくなくともそれらは即座に軍事や安全保障につながりそうな感じはしない。まあ何がどうつながるかわからないが。
  • 皿洗いをして風呂洗いも。出てくると父親が洗い物を終え、母親の食器がカウンター上に差し出されていたので、ついでにそれも洗ってやる。そうして帰室。コンピューターを用意したあと、Twitterのアカウントを削除した。用済み。それから今日のことをここまで記して一時二〇分。今日もまた散歩に行く。
  • 小沢健二 "天使たちのシーン"を流しながら散歩の前の準備運動。前後の開脚で脚の筋を伸ばし、左右の開脚で太腿を温めるとともに肩もいくらか刺激する。ものを食べたばかりで前屈とか合蹠のような腹を圧迫する姿勢は取りづらいと思ってそれらをやったのだが、この二種類の開脚もなるべく毎日やったほうが良いなと思った。あと、手を組み合わせながら腕を前後に差し向けて伸ばすストレッチも。それから着替えて上階へ。
  • 洗面所でうがいをする。すると、勝手口の外でストーブのタンクに石油を補充していたらしい母親が、台所に満杯になったそれを置いた様子を聞きつけたので、中断して重いタンクをストーブにもどしておいた。それからまたしばらくうがいをして、マスクをつけて出発。下の(……)ちゃんの家でバーベキューめいたことをやっており、一緒に外に出てきた母親が、いいにおいがすると漏らしていたが、たしかに香ばしいようなかおりがマスクを通しても伝わってきた。子どもがにぎやかに叫んでいるのも聞こえる。陽射しは道にまだ敷かれていてその勢力はひろく、空間は大層あかるいのだが、日向のなかにいても思ったよりも暖かくなくて、通り抜ける空気の冷たさが際立つ。昨日よりも気温が低いのかもしれない。坂に入る間際の脇、ガードレールの向こうに一段下がった空間のその縁に、カラスウリの枯れた茎が大挙して殺伐とした骨の茂みを成しているのだけれど、そのなかに実がまだ残っており、残っているどころかいくつかはほとんど盛りのような色と照りで赤かった。坂道を上っていくあいだ、川の響きが下方から立ち昇ってくるのだけれど、聞けば水の音というよりも峻谷を苛烈に吹き流れていく風の音のようにしか聞こえない。実際、川の周囲の木立を壁として反響しているためにそう響くのだろう。
  • どうもやはりあまり空気に温かさがなく、湧いている羽虫の数もすくない気がした。日向にあれば温みがないではないが、同時に冷感もまた強く、昨日よりも時空と気候ののどかさが乏しいように思われる。忘れていたが、今日は昨日とは反対方向に、つまり最初に東のほうへと歩き出して、おおむね前日のルートを逆に回るような感じである。それで街道に出ると、南側は日向がすくないので車の隙をついて北に渡った。すぐ目の前は自動車店だったのだけれど、商売をやめたかすくなくともかなり縮小したらしく、知らないうちに建物が壊されて白い平地になったなかに車がいくつか停まっており、その奥は線路で、線路の両側は非常に低いが土手を成しているので、その斜面が、ああいう造地をなんというのか忘れたけれど四角形のなかを窪ませて大雑把な網目状をつくったような形に固められていて、その素材もなんなのかまったくわからないがここも石膏のような白さだった。あれは子どもにとってみれば、良い遊び場所だなと思った。遊び場所というか、上って窪みに身を預けていれば留まれるだろうし、頭のすぐ上は電車が通るのでけっこう面白いのではないかと思ったのだ。
  • 西へ向かうあいだ、太陽が何ものにも遮られず正面からあけすけな光を送りつけてくるのでずっとまぶしい。しかし、光を通しているからではあろうけれど、空の水色は昨日よりも淡くかすれたようになっている気がしたし、雲もほんのかすかなものではあるにしても、昨日よりは湧いて空にこすりつけられている。視線を足もとに落としながら陽のなかを進んでいると、整地された歩道やアスファルトのなかに、白い光の微細片が、ほとんど蚤かダニみたいな大きさしかない粉末的な輝きだが、歩みに応じてきらきらと無数に立ち騒いでいる。いわゆる骨材というのか、舗装の構成成分のなかに何かしら光と感応するものがふくまれているのだろう。昨日も家のそば、公営住宅前を歩きながらおなじ現象を目にして、しかし書き忘れていたのだけれど、完全に実用性一辺倒でつくられたはずの舗道のなかにすら、製作者の意図とは無関係にある種の美的な要素が知らぬ間に忍びこんでおり、潜在体として伏せっていたそれが機会を得れば、たまさかあらわれてしまうわけである。
  • 街道の途中で、駅の北側へと曲がった。ここで昨日のルートから逸れたことになる。きわめて短い踏切りを渡るときに、東西両方向に視線を送ってみたが、西側はすぐに駅に着くからともかくとしても、とりわけ東の、視界の果てまでずっと伸びていく細い線路の区画が、先まですべて日向を塗られていた。北側に渡るとすぐ目の前は林である。その奥には竹が林立していて、基本的に重なり合った葉の房が屋根として覆っているので当然暗いのだけれど、しかし光がいくらか射しこんでもいて、そうすると立ち並んだ竹の幹が、明確な規則には従わない無秩序さで部分的にあかるんで緑を浮かび上がらせており、その緑の部分だけ空間に線画が描かれたみたいになっていてちょっと面白かった。駅の北側、線路脇の道は高い建物が特にないから光をいっぱいに受け取っている地帯で、駐車場に停まっている車のことごとくが、ボディのどこかに純白の塊を生み出しており、こちらが歩いて視線の角度が変わるにつれてその塊も、水面のようにしてふるふるとわずかにふるえながら車体の上をゆっくり、きわめて緩慢に移動していく。それ以外の部分も車はすべて、油を塗りたくられたようにつるつると艶を帯びている。
  • 駅を過ぎる。このあたりの場所は久しぶりに来たのだが、駅を出てすぐのところにある細道を見て、子どもの頃の記憶が喚起された。付近に(……)(あるいは(……)だったか?)という同級生が昔住んでいて、彼の家に遊びに行くのにそこを通っていったのだが、先に進むと木の間のなかみたいな感じになっていて、上り下りもややあって、なんとなく迷路みたいで面白かったのだ。(……)はたしか中学受験をしたのだったか、中学時点ですでに別れたおぼえがある。とはいえその後も何度か出くわす機会はあった。弁護士を目指すとか聞いたような記憶もないではないが、いまなにをやっているのかはまったく知らない。
  • そのあたりは昔石切場か何かがあったようで、けっこうひろめの土地がひろがっており、その脇を以前よりも細くなったように思える道が通っていて、それに沿って家がならんでいるという感じである。このときのこちらの向きだと道の左側がひろい土地、右側が家屋のならびで、左手の縁には多少の草や低木が生えており、赤い色も見えて多少の情趣がないではないが、そのなかのひとつから突然鳥が飛び立ってびっくりした。その小さな木には見てみれば非常にこまかな赤い実がいくつも生っていたのだが、ナンテンよりもさらに小さな粒で、あれはなにかしらのベリー類だろう。道の先では男児と父親らしき人がけっこう距離を離してキャッチボールか何かやっていた。その手前で左に折れて土地のなかを通る細道を行くが、近くにある木立から、ヒヨドリかスズメか、鳥の声が頻りに厚く立ち上がっていて、どうもこのあたりは山も近いし、周辺に鳥がみんな集まるような感じらしく、土地の外縁を成している樹々からもひっきりなしに影が立つし、地上では枯れて白っぽいようなクリーム色に黄味をほんのすこしだけ混ぜたみたいな色味の芝草が水溜まりのごとくなめらかに敷かれているそのなかでカラスが遊んでもいる。
  • 線路上にかかった小さな橋を渡って裏路地に入ると、ここで昨日のルートに復帰してそのまま逆方向に歩くことになる。この地点で明白になったが、やはり昨日と比べると宙に湧いて遊泳している微少な羽虫の数が圧倒的に乏しい。それだからやはり気温は低いのだ。実際、歩いていても恍惚とするような感じは薄く、それよりも固く張った大気の感触が肌に残る。進むと保育園がある。昨日と同様、家族連れが子どもを遊具で遊ばせている。昨日は気づかなかったというか、そうなって以来この前を何度か通り過ぎながらいままで特に意識したことがなかったのだが、保育園の建物の周りは門のついた白いフェンスでせまく画されており、遊園はその外にひろがっていて、非常に小さな公園だとはいえ、その区画と比べるとフェンスの内は、多少の遊具がそこにも設置されてはいるものの、きわめて狭苦しく窮屈である。走り回るような余地すらない。こちらも幼少時はこの保育園に通っていたわけだけれど、当時はむろんこのような区切りはなく、遊びの時間は当然小さな遊園をいっぱいに使って駆け回ったり、ブランコに乗って振り子になったり、長めの滑り台を何度もすべり下りては上ることを繰り返したり、土管付きの砂場に通路を掘って水を流したりしていた。なぜこういう区画ができたのかわからないのだけれど、可能性として推測できるのは、やはり児童を何人もひろい区画で遊ばせていると保育士の目が届かず、面倒を見きれないから、という理由がまずひとつである。もうひとつには、保育園としての土地と、公共の遊園としての土地がいままであまりはっきりと分けられていなかったのを、境を定めた、ということが考えられる。
  • それでそのあと歩きながらなんかなあと思っていたのだけれど、ここにもいまの時代の趨勢というか、その特徴があらわれているような気がする。フェンスが設けられたのが上記の理由のどちらかなのか両方なのかそれ以外なのかはわからないのだが、ひとまず第一の可能性に沿って考えるに、それは、面倒を見きれないところで子どもに大きな怪我でもされてしまうと困るから、もっと小さな土地で遊んでもらってきちんと保護・保育できるようにしよう、という理屈なわけだろう。こういう理屈に、現代社会の動向が如実に反映されているような気がする。つまり、とにかく先回りしてリスクを減らしていかなければ気がすまない、という精神性だ。大きな事故が発生するとまずいから、その可能性をゼロにするか、すくなくともより小さくできるように、空間構造そのものを変えてしまおう、という考え方である。児童にとってみればいくらかの制限にはなるが、より確実な安心と安全を保証・保障する、ということ。これにこちらとしては、なんかなあ、と感じるところがある。リスクを減らすというのは、児童たち本人の身を案じるという側面ももちろんあるのだけれど、それよりも結局のところ、面倒事を避けたいという大人の側の都合のほうが大きいのではないかという気がする。つまり、面倒を見きれなかったところで大きな怪我をされたりすると、当然保護者は文句を言ってくるだろうし、大事になって色々な手間がかかる、だったらそもそもそれがもうほぼ起こらないようにしてしまおう、ということで、こう考えると、今回の例のような空間構造の変形というのは、要するに効率化にほかならないということになるだろう。大きなコストと手間を発生させるリスクの可能性をインフラの側面からほぼ完全に排除してしまおう、ということだ。それほどの大きなトラブルは滅多には起こらないのだけれど、もし万が一起こったらきわめて大変だしめちゃくちゃ面倒なことにもなるから、その発生可能性をゼロにしてしまおう、ということ。
  • 第二の可能性に沿った場合の意味はあまりよくわからないのだが、そちらの場合にしても、おのおのの領分をきちんと区切って、曖昧な部分をなくし、境を截然と分けて混淆しないようにしよう、という発想があるのはまちがいなく、この渾然・混淆を排する、という精神性が、上記の事柄と共通しているように思う。リスク、負、マイナス、悪いこと、有害事、無駄、役に立たないもの、余計なもの、そういったもろもろのノイズのようなものを徹底的に排除して、純化をすすめようという発想。これがこちらが釈然としないポイントの中核である。いくらか飛躍があるように見えるだろうことは承知で思うのだが、それは結局、ナチ・イデオロギーと同種同根ではないかと、どうしても疑問を抱いてしまう。ここでナチ・イデオロギーというのはすなわち、純粋性の、純化の、なかんずく「純血」のイデオロギーのことである。保育園の例にもどると、保育園運営上、世話をして管理を委託されている子どもが怪我をするというのは、まずいことであり、運営の観点からして端的に有害事である。ごく小さな怪我だったらさほどの問題にはならないが、万が一かなり大きな怪我をすると、子どもの心身に与える影響のみならず、その後の対応や揉め事の解決までふくめて、その有害度合いは相当なものになる。その有害性リスクをなるべく減らし、理想的には根絶するには、個々の保育士の心がけや人員の増補などではやはり限界があるから、もう空間構造そのものを変化させて、有害性がそもそも発生しないような環境にしよう、というのが、こちらが想像的・推測的に理解したフェンス設置の理屈だった(本当にそうなのかはもちろん知らないし、わからない)。通常領域に、有害事とか、ノイズとか、なんと言っても良いのだけれど、なんらかのマイナスの要素としての不純物がまじり込んでくるのを徹底的に防ごうという発想である。すなわち、現代社会は無菌をもとめている。で、こちらからすると、このような、有害な物事をそのもっとも微小な部分に至るまで完璧に、徹底的に排除しようという試みこそが、もっとも有害で恐るべきものと思えてならない。
  • そういう発想は一方では資本主義的理屈ときわめて密着的に結びつき、癒着しているわけだ。要するに、効率化と利便性という観念のことである。効率化および利便性とは、その理想形態においては、端的に言ってまさしく、無駄なこと、余計なこと、ましてやそれ以上に有害なことなどはもちろん、徹底的に消滅させて、まったくノイズのない極限的に円滑な生産制度を確立させよう、という発想のことだ。それは当然、不純物の混淆を許さない。余計な存在は排除されなければならない。こうした発想が現代の世界を地球上の隅々まで支配していることは、ほとんど誰もが知っているし、知っていなくてもその身体において感じているだろう。これが経済領域とか、部分的領域にとどまっていればまだ良いのかもしれないが、社会全体を覆い尽くして精神領域の根幹にまで侵入し、そこに支配力をふるって根付いてしまうと、やはりまずいことになるのではないだろうか。そうすると、無駄な人間、余計な人間、不純物とみなされる存在は端的に殺され、排除されなければならない、ということになるからだ。これがナチ・イデオロギーとまったくおなじ精神的理屈であることは言うまでもない。第三帝国においてはユダヤの人々は純然たる不純物だった。
  • ただ現実、世界はこれから先、おそらくどんどんこういう方向に、すなわち混淆を回避し、排除する方向に進んでいくのだろうなとは思う。時あたかもコロナウイルスなどという純然たる不純物が全世界的に猛威をふるっているわけだけれど、去年から今年にかけての世相は、この先の世をいくらか先取りしたということになるのだろうなと思う。コロナウイルスが蔓延しているさなかでは、人と人との混淆、混じり合い、接触などということは、もっとも避けるべき事柄として、ほとんど道徳的に非難されかねないところまで行っているわけである。勤務形態としてもテレワークが普及した。人々はおのおの、みずからが整えこしらえあげた無菌室に閉じこもり、明確に区切られた閉鎖的空間においてノイズと有害事とを避け、純化された箱庭で生きるようになってきており、そしてそれが良いこと、なすべきこととして推奨されてもいる。これからどんどんAIもコンピューター技術も発展してくるだろうし、そういう無菌環境を完全に保ち、外界とのかかわりを切り離して乖離的に独立しながらも問題なく生きていける世界というのが、遠からず実現するだろう。ミシェル・ウェルベックが『ある島の可能性』の最後もしくは最初でそういう未来を書いていた気がするが、記憶がもうずいぶん遠いのでよくおぼえていない。それはそれでこちらからすると何が面白いのかまったくわからない世界だが、しかし、おのおのが自分の無菌領域に閉じこもっているだけならまだ良いのかもしれない。こちらがもっとも恐れるのは、国家や社会といった一定領域全体を無菌室として純化しようとする趨勢の台頭にほかならない。そして、世界の色々なところで、すでにその兆しが見えはじめているような気がしてならない。
  • 人類はいままでの歴史のなかで、似たようなことを繰り返してきたのだろうなとは思うもので、つまり自分もしくは自分たちにとっての有害物を徹底的に排除し消滅させようという熱狂をことごとに噴出させてきたのだろうなとは思うもので、それはたぶん繰りかえし色々な戦争の動機もしくは大義名分となってきたわけだろうし、たとえば十字軍とかはその最たるものなのではないかと思う。ただ、そういう時点での有害物というのは、まだ「敵」として定式化されていたのではないか? というのがこちらの仮説で、ひるがえって近代以降、すなわち資本主義の勃興および定着以降には、その有害物の定義が、「敵」のみならず、「無駄」、「不要」、「余計」にまで拡張されたのではないか。殊更に、めちゃくちゃ積極的に有害なわけではないのだけれど、役に立たず、無意味で、存在していても何にもならない、というものまで有害物と見なされるようになったということ。その点が、近代という時代のもっとも根幹的な特徴のひとつなのではないかとすら思った。
  • 保育園を過ぎて昨日と同様墓場に、しかし逆の方向からかかると、斜面の端を縁取るようにつらなっている樹々の、深緑色の向こうに太陽が見え隠れし、木叢のところどころが光点をはらむとともに葉網の裏で粒になっている空の青さが、枝葉が微風に揺らぐのにつれてじらじらこまかく水面 [みなも] のように震動している。ゆるい坂を下っていくと、近間の集落を越えた先、山を背後にして川向こうの地域から煙が濃く湧いて、光の膜で薄められた景色をなおさら淡くしていた。街道を渡って裏路地へ。のろのろ行っていると、道脇の裸木に鳥が飛び移った。枝の上に見える腹が薄オレンジ色をしているところからして、あれはたぶんジョウビタキというやつではないかと、歩きながら視線をそちらに固定してだんだんと首の角度を大きくしていくあいだ、夫婦らしき年嵩の男女が、男性を前にして前後にならんだ形で会話もなく、こちらよりもよほどはやくずんずん歩いて抜かしていった。ここは日向が続いていて、光のもとがある背中は温かいが、しかしからだの前には冷たさがいささか残るところを見るに、気温はやはり昨日よりも低い。
  • 帰宅すると散歩中のことをさっそく書いた。保育園のフェンスを発端として巡らせた思考を記すのに手間がかかり、それを書き終えたところまでで二時間弱が経過して四時を過ぎてからだも疲れていたのでいったん切った。ライプニッツだか誰だかは、朝起きて寝床のなかで浮かんできた考えを記すのにその日の終わりまでかかるような調子だったらしいということを聞いたことがあるが、それは普通に本当だろうと思う。
  • だらだら休んだ。五時過ぎに上へ。アジが焼かれており、あとは菜っ葉とハムを炒めようと思っていたと言うのでそれを担当する。「鎌倉ハム」の、いわゆるボンレスハムというのか、「ボンレス」というのがなんのことなのかまるでわからないのだが、紐で網目状に縛られたハムを薄く切り分け、青菜とともに炒めた。それでさっさと帰室。父親は炬燵で寝ていた。
  • 帰室後もベッドでだらだらしながらからだをほぐした。七時で食事へ。新聞からコロナウイルス関連の記事を読みつつ食べる。東京都がコロナウイルス患者用に用意した病床が三四〇〇だったかそのくらいあるらしいのだが、いまそのうちのほぼ八割が使われる状況になっているらしい。
  • 食後、洗い物をしてもどると、八時直前から音読。音読はやはり毎日やりたい。言語や知識や情報を身体化するということもそうだが、なんとなく意識や気力の面で締まるような感じがある。「英語」を五〇分ほど読んだ。今日はなんだかあまりうまく読めない感じが強かったがべつに問題はない。読むあいだ、腕は筋肉がやや痛い感じがあったのでダンベルは休み、脚を引っ張り上げたり首や頭蓋を揉んだりした。頭蓋は本当に、意外とめちゃくちゃ固まっている。揉まないとすぐ固くなっている。たしかかわからないが、モニターをずっと見ていると頭蓋の筋肉は凝り固まるような気がする。視神経を通して作用があるのだろうか。で、頭蓋が硬いとやはりなんとなく意識としても明晰さが減じたり、あと普通に頭痛が生まれたり額や眉間のあたりが重くなったりする。
  • 九時過ぎ、風呂に行く前に柔軟。合蹠・前屈・胎児・コブラ。合蹠はマジですごい。これをやってじっと停まっていると、なんだかわからないがすごく血の巡りが良くなる感じがする。たぶん太腿の芯がほぐされるのだろう。筋肉を伸ばした状態の姿勢を取ってじっとしていると、呼吸の動きに応じて肉が収縮するから、それでおのずとじわじわと柔らかくなっていく仕組みだと思う。前屈がまだあまりうまくできないというか、以前に比べればよほど楽になってきたものの、太腿の裏側がなかなか伸びてくれない。
  • 入浴。温冷浴をやったり、こめかみや首や頭蓋を揉んだりする。
  • 風呂のなかでこのあいだBBCからメモしたChristian Piccioliniの記事のことをなぜか思い出し、読みたくなったので出たあとアクセスした。Natasha Lipman, "Christian Picciolini: The neo-Nazi who became an anti-Nazi"(2020/12/5)(https://www.bbc.com/news/stories-54526345(https://www.bbc.com/news/stories-54526345))。ありきたりな結論ではあるけれど、問題はやはりアイデンティティと承認ということになるのだろうなあと思う。pay attentionされているか、fully respected membersとして認められているか、人間としての、あるいはその人自身としての尊厳を担保されているかということ。もちろん問題がそこにはない人もいるだろうが、ドナルド・トランプ旋風や欧州で起こった難民危機などを見ても、自分にふさわしい注意を払われていない、存在を軽んじられたと感じた人々が、損なわれた尊厳を埋め合わせるために反発し、他者への敵意を熱狂的に膨らませたというのが、事態の大きな部分を占めてはいるだろうと思う。ことは実存なのだ。そしてそれはむろん、経済と密接に結びついている。なおかつ、そこには具体的で個別的な他者とのかかわりが、おそらく多くの場合は欠けている。Christian Piccioliniの例は、具体的で個別的な他者とのかかわりによる承認が解毒剤になりうるということのひとつの証ではあるだろう。ただ、そこで止まっては単純過ぎるというか、それで有効にうまくいくとは全然限らない。

In the summer of 1987, Christian Picciolini was standing in an alley smoking a joint, when a man with a shaved head and tall black boots approached him.

"He pulled the joint from my mouth, looked me in the eyes, and he said, 'That's what the communists and the Jews want you to do, to keep you docile,'" Picciolini remembers.

At 14, he didn't really know what a communist was, or a Jew for that matter, and had absolutely no idea what "docile" meant. The stranger then asked what he was called.

"I was afraid to tell him because my last name, Picciolini, was kind of a point of contention growing up. It was something I was bullied for."

Instead of making fun of his Italian surname, the man told him that it was something to be very proud of, but that if he wasn't careful, somebody would take that sense of Italian and European pride away from him.

He touched a raw nerve. Picciolini's parents were immigrants who had moved from Italy in the 1960s, and he felt more Italian than American.

The man who approached Picciolini that day in the alley was Clark Martell, and the group that he had just been recruited into was America's first neo-Nazi skinhead group: the Chicago Area SkinHeads - also known as Cash.

Picciolini believes that Martell, then 28, was on the lookout for someone vulnerable.

"He saw that I was lonely, and I was certainly doing something that put me on the fringes already - smoking pot in an alley. He knew that I was searching for three very important things: a sense of identity, a community and a purpose."

     *

Picciolini started to listen to imported music from white supremacist movements in Europe, and really connected with the lyrics.

"They spoke to my angst of being young and unseen. They spoke to my frustrations of trying to get something done or trying to progress in my life. And those lyrics spoke to me by blaming 'the other' for those problems."

The songs also gave him a feeling of pride, painting white supremacists as warriors against subhuman races and religions - "parasites who were attempting to destroy this glory and heritage of the white race".

The neo-Nazi uniform of shaved head, boots and tattoos further cemented this sense of belonging.

     *

The group wore T-shirts that said things like "White Power" or "White Pride" - the distinction was subtle but important, especially when it came to recruitment, where the idea of "pride" was more appealing. "We wanted to push the idea that there's nothing wrong with being proud of who you are and you should fight for that."

     *

In 1989, Martell was sentenced to 11 years in prison for beating up a 20-year-old woman. She had become a target because she had quit a neo-Nazi group and allegedly had black friends.

Martell and others also destroyed Jewish shop windows and painted swastikas all over Chicago on the anniversary of Kristallnacht, or the Night of Broken Glass, in Nazi Germany - an orchestrated attack on thousands of Jewish homes, businesses and places of worship in which 91 Jewish people lost their lives.

Many members of Cash were caught and sent to prison, while others went on the run.

Picciolini, then only 16, was "essentially the last man standing". He took over as leader of his area, and started rebuilding the group.

     *

He estimates that he recruited around 100 members directly - but indirectly he has no idea of the true scope of his influence. That's because he formed a band, offensively named after the Holocaust, and its music reached far beyond the US.

The band travelled to Germany to perform, and while he was there, Picciolini even visited Dachau, a concentration camp where tens of thousands of Jewish people were murdered by the Nazis.

"That music lives even today. It still recruits people and may be inspiring acts of violence," says Picciolini, who has spent the past 24 years trying to undo this damage.

"It's horrifying to think that I so blindly believed in something and wasn't able to see how that was hurtful for other people. There's no excuse for that. There's really no way for me to explain the fact that I participated in things that glorified the death of innocent people."

     *

When he was 18, after a night of drinking, he and his friends went to McDonald's where some black teenagers were waiting in line for their food.

Drunk and belligerent, Picciolini loudly proclaimed that it was "his" McDonald's and that they needed to leave.

Scared, the teenagers ran out, with Picciolini's group chasing them. As they made their way across the street, one of them pulled out a gun and aimed it at Picciolini and his friends. A shot was fired - missing its target - before the gun jammed. Picciolini jumped on the shooter.

"I remember beating him, kicking him, punching him until his face was swollen. And I remember him on the ground looking up at me through swollen eyes as I was kicking him.

"His eyes were pleading with mine to stay alive."

For the first time, something inside Picciolini shifted.

"I thought for a second that that could be my brother, or somebody that I loved. And I recognised how what I was doing to him not only put him in pain, but would also impact his family and the people that he loved."

In spite of this moment of empathy and connection, however, Picciolini continued to be a member of the Chicago Area SkinHeads for another five years. He says he wasn't brave enough to leave the gang that had given him an identity from the age of 14.

"I was afraid to go back to the nothingness that I had before. I was afraid to be worthless. And I thought that when I was getting this attention, and causing this level of fear, that I was getting respect."

     *

As he needed to support his family, he opened a small record shop that sold his own music, and records he imported from Europe.

He knew that he couldn't just walk into City Hall and apply for a business licence to sell Nazi music, so he told them that he would sell a wide variety of music, from punk rock to heavy metal and hip-hop - and he did. But racist music made up about 75% of his revenue.

"What I didn't expect was that people of colour, people who were gay, people who were Jewish would also come into my store," Picciolini says.

He now knows that they didn't wander in by accident. Picciolini was very visible as a white supremacist, and people knew what he was doing and what he was selling.

"These people would come in to challenge me, but they chose to do so through compassion instead of aggression. I'm very grateful for that because it allowed me for the first time to meaningfully interact with the people that I thought I hated."

This personal contact proved to be vitally important for Picciolini.

He particularly remembers a conversation with a black teenage customer who would always ask lots of questions about the music he was selling. He would "goof off and be very funny", Picciolini says.

"One day he came in, and he was visibly upset. He wasn't the happy-go-lucky teen that he normally was. I asked him what was wrong, and he told me that his mother had been diagnosed with breast cancer that morning."

Picciolini's own mother had been diagnosed with breast cancer not long before. Suddenly, he was able to relate, and found himself momentarily forgetting his racist beliefs. They had a deep conversation about life and love and the things they held dear.

Over time, such experiences became more frequent, as Picciolini started to connect with the very people that he had previously believed he needed to keep out of his life.

"It was those people who chose to treat me with compassion, when I least deserved it, that had the most powerful transformative effect on me. Meeting on a fundamental human level is still the most powerful thing that I've seen break hate," he says.

     *

For nearly five years, he tried to hide from his past. He tried to make new friends and get a job without revealing who he had been before.

But by 1999, he was experiencing severe depression - unsure of who he was, where he belonged, or what his purpose was. All he knew was that he wanted to be a better person.

"I was waking up every morning wishing that I hadn't," says Picciolini.

Then one day, one of his few friends came to visit.

"Listen, I don't want to see you die," she told him, and encouraged him to apply for a job at IBM, where she had recently started working.

"I thought she was crazy. Here's this Fortune 100 blue chip technology company, and she wanted me to apply as somebody who was an ex-Nazi, who had been kicked out of six high schools, who didn't even own a computer and hadn't gone to university. But I humoured her. She was a friend and I didn't have very many at the time, and I promised her I would go for this job interview."

Picciolini applied, and was offered an entry level position installing computers at universities and businesses.

It was the first thing in a very long time that had given him some hope, and he was thrilled - until he found out his first day of work would be at one of the schools he'd been kicked out of for fighting, protesting and trying to start a white student union.

"I was terrified. I thought this new hope that I'd felt was over. It would come crashing down the minute somebody recognised me."

On his first day, as he skulked around the corridors, trying to avoid being recognised, John Holmes, the head of security, walked straight past him.

He didn't recognise the former student, but Picciolini had never forgotten Holmes. As a teenager, he had taken particular pleasure in antagonising the black security guard. Now, the feeling that he should try to make amends triumphed over his fear of being noticed.

Picciolini followed Holmes to his car in the school parking lot, and tapped him on the shoulder.

"He turned around and jumped back when he recognised me. He was afraid," Picciolini says.

Unsure of what to do, Piccioloni extended his hand and said, "I'm sorry." Holmes shook it and thanked him for the apology, but said that if he really meant it, he would need to do more.

The two men sat and talked. Picciolini shared his experiences and told him that he had left the movement. Holmes embraced him, and made him promise that he would continue to tell his story.

This was another hugely pivotal moment for Picciolini. It helped him to understand that running away from his past wasn't an option - he needed to find a way to repair some of the damage he had caused, and seek forgiveness from those he had hurt.

"Frankly, Holmes saved my life that day because I'm not sure without his guidance, encouragement and forgiveness, I would have found enough courage to do it on my own," Picciolini says.

     *

"What leads people to those movements is not the ideology," he argues. "The ideology is simply the final component that gives them permission to be angry."

Instead, he believes that it is life's "potholes" - incidents of trauma or neglect that trip people up - that lead them to join extremist fringes while they search for an identity, community and purpose.

"So when I engage with people to help them to leave these movements, I never debate them ideologically. I don't tell them that their ideas are wrong, even though of course, I know that they are. But what I do is I listen, and I listen for those potholes so that I can find ways to fill them in."

  • それからここまで記述。もう零時直前。明日は朝晩の勤務で、五時半か、遅くとも六時には起きなければならない。したがってもう猶予はないが、それにもかかわらず授業の予習をしていない。これからやらなければならないが、クソ面倒臭い。明日の労働自体もマジでクソ面倒臭いが、覚悟を決め、肉体をほぐしながら頑張るしかない。世の人々はあまりこのことに気づいていないが、覚悟を決めて毅然と屹立し、もろもろの圧迫にも揺るがずさだかに浮世を渡っていくために肝要なのは、精神ではなくて肉体のほうを高度に調えることである。筋肉の状態が良くなれば心持ちもおのずと良くなる。人々の多くは、自分のからだがめちゃくちゃに凝り固まっているということにまず気づいていないと思う。肉が柔らかくなめらかになったときの解放感を知らないのだ。
  • 予習へ。都立高校入試の国語の過去問を読んでおく必要があったので、ホームページにアクセスしてPDFを閲覧。最新の年度から。大問三の小説はどうでも良いような類の作品。読んでいても特に面白くない。まずもって具体物とか見聞きしたものの描写がすくなすぎる。ほぼ会話と説明しかない。したがって、平板でニュアンスがなく、何の味もない。しかし中学生くらいだとこのくらいのほうが良いのかもしれない。描写とか装飾があっても読みにくいと感じるのかもしれない。大問四は福岡伸一の『動的平衡3』。まあまあ。塾に来ている大半の生徒にとってはこのくらいの硬さでも何を言っているのかわからず難しく思われるだろうなという感じ。大問五は山本健吉井上靖芭蕉や利休についての対談。
  • ひとつ前の年度も読んでおく。この年は三浦哲郎が大問三で、そこそこ悪くない。このくらいの文章をやはり出してほしいというか、べつに出さなくても良いが、このくらいの文章をどんどんたくさん読むような教育環境にしてほしい。しかしそもそも、中学生でも本をまったく読まず、言語を読んでいてもまるで面白くないという生徒はたくさんいる。大問四は齋藤亜矢という人の文章で、アートの働きおよび楽しみとは自分のなかにそれまで形成されていたものの概念・イメージに新たなものが付け加えられ、それらが変容し更新されていくことだ、みたいなわかりやすい話。大問五は白洲正子大岡信。この二人も読んでみたい。まだ双方とも一冊も当たったことがない。
  • その後、(……)の授業にそなえて(……)の英語、二〇一七年全学部統一。ならべかえまで読んで切り。答えはコピーしてこなかったがほぼわかる。そうするともう一時半だった。思いのほかに時間を取ってしまった。消灯して柔軟。二〇分おこなう。合蹠のポーズを念入りにやって、脚の肉をあたためる。それで瞑想したが一〇分で耐えられなくなり、二時過ぎに就寝。

2021/1/2, Sat.

 『煽情的な構図』第一章はナサニエル・ホーソーンの文学的名声がいかに確立したか、その背後のネットワークを語るところから幕開けし、終章第七章は再びホーソーンに戻って、彼の同一の短編でもアメリカ文学傑作選収録の際の編集自体でいかに印象が変わってしまうか、いかに制度が文学的価値を産出するか、その時代別の規範変動について語りつつ幕を降ろす。間を満たす各章には、チャールズ・ブロックデン・ブラウンやジェイムズ・フェニモア・クーパー、ハリエット・ビーチャー・ストウ、スーザン・ウォーナーといった、従来の文学史で軽視されてきた面々に関する再考察が並ぶ。性別・ジャンルを問わず多岐に渡る顔ぶれが選ばれてはいるものの、しかし著者の目論見はただひとつだ。「天才」の手になる「内在的美質」を備えた「傑作」が「超歴史的」に「不滅の輝き」を帯びるという評価が従来の因習的文学史観であったが、何を措いてもこうした誤謬を根本から転覆すること、これに尽きる。端的にいうなら、テクストを読むとき我々が潜在的特徴と思い込むものは、むしろ時代的・地域的コンテクストによってあらかじめ決定された読者の立場に過ぎない――これがトムキンズの前提である。仮に彼女の見解をさらに図式化してしまうなら、こうもいえようか――作者のテクストなど存在しない、読者のコンテクストだけが存在する、と。
 (巽孝之『メタファーはなぜ殺される ――現在批評講義――』(松柏社、二〇〇〇年)、156~157; 第二部「現在批評のカリキュラム」; 第六章「闘争するエレミヤ ジェイン・トムキンズ『煽情的な構図』を読む」)



  • 一〇時半に定かな形の目覚め。カーテンを開けて陽を顔の肌に受け取りつつ、こめかみの周りをよく揉みほぐす。一〇時四五分で起体。トイレで濃い黄色に染まった尿を体内から捨てて、もどると瞑想。窓外からは大人の男性と、その子どもの声が聞こえていた。(……)ちゃんと息子だろうか。子どもはまだまだ幼く、きらきらと甲高いような声音で、行っても小学校低学年くらいではないか。胡座で静止しながら、もっとつつましくしずかな人間になりたいなと思った。いてもいなくても変わらないような、意味がないわけではないが、あるわけでもない、そういう存在でいたい。有害ではないけれど、かといって有益でもない。必要とされたくない。自分の気配を周囲に向けて放散したくない。その点、テクストというのは楽だ。どこまで行ってもたかだか文字言語でしかないので。
  • 一〇時五一分から一一時一二分まで座って、上階へ。着替えてハムエッグを焼く。黄身が液状に保たれたままのそれを米に載せ、ほか、即席の味噌汁や昨日のサラダの残り。新聞は休みだと思うので、昨日の朝刊から天皇のメッセージなどを読んだ。食べ終えて皿を片づけると風呂も洗い、帰室。Notionを準備し、昨日の記事を三分で完成させ、今日のこともここまで一〇分かからず記せば一二時一一分。天気がとても良いので、散歩に行こうかなと思っている。やはり人間には歩くことが必要なのだ。歩行とはこの世でもっとも単純かつ複雑なこと、太古以来の、原初以来の美しきことである。
  • LINEを覗くと投稿があったので返信。今日は夜から(……)・(……)くん・(……)と通話する予定。(……)は大阪から帰京して、今日(……)家に遊びに行き泊まると言う。こちらも行っても良いのだが、感染拡大も止まっていないし、万が一もらってきて医療機関をなおさら逼迫させるのも忍びないし、こちらだけなら苦しもうが死のうが問題ないが両親にうつると良くないので、年末年始は籠もることにした。それで一〇時からではどうかと時間を提案しておく。
  • それから、小沢健二 "天使たちのシーン"を聞きながら昨日の記事を投稿しようとしたところ、一二月三一日の記事がブログに投稿されていなかった。あれ、忘れていたか、と思ったのだが、作業を進めるに、たしかに投稿したおぼえがある。うまく投稿できていなかったのか? あるいは削除されたのか。わからないが、とりあえずもう一度、昨日の記事と一緒に投稿しておいた。
  • そうして、散歩の前に柔軟。"天使たちのシーン"をふたたび、今度はスピーカーから流しだす。歌詞はだいたい良い。「大きな音で降り出した夕立のなかで 子どもたちが約束を交わしてる」は良い。「枯れ落ちた樹のあいだに空がひらけ 遠く近く星がいくつでも見えるよ」も良い。「いくつでも」としたのが特に良い。「毎日のささやかな思いを重ね 本当の言葉を紡いでる僕は/生命の熱をまっすぐに放つように 雪を払い跳ね上がる枝を見る」は、前半、「本当の言葉を紡いでる」などと言ってしまう自負心にちょっと驚く(「本当」の意味に論議はありうるが)。あと、「太陽が次第に近づいてきてる」を、聞きながら最初夕暮れのことだと思って、落日を「近づいてきてる」と言うのはシンプルではあるけれど良いなと思ったのだが、前後の流れを考えるとこれは夜明けのことなのかもしれない。あと、いまインターネット上で歌詞を見たのだけれど、何度か繰りかえされる中心部分の終わりが、「君や僕をつないでるゆるやかな 止まらない法則」となっていて、いまのいままでここの最後は「ループ」と歌っているものだと思いこんでいた。そうではなくてどうも、「ルール」と歌っていたらしい。曲全体の主題としても、「サークル」との親和からしても、「ループ」のほうが良くない? と思うのだが、それだと単純でありきたりすぎるのかもしれない。しかし「法則 [ルール]」だと、上部から課される超越的な審級の感がちょっと出てくる気がして、それはこの曲にはそぐわない気がするのだが。
  • そのまま"ローラースケート・パーク"の流れるなかで着替え。ジャージにダウンジャケットのままで行っても良いのだが、なんとなく着替える気になった。上階に行き、うがいをしていると母親が上がってきたので、散歩に出ると伝える。父親も歩きに行っているらしい。いま葉書を書くから出してくれる? と言うので了承し、母親が年賀状を書いているあいだ、南の窓の前に立って黙って外をながめる。空は非常にあかるい青さで果てまでずっと妨げも闖入物もなくひらきつづけており、川の周りに立ち上がって対岸の集落を隠している木々はまるで動きを見せずただしずまっている。風はないようだ。しかし見ているうちに、かすかにひらいた窓の隙間から遠く響いてくるものがはじまり、(……)さんの家の屋根上に掲揚されている鮎の幟も、だらりと垂れ下がっていたのが横向きに起き上がり、だんだんと泳ぎだす。ビニールか何かでできたまがい物のくせに、けっこう美味そうな感じで腹のあたりを膨らませながら遊泳しているが、風はさほど大きくはなく、泳ぎ方は完全に横一線にはならず、それほど勢いはない。
  • 母親の葉書を受け取って出発。一応マスクをつけた。必要ないとは思うが。玄関を出て道に出ると、西空にかたよった太陽がさっそく眩しいが、もう高度は低く、林の一番高い梢にかかっているので路上には青さのほうが多いまだら模様が生まれており、そのなかに入ると顔が冷たくなる。とはいえまだまだ日向も多く、西に向かって歩くあいだはずっとまぶしい。前髪というか、こめかみあたりの毛のまとまりから一本だけ逸れて右目の近くにやってきた髪の毛が白く映っている。公営住宅前のガードレールの表面は何やら抹茶めいた緑色に粉っぽく汚れきっており、草の汁が付着したまま乾いたような感じなのだが、実際そうなのではないか。ここのフェンスの向こうもしくは前後に生えていた草がまったくなくなっていたが、それらが残していった汚れなのではないか。通りにはこまかな羽虫が湧きまくって、光の屑のように浮遊している。非常に短い橋の上から沢のほうを見やると、そこの空中は特に多く、こんがらがった毛玉のような形象をなしていた。坂を上っていく。青空を背景に竹の葉の房がさらさらとあかるい。そのそばにある家の、西向きの側面だけが真っ白く、そこだけ西洋都市の由緒ある教会を思わせるような白さに際立っていた。右手の鈍く薄い緑色がつらなる茂みのなかにはすこしだけ紅の葉も見られて、なんだかんだ言ってもやはり美しい。
  • 裏路地を行くと、男女のきょうだいらしき子どもが二人でバドミントンをしている。太陽のまぶしさに目を細めたこちらが通りかかると、それで自意識が働いたのか、女子の最初の繰り出しが短すぎてうまく行かず、男子もきちんと受けられず変な方向に飛ばしてしまい、バドミントンの、羽根と言えば良いのか球と言えば良いのかわからないが打たれるあの対象は、道脇の斜面のほうに落ちていき、子どもらはどちらがそれを取りに行くかの役目を押し付けあっていた。こちらは陽のなかをゆっくりと歩く。歩くときに大切なのは何よりもゆっくりと歩を進めることである。というか、急がないことである。殊更ゆっくりと歩こうとせずとも良いのだけれど、急ぐ心焦る心があるのは良くない。そして人間は、たいていの時間は急いでいる。自分で急いでいると思っていなくとも、実際には急いでいる。だからゆっくり歩こうとするくらいでむしろちょうど良いのかもしれない。西の果て、山の稜線に寄り添うようにして雲の小片がいくつか浮かんでいるが、空にある白さはそれだけである。歩きながら、小沢健二の『犬は吠えるがキャラバンは進む』の曲には、「神さま」というワードがよく出てくるなと思っていた。上に触れた"天使たちのシーン"には、転調後のクライマックスで「神さまを信じる強さをぼくに 生きることをあきらめてしまわぬように」とあるし、その次の"ローラースケート・パーク"には、「神さまがそばにいるような時間」がある。そして二曲目の"天気読み"もサビで、「雨のよく降るこの星では 神さまを待つこの場所では」と歌っている。ほかの曲はどうだったかおぼえていない。
  • 街道に出ると横断歩道を渡ってふたたび北側の裏路地へ。ゆるい坂になっている。そのなかを、陽につつまれてのろのろ上っていく。対向者が二人、いずれも老人だがこちらよりも歩みがはやい。また、斜面いっぱいに設けられた墓場にも何組か墓参の客があった。見上げれば、南に向けてひらいた斜面の大半はもう陽の当たらない領域で、上のほうにすこしだけあかるみの差しこまれている場所がある。過ぎると頭上でかさかさ鳴る音があって鳥かと目を振れば木枝に残った葉が風の流れにふるえた響きだったが、その樹が蠟梅のもので、炭酸飲料めいた、というのはつまりCCレモンオロナミンCみたいな黄色の蕾がいくつも青空に散っていた。
  • 路上には、本当にどこでも、至るところで羽虫が無数に浮遊している。こちらの身の周りをつつむように、しかし我関せずで遊び、空間を装飾している。晴れて気温も比較的高いためにたくさん湧いたのだろう。最寄り駅まで裏道をゆるゆる行っているあいだ、古井由吉がよく山に行っていたのがわかるような気がするなと思った。修験者とか山にずっと入って修行しているわけだけれど、そういう人間の精神性とか感覚というのはどうなるのかな? と思った。多少、動物にちかくなってくるのだろうか。動物もしくは獣というのは、たしかドゥルーズもいくらか取り組んだテーマだったはずだし、デリダもそういう方面に興味を持って何か書いていたはずだ。
  • 最寄り駅の横の申し訳ばかりの広場にあるベンチには人が就いていた。道中、歩く人走る人とけっこう見たし、やはり天気が良いし正月休みなので出歩く人が多いようだ。ポストに葉書を投函しておいて東へ。フェンスの向こうの枯れ草の茂みに今日もスズメたちが集まっているようだったので、今日はその前でしばらく止まってみた。厚い草の防御幕があるからだろう、スズメたちは、多少飛び上がって移動しながらも逃げずにガサガサやってときおり顔を見せていたが、何をきっかけとしたのか突然一羽が力強く草を蹴って大きな羽音を立てながら飛び去っていき、それと同時にほかの仲間たちもあとを追って宙に漕ぎ出した。おそらく道路で車がすばやく通ったために、通りの向かいのシャッターが揺れていたのだが、その音が発端だったのだろうか?
  • かなり遅い速度とはいえ、歩けばやはり多少脚や下半身が疲れる。とりわけ最近は全然歩いていなかったので。柔軟をよくやっているので脚は全体としてほぐれてはいるのだが、静態的な柔軟運動でほぐせる筋肉と、歩行に使う筋肉とではやはりすこし違っているようだ。街道をそのままゆっくり東へ進んだ。線路の向こうには、風景全体が苔むして古さびたように樹々が立ち並んでいる。裏との交差部まで来ると車の隙をついて渡り、間道にもどりながら、どうもやはりまだ日記にかんしては、書かねばという心があるなと考えた。内発的なものではあるにせよ、義務感というか、毎日書かなければいけない、とりわけ、書けることをなるべくすべて書かなければいけない、という観念がある。つまりは野心だ。死ぬその日まで毎日かならず、しかも相当に詳細な生の記録をつくるというこのコンセプトである。そして、こういう野心は余計なものだと思った。書かなければ、という気持ちをもうすこし薄くしていきたい。日記をもっと捨てるように、見捨てるようにしたい。見捨てながら、そして(しかし、でもなく、それでもなお、でもなく、そして)書きつづける、そういう風になりたいなと思った。つまりは、生きることを書くことで書くことを生きること、という馴染みのテーマだ。こちらはずっとそれをやっているだけ。べつに野心や我欲が悪いものだとは思わないし、全部捨てようとは思わないが、ことがこの日記という営みにかんする限り、それは余計で、不必要で、そぐわないものだと感じる。書くか、書かないか、という領分ではないところに行きたい。選択ではないところに行きたい。
  • 家の間近に続く下り坂では、ガードレールの外側の木叢に太陽がななめに差し掛かり、縦に流れる緑色の葉のつらなりが白光に触れられてながく輝き、しかし微風の重さではその白さを周囲に撒き散らすほどの勢いは持てず、やわらかな宝玉の房と化してかすかに揺れていた。下端にいたると視界がひらけて、近所の家並みが一望されるのだが、一面陽射しを浴びせられてあるものは光りあるものは穏やかになっている屋根屋根とその隙間に差し挟まれた青いような空気の織りなす風景が、やはりどうしたってこれは美しいと思ってしまうなと思った。冬の光のもとではだいたいのものが美しく整い、整然とした秩序を帯びてしまう。
  • 帰宅。手を洗う。何かちょっとだけ腹に入れたいなと思ったところ、(……)さんがチョコパイをくれたと言うのでそれをもらった。帰室して食い、ここまで書き足して三時半過ぎ。三〇分の散歩を記述するのに一時間かかっていやがる。やはり下半身が、とりわけ腰の周りが疲労した。
  • からだを和らげるためにベッドへ。コンピューターを持ちこんでちょっとウェブを見たあと、(……)さんのブログを読む。七月二八日から八月八日まで。七月三一日「アレルギー」。

男性の性的欲望がアダルトメディア産業によって統治され方向づけられていくように、今後は食欲も新たなメディアによってコントロールしてもらえるのではないか。と今思いついたことを書いているのだが、それでふと気づくのは、性的欲望もそれ以外の付加価値と元々は切り離せないもので、様々なオブジェクトの総合体として文化制度があって、その一環に性的な領域もあったはずなのに、今やそれはそれだけで独立したものとなった。だから食べるということも、今後ますますそれ以外の意味や文化概念から切り離されていって、単に食べることに近づく、しかしその味わいのレパートリーはとてつもないバリエーションで準備される、のかもしれないということだ。まあすでにそうなっているとも言えるし、この後ますます、あの店でなければ体験できない味というのは減少していき、時間と場とコンテンツを併せた複合的な体験の必然性がますます希薄化して。

と、ここまで書いてまた気づくのは、なぜ性的欲望の処理過程におけるアレルギーが存在しないのか、ということだ。ある対象に欲望を向かわせている最中、突如として神経系がアラートを発して、脈拍と血圧を乱降下させる、、みたいな症例はないのか、その悦楽だけを単体で切り離して味わっているがゆえの、罰としての神経バグ…。あったら怖い。じつは、俺は○○アレルギーだったことがやっとわかった、今までずっと大好きだったのにもう楽しめないことになった、寝耳に水だよ、信じられない。もうこれからは○○のことを思い浮かべるだけで、最悪生命の危険もありうるんだ、…みたいなことは、現代のこの世界においてとりあえずはない、と思っているのだが、実際はどうなのか。

  • あと、八月三日「風呂」で書かれていることはめちゃくちゃよくわかる。まるでおなじことをこちらも何度も体験してきた。物思いもしくは考え事をしていたために風呂を出てから髪を洗ったのかどうかがわからない、ということが昔はよくあった。最近はもうあまり思念に没入するということがなくて、もっと並行的な感じになってきているのでなくなったが。

頭を洗いながら、ぼけーっと考えごとをしていて、ふとわれに返ったとき、自分が今シャンプーをしてるのか、リンスしてるのかが、わからなくなることが、わりと多い。自分の髪をさわって見ればわかりそうなものだが、それが意外と、わかりづらい。しかし、わかりづらいな…と思っているときは大抵、おそらくリンスまで終わっていることが多いのだ。それでも、確信がもてないまま、まあいいかと思って、再びリンスすることになる。再びリンスすると、ああこれ、絶対に二回目だな、とわかる。考えごとも度が過ぎると、そんなのもしょっちゅうだし、酷いときには、今日いつ風呂に入ったのか、それがわからない、その記憶がないことに、ふと気付くこともある。で、そのことに気付く場所が、風呂のなかだったりもする。つまり今、風呂に入っているのだけど、いつどうやってここまで来たのか、おぼえてないし、現状で、身体をどこまで洗浄したのかもわからない。ましてや今、頭髪をシャンプーで洗っているのかリンスで洗っているのかなんて、わかるわけがない。

  • あと、途中どこかで「Prego!Prego!」が関連記事に出てきたのでそれも読み返した。二〇一九年二月五日、(……)さんが東京に来た際に、こちらと(……)さんと(……)さんと(……)さんで会食した日の記事である。なつかしい。それからそろそろ二年が経とうとしているが、その時間的距離に対してはしかし、「もう」の感覚も「まだ」の感覚も特におぼえない。記事のなかで、こちらが(……)さんと再開したときの様子がこちらの日記から引かれているが、この頃はもっと楽に書いていたなと思った。鬱症状で死にかけた二〇一八年を通過して、その一二月から日記を再開してまだまもなかったので、とにかく書けるだけで良いやという感じですらすら適当に、気楽に書いていた。そういう風にまたしていきたいし、最近は実際にそうなっている。
  • 「対象を「細部まで一つ残らずおぼえてしまいたい」という思い、その欲望はとてもよくわかる」以下の話は、たぶんこちらが当時Bill Evans Trioの"All Of You"を何度も何度も繰りかえし聞いていたことを受けてのことだと思うのだが、たしかにこちらは当時、あの音楽をすべて記憶したいという欲望を強く持っていた。思えばガルシア=マルケス『族長の秋』をはじめて読んだ頃も、衝撃を受けて、ホメロスみたいな古代ギリシア叙事詩人が口誦でめちゃくちゃ長い物語を伝えていたように、この作品をすべて暗記したいと思って実際暗唱を試み、三ページ目くらいまでは成功していた。だからこちらの性分にはもともとそういう風に、すべて記憶したいという性質がある。それはこの日記の営みそのものを見てもあきらかではないだろうか? すべてを記憶することはできないので、かわりにせめて、できる限りすべてを言語として記録しておきたいということだ。しかしそれは余計な欲望だというのは上に記したとおりである。そして同様に、Bill Evans Trio "All Of You"を隅から隅まですべておぼえてしまいたいという欲望も、余計なものである。こちらはそれを捨てる。音楽を聞くとき、本を読むとき、道を歩くとき、どんなときであれ、こちらはいままでそれらの時間からなるべく多くの印象を得て、なるべく多くのことを感じ、なるべく多くのことを書き記したいと思ってきた。そのような欲望はもはや必要ない。だいたい、何かを感じたくて読む、何かを感じたくて聞くなど、不遜で傲慢な態度だ。ただ触れるだけで良いのだ。何も感じず、何も残らなくたって一向に問題はない。それに実際、書くことというのはだいたいの場合、こちらからもとめようとせずとも向こうから勝手にやってくる。やってきてしまうものだ。向こうからやってくるものをただ受け入れ、受け止め、拾うだけで良いのだ。とはいえ、それを受け入れ、受け止め、拾うためには、それはそれでやはり心身が整い、意識が明晰になっていないといけないのだけれど。ともあれ、こちらはこれからもBill Evans Trio "All Of You"を何度でも聞き続けるが、それについて何かを言いたい、何かを書きたいという高慢な欲は捨てたいと思っている。ただ触れ、通過するだけで良いのだ。ただし、何度も何度も、繰りかえし、終わりなく通過したいとは思う。そのなかに永遠にとどまりたい、そこで時間を停めたい、それと同化したい、ということではない。繰りかえし繰りかえし通過したいだけだ。
  • そういうわけで"All Of You"が聴きたくなっていたので、五時前でベッドから起き上がり、テイク一を聞いた。今回はなんとなく主にPaul Motianに耳がいった。彼もやはり妙というか野暮ったいようなところがあって、ブラシでやっているあいだも、スネアの連打をせーのみたいな感じでパタンと終わらせて一瞬を間をあけてからシズルつきシンバルを鳴らす、というやり口がおりおりあって、そのスネアの末尾の行儀の良さみたいなものはなんだそれは? というか、ちょっとした子供っぽさを感じないでもないし、スティックに持ち替えてからの刻みも、ときどき妙にビートをずらしてくる。装飾なのだが、その装飾の仕方があまり聞かない感じというか、具体的にはたとえば一拍を三連符に分けたときの一音目と二音目だけを鳴らして突っこむところがあるのだけれど、それがたぶんリズム的にもきっちりはまりきっていないのだろうか、全然必然性を感じられず、妙にファニーだ。基本的に、必然性でやっているドラマーではおそらくないと思う。適当にやってんのか? というところが何度かある。ソロの途中のキックの踏み方がその最たるもので、あれは本当に、フレーズの兼ね合いはまるで考えず、手の動きとは関係なく気の向いたときに踏んでいるだけではないのか? 入り方が普通に変だし、キックだけ聞いていると拍子を失いかねないような感じで、たぶんきちんとした譜割りに合っていない気がする。
  • ついでに、小沢健二 "天使たちのシーン"も聞いた。ピアノの響きが思ったよりも強く、ひろがりがあって良かった。ソプラノサックスのソロは二回とも良い。二度目の高音部で音がゴムのように伸びて張っていくときなど、本当に、ヒヨドリとか、鳥が喉を張って叫んでいるときとおなじ質感だなと思った。ギターソロも、チョーキングダウンを主体としてうまく活かしたフレージングも粋だし、音色も、パキパキとした質感もふくみながら、しかしやはりゴムじみたゆるさもあって絶妙ではないか。
  • それで五時一〇分くらいになったので上階へ。今日も母親の仕事がはやく、すでにおでんができていたのでアイロンをかける。父親もはやくも風呂に入っていた。長く歩いてきて汗をかいたからだろう。アイロン掛けのあいだ、テレビは『彩の国だより』だったかなんだったか忘れたが、「彩の国」というワードが入った番組を映しており、つまり埼玉県を紹介する番組ということだろうが、作業をはじめたときには秩父の夜祭の様子が放送されている後ろにGreen Dayの"21 Guns"がかかっていた。Green Dayとかなつかしすぎる。といってこの曲は知らないし、おぼえているものと言って"American Idiot"と"Basket Case"くらいだが。"Basket Case"は高校のときにちょっとやった記憶がある。続いて各地の色々な様子とともに、Sam Cooke "A Change Is Gonna Come"や、Jason Mraz "I'm Yours"や、Carpenters "I Won't Last A Day Without You"が流れた。Carpentersってやっぱりすげえなというか、もう冒頭、A部がはじまったところからしてひどく綺麗で、これは違うなという感じだし、その後のメロディや展開にしてもポップソングの模範で、B部の五・六小節目で持ち上がるところも、終わり方、すなわち最後の一音の選択も良い。
  • 米が炊けるまでまだ間があったのでねぐらに帰り、ふたたび音楽を聞いた。一九六一年のBill Evans Trioの、"Gloria's Step (take 1; interrupted)"と、そのまま続けて"Alice In Wonderland (take 1)"。"Gloria's Step"は、四分の四の拍子で、五小節+五小節+一〇小節(八+二?)の区分に一応なっていると思うのだけれど、演奏している当人たちがどういう風にとらえてやっているのかが全然わからない。ソロを聞く限り、LaFaroのほうはまだなんとなくわかるような気がしないでもないが、Bill Evansのほうは空白の挟み方など聞くと、どういう区分けを考えてどういう感覚でつくっているのかがちっともわからない。
  • "Alice In Wonderland"のほうを聞いているときに思ったのだけれど、やはりこのトリオはあきらかにBill Evansが音楽空間を支えるひとつの芯になっていると思う。ものすごく安定的で、絶対に揺るがない確固とした芯である。彼が生み出す音のつらなりは、これ以上ないほどの自律性、内在的独立性を常に完璧に保っている。つまり、ひとつの恒星となっている。Bill Evansがそういう風に弾いて最初から最後までずっと軸を通しているから、Scott LaFaroはあれだけ闊達にやることができるし、Paul Motianも気まぐれに拡散することができるのだと思う。ピアノがBill Evansでないにもかかわらずベースとドラムがああいうことをやっていたら、たぶん音楽はほぼ解体していた。つまり、そうなった場合には、フリー方向に踏み入るか否か、ということが問題になってくるということだ。したがって、Bill Evansがああいう演奏者だったからこそ、Scott LaFaroはあのようなScott LaFaroであることができたわけで、Bill EvansBill Evansでなかったら、Scott LaFaroはこのScott LaFaroにはなれていなかったのではないかと思う。一九六一年のBill Evans Trioとおなじ感覚を与えるピアノトリオがそれ以後存在していないように思われるのは(もしかしたらあるのかもしれないが)、Scott LaFaroがいないからではなくて、たぶん、Bill Evansと同等の明晰さと堅固さで弾けるピアノがいないからなのではないか。
  • 音楽を聞いたのち、今日の日記を少々書き足し、食事へ。母親が昼間に食べたレトルトカレーの余りやおでんなど。新聞がないのでテレビの『笑ってコラえて!』を見る。年末に収録したにもかかわらず、もう年が明けた態で通行人にインタビューをするという企画。まだ体験していない二〇二一年正月のことを、結構みんな適当にうまく語っていて面白い。そのあと『ダーツの旅』。鹿児島県の根占町というところ。大隅半島にあり、いまは合併して南大隅町となっているらしい。道の横に農地がずっとひろがっているような、見るからに田舎という感じの風景だ。なんとかの滝というのが名所としてあるらしく(たしか「雄」の字がついた気がする)、映された紹介映像を見る限り、紹介映像だから余計にそう見えるようにうまく撮っているのだろうが、たしかに水がめちゃくちゃ青く、ほとんど化学塗料でも用いたかのような青さに透きとおっていた。
  • 食事を終えると洗い物をしてもどり、ここまで加筆。七時半過ぎ。通話は一〇時からなので、九時頃風呂に入れば良い。
  • それからメルヴィルを読んだらしいがおぼえていない。入浴ののち、兄の部屋で通話。兄の部屋にはいま暖房がエアコンしかないのだが、それを点けても全然空気が暖まらない。顔のあたりはまだマシだが、足もとなど普通にかなり寒くて冷える。通話は主には(……)が仮作した曲の披露。Google Driveに音源を上げてもらってみんなで聞く。"(……)"、"(……)"、"(……)"の三曲。"(……)"と"(……)"はわかりやすい。前者は比較的アップテンポ。サビでピアノがベースとコードを交互に鳴らしてエイトビートを刻むような印象。たしか(……)くんが、オープンハイハットを裏に差しこんでいく感じと言っていたのもこちらのイメージとたぶん同種のものだろう。先日の紅白歌合戦刄田綴色がやっていたようなことを言っているのだと思う。"(……)"のほうはもっと落ち着いていて、おだやかで盛り上がりもあまりないが、その素朴な感じは悪くない。問題は"(……)"であり、この曲はけっこう前からあったらしいが、つくった当時の(……)はコード理論を勉強しているところで、他人の曲を参考にしつつ色々工夫を凝らしてみたという。たしかに工夫の試みは端々に見えたものの、なかなか突飛なやり口が多い。くわえてメロディも早口な部分がわりとあるのだけれど、(……)自身、自分でイメージしておきながらリズムをきちんとつかめないと言い、このときの音源の歌もあまり整ったものになっていなかった。これは難曲だなとみんなで笑ったが、最終的には次にこの曲をすすめるということに決まった。と言って、こちらの仕事は特になく、聞いて感じたことを言うだけの楽な役目である。アレンジは(……)にまかせることになったので、コードワークにかんしては彼がたぶん良い感じに再調整してくれるだろう。あとはメロディの譜割りを正式に確定させなければならない。(……)も、とりあえずピアノできちんとしたメロディラインを打ちこむと言っていた。
  • 今日はあちらもカメラをオンにしていたが、(……)家に泊まりに行っている(……)は白いランニングシャツで腕を露出しながら寝転がっていた。室内はだいぶ暖かいらしい。雑談は今回はあまりしなかった。最後にちょっと(……)の近況を聞いたり、最近こちらはからだをほぐしまくっているということや、今日久しぶりに散歩に行ったということを話したりしたくらい。色々と面倒で、不快事も多い浮世の圧迫のなかで自律性を持ちながら生を乗り切っていくためには、肉体を調えるのが最重要だと主張し、合蹠をすすめておいた。ほか、(……)の知り合いに占星術を学んでいる人がいるらしく、占ってもらった結果を見せてもらったりもした。一二星座にもとづいて円を分割したなかに星などのマークが配置されており、その場所やカテゴリ分けによって運勢などを見るようだ。信じるかどうかは措いても、その意味を理解するのは面白そうではある。何しろ古代の国家などは占星術で政治の大事を決めたりもしていたわけだし。
  • 通話が終わったのはもう一時近くだったような気がする。別れて自室にもどり、七月一一日の記録を検閲してブログに上げたあとはだらだらしたようだ。二時四五分に消灯して、二〇分間、念入りに柔軟したあと寝ている。