2021/6/10, Thu.

 (……)「すべての人間は、生まれつき知ることを欲する。その証拠は、感覚への愛好である。感覚はその効用をぬきにして、すでに感覚することそれ自体のゆえに愛好されるからである」。『形而上学』の冒頭でアリストテレスはそう述べるけれども、だれより知ることを欲していたのは、「万学の父」とのちに呼ばれることになる、アリストテレスそのひとであったように思われる。アリストテレスがなによりも力を入れて探究したのが生物学的な事実とその細部であったことも、よく知られているところである。アリストテレスは、じっさい、どのような動物であっても観察してみれば、「造化の自然」は「生来の哲学者」に「いいしれぬ愉しみを与えてくれる」と書いていた(『動物部分論』第一巻第五章)。(……)
 (熊野純彦『西洋哲学史 古代から中世へ』(岩波書店、二〇〇六年)、99; 第7章「自然のロゴス すべての人間は、生まれつき知ることを欲する ――アリストテレス」)



  • 八時台に母親が部屋に来ていちどさめた。(……)ちゃんの妹さんがランチに行こうというから行ってくるということで、洗濯物をたのむといわれたが、あいまいな意識で目もほとんどひらいていなかったので返事をしたかさだかでない。それからまたねむり、首を伸ばしたりしてから一〇時半の離床。夢をたくさんみた。ひさしぶりのことだ。高校が舞台で、いぜんあった強くてニューゲーム式のものではないが、卒業後に教室にもどってきているような状況だった。こちらは朝はやい時間からだれよりもはやくひとりで教室に行っており、部屋のなかは薄暗くて窓のちかくの席でも持ってきた本を読めないくらいだった。(……)先生がじきにくる。高校のときの日本史の教師である。その後、ほかの生徒たちもあつまってきて、なかには高校の同級生だけでなく、小中時代の知り合いもいたようだ。(……)の顔を見たおぼえもある。
  • 例の、たまにある、迫害される式の夢のバリエーションということになるのか、詳細をおぼえていないが周りの連中から非難されるひとまくがあった。なにかこちらが学級委員的な立場として役割を課せられていたのだけれど、それをうまく果たせずに非難され、謝る、というものだった気がする。謝罪を受けてそのあと(……)が出てきて、数学かなにかの問題をおしえてくれとたのんできた。起きたあとに記憶のなかでこの女子のなまえがすぐに浮かんでおどろいたくらいだが、彼女は小中の同級生である。
  • ほか、男女のトイレのまえの廊下で、トイレの番を待つだかで立ち尽くしていた場面もあった。それとつながっていた気がするが、廊下の途中の広めのスペースでやりとりしていたところ、友人のひとりの手がなにかの拍子に変な方向に曲がってもどらなくなる、というできごとがあった。これもうまく記憶できていないが、手首か指か腕かがまったく折れたように、肘のほうにむかってたたまれたようになって、しかもその先端がはまるふうになって固定されてもどせない、みたいなかんじだった。人間の身体にとってあきらかに不可能な状態だったので、大仰に動揺してうろたえながら、ほかのひとりがもどそうとして引っ張ったりするのだが、うまくもどらない。手が折れた本人は、多少は痛いらしいが、そこまでの痛みでもないようで、顔をしかめるでもなくけろりとしている。そこに女子がひとりやってきて、この女子は先ほどから場面にちょっと出てきていたようだったが、女子といっても制服でなく、着物を身につけていたおぼえがあって、冷徹きわまりないような、まったく動きをみせないような無表情をつねに保っていたのだけれど、そのひとがちかよってきて無言で件の腕をなおしてくれた。ひねりを入れながら引っ張ってかんたんに伸ばしていたので、彼女が去っていったあとに、ひねりながらやればよかったのか、と手が折れた男子に声をかけた。この女子ともうひとりべつの女子、そして(……)とがいっしょになった場面もあったはずだが、それはもうわすれた。
  • 一〇時ごろになってさめ、快晴のあかるみと熱が溜まった寝床のなかでしばらくまぶたをあいまいな状態にしながら各所を揉んだり伸ばしたりしつつ、夢の記憶をおもいかえしたりしていたのだけれど、そうしてみると高校生のころのことなんて、ほとんど前世の記憶みたいなものだなとおぼつかなくおもわれた。ひるがえっていまのじぶんの生じたいもおぼつかなくかんじられ、それはおきぬけの意識の不十分な覚醒が寄与したものでもあるのだろうが、死をおもった、というか、すでに死後であるかのような、そういうおぼつかなさをかんじた。なんかどうでもいいな、とおもった。じぶんの生じたいがどうでもよく、いずれ大したものでないというかんじ。
  • きょうもかなり暑い。天気は晴れ晴れしい。水場に行ってきてから瞑想を一五分ほど。風の音で、枝葉じたいがせせらぐ水のながれとなったかのような持続のひびきがうまれる。
  • 食事はきのうの鶏肉ののこり。新聞、文化面に『つげ義春大全』が三月に完結との記事。つげ義春ほんにんは渋っていたらしいが、長男が奔走して実現したという。この長男は漫画のなかに出てくるこどものモデルにもなっているらしい。つげ義春はいま八十何歳かだが、この大全は貸本時代の最初期の作からあつめているといい、そのあたりの原画は紛失していたのだけれど、熱心なファンが保存状態の良いものを提供してくれて刊行できたと。しかし、貸本のころからやっているってすげえなとおもった。ほとんど明治大正的なひびきのことばなのだが、戦後すぐの時期の作品ということだろう。五〇年代、六〇年代あたりか。つげ義春と長男は都内にふたりで住んでおり、いまも漫画の道具は家にあって、生活も楽ではないので息子はおりおりつげ義春にまた漫画を描いたらとうながすらしいのだが、つげ本人は、じぶんのような漫画はもう時代遅れだと言って描こうとしないという。そのことばにはいろいろな気持ちをすこしずつおぼえて、うーん、という複雑な感慨がこちらの心中に生じる。
  • 国際面には香港で国家安全維持法が施行されてから六月末で一年をむかえるとのおおきな記事。香港島の西にランタオ島という島があり、そこに親中派の団体が運営する中学(日本の中学・高校にあたるという)があって、その学校では毎週月曜日に国旗を掲揚して愛国心の発露をうながしていると。そこの校長は、ほかの学校でもとおくないうちに、うちとおなじような教育がとりいれられていくだろうとかたっているらしい。じっさい、通識課はこの九月で廃止されてかわりに国歌にあらわされている愛国感情を理解させることを目標とする科目に置き換わると書かれてあったし、とうぜん監視もつよまっているから、通識課をおしえていた教師の、毎年六月四日には天安門事件についてはなしていたけれど、もうそれもできない、という嘆きの声も聞かれていた。
  • 民主派の状況は端的な無力と絶望で、周庭も黄之鋒も黎智英も逮捕されて収監されているし、いまはたぶんまだ公安条例違反の判決しか出ていないとおもうのだが、これから国家安全維持法の面での判決もくだされるはずで、そうすると刑期はもっと伸びる。民主派のひとが経営している店に行って多少金を落としたり、そういうふうにしてほそぼそと支え合うことしかできない、という声が紹介されていた。香港人のうちで国外に移住したいと言っているひとのわりあいは増えていて、全体で何割だったかわすれたが半数くらいはあったのではないかとおもうし、一八歳から二四歳の若年層にかぎって言えば八割がそうこたえていると。
  • ほか、居間にひとがいなくてしずかだったので、おちついて三つの記事をよんだ。ひとつはハーグの国際法廷でラトコ・ムラジッチが終身刑をくだされたという極々ちいさな記事。一審判決を踏襲したものだと。もうひとつはロシアでナワリヌイに関連する三団体が過激派組織認定を受けそうだというはなしで、三団体というのは、ナワリヌイが一〇年ほどまえにたちあげた汚職なんとかという、政権の不正を暴くような組織がひとつとその関連組織、そしてナワリヌイ派の全国団体みたいなやつで、さいごのものは四月で解散しているという。検察のもとめを受けて裁判所がいま審理しているらしいのだが、もし過激派組織として認定されると、あつかいとしてはISISなんかとおなじくくりになり、団体の活動はすべて非合法になってまったくできなくなると。
  • さいごにアメリカ関連の情報で、きのうからはじまったシリーズの中編だが、きょうはバイデンのインフラ計画について。ケンタッキー州オハイオ州の境にオハイオ川を越えてなんとかいう橋がかかっていて物流の軸になっているのだが、この橋がもう古く、いまの通行量も建設当時に予定されていたものの倍とかで、付近では交通渋滞が頻繁に発生して困っていると。連邦全土にそういう橋はたくさんあるといってバイデンは大規模なインフラ整備計画をつくっており、その財源を法人税増税によって捻出すると言っているらしいのだが、共和党にしてみれば法人税減税はドナルド・トランプが達成した成果のひとつだから、とうぜんうけいれられない。Mitch McConnellは、インフラ計画は法人税を減税したいがための「トロイの木馬」、すなわち罠であり囮であり表面上の名目だ、と批判している。しかしバイデンとしては分断された国家をふたたびひとつにむすびつけるという大義をとなえて当選しているので、できれば超党派での合意にこだわりたいのだけれど、現実むずかしそう、というはなし。米国の上院はいま民主党共和党がちょうど五〇ずつ分け合っていて、野党はフィリバスターを利用すれば討議を時間切れに追いこんで法案をながすことができるところ、フィリバスターを回避するために討議の打ち切り動議を出す手があるらしく、しかしそれを可決するには六〇人の賛成がいるという特殊ルールがもうけられているらしい。ただ、さきごろの追加経済法案のときにはそれもさらに回避して、このルールが適用されない例外的な措置を取って成立させたというのだが、この例外的な措置というのがどういうものだったのかはよくわからない。フィリバスターについてちいさな説明が記事に付されていたが、その記述によれば、いままでにひとりの議員がおこなった最長の演説記録は、一九五七年に公民権関連でなされた二四時間数分のもの、とあって、こいつマジでどうやったんだよと笑った。ほんとうにずっとしゃべっていたのだろうか? 検索すると、この議員はJames Strom Thurmondというひとで、Wikipedia上では「南部民主党の代表格」と称されている。「1948年の民主党大会では、党の大統領候補者としてハリー・S・トルーマン大統領が指名された。この時の民主党の綱領には、ミネアポリスのヒューバート・ハンフリー市長らリベラル派の主張するマイノリティ(主にアフリカ系)の公民権擁護のための法律(公民権法)の制定が盛り込まれた。ちなみに、先に制定された共和党の綱領にも公民権法の制定が盛り込まれていた。南部の民主党員は人種隔離政策を支持しており、トルーマンの綱領に反発した。この結果南部出身の民主党議員、知事、それに一部の南部出身の民主党員はトルーマンに反旗を翻し、州権民主党(ディキシークラット)を結成した。当時サウスカロライナ州知事であったサーモンドは同党の大統領候補者に指名され、ジム・クロウ法の擁護と人種隔離政策の継続を訴えた」とあり、ただのクソ野郎じゃないか。「上院でも彼は南部民主党員の主張を代弁した。1957年に公民権法(1957年の公民権法)が審議されると、24時間18分にわたる演説を行い、議事を妨害した。これが上院史上最長の議事妨害である。結局、同法は共和党と北部民主党の賛成を得て可決された」とのこと。その後彼は共和党に鞍替えしている。
  • 風呂場の洗剤を詰め替えておいた。
  • ジンジャーエールを飲みつつRachel Nuwer, "Will religion ever disappear?"(2014/12/19)(https://www.bbc.com/future/article/20141219-will-religion-ever-disappear(https://www.bbc.com/future/article/20141219-will-religion-ever-disappear))をすこし読んだあと、八日をしあげて投稿し、今日のことも多少書いてから書見。三宅誰男『双生』。クソおもしろい。まずもって語と文の構築のされ方磨かれ方がふつうにいままでの日本文学のなかで最高峰なので、それだけでもう読んでいておもしろい。文のレベルにかぎってもここまで隙なくつくっているひとはほかにいないはず。テーマ系はよんでいればいろいろむすびつきはするが、十全に気づけるとはおもえないし、発見がなにか統一的な絵図をなしておもしろい読みにつながるかも不明。
  • 三時ごろまで。音楽をながしたいがために窓を閉じて暑いなかで読んでいたのだが、BGMのCarole Kingを止めると、窓外からはなし声がきこえて、どうも母親が(……)ちゃんの妹を連れてかえってきて野外の風を浴びながらはなしているらしいなとみえた。トイレに行ってきてから、窓をあけて、音楽を聞きたかったのでひさしぶりにデスクにつき、Gonzalo Rubalcaba Trio『At Montreux』をヘッドフォンからながしてきょうのことを記述。(……)ちゃんの妹さんはその後まもなく帰ったようだった。
  • あと、洗濯物を二時まえに入れにいったのだが、そのときにベランダの日なたのなかにすわりこんで多少肌に陽の光を吸収させておいた。じっと座りこんでいるとむろんしだいに肌のうえやからだのまわりに熱が溜まってきて暑いのだが、じっとしているしそれほどながい時間ではなかったので、意外とそれほど汗は湧かなかった。陽の勢いとじりじりした質感は、いうまでもなくすでに夏。きょうも最高気温はたぶん三〇度くらいなのではないか。さいきんはホトトギスが深夜だけでなく日中にも頻繁に、朗々と、盛んに、ためらいなく使命のようにして鳴きまくっている。
  • 記述が現在時に追いつくと四時半くらいだったはず。そこからベッドにあおむけになり、目を閉じて休息。五時で市内のチャイムとともに起きて、上階へ。アイロンかけ。なぜかわからないが、暑気のためなのか、めちゃくちゃ疲れているかんじがあった。それで母親がなんであれことばを発しているのを聞くだけでもいくらか不快になるようなありさま。きょう会ったのは(……)ちゃんの妹さんではなく、(……)ちゃん本人だったらしい。妹さんが過干渉で、ひとりでいるのが不安で(……)ちゃんの家によく来て、おばあちゃん(というのはたぶん姉妹の母親のことだとおもうのだが)の悪口を言ったり、(……)ちゃんがどこに行くにも拘束しようとする、とかいうはなし。この(……)ちゃんというひとも精神的に調子が悪くて鬱症状かなにかをもうけっこうながくわずらっているのだが、妹がそういうふうにあれこれ干渉してくることもあっておおきなストレスをかんじているらしく、病気とも合わさって四キロ痩せたという。母親は、スリムになってうらやましいよ、とか受けたらしいのだが、この人間はほんとうに、他人の心情をおもんぱかってことばに気をつけるということを知らないあさはかな愚物だなとおもった。年々脳が溶けていっているかのように、愚かな言動が目についてきているような気がする。(……)ちゃんは、でも病気で痩せたんだからぜんぜんよくないよと嘆いたと。
  • なぜかクソ疲れていたので、アイロンかけを終えると、公園で食べたモスバーガーがあまっているということでもあったので、食事の支度をすまないがまかせることにして、部屋に帰ってまたベッドに寝転がった。あおむけになって両手のひらをひろげたかたちで腕をからだの脇に伸ばして置き、目を閉じて、死体を模すようにしてほとんどぴくりともうごかずにからだをやすめ、擬似的な死を通過することで生を活性化させようとこころみたのだが、甲斐あって三〇分ほどやすむと心身がだいぶまとまって、あたまもからだもすっきりし、復活した感があった。回復するまえは、希死念慮までは行かないが、マジで生きるのが面倒臭いしすべてどうでもよいからさっさとこの世からおさらばしたい、みたいな倦怠が支配的だったのだが、心身がまとまればそういうニヒリズムもおのずとかくれる。
  • 音読。「ことば」の1と2。1はもう暗唱できる。2も石原吉郎の文で、「確認されない死のなかで――強制収容所における一人の死」の冒頭。人間は死においてひとりひとりその名を呼ばれなければならないものなのだ、とかたっている箇所。
  • 六時半で食事へ。先日台所に大量にあった赤紫蘇はそのへんに生えていたのを採ってきたのかとおもっていたが、買ってきたものだったらしい。梅の実とあわせてカリカリ梅をつくるためのものだと。ハンバーガーほかで食事。ものを口にはこび、手のうごきをとめて咀嚼しつつ、夕刊の文字を追うことをくりかえす。朝刊でモスクワの裁判所がナワリヌイ派の団体を三つ過激派組織に認定するか否か審理されているところだとつたえられていたが、その結果が出て、認定されたと。米国は大いに批判。しかしこれでロシアの反体制運動、というか反プーチン運動はたぶんほぼ死んだということになるのではないか。ロシアもそんな調子だし、中国や香港もそんな調子だし、タイやミャンマーもそんな調子だし。一面にはもうひとつ、米国がファイザーから五億回分のワクチンを購入して、一〇〇か国以上の国に提供する方針だと。COVAXというしくみをつうじて分配するのではないかとのこと。バイデンがとなえる国際協調路線への復帰を印象づけるねらいだと述べられていた。ひらいて三面にも米国関連の話題があって、まず、バイデンは就任後初外遊でいまイギリスにいるらしいが、ボリス・ジョンソンとのあいだで新大西洋憲章なるものをむすぼうと合意したと。いわゆる権威主義諸国にたいして民主主義国の結束をつよめようという目論見の一環だろうが、そういう構図にくわえて、「大西洋憲章」などという一九四一年の用語が反復されると、まるで大戦前夜だなという錯覚がたたないでもない。四一年だとじっさいには二次大戦はもうはじまっていたわけだが。検索してみると大西洋憲章が発表されたのは八月一四日らしいので、独ソ戦がはじまってもうすぐ二か月のころあいであり、太平洋戦争に突入する四か月ほどまえにあたる。
  • 一一日からG7の会合がはじまるといい、そこでバイデンとプーチンがはじめて首脳会談する予定らしい。ほか、ドナルド・トランプ大統領令TikTokとか微信とかの使用を禁じて、たしかTikTokの米法人を追い出すみたいな動きもあった気がするが、バイデンがその大統領令を撤回すると。しかし、「敵国」である中国のアプリを利用することのリスクやその対策をあらためて調査しなおして対応を決めると。
  • いま八時まえ。(……)さんのブログの六月九日分。冒頭の引用(國分功一郎/熊谷晋一郎『〈責任〉の生成——中動態と当事者研究』)から。

 さらに、自分に見えていないものの存在を信じられるためには他者が必要であるという議論を展開するとき、ドゥルーズが考えているのは外界の知覚だけではありません。自己もまたこの他者構造によって成立していると言うのです。というのも、一秒前の自分、一時間前の自分、一週間前の自分、一か月前の自分、一年前の自分……、そうした自分はもうここにはいません。私には見えません。でも、その存在していない自分が今の自分と同一であると思えなければ、そこから自己というものが成立してこない。つまり、自己が成立するためには、今ここに見えていないものを存在しているものとして扱う想像力の力が必要であり、その想像力の生成のためには他者が必要だというわけです。言い換えれば、他者という資源を失う無人島状況では、自己自体も崩壊していくことになる。

  • ほか、「『複眼人』(呉明益/小栗山智・訳)を読了した。最後の最後まで全然おもしろくなかった。なんでこんなもんが世界中で絶賛されとんねん。ほんまに世界文学っちゅうのは低レベルやな。クソくだらん。そりゃだれもムージル読まんわ」とあって、けなしっぷりにわらうのだが、この呉明益というなまえを検索してみると、台湾のひとで、白水社の「エクス・リブリス」から出ている『歩道橋の魔術師』の作者であり、これちょっと気になっていたのに、とおもった。くだんの『複眼人』のAmazonページには、「こんな小説は読んだことがない。かつて一度も」というル=グウィンの称賛が引かれているのだけれど、まあル=グウィンだって言ってしまえばやはりエンタメ寄りのひとだろうし、出版もKADOKAWAから出ているあたりまあねえ、とならないではない。
  • ブログ後、日記。記述が現在時においつくといま八時四四分。それにしてもマジでクソ暑い。この時間になっても、腕や背など肌のうえに熱が乗っているのをかんじる。夜気の涼しさもときどき散ってはいるのだが。
  • 「知識」を九時一〇分くらいまで音読してから入浴。
  • 風呂からもどってきて、2020/6/10, Wed.をいま読んでいる。つぎの一段があった。

坂道を上っていけば、木洩れ陽などむろんないのだが木叢のなかの葉っぱの一部が軽い白さを宿し放ってはいて、それはつまり雲の向こうに衰えかけた西陽の微弱な明るみが反映しているわけなのだけれど、そう言うよりはむしろ、雲そのものの色が滴ってきて染みこみ広がったような弱い白さである。途中の道脇に楓の樹が一本生えており、その若い緑の連なりはほかの樹の葉といくらか違う感覚を目にあたえて面白い。たぶん、葉の線が直線的だからだろう。もちろん厳密に直線ではないのだが、他種のものよりも丸みがすくなく比較的まっすぐな輪郭線で構成されており、葉の指のおのおのがやや尖ってぎざぎざしているそれが何枚も重なりひろがることで、全体的には不定形で密集的にまとまった明緑の色塊を作りなしていて、ほかにない鮮やかさを瞳に差しこんでくるのだ。英単語を借りるならば、crispな感じ、とかちょっと言ってみても良いのかもしれない。

  • なんだかずいぶん妙な書き方をしているというか、風景をとりあげているわりに描写という感触ではなく、やたらに分解し分析して説明しているようなかんじで、変な書き方をするなあとおもった。かんじかんがえたことをこまかくくみとりたいという志向はかんじとられる気がするが。
  • 一年前のこのころは兄にメールをおくっていて、この日に返信がとどいているが、それは六月七日が兄の誕生日だったからなのだ。ことしはかんぜんにわすれていた。すこしもおもいつかなかった。
  • 熊野純彦レヴィナス――移ろいゆくものへの視線』(岩波現代文庫、二〇一七年)を書抜き。きょうはかなりおちついて打鍵できた。書抜きも面倒臭いので、読んだときに書き抜こうとおもっていた箇所をあらためて読みかえし、いまの目で見てそれほどでもないとおもわれた箇所は写すのをやめようとおもったのだが、きょうの箇所はふたつともやはり写しておきたいという判断になった。一年かそこらで知見などそんなに変わらない。
  • Joshua Redman Quartet『Spirit of the Moment: Live at the Village Vanguard』をききながら休息。ディスク一の三曲目まで。冒頭の"Jig-A-Bug"はよい。Joshua Redman、Peter Martin、Chris ThomasBrian Bladeというメンツ。このバンドはどいつもこいつもうまく、ずいぶん統制されているなあという印象。九五年の録音で、Joshua Redmanは六九年の生まれだから二五歳か二六歳のときの演奏で、そうかんがえるとやはりめちゃくちゃすごい。Redmanのプレイは非常に知的というか、知的と言うとすこしちがう気がするが、隅から隅までおどろくほどにあぶなげなく制御されているかんじがあって、構築的センスとその構想を実現してしまう演奏力はべらぼうに高い。とちゅうでいくらかリズムをずらしながらブロック的なフレーズをいくつかこまかく吹いてつなげるところがあるが、それですら、フォービートの感覚から外れているのに、あいまいにやっているのではなく明晰にととのっているし、フレーズとしてもはやめなのにこともなげに、小気味良いくらいの軽快さでながれに乗っていく。機動性がすごい。ピアノのPeter Martinもうまくて、このひともこの時点で二五歳くらいなのだが、さいしょから終わりまでやはり隙なくながれるし、速弾きをしてもリズムが厳密で一音の輪郭もはっきり立っているから追いやすい。後半でモーダルな、あるいはややアウト気味の音使いになるが、それ以降のフレージングはすごく格好良い。ほかの参加作も聞くべきすばらしいピアノだ。
  • さいきんよく実感されるのは、人間生きているだけで疲れるなということで、まえまえからむろんそのことは知っていたが、さいきんはとりわけてそれが身に染みる。生とは絶え間のない疲労だ。なんであれ、なにかの行為や行動をするだけでじぶんの心身は疲労する。だからほんとうに休めるときというのはまったき意味でなにもしていないときしかなく、だからじぶんにとって瞑想が重要なのだし、道元が座禅は安楽の法だと言ったのもたぶんそういう意味もふくんでいたとおもうのだけれど、ただ瞑想だって本質的に疲労からまぬがれているわけではなく、瞑想をやればやったでそれにともなう疲れだってある。なにしろ存在しているだけで疲れるのだからしかたがない。
  • 詩の1番をほんのすこし改稿。多少足したり、行替えの箇所を変えたり。冒頭から後半まで、いちおうことばのつらなりとしてながれはできているとおもわれ、読んでみてもおおきく変えようとはおもわないのだが、それでいて良い詩かというととくにそうはかんじない。ともあれひとまず完成はさせたい。終盤からの締め方がまだわからない。
  • 四時直前に就床。

2021/6/9, Wed.

 (……)いったい、いつから、その法が法となったかを、ひとびとが忘れはててしまうことによって、法はまさに法となる( [『法律』] 七九八b)。――法は、ふるまいを二分して、正しい行為と不法な行為との境界を設定する。法の創設は、切断する暴力である。もっともひろい意味での法が、倫理の源泉であるならば、いっさいの倫理は暴力的に開始される。法は、それを制定した起源の暴力が忘却されることで法となるのだ。(……)
 (熊野純彦『西洋哲学史 古代から中世へ』(岩波書店、二〇〇六年)、96)



  • 一一時四四分の離床になってしまったので、出勤までの猶予がすくなかった。この日のことを書くこともできず、書見を多少したくらい。暑いので電車。三時まえに出てゆっくりと道をいく。陽射しが厚く、重量的で、公営住宅に接してある見捨てられたような公園では、区画の端にならんでいる木が濃緑の葉を豊富に茂らせてまとっており、それで隙間があまりなく、なかのようすがうまく見えないくらい。
  • 最寄り駅で手帳にメモ。勤務があった日の夜はやはりからだを休めながら読み物をしたほうがいいだろうという認識にたちもどっている。書き物をがんばってやろうとせず、心身をいたわってととのえることを優先したほうがたぶん長期的には良いだろうという予感。ベッドでごろごろしながらずっと文を読んでいれば良いのだ。読み物に飽きたらコンピューターで娯楽的な動画など見ていたって良い。労働後にがんばろうとしてもどうしてもからだがこごってつかれてかたいので、集中できずうまくいかない。
  • きょうはすぐに職場にいった。(……)
  • (……)
  • (……)
  • (……)
  • 退勤は一〇時。駅へ。電車を待っていると(……)があらわれる。ともに乗って、そのあとの帰路もともづれて、やつの家まで。ゴールデンウィークに千葉の蘇我であったなんとかいう音楽の野外イベントに行ったはなしや、家の横のほそい隙間で植物をそだてているといういつもの話題など。そだてているものを見せてもらい、そのあと家のまえの台にならんですわり、多少雑談して別れ。やつは植物をそだてるのみに飽き足らず、鳥小屋を設置して鳥が来るようにしようとおもっていると言うので、おまえ趣味が完全に老人のものじゃないかと笑いながらも、こちらもどちらかといえばそういう性分なので肯定したが、仕事で疲れるから家でゆっくりおちついてやるようなそういう趣味しかできないとのこと。自転車はたまに乗っているらしいが、あまり長い距離はもう走らないようだ。ずっと乗ってなくて、たまにいきなり乗って、それでからだ大丈夫なの、ときくと、やはりむかし乗り慣れていたので、意外と行けるとのこと。ガチの連中だと一日で三〇〇キロ走るようなひともいるというので、三〇〇キロってどれくらいなんだときけば、静岡まで行ってもどってくるくらいじゃないかな、と。(……)だったら二日以上かかるが、つわものたちはそれを一日で走破するらしい。ずっと走ってるわけでしょ? 彼らはそのあいだどういう気持ちなんだよ、とたずねると、走ってるとけっこうあたまが冴えるから、意外とかんがえごとしたり、あとは風景を見るのもおもしろいから、車だと風景見ようっつってもぜんぜん見れないから、とのことだった。まあこちらが歩いているときとそんなに変わらないのではないか。
  • 帰宅後、夕食前の休息中に、"The Arab world in seven charts: Are Arabs turning their backs on religion?"(2019/6/24)(https://www.bbc.com/news/world-middle-east-48703377(https://www.bbc.com/news/world-middle-east-48703377))をよみだした。いま一時で、風呂から帰ってきてまた読んでいる。表題には宗教心の件が触れられているが、ほかたとえば、A woman president or prime minister is acceptable / Husband should have the final say in all family decisionsの項目などがある。前者の割合がいちばんおおいのはレバノンで、七五パーセントに達しているが、そのレバノンでも後者にかんしてはほぼ五〇パーセントが賛同している。記事中の記述によればレバノンは地域内で比較的リベラルな国だと評価されているらしいのだけれど、homosexualityを許容できるとこたえたひとの割合は六パーセントにすぎない。同性愛のグラフとならべてHonour killings、すなわちいわゆる名誉殺人がacceptableかという問いのグラフもあるのだが、それはアルジェリアが二七パーセントでいちばんたかい。そのアルジェリアは同性愛の許容度でもトップで、二六パーセントがacceptableとこたえたらしい。この二種類の問いの数字はほぼどの国でもだいたいおなじ程度になっていて、そこにおおきな差があるのはヨルダンの、名誉殺人二一パーセント、同性愛七パーセントだけである。
  • どの国がthe greatest threatか、という問いにたいしては、総合的に見て、イスラエル、米国、イランの順位になっている。レバノンでは八割がイスラエルで、パレスチナでも六三パーセントであり、それはとうぜんだろう(パレスチナでは二四パーセントがアメリカを回答してもいる)。イエメンとイラクではイランがもっとも高くて、それぞれ三割以上を占めている(イエメンではサウジアラビアが一四パーセントをかぞえているのがほかと比べた特筆事であり、イラクでは米国も三〇パーセントの地位をあたえられている)。
  • 食事は鶏肉のソテー。うまい。丼の米に乗せて食った。
  • やはり疲労感がつよくて、横になっても書見すらなかなかできず、瞑目のうちにふくらはぎをほぐすばかり。それでもいくらか読んだ。さいごのほうは意識がけっこうあいまいだったようで、何時に寝たのかおぼえていないのだが、三時三〇分を見た記憶はあるので、四五分くらいだったと推測。しかし明かりを落とした記憶がないのだが。
  • 夕食時に、『家、ついて行ってイイですか?』をながめて、おもうところかんじるところがいくらかあったのだが、記すのが面倒臭いので省く。

2021/6/8, Tue.

 感覚に与えられているもののうちで、或るものと完全にひとしい他のものは、ひとつとして(end86)ありえない。また、感覚がとらえる世界にあっては、いっさいが移ろって変化してゆくかぎり、変わらないもの、みずからとひとしくありつづけるなにものもない。完全なひとしさ [﹅4] をひとが目にしたことは一度もない以上、ひとしさ [﹅4] ということばを、感覚をつうじて経験的に理解することは不可能であったはずなのである。
 (熊野純彦『西洋哲学史 古代から中世へ』(岩波書店、二〇〇六年)、86~87)



  • いちど九時半だかそのくらいにめざめたはず。しかし起きられず、一〇時半ごろにもういちど覚醒して、いつもどおりこめかみを揉んだり腰を揉んだり、腕を伸ばしたりなどしてから一一時に離床。クソ暑い。カーテンもたっぷりとひかりをはらんでいて、晴天らしい。水場へ。顔を洗い、口をゆすいで水を飲むと、うがい。用も足してもどり、瞑想をする。あからさまに気温がたかくてクソ暑いので、枕のうえに尻を乗せてあぐらをかきながらじっとしているだけで、しだいに背中に汗が生じてくるのがかんじられる。一五分ほどすわって上階へ。母親はテレビをみており、料理番組で、梅の酢漬けかなにかをつくる趣向だった。テーブル上には果実酒用のなんらかの液体のパックや砂糖が置かれてあり、台所にいけば採られた梅の実が桶にたくさん入れられてあったので、母親もどうも梅酒などをつくるつもりらしい。あと、赤いシソの葉がなぜか大量にあった。どこに生えているのか知らないが、これも採ってきたのだろう。洗面所で髪をとかし、食事は炒飯とキャベツの炒めもの。レンジであたためて卓へはこぶと、新聞をひらきながら食事をはじめた。一面の下部には今日は国書刊行会水声社の広告。後者のなかに、ボルヘスが激賞したとかいうカサーレスの作品があった。大西亮訳。なかのページからは、政府の有識者会議で皇位継承や女性・女系天皇について専門家らへのききとりがおこなわれているという記事をよむ。ヒアリング対象の「専門家」としてなぜか綿矢りさの名があり、綿矢りさ天皇制ほかについての「専門家」などではまったくないだろうとおもったのだが、国民や女性目線の意見をとりいれたいみたいな文言も記事中にみられたので、たぶんそういうことで選ばれたのだろう。意見を述べる専門家は二一名で、うち八名が女性。保守派はむろん女性天皇女系天皇も許容しないが、だいたいのところ、女性天皇は過去にも例があるから容認とし、女系については慎重な姿勢をしめす、という趨勢のようす。継承に関連して、戦後に皇籍を離脱した元皇族を養子縁組できるようにするべきだとか、女性宮家の創設は将来の女性・女系天皇につながりかねない、というはなしが出たらしい。
  • もうひとつ、一面に、ソウル中央地裁が元徴用工や遺族らの賠償請求をしりぞけたという記事があったのでそれも。二〇一八年に大法院すなわち最高裁で、日韓請求権協定によっても個人レベルでの賠償請求の権利は失われないという判決がくだされており、それにのっとって日本企業にたいするてつづきがすすんでいるところだが、今回の裁判は、原告八五人が日本企業一六社にたいしてひとり一〇〇〇万円弱の賠償をもとめたもの。中央地裁の判断はとうぜん大法院のそれとは逆行するもので、一九六五年の日韓請求権協定において、両国ともあいての政府や国民にたいして、賠償に関連していかなる主張もできない、みたいな文言がふくまれているらしく、それを重視したものだということだった。また、地裁判決は国際的観点からの影響にも言及しており、つまり日本政府が国際司法裁判所にうったえる可能性を想定し、もしそこで韓国が敗訴することになったら韓国司法の信頼性は致命的なまでにそこなわれる、という政治的考量も述べているという。ただ、原告側は控訴する予定のようなので、判決は覆される可能性もある。
  • テレビはそのうちに気象予報にいたる。今日、東京は三〇度を超えるまでに上がっており、今年はじめての真夏日だという。夕方から夜にかけて局地的に雷雨になるかもしれないとのこと。食器を洗うと風呂場に行って浴槽もこすり、はやばやと自室に帰った。コンピューターおよびNotionを準備して、今日のことをさっそく書きはじめる。文をしるしている途中、目を閉じながら首を曲げて伸ばしているときに、やっぱりnoteやめようと唐突におもったので、すぐさま退会しておいた。二日か三日くらいしか登録していなかった。先日に登録したときは、なぜかまたやろうかなという気分になっていたのだが、きょうはやっぱり面倒臭いし、やってもしょうがねえなというこころになったのだ。やはりじぶんの場所はひとつでよい。きょうのことをここまでしるせばいまは一二時五〇分。労働のために三時ぴったりには出なければならない。徒歩ならもうすこし遅くてもよいのだが、さすがにこの暑気とあかるさのなかを歩いていく気には、きょうはならない。電車を取る。しかしそうするとはやすぎて、時間がかなりあまるのだが、待つのは得意である。きょうの勤務は最後までなので、帰宅はまた一〇時半か一一時くらいにはなるだろうから、そうするとあまりなにをやる時間もない。疲労も濃いだろうし。
  • それからきのうの日記をすすめたが、一時をまわったあたりで切りとした。外出前に脚をほぐしたかったためである。そういうわけでベッドにうつってあおむけになり、三宅誰男『双生』をよむ。ややねむいような、あたまが晴れきっていないような感覚があった。おりおり本を置いてやすみ、胎児のポーズなどをやったりただ瞑目でとまったりしてリフレッシュする。
  • 二時ごろからにわかにくもってきていた。しかし空気にこもった熱はそのままで溜まって散っておらず、なおかつ雨の気配もある。出勤まえには台所で、立ったままちいさな豆腐をひとつだけ食べた。
  • 出るまえに「ことば」の1番の石原吉郎の文を音読するが、たぶんこれはもうほぼ暗唱できるとおもう。そろそろつぎにいってもよい。
  • 出るころにはやはりもう雨が来ていた。しかし最寄り駅につくころにははやくもやんでいる。のち、勤務中にも盛った時期があり、そのときには雷の音も鳴っていた。(……)さんの自転車が雨ざらしになってしまったので、スリッパ履きのまま外に出て軒下にはこんであげたが、そのみじかい時間でもそこそこ濡れてシャツにおおきな粒の染みができる。
  • (……)についたのが三時過ぎで、この日は職場を開ける役目だったのだが、すぐに行くとさすがにはやすぎるのでベンチについて手帳にすこしメモ書きしたりしていた。「停電の夜を惜しんで笑むきみを盗み聞きするその脈拍を」という一首を作成。こちらのすわっているまわりをハクセキレイがちょこちょこうごきまわっており、その足のはこびの、いかにも小鳥らしいすばやさこまかさといったらなく、ながくあるくときはほとんど回転しているように見える。ハクセキレイなどと呼ばれているわりに、けっこうからだに黒の色のわりあいがおおい。じきに女子高生の一団がやってきてわいわいしていたので、それを機にたちあがって職場へ。というか、ふつうに職場にもうはやく行ってしまって、なかでメモするなり目を閉じて休んでいるなりすればよかったのではないか。べつにはやく開けたってバレないわけだし。
  • (……)
  • (……)
  • (……)
  • (……)
  • それで退勤は一〇時半ごろ。電車で帰り、夜は三宅誰男『双生』をよみすすめたり、日記を書いたり。

2021/6/7, Mon.

 難問は、ソクラテスがさらに鋳なおすことで、一見して完全ないき止まりを示すものとなる。「人間は、じぶんが知っているものも、知らないものも、探究することができない。第一に、知っているものを探究することはありえない。知っているかぎり、探究する必要はないからである。また、知らないものを探究することもありえない。その場合には、なにを探究すべきかも知られていないからである」( [『メノン』] 八〇e)。よく知られている、「探究のアポリア」である。
 なにかを探しているとき、ひとはなにかを知らないと同時に、べつのなにかを知っている。鋏を探しもとめるとき、ひとは、鋏がどこに [﹅3] あるのかは知らないが、鋏とはどのようなものであるかは知っており、鋏は部屋のどこかに [﹅4] あることは知っている。知っていることと知らないこととが、探究をなりたたせる。完全な不知は、探究そのものを不可能にするはずである。
 たましいの輪廻を前提するいわゆる想起(アナムネーシス)説が語りだされるのは、この文脈にあってのことである。不死なるたましいは、すでに遍歴をかさねて、ありとあるものごとを(end84)見知っている。たましいは顕在的なかたちでは、なおなにも知っていない [﹅6] 。けれどもたましいは、潜在的にはすべてを知っている [﹅5] はずである。この、不知と知のはざまで、探究がなりたつことになる。
 学ぶとは、したがって、想起することである。ソクラテスは、そこで、教育を受けていない(ただしギリシア語を解し、図形と大小の観念をもつ)召使いの少年に、ただ質問するだけで幾何学の定理を証明させてみせる。――なにごとかについて、知識が獲得されるとき、それはなにかとして [﹅6] 知られることになる。論理的に、或るものがそれとして [﹅3] 知られる、当のなにか [﹅3] は、或るものがそれ [﹅2] として知られるまえに、あらかじめ知られていたのでなければならない。知ることと想いだすことの両者は、そのかぎりで、たしかにおなじなりたちをしている。
 (熊野純彦『西洋哲学史 古代から中世へ』(岩波書店、二〇〇六年)、84~85)



  • 一一時ごろ覚醒。きょうは各所を揉むのではなく、ストレッチに転換し、臥位のまま腕をのばしたり、手首を曲げたり、足首を前後というか上下というかにそれぞれ曲げてちからを入れ、脚の筋をのばしたりした。一一時二〇分に起床。水場に行ってきて、顔をあらい、口をゆすぐとともにトイレで放尿し、もどると瞑想。きのうストレッチをしたので脚が楽。静止のかんじはきょうもよろしい。だいぶおちついている。瞑想のとりくみがあらたなフェイズにはいってきたような気がする。時間が充実して詰まるようになってきた。きのうのかんじからして、たぶんこれくらいで二〇分だなとおもったあたりで目をあけるとやはりそう。一一時二八分から四九分くらいまでだった。
  • 上階へいき、母親にあいさつして、仏間の簞笥から出したジャージを履く。洗面所で髪をとかし、うがいを念入りに。食事はきのうのキムチ鍋をもちいたおじや。新聞からはドナルド・トランプノースカロライナだったかどこかで退任後はじめて演説し、活動を再開したとの報。共和党員はあいかわらずトランプ支持がおおく、世論調査では六六パーセントが、ドナルド・トランプに忠誠を誓うことが重要だとおもう、という回答をしているらしい。「忠誠を誓う」などという封建的な文言ではなかった気もするが。トランプは演説で、今次の大統領選は不正だったとの言をくりかえしたという。また、急進左派がアメリカを破壊しようとしている、愛国者たちの力を結集して防がなければならない、とも言ったらしく、いつもどおりの言動だが、「アメリカを破壊」するというのは具体的にどういう意味なのか? TwitterFacebookも凍結されているので(ブログも閉じたとか二、三日まえの新聞に載っていたきがするが)、手軽に民衆にうったえる発信力の面では苦しい、みたいな評価が記事中でなされていた。
  • ロシアでは過激派や反体制派とみなされた人間を選挙に立候補できなくする法律が成立しただか成立すると。ようするに主にはナワリヌイ派のちからを削ぐためのものである。あと、ブルキナファソイスラーム過激派が村を襲って一三九人を無差別に殺したというちいさな記事もでていたが、これはまだ中身をよく読んではいない。ロシアの記事もあまり仔細に読んでいない。
  • 読んでいると、洗面所で身支度をしていた母親が、あのあと転んで、手を骨折したんだって、などと声を飛ばしてくるのだが、誰について言っているのかわからないし、「あのあと」というのもなんのことなのかわからない。日本人にかんして、古典の文章なども傍証とされながら、ひとびとのあいだの類同性がつよい社会なので主語や主要情報を明示しなくとも暗黙の了解ではなしがつうじる、といわれることが非常におおく、それはある程度そうなのだろうし、これもその一例なのかもしれないが、このときの母親の言動はより個人的なレベルのもののような気がする。つまり、どうしても、母親には他者がいないのだよな、というふうにかんじてしまう。他人もじぶんとおおかたおなじことをかんじたりかんがえたり承知したりしているということが、基本的な前提とされているようにみえる、と。家庭内だからそうなのであって、外だとまた違うのかもしれないが。誰というのは兄だとすぐにわかったのだが、「あのあと」というのは、きのう、兄が会社でソフトボールの試合に出たということを聞いたのだけれど、そのあと、ということだった。と言って、それがソフトボールの試合中に転んで折ったのか、試合を終えたのちにどこかで転んだのかは不明で、そこまで聞いてはいない。ふだん運動しないんだから、大丈夫かなとおもったんだよね、片手折っちゃあ不便だよね、パソコンやったりするのもたいへんそうだって、とのこと。
  • テーブル上を拭き、食器を流しにはこんであらって、そのあと風呂洗い。浴室にはいるまえに洗面所で屈伸。このころには父親が室内にはいってきていた。風呂をこすって洗う。窓の外はいくらかの明るみが敷かれているが、あからさまな晴れというかんじでもない。済ませて出るとポットに水を足しておき、沸騰させているあいだに自室にもどってコンピューターを準備。LINEをのぞくと(……)からメッセージが来ていたので返信。そうしてNotionも支度して上がり、茶を用意。このときテレビは、どこかのメロン栽培農家を映していた。さきほどのときはNHK連続テレビ小説で、このドラマは気仙沼が舞台らしい。なんか少女が牡蠣の養殖をこころざして自宅の一室を研究室みたいに改造して、昼飯に呼ばれてもあとで食べるとこたえて熱心にとりくんでいる、みたいな場面だった。茶葉がひらくのを待つあいだは屈伸をしたり、ソファを片手でつかみながら前後に開脚して筋をのばしたり。そうして茶をもって帰室すると、きのうのことをさっそくつづって投稿、そのままきょうのこともここまでしるせば二時過ぎである。勤勉でよろしい。勤勉さはいついかなるときでもつねにすばらしい。やはり人間、じぶんのおもいさだめたことにたいしては勤勉でなければ。怠惰は怠惰でそれもすばらしいが。
  • 二時にいたったので洗濯物をとりこみにいった。父親はソファで寝ており、スマートフォンからラジオがながれだしている。ベランダにつづく戸をあけると外はさきほど同様、陽の色が多少あって、ながれる空気はやわらかく、涼しげなにおいをはらんだような質感。吊るされてあったものを室内に入れ、父親が寝ているソファの背でタオルほかをたたむあいだ、ながれているラジオをちょっと聞いたが、父親はだいたいいつもTBSラジオを聞いているようなので、おそらくこの番組もそうだっただろう。「ユウジ」というひとと「ユウスケ」というひとがゲストのようで、年若にもかかわらずラジオが好きでかなりたくさん聞いている、というようなはなしがされており、「ユウスケ」はわからないが「ユウジ」というのは「ユージ」と表記するあのひと、彫りがすこし深くてはっきりした顔立ちをしているあのひとかなとおもったものの、その後を聞くにどうも違うようだった。パーソナリティの声にも聞き覚えがあって、誰だったかなと思っているうちに、カンニング竹山ではないかと思いあたった。はなしを追うに、ゲストのひとは番組のスポンサーになった会社のひとで、もともとラジオが好きで息を吸っては吐くように聞いているので、ラジオ番組と協力して何かできないかとおもいご相談させていただいた、というはなしのように理解されたが、正確かどうかわからない。たたんだものを洗面所にはこんでおき、自室に帰る。英語の授業の予習をしておかなければ。
  • それで職場からコピーしてもってきてあった教材の英文を読む。三時でかたづく。それからアントナン・アルトー/多田智満子訳の『ヘリオガバルス または戴冠せるアナーキスト』をよんだ。いつもどおりベッドであおむけになり、膝でもって脹脛を刺激したり、また踵でもって臑のまえの側を揉んだりしながら。アルトーが彼のかんがえる「アナーキー」ということばの意味を簡潔明確に定義しているところがあったので、あとで引いておきたいが、いまは出勤まえで余裕がないのでのちほど。ほか、この小説では性的秩序、すなわち男女間の対立だったり優劣だったりが通底するテーマになっているとおもうが、それにふれた部分を多少追いなおしておいたので、それも余裕のあるときに引くだけ引くかもしれない(つい「小説」と書いてしまったが、この作品が小説と言って良いものなのかどうかはいまいちわからないのだった)。
  • アルトーが「アナーキー」を明確に定義している箇所というのは66ページのことで、そこでは、ヘリオガバルスがはぐくんだ一神論について、「そして私がアナーキーと呼ぶのはこの一神論を指している。すなわち、事物の気まぐれと多様性とを認めぬ全体の統一をアナーキーと私は呼ぶのである」と言われている(「事物の気まぐれと多様性とを認めぬ全体の統一」なんていうフレーズは、政治体制としてはまさしく全体主義にふさわしい定式ではないか)。これは一般的な「アナーキー」の意味とはむしろ逆であるようにおもうのだが。アナーキーとかアナーキズムというのは無政府的な無秩序状態を指す語のはずで、だからふつう、中央集権的な統一権力の不在とそこにおけるごちゃまぜの乱脈混沌を意味することばのはず。しかしここでは、「アナーキー」の語は、「統一」とむすびついている。うえの定義のひとつまえの段落では、「ヘリオガバルスは早くから統一についての意識を持っていた」とのべられ、その「統一」が「唯一なるものの観念」と呼び替えられてもいるし、うえの定義の直後の段落は、「事物の深い統一の感覚をもつことは、とりも直さずアナーキーの感覚、事物を還元しそれを統一に導いてゆくためになされる努力の感覚をもつことである」とはじまっている。それにつづけてまた、「統一の感覚をもつ者は、事物の多様性の感覚、つまり、事物を還元し破壊するために通らなければならぬ微細な無数の相の感覚をそなえている」(66~67)とも説明されているから、多様きわまる諸事物を「統一」的に「還元」するには、そもそもそれいぜんの「無数の相」の「気まぐれ」な混沌を知り、「感覚」していなければならないわけだ。ここを読むかぎりでは、アルトーの言う「アナーキー」とは、「全体の統一」状態そのものというよりは、諸事物が「統一」へと「還元」されてゆくときの「破壊」的な過程のことを指しているようにもおもわれる。「アナーキーの感覚」が、事物を「統一に導いてゆくためになされる努力の感覚」といいかえられている点も、おなじように理解できる気がする。
  • 三時四〇分ごろまで読み、それから柔軟した。やはりストレッチを毎日するべきだ。ひさしぶりにベッド上でおこなう四種、すなわち、合蹠、前屈、胎児のポーズとコブラのポーズをそれぞれ二回ずつやって筋肉を伸ばした。コツもまえまえから認識していたとおり、あまり意図的に伸ばそうとせず、ある程度適した姿勢をとったらそのまま停止して勝手に筋がやわらぐのを待つ、というかんじだ。だから座位でなくポーズを取って瞑想しているのとおなじ。そうして四時にいたると出勤前にものを腹に入れるために上階へ。父親はどこかへ出かけたようだった。キムチ風味のおじやが余っていたので、鍋にのこっていたそれをすべて丼にはらって電子レンジへ。鍋はいちどゆすいでから洗剤を垂らし、水道水をシャワー型にして落とし、泡で漬けておく。食べ物を持って帰室すると以下。
  • いま四時二〇分。キムチ鍋風味のおじやののこりをもってきて食べながら、一年前の日記をよみかえした。冒頭からなかなか考察をぶっている。とはいえ目新しい内容ではなくまあなじみの話題だなとおもったのだが、第一段落の、「存在しないはずのそうした「断絶」を一抹どうにかして表現できないのだろうか」あたりからちょっとおもしろくなってきて、その後も特にすごいことは言っていないものの、いきおいみたいなもの、もしくは多少の凝縮みたいなものが文章にかんじられて、意外とけっこうおもしろかった。要約すれば「人事を尽くして天命を待つ」の内実、というだけのはなしだが、いろいろ例を引いてきてつなげているので、多少の比喩的ないろどりがある。

一〇時過ぎに起床した。起きた瞬間からなぜかギターが弾きたかったので、今日は上階に行くよりも先に、隣室で楽器をいじった。例によって似非ブルースや、適当な即興演奏もする。やはり即興と言うか、「即興演奏」などと言えるほどきちんとしたものではないのだが、なんか適当に弾いているときが一番音楽そのものをよく感じられるような気がする。こちらが即興的なことをやっているときはもちろん一緒に音を合わせる相手もいないし、また何か明確な形を持った楽曲をやろうというのでもないから、コードやスケールの限定もない。とは言えむろん、それをある程度はベースにせざるを得ないわけだけれど、それでもそういう規定なしの条件下(もしくは無条件下)で音を出すというのは、(コードやスケールといった理論などの)外部的な観点から見た場合の失敗がないということだ。つまり、どの音の次にどの音を弾いてもまったく構わないということで、音楽は――と言ってしまって良いのかわからないが――、楽器を弾いたり音を発したりするということは、本来はそういうものなのだと思う。「本来」なんていう言葉を使うと途端に胡散臭くなってくるのだけれど、こちらが言いたいのはすなわち、何の音の次に何の音を弾いたとしてもそれは連鎖として繋がってしまうということで、もしそれが繋がらないように聞こえるとしたら、それはなんか人間の感性的な性質とか理論的な知識とか、あとはいままで聞いてきた音楽から得られた慣例的なイメージに拘束されているからであり、つまりは「文化」に〈汚染〉されているからにほかならず(「感性的な性質」に関しては、「文化」なのか脳(など)が本来持っているものなのか微妙でよくわからないが)、それを取り払って考えればある音の次にある音を弾いてはいけないなどということはまったくない(もちろん、そういう種類の演奏が文化的構築物としての「音楽」に認定されるかどうかは別の話だけれど、現代音楽やフリージャズの試みを見る限りでは、ある程度は認められている)。こういう話は、先日の日記にも書いたと思うが、たとえばこちらの脳内言語領域や小説作品などにおいて、あることを考えて(書いて)その次にまたあることを考えれば(書けば)ともかくも繋がりが生まれてしまうということと同じ話題だろう。何かと何かがただありさえすれば、人間の認識上、そこには常に関係が(意味が)成り立ってしまうということで、もちろんそのなかには通常の観点からすると繋がっていないと感じられる連鎖もあるわけだけれど、これもたびたび記しているように、断絶とは関係の一形式である。そういう関係形態はたとえば「並列」という言葉で捉えられ、無関係なものがただ並んでいるだけだという風に見なされる。たとえば古井由吉なんかはこの「並列」の論理をうまく利用している作家のような気がするが、その話はいまは措き、上の道筋に沿って考えれば、本来的な(純粋な)「断絶」なる事態は人間の認識としてはこの世に存在しないのではないか、という発想に容易に繋がっていくはずだ。これと同趣旨のこともいままで何度も書きつけているけれど、ただそこで今度はしかし、存在しないはずのそうした「断絶」を一抹どうにかして表現できないのだろうかという疑問と言うか、もしそれを表現できたらすごいことなのではないかという考えが湧いてきて、音楽というものが目指すラディカルな形のひとつとしてそういう試みがあっても良いのではないかと思ったのだが、それはあるいは現代音楽のほうでもうやられているのかもしれない。こうした発想は文学の方面で言えば、言葉を連ねることによって「沈黙」を表現する、という逆説的な命題として言われていることとだいたい同じなのだと思う。「沈黙」という言葉はたとえば石原吉郎なんかによく付与されるし、石原自身もそんなようなことを言っていた気がするけれど、こちら自身は石原吉郎の詩作品において明瞭に「沈黙」を感受したり観察したりできたことはまだない。

「断絶」を表現する試みの一環と見なせるかどうか、よく知らないのだけれど現代音楽の方面では音楽の外部にある何か偶発的な要素を取り入れるために、数的理論の類を応用したり、フィールドレコーディング的なことをやったりという実験があったと思う。ただこちらがこの朝にギターを弾いていて思ったのは、「断絶」の話とはちょっとずれてくるが、一応無条件的と理解されていて「失敗」がないはずのこちらの即興遊びにも「失敗」と感じられる瞬間、すなわち、あ、ミスったわと思う瞬間は明確にあるということで、それは要するに、この音を弾こうと思っていたのにまちがえて別の音を弾いてしまった、みたいなときである。言い換えればこちらの「意図」が成立しなかった瞬間ということなのだが、まずはこちらの精神におけるこの「意図」の表象形式をもうすこし詳細に述べておきたい。こちらはギターを弾いているときには基本的に目をつぶっていて、脳内に浮かぶフレットの配置及びその上の指のポジションを指示する抽象図式的なイメージの変化に従って手を動かしている。もうすこし平たく言えば、あるコードを弾いたときに、そのコードを構成する三つや四つの音のポジションが脳内のフレット図の上に複数の点としてイメージされるということで、その次にまた別のコードのポジションがいくつかの点として浮かんでくるので、まあじゃあそっちに動いてみるか、みたいな感じで手を操ってそのコードを弾く、という感じなのだ。もちろん現実にはこのイメージの推移に従わないことや瞬間的にうまく従えないこともあるし、イメージではなくて手の動きが先行することも往々にしてあり、実際のところイメージと手指とどちらが先でどちらがどちらに従ってんの? ということは絶えず複雑に入れ替わっていて、現実の事態としてそこに優劣はないと思うのだが、仮にひとつの場合を考えると上のようなプロセスになる。本当はさらにそこにメロディ的表象、つまりは旋律のイメージも重なってきて、こういうメロディが浮かんだからそっちに行ってみようと動くこともあるわけなので本来の事態はさらに複雑なのだが、いまはこの旋律的要素は除外して考える。で、こういったことを基礎としたとき、本当はこのポジションをイメージしていたのだけれどまちがえて人差し指をひとつ隣のフレットに置いて鳴らしてしまった、というようなことがときに生じるのだ。これは理論や規則という外部的観点から見た失敗ではなく、こちらの「意図」という方面から見たときの内的なミスである。ただ、こちら自身はあ、ミスったわと思うのだけれど、こちらの即興的お遊びには理論的限定はないのだから、実際のところそれは別にミスではなく、別にその音を弾いても良かったわけだし、隣の音を弾いてもほかの音を弾いても良かったわけだ。どちらにせよ即興的演奏としては成立することになる。そのように考えてきたときに、ここには演者の主体的「意図」という観点から見てひとつの偶発性が生じていると理解されるはずで、要するにミスというものは(少なくとも理論的制約を取り払った音楽場においては)自分自身が拘束されている定型から逃れるための偶然の契機になると思ったのだった。

上のようなことを考えるとともに思い出したのが深町純がむかし言っていたことである。深町純というのはたとえばBrecker Brothersなんかとも共演していたフュージョン方面の鍵盤奏者なのだが、大学のときに取った「美とは何か」みたいなテーマの授業の教師がなぜか深町純と知り合いで(ちなみにいま検索エンジンを駆使して突きとめたところでは、この講義は「感性への問いの現在」というものだったようで、講師は志岐幸子という人だった)、ある日の授業で彼が招かれて即興演奏をしたことがあったのだ。その即興演奏というのは、生徒をひとりだったか複数人だったか選んで適当に音を弾いてもらい、たとえば「ド・レ・ミ・ソ」みたいな簡易な単位のメロディをひとつ作り、それをベースに据えて通奏的モチーフとしながらさまざまに変奏するみたいな形式だったのだけれど、その授業のあとに講義室の外で深町純とちょっと立ち話をする機会があったのだ。なんか突っ立って暇そうにしていたので声を掛けてとても良かったですみたいなことを伝えたもので、陰鬱な内向性に満ち満ちていた大学時代のこちらからするとずいぶん積極的な振舞いに出たものだと思うのだが、そこで二、三、話を聞いたときに、コードとかスケールとかは全然考えないということを彼は言っていて、いまから考えれば、そんなことを言ったってコードやらスケールやらを一旦知った人間がそれを「全然考えない」などということは端的に無理であり、それは自転車の乗り方を身につけた人間にとって自転車を下手くそに運転するのがかえって至難であるのと似たようなことだと思うけれど、だがそれはともかくとして今回重要なのはそのあとに述べられたもうひとつの言葉のほうで、深町は、ミスをしなくてはいけない、みたいなことを言っていたのだ。「しなくてはいけない」とまで断言していたかどうかちょっと自信がないけれど、要するに、ミスをしないということは挑戦をしていないということだ、という意味の言葉を彼は述べていたのだ。それは確実である。で、この言葉のおそらくより正しい意味が、今朝の音楽的お遊びのなかでこちらには理解されたという話で、つまりミスというものはひとつの偶発性であり、それは新たな音の連ね方を発見し、みずからが拘束されている枠を破り、そこから逸脱して自分がそれまで想像していなかったような新たな方向に進むためのきっかけ(第一歩)になるということだ。

こうした発想を、たとえば科学の方面で言われる「セレンディピティ」という概念や、またたとえば、ほったゆみ・原作/小畑健・漫画『ヒカルの碁』の後半に描かれていた進藤ヒカルの碁のスタイルと繋げて考えることは容易である。進藤ヒカルの碁の特徴は、試合の中途で一見悪手としか見えないような一手を打つことから始まる。その一手は、周囲で観戦している誰にもその根拠が理解できないような、天才的な碁の才能を持ったライバルである塔矢アキラにさえもその意図や理路がわからないような、完全にミスとしか思えない一手である。ところが、明らかに失敗だと思われたその一手(まさしく死に手)が試合の後半に至るとどういうわけか息を吹き返し、進藤ヒカルの勝利に繋がる枢要な支柱として機能しはじめるのだ。漫画の現場そのものにおいてどのように描かれていたのか覚えていないので以下は作品にきちんと拠らずにこちらの文脈に引き寄せた想像にすぎないが、おそらく進藤ヒカルは上のような展開をあらかじめ見通していたわけではない。彼は時空を超える神の目を持っていたわけではない。彼が「悪手」を打ったとき、なぜ自分がその手を打ったのか、その理由はおそらく彼自身にも理解されていない。上述した即興演奏の場合とはちょっとずれるかもしれないが、これは理論的意図や根拠にもとづいていないという点で、こちらの言う「ミス」と類同的なものだと考えられる。この「ミス」は、それが盤上に放たれた時点ではまったく無意味だった。あるいはむしろ、余計なものですらあった。そこに積極的な意味はなく、あるとすればそれはマイナスの意味だけだった。ところが試合展開の変容によって、すなわちその一手を包みこむ周辺の環境や文脈の変化によって、この「悪手」に潜在的にはらまれていながら誰にも見えなかった意味がまざまざと現前する。ということは、進藤ヒカルはみずからの「ミス」を、その後の展開によって意味づけし直し、新たに機能させ、生まれ変わらせたということだ。

これと同じようなことが即興演奏についても言えるはずである。つまり、「ミス」は発生する。そして何よりも、「ミス」は発生しなくてはならない。しかし、その「ミス」を起点としてほの見えた新たな経路に踏み入っていくことで、人はそこに新しい道筋を形成し、「ミス」をまったく予想されなかった意味合いを持つものへと変換することができるのだ。これがおそらく「即興」という言葉が意味する事態のひとつの内実であり、また「セレンディピティ」と呼ばれる科学的発見のプロセスの具体的な描写であるはずだ。そして、人間がもし「神の一手」に束の間触れることがありうるとしたら、それはきっとこのような形でしかありえないのではないか。人間はみずからの「意図」によって「神の一手」に至ることはできない。どれだけ完璧に「意図」を制御したとしても、人間にできることはたかだか人間にできるだけのことでしかない。もし人が「神の一手」に触れることがありうるとしたら、それにはおそらく偶然性の介在が不可欠だろうということだ。それは「偶然性」である以上、人間の「意図」によって引き起こすことはできない。人間はただ、おのずからそれが起こるのを待つほかはない。もちろんそれは必ず起こるとは限らないのだから、ここで人は完璧に受動的な立場に置かれる。しかし、もしたまさか「偶然性」が発生した場合に、人はそれを捉えて新たなる方向へ身を広げていくことができる。とは言え当然、それがうまくいくとは限らないし、むしろ失敗することのほうが通例だろう。それに、「偶然性」の介在が不可欠だからと言って、人は何もせずにそれをただ待ち呆けていれば良いということでもない。ここで言う「偶然性」とは、どれだけ完璧に「意図」をコントロールできたとしてもどうしてもそこから漏れてしまう余剰的なしずくのようなものなのだから、それを受け取り、掴んで、引き受けるためには、前段階としてまずは「意図」をできる限り制御し実現するという試みが必要である。そのような真摯な「努力」がまず下地にありながらも、しかしどこかで不可避的に「偶然性」が発生してしまう。そこで人間は、それを己の統御下に組み入れながら、と言うか正確にはそれに導かれるようにしながら新たな「制御」の形を開発していかなければならないということだ。ゴドーは来るかもしれないし、来ないかもしれない。あるいはゴドーはすでにここにいるのかもしれない。しかし、もし何かがやってきたときにそれがゴドーだとわかるためには、あるいはいま目の前にいるものがゴドーだったと気づくためには、それにふさわしい行為の積み重ねが必要なのだ。そのような営みの追究を絶えず継続しながら、人は同時に、来るかもしれないし来ないかもしれないものを待ち続けなければならない。これが正しく倫理的な姿勢であり、なおかつすぐれて政治的な態度ではないのだろうか? 「神の一手」ばかりでなく、そもそも「進歩」とか「発展」とかいう事態が、もしかすると原理的にこのような形でしかありえないのではないかという気もしてくるのだが、いままで述べてきたことをもっとも通有的な言葉に要約するなら、「人事を尽くして天命を待つ」という定式表現になるだろう。さらに以上の内容は、「絶対精神」とかいうものに至らんとするヘーゲルのいわゆる弁証法的道筋の図式とも多少重なってくるようにも思うのだが、しかしそう考えると途端に退屈なことになってしまう。

  • 「英語」の音読をやっている。本格的にはじめたのは去年のこのくらいではなかったか? George Floyd死亡事件をうけて、ミネアポリスの議会が警官の首圧迫を禁止する議案を可決している。
  • 日記の読み返しをおえるとうえに行って食器を洗った。そういえばおじやを用意するまえに、米を磨いだのだった。三合半。そのとき、米の保存してある戸棚のなか、米袋の置いてある最下部の床に、古い制汗剤ペーパーのたぐいを発見して取っておいたのだが、食器を洗ったあとにそれを一枚取ってみると、なかば予想していたけれどもうほぼ乾ききっていて使い物にならず、しかたがないので東の窓辺に置かれてあったウェットティッシュをつかってからだを拭いた。そろそろ気温が高いので、茶なんて飲んでいると汗もかくし、しらないうちに腋が汗臭くなっていることがある。そうして下階にかえるとワイシャツにスラックスにネクタイにベストの格好にきがえた。いや、そうではない。きがえるまえに、四時四五分から五時直前まで瞑想をしたのだった。出勤前に瞑想をできたのはよろしい。起床時と日中と寝るまえで、一日三回できればよいのではないか。このときも窓のそとで鳥が鳴いていたが、なかに、ヒューイ、ヒューイ、ヒューイ、みたいな、一セット三回から六回の発声で定期的に鳴きを立てる勤勉な鳥がいて、それを聞いているととちゅうで音の高さが変わってもっと高くなったのだが、あれは個体が変わったのか、それとも求愛度を高めたのか。そもそも求愛で鳴いていたわけではないかもしれないが。
  • 瞑想のあと仕事着にきがえて出発へ。玄関をぬけてポストをみると、新聞などのほかに、薄い黄土色というか、あのよくある封筒色の小包みがはいっていて、なんだこれとおもっておもてを見ればBCCKSとあったので、(……)さんの『双生』が来たのだとわかった。それで新聞ほかは玄関のなかに入れておいたが、小包みは持っていくことにしてバッグに入れ、道へ。林縁の石段のうえで白い蝶がうろついている。すすめば(……)さんの宅の横にある梅の木の下でも、このあいだみたのとおなじ色の、淡い翡翠色みたいなかすかな白緑の蝶が、しかし死にかけなのかアスファルトの地面にとまって翅を閉じ、一枚となって、生えたようにじっとしていた。公営住宅まえをとおりながら棟のほうをみおろせば、建物の角というか壁に接した隅のところにアジサイが群れて咲きはじめており、色は赤紫にあいまいな白など。坂道におれるとマスクを口からはずしてのぼっていく。頭上の枝葉から下がって空中に、微小な毛虫だかなんだかのたぐいが吊られていることがあった。それを避けつついって、駅前までくるとマスクをもどし、駅舎内へ。ベンチにつくと小包みを出して、鋏をむろん持っていないが下部が剝がせるようになっていたので開封し、ビニールの袋から本を取り出してカバーの紙もはずし、表紙をちょっとながめてからひらいた。しかしそのころにはもう電車がやってきていたので、さいしょの文のさいしょのほうを読んだのみで仕舞って乗車。座席で目をつぶって待ち、降りると職場へ。
  • (……)
  • (……)
  • (……)
  • 退勤は一〇時半ごろ。帰路は電車を取った。帰るまでのあいだに特段の印象はない。帰宅して部屋にもどり、仕事着を脱いで楽なかっこうになったあとは、ベッドにころがり、(……)さんの『双生』をよむことに。アルトーはいちじ中断して、こちらを先に読む。冒頭から例の修飾豊富な息の長い文になっているが、「かつての目のくらむような輝きもすっかり色褪せて白く抜け落ちてしまった髪をひとつの美しい諦めのかたちにたばねた妻」は不思議でないとしても、そのつぎの、「いまだその端々にたどたどしさのわずかに残る発語もあるいは単なる老いの仕業でしかないのかもしれぬ口元」は、ふつうこんなふうに言わないだろうとおもった。「(あるいは)~かもしれぬ」が長い情報付与の末尾に置かれて名詞にながれこんでいる点のことで、(……)さん以外の作家だったら十中八九、これは名詞一語に修飾させるのではなく、述部として提示する内容のようにおもう。こういう書き方はその後も非常にたくさん出てきて、それについては余裕があったらこの翌日の記事にまた書こうとおもうが、本来なら述部的な動きのある情報をながながしい修飾として用い、膨張的なうごめきを展開させたあとにそれを名詞一語に集束させて、ホッチキスでとめるようにきゅっと閉じる、というのが、三宅誰男の文体における主要なダイナミズムのひとつではないかとおもう。ある種迂回的に円を描いては締めながらすすむというか、膨らませた風船の口を紐でむすぶようなかんじというか。
  • 食事にあがったのはもう零時ちかかったはず。夕食時や入浴時のこととしておぼえていることとてもはやない。風呂を出たあとはこの日のことを記述できた。労働をこなしてきたあとなのに、勤勉なことではある。二時になるまえだったかそのあとか、気力が途切れていったん瞑想に休んだ。しかしそのまま復活できずダウンしてしまい、ようするに臥位になっていくらかまどろんでしまい、三時からウェブにくりだしたのち、寝るまえにまた瞑想をした。だからこの日は四度も静止したわけで、それはまあ悪くはない。消灯したあとにストレッチもすこしだけおこなって、四時五分に就床。

2021/6/6, Sun.

 イデアという語は、「見る」という意味の動詞、イデインに由来する。イデアとは、だから文字どおりには「見られるもの」であり、もののすがたやかたちのことである。だがプラトンの語るイデアは、目で見られるものではない。もののすがたや、かたちにかかわるにしても、見られるものではない。すがたやかたちそれ自体 [﹅4] は、見られるものではないからである。(end79)
 コインをさまざまな方向から観察してみる。かたちがいろいろと変化する。それではコインそのもののかたち [﹅3] とは、どのようなものだろうか。真円が、そうだろうか。だが真円は、たんに真上から見られたすがたであるにすぎない。無数に可能な視点の、そのひとつから見られたかたちにすぎないのである。かりにコインそのもの [﹅4] のかたちが存在するとすれば、それを記述するのは、楕円のすべてがそこからみちびかれる一箇の方程式であることだろう。かたちは目で辿られる。だがコインそれ自体 [﹅4] のかたち(モルフェー)は、目には見えない [﹅4] 。
 (熊野純彦『西洋哲学史 古代から中世へ』(岩波書店、二〇〇六年)、79~80)



  • 一一時台に起床。水場へ行ってきてからもどり、今日は瞑想せず、しばらくだらだらしながらふくらはぎを膝でほぐす。(……)
  • それで一二時をすぎて上階へ。食事は天麩羅ののこりなど。テレビは『のど自慢』。新聞の書評面の入り口では、阿部公彦レイモンド・カーヴァーの『大聖堂』を紹介していた。カーヴァーの小説は地味で激しい展開はまったくないが、ものごとの非常に微妙な機微をすくいあげてあつかっており、『大聖堂』はある夫婦が妻の友人の盲目の男性を自宅にまねくはなしで、この男性と妻はむかし仲が良かったようなので夫としてはおもしろくないし、視覚障害者にたいする接し方もわからずさいしょはぎこちない関係になってしまうのだが、ほんのちょっとしたきっかけで状況が変わっていく、それを描いてみせるさまが見事だと。さいごではテレビに映った大聖堂を見ることができない男性は、夫に絵に描いてくれないかとたのみ、その絵のうえに手を乗せて見えないものをかんじとろうとする、みたいな展開になるらしく、この紹介だけきくとクソおもしろそうだとおもう。カーヴァーはそうとうむかし、たぶん読み書きをはじめて文学にふれだすまえだったのではないかとおもうが、『頼むから静かにしてくれ』だったかを読んだことがある。「でぶ」というみじかいやつが冒頭にはいった本だった。とうじはやはりわからず、あまりおもしろいとはおもわなかったはずで、なんか変なはなしだなあ、くらいにかんじたおぼえがある。
  • 今日の天気はくもり。新聞からはもうひとつ、ロシア特派員だか支局長だかのみじかいエッセイ風の記事をよんだ。「メモリアル」といって、ソ連時代の抑圧の歴史とか、そこで人権のために活動したひとびとの記録をのこしてつたえようという団体があるらしいのだが、その団体がアンドレイ・サハロフ特別展をひらいたものの、場所がまったく目立たないような狭いアパートの一室だかで、プーチンのもとではこういう展示をおおっぴらにやることもできないと。サハロフというひとは七五年だかにノーベル平和賞をもらった物理学者で、サハロフ賞というものもあったはず。ハンナ・アーレントが受賞していなかったか? 記憶違いかもしれないが。プーチンは外国から資金提供されたり、外国の影響を受けている団体をスパイ組織として指定できる法律をつくったらしく、この「メモリアル」もそれでスパイ組織認定されているとのこと。
  • 食後は食器洗いと風呂洗い。茶を持って帰室。(……)
  • (……)ちゃんの家にこどもの友人らがきているのか、にぎやかな声がきこえていた。それで五時過ぎ。あがって、アイロンかけをする。テレビは『笑点』。ロッチがコントをやっていた。まあまあ。眼鏡をかけていて髪がながくもじゃもじゃしているほうのひとについて、母親は、なんかあのひと、ふつうにいたらちょっとキモいよね、と言っていた。わざわざそれを口に出さなくていいとおもうのだが。
  • アイロンかけをすませると部屋に帰り、きのうの記事をほんのすこしだけ書き足して投稿。そして、日記の一部だけまたnoteにあげてみるかという気になったので、登録した。私生活の詳細ではなく、天気か風景の記述だけ投稿するアカウントにするかと。まえにはてなブログでもやっていたことだが。六月がはじまったばかりなのでどうせなら六月のさいしょからにするかというわけで一日をよみかえしたが、この日は特にまとまった天気の文がなかったので、二日から。休日は外に出ないのでそういうたぐいの記述はない。今回は毎日あげなくてもよいとおもっているので、それらしい文が書けた日だけでよい。noteもコメントを書けないように設定できるとおもっていたのだが、そうできるのはpro版だけのようで、投稿時にコメント欄閉鎖を選択できなかったので残念。プロフィールには「きょうのてんきなど。」としるしておいた。
  • そのあとだったかそのまえだったかわすれたが、瞑想をおこなった。かなり充実した印象。なんというか、時間が密集的に凝縮して、途切れ目が生まれない。窓外ではもう暮れ方なのに鳥がたくさん、かしましく鳴いている。なにもせずにじっとすわっていればじきに、なんというか心身内部がかるくなめらかになってきて、空洞のような質感になる。かなり座ったつもりでいたのだが、ところが目をひらくとやはり二〇分も経っていなくて、マジかとおもった。三〇分座ったつもりだったのだが。あと、この日はおりおりに、両手を組んで腕を後方や前方にのばしたり、背伸びをしたり、上体を左右にひねったままそのへんをつかんでとまったり、ストレッチ的なことをやる時間をおおくとったのだけれど、そうするとからだがちがうので、やっぱりこれもやらなければ駄目だなとおもった。マッサージとストレッチはどうやら相補的なものなので、どちらかだけでなくて両方やらないといけない。
  • それで七時ごろに夕食へ。キムチ風味のスープや煮物など。さいしょのうちは、つまり母親が食膳を用意して炬燵テーブルの父親の横につくまでは、テレビはニュースを映しており、ミャンマーでひきつづく苦境や抗議デモをうけて日本に来たサッカーかなにかの選手が、大会の開会式だったか試合のときに、国軍への抗議を意味する三本指を立てる仕草をおこなった、という話題などをつたえていた。この三本指を立てるサインは、たしかもともとタイでやっていたものではなかったか。食事を口にはこんで咀嚼しながら新聞もまた読む。一面から二面にかけてあったジョセフ・ナイの寄稿をまず。米中間対立で怖いのは、双方があいてとおのれのちからを正確に把握せず過小か過大に評価して、それで恐怖感から葛藤がエスカレートすることだというはなし。トゥキュディデスがペロポネソス戦争の原因を、アテネの台頭にたいしてスパルタが恐怖や危機感をおぼえたことに帰しているらしいのだが、ナイは冒頭それを紹介し、現在の米中対立についてもこの見解に沿ってかんがえる識者がいるが、しかし米国と中国は経済的な相互依存が強いので、いまのところはまだ、熱戦はもちろん、冷戦の段階にもいたりはしないだろう、と述べる。そのあと、中国はたしかに相当に拡大してきているが、まださまざまな面で米国が優っている分野もある、という趣旨の説明がつづく。中国は、貿易相手としては米国の人気を上回って、米国を世界最大の貿易相手としている国はいま五七であるのに対して中国は一〇〇を超えているが(例の「一帯一路」の一環で、諸外国への金銭的支援も相当にやっているらしい)、経済規模はまだそれでもアメリカの三分の二くらいだと。また軍事力も、米国のほうが四倍高いという推定もあるという。推定とされていたのは、たぶん中国が正確な防衛費や軍事力のデータを公開していないからだろう。具体的なはなし、いまの中国ではたとえば西太平洋からアメリカを追い出すことは決してできない。さらに文化的なソフトパワーの面ではとうぜんアメリカのほうが優勢だし、学術面でかんがえても、大学の学問的業績ランキングみたいなものの上位には中国ははいっておらず、アメリカの大学が大部分を占めている。そういうわけで、中国の拡張や台頭にせよアメリカの衰退にせよ、米国側はあまり恐れすぎずに冷静に把握して、軽々な行動を取らないようにしなければならない、というようなはなし。危惧されるのは中国側の民族主義的な動向の高まりだとも言っていた。
  • あと一面の、外国から大きな影響力を受けている留学生や日本人研究者にたいしては、軍事転用可能な技術情報の利用を許可制にする方針、という記事をよんだ。もともと外国人にたいしてそういう情報を提供するのはいまも許可制らしいのだが、外国人でも日本で働いていたりすると「居住者」というくくりになり、居住者にたいする提供は問題ないとされているので、そこが抜け道になりかねないということらしく、外国人も日本人もまとめて情報流出の可能性があるばあいは規制すると。外国から大きな影響力を受けているというのをどういう基準で判断・認定するのかがまた難問になりそうだが、中国の例の「千人計画」というやつを警戒しなければならないというわけだろう。
  • 食器を洗って部屋へ。食後だったか食前だったかわすれたが、(……)さんのブログの最新記事をよんだ。冒頭の引用(國分功一郎/熊谷晋一郎『〈責任〉の生成——中動態と当事者研究』 p.270-277)からメモしておきたいとおもったのは以下のぶぶん。

 私は、「痛みから始める当事者研究」のなかで、非常に単純化して言えば、退屈になる理由、じっとしていられないということの理由は、過去のトラウマが原因なのではないか、と書きました。
 かつてコナトゥスを乱され、踏みにじられた記憶が大きければ大きいほど、人は簡単にそれを忘れたり慣れたりすることができない。多かれ少なかれ、コナトゥスを乱される記憶は、私たちのなかにたくさんあります。いわば私たちは傷だらけなのです。そして乱された記憶が傷として残る。その疼きを取りたくて人は新たな傷を求めてしまうのでないか。
 私はまた、同じ論文のなかで、さまざまな根拠を挙げながら、過去のトラウマ的な記憶を消すためには、今ここで新たにトラウマになるような傷を自分が自分に与えるのが一番だと述べています。例えば、自傷というかたちで出ることも、依存症のようなアディクションのかたちで出ることもあるかもしれない。いずれにしても、パスカル風に言えば、興奮させるような、覚醒度を上げさせるような何かで過去の痛みの記憶を沈静化させることが合理的である、そんな場面というのがあるかもしれない、と。

     *

 熊谷さんは以前、僕の浪費と消費の区別を、「インプット」と「アウトプット」という言い方で説明してくれました。浪費しているときには、食べながら味わい、その味をインプットできている。ところが、過食の場合は、確かに食べ物を飲み込んではいるんだけれど、そこに起こっていることはインプットというよりアウトプットであり、何かを食物にぶつけている。しかも内臓で起こっていることの受け取りも遮断しているので、自己の状態もモニターできなくなっている。
熊谷 そうなんです。私は自分の過食を思い出しながら、消費と浪費の違いはなんだろうと考えました。例えば、食べ物が目の前にあって、それをちゃんと味わっているときはうまく食べられるわけです。ところが、過食としてむやみに食べているときは、食べ物から情報をまったく受け取っていない感じがする。むしろ、エネルギーを食べ物にぶつけているような感覚があります。食べることがインプットではなく、スポーツするときのようなアウトプット重視の行為になっているときに、食べるのが止まらなくなるのではないか。

  • 八時二〇分ごろから音読。Carole King『Music』をながした。「ことば」で1番の石原吉郎の文をあいかわらず読み、そのあと「知識」のほう。順番はまっすぐでなかったが、1から6まで触れることになった。「知識」のほうはそんなに何度も何度も読まなくとも、その記述にふくまれた枢要な情報はとうぜんインストールできる。いままでは一項目につき二回と決めてすすめ、きちんと記憶することをかんがえず触れたときにあらためておもいだせばいいやとおもってやっていたが、おぼえるまで反復して読むやりかたに変えてみると、こういう方法のほうがこちらに向いていたような気がする。大学受験の勉強のときもそうだったのだ。どんどんすすんでいって周回するのではなく、範囲をみじかめに区切ってなるべくきちんとおぼえながらいく、というやりかただった。英語の単語は『システム英単語』をつかっていたが、ページのうえにやった日付をメモして、一週間経ったらもういちど学習する、みたいなかんじで、触れる間隔を管理していたくらいだ。いまおもえば、あのときから何度も口に出して読んで力技でたたきこむ、というやりかたを習得していれば、もっと楽だった気がする。
  • 九時で切って部屋を抜け、トイレで柔らかめの糞を腸から追い出したのち、入浴へ。暑い。気温が高いということもあるが、音読のさいちゅうにダンベルを持っていたからだろう。さいきんはマッサージのほうに傾斜していて音読中も各所の肉を揉んでいることがおおかったが、やはりダンベルを持つのもよい。風呂のなかではたわしでからだをていねいによくこすった。かなり念入りにやったといえる。それなので肌がそうとうにすっきりした。出るとカルピスを一杯つくり、裸の上半身に黒い肌着をかけ、片手にはコップを持って階段をくだり、寝室にさがっている母親に風呂を出たことを知らせにいった。部屋はおおかた暗くなっており、母親はややうとうとして休んでいたようだ。はいるまえから気配を聞きつけて、出た? ときいてくるので、肯定し、お先に、と言ってじぶんの部屋に移動する。LINEをのぞくと(……)が、今日の九時くらいから通話できるかと呼びかけていたが、時間もすぎていたし、今日は欠席させてもらうことに。(……)それからきょうのことを冒頭からここまでしるすと、いまちょうど日付が変わるところにいたっている。書いているうちとちゅうから指のうごきがおちついてきて、だいぶゆっくり書く感覚になったのだが、そういうふうに、これくらいのスピード感でつづったのはひさしぶりのこととおもう。
  • 預言者がくれたこの世の真理など昼寝のなかでわすれてしまえ」という一首をつくった。
  • 「祭壇の火にたくされた妄想を来世のきみにはこぶ盗賊」という一首もつくった。
  • アントナン・アルトー/多田智満子訳『ヘリオガバルス または戴冠せるアナーキスト』(白水社、一九七七年)をよみながら休息。ヘリオガバルスまわりの事項の推移と、町や神殿の説明がかわるがわるかたられるのだが、あいかわらずなにをしたいのか、なにをかたりたいのかあまりよくわからないようなかんじ。わりあいとしてはむしろ後者のほうがおおいようで、神殿の祭儀や内部の事物についてなどややくわしくかたられるのだが、それが物語的主軸と有機的にむすびついているかというと、そうともみえない。いちおう背景をなしているのはそうなのだろうが、語り方が無造作というか、一行あけをはさんで断章的にすすんでいくのだけれど、それらをうまく統一的につなげてひとつの世界を表象しようというよりは、説明するような文章。だからやはりエッセイ的というか、物語の語り手としての語りというより、書き手としての語り方という印象。アルトーの関心は、いまのところでは、ヘリオガバルスよりも、むしろ神殿まわりのことがらとか、太陽神信仰の原理とか、それとむすびついているようだが、シリアやローマという世界における性的秩序などにより濃くむけられているようにみえる。たぶん、ヘリオガバルス当人やその事績をかたろうというよりは、ヘリオガバルスをとおしてなにかをみようとしている作品なのではないか。
  • 52のさいしょにある、「戦争が去ったあとには詩が立還ってくる」というフレーズがちょっとよかった。あと59の二行目に「宇宙車輪」という語がでてくるが、これはなんなのか。はじめてみる語の結合の気がするが。「まわすと宇宙車輪の響きを発しながら放射状の地下道を通りぬける蝶番の軋み」という一節のなか。ここは太陽神にささげられる「日に四度の聖餐」についての記述のいちぶ。
  • 書見は一時をまわったあたりまでだったか。なので、わりとみじかい。そんなにすすんではいない。(……)

2021/6/5, Sat.

私のほうが、この男よりは知恵がある(ソフォーテロス)。この男も私も、おそらく善美のことがらはなにも知らないらしいけれど、この男は知らないのになにか知っているように思っている。私は知らないので、そのとおり知らないと思っている。(『弁明』二一d)

 伝統的には、「無知の知」と呼ばれてきたことがらである。プラトン研究者たちが指摘するように、けれども、この言いかたはソクラテスの真意を、おそらくは枉 [ま] げてしまうものだろう。ソクラテスは「知らないと思って [﹅3] いる」と語ったのであって、「知らないことを知って [﹅3] いる」と言ったのではない。プラトンもまたそうつたえてはいない。プラトンはむしろべつの対話篇(end69)で、「知らないことがらについては、知らないと知ることが可能であるか」という問いを立て(『カルミデス』一六七b)、否定的に答えている。視覚が色彩を感覚するものであるなら、視覚についての視覚とは、なんについての感覚でありうるだろうか。ほかならぬ視覚でありながら、色を見ずに、たんにさまざまな視覚そのものを見る視覚などありえない。知の知は、たやすく難問(アポリア)を抱えこむ。無知の知も同様である。「知らないので、そのとおりに知らないと思っている」という、プラトンがつたえるソクラテスの発言は、なにか特別な自己知 [﹅] の主張ではないように思われる。「知ある無知 docta ignorantia」を説く者とソクラテスをかさねあわせることは、クザーヌスそのひとの発言にもかかわらず、不可能なのである。
 この件は、そうとうに決定的な、ことの消息とかかわっているものだろう。無知の知という知のかたちをみとめるならば、ソクラテスはやはり「知者」(ソフォス)であることになるからだ。知者であるのは、たとえばプロタゴラスであって、それを自称する者たちこそがソフィストであった。ソクラテスは知者ではない [﹅2] 。あくまで「知を愛し、もとめる者」(フィロ・ソフォス)である。この一点で、同時代人の目にはソフィストそのものと映っていたであろうソクラテスが、ソフィストから区別される。ソクラテスソフィストではない。だから [﹅3] 、ソフォス(知者 [﹅2])でもない。フィロソフォス(哲学者 [﹅3])なのである。
 (熊野純彦『西洋哲学史 古代から中世へ』(岩波書店、二〇〇六年)、69~70)



  • 六時にアラームをうけてつつがなく覚醒。むしろそのまえにもいちどさめていた記憶がある。いったん寝床にもどるとこめかみをもんだりふくらはぎをほぐしたりしたが、二度寝におちいることなく、六時一五分すぎに無事離床できた。洗面所へ。母親もおきており、トイレにはいっている。顔をあらったりうがいをしたり水を飲んだりして部屋にもどり、瞑想。Queenの"Don't Stop Me Now"があたまのなかにながれていた。それをきいたり、浮かんでくる歌詞の意味をあらためて確認したり。窓外には鳥声がむろんある。基本的にヒヨドリがピヨピヨ鳴くのがベースで、それにカラスが二匹くらい、そう大きくもなく、まだねむたいような漫然とした声音でざらつきをさしこみ、ウグイスがときおり錐揉み状に、もしくは花火みたいにひゅるひゅるやっているのだが、さらにもう一種、ほかの鳥声のなかにあってじぶんのペースをくずさずにほぼ一定の間隔で鳴くやつがいる。なんの鳥かしれず、鳴き声のかんじも言語化しづらいのだが(鳥の声はだいたいどれも言語化しづらいが)、鳥というより夏の夜に鳴いている虫の鈍い羽音をおもわせるようでもある。
  • 目をひらくと二〇分少々経っていて、六時四三分。上階へ。洗面所で髪をとかす。母親は今日、四時までらしい。こちらはたぶん三時すぎくらいに家に帰り着くのではないか。昼飯は職場で食わず、帰ったらカップ麺を食うと言っておく。焼き豚があるというのでそれを卵と焼いて、米にのせて食事。炊飯器の米はなくなった。ほか、キュウリに味噌を添えたものと、インスタントの味噌汁。新聞を外に取りにいくのが面倒臭いので、ニュースをみる。ワクチン接種について、六五歳以上で一回目の接種をおえたのが一八パーセントほど、二回目までおえているひとだとその一〇分の一で一. 七パーセントくらいらしい。すすみはおそい印象。二一日から職場や大学でも接種できるようにする目標とのこと。東京はきのうの新規感染者が四〇〇何十人とかで、いっときにくらべれば減っているが、なかなか数百人規模を脱せないなというかんじで、都のほうでもなかなか数値が下がらず高い水準で推移している、という認識を発しているもよう。沖縄でも感染拡大しているようで、役所の局長が、このままだと医療崩壊におちいるその瀬戸際の危機にいる、みたいな発表をしたらしい。いわゆる「コロナ疲れ」をかんじるかという調査にたいしてかんじるとこたえるひとがおおいというデータも出ていたが、こちらは「コロナ疲れ」というほどのことはとくにかんじない。コロナウイルスだろうがなんだろうが基本的に生活がかわらないので。
  • 食器をあらって帰室。コンピューターを点けてNotionを準備し、さっそくここまでつづった。じつに勤勉。いまは七時半をすぎたところ。母親が出るときに同乗させてもらう予定で、八時二五分に出発するらしい。きょうの勤務はテスト監督で、九時からなのでどうにかなるだろう。監督といってもだいたいタイマーを管理してはじまりと終わりを画すのと、とちゅうでたまにあと何分です、というくらいのものだし、きょう受けにくる生徒もすくなさそうなので、楽なしごとだ。あいまにやることがたいしてなさそうだから、コンピューターをもっていってきのうの日記を書けばよかろうとかんがえている。ついに職場で内職ができるくらいのポジションにいたった。
  • 「知識」の1番と4、5番を音読したのがきがえたあとだったか否かわからないが、出発までにそれをやった。たぶんきがえたあとだった。先に歯をみがいてベストすがたになり、八時一〇分あたりまでよんだところで余裕をもってうえにあがったはず。便所にいって腹をかるくする時間もほしかったので。それで排便したあと、もう風呂をあらってしまい、そうして出発。きのう職場から借りてきた傘をもって家のまえへ。天気はくもり。また雨になる予感がないでもなかった。道の脇に立って母親が車を出すのを待ち、助手席に乗って出発。さすがにいくらかねむいようだった。睡眠としては四時間も取っていないのでとうぜんのこと。ラジオからはなにか女性ボーカルがながれていて、Nightwishか? などとおもったのだがそんなはずがないだろう。そもそもNightwishをきいたことなどほとんどないし。だが、そういう、ゴシックメタルといえばよいのか、それを連想させるような、ゴシックメタルからメタルをとったようなかんじの曲調と歌い方の音楽だった。職場のすぐそばでおろしてもらったのだが、このとき雨がはじまっていた。面倒臭いので傘はひらかず、すぐそこの裏口にいって開錠。なかにはいって勤務へ。
  • (……)
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  • (……)退勤。三時半ごろだった。さすがに疲労感。なにしろねむりがすくないし、駅内の通路をいきながら計算すると、八時半ごろから三時半までだから七時間も職場にとどまっていたわけで、あきらかに働きすぎだなとおもった。ホームに移り、ベンチについて瞑目しながら休む。そこそこ眠気めいたものが兆す。意識を失いはしないものの、多少あたまが前後に揺れるかんじはある。電車内でも同様に休んで、最寄り駅につくと降り、暑いのでマスクを顎のほうにずらして呼吸のための穴を露出させ、帰路につく。坂道をくだると、十字路からみて右方の先にある近間の家で木を切っているようなかんじの音が立っていた。家までの道をいくあいだ、あらためてまわりをみればどこもじつに色濃く充実した緑に満たされていて、道に沿って林がつづいているわけだけれど、その青々とした緑色の斉一性のなかにあるほかの色といって、柑橘類の実の黄色と、あと正面奥で林縁に混ざっている竹の葉の、いくらか黄みの混ざって褪せたような中間色くらいしかない。正面にひかえている林壁もあらためてみあげればずいぶん高くかんじられ、道をいくあいだ風がおりおりながれて暮れ方にむかう初夏の気が曇天ながらさわやかだったが、自宅のまえまで来るとまた風が走って、それが林のてっぺんをゆらしゆらし葉擦れをしゃらしゃらおとしてきて耳と肌によい。
  • 帰るとアルコールで手とマスクを消毒し、マスクはすぐに捨て、洗面所で手を洗いうがいをしていると車が帰ってきた音がきこえ、母親にしてははやいから父親かとおもって洗面所からでたあと玄関への戸をあけるとやはりそうだった。出かけるのときくので、いま帰ってきたところだとうけて下階におりる。服を脱ぎ、ほんとうは横になって休んだほうが良かったのだろうが、書き忘れていたけれど最寄り駅でコーラを買っており、コンピューターをまえにしながら二八〇ミリのそれを空っぽの腹に飲んで水気と砂糖を補給したのですぐには横になれない。母親がまもなく帰宅し、寿司を買ってくるかと言っていたとおり買ってきてくれたので、食事はもうそれでよいというわけで、クソ腹が減ったからすぐに食べるといいながらもすぐには食べず、部屋にもどってきのうの記事を書いた。Queenの音楽を就寝前にきいた際のことを綴って仕上げ、投稿。そのあとギターをいじったはず。隣室にはいってしばらく遊んだが、まあ駄目。大した弾きぶりではない。散漫。うまく弾こうなどという不相応な野心はすてたほうがよいのだが、あまりかたなしでも、どうも。楽器にたいしてこころづかいをできていない。愚かさとはそのことだ。いたわりといつくしみをもたないのが愚劣さということだ。
  • そうして食事へ。寿司があったのに母親はくわえて天麩羅を揚げたらしい。ゴーヤが悪くなっていたから、という。父親はなんの役目かしらないが、どこかの会合にいっているようす。ものを食う。イタリアンパセリとかいうものを揚げたといって、どうかときかれたが、目をつぶって味に意識をむけてみても、あまりパセリらしい風味をかんじず、ただの葉っぱというか、むしろただの天麩羅、というかんじだった。菜っ葉というより、天麩羅の味。寿司はむろんうまいが、先日ほどのあざやかさをかんじなかったのは、やはりコーラを飲んでしまったので血糖値が上がっていたためではないか。新聞の朝刊をきょうは読んでいなかったが、みれば天安門事件から三二年で香港では厳戒、との報。七〇〇〇人の警官だか治安員だかが動員されたとあったはず。ヴィクトリア広場は、完全にではなかったかもしれないが、封鎖され、毎年追悼集会を主催していた団体の副代表が、SNS上で、みなに見えるところで個人的に灯をともそうと発したのが、無許可集会の煽動にあたるとして、公安条例違反で逮捕だか拘束だかされたらしい。そういう状況下でも、治安部隊員と対峙して、例の、国家安全維持法違反だと認定されている、我らの時代の革命だ、というスローガンを叫ぶ一団のひとびともあったというし、当局がやはりあたりを監視して通行人が立ち止まらないように管理するなか、キリスト教教会のいくつかでは追悼のミサが挙行されたという。
  • 英文をよんでいるとちゅうから疲労感と眠気が限界にたっしかけていたので、さすがに休もうとベッドに身投げし、しばらく目を閉じてあいまいな仮眠。八時四〇分くらいまで。八時くらいからだったとおもうので、三〇分か四〇分くらいしか意識をおとしていなかったとおもうのだが、それでもだいぶ回復する。風呂は父親が入っていた。母親に先にはいるかどうするかききにいくと、先にはいるというので了承し、こちらは室にもどって書抜きを一箇所。熊野純彦レヴィナス本。Carole King『The Carnegie Hall Concert (1971-06-18)』をバックに。久しぶりにスツール椅子に腰掛けてやったが、書抜きを長時間やるにはやはりそうするしかない。立位でやっていると足が疲れてきてながくできないので。座っていればいるで、背がこごってくるのが難儀なのだが。
  • そのあと臥位になってアントナン・アルトー/多田智満子訳『ヘリオガバルス または戴冠せるアナーキスト』(白水社、一九七七年)をすこしだけ読み、風呂にいったのがたぶん一一時まえくらいだったか? アルトーのこの本で、いまのところ、書き抜くほどではないがよいとおもった表現は、まず25でユリア・ドムナについて言われている、「地獄よりも高い所へは決して昇らない女」というもの。「ところでドムナ、この女性はディアナでありアルテミスであり、イシュタルであるが、黒い女性的な力をあらわすプロセルピナ [訳註: 冥界の女王] でもある。大地の第三地帯の黒。地獄の化身であり、地獄よりも高い所へは決して昇らない女である」とのこと。もうひとつは、31でバッシアヌスが着ている服の、「叫び出しそうに鮮やかな黄色」という形容。
  • 風呂のなかで、「帰り道を失くした霊をともづれに月を見つめる胸のすくまで」という一首を作成。あと、多少の詩案というか、それらしき口調と内容があたまのなかにながれたが、かたちとして表出するのは面倒臭い。なんか、なぜか、高校生の乾いた無感動な鬱屈みたいな内容だったのだが。
  • かえってくると今日のことをここまで記述し、いまは一時すぎ。
  • そのあとは怠けて、特段のことはない。三時ごろにいたっておきあがり、瞑想をしてから就寝した。瞑想はねむるまえなので、やはりからだが前後にわりとぐらぐらしたおぼえがある。三時四三分ごろに消灯したはずだがあまり記憶がたしかでない。

2021/6/4, Fri.

 ソフィストとは知者であった。ソフィストの知は、時代のなかで力とむすびつく。かれらの言論における卓越が、権力を生んだのである。ソフィストは、その意味で有能な人間であり、有用な人物であった。けれども、有用さそのものはいったいなんのためにあるのだろう。そのように問いかけつづける者があったなら、その者は、どのような時代でも余計者として疎まれ、最後には憎まれることだろう。ソクラテスというひとが、おそらくはだれよりもそうであった。(end66)瀆神の罪(アセベイア)とは、ソクラテスをアナクサゴラスと混同した濡れ衣にすぎない。
 プラトンの描くソクラテスは、あるときパイドロスと散歩に出て、プラタナスの木陰でひとときの休息をとった。ソクラテスは、プラタナスを誉め、アグノスの樹を称え、泉に感嘆して、吹きすぎる風に感謝する。夏の盛りを告げる蟬たちの声、草の柔らかさ、そのひとつひとつを賞賛するソクラテスに驚きあきれて、その場所に案内した、パイドロスは言う。

驚いたひとだな、まったく。あなたのほうは、これまた申し分もなく風変わりなひとだとわかります。ほんとうにいまおっしゃったとおり、あなたは案内人に連れられ歩いている余所者みたいで、この土地の人間にも見えないのですから。(『パイドロス』二三〇c―d)

 ソクラテスは「申し分もなく」変わった人間(アトポータトス)だった。アテナイには場所をもたない(アトポス)異邦人、「余所者」(クセノス)であるかのように、アテナイのひとびとに問いかけつづけたのである。余所者であり、現実的には余計者であって、ソフィスト的な有能さの対極にある人間であったとも思われる。その顔も、言うことも「シビレエイ」にそっくりだと論敵からは言われ(『メノン』八〇a)、アテナイが眠りこまないために神が贈った「虻」であると、じぶんではいう(『ソクラテスの弁明』三〇d―e)。クサンティッペが悪妻であったのでは、(end67)たぶんない。ソクラテスが好色かつ酒好きな道楽者で、無能のひとだったのである。
 (熊野純彦『西洋哲学史 古代から中世へ』(岩波書店、二〇〇六年)、67~68)



  • さいしょにさめたとき、一一時半ごろにみえて、ながく寝てしまったとおもったのだが、意識がはっきりしてからよくみてみると一〇時台だったのでわるくない。こめかみをもんだり、腹をもんだりしてから一一時ちょうどに離床。天気はくもりで、きょうは雨になるらしい。このときもすでに降っていたのかもしれない。そうだとして、雨音が立つほどの降りではなかったが。コンピューターを点けておき、水場にいってきてから瞑想。やはり毎日停止する時間をとらなければだめだ。きょうは雨天だからか、鳥の声がすくないよう。ヒヨドリが一匹きわだっているが、ピヨピヨと張られるその声も、水気がはらまれたような質感になっている気がする。また、あれは川の音なのか遠い雨の音なのか、川に雨がおちるひびきなのか風の音なのかわからないが、空間の奥になんらかのあいまいなひびきがかかってもいる。風はときおりはしってきて家をゆらしたり、あたりの草木をざわめかせたりして、その葉擦れの音もやはり水っぽいような気がしないでもない。けっこう座ったつもりでいたが、目をあけると二〇分しか経っていなかった。体感では三〇分くらい経ったつもりだったのだが。足がしびれたので、ちょっと待ってから上階へ。
  • 麻婆豆腐などで食事。母親はまもなく勤務へ。新聞からはイスラエルの件を。やはりヤミナはリクードよりも強硬だという情報がでていた。なにしろ、西岸の入植者たちを支持基盤にしているという。とうぜん、二国家共存案も支持していない。その党首が半期であれ首相をやろうというのだから、むしろリクードのときよりパレスチナの苦境は深まるのではないか。そういうひとびととアラブ政党が連立しようというのだから、そうそううまくつづきはしないだろう。そもそもこの連立が本当に成るかもまだ不透明である。今回の野合はようするに反ネタニヤフで一致しただけのことであって、ネタニヤフを退陣させて、あとはコロナウイルスなど喫緊のことがらに対応するくらいしか大義がないわけで、だからコロナウイルスがおちついたらもうおわるんじゃないだろうか。そしてイスラエルは全世界でいちばんはやくワクチンが普及した国で、国民のあいだにはもう楽観ムードがただよっているらしく、ところによってはもうふつうにマスクをはずして平常にもどったみたいな場所もあるようなのだ。反ネタニヤフで野党が一致できたのは、今回の主要参加者がけっこうみんな過去にネタニヤフから攻撃されたという事情があるようで、スキャンダラスな情報を撒いたりして政敵を徹底的にやりこめるネタニヤフの手法が一種復讐をまねいた、みたいなところがあるらしい。ヤミナのベネット党首も過去にネタニヤフ政権の防衛大臣だったらしいのだけれど、妻がユダヤ教の戒律をまもっていないみたいな情報をばら撒かれたことがあったようだ。ラームというのはアラブ政党で、四議席持っており、アラブ系だとほかにアラブ統一会派とかいう勢力が今回の件でどちらにも属さず中立をたもっているようなのだが(たしか六議席だったか?)、ラームは、アラブ系のひとびと、すなわちパレスチナ人の生活環境をよくするには、ユダヤ勢力と取り引きするしかないということで連立参加を決断したらしく、西岸地域(だったとおもうが)のパレスチナ人の環境改善とかインフラ整備とかにたいして日本円にして一兆何千億円だったか、けっこうな額の支援をおこなう、という取り決めになっているようで、しかしこれはヤミナにしてみれば絶対に是認できないことのはず。
  • 天安門事件にかんする記事もあったはずだがよんでいない。食事をおえるとかたづけ。このころには雨がはじまっていた。しかしまだ音のたたない、染み入るような降り。風はなかなかふえていて、精霊の叫びのような音をときに立てていたし、風呂をあらいにいったときも、窓は二センチくらいしかあいていないのにそこから涼気がするすると、なめらかにすばやくながれこんできた。茶を用意して帰室。Notionを準備し、一服しながらウェブをまわると、この日のことをつづった。いま一時一〇分。きょうの労働は夜。七時まえの電車で行くだろう。明日は朝からなので、かえったら夜ふかしせずにはやめに寝ることになるはず。
  • いま五時半。書見をしたのが四時か三時半くらいまでだったか? 雨がはしった時間があって、ピーク時はそこそこ音がおおかったのだが、いま現在はやんでいて、カラスやら鳥たちがよく鳴いている。ピエール・ヴィダル=ナケ/石田靖夫訳『記憶の暗殺者たち』(人文書院、一九九五年)を読了し、その後、アントナン・アルトー/多田智満子訳『ヘリオガバルス または戴冠せるアナーキスト』(白水社、一九七七年)をよむことにして、さっそくよみはじめ、20ページかそのくらいまでよんで中断し、日記をかたづけにかかった。それで五月三一日からきのうのぶんまで一気にしあげて、溜まっていたしごとを解消することができたのでよかった。
  • 出勤前にものを食べるため、上階へ。夜は餃子でいいかと母親が言っていたので焼いておこうとおもったのだが、冷凍庫をさぐっても餃子がないし、ほかに調理して一品にできそうなめだった品もない。味噌汁はのこっており、サラダも多少あるので、餃子を焼けばいちおう膳としての体裁はととのうとおもったのだが。エネルギー補給のためにはカップ麺でも食えばよいかとおもっていたところ、冷凍庫に、先日母親が(……)ちゃんの妹さんからもらったチーズ入りのパンが保存されてあったので、それをいただくことに。レンジで一分強、加熱。ほか、キュウリを切って味噌をつけて食うことにして、小さな包丁で切り分け、皿に乗せて味噌を添える。キュウリという野菜は水いがいにほとんどなにもふくまれていないかんじがじつに好ましい。それで二皿をもって帰室し、(……)さんのブログをよみながら食事をとった。その時点でちょうど六時ごろ。それから歯をみがいたあと、瞑想。生の真実を再確認してしまったのだが、やはり瞑想の時間をなるべくとったほうがよい。あきらかに心身はおちつくし、気力もたもたれ、意識は明晰になって時間が多少減速される。瞑想をしているあいだがそうだというのではなく、その後の一日の時間の感触がそうなるのだ。このときは、窓外で、(……)ちゃんの家の女子が母親をあいてにはなしている声がきこえてきた。家のなかにいて、ことによるともう飯を食っているような雰囲気だったので、窓か扉があいていたのだろう。なにやら友だちと喧嘩でもしたのか、母親が、なんとかちゃんの家はなんとかちゃんの家でやりかたがあって、うちはうちでやりかたがあるから、でも、友だちとして言わなきゃならないことは言ったほうがいいよ、みたいな調子で、いさめるようなことを言っていた。一五分ほどすわったはず。いちおう体感にしたがって、そろそろいいかなとおもったら姿勢を解くことにしているのだが、一五分か、というかんじ。数字でみるとやはりみじかいようにかんじる。
  • 「月光とにらめっこするおれたちは夜がくるまでマスクを取れぬ」という一首をなぜかつくった。
  • そのあと、きがえて出勤路へ。雨がまた降りそうな天気ではあったが、傘はもたずに道へ。時刻は七時まえなのだが、みあげる空にはまだ青さがなく、偏差なく延べられた空白のうえに薄い煙色の雲が染みつくようにしてたくさんかかっているのみ。左に目をふって、東の果てのほうをみると低みでは多少の青が生まれはじめていないこともないが。坂道をのぼっていき、最寄り駅のホームにはいったころにはしかし、空は少々青く染まってきていた。ベンチについて電車を待ち、来ると乗って、瞑目。(……)でおりてホームをいけば、ここではすでに七時もまわって、空の青さは急激に深まり、おうじて雲も、じっさいにはその厚さが変わったわけではないだろうが暗さのなかで沸き返るような質感の影となり、どす黒いという色の言い方があるけれど、それにならって「どす青い」とでも言いたいような天の青さだった。
  • 駅をでて職場へ。(……)
  • (……)
  • (……)
  • (……)
  • (……)
  • 退出は一〇時半まえ。駅にはいって、ベンチへ。客はほぼいない。ホーム上を駅職員が行き来しているのみ。目を閉ざしてやすんでいると、まもなく電車が来たので乗り、ひきつづき瞑目に安らう。最寄り駅につくと降りて、傘をひらく。職場を出るときに雨がそこそこ降っていたので、傘立てに放置されているビニール傘をひとつ借りてきたのだった。それで雨を防ぎながら急がずあるいて駅を抜け、夜道をたどって帰宅。父親の車がまだなかったので、今日も山梨に泊まってくるらしいと知れた。
  • 家にはいると手とマスクをアルコール消毒し、さらに洗面所で手洗いうがいもする。餃子なかったじゃん、と母親にいうと、そうだね、と。自室におりて服を脱ぎ、書見。アントナン・アルトー/多田智満子訳『ヘリオガバルス または戴冠せるアナーキスト』(白水社、一九七七年)のつづき。この作品はふつうにローマ皇帝やローマ史を題材にした小説だとおもっていたのだが、そういうわけでもなく、小説的な場面描写がごくみじかくあったりもするにはするが、どちらかというとひろい意味でのエッセイにはいるものなのかもしれない。アルトーがじぶんでいろいろ文献をしらべて、ヘリオガバルスという皇帝やその周辺について考察したことを、詩的もしくは形而上学的なよくわからん記述をはさみながら披瀝していく、みたいなかんじか。だから、いま30くらいまでよんだのだけれど、古代の文献から引かれたらしい記述とかもおりおりはさまれている。多少の伝記的な推移とか人物紹介とかもないではないが、物語的な進行感にせよ描写的な言語の駆動にせよいまのところはまだ薄く、舞台や歴史や周辺事情や文化を紹介・説明して地ならしをしているようなかんじ。
  • 帰宅後、書見をしてから食事にあがっていくと、一一時半まえだったのだが、テレビで『ボヘミアン・ラプソディ』がかかっていた。もう終盤らしく、あれはたぶんWembleyのライブを模したものか、Freddie Mercury役のひとがそれらしい、つまりその時期らしい風貌をしていたが、曲は"Hammer To Fall"の最中。この映画は主役がそっくりで、歌も本物みたいで、という評判だったとおもうのだけれど、たしかに、バンド全員じっさいに演奏してその音をつかっているのだとおもうが、違和感はないし、Mercury役のひとも似ているし歌はうまい。近距離でうつるとやはりみんなすこしずつちがうのだけれど、いちばん似ていたのはたぶんJohn Deacon役ではないか。Brian Mayは遠くから見るかぎりではほぼ完全にBrian Mayだった。Mercury役のひとも、顔はともかくとしても、動きは完全にMercuryそのもの。"We Are The Champions"が演奏されるのにあわせて口ずさみながら皿をすこしずつはこんで食事を用意し、食べはじめるころには映画も終わってエンドロールになったのだが、そこでながれるのは"Don't Stop Me Now"であり(イントロのゆっくりとした部分は、歌の一節一節のあいだに原曲にはない空白がすこしはさまって、区切られながらすすむかんじになっていた)、これをエンディングにもってこられると映画本篇をみていないのにそれだけでもわりと感動的であり、うたわざるをえない。そうして映画はおわり、こちらはものをたべながら新聞にいくのだが、テレビはそのあとなんらかの歌番組をうつしていて、そこに緑黄色野菜というバンドが出ており、なまえはきいたことがありながらその音楽はここではじめて垣間見たのだけれど、こういうかんじなんだとおもった。メインストリームのJ-POPの範疇にいる印象だが、それでありながらはしばしに洒落っ気をにおわせるところがあって、このひとたちは中高生に人気だとかいわれていたから、やっぱりさいきんの若いひとたちがやる音楽ってなんか洒落たものがおおいなとおもった。ボーカルのひとが「歌うまお化け」とか呼ばれているらしく、YouTubeだかどこだかでThe First Takeとかいう一発録りシリーズがあるらしいのだけれど、そのなかでいちばんうまいとかいわれているらしい。
  • 新聞からは中国海警局の船が尖閣諸島付近にとどまりつづけており、連続一一一日だったかをかぞえて過去最長の記録とならんだという記事をよんだ。四隻いるらしい。宮古島などの漁師がそのあたりに漁をしにいくのだが、海警局の船は接続水域(沿岸から二四海里の範囲のうち、領海の外)に陣取っていて、漁船の動きをみてそれにあわせるように領海にもはいってきて、二隻つかって漁船をかこむようにするという。接触の恐怖もある、と漁師が証言していた。海上保安庁は中国のこういう動きに対応するために常時一二隻の巡視船を当該地域に専従させているといい、海上保安庁が巡視船を何隻もっていたかわすれたがたしかそんなに多くはないというはなしだった記憶があり、人材もそんなに豊かに育ってはいないといわれていたはずで、つねに一二隻をそちらに配備しなければならないというのはかなり痛手なのではないか? 中国は二月に海警局の権限を増大させる法律を成立させたばかりなのだけれど、さらにもうひとつ、海上権益の拡大を主眼とした国内法をつくりだしているらしく、習近平マジでなにかんがえてんの? というかんじではある。
  • 母親は音楽番組を変更し、瑛太北川景子が離婚してしかしその後もすったもんだするみたいなドラマをうつしていた。キャラにせよ台詞にせよいかにも漫画的で、漫画でよめばそういうものとしてそんなにどうともおもわないだろうが、それがテレビドラマになって、現実の肉体をもっている人間が演じているのをみると、つまり受肉しているもしくはさせられているのを目にすると、とたんに陳腐さとチープさがきわだってくるのはなぜなのか? 食器をあらうと入浴へ。風呂のなかでもそこそこ停まることをこころみる。瞑目でつかっているあいだ、ヴァルザーをパクった小説の案というか、そのなかの一場面があたまのなかで展開されていた。つまり脳内で書いていた、ということになるか。ほんとうに、ただヴァルザーをパクっただけの小説になる予定で、そのなかで主人公が公園にいって偶然でくわした老人とながながと対話するという場面をつくるつもりなのだが、その対話が勝手に想像された、というかんじ。双方詭弁をふんだんに濫用して互いによくわからんことをいいつづける、みたいな調子で、そういうかんじのものだったらじぶんはたぶんけっこう、というかことによるといくらでも、書ける気がする。構成とかもかんがえず、てきとうにおもいつきでいきあたりばったりでやるとおもうのだが、そういうものならじぶんでも書けそう。書き出しの声も、これでいいかどうかはべつとしても、多少きこえてはいる。気持ちがむいたらそのうちやるが、ヴァルザーを真似するだけのものなので、べつにやらなくてもよい。
  • 入浴後は茶をつくって帰室し、それでもう一二時半をすぎていたとおもうのだが、勤勉なことにこの日の日記を記述した。明日が朝からの勤務で、八時すぎには出るようなので、六時には起きたいというわけで、そうすると遅くとも二時には寝ないとさすがにきつい。しかし二時まえまで記述をつづける勤勉ぶり。いそがずおちついて、かつ楽になめらかに書けた感があったが、これはやはり瞑想をして心身がまとまっていたためである。主観的にはあきらかにそう。焦りがなくなるので。二時まえでそろそろ切るかとしまえて、歯をさっとみがいたあと、Queenを何曲かきいた。"Don't Stop Me Now"がききたかったのでまずそれを。『Jazz』にはいっているスタジオ音源。ドラムやベースの音とか、そのややもったりしたかんじのエイトビートに古い時代のロックをかんじる。なんだかんだいってもこの曲の多幸的な、ほとんど唯我独尊的なきらびやかさと、それと同時にイントロとアウトロでちょっとだけほのめく切なさの香りというのはよく、大したものだ。この曲を歌うとすると、"Two hundred degrees, that's why they call me Mr. Fahrenheit"というところが相当言いにくく、この詰め込み方なんやねんというかんじ。英語をそこそこ読んできていまだにわからないことのひとつなのだが、このdegrees, that'sみたいに、zの音とthの音が接して連続するとき、ネイティヴのひとたちはどういうふうに言っているのだろう? あと、monthsみたいなかんじでthの音でおわる単語が複数形になるときの発音のしかたもいまだにわからない。なんか、そういうときはもう「ツ」と言ってしまっていい、みたいな説をむかし聞いて以来そうしているのだが。
  • 『Live Killers』のディスク二の冒頭の"Don't Stop Me Now"もきく。ライブなのでスタジオ版よりとうぜん粗い。この曲の途中にはだいたいドラムのリズムだけになったうえで"don't stop me, don't stop me"とくりかえされる間奏部があるが、ライブだとそれがスタジオ版よりもながくなっていて、ギターも多少コードで装飾をつけており、やろうとおもえばここからお得意のロックンロールメドレーとかにいけるな、とおもった。それでそのつぎに、『Live At Wembley '86』のディスク二の序盤にはいっているそのメドレー、すなわち、"(You're So Square) Baby I Don't Care"、"Hello Mary Lou (Goodbye Heart)"、"Tutti Frutti"をきいた。これがおどろくほどによい。このときはたしかバンドがみんなステージの前の方に来て、ほぼBrian Mayのアコギだけをバックにしてみんなでうたう、みたいな趣向だったような気がするのだけれど、そういうひどくシンプルなやりかたのときにこそやはりバンドの地の力というものがありありとあらわれるもので、ギターと歌とコーラスだけでこんなによくなるかと、八六年当時のQueenというグループの円熟がきわだっているようなきがした。ここでのBrian Mayのアコギの音はあらためてきいてみると変で、これガットギターなのかな、このまえでバラードをアコギだけの伴奏でやってるし、そのながれのままなのか、ガットギターでこういう曲をジャカジャカやるっていうのもあんまりないだろうし、とかおもったのだが、一方でガットの音かというとちがうような気もされ、よくわからなかったのだが、いま検索してみたところ、これは一二弦ギターなのだ。あれが一二弦ギターの音だったのか。と書いたところで、いや、俺がみたのは"Love of My Life"の映像だから、"Baby I Don't Care"の時点ではギター変わってるんではないかとおもって検索しなおすと、やはりそうで、ここではふつうにペグが六個のギターをつかっているし、ヘッドのかたちからしてもやはりこれはガットだろう。ナイロン弦のガットでロックンロールをガシガシやるって、あまりやらないのでは? とおもうのだが。だがそれはそれとして演奏と歌はよく、こういうのができれば俺ももうそれだけで満足なんだけどなあとおもった。けっきょく、こういうむかしながらのロックンロールとか、ブルースの色合いをまだ濃くとどめた時代のロックが好きな人間なのだ。メドレーのさいごまできて、"Tutti Frutti"の終盤では、Mercuryが観客と掛け合いしているあいだにほかのメンバーはずいぶんすばやくバンドセットにもどり、Roger Taylorがスネアの連打で切りこんできてBrian Mayもエレキにもどり、尋常のバンドサウンドになるのだけれど、文句なしに格好良く、乗れる。ドラムもおりおりのフィルインはスネアを三連符でひたすら連続させるだけなのにやたら格好良いし、Brian Mayのソロもじつに伝統的な、ペンタトニックを駆け回るロックギターの格好良さ。あまりにも大げさで馬鹿げたいいかただが、西暦二〇二一年のわれわれがいまや失ってしまったものがここにはあるな、とおもった。じっさい、こういう音をいまマジで真面目にやろうというひとびとはあまりいないのではないか? やっても売れないだろうし。海外にはまだわりといるかもしれないが、日本でこれで勝負しようというバンドはないだろう。
  • さいごにディスク二の冒頭にもどって"Love of My Life"をきき、それで終了。コンピューターをおとして瞑想。二〇分ほどすわって、二時半すぎに消灯した。いつもより時間がはやいので眠気はさほどなく、いましばらく起きていたようだが、じきに就眠。寝床のなかで、多少の詩句めいたフレーズをいじりまわしていた。

2021/6/3, Thu.

 『ソフィスト』のプラトンは、虚偽や誤謬が、「在るものども」(タ・オンタ)と反対のことがらを語るものであるから、現に誤謬と虚偽とがある [﹅2] 以上は、あらぬ [﹅3] もの、なんらかの意味で「非存在が存在する」、つまり無(メー・オン)がある [﹅2] ことをみとめなければならないと論じていた(二四〇d―二四一a)。在るものは、他のさまざまなものもある [﹅2] のに応じてあらぬ [﹅3] 。或るものは、それら他なるものではない [﹅2] からである。したがって、あらぬ [﹅3] は「ではない」を意味し、差異を定立するものとなる。非存在、無とは、いっさいのある [﹅2] ものに絡みついている、「ことなりの本性」(二五八d―e)なのである。「エレアからの客人」はここで、パルメニデスの禁止に背いて、「父親殺し」(二四一d)の大罪を犯したことになる。それは、しかし新たな禁令の公布でもあった。プラトンは「ひとがそれを反駁できないかぎりでは」、これとはべつのしかたで無について騙ることはゆるされない、と宣言しているからである(二五九a)。
 (熊野純彦『西洋哲学史 古代から中世へ』(岩波書店、二〇〇六年)、55)



  • 一一時半すぎの起床となり、少々遅い。天気は曇り。上階へ。食事はきのうの牛肉ののこり。新聞はイスラエルの組閣をつたえており、夕刊でもおなじ件がでていたのでここにまとめて書いてしまうが、野党八党で連立と。ネタニヤフ派が五二議席、野党連合は六二になるみこみ。リクードは三〇議席で、野党のなかではイェシュ・アティドがたしか一七でいちばんおおいのだが、今回の連立には極右としるされてあったヤミナと「我が家イスラエル」がふくまれており、右派と左派の同床異夢というか呉越同舟というか、ごちゃごちゃしたごった煮なので、これつづくのかなあとおもう。しかもそこに「ラーム」というアラブ政党もはいっている。アラブ系政党が内閣にくわわるのはイスラエル史上はじめてのことらしい。連立内ではヤミナのベネットという党首が半期首相をつとめて、そのあとイェシュ・アティドの党首にかわるという合意ができているらしく、パレスチナにたいする姿勢ではリクードもたいがいだが、「極右」といわれているからにはヤミナも「我が家イスラエル」もたぶんその点ではリクードとかわらないか、もっと強硬なのだろうから、パレスチナにとってよいことにはたぶんならないだろう。連立協議がまとまって合意にたっし、大統領のほうに通知されたのは、組閣期限のわずか三〇分まえだったとか。しかしこの連立はまだ確定したわけではなく、一週間後だったか、国会で議決されて決まるというので、そのあいだにネタニヤフは右派と交渉してとりくずしにかかる。じっさい、左右どちらからも、イデオロギー的へだたりがおおきすぎると疑問をなげる議員がでているらしい。
  • 食後はいつもどおりの行動。帰室して茶を飲み、以下。
  • いま一時まえ。一年前の日記をよみかえしている。「道へ出れば風はさほど流れず空気は停まりがちで、六月からクールビズが許されたので今日はベストもはおらずネクタイもつけなかったが、それでも普通に蒸し暑い」とあって、六月にはいってさっそく、はやいな、とおもった。今年はまだベストも脱いでいないし、ネクタイもつけている。
  • 「(……)そこを過ぎて階段通路に入れば、見上げた空の雲蓋のなかに太陽が、わずかばかり赤味を帯びた姿で、あるいは漂白された橙色のおもむきで、ぼんやり溶けて映っている。ホームに下りてベンチに座るとここでは風が横向きに、すなわち東西方向にいくらか吹いてそこそこ涼しく、その風に乗って惑わされたように蝶が一匹、白く飛んでくる」という描写がなかなかわるくない。「おもむき」をひらがなにひらいたのはこの時期のじぶんとしてはたぶんまだめずらしいとおもうが、正解だろう。蝶の白さを形容詞として蝶自身に付加したかたちでしめすのではなくて副詞にまわしたのも、じぶんはあまりやらないようなきがするが、よいではないか。
  • 職場に(……)さんがきており、はじめて顔をあわせている。彼女は先日の会議のさいに、ZOOMの画面越しだがすがたが確認され、がんばっているようなのでよかった。(……)先生とも初顔合わせ。彼女はまだはいって一年しか経っていなかったのか。
  • よみかえしをおえたのち、ベッドにころがって書見へ。ピエール・ヴィダル=ナケ/石田靖夫訳『記憶の暗殺者たち』(人文書院、一九九五年)。七〇年代から八〇年代あたりにかけてフランスで活発化した歴史修正主義の動向が知られてよいのだが、あまり訳がよくないのがおしい。ピエール・ヴィダル=ナケはもともと古代ギリシア史が専門らしいのだが、政治的方面の活動もいろいろしたようで、フーコーといっしょに「監獄情報グループ」をたちあげたひとりのようだ。フランスにおける歴史修正主義の主要人物のひとりとして、ロベール・フォリソン(Robert Faurisson)という学者がいたようで、おどろくべきことに、ノーム・チョムスキーが彼の本に序文を寄せていたらしく、ヴィダル=ナケはその件もとりあげてチョムスキーを非難している。
  • さいきんよくCarole King『Music』をBGMにながしていて、このアルバムでは#2の"It's Going To Take Some Time"とさいごの"Back To California"が好きなのだが、とくに後者は好ましく、けっきょくこういう古き良き時代のロックンロール的な香りの音楽はだいたいどれも好きなのかもしれない。この曲をきいているとThe Beatlesの"Get Back"がおもいおこされるのだけれど、書見後に爪を切っているあいだにつづけてながしてみたところ、やはりわりと似ているようにおもう。歌のあいだにギターソロやピアノソロがはさまれる構成もそうだし、歌詞も、The Beatlesのほうでは"get back to where you once belonged"と歌われるわけだが、Carole Kingは"so won't you carry back to California"とか、"let me be where I belong"といっているし。まあそこだけだし、とくにめずらしい表現ではないのだろうが。それにしてもCarole Kingはこういう曲でもじぶんのペースをたもっているなあとおもう。つまり、ロックンロール調でありながらも、歌がじつに、気の抜けたようなトーンだというか、暢気というか、たいていこういう曲ならそれにあわせて声を張ったりなんだりするのではないかとおもうが、まるでそうしていない。それがかえって、レイドバック、というのか、そういうかんじがかもされてよい。これだったらたとえば『Tapestry』の"(You Make Me Feel) Natural Woman"ほか、いろいろな曲のほうが、がんばってちからをこめて歌っている感があるだろう。
  • 『記憶の暗殺者たち』は200をこえたあたりまで。註をのぞけば240あたりで本篇は終了なので、もう終盤。
  • いま四時まえ。かきぬき。Cal Tjader Quartet『Jazz At The Blackhawk』をながしているのだが、#3の"I'll Remember April"が、まえからすごいとおもっていたがやはりすばらしく、ここでのCal Tjaderの闊達さと流麗さは(たとえば『Miles Davis And The Modern Jazz Giants』の"The Man I Love"における)Milt Jacksonにもまったく負けていないとおもう。めちゃくちゃ乗れる。おもわず指をとめてしまう。ピアノもよい。
  • 五時で上階へ。アイロンかけをさっそくはじめる。父親は山梨にいっており、泊まってくるという。じゃあ楽じゃん、と母親にいって、麻婆豆腐でいいんではないかとつげた。それでアイロンかけをするが、その間母親は外にでてなにかしていたもよう。天気はかわらずくもりのまま。シャツをつぎつぎに処理していく。おえると台所にはいって、まず小松菜をゆでる。フライパンに湯をわかし、もうひとつのフライパンはややよごれているようにみえたので、そちらにも湯をわかす。一方で菜っ葉をゆで、もういっぽうはキッチンペーパーで拭く。小松菜があがると麻婆豆腐へ。そのころには母親も屋内に。ほんとうはひき肉を具とする品だが、ひき肉はないし、いまゆでた小松菜の軸のぶぶんと、シイタケと、ニンジンをほんのすこし具とすることに。肉は冷凍のこまぎれ。それらを炒め、麻婆豆腐の素もしくはソースをパウチからしぼりだしてからめ、豆腐も手のひらのうえできりわけてくわえると、外にいっていた母親が取ってきたニラをさいごに入れて、それでしばらく熱して完成。
  • アイロンかけと料理をすませてもどってくると、Carole Kingをもっているもの以外にもきいてみるかとおもい、Amazon Musicにアクセスして、とりあえずライブ盤をと『In Concert』をながした。一九九四年の音源だが、冒頭の"Hard Rock Cafe"からして、八〇年代を通過したあと、というかんじがする。もっとも、この曲じたいは七七年のものらしいが。Wikipediaでパーソネルを確認すると、おどろくべきことにリードギターとしてSlashのなまえがあり、SlashってあのSlashだよな? とうたがわしかったのだけれど、Carole KingのグループでSlashが弾いているさまをかんがえるとわりと意味がわからない。髪型は似ているけれど。ほか、ベースとして、John Humphreyというなまえもあるのだが、このひとも九八年以来Scott Hendersonのトリオにいるらしくて、Carole KingとSlashとScott Hendersonまわりのひとがいっしょというのもだいぶ意味がわからない。Slashは#7 "Hold Out For Love"と、#14 "Locomotion"で弾いているらしく、いまちょうど前者のソロがながれているが、これたしかにSlashだわ、というかんじ。微妙な音程を駆使したチョーキングのブルージーな粘っこさとクロマチックをふくめたレガートを部分的にすばやくからめてくるやりくちが。
  • "Chains"をやっていて、The Beatlesのカバーじゃんとおもったのだが、もともとこれはKingの曲なのだ。ほか、"Locomotion"もそうなのは知らなかった。
  • 音楽をながしつつストレッチをほんのかるくてきとうにやり、そのあと八時半くらいまでうえにいかなかったのだが、なにをやっていたのか。Nicolas C. DiDonato, "Religion the opiate of the poor?"(2013/2/5)(https://www.patheos.com/blogs/scienceonreligion/2013/02/religion-the-opiate-of-the-poor/(https://www.patheos.com/blogs/scienceonreligion/2013/02/religion-the-opiate-of-the-poor/))をここでよんだはず。マルクスが、宗教は民衆のアヘンだという有名なことばをのこしているわけだが、それがもしかしたら研究的にも妥当かもしれない、というはなし。つまり、経済的格差のおおきな社会のほうがひとびとが宗教的になりやすいということが調査でいちおうデータ的にしめされたようなのだが、それは困窮層だけでなく、富裕層もそうらしく、じっさいのところ、貧者は宗教によって現世的価値を絶対とみなさずに精神的なことがらの価値をみとめてなぐさめをえて、富者のほうもみずから宗教にコミットし、投資したりしてその勢力を拡大させることで、経済的再配分への強い要求をある種中和したり阻害したりしているのではないか、みたいなはなしだったとおもう。
  • あと、きょうは「ことば」と「知識」を音読したが、これはここだったか、それか五時になるまえだったかもしれない。先日、斎藤兆史『英語達人塾』という新書をよみ、そのなかに素読とか暗唱のはなしがでてきたのに影響されて、俺も音読をそういうふうにするかな、とおもったのだったが、そうしてあらたにもうけたのが「ことば」というカテゴリである。端的な題名だが、これはようするに名文集、なんども読みまくっておのれの血肉としたいような、すばらしいとおもう文章をあつめるノートになる。したがって、だいたいは文学作品からのことばになるだろう。ほかはせいぜい哲学くらいではないか。そしてもうひとつ、「知識」というカテゴリもつくった。いままで「英語」いがいには「記憶」というノートでおぼえておきたいことをまとめて、一項目二回のペースでよみかえしていたのだが、このなかに知識としてあたまにいれておきたいことと、名文や気に入った表現などがいっしょになっていたので、それをわけたしだいだ。そして読み方も、こちらも一項目二回ですすんでいくのではなくて、素読的というか、回数をきめずになんどもよんで、その文章に書いてある情報が充分あたまにはいったなとおもったらつぎにいく、というかたちにすることに。やはりおぼえたいことをひとつひとつきちんとおぼえていくのがよいだろう。その点、音読というのは楽である。たいしてなにもかんがえなくても、ともかくも口をうごかして、声にだしてなんどもよんでいれば勝手にあたまにはいるのだから。極端なはなし、一〇〇回とか五〇〇回とかよめば、一言一句の暗唱は無理でも、そこに書いてある内容じたいは、おおかただれでも記憶できるだろう。そして、「英語」ノートは放棄することに。放棄するといって削除するわけではないが、これも面倒くさくなってきたというか飽きてきたなというかんじがあるので。英文記事をよんでわからない単語がでてきたら、その都度前後をふくめてコピペしておき、一項目二回ずつ音読して語彙を身につけてきたわけだが、よんでいるとちゅうにそうやってコピペして単語の発音やら意味をメモって、とするのがいがいとやはり面倒臭いので、もうけっこう英文をよめるようにもなってきたし、メモはせずに、しらべながらもどんどんよんでいけばよいのでは、とおもったのだ。で、英文の音読は、「知識」とか「ことば」のほうでできればよいだろうと。だから、わからない単語をメモることはせず、たんじゅんに記憶すべき知識やすばらしい表現があったときだけコピペし、それらを素読するかたちで英文をとりいれていけばよいだろうと。それで「知識」のほうはさっそく、さいきんよんだBBCの記事、すなわち、ウクライナのバビ・ヤールの谷にシナゴーグが開設されたという文をたしておき、それをきょうよんだ。あとは「記憶」記事をさいどまえから確認していって、順次足そうとおもっているのだが、「記憶」ノートのいちばんさいしょが新崎盛暉『日本にとって沖縄とは何か』なので、そのかきぬきをEvernoteで(Notionにはうつしていないので)よみかえして、まずはその本からおぼえたいことを抜いていこうと。
  • 夕食時は夕刊でイスラエルの件を。それから朝刊にもどってよもうとしたところ、テレビはなぜか『ロシアゴスキー』をかけていたのだが、そこにスヴェトラーナ・アレクシエーヴィチがでてきたのでそちらをみた。いつだかわからないが日本にきて、福島で被災したひとびとのはなしをきいていたらしい。知らなかった。そのあと東京でスピーチしたり、大学生らとはなしたり。アレクシエーヴィチは『チェルノブイリの祈り』という書をだしており、それが紹介されると母親はチェルノブイリというなまえに反応して、彼女がこの固有名詞を原発事故とむすびつけて理解したのはまだ数か月まえのことであり、兄夫婦からきたメッセージでチェルノブイリについてのテレビドラマをみました、みたいなものがあって、たぶんそこではじめて知ったのだとおもうが、それに反応して母親は、おなじかんじだったのかなとかなんとかつぶやいたところ、つづけてはなしだしたアレクシエーヴィチがまさしくその言を肯定するように、福島でみたことはわたしがチェルノブイリでみたこととまったくおなじでした、と断言し、建物の破壊とか、被災者の絶望とか、いくつか例をあげたのだけれど、正直このふたつの原発にかかわる事件について性急な、かつ断言的な同一化には慎重であるべきだとおもうものの、じぶんが『チェルノブイリの祈り』をだしたときに大げさすぎるとか、人間は危険な技術であれコントロールできるとか批判されたものだが、日本という先進的な文明国でおなじことがくりかえされてしまったのです、というアレクシエーヴィチの言にはわりと説得力はある。あと、アレクシエーヴィチがベラルーシの作家といわれて、あれ、そうだったか、とおもい、それでじぶんがウクライナと勘違いしていたことにきづいた。ルカシェンコによって反体制派が弾圧されていて、大統領選挙に立候補した女性やらそのほかの抗議者が外国にのがれた国をいつのまにかウクライナとおもっていたのだが、ベラルーシだった。日記も検索してみると、案の定、ルカシェンコが飛行機を強制着陸させて反体制派メディアの創設者を拘束した先月の件で、ウクライナとかいているところがいくつかある。面倒臭いのでなおさないが。
  • アレクシエーヴィチのあと、録画されていた『ロシアゴスキー』がもうひとつながされたが、それがモスクワ川をクルーズする会で、これわれわれがモスクワにいったときに乗ったのとおなじではないか、となった。船に乗る場所がウクライナ・ホテルのそばといわれていたが、まさしくそうだったとおもうし、船の外観や、舳先というか先端のほうで屋外にでたときのカメラの映像をみてみても、たぶんおなじ種類の船だったとおもう。われわれが利用したのとおなじサービスだろう。三〇〇人がのれるとかいわれていて、そんなに乗れるくらいのひろさだったかな、というのはちょっとふたしかだが。船ではテーブルをかこんでスプライトをのみながら、兄とゴーゴリやらマヤコフスキーやらのはなしをちょっとしたはず。
  • 食後、入浴。暑いが、湯のなかで多少停まる。あいまにでてからだに冷水をあびながら。髭もそった。髪も切りたいのだが、電話するのが面倒くさくてわすれてしまう。でてくると、おとといの帰路に買った炭酸のオレンジジュースをもって部屋へもどり、氷を入れたコップにそそいでのみながら、Mark Edmundson, "Defender of the Faith?"(2007/9/9)(https://www.nytimes.com/2007/09/09/magazine/09wwln-lede-t.html(https://www.nytimes.com/2007/09/09/magazine/09wwln-lede-t.html))をよんだのがこのときだったか? たぶんそう。フロイトが晩年の『モーゼと一神教』でとなえた論もしくは説の紹介というかんじの記事で、いわく、そこで彼はモーゼはじつはユダヤ人ではなくてエジプト人だったという胡乱げな説をとなえているらしいのだが、本題はそちらではなく、ユダヤ教が神を図像化不能な目に見えない存在として理解するよう規定したことで、ユダヤ人たちは多民族と比較して抽象的な思考の能力を向上させることになり、じぶんの精神をみつめる高度な自己把握能力や内面性を獲得して、それによって数学とか法学とか芸術とかもろもろの分野ですぐれたちからを発揮した、みたいなことをいっているらしい。この後者のはなしはたしかにどこかできいたことがある。じっさいのところどうだかわかりゃしないが、この記事の筆者は、反宗教の立場を一貫してとおしてきたフロイトも、晩年にいたって、無神論者でありながらも同時にこのようなかたちで宗教の価値というものを発見した、彼は無神論を標榜していながらも、同時にひとびとにひろく影響をあたえて社会を変革する預言者としてのモーゼにインスピレーションをえてきたことはあきらかである、ニーチェも同様に、キリスト教をめちゃくちゃに批判しながらも、しかしイエス・キリストひとりにかんしては高く評価し、むしろ共感をいだいていた、ショーペンハウアーもその点類似している、というようなことをのべていた。
  • つかれたのでベッドに伏してピエール・ヴィダル=ナケ/石田靖夫訳『記憶の暗殺者たち』(人文書院、一九九五年)をよみすすめているうちに三時にいたり、そのあたりでいったん意識をうしなって、さめると三時四〇分だったのでそのまま消灯、この日の生を終わらせた。日記をどうもかたづけられない。そのぶんたくさん読めているからわるくはないが。

2021/6/2, Wed.

 デモクリトスについて現存する断片のほとんどは、じつは倫理にかかわる箴言あるいは断章である。「笑うひと」と呼ばれた、デモクリトスがもとめたものは、「快活さ」(エウテュミア)であったといわれるけれど、それはただの「快楽」(ヘドネー)ではない(前掲『列伝』 [ディオゲネス・ラエルティオス『哲学者列伝』(Diogenes Laertios, Vitae philosophorum)、第十巻] 四五節)。勇敢さとは、敵に打ちかつことであるばかりでなく、快楽に対して勝利することである(断片B二一四)。「すべての快楽を、ではなく、麗しいことにおける快楽をえらばなければならない」(B二〇七)。エピクロスが説いた倫理が、いわゆる享楽主義者(エピキュリアン)のそれと遥かに遠く隔たって、「こころの平静」(アタラクシア)をもとめる教説であったのと同様に、デモクリトスの倫理的箴言も、高邁な道徳と呼ばれてよいものに満ちている。
 (熊野純彦『西洋哲学史 古代から中世へ』(岩波書店、二〇〇六年)、54)



  • 一〇時一五分ごろに目をさました。そのまえにもさめたときがあったとおもうが。夢をみた記憶があるのだが、なんだったか、内容をおもいだせない。(……)さんがでてきたような気がするが。意識をとりもどすと、こめかみやら肩のまわりやらをもんだり、首筋をのばしたりして、一〇時四〇分に離床した。今日も滞在はほぼ七時間ちょうど。これをもうすこしへらせればなあとはおもうが、七時間と六時間ではやはりだいぶからだの感覚がちがうもので、こちらの心身の、すくなくともいまの適正はこのくらいなのだろう。今日は瞑想もせず、すぐに上階へ。洗面所で顔をあらったり髪をとかしたり、トイレで用をたしたり、また水場にもどってうがいをしたり。天気は曇りである。ハムエッグでは芸がないし、卵もないようだったので、肉を焼くかとおもった。あまりかわらないが。冷凍に廉価な豚肉のこまぎれがあったので、それをフライパンで焼いて米にのせた。食べながら新聞。大坂なおみがうつ症状にさいなまれていることを明かして全仏棄権を発表、というのはきのうの夕刊でもみたことだ。国際面には今次のあらそいで停戦はなったけれど、東エルサレムで住民同士の対立がのこりくすぶっている、との記事。それはもうずっといぜんからのことだろう。イスラエル側が入植するわけだが、ユダヤ人の家はここはわれわれにあたえられた神の土地だとか、おなじみの宗教的スローガンをしるした横断幕をかかげ、パレスチナ人もそれに対抗して、われわれがこの土地からでていくことはない、みたいな幕をかかげているらしい。パレスチナ側の家には、表札に書かれた家族のなまえがぬりつぶされたり、鍵穴に粘着液をながして塞ぐいやがらせがおこなわれたりしていると。ユダヤ人入植者はオスマン帝国時代の一九二二年の権利書を根拠に土地の所有権を主張しているらしいのだけれど、さすがに無理筋ではないか? 滅亡した国家だし。しかしそれがたしか裁判でみとめられているのだったか、パレスチナ側のひとが何人か控訴して審議中、とかかれていたとおもう。また、神殿の丘まわりでの抗議のときだとおもうが、一六歳の少女にゴム弾だか撃った警官への捜査を保留するみたいな発表もあったと。だからとうぜんパレスチナ側は憤慨する。
  • 皿をあらっていると母親がバタバタはいってきて、(……)ちゃんの妹から連絡があって映画とランチにいきませんかって、という。すきにすればよい。それで洗濯物を入れてくれというので了承。つかったフライパンに水をそそいで沸騰させ、キッチンペーパーで汚れをぬぐっておいてから、風呂洗いへ。すむとでて、自室から湯呑みと急須をもってきてあらっておき、カルピスを一杯つくって帰室。Notionを準備してここまで今日のことをしるした。一一時四五分。
  • この日のことも、この前日、前々日とおなじく、サボっていたのでだいたいわすれた。勤務後に書こうといつもおもっているのだが、しかし勤務してくると、みじかい時間なのになんだかんだやはり疲れて、文を記す気力がなくなってしまう。といって勤務まえは音読したり書見したりからだをほぐしたりしたい。この日、出勤までは、洗濯物をいれてたたんだり、足拭きを各所に配置したり、豚汁を食べたり、米だけはでるまえに磨いでおいたり。往路は三時台に徒歩でいった。薄陽があって、路上にうっすらとじぶんの影が湧きだすくらいのひかりの量だった。だから、すごく、というわけではないが、そこそこ暑い。坂道をのぼっていくと、道の脇、左の斜面をおおっている林のまえになにかゴミが投棄されていて、ここはときどきゴミが捨てられているところで、それはだいたい空になった弁当の容器だったり、菓子やらなにかのパッケージだったりするのだが、そしてときおり我が父親が公共心からかたづけているようなのだが、このときはたくさんのビニール袋だった。コンビニでもちいられるような薄手のものというより、服屋とかでちいさな品をいれるような、やや固めのビニール袋のたぐい。いろいろな種類があったよう。なぜあれらをわざわざあそこに捨てるのかわからないが。ふつうに自宅で使いようがありそうなものだ。
  • 裏道をあるいているとうしろから自転車の一団がきて、四人いたのだが競技としてやっているタイプの本格的なひとびとで、装いがそれぞれ青、蛍光ペンみたいな緑まじりの黄色、赤、青とカラフルだった。彼らはこちらをおいぬかしていき、するとすぐに(……)坂にかかって、左折して坂道をのぼっていくのだが、最後尾の青いひとがひとり、ちからが足りなかったのか容易にのぼれず、いったん止まってもたつきながら自転車から降り、遅れて追いかけるかたちになっていた。とはいえ、坂まできて左をむくと、ほかのひとたちもけっきょく先のほうで勾配にさからわず降りて押していたが。
  • (……)付近の丘の緑がじつに青々と色濃く、接する空の水色とくっきり対峙していた。裏道がいちど尽きて横にはしった路地にかかると左右に視界がひらき、それで左をむきながらみあげたところ、空は水色を基調としてはいるものの淡い雲もおおくふくんでおり、乳を垂らして混ぜたまま時間が経って浸透したような風合い。駅前のコンビニの脇にみんな自転車をともなった小学生の集団が溜まっていて、わいわいにぎやかにしながら乗り物を駆って発っていった。最後に発ったひとりがスマートフォンで音楽をながしていたようであたりにひびいていたのだが、その音楽がやはりいくらか今風というか、小学生でこんなかんじのやつ聞くんだ、という印象だった。といってべつにこちらの好みではなく、多幸的にあかるいポップスのたぐいで、たぶんなにか男性アイドルの曲では? とおもわれたのだが。もしそうだとしてもBTSなど韓国のそれではなく、日本のものだったとおもう。集団にはまた女子がふたりだけいたようなのだが、彼女らは男子らが発ったあとにものこっていたようなので、その後行動をともにしたのかは不明だし、もしかしたらおなじグループではなかったのかもしれない。かといってべつにまったくの他人というわけでもなく、知ってはいて交流がある、くらいのかんじだったのかもしれない。
  • 勤務中のこともやはり面倒なのではぶく。帰路は電車を取った。けっこう待ち時間があったのだが、ベンチについて、もしくは車内の座席で、だいたい目をつぶって休息しており、そういうのもわるくない。瞑目でじっとしていると、ようするに外でなかば瞑想しているようなものだが、そうしているとしだいに外にいるというかんじが薄くなってくるというか、公的空間で他者にかこまれているという感覚が弱くなってくる。まわりに他人がいるということを認識しなくなって自分ひとりの世界に浸るというわけではなくて、周囲の他者が発する存在感や知覚情報を明晰に意識にとらえてはいるのだけれど、なんというかそれにじぶんが関係しなくなるというか、それに影響されなくなるというか。うまく言い表せないし、言おうとするとどうしてもありがちな言い方になるのだが。公的空間にあって他者のなかにいるというだけで、人間、じぶんで意識せずとも心身がある程度は勝手に緊張しているものだとおもうのだが、それが解除されるというか。
  • 帰路、ふたたび日記を金にしようかというまよいをおぼえ、とりあえずカンパを募る、金にするうんぬんは措いておいて、今後そういう方策を取ることになったときのために、毎日の記事を一部抜粋でnoteに投稿しつづけ、知名度を多少なりともえておいては? とおもったのだが、実行はしていない。なにかにつなげるうんぬんは措いて、とりあえずはてなブログ以外にもまた読んでもらう場所をつくって、すこしばかり文をひろめるか? とおもったのだが。やってもよいのだが、べつにわざわざやるほどでもない、というかんじもある。実行にかたむくほどの強い動機をじぶんのなかにみいだせない。

2021/6/1, Tue.

 アナクサゴラスもまた、エンペドクレスとおなじように、エレア学派の基本的な前提を受けいれたうえで、世界の多と動、多様性、ならびに生成と消滅という課題にとり組んでいたものと思われる。「生成と消滅について、ギリシア人たちは正しく考えていない。なぜなら、どのような事物も生成することもなければ、消滅することもないのであって、存在している諸事物をもとに混合し、分離しているからである。だから、生成を混合するといい、消滅を分離すると呼ぶのが正しいだろう」(断片B十七)。断章のひとつがそう語っているとおりである。
 エンペドクレスは死すべきものも生まれず、滅びないと考えた。だが一方では、ひとはひとを生み、羊は羊を産んで、植物のたねからはおなじ植物の芽が芽吹く。おなじものからおなじものが生じている。そればかりではない。「どのように、毛髪ではないものから毛髪が生じることがありうるのだろう。肉ではないものから肉が生じることがありうるのだろう」(B十)。アナクサゴラスが語りだす「すべてのものの種子(スペルマタ)」はそこで――アリストテレスそのひとが、それを「同質素」(ホモイオメレー)と呼びなおしたこともあって――、それ自体は(end49)同質的な、究極の元素のようにも理解されるけれども、アナクサゴラスの真意はおそらくそうではない。アナクサゴラスはゼノンの無限分割論をまちがいなく踏まえたうえで、最小のものなど存在しないと考えていたからである(B三)。
 アナクサゴラスが展開していた思考は、エンペドクレスふうの思弁ではなく、ごく具体的な観察にもとづくものであったことだろう。たとえば、ひとは他の動物の肉を食べる。そのことでひとのからだは成長し、肉が増え、毛髪が伸びる。そうであるとするならば、動物の肉には、人間の肉や髪となるべきものが、なんらかのしかたで内在していたと考える余地がある。動物の肉にふくまれるその要素は植物から、植物のそれは大気と大地から採りこまれたものだろう。「全体(シュムパーン)のうちに、すべてのものがふくまれている」(B四)。
 スペルマタもまた、それぞれにすべてのものをはらみ、ただし混合のおのおのの比において宿すがゆえに、どれひとつとしておなじものはなく、たがいにことなる、無限に微少なものとしてとらえられていたことと思われる。種子は同質的なのではなく異質的 [﹅3] であり、それぞれのしかたで全体を映している。それは生成もせず、消滅もしないから、つねに同一のものであり、存在しつづけるものなのである(B五)。
 (熊野純彦『西洋哲学史 古代から中世へ』(岩波書店、二〇〇六年)、49~50)



  • 一一時ちょうどの起床。水場に行ってきてから瞑想もおこなった。今日もさほどながくはなく、一五分少々だったのではないか。上階に行って、食事にはまたハムエッグを焼く。米にのせて黄身と醤油をまぜて食す。新聞からはいつもどおり国際面を。イスラエルの組閣の件について、きのうの夕刊につづき載っていた。ネタニヤフが退陣するみこみ、と。右派政党ヤミナがイェシュ・アティドを中心とした中道左派の連立にくわわることを表明したという。イスラエル国会の議席は一二〇で、リクード宗教政党でたしか五七くらい、三月あたりにあった選挙後、最初はネタニヤフが組閣をこころみたのだがはたせず、第二党イェシュ・アティドの党首にうつり、期限が六月二日か三日にせまっていたところ、当初は合流を否定していたヤミナのベネットという党首が意をひるがえしたと。イェシュ・アティドと「青と白」ほかでこれも五七くらいあったはずで、ヤミナが六か七なので過半数にたっする。右派がこの連立にくわわることについて、ネタニヤフは「世紀の詐欺」だと糾弾したらしいが、ようやくひとまずはリクードの時代が終わりそうだ。だからといって、パレスチナのひとびとのあつかいがよくなるかというと、たいしてそうもならないだろうが。
  • もうひとつ、香港で、天安門事件追悼のデモ行進をひとりで敢行した人間が逮捕されたという報があった。公安条例違反。無許可の集会に参加して他者を煽動した、というのが当局のいいぶんらしいのだが、ところが公安条例における「集会」の定義は三人以上の規模である。
  • 食事をおえ、食器と風呂をあらって帰室。部屋にかえると、母親が布団を干しておいてくれたのだが、ふだん枕もとに置いてある本やノートや英和辞典がことごとく床におちて散らばっていたので、けっこう不快をおぼえた。先日もおなじことがあっておなじように不快をおぼえ、日記にもかきつけたところだ。ノートや辞書はともかく、本を粗末にすることはやめてほしい。ベランダのほうから下敷きの布を引っ張るようにしてとるので、そのときにおちるのだろうが、なぜひとのものを床におとしておいて、それをひろっておこうというかんがえにいたらないのだろうか? しかし言っても詮無いこと、じぶんで布団を干さないのがわるいのであって、これもおのれの不徳のなせることだ。それなので文句はいわずに茶をのんでコンピューターをまえにしているうちにすぐにわすれた。LINEで「(……)」の(……)の件に返信。そのあととりあえず一年前の日記のよみかえし。学校教育に日記を導入してなるべく毎日こどもらに文を書かせろ、などといっている。いまでもこれはやれば一定の効果はあるとふつうにおもっているが。塾で小中生と接するかぎり、いまの義務教育はもうそもそも、手書きであれタブレットであれ、文を書く時間や機会そのものがむかしとくらべるとかなりすくなくなっている印象なのだ。授業もだいたいプリントがつくられてあって、板書をする必要もないので。プリントで空欄になっているところを埋めればよいだけなのだ。その前後は、つまり文脈が、あまり気にされない。気にされたとしても、その範囲はみじかい。こちらのころでも、小学校はどうだったかわすれたが、すくなくとも中学校はまだ教師が黒板に書いたことを写すやりかたをとっていた気がするのだが。それはそれでつまらなかったり、面倒だったり、教師のまとめが下手くそだったり字が汚かったりすぐに消してしまって親切でなかったりとあるわけだが、なんだかんだいっても単純に文を書き写すというのは、やはり知らないうちに力にはなっていたのだとおもう。そもそも他人の文すらなぞれない人間が、じぶんの文など書けるはずがないではないか。文字と文を書く機会がなければ、そりゃたしかな言語能力など身につくわけがない。

(……)途中、こちらが国語のテストの問題を読んでいるのを見た彼は、国語全然できない、嫌い、だって作者の気持ちとかわからないし、と漏らす。学校の国語教育で「作者の気持ちを考えましょう」という式の教え方がなされるという話は一般に流通していてよく見かけるのだが、こちらの記憶では小中高時代にそんな授業を体験した覚えはない。「登場人物の心情を読み取りましょう」なら普通にあったと思うが。それで、そういう授業やってんの? と訊くと、何か文章を読んだときに自分が感じ取ったことを感想に書きましょうとか、美術の作品を見たときに作者がそこにこめた気持ちを考えましょうとか、そういうことを要求されるらしく、(……)くんとしては、そんなこと言われても何も感じないし、となるわけだ。まあまったく何も感じていないということはたぶんなくて、自分の感覚に対する即時再帰的な視線を持っていないということではないかと思うが、それを受けたこちらは、世の中にはそういう風潮があるんですよとにやにやしながらまず皮肉り、まあ、それはそんなに良くはないかもねと控えめに批判しておき、だってそんなのわかんないじゃんと彼に同意したあと、それよりそこに書いてあることそのものを見たほうが良いと思うよ、ここの表現めっちゃ良くね? とか、このキャラクターの行動好きだな、とか、と例示しつつ、テクスト論的な姿勢の第一歩への導きではないけれど、具体的な部分を見るようにと一応促しておいた。読書感想文は書けない。国語のテストでも毎回、文章を読んで感じた感想を書けみたいな問題が最後に出されるらしいのだが、それも書けないと言う。その言にも同様に、ここの言葉が良かった、好きだというところを見つけて、あとはなんで好きだと思ったのかその理由を書けば良いんじゃないと適当に助言しておいた。だいたい作者の気持ちだの読書感想文だの、そんなものはたいがいクソつまらないことにしかならないわけで、それよりは読んだ文章のなかで気になった箇所とか一番好きだった部分とかを書抜きする習慣を身につけさせたほうがよほど有意義かつ有益だとこちらは思う。高校の授業も「論理国語」と「文学国語」だったか忘れたけれど二つに分かれて選択制になるとかいう話で、そうすると若者の「文学離れ」がますます進むだの国語教育が貧困化するだのと嘆かれているけれど、こちらに言わせればそんなことはまるで本質的な問題ではないのであって、たた単純に子供たちも人々も、「論理」的な文章であれ「文学」的な文章であれ、言葉を読む量と文を書く量が少ないというだけのことに過ぎないと思う。簡単な話、なるべく毎日日記を書かせるという仕組みを学校教育に取り入れれば、それだけで人々の言語運用能力はいくらかましになるだろうとこちらは完全に確信している。内容は何でも良い。朝食べたものを列挙するだけでも良い。一日に一文だけでも良い。書くことが見つからなければ、教科書の文を適当に写すだけでも良い。とにかくなるべく毎日ノートをひらいて何らかの言葉をそこに書きつけるという時間を重ねさせることが重要なのだ。もちろんそんなことつまんねえ面倒臭えと思って書きたがらないやつもいるだろうし、そいつはそいつで良い。読み書きよりも大事なことはこの世にいくらでもあるのだから、そいつはそいつで好きなことをやれば良い。ただそういう営みを面白いと感じて、わざわざ促さずとも自発的に熱心に取り組む子供も一定数は絶対にいるはずで、日記制度を導入すれば、少なくともそういう子の言語運用能力や思考力をより有効に涵養することは可能になるだろう。子供たちが書いたものを教師がチェックするのが大変なのでたぶん現実に制度化はされないだろうが、何だったらチェックなんかしなくたって別に良いわけだし、鶴見俊輔とかが戦後にやっていたらしい(やってはいなかったかもしれないが)「生活綴り方運動」って要するにこれとだいたい同じことだと思う。もしこちらが学校教師だったら普通にこの制度を導入する。それで本当に自分自身の、例えば小学校六年間分の毎日の記録が文として残ることになったら、それはわりと悪くないことではないかと思うのだが。毎日書き、また確認するのはとても大変だということなら、せめて国語の授業で文章を読んだときに必ず書抜きをするという習慣くらいは身につけさせたほうが良いと思う。つまりは書抜きノートを作ってそこに引用を集積させるということで、小林康夫大澤真幸と対談した『「知の技法」入門』(河出書房新社、二〇一四年)のなかで、引用ノートを作ってただ好きな箇所を手書きで写す、コメントも何もつけずに日付と引用文だけで良い、それを続けて一冊できあがればそれは最高の宝になりますよみたいなことを言っていた記憶があるけれど、その言にはこちらも普通に同意する。

(……)一応段落ごとの内容を確認して、読みながら各段落の役割を考えられると良いねとは言っておいたが、こちら自身は文章を読んでいるときにそんなことは少しも考えていない。だいたい受験制度的学校教育の国語などというものは上述したとおりクソみたいに退屈でつまらないのであって、作者の「思想」や「主張」はともかくとしても「気持ち」などは大抵の場合はどうでもよろしい。国語教育でするべきことは、そこに書いてある文章の意味の射程をできる限り理解させること、すなわち目の前の言語そのものに基づく姿勢を学ばせること、気になった箇所や好きな箇所を写させること、なるべく毎日何らかの文を書かせること、集約すればこの三点しかない。それに加えて、パラフレーズ及び要約の練習をさせても悪くはないだろうが、それは最終的にはどちらでも良い。この三点あるいは四点をきちんとやれば、読解力だの作文力だのは勝手につく。

  • したも一年前の日記から。わかりやすいテーマだがわるくない。

SUICAを持ってこなかったので切符を久しぶりに買う。隣の券売機には軽薄そうな高校生のカップルがついていた。ホームへ行き、待合室の側壁脇で立って待ち、腕を前後に引っ張るなどして首や肩や背の筋を伸ばす。小学校の校庭からは子供の声が伝わってくる。停まっている待機電車に遮られてあちらの様子は見えないのだが、ブランコが後ろに大きく振れて最高点にまで達したそのときだけ、電車の上端を越えて子供の後頭部が視界に覗き、しばらくしてから電車が移動して校庭の景色があらわになると、乗る子供のいなくなったブランコだけがわずかに揺らいで人の名残を留めていた。(……)

  • ミシェル・レリスの文もひかれていて、よかった。これもじつにおなじみのテーマというかんじだが。

 雨が潤滑油なみの役目を果たし、それぞれのものをなめらかに軋みなくしかるべき場所におく機械のごとき働きをする、それが雷雨のあとの美しい光だ。そうした光のなかでなにもかもが鋸歯状に輝きを放ち、動きはないものの、なんとも暖かい色合になるので、いまにも爆発が起きるのではないかと思わせる眺めになっているのを眼にすると、なんと法外の歓び(その原因はささいな事柄であるにもかかわらず)を感じることだろう!
 (ミシェル・レリス/谷昌親訳『オランピアの頸のリボン』人文書院、1999年、119)

  • うえまではほぼこの当日に書いたもので、いまは六月四日なので、この日のこともだいたいわすれた。出勤までは布団をいれたり音読したり書見をしたり。勤務中のことは、まあまったくおぼえていないではないが、面倒臭いので割愛しよう。だいたい日記など、Twitterなみに一行でもよいわけだし、べつに億劫だったら書かなくたってよいのだ。帰路を(……)くんとともにする。裏道をあるいているとうしろから追いかけてきたので。ほんとうは生徒といっしょにかえるのは駄目なのだが、男子同士だからおおかた面倒なことにもならないだろうし、このばあいはべつによかろう。途中で白猫がいたので少時たわむれるなど。彼はスマートフォンをつねに片手にもちながら自転車を押してあるいている風情で、モンストだかわからんがゲームをやっているか、あるいは『五等分の花嫁』なんかの動画をながしているか、あるいはなにかしらの音楽をながしているかで、それでこちらのことばにたいする反応がなかったり遅かったりすることがあった。けっこうゲーム仲間みたいなひとがいるらしい。この帰路のあいだにも、なまえからして女子ではないかとおもったのだが(たしか「(……)」だか「(……)」みたいな名ではなかったか。男子の可能性もありそうだが)、いきなり電話をかけていっしょにゲームをやろうとしていたことがあった。それはおそらく学校やそのまわりの関係ではなく、ゲームをつうじて知り合ったオンラインの仲間なのかもしれないが、それでも仲間がいるようなので安堵する。こちらの家までついてこようとするので、さすがに自宅がバレるのはまずいだろうと遠回りしていると、(……)のまえまできたところで通りの対岸をやってきた自転車が(……)くんであり、ふたりは友人なので、そこで具合よくこちらは別れることになった。坂をおりたところの角にある自販機で炭酸のオレンジジュースを買って帰宅。
  • あとは(……)さんのブログから以下の引用。

熊谷 綾屋さんと私が二〇〇八年に『発達障害当事者研究』を出したあと、この本のなかで書いたことをうまく説明してくれる理論を携えてきてくれた、ある一連の研究者たちがいらしたのです。まだ十分に私たちも汲み尽くせているかわからないんですが、その理論というのが、「予測符号化理論」、プレディクティヴコーディングセオリー Predictive Coding Theory というもので、精神活動に関する久しぶりのグランドセオリーです。
 化学者であり物理学者であり生理学者であり、「ヘルムホルツの自由エネルギー」で知られるヘルムホルツという偉大な研究者がいます。そのヘルムホルツに影響を受けて精神現象のグランドセオリーを立ち上げたのがフロイトです。そのヘルムホルツフロイトの影響をさらに受けて、最近この「予測符号化理論」、あるいはさらにこれを含むかたちで「自由エネルギー原理」というものを提案して注目されているのがフリストンという研究者で、この三人は一つの系譜を形成しているのですけれども、このフリストンが統合失調症自閉症、そして平均的な人、などさまざまな精神現象を「予測符号化」というフレームワークで理論化できるんじゃないかということを言っているそうなのです。さらに彼らはASD自閉スペクトラム症に関してもなかなか大胆なことを言っているのですが、その仮説が、私たちの当事者研究の仮説ともかなり関わり合っているのです。そういえば二〇一八年の三月に、アメリカの『サイエンス』という雑誌のWebサイトのニュース欄に、われわれの当事者研究と予測符号化理論とを関連付けながら紹介した「Does autism arise because the brain is continually surprised?」という記事も紹介されました。ではこの予測符号化理論とはどのようなものなのかについて、概略を説明したいと思います。
 人間の脳を一つの臓器と捉えたときに、その仕事はなんでしょう。心臓がポンプ機能のある臓器、肝臓は代謝の臓器、腸は消化の臓器。では脳はなんの臓器かというと、ヘルムホルツは「予測する臓器」、あるいは予測と密接に関係する「推論する臓器」、プレディクションマシーンあるいはインファレンスマシーンなのだと定式化したのです。

     *

 さらにここからASD自閉スペクトラム症の話になってくるのですが、予測誤差の許容度には個人差があるんだと。つまり、多少予測が外れても、私たちの脳みそはびっくりはしない。まあまあおおむねこの概念とかこのカテゴリーによってこの感覚は説明していいよね、というわけです。まったくイコールではないけれど、このあたりでいいんじゃない、と。つまり、あるレンジのなかに収まる予測誤差であれば、私たちの予測のモデルをアップデートするほどのことはないんだと判断できる。しかし、予測誤差があるレンジを超えると、これはまずいんじゃないかということになる。現状、私がもっている予測は質が低いんじゃないかと考える。そうすると、予測誤差をもっと減らせるように予測自体をアップデートするか、あるいは予測どおりになるように世界を支配するしかなくなるのだ、とフリストンは言います。予測のアップデートは「知覚」、世界の支配は「行動」で、予測誤差に対する私たちの脳の応答は二択なんです。
 そして、予測誤差がある一定ラインを超えるともうスルーできなくなるというその閾値に個人差があるんだとフリストンは言い、この個人差を表すパラメーターでASDを表現できるのではないかというわけです。ASDでは、この閾値が低い、つまり少しでもエラーが発生すると、たいへんだ! というふうに感じやすい脳を持っている人たちなのではないか、というのが、「ASDの予測符号化理論」の要諦なんですね。で、これはもしかして「想像力」と深く関係しているのではないかと私は思っているのです。

     *

熊谷 そうですね。そして私は、序章で國分さんが教えてくださった〈この〉性の話ともつながる気がしているのです。予測誤差に敏感であるということは——フリストンの理論が正しいのであるならば、ASDの方はやはり予測誤差に敏感である、という言い方ができると思うのですが——、〈この〉性と密接に関わることなのだと思うのです。つまり私たちは、あ、これ知ってる、つまり前に経験したことがあるという事物を「予測可能なもの」であると考えるわけです。予測というのは、二回、三回と複数回経験していなければ、その定義どおり、不可能なわけですよね。別の言い方をするならば、ああこれは経験ずみで知っていることだというふうに目の前のものを解釈している、つまり「予測しきれた」、フリストンの言葉で言えば、 Explain away、「説明しつくした」というような状況で目の前のものを捉えているときというのは、カテゴライズ、つまり図式化している。それは〈この〉性とはもっとも遠い状態にあるといえるでしょう。
 しかしエラーに敏感な人は、多くの人が「あ、これは前に経験ずみ」と思えることに対して、「これははじめてだ」と思うわけです。たとえばかつて同じような時間に同じ場所に身を置いて、同じような経験をしたことがあったとしても、ASDの人はそれを、初回のエピソードとして経験するのではないか。
 綾屋さんも書いていらっしゃいますが、本人の頭のなかには、〈この〉性や一回性のエピソード記憶が氾濫している状態なのではないか。多数派は意味記憶といって、範疇化されたカテゴリーによって回収できるような、ある種色あせたというか、生々しさを失ったカテゴリーによって解釈できているものを、はじめてのエピソード記憶として鮮明に繰り返し経験するために、つねにエピソード記憶で頭のなかがパツパツなんだと。まさに〈この〉性の飽和ですね。〈この〉性が飽和することと予測誤差に敏感であるということは、表裏一体のことではないかと。
國分 それは表裏一体ですね。非常に興味深い論点だと思います。
 僕の研究しているジル・ドゥルーズという哲学者が『差異と反復』という本のなかで、「反復」、つまり繰り返しについて、とてもおもしろいことを論じています。
 例えば、鐘をカーン、カーン、カーンと叩いているとき、叩くほうもその音を聞くほうも、その音は反復しているのだと思いますよね。しかしドゥルーズいわく、じつはそうではない。その反復は鐘が打たれるたびに崩壊していっている。というのも、鐘は単に一回ずつ鳴っているだけであるからです。それが反復されていると思うためには、何かジャンプが必要です。現象としては一回鳴ってまた一回鳴っているだけである。けれども、それを受け取る主体のなかで何かジャンプがあって、それに反復を読み取る。ということは、主体の側でのそのような受け取りがなくなれば、鐘の反復は崩壊する。
 これをさらに言い換えると、その反復の手前においては、カーン、カーンという一回ずつの鐘の音が〈この〉性をもって捉えられるということです。予測と〈この〉性はたしかに強い関係を持っています。反復しているぞと思った瞬間に、また鳴るぞ、また鳴るぞ、と予測が出てくる。音楽やリズムを楽しめるということともこれは関係しているでしょう。ただ、ドゥルーズもこれをジャンプとしてしか説明できなかった。不思議さがあるとしか説明できなかった。

2021/5/31, Mon.

 カントはゼノンの論点の一部に真理をみとめている。カントによれば、世界は有限でも無限でもないからである。ものごとはすべて世界のうちに位置をもち、世界内部の場所に存在する。もし場所が世界のうちにあるとすれば、それは世界のどこかに存在することだろう。けれども、場所を収容する場所を考えると、無限後退におちいってしまう(ゼノン、断片B五)。おなじように、いっさいの事物は世界のうちにある。だが、世界そのものは、どこにも見いだされない。世界は全体であって、全体は部分との比較を絶している。事物は部分であるから、事物に当てはまる述語を世界そのものに適用することはできない。世界が有限であるか無限であるかは、(end37)アンチノミーをかたちづくることだろう。けれども、世界それ自体は有限でも無限でもない。ゼノンの議論は、かくて、カントの「弁証論 Dialektik」にも影を落とす。
 (熊野純彦『西洋哲学史 古代から中世へ』(岩波書店、二〇〇六年)、37~38)



  • 起床時、瞑想をした。うまく停止できたらしい。きちんと停まることができると、死体になったかのようなかんじをおぼえる。このときはそれくらいの不動性をつかのま達成したもよう。風ははじめのうちはなかったのだが、じきにうまれて、とおくから大蛇が這ってくるような音のながれが草木のうえをつたわってきた。
  • 食事はカレー。小笠原諸島航空自衛隊の移動警備隊を配備するという報を新聞でよんだ。移動式レーダーをそなえて、安全保障上のトラブルを警戒するわけだが、それはやはり中国の活発化をうけてのものらしい。沖縄本島宮古島のあいだを遼寧がぬける回数が近年ふえており、太平洋のほうにも進出してくるのではないかというわけで。日本国内には二〇何箇所とかだったかわすれたが、設置式のレーダーが配備されていて警戒にあたっているらしいが、小笠原方面はないようで、そのうちに地元と交渉して自衛隊を駐留させるみこみ、みたいなことも書かれてあった気がする。あと、IHIアイダホ州原発開発へ投資して、日揮なんとかいう会社もおなじく投資している、という記事もあったのだが、IHIにせよ日揮なんとかにせよまったくしらないなまえですこしの知識もないので、なぜこの記事をよんだのかじぶんでもよくわからない。
  • メモによればさいしょは晴れていたがじきに空が白くなってきて、しかしその後またいくらか水色が湧いてきたとのこと。風もよく吹いていたらしい。メモもあまり取っていないしこの日のことはもうおおかたわすれてしまった(いまは六月四日の午後四時)。三日の記事に書いたが、「ことば」という音読カテゴリをあらたにつくり、それでこの日はじめてそれをよんだ。「記憶」記事をよみかえして抜粋したかんじなので、さいしょは石原吉郎の文章。「肉親へあてた手紙」のなかにはいっている、ひとはどのような場合でも一方的な被害者であるはずはなく、被害者であるとどうじに容易に加害者に転じうる危険に瞬間ごとにさらされている、とのべているぶぶんだ。べつに一言一句暗唱できる必要はないが、それでもやはりいってみれば肉体化したいというわけで、くりかえしよんだ。くりかえしよんでいるうちに読み方がおのずとゆっくりになってきて、なんとなく意味のリズムがわかってくる。また、ときおり、それまで意識していなかったことばが、あ、ここはこういうことばだったのか、とうかびあがるようにとらえられて、その意味の射程があたまのなかにあらたに生じることがあり、素読の効果ってこういうことなんだろうなとおもった。
  • 労働ほかもおもいだせないし、無理におもいだすのも面倒臭いのではぶく。手帳のとぼしいメモからおもいだすに、往路は風がつよく、玄関の戸からでた瞬間、林が激しい風によってかきまわされて音響を降らせており、ほとんどくまなく一面揺れて、道をいくあいだも振動とひびきとが横にながく、途切れ目なくつづいているものだから、巨龍に支配されているみたいな比喩でイメージ化したおぼえがある。大蛇にせよ龍にせよ、じぶんは風のおとをそういうふうにイメージしがち。
  • あと(……)さんの家の横に生えている梅の木がちかづくと、路上から蝶が一匹たって、梅の木の枝先にうかびあがっていったのだが、したをとおりながらみあげれば葉っぱのなかにたしかに、葉の色とほぼかわらない淡い緑のすがたがみられ、けっこうおおきくて、葉が二枚ふえたようなかんじだったのだが、あれは蝶だったのか、もしかすると蛾のたぐいだったのか? 色も、地からたったときにすでに緑だったような気がするのだが、もしかすると白いものに葉の色が透けてうつっていたとか、そういうことだったのか? そんな現象がありうるのかしらないが。
  • あとは駅で、西の空に、雨色じみた雲が後光をせおっているのをみたくらいのこと。このときは水色がみえながらも雲もおおかった記憶がある。といって暗くはなかったはず。
  • あと、(……)とでくわしたのがたぶんこの日の帰路ではなかったか。過去の生徒で、裏通りをあるいているとうしろからやってきた自転車が減速しながらふりむいてきて、すぐにわかった。というのも、数日前に、職場の入り口にたっていたときにも彼がまえをとおったときがあって、そのときに目をあわせていたので。そこでなまえをおもいだしていたので、このときもすぐに(……)、とよびかけ、(……)、とフルネームすら提示してやると、あいてはよくおぼえているなとおもったようだった。この男子が塾をやめてから会うのはこれがはじめてではなく、過去にも何度かでくわしているので、容易に記憶している。むしろあちらがこちらのなまえをおぼえているかあやしい。とはいえこのときは、塾でのバイトに興味があるような口ぶりだったのでさそっておき、そばの公園にいってしばらくはなした。(……)の(……)。一浪していまは大学二年。英語がけっこうすきで、英語をおしえるということに多少興味をもっていたらしい。いまは(……)の「(……)」という居酒屋でバイトをしているのだが、コロナウイルスで仕事を減らされており、店自体もやばそうだしべつのバイトもやるかとまよっているところらしい。おまえがきたらうれしいしたのしそう、といってすすめておいたが、確定的な決意がないようだったのでどうなるか不明。いちおうそのうち電話がくるかも、と、職場のノートにはこの翌日にしるしておいたが。雨がはじまったのを機にわかれたのだが、(……)はわざわざそばの家にかえっていらない傘をもってきてくれた。べつにこちらは濡れてもよかったのだが。もし彼がバイトすることになったら、そのときにかえしてくれればよいとのこと。そのビニール傘をさしてゆっくり帰宅。

2021/5/30, Sun.

 いま、ひとつの論理的なすじみちの可能性だけを考えてみる。なにかがある [﹅2] 。そのなにかがある [﹅2] と考えられている以上は、それは同時にあらぬ [﹅3] ものであることはできない。ほかならないそのものがある [﹅2] 。ほかでもない [﹅2] そのものがある [﹅2] と語るかぎり、ほかのものについてはあらぬ [﹅3] と語らなければならない。そのものだけがあり、他のものはない。かくて、ある [﹅2] もののみが存在し、あらぬ [﹅3] ものは存在しない。そのような或るものを在るものと考え、それだけが在るものと考えるとき、その在るものはどのようなものと考えられなければならないだろうか。もっとも重要なものとされてきた断片B八は、つぎのように語っている。「ある [﹅2] ものは生まれず、滅びない」。それは「完全で揺るがず、またおわりのないものである」。「あった [﹅3] こともなく、あるであろう [﹅6] こともなく、いまある [﹅2] のである」。――「水」であれ「アペイロン」であれ、「空気」であれ「火」であれ、あるいは「数」であっても、およそそれがはじまりであり、いっさいの(end34)もとになる、そのものであるならば、それ自体としては生まれることもなく滅びることもないはずであろう。それ自体は生成せず、消滅もしないなにかがある [﹅2] のなら、それだけがすぐれてあり [﹅2] 、生成消滅する他のものはむしろない [﹅2] というべきではないか。パルメニデスの論理を整理しているシンプリキオスの一節を、ディールス/クランツから引いておく(B八)。

それは、ある [﹅2] ものから生じたのではない。べつのある [﹅2] ものが先に存在することはなかったからである。また、あらぬ [﹅3] ものから生じたのでもない。あらぬ [﹅3] ものは、あらぬ [﹅3] からである。さらに、いったいどうして、ある時に生じたのであって、それ以前にでもなければ、それ以後にでもないというのだろうか。あるいはまた、生成したものの生成については一般にそうであるように、この意味ではある [﹅2] けれども、あの意味ではあらぬ [﹅3] といったものから、生じたわけでもない。端的な意味である [﹅2] ものに先だって、この意味ではある [﹅2] が、あの意味ではあらぬ [﹅3] といったものが存在することはありえず、そうしたものはそれよりもあとから生じたものであるからである。

 なにかそれ [﹅2] は、生まれることも滅びることもありえない。変わり移ろうことのない、ひとつの、おなじものでなければならない。それ [﹅2] はある [﹅2] ものであり、あらぬ [﹅3] ものではないからである。(end35)おなじように、さらに、およそ生成は一般にありえない。生成とは、あらぬ [﹅3] ものがある [﹅2] ものになり(誕生)、ある [﹅2] ものがあらぬ [﹅3] ものとなる(消滅)ことであるからだ。

死すべき者たちが真実であると信じて、さだめたことのすべては、
かくして名目にすぎない。
生まれるということも、滅びるということも、あり [﹅2] かつあらぬ [﹅3] ということも。
場所を転じるということも、輝く色が褪せるということも。  (パルメニデス、断片B八)

 (熊野純彦『西洋哲学史 古代から中世へ』(岩波書店、二〇〇六年)、34~36)



  • 一一時直前に離床。晴れており、暑い。窓をあけざるをえない。水場に行ってきて、うがいや洗顔などすませてから瞑想。(……)ちゃんの家のこどもがにぎやかに声をたててあそんでおり、たぶん畑あたりにいた父親にはなしかけていたようで、そこでなにやってるんですかー? とかいっていた。瞑想は今日はみじかめ。一五分もいかなかったとおもう。
  • 上階にいき、洗面所で髪をてきとうにとかしたのち、ハムエッグをやいて米にのせて食事。はいってきた母親がセロリの葉かなにかをいれたスープもつくってくれたので、それもいただく。新聞には納富信留のインタビュー的な記事があったので、それをよんだ。対話の重要性というものが頻々ととなえられる混迷の現代だが、むしろ対話嫌いがめだってみえるようにもおもえる、それというのも、対話に必要な準備とかルールとか心得とかがわからないうちにとにかく対話をしろしろとばかりいわれるので、かえって忌避してしまうのではないか、というようなことを冒頭いっており、対話が対話として成立するには条件があるとして、三つくらいの要素をのべていた。まずひとつには、対話のあいては特定の少数人でなければならないということで、なぜならば対話においてはあいてがひとりの人格をもった「私」としてあつかわれなければならないからであり、したがってSNSを場とした匿名的な不特定多数者とのコミュニケーションは対話とはなりえない。もうひとつには、対話への参加者はおのおのが対等でなければならない。現実にはわれわれはだいたいいつもなんらかの役割をにないながら他者とコミュニケートしており、そこでは親と子であったり教師と生徒であったり、上司と部下であったりと、関係に上下をわける権威性がはらまれることはおおいのだけれど、対話においてはそうした役割観念をこえた個としての人間があらわれなければならない、と。もうひとつはなんだったかわすれた。納富信留はやはり古代ギリシア哲学をやっている人間らしいというか、二次大戦の惨禍もあり、戦後には共産主義の失敗もあり、理想というものにたいして白けたムードをもつのがデフォルトみたいになっている時代だけれど、どうしたって対話をつうじて理想をかたっていくしかないとおもう、現実の社会で善い活動をしているひとはたくさんいるので、哲学の立場からそういうひとびとのおこないをすくいあげていってつなげることができれば、みたいなことをいっていた気がするが、最後のあたりは記憶があいまいなので多少ちがっているかもしれない。いわゆるポストモダンの趨勢によって真理や普遍性にたいする懐疑がひろがり、真理といったって結局は権利じゃないか、という風潮がしばらくたかまっていたわけだけれど、さいきんではまた、それを通過して真理をあらためてかんがえていかなければならないのではないか、といううごきがうまれているともあって、そりゃそうだろうとおもう。それは古代ギリシアでも状況はおなじだった、ともいわれていた。ようするにいわゆるソフィスト的なひとびとが人間中心的な相対主義をとなえたのちにソクラテスプラトンがそれをこえた真理を探究しはじめた、ということだろう。けっきょくは、いちおう思想的に最先端といわれる(構造主義以来の)ポストモダンの知見をふまえたうえで、古典的なところにいかにもういちど、そしてくりかえしたちもどるか、というのがひとつの課題になるはず。それはなにもべつに、ひとはいかに生きるかとかそういう問いを大上段にかまえて論じろというのではなく(べつにそういう問いを論じたっていっこうにかまわないとおもうが)、啓蒙の失敗とその帰結および二〇世紀の惨禍をまなんで反動にとりこまれることなしに、いかにつぎにすすんでいくのか、ということであるはず。具体的にはちっともわからんが。あと、たちもどるといったときに、それが古代ギリシアなのか?(古代ギリシアであるべきなのか?) ということもあるし。
  • ひとまずその記事だけよんでおき、食事を終了。皿をながしにもっていくと、母親が、外でたべるから父親に膳をはこんでくれというので盆をもち、玄関からサンダル履きでそとへ。陽が照っており、暑い。夏にちかい空気の感触。まだじりじりとつよく収束するというほどではないが、熱気によって肌がつつまれとざされるかんじはある。家のよこをくだって南側にまわり、木製テーブルのうえをはらっていた父親に、飯が来たぞとつげてちかづいていき、盆を置く。母親もあとからじぶんのぶんをもってやってきた。梅の木はさかりで、枝に葉とおなじすずやかな青緑色の実をたくさんつけており、枝はその重みでか、ひくいところまでながれるようにおりのびてきている。あたりをちょっと見分しながらもどった。白い蝶が闊達にとびまわっており、風はたえずながれて草木からさわやかなみどりのひびきをさそいだしている。
  • 室内にもどると皿をあらい、風呂もあらう。緑茶をつくって帰室。コンピューターおよびNotionを用意すると、今日はまず一年前の日記をよみかえした。とくだんのことはない。それから、Evernoteに「あとで読む」ノートをつくってためてあったURLをNotionにもうつしておくかとおもい、一気にコピペしようとすると容量がおおきすぎるとかでキャンセルされるので、いくつかの範囲にわけてコピーしていき、その最中にみかけた千葉雅也×岸政彦「書くってどういうこと?――学問と文学の間で: 第1回 小説と論文では、どう違う?」(2020/4/17)(https://kangaeruhito.jp/interview/13989(https://kangaeruhito.jp/interview/13989))をよんでみることに。千葉雅也が『デッドライン』について、ベケットを意識したといっているが、(……)さんがこの作をよんだときにもベケットっぽいところがあって、みたいなことをかいていたようなきがする。

西 [成彦] 我々三人は、立命館大学の先端総合学術研究科で教員をしています。ここは火山が海底から噴き出すように2003年に生まれた大学院で、分野ごとのディシプリンに縛られることなく相互に行き来しながら、21世紀にふさわしい知の体系を作ることを目指している。私はその初期からのメンバーで、2012年に千葉さん、17年には岸さんが着任し、同僚となりました。先端研には文学を専門とする学生も一定数いて、私は比較文学者の立場から指導にあたってきましたが、哲学や社会学を究めたお二人がいらしたことで文章表現の上でも新たな環境ができつつあります。

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千葉 そもそも僕は、文章を書くようになったきっかけが高校時代に愛読していた稲垣足穂にあるんですね。足穂はエッセイみたいなものだったり、小説みたいなものだったり、あるいは詩みたいなものだったり、その時々の都合で様々な形式の原稿を書き散らした人で、僕はそうした自由な書き方に憧れてきた。大学に入ると実は足穂のような文章は本当には知的だと見なされていないことが分かり、きちんとした論文を書くという通過儀礼を経ましたが、30歳前後から自分自身も依頼を受けて文章を書くようになって、次第に物語的な書き方にも挑戦してみたくなってきたんです。

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岸 僕が小説を書くようになったのは、これはもうそこらじゅうで喋ってることですが、ある編集者に熱心に依頼されたからなんです。スティーヴン・キングカート・ヴォネガットは好きだったけど文学なんて全然まったく読んでいない、興味すらなかった自分に、そのひとは「小説を書いてほしい」と言ってきて。三年がかりで口説かれてさすがに根負けし、そこまで言うなら書いてみましょうか、と自分なりのホラー・ファンタジーSFの構想を話したら、まさかの反応ゼロだった。「向いてないです」と一蹴されて(笑)。
 編集さんからは「むしろ自分自身の話を書いてください」と言われ、人生で一番つらかった日雇いで建築労働者をしていた時期のことを思い出して3~4日で書いたのが、「ビニール傘」という短篇です。この作品がたまたま芥川賞の候補になり、二作目の「背中の月」とあわせた単行本が今度は三島賞の候補にもなったんですね。まあ、落ちましたけど。ちなみにそのあと書いた「図書室」という小説も三島賞候補になって、これも落ちてます。

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 でも面白いことに、さっき話に出した小説執筆を勧めてきた編集さんは、僕が2013年に最初の本『同化と他者化』を出した直後にはもうそのオファーをしてきてるんですよね。沖縄の本土就職者について調査して書いた、非常に地味な社会学の学術的な本なのに。あとからそのことについて、どうしてあんな文学から一番遠い本を読んで小説が書けると思ったんやと聞いたら、「文章にどこか過剰なものがあった」と言うんです。自分としてはオーソドックスな社会学の本を書いていたつもりなんだけど、そこに書き手の自我が滲み出ていて、こいつは絶対小説を書けるに違いない、と確信したと。

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千葉 影響を受けた作品はあるにはあって、ちょっと意外に思われるかもしれないですけど、草稿段階ではかなりサミュエル・ベケットを意識していたんです。ベケットが晩年に書いた小説、『見ちがい言いちがい』や『いざ最悪の方へ』を見ながら、短いパッセージで同じようなことがずっと続くのは面白いなと。いざ自分が小説を書くとなったとき、意識的に書こうと頑張っても多分難しいので、非人称的に「書けちゃう状態」を作り出せないかなと思っていて、ベケットのどこか機械的な感じを参考にしました。機械的あるいは自動生成的な感じというか。

  • その後、書見。きのうギリシア悲劇をよみおえてから、いつものことでつぎの本なんにしようかなあとおもっていたのだけれど、候補としてはなんとなくレベッカ・ソルニットの『迷うことについて』でもよむか、それかなぜかわからないがモーリス・パンゲの『自死の日本史』もあがったり、もしくはもう長年つんである東洋文庫の、なんとかいうひとのアジア旅行記でもよむかとか、それか詩か、あるいはパレスチナにかんする新書か、BLACK LIVES MATTER特集の『現代思想』か、とかそんなかんじだったのだが、なぜか斎藤兆史『英語達人塾』という中公新書の本をよもうとかたまった。これは兄の部屋にあったのを先般もってきてあって、英語とか語学の学習法としてはこちらはもうとにかく音読すりゃだいたいいいだろとおもっているのだけれど、それでもなにか参考になることがあるかなとおもってひらくことに。斎藤兆史というひとは英語学習にかんする著作のほか、ジョン・バンヴィルとかジュリアン・バーンズとかV・S・ナイポールとかを訳しているようで、まえがきをよむに、この本は苦労をしてでもマジで達人になりたいひとを対象にしたもので、初学者がたのしく英語をまなべるというふうにはそもそもできていない、ということわりがあり、口調もわりと、大仰とまではいかないとしてもかたくるしいようで、また文章のはしばしに教育者的な権威性がかんじられないでもないが、いっていることはだいたいどれも正論だし、なにより、まず母語を大切にできない人間が外国語をただしく習得できるはずがない、とじぶんでもいっているとおり、読点のつけかた、リズム、語の(つまり意味の提示の)順序、一部分のながさ、など、日本語の文章としてきちんと書かれていることがあきらかで、だからその点では信用をおけるとおもう。めちゃくちゃすごい文章というわけではむろんないが(内容の性質上、表現性がつよく要求されるものではないので)、新書だからといって手を抜かず、ていねいに書かれていることはまちがいないと確信できるし、きちんとした仕事をしている学者だと判断される。
  • 過去の日本の「英語達人」にまなんで、また斎藤兆史自身の学習・教育経験も加味して独習法を提案するという本で、ときおり達人たちのエピソードが紹介されるのだけれど、やはりそれがおもしろく、このひとは『英語達人列伝』という本もおなじ中公新書でだしているようなので、むしろそちらをよみたい。長崎の通詞のはなしなどもちょっとだけだがでてくるし、あと、仙台藩士の家出身の斎藤秀三郎という英語学者がいるらしく、このひとはじぶんは海外にいったことはいちどもなかったくせに、「イギリスの劇団が来日し、下手なシェイクスピア劇を演じようものなら、「てめえたちの英語はなっちゃいねえ」と英語で一喝したという」(41)からわらう。英語版の関口存男といったところだろうか。あと、西脇順三郎も辞書がすきでよく通読していたらしく、中学校時点で井上十吉というひとがつくった英和辞典をよみまくっており、どこの内容をきいてもしらないところがなかったから、教師から、おまえに教えることはもうなにもないから、なんでも好きなことをやっていいと言われていたという。そのまえ(68)には、山縣宏光という、東大の教養学部にいた辞書マニアみたいな先生も紹介されており、「たしかこの先生は、世界最大の英語辞書『オックスフォード英語辞典』の本体部全12巻も4、5回通読していたはずだ」とのこと。そんなに年を取らないうちに亡くなってしまったらしいが、もし生きていたら歴史にのこるすばらしい辞書をつくっただろう、とのこと。
  • 素読と暗唱のはなしがでてきて、幣原喜重郎が留学時代に暗唱をかせられていたとか、あと、岡倉天心など明治の連中はこどものときに漢学で素読をやらされていて、みたいな、まあよくあるはなしがかたられるのだけれど、こちらも音読をよくやっているわけだけれど、じっさい素読・暗唱はたぶん語学的・言語能力的には効果はだいぶあるとおもう。それで、いまこちらは英語の音読用に「英語」というノートと、あと書き抜きした文をよみかえすために「記憶」というノートとの二種をもうけておりおりよんでいるのだけれど、このうち「記憶」にかんしては方針をかえて、もっと文をすくなくしぼり、すばらしい文章として惚れこんだものにかぎって、マジで暗唱できるようにする、というやりかたにしたほうがいいかなあとおもった。というか、もともとはそういう企図だったのだけれど、やっているうちに知識を身につけるという目的がわりこんできて、いちおうなんとなくあたまにいれておきたいことをなんでもほうりこむノートと化してしまったのだ。それはそれで益があるのだが、もともとはすばらしい言語を血肉化したいという欲求からはじめたものだったわけだし、やはりそちらにフォーカスしたほうがいいかなあとあらためておもった。正式にどうするかまだわからんが、とりあえず暗唱用の記事もべつにつくってみようかなと多少おもっている。暗唱できるようになったからといってどうということもないとおもうのだけれど。それは、やっぱりつねにもっておいていつでもとりだしたいみたいな、たんなる偏愛の表現の一種だろう。好きな音楽をいつでもききたいというのと、たぶんだいたいおなじことだろう。
  • この新書はいったん79まで。その時点で四時まえくらいだったか? よんでいるあいだは臥位で例によってふくらはぎを膝で刺激したり、横向きになって背中や腰や肩をもんだりしていた。なんだかんだいって、指圧して筋肉をやわらかくするというのは単純に効果がある。一日やったくらいではすぐにもどってしまうが、これを習慣にすればたぶんからだがより楽な状態にたもたれるだろう。書見をきって、トイレにいき、もどるとここまできょうのことを記述して、いまは五時まえ。
  • そういえば午後になってから、にわかに雨が降ってきたのだった。起きたころにはよく晴れていて暑かったのに、いつのまにかくもって、雨がはじまった。それで母親は、予報があたった、といっていた。天気予報で午後は雨になるかもといわれていたらしい。もっとも雨はながくはつづかず、そのあと、夕方ごろにはまた多少あかるくなっていたはずだが。
  • 五時まえに上階へ。アイロンかけをおこなう。シャツやらエプロンやらハンカチやら。こちらがアイロンかけをしているあいだに母親は料理をしており、ナスを焼くかとか麻婆豆腐にするかとか、あるいはあわせて麻婆茄子にするかとかいっていたのだが、ナスはけっきょくそのまま炒めた。母親は、ナスは炒めるっていうよりも焼いて、焦げ目をつけて、と要求していたのだが、じぶんでやってもどちらかというと炒めるかんじになっており、あまり香ばしく焼いた、というふうではない。もうひとつ、タマネギと冷凍してあった豚肉を炒めて、そのあたりでこちらもアイロンをおえて台所にうつり、米を磨いだ。そしてサラダをこしらえるだけ。それも例によって、ダイコンやらニンジンやらをスライサーでおろして洗い桶で水にさらすだけの手軽なかたち。おえると六時まえくらいだったか? 部屋にもどり、ふたたび書見をした。たしかこのとき南方熊楠のエピソードをよんだはず。南方熊楠はこどものころから学習欲がなみはずれて旺盛だったらしく、八歳だか九歳のころからすでに、知人の家に本をよみにいき、そこでよんだ本の文を記憶して、かえってくると記憶をたよりに筆写した、とかかかれてあったのだけれど、さすがに無理だろとおもう。一字一句おなじというわけではさすがにないだろう。ふつうに借りて写したものもあったとおもうが、それでも、そういういとなみで一〇五巻くらいあるなんとかいう本もぜんぶ写してしまったとかで、書抜きはじっさい言語感覚をやしなうにせよ知識を身につけるにせよ多大な効果があるとこちらもじぶんの経験からして断言できる。それにしても南方熊楠はむろん手書きでそれをやったわけなのですごいが。ロンドンだかに留学していたときにも、膨大な量の抜書きをしており、それがノートとしてのこっているとかなんとか。南方にせよ関口存男にせよほかのひとたちにせよそうだが、偉人とよばれるむかしの連中のこういう極端さはいったいなんなのか。
  • 七時すぎで食事へ。あがっていったとき、ガザ地区の瓦礫のしたからこどもが救出されたというニュースがテレビでながれていたはず。食べ物を用意して席につき、食べながら新聞。米上院で一月六日の連邦議会議事堂襲撃事件にかんして独立調査委員会を設置するという法案が審議されていたらしいのだが、共和党がおうじず否決され、事実上廃案になったと。上院の定数は一〇〇で、民主党が五〇をなんとかとっており、たしか票決が同数のときは副大統領が一票くわえるとかでだからいちおう優勢なのだが、今回の法案への賛成は五四という。しかしそれだと可決されるはずなのでどういうことだったかといま検索すると、時事通信の記事(https://www.jiji.com/jc/article?k=2021052900227&g=int(https://www.jiji.com/jc/article?k=2021052900227&g=int))に「法案は下院を通過していたが、上院では採決に進むための討議打ち切り動議への賛成が54票にとどまり、可決に必要な60票に満たなかった」とあった。「共和党からは6人が賛成票を投じた」とも。共和党のひとびとの大半が反対したのはもちろんドナルド・トランプの意向にしたがったもので、ドナルド・トランプアメリカ合衆国の政治史上最高の偉大なるクソ馬鹿だということはあきらかだが、そのクソ馬鹿におもねらないかぎり国会議員が議会にのこれず政治家として生きていけないのがこの西暦二〇二一年の現実だ。ドナルド・トランプのことを知った一〇〇年後のひとびとが大爆笑することはまちがいない。そしてそのなかの、想像力をそなえたこころあるひとたちは、爆笑したあとに恐怖の念をいだくだろう。
  • ほか、二〇〇八年に発生した四川地震で倒壊し三〇〇人ほどのこどもたちが犠牲になった学校跡地が、「パンダ小路」という商業区域に変えられたというはなしも。地震のときには建物が崩れ、手抜き工事だったのではないかと当局に批判がむけられたらしく、共産党政府としては都合が悪い歴史なのだろう、それをかくしてわすれさせようという目論見らしく、区域には追悼や記録の碑はまったくない。いっぽうで、救出作業が大々的におこなわれた震源にちかい中心地では、記念館というか、建物がのこされて地震の痕をつたえる施設みたいなものがつくられたというが、それは例によって愛国プロパガンダのための道具である。つまり、共産党中央政府のすぐれた指導のもと、党員も救出隊員も住民も一丸となって英雄的に救出作業に従事した、ということがかたられているわけだ。またしてもヒロイズム、またしても愛国。死者を無視し、都合よく利用し、死者の死を搾取している。
  • 食後はふたたび書見して、南方熊楠のことをよんだのはこのときだったかもしれない。読了はこのときだったか深夜だったかわすれた。斎藤兆史『英語達人塾 極めるための独習法指南』(中公新書、二〇〇三年)をこの日よみはじめて、はやくもよみおえてしまったのだ。186ページのみじかい新書ではあったが、まったく読み飛ばさず、いそぐこともなく、書かれてあることをふつうにきちんとよんでいちおう全部触れてはいるので、われながらわりとおどろく。ただ、こちらはべつに「英語達人」になりたいわけではないし、ただ英語で本がよみたいのとじぶんなりに訳したいだけで、教材を用意してまじめに勉強・訓練しようという気はないので、べつにそんなにおもしろいはなしでもなかった。偉人連中の極端なエピソードがやはりおもしろポイントで、だから『英語達人列伝』のほうをむしろよみたい。
  • 九時まえから入浴。暑かった記憶がある。これくらい暑くなると湯のなかでじっと瞑想じみているのもなかなかむずかしい。でてくると九時半すぎだったか。日記を少々しるした。
  • (……)
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  • そのあとのことはわすれた。ピエール・ヴィダル=ナケ/石田靖夫訳『記憶の暗殺者たち』(人文書院、一九九五年)をよみはじめたくらい。

2021/5/29, Sat.

 女神が告げるふたつの道の一方は、「ある [﹅2] とし、あらぬ [﹅3] ということはありえないとする道」であり、それが真理へとみちびく道である。もうひとつの道は「あらぬ [﹅3] とし、だんじてあらぬ [﹅3] とするべきであるとする道」になる。これは探究するすべもない道であって、ひとをドクサへとみちびく。あらぬ [﹅3] もの、無については、およそ知りようもないからである(断片B二)。
 「ある」のまえに通常は「それが」等とおぎなうことが多いけれど、伝承されたテクストには、「ある」(エスティン)としるされているばかりである。解釈者たちはそれ [﹅2] を、存在するものと解し、ひとつのもの(一者)とも考えてきた。断片B三には、「おなじものが考えられ、ある [﹅2] とされうる」(伝統的な読みでは「考えることとある [﹅2] こととはおなじことである」)とあり、断片B六では、「ある [﹅2] ものがある [﹅2] と語り、考えなければならない。なぜならそれがある [﹅2] ことは可能であるが、あらぬ [﹅3] ものがある [﹅2] ことは不可能だからである」とある。どの脈絡を辿ってみても、それ [﹅2] がなんであるのかは、あきらかでない。――存在者があり [﹅2] 、世界がある [﹅2] 。無ではなく、なぜか、(end33)存在者が存在している。さまざまに存在するものがあり、それらは、ひとしく存在しているといわれる。おのおのの存在者はそれぞれにある [﹅2] かぎりでは、すべて存在とよばれる。その意味では、むしろ、それが存在であるもの、存在自体だけがある [﹅2] 。パルメニデスを捕らえたのは、このひどく単純で、けれども深い驚きの経験だったのではないだろうか。
 (熊野純彦『西洋哲学史 古代から中世へ』(岩波書店、二〇〇六年)、33~34)



  • 一一時二〇分離床。この日は瞑想できた。といって、どんなぐあいだったかおぼえていないが。上階に行って食事は炒飯だった。新聞からは例によって国際面。英国の元首相上級顧問みたいなひとが、ボリス・ジョンソンおよび英国政府は当初、新型コロナウイルスを軽視していたと議会で暴露証言したらしい。このひとはたしか、なんとかカミングスというなまえだったようなきがする。昨年末だったかにボリス・ジョンソンとの不和で職を辞したらしいのだが、彼いわく、政府高官らは当初、コロナウイルスの影響をかるくかんがえてあまり深刻にとりあつかわず、スキーにいったり会食したりしていたと。また、二度目のロックダウンのときには、ボリス・ジョンソンが経済的縮小をきらって、ロックダウンをして経済が停滞するよりは死体の山がつみあがるほうがましだ、みたいなことをいったという。ジョンソン側はとうぜん否定。どんなものであれ、この問題の決断をかるくあつかったことはまったくないと。ちなみに今日(三〇日)にテレビで一瞬みかけたところでは、ボリス・ジョンソンは婚約者と挙式したとか。よくみえなかったのだが、あいては三三歳とか画面にでていたような気がする。外見をみてもたしかにけっこう年の差がありそうな、わかい女性だったとおもう。
  • また、フランスとルワンダが歴史的和解、ともおおきくでていた。九〇年代のルワンダ虐殺において、フランスが気づかぬうちに虐殺者のがわに立ってしまっていたということをマクロンが率直にみとめたと。ただ虐殺への直接的な関与は明確に否定し、正式な謝罪もしなかったが、ルワンダ側は歓迎している。ルワンダはもともとベルギー領だったらしく、フランス語教育もなされていてフランスとのむすびつきはつよかったらしいのだが、虐殺以降は関係が冷え、内戦を鎮圧したポール・カガメ現大統領がフランス語教育から英語に転換したり、あとフランス語の国がおおくあつまる中部アフリカ連合みたいな組織からも距離をおいたりしていたという。ルワンダ内戦はもともと権力をにぎって国をおさめていた少数派のツチ族にたいして多数派フツ族が反乱を起こしてジェノサイドを犯した事件で、カガメ大統領はツチ族の出身であり、たぶん内戦鎮圧からいままでずっと政権をにぎっているのだろう。彼がフランスとの接近にのりだしたのは、たしかやはり経済的利益をとって、みたいなことが書かれていた気がする。この記事のすぐ下には、ドイツもまた、ナミビアで一九世紀末だか二〇世紀初頭だかにおいて起こした虐殺に責任があることをみとめ、謝罪し、賠償金のたぐいを支払った、とあったとおもう。そちらはあまりちゃんと読まなかったのだが。
  • (……)
  • (……)
  • 書見。『ギリシア悲劇Ⅱ ソポクレス』(ちくま文庫、一九八六年)の終盤。498からよんでいて、これはもうたぶん最後の「コロノスのオイディプス」にはいっていたはず。このときはまだとちゅうまでで、帰宅後、夜に読了した。この日は三時から勤務で、二時すぎにはでなければならなかったので、一時半ごろに書見を切ったはず。それからトイレにいき、放尿したついでにトイレ用の「マジックリン」とトイレットペーパーで便器を拭いておき(便座の穴の縁のきづきづらいところが意外とよごれている)、もどってきがえ。紺色のベストすがた。この昼間はけっこう暑かった。空は白く、晴れではなかったのだが。
  • しかし二時をまわって出発したときには雲がすくなくなって青さが露出しており、日なたも道をひろくなめていて晴れと言ってよい天気になっていた。かなり暑いものだからマスクをつけていると苦しいので、最初は顎のほうにずらして口と鼻を露出させた状態でいった。すれちがうひともないし。街道に出たところで顔を覆った。ちょうど対向者もあったし。ただ、その女性がちかづくまえに通りをわたったので、そばですれちがうことはなかったが。そうしてひかりのなかをあるいていく。路傍の空き地の草むらからは蝶がうかびあがり、空は青く、ツバメが通りのうえを飛行する影が地をすべったり、ほかにも宙を住まいとするともがらたちが上空、ちいさな黒点として何匹か連れ立ちながらわたっていく。今日も(……)公園のまえあたりで工事をしており、先日とおなじようにそのてまえで裏道におれてはいっていく。風がけっこうながれていて、それをうけとって揺れるほどのやわらかさがあるあたりのものは、家々をつつむ庭木であれ、二階のちいさなベランダにつるされた洗濯物であれ、路傍にはえたほそい下草の群れであれ、線路をこえたむこうに鎮座する森の樹々であれ、すべてゆらゆらと揺動していて、さわやぎの感がうまれて、一〇分そこそこあるいてからだもあたたまったのか、マスクをつけていても多少楽である。
  • そのほかの往路のことはわすれた。勤務(……)
  • (……)
  • (……)
  • (……)
  • 退勤。今日は行きにあるいたからかえりはいいかとおもって、電車をとった。駅にはいって乗車し、まもなく発車。最寄り駅でおりると午後五時まえのひかりがまぶしく降りつけて、近間の屋根のひとつは一面白くおそわれて、銀紙につつまれた板チョコのようになっている。自販機でコーラの二八〇ミリリットルを買って駅をでた。あたりの木や葉の緑色をながめながら坂道をおりていき、下の道にでて公団まえをいきながら、視線は彼方の、いましがた電車にのってそのまえをとおってきた丘や市街のほうにのびてながれる。すぎてみあげれば晴れ空に直上はみだれなく水色があきらかで、雲がほんのかすか、底にかくれてなじんでいるようにみえなくもないが、背後で山のあちらにむかいつつあるひかりの白さがまだわたっているものか、どちらなのかがわからない。
  • 帰宅後、きがえなどすませたあと、二七日の日記。食事は父親ももう一日泊まってくるだろうからかんたんでいいというので、母親にまかせてサボってしまった。しかし父親はけっきょく帰ってきたのだが。ベッドにころがってしばらく書をよみながらやすんだあと、ちっともはたらいていないのにつかれをかんじて、臥位のまま目を閉じて少時休息していた。それで七時。
  • 夕食時のことは忘却。夕食まえに本をよみおえたのだったか? それとも夕食後だったか。不明だが、食事は麻婆豆腐など(……)。
  • ギリシア悲劇Ⅱ ソポクレス』(ちくま文庫、一九八六年)を読了し、書抜きも少々。J.J. Johnson『Dial J.J. 5』をながした。Miles Davisの曲である"Blue Haze"で、ピアノがずいぶん味わい深いような、ブルージーだけれど上品なやりかたをしているなとおもって、Garlandほど柔弱ではないしだれだったか、Hank Jonesあたりか? としらべてみると、Tommy Flanaganだった。ドラムはElvin Jones。ここにElvin Jonesいたのか、とおもった。J.J. Johnsonはやたらうまい。

As Daniel Dennett points out, our adoption of the intentional stance is so much a part of who we are that we have a hard time turning it off – especially after someone dies. A loved one’s death, he writes, “confronts us with a major task of cognitive updating: revising all our habits of thought to fit a world with one less intentional system in it”. And so we talk about our deceased loved ones as if they’re still around, telling stories about them, reminding ourselves that they would approve of our decisions.

In short, we keep them around. But not physically because, as [Pascal] Boyer points out, dead bodies are a problem. “Something must be done” with them. Indeed, “religion may be much less about death than dead bodies”. For this reason, some suggest that the earliest forms of supernatural agents were the departed, the ghosts of whom are minimally counterintuitive: like us in almost every way, except for the disappearing through the wall thing.

     *

Closely related to the idea of agency is what Dennett refers to as a cards-up phenomenon. Agency detection carries with it certain risks: do you know about that bad thing I did? How can I be sure you know, and how can I be sure about what you think about me because of it? These are complex questions and human beings aren’t good at managing all the options. What’s needed for learning how to navigate these muddy waters is for everyone to be taught the rules of the game by placing all of our cards face up on the table. The teacher, then, is something of a full-access agent: they see everything and can instruct us accordingly.

The original full-access agents, says Dennett, were our dead ancestors. But eventually, the seeds of this idea became more formalised in various theologies.

“Humans are not very good at behaving just because you punish them for not behaving,” says evolutionary psychologist Robin Dunbar, “otherwise we would all be driving well under 70 on the motorway.” The real problem isn’t how bad the punishment is, but how risky it is to be caught. If the risk is low, he says, we’re prepared for the punishment.

This would have been a major issue in prehistory. As hunter-gatherer groups grow, they need to be able enforce a punishment mechanism – but the greater the size of the group, the less chance there is of being found out.

Enter full-access agents: “We don’t see what you do on Saturday night, but there is somebody who does, so beware,” as Dunbar puts it.

     *

As I argued in the first part of this series, morality predates religion, which certainly makes sense given what we know about the very old origins of empathy and play. But the question remains as to why morality came to be explicitly connected with religion. Boyer grounds this connection in our intuitive morality and our belief that gods and our departed ancestors are interested parties in our moral choices.

“Moral intuitions suggest that if you could see the whole of a situation without any distortion you would immediately grasp whether it was right or wrong. Religious concepts are just concepts of persons with an immediate perspective on the whole of a situation.”

Say I do something that makes me feel guilty. That’s another way of saying that someone with strategic information about my act would consider it wrong. Religion tells me these Someones exist, and that goes a long way to explaining why I felt guilty in the first place. Boyer sums it up in this way: “Most of our moral intuitions are clear but their origin escapes us… Seeing these intuitions as someone’s viewpoint is a simpler way of understanding why we have these intuitions.” Thus, Boyer concludes, religious concepts are in some way “parasitic upon moral intuitions”.

     *

But the problem created by increased sociality is its maintenance, as Dunbar explains. Before our ancestors settled into villages, they could simply “move from the Joneses to the Smiths’ group when tensions arise”. After settlement, however, they faced a very serious problem: “how to prevent everybody from killing each other”. Enter grooming.

The bonding process is built around endorphin systems in the brain, which are normally triggered by the social grooming mechanism of touch, or grooming. When it comes to large groups, says Dunbar, touch has two disadvantages: you can only groom one person at a time; and the level of intimacy touch requires restricts it to close relationships.

Recent data caps wild primates’ daily maximum grooming time to about 20 percent of their activity. Dunbar calculates that this cap limits group size to fewer than 70 members, which is significantly less than the group capacities of modern humans, at about 150. The problem, then, was to find a way to trigger social bonding without touching. Laughter and music were good solutions, which Dunbar says create the same endorphin-producing effects as grooming by imposing stress on muscles. Language works, too, a theory Dunbar has explored at length in his book Grooming, Gossip, and the Evolution of Language. Because these effects can be achieved sans touch, social bonding can happen on a much larger scale.

Dunbar’s argument is that religion evolved as a way of allowing many people at once to take part in endorphin-triggering activation. Many of the rituals associated with religion, like song, dance, and assuming various postures for prayer, “are extremely good activators of the endorphin system precisely because they impose stress or pain on the body”.

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But these sporadic dances only worked until our ancestors began to settle down. Once hunter-gatherers began to form more permanent settlements, around 12,000 years ago, something more robust was needed to encourage populations to behave prosocially towards each other. Especially given the enormous newfound stress that comes with living in such large and inescapable groups. Trance dances could happen in these larger communities with some regularity – say, monthly – but what is needed are more regularised rituals to encourage social cohesion.

The formation of permanent settlements corresponds with the advent of farming. The agricultural, or Neolithic, revolution, began in the Fertile Crescent in the Middle East, which is sometimes referred to as the Cradle of Civilisation. Dunbar says it’s in these settlements where history’s first ritual spaces appear, the oldest of which is Gobekli Tepe in south-east Turkey. First examined in the 1960s, the site was excavated from 1996-2014 by a team led by German archaeologist Klaus Schmidt. In a 2008 Smithsonian Magazine feature, Schmidt referred to the site as humanity’s first “cathedral on a hill”. Gobekli Tepe, which means “belly hill” in Turkish, is a non-residential space that seems to have housed various temples made of pillars. It is estimated to date to about 10,000 BCE.

As historian David Christian writes in Origin Story: A Big History of Everything, farming was a mega-innovation, like photosynthesis. That is, farming was a major threshold that, once crossed, set off our ancestors on a whirlwind journey that ran headlong into the complex societies that have dominated our species’ recent history. As population growth surged, mega-settlements saw increased social complexity, and large-scale political, economic, and military networks, says Christian. To accommodate such large groups, earlier ideas about kinship had to be modified “with new rules about properties, rights, ranking, and power”. The result of this ranking was the concept of specialisation, which led to different the stratification of classes. Some were rulers, some were merchants, some were priests.

In contrast to hunter-gatherer religious experiences, the religious rituals of Neolithic humans “focuses above all on one person, the divine or quasi-divine king, and only a few people, priests or members of the royal lineage, participate”, writes the late sociologist Robert Bellah. Importantly, it was during this period that “king and god emerged together… and continued their close association throughout history”.

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Eventually that association came to be challenged in what some have called the Axial Age. Originally coined by the philosopher Karl Jaspers, the term refers to a time of sweeping changes that occurred in the first century BCE in China, India, Iran, Israel, and Greece. It was then, claimed Jaspers, that “man becomes conscious of Being as a whole” and “experiences absoluteness in the lucidity of transcendence”. It was then that our species took “the step into universality”.

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Still, Bellah thinks the concept is worth holding onto, albeit with qualifications. If we set Jaspers aside, it’s still impossible to deny that huge transitions in thought happened very quickly in the first century BCE. When I ask Dunbar if he buys the Axial Age hypothesis, he says, “If by that you mean a phase transition in which suddenly and quickly you have the emergence of religions with rituals and doctrines, the answer is yes.”

So what was axial about the axial age? First, all of the so-called axial breakthroughs occurred outside imperial centres. Bellah says an increased competition between states “created the possibility for the emergence of itinerant intellectuals not functioning within centralised priesthoods or bureaucracies”. Axial figures were able to criticise the centre from the margin. In fact, one historian has called the Axial Age “the age of criticism”.

Bellah says the question that was key during this breakthrough period was, “Who is the true king, the one who truly reflects justice?” So, for example, in Greece, Plato instructs people to look not to the aristocrat Achilles but to Socrates. In India, the Buddha was the one who gave up his claim to kingly succession. And in Israel, the God/king unity was decisively broken with the prophetic tales about YHWH rejecting and installing kings at will. In short, Bellah argues, axiality consists in the ability to imagine new models of reality as preferential alternatives to the ones already in place.

The key to this transition to criticism was the capacity for graphic invention and external memory, without which a bridge from Neolithic to modern humans might never have emerged, according to Bellah. Without the ability to store information outside the human brain, humans would not have been able to develop second-order thinking. And without that, we would never have been able to codify our religious experiences into elaborate theologies.

Surely there were theory and analysis before writing, as Bellah admits. Nor should we overlook the fact that orality and literacy overlap in ways that make it difficult to say that something is only the effect of literary culture. Still, as Bellah notes, we shouldn’t downplay the importance of the written word, which allowed narratives to be written down, studied, and compared, “thus increasing the possibility of critical reflection”.

The kind of thinking that he sees emerging in the Axial Age is theory about theory, thinking about thinking. It’s second-order thinking that leads to a religious and philosophical breakthrough: “not only a critical reassessment of what has been handed down, but also a new understanding of the nature of reality, a conception of truth against which the falsity of the world can be judged, and a claim that truth is universal, not merely local”.

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One of the better somethings, for many people, seems to be religion sans doctrine or hierarchy. Many researchers have noted that at the same time Church attendance in the West has declined, there’s been a noticeable increase in spirituality. Hence, the so-called Spiritual But Not Religious (SBNR) phenomenon.

Spirituality in this sense has been defined by one researcher as “a personalised, subjective commitment to one’s values of connection to self, others, nature, and the transcendent”. In a 2017 survey [https://www.pewforum.org/2018/05/29/attitudes-toward-spirituality-and-religion/pf_05-29-18_religion-western-europe-05-02/(https://www.pewforum.org/2018/05/29/attitudes-toward-spirituality-and-religion/pf_05-29-18_religion-western-europe-05-02/)] across 15 Western countries, for example, 64% of SBNRs said even though they didn’t believe in God as described in the Bible, they believed in a higher power.

2021/5/28, Fri.

 世界をめぐる経験はさまざまな文体によって語りだされ、経験にかかわる思考は多様な表現によって紡ぎだされる。ヘラクレイトスはたとえば、神託ふうの箴言で世界に現前するロゴスをかたどっていた。箴言、つまりアフォリズムはアポ・ホリスモスに由来し、ホリスモスとは限界を設定することである。箴言という形式はもともと、世界を原初的に切りわけることで、そのロゴスをあらわにする、すぐれて哲学的な文体であったといってよい。
 (熊野純彦『西洋哲学史 古代から中世へ』(岩波書店、二〇〇六年)、30)



  • 正午ちかくになって起床。天気はくもりだが、それほど暗くはなかったはず。気温もわりと高いようではあった。水場へ。洗顔やうがいや用足し。髪の毛がながくなってきたので、ぐしゃぐしゃである。あがると母親は仕事にでるところ。洗面所にはいってあたまに水と整髪スプレーをふりかけ、櫛つきのドライヤーでてきとうにおちつかせる。それから食事。天麩羅ののこりだったか? そうではない、ハムエッグを焼いたのだった。それを米にのせ、汁物としてはきのうのスンドゥブのあまり。卓へ。母親がつけっぱなしにしていったテレビを消し、新聞をみながら食べるが、すぐに食べ終えてしまったので記事の内実はほとんどよめず。米国がエジプトと会談し、パレスチナへの支援を表明というはなしがあった。ガザには五五〇万ドル(六億円)を支援、国連パレスチナ難民救済事業機関には三三〇〇万ドル(三六億円)、というあたりまでしかこのときはよまなかった。その後夕食時につづきをよんだが、米国は二六日だったかにすでに2億五五〇〇万ドルだから二六〇億円ほどをガザの復興にたいして援助すると発表していたらしく、それに上乗せしたかたちだという。米国としてはパレスチナ自治政府の主流派というかいまや主流派ではなくなっているのではないかという気もするが、いちおう非戦派であるはずのファタハに支援をおこない、ハマスの影響力をそぎたいという目論見があるようなのだけれど、マハムード・アッバス議長は五月に予定されていた選挙も延期して求心力の低下がはなはだしいということだし、ガザ地区はかんぜんにハマスが実効支配して住民らもだいたいそちらを支持しているようなので、そううまくはいかないだろう。これは夕刊だったとおもうが、国連が今回の紛争を調査するためイスラエルとガザにはいるというはなしもあった。国連人権理事会だったかで決定され、イスラームの国々を代表して提案したのはパキスタンだという。ハマスの無差別なロケット弾攻撃はかんぜんに国際人道法・人権法違反だが、イスラエル空爆戦争犯罪に該当するおそれがあるとのこと。ネタニヤフはとうぜん反発。パレスチナ自治政府はむろん歓迎。
  • 食後、洗い物を始末し、風呂もあらうと緑茶をつくって帰還。そして下。
  • いま一時二〇分。緑茶をのみおえたあと、一年前の日記をよんでいる。いままで日記のよみかえしおよびブログの検閲をするときは、ブログの編集ページでよみかえしながらやっていたのだけれど、かんがえてみればEvernoteにあってまだNotionに移行していない日記記事をうつしていく必要もあるわけで、だからEvernoteページにおいてよみかえしながらあらためて検閲ポイントにチェックをつけていき、それにもとづいてブログを修正するとともによみおえた記事はまるごとコピーしてNotionにうつしておく、というやりかたがよいだろうとおもった。
  • いま二時半すぎ。この一年前の五月二八日は(……)さんと通話しており、そのはなしもながいし、そのほかにもいろいろ引用をしていてやたらながく、ぜんぶ読んだわけでないがよみかえすのも検閲をほどこすのもたいへんで、おまえいい加減にしろよマジでとおもった。たぶん、引用もあわせると全体で五万字くらいいっているのではないか? とはいえ、けっこうおもしろいはなしもある。まとめて下に。

ほか、"A Case of You"について。Diana Krallが『Live In Paris』の一一曲目でJoni Mitchellの"A Case of You"を歌っているのだが、そのなかの"I could drink a case of you"という一節が風呂場で脳内にリフレインされ、そこで初めてこの曲の歌詞を意識するに至り、なるほどこの歌は相手を酒か何かに喩えた曲だったんだなといまさら気づいたのだ。で、あなたならばケースいっぱいの量でも飲み干すことができるというわけだけれど、この表現ってなんか、意外と珍しくね? と思った。恋人を酒に喩える比喩はもちろんひどくありふれたもので、恋情の陶酔をアルコールによる酩酊と重ね合わせて捉える思考は一般的修辞法としてこの世に広く流通していると思うが、「あなたに酔ってしまう」ではなくて、「あなたを飲んでしまう」という具体的な行為のレベルにまで入っていく言い方はあまり見かけないような気がしたのだ。まあたぶんこちらが知らないだけでたくさんあるのだとは思うけれど、それでも何となく、「飲む」よりも「食べる」のほうがよく見られるようなイメージを持っている。去年だったか一昨年だったか『きみの膵臓を食べたい』とかいう小説がよく売れていたようで、読んでいないからもちろんわからないが、それもたぶんこの系列に属する物語なのではないか。いずれにしても、言うまでもなくこの修辞においては「愛」の究極形態を表現する一手法としての「取り込み - 合一」のテーマが志向されているわけだけれど、"I could drink a case of you"にあってはそれが双方向的な合一 - 融合と言うよりは、取りこみ/取りこまれる関係として描かれている点がちょっと気にならないでもない。もともとJoni Mitchellが作った曲なので、一応この曲の"I"を女性と仮定して捉え、なおかつ相手は男性として、ひとまず異性愛の関係を想定したいのだが、そうするとここには女性の主体性に基づいた能動的行為によって相手の男性を自らのうちに飲みこみ、消化し、同一化してしまうという、ある種の大きくて強い(と言って良いのかわからないものの)女性像、女性としての優位性が表明されているとも言えるような気がしており、例えばそこでは交尾の最中に雌が雄を食べてしまうというカマキリのイメージなども容易に召喚されて接続されうるだろう。そのように捉えられるとすれば、Joni Mitchellがこの曲を作りまた発表したのが何年なのか知らないけれど、たぶん七〇年代かなという気がするので、やっぱりこれは例えば公民権運動やいわゆるアイデンティティ・ポリティクスの類を、いまだ通過はしていないにしても、少なくともその勃興に接しまたその渦中にある時代の音楽ということなのかなあとか思ったわけだ。ただ以上思ったことはあくまで"I could drink a case of you"の一フレーズのみから考えたことなので、曲全体の歌詞を読むとこういう捉え方が成り立たなくなる可能性はもちろんある。

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コロナウイルス関連では、これは実際に話されたのはもっと後半のことだったと思うが、(……)さんとしては台湾や韓国の処置を無批判に称賛する向きが思いのほかに多いのが気にかかったとのことだった。この二国は今次の騒動においてたしかにわりと迅速な対応に成功したようなのだけれど、(……)さんによればそれは主には監視技術などを駆使した情報管理路線の方策だったらしく、しかし日本のインターネットなどを見ているといわゆるリベラルを標榜している人であっても、そのような権力に対する権利の明け渡しをやや無批判に肯定している声が多く観察されて、(……)さんはその点に懸念と危機感を覚えたと言う。たしかに、私権が制限されるとしてもそれはあくまで緊急事態における一時的な措置だという点は留保されるべき要素だし、また当該国の政府が例えば中国共産党のようにあからさまに強権的ではなく、一定程度「信用できる」という捉え方も可能で、実際彼の国の人々からは、我々は我が国の政府を信用している、市民的権利を一時的に譲渡したとしても彼らがそれを悪用しないということを信じている、というような主張も聞かれたようだ。さらに同時に、もちろん人命が掛かっている問題でもあるので、権利と命とどちらを取るのかと迫られればなかなかクリティカルな反論はしづらく、ほとんど沈黙するほかはない。だがそれらの点をすべて考慮するとしても、緊急時であるとは言っても警戒と吟味とを不在のままにトップダウン的な自由や権利の制限を手放しで称賛するというのはやはりどうなのか、と(……)さんは違和感を述べた。例えば欧米諸国でもいわゆる「ロックダウン」の措置が取られているわけだけれど、ドイツではアンゲラ・メルケル首相がその決定を下す際に、自分はほかならぬ東ドイツ出身だから、自由や権利というものが制限されるということがどういうことを意味するのか、それをよく理解している、だがそれでもなお、現在はそうした措置を断行しなければならない事態なのだという明晰なスピーチを国民に対して行ったらしく、そのように言われればまだしも納得できると言うか、あ、これは仕方がないなという気持ちにもなる、と(……)さんが話すのに、それは何かすごくメルケルっぽいですね、「欧州の良心」っていう感じがすごくありますねとこちらは受けた。そのような、国民と他国家に対するまさしく「丁寧な説明」、正しくこまやかな配慮の手続きがあるならまだ理解し、容認することができるというのは正当な視点だと思われ、ヨーロッパの政治家のうちで良識を具えた方面の人々がやはり優れているように思うのは、このように基本的ではあっても大事な点で行動を怠らず、自分たちはこの欧州という世界がいままで守ってきた伝統的な価値や理念というものをこれからもできる限り守り続けていくつもりだ、ということを折に触れて明確に宣言するからではないだろうか。そうした振舞いを見る限り、彼らは「リベラル」と言うよりも、むしろ言葉の正しい意味での「保守」を実行しているのでは? とすらこちらは思うけれど、このような国民と他国家に対する「丁寧な説明」がきちんと実践されているかどうかで例えばヘイトクライムの発生を防げるかどうか、少なくともそれを減らせるかどうかという点に確実に影響があるということを考えると、政治家という役職を務めるにあたってはやはり、大きな問題に対して大きな決定を下す際の判断力というものももちろん大事だが、具体的な個々の場面でどのような言葉と振舞いを示すかという観点からして洗練された繊細さがそれに劣らず重要になってくるものだなあと思う。それはむろん、政治家に限ったことではない。政治家という職業においてはとりわけその重要性が高いとしても、これはそれ以外の人間すべてに通ずる話だとこちらは考えており、巨大なシステムや構造に対する透徹した視線とともに、そのような構造のなかで発生する各瞬間においてどのような言動を実行するか、そのきわめて微細な一つの言葉と一つの身振りに人間が現れ、そこにおいてこそ人間が問われると思うのだけれど、ドナルド・トランプを筆頭に挙げるとして、例えばロドリゴ・ドゥテルテジャイール・ボルソナーロ、オルバーン・ヴィクトル安倍晋三といった人々がその生においてこのような主題について反省的な思考を巡らせたことがほとんどないのは明白ではないだろうか。習近平はと言えば、こうしたことに当然気づいていながらも、それを狡猾に、あまり良くない方向に濫用しているような印象を受ける。

話を戻すと、例えばメルケルのようなアピールがきちんと介在するのだったら私権制限的な強硬措置もまだしも受け入れることができるだろうが、原理論としてそれを留保なく受容し、甚大な規模ではあるとしてもたった一つの事件を機にいままで受け継がれてきた理念を嬉々としてなげうってしまう、そういう姿勢が一部界隈で思いのほかに多く見られたという印象を受けて、(……)さんは危機感を抱いたということだ。台湾や韓国におけるコロナウイルス対策の実態についてはこちらは何の情報も得ていないのだけれど、それが(……)さんの述べる通り、テクノロジーを活用しながら国民を広く監視し、それでもって市民生活を制限するといういくらか圧迫的なやり方だったとすると、それはもちろん、大きな部分では中国に回収されてしまうわけですよねとこちらは応じた。つまりこの現代世界には、中華人民共和国にまざまざと具現化されているような技術独裁主義と言うか、テクノロジーと結合した強権体制と、それに対して欧米に代表される……まあ……古き良き(というこの言葉を口にしたとき、(……)さんも同じ語を発しかけて、まったく同じこと言おうとしてたわ、と笑った)……民主主義の理念を守っていこうという国々がある、もちろん例えばドナルド・トランプのような人間はいるし、またこの「古き良き民主主義」自体、色々と問題があっていくつもの点で欺瞞的なものだったとしても、それでも一応その価値を守っていこうという国々、そういう対立がどうしてもあるわけですよね、そのなかで韓国や台湾の措置を無条件的に支持するというのは、結局、中国路線に正当性を与えてしまうことになるじゃないですか、そうすると何でしたっけ、あのニック・ランドとかが好きな、いわゆる中華未来主義、あれになってしまいますよねと述べると(……)さんも、そうそう、そうやねん、そっちの方向に行っちゃうよねと同意を返した。

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話を少し戻して、(……)さんが言っていた比喩を重ね合わせていくと最終的には機械になっていくというイメージに触れると、これについてこちらはまだあまり実感的に理解できていないのだが、次のようなことなのだろうかとひとまず考えた。ある記述とある記述が表面的な外観としては異なっていても、意味合いとしてはテーマ的に通じるということはもちろんいくらでもある。ただそれらの個々の記述は、具体的な記述として違いがある以上、比喩的意味としても完全に同一の状態には還元されないはずである。つまり、当然の話だが個々の比喩にはそれぞれ意味の射程があり、純化されない夾雑的な余白がそこにはつきまとっているはずで、その比喩もしくは意味の形は完璧に一致するということはない。とすれば、それらを織り重ねていくと、そこには明確な形態には分類されえない不定形の星雲図のようなものがだんだんと形成されていくはずではないか。アメーバのようなイメージで捉えてもいるのだけれど、この織り重ねは単に平面的な領域の広がりには終わらず立体方向に展開していくものでもあると思われ、すなわちそこには複数の層が生じることになる。そのような平面 - 水平方向と立体 - 垂直方向の二領域において、個々の要素であり部品である具体的な記述が対応させられ結びつけられていくことによって、いつしか得体の知れない特異な構造の機械にも似た建造物が姿を現すに至る、とたぶんそんな感じなのではないか。これを言い換えれば(……)さんは意味の迷宮を建築しているということであり、すると続けて思い当たるのは当然、彼の文体自体が「迷宮的」と称されることで――そもそも『亜人』とか『囀りとつまずき』などの文体を「迷宮的」という形容で最初に言い表したのは、たしかほかでもないこちらではなかったかという気がするのだが――つまり彼は表層に現出しているそれ自体迷宮的な文体のなかにさらに複雑怪奇な経路を張りめぐらせることでより一層迷宮的な意味の建造物を構築しているということになるわけで、とすれば三宅誰男という作家の一特性として〈建築家〉であるということがもしかしたら言えるのかもしれないが、ただ重要なのはおそらくこの建築物が、例えば序列とかヒエラルキーとかいったわかりやすい系列構造を持っているのではなくて、(迷宮であるからには当然のことだけれど)まさしく奇怪な機械としての不定形の容貌に収まるという点、少なくともそれが目指されているという点だろうと思われ、それは現実の建造物としては例えばフランスの郵便配達夫シュヴァルが拵えた宮殿のような、シュールレアリスム的と言っても良いような形態を成しているのではないだろうか。とは言えそれはおそらく充分に正確なイメージではなく、と言うのはシュヴァルの宮殿は外観からしてたぶんわりと変な感じなのだろうと思うのだけれど、(……)さんの小説はけっこう普通に物語としても読めるようになっているからである。まあ文体的に取っつきにくいということはあるかもしれないが、表面上、物語としての結構はきちんと確保されている。だから(……)さんの作品を建築物に喩えるとすれば、外から見ると比較的普通と言うか、単純に格好良く壮麗でそんなに突飛なものには見えないのだけれど、いざなかに入ってみると実は機械的な迷宮のようになっていると、そういうことになるのではないか。で、この迷宮にはおそらく入口と出口が、すなわち始まりと終わりがない。もしくは、それはどこにでもある。どこからでも入れるしどこからでも出られるということで、なおかつその迷宮内部は常に機械的に駆動し続けており、人がそのなかに入るたびに前回と比べて様相や経路が変異しているみたいな、実際にそれが実現されているのかどうかはわからないが企図としてはそういうものが目指されているのではないか。そして人が迷宮に入ったときに取るべきふさわしい振舞いというのは、言うまでもなくそのなかをたださまようということである。『亜人』冒頭の言葉を借りれば、この迷宮には「こぞってこちらのあとをつけるうすぎたない追いはぎども」(9)が至るところに潜んでいるわけだが、そこに足を踏み入れた者はこの盗賊たちに襲われてひとつところに囚われてしまうのを避けるため、彼らの追跡から逃げ惑いつづけなければならない。

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古井由吉が書いた最初期の作としては「先導獣の話」というのが一つあり、これはたしか同人時代のものだということだったが、それはもうその時点でまんまムージルだと(……)さんは評した。この点は過去にも何度か聞いてきたことでこちらもさっさとこの篇を読みたいのだけれど、それを受けて至極適当に見取り図を考えてみたところでは、古井由吉の発展段階としてまず最初にムージルがある。次に一応は物語に従事してみるというフェイズがあり、そこでは民俗学的な知見なども取り入れているのでそれは言わば神話的な試みと言うか、神話のような方向にひらいていくという取り組みを一時試みていたのではないかと思ったのだが、そのあと八〇年代後半か九〇年代あたりから、自ら神話的物語をこしらえるのではなくて過去の説話・民話・神話といった文化の古層的なテクストを引用し、それを素材や媒介としながら言葉を招き寄せて書き継ぎ書き継ぎするやり方を始めたと、そんな風に変容していったのではないか。まああまり実に即した整理ではないけれど思いつきでそういうことを述べたのだが、古いテクストを引用するというのは二〇一〇年以降の近頃の作品でもよくやっていたと思う。ただ、そのままの引用と言うよりはパラフレーズして文脈を拡張するみたいなやり方だった気がするので、「引用」という語は事態をあまり正確に言い表してはいないかもしれないけれど、上の整理を述べたときにこちらの念頭にあったのは、現代日本語文学の最高峰として名高い例の『仮往生伝試文』のことだったのだ。この作品をこちらはまだ読んでいないのだけれど、聞きかじりによるとあれはまさしく往生伝を色々と引用して、それを足がかりに発展させて書いたものなんでしょう? と訊いたところが、(……)さんもまだ読んだことがないらしい。この小説についてはもちろんさまざまなところでやたらやばいやばいと言われているのだが、こちらが覚えているのはまだ文学に触れはじめてまもない頃に読んだ高橋源一郎柴田元幸の対談本のなかで、たぶん高橋のほうだったはずだが古井さんは『仮往生伝試文』で一度天上に、雲の彼方に行ってしまったと思っていたら、そのあとそこから地上に戻ってきたんですよね、みたいな評し方をしていたことで、だからおそらくこれを一つの境にして、『白髪の唄』のような言わば私小説換骨奪胎路線に入っていったということなのではないか。それに当たっては、当時は首のほうだか目のほうの時期だか忘れたが(たぶん首か?)、身体を壊して病院に入ったのも結構大きかったみたいやねと(……)さんは言った。古井当人がそんなことを言っているのに触れた覚えがあるらしいのだが、そこに加えてやっぱり、空襲の記憶というものが絡んでくるんでしょうかね、とこちらは応じた。肉体の危機に触発されて幼時の切迫した危機の記憶が呼び寄せられて蘇ってくる、とそんなことがもしかするとあったのだろうか。

先の対談では古井由吉の作術についても多少言及されており、例えばある人が他人を殺したのか殺していないのか、最終的に作品として形になった文章ではよくわからない風に書かれているのだけれど、そういうとき古井自身は殺したほうの路線と殺さなかったほうの路線と両方を想定して書いていくらしく、ところが進めていくうちに結局はそのどちらも取らない方向に行ってしまうのだみたいなことを語っており、そのあたりを読んで古井由吉の書き方ってこういう感じなんだな、というのがわりとよく理解できたと(……)さんは話した。つまり、作品を、言語を統御しようと、できるかぎりコントロールして構築しようと、一応はそれを目論みながら書き進めていくのだけれど、肝心なところでは作品そのものあるいは言語の発揮する論理に従い身をゆだねて導かれると、そういう感じなんだなという具合で理解したのだと思う。古井の文章というのは大概誰でも感じるはずだと思うけれどとても端正に切り詰まっていて、日本語の使い手としてはほぼ類例を見られないほどに整っているわけである。一日に書いてせいぜい三枚だったという話だし、推敲もめちゃくちゃに重ねてことさらに文章を削ぎ落とし切り詰めていくということもどこかで語っていた覚えがあるのだが、しかしもしかするとそういう言葉の道筋の精緻な整地というのは、むしろそれを突き詰めていった先で破綻を招き入れるために、ほとんど行き詰まりに至ったところではじめて出現する破れ目を呼び寄せるために導入された方法論なのではないか、とそんなことも想像される。それと同時に「招魂」などという言葉も想起されるもので、「招魂」というのは古井がときどき使っていた語で八〇年代あたりに二回ほどエッセイ集のタイトルにも用いていたと思うのだが、そこで差し招かれる「魂」というのはあるいは、ここで言うところの作品や言語固有の論理として人間主体の意識を超出していく破綻と結びつけて考えることもできるのではないか。そして、破れ目とは何かと何かのあいだに生じるもの、もしくはそれを生み出すものであるわけだから、したがってそれは換言すれば〈あわい〉である。

ところで、古井由吉松浦寿輝が交わした往復書簡をまとめた著作は『色と空のあわいで』と題されている。(……)さんとの会話ではこの本のことも話題に出て、こちらがこれを読んだのももう相当に昔だが、このなかで古井が「空を切る」という言い方をしていた、と彼に報告したのだった。「空を切る」身振り、そしてそのあとに残る空隙のようなものこそが作家の腕の見せどころじゃないか、みたいなことをたしかこの本に付属していた対談のなかで古井は語っており、それに対して松浦寿輝が、愚かな質問ですがとか言って似非蓮實重彦風に断りながらも、それじゃあいままでの作品のなかでその「空を切る」身振りに一番成功したのはどれですかと訊いたのに、それは『山躁賦』ですねと古井は即座に断言していた。そういう記憶を思い出して話したのだけれど、だから『山躁賦』も彼にとってわりとターニング・ポイント的な作品だったのではないか。しかしこちらは魯鈍なことにこの小説もまだ読めていない。入手してはあるのだけれど。『色と空のあわいで』は(……)さんも長年探しているのだが古本屋で見かけたことも全然ないと言う。こちらがこの本を図書館で借りて読んだのは読み書きを始めてまだ一年半しか経っていない二〇一四年九月の時点である。したがって、記録を見返してみてもわずか三箇所しか書抜きをしていないのだが、いま読み返せばこの本もきっととても面白いだろうと思う。その三箇所をすべて下に引いておく。

松浦 さっき言語が主で私が従というお話を伺ったんですが、ひょっとしたら「私」そのものも言語でできているものなのかもしれないという考え方はどうでしょうか。「私」がまずあってそれを言語で表現するっていうのが普通、人が言葉の表現というものを考えるうえでの自然な成り行きですが、ひょっとしたら、「私」というもの自体、芯の芯まで言語に侵されており、ひょっとしたら言語そのものが「私」なのではないのか、ということを実は古井さんの私小説的な作品を読ませていただいているときでも感じることがあるんです。つまり物質としての言葉を一つ一つ彫り込むようにして書いていらっしゃる現場では、言葉のこぶこぶそのものが一種、古井さんの存在そのものになってしまっているんじゃないのかなあという。
古井 言語を先行させたとさっき言いましたけど、もう少し厳密にいうと言語上の私的な体験を言語上でない私の体験よりも先行させたということなんです。そうしてきた人間はどうしても考えますね、このこぶの中に自分の存在があるんじゃないか、ひょっとすると自分ばかりじゃなくて親の存在まであるんじゃないかとまで。とにかく信念としてはそうしてやってきました。しかしあなたもよくお書きになってるように、言語というのは一つの表現の完成に差しかかると復讐のごとく欺瞞をやる。この体験の繰り返しです。言語に関しては表現そのものが表現ではないんじゃないか、表現したときにこぼれ落ちるものがしょせん表現じゃないか。絞りに絞って空を切るときの一つの勢いとか運動、それにかけるよりほかないんだね。ところが空を切るときの力動を出すにはかなりきっしり詰めていかなきゃならない。詰めるだけで力尽きた小説もありましてね。僕の場合、それが大半じゃないかと思うんだけど。空を切る動きまで見せてないんじゃないかと。
松浦 ミーハー的な興味でお伺いすると、空を切る運動がいちばん鮮やかに定着できたとご自分で思っていらっしゃるのは……。
古井 『山躁賦』ですね。あのときはむちゃくちゃに振り回したんだね。振り回しただけでもけっこう迫力は出たと思いますけど。それでも肝心なところで見事に空を切ったという自負はあります。その後あれほどうまく行かないんですよね。ずいぶん辛抱してきて、ようやくこの前の『仮往生伝試文』とか『楽天記』に至ってどうにかまた。私小説的なものに傾くというのは、私小説的なレアリティに仮に沿って自分を苦しめて、文章も苦しめる。だけどあの行き方はしょせん私小説としても節目ごとに空を切るわけです。きわめて穏やかにね。だけど随分しなやかに空を切るとこまで行ったかなという気はします。
松浦 『槿』はいかがですか。
古井 『槿』は、まあ一応小説らしい結構を備えた小説への、今後やるかどうかわからないけど、今のところでは最後のご奉公になってると思います。まずいなあ、こういうこと言っちゃ(笑)。
松浦 こういう機会ですから。
古井 それ以後は、私小説的な形へ行ってるでしょう。私にとっては、私小説的な形へ行くのはむしろ小説の解体なんです。
松浦 よくわかります。
古井 もう一度、小説という厚みも影も味もあるレアリティから離れて、あからさまな言語の矛盾につきたいという。その欲求から私小説的な形をあえてとっている。すると、すぐ追い詰められるんですよ。
 (古井由吉松浦寿輝『色と空のあわいで』講談社、2007年、82~84; 「「私」と「言語」の間で」; 「ルプレザンタシオン」1992年春をもとに改稿、『小説家の帰還 古井由吉対談集』に収録)

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古井 ホーフマンスタールの詩でしたか、人生のことどもがいかにはかなく取りとめないかということをうたってきて、最後にそれでも「夜」という言葉を口にすれば、そのひとことから深い思いと哀しみが滴る、あたかも洞[うつ]ろな蜂房から蜜が滴るようにと……散文的に説明すれば、要するに現実の厚みがおのずと集まってくる。それと同じように、日本文学には「体験」というひとことがあったんですよね。これは時代によってさまざまだから、たとえば漱石の場合、葛西善蔵の場合それから太宰の場合、それぞれ違うと思うんだけど、それぞれなりに「体験」という一言[いちごん]の詩の下に何かが凝縮する。ところが言語が解体したばかりじゃない。体験というものを分析的に見る習性がいつからかついたんですよ。体験というのはひとまず擬似的なもんだというぐらいに思わないと人間横着になる、と。
 ところがまた体験というものを擬似的な、あるいは更に後の認識の試みを許すものだというふうにとると、小説はとても成り立ち難いんです。小説というのは現在今を書いてもそれがあたかも過去であるかのごとく書かなきゃいけない。現在形を使っても単純過去じゃなきゃいけないんですよ。例えば小説に厚みを加えるには、どこで誰が何をしたとか、何を考えたとか、そういうこともさることながら、その時に空はどうだったか、どんな風が吹いていたとか、どんな音が立ったとか……つまり小説に厚みを加えるのに一番いいのはお天気のことです。だけど、お天気のことを本当に現在今のこととしてとらえようとしたら表現は果てしなくなるわけですよね。雨と一言でも言えないし、晴れと一言でも言えない。まして小春日和とか、それから寒の入りの珍しくあったかい日なんて、これは全部、じつは単純過去なんですよ。大勢の人間たちの見てきた過去なんです。これを私、「生前の目」って言うんですけどね(笑)。生きながらの生前。この過去、死者たちの民主主義ですか……無数の死者たちの生前の目、あるいは無数の死者たちのことを思うときに生者も分かち持つ生前の目、これが小説の現在だと思うんです。それできちんと振る舞えるかどうかの問題です。振る舞えれば苦労はないんです。
 現在を過去の精神でとらえないときに現在とは何かという問いが露呈してしまうわけです。そのときに言語は解体せざるを得ないんです。しかし解体のぞろっぺえも嫌でしょう。どこで解体そのものをつかめるかと考える。そのときに、現在を過去の精神でとらえていく私小説が僕にはいちばん面白かった。なるほどすぐれた私小説というものは、現在を過去の目で見るという限定の中で、安定した深みのある表現をつくり出して、それが魅力ではあるんだけど、だんだん年をかけて読んでいくと、破綻の部分にいちばん魅力がある。
松浦 つまり作家がやろうとして失敗したことという……。
古井 これはもう文章に、もろに出てくるんです。現在を過去の目で見ると文章が安定する。過不足のないような文章が続くわけです。これはなかなか深みと現実感、いわゆるレアリティを与えるのだけど、すぐれた私小説は時として訳のわからない一行がはさまる。僕はむしろこれに惹かれました。訳のわからない一行を出すためにこういうことを書いてるんじゃないかと。
 (86~88)

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古井 今どき文学上のレアリズムっていうと、まあ多少文学を考える人はまともに付き合うまいと思うでしょう。リアリズムというのは、人がどこで得心するか、なるほどと思うか、そのポイントなんですよ。つまり人は論理で納得するわけじゃない。論理を連ねてきてどこか一点で、なるほどと思わせるわけです。その説得点あるいは得心点ともいうべきところで、形骸化されたリアリズムが粘るというのが、文学としてはいちばん通俗的じゃないかと思うんです。説得点にかかるところだけはすくなくとも人は真面目にやってほしい。つまりこんな言い方もあるんです。今どき文章がうまいというのは下品なことだと。それをもう少し詰めると、感情的な、あるいは思考の上での説得のポイントに入るところで、あり来たりのものをもってくる。筋の通ったあり来たりならいいですよ。もしもそういう筋の通った「俗」がわれわれにとって、説得点として健在ならば。しかし時代になんとなく流通するものでもって人に説得の感じを吹き込む、そういう文章のうまさ、工夫、これは僕はすべて悪しき意味の通俗だと思う。これがいわゆるオーソドックスな純文学の文章にも、ミナサンの文学にも等しくあるわけだ。これをどうするかの問題でね。
 (98)

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あとは『亜人』について。最近こちらがシェイクスピアをたくさん読んだという話から、(……)さんもシェイクスピアは過去に色々と読んで、そのなかでも『ジョン王』だったかのマイナーな歴史劇のなかに「私生児」というキャラクターがいたのを覚えており、作品自体は大したことはなかったけれどその人物がやたら生き生きとした躍動的なイメージをもたらしたのが印象に残っているということが語られたのだが、それでこちらが『亜人』の「私生児」の元ネタってそれだったんですねと訊いたところ、え、『亜人』に「私生児」なんてやつ出てきたっけ? という反応が返った。いませんでしたっけ? 迷宮探索の一行のなかに、なんかナイフ使うやつがいましたよねとか何とかこちらが説明して、それで(……)さんも一転、あ、そう、そうやねん、そうだった、あいつシェイクスピアから取ったんだったと言い、こちらはその逆転ぶりに、いやなんで自分で書いた作品の元ネタ忘れてるんですか、いまのいままで完全に忘れてましたよねとかなり笑ったのだが、しかし後日(……)さんのブログを覗いたところ、『亜人』に登場したのは「私生児」ではなくて「混血児」だったという驚愕の事実が記されており、いや、じゃああのときの(……)さんのまさしく手のひらを返したかのような確信的な断言は一体何だったんだ! とこちらはそこでもまたクソ笑ったのだった。

  • さいごのはなしはわらう。このときこちらも記憶ちがいでかんぜんに「私生児」だとおもいこんでいたのだけれど、(……)さん自身もかんぜんにおもいこんでいる調子だった。あと、通話のなかではガタリについてもすこしだけふれられていて、そこをよみかえすと、やはりガタリよまなければなあというきもちがあらたにされた。たしかこのとき(……)さんがいっていたことでは、ドゥルーズガタリの共作にあたる本も、だいたいガタリがばーっとアイディアをまくしたてて、それをドゥルーズがひろいあげて統合しかたちにしていったのではないか、というはなしだった。この日の日記にも、「とりわけ相当に実践的な活動家だったという点にはかなりの興味を覚える。多様な領域をめちゃくちゃに横断したり多彩な物事を節操なしに取りこんだりする猥雑さに対して、こちらには一種の憧れみたいな志向及び嗜好がある(……)」としるされてあって、これはいまもかわらないのだけれど、やっぱりぜんぜんわけがわからん、みたいなものに惹かれる性向はわりとあるわけだ。それはこちら自身がそれなりに明晰な人間のつもりでいるので(ほんとうにそうかわからないが)、たぶんそれの裏返しで、猥雑だったりごちゃごちゃしていたりするものにあこがれる、ということだとおもうが。まあガタリがじっさいにそういうかんじの作家なのかわからないが。いろいろなものを節操なくとりこむという点にかんしては、バルトもけっこうそういうところはあるとおもうけれど、ただ彼の場合どうしたってそれが猥雑にはならないだろう。まぜてごちゃごちゃにするというより、部分的にうまくつまみあげてじぶんの絵画に色や装飾やかたちとして利用しながらたのしむ、というか。
  • そのあとは『ギリシア悲劇Ⅱ ソポクレス』(ちくま文庫、一九八六年)をよんだ。「オイディプス王」を通過し、「ピロクテテス」の途中まで。「オイディプス王」はいうまでもなく非常に有名な篇で、こちらは岩波文庫の藤沢令夫訳ももっており、それでかなりむかしにいちどよんだおぼえがあるが、このちくま文庫は高津春繁の訳である。真実があきらかになったあとのオイディプスの嘆きとか呪詛のさけびがなかなかよくて、真に迫った調子とかんじられ、わりと感動し、かきぬこうとおもう箇所がいくらかあった。あと、真実をしらされたオイディプスが宮殿内にはしりさった直後の359でコロスの合唱があるのだが、そこの、「おお、人の子の代々、/はかなきは命。/誰かある、誰かある、/幸を得し者。人みな/幻の幸を得て、/得し後に墜ちゆくのみ。/汝 [な] が定めこそそのためし、/汝 [なれ] が、汝 [なれ] が定めこそ。おお幸うすきオイディプス。/人の子にはことほぐべきものなべてなし」という最初の一連も、内容として大したことをいっているとはおもわれないのだが、なんだかしみじみと感じ入るところがあってよかった。訳文の調子によるところもあるのだろう。「誰かある、誰かある」とか、「汝が、汝が定めこそ」というふうに、くりかえしがつかわれているが、高津春繁のコロスの訳にはこまかい反復がおおめにもちいられている印象。これはたぶん、原文がそうなっているところもあるのかもしれないが、わりと訳者特有の口調なのではないか。わからんが。360にも、「(……)いかなれば、/いかなれば父の畑が、憐れなる人よ、」と行をまたいで反復がある。しかしいまざっとよみかえしてみても、夜によんだおなじ高津訳の「コロノスのオイディプス」の範囲をみかえしてみても、ほかに類例がぱっとみつからないので、べつにおおくもちいられているわけではなかったのかもしれない。あとわりとどうでもよいことだが、高津春繁は「さあ、すみやかに館の内に連れ行けえ」(369; クレオン)とか、「この者たちがわたしと同じ不幸に陥ることがないように、してくれえ」(372; オイディプス)とかいうふうに、命令形に「え」を付加することがおおい。むろんふつうの「~してくれ」のかたちもつかわれていて、このあたりのつかいわけがどういう基準なのかわからないが。うえのふたつの例はそれぞれ命令と懇願だから、「え」をつけたほうが権威的なかんじとか感情性とかがよりうまれる気はするが、ほかに、「聞かせえ」みたいなかんじで、はなしをきかせてくれ、ということをいうさいにもつかわれていたとおもう(これはたしか「コロノスのオイディプス」のほうだったきがするが)。それは「聞かせよ」としたほうがはまるようなきがしたのだが。まあべつにどちらでもよいのだが。
  • あと、さきのコロスの合唱のあと、使者があらわれて妃イオカステの最期と、オイディプスがみずから針で眼をつらぬくさまを報告するのだが、このオイディプスの自罰行為をかたる描写もけっこうよくおもった。
  • ストレッチを少々。小沢健二をながしつつ。そのあとひさしぶりにギター。ずいぶんひさしぶりで、爪も切ったばかりだったので、あとで左手の中指だったか薬指だったかが痛くなったくらいだ。例によってブルースのまねごとをてきとうにやるのが主。いっこうに曲を弾きださない。五時半くらいまであそんでからうえにいき、野菜炒めだけつくっておくことに。父親は山梨にいっていてたぶん泊まってくるだろうからそんなにいらないだろうと。タマネギ、キャベツ、ニンジンをきりわけて、豚肉も切って炒める。さきに肉を焼き、肉の色がかわりきらないあたりで野菜もいれて、そのあとはなるべく強火で加熱する。味つけは塩とコショウと味の素。はやばやと完成させると、そのあとアイロンかけ。シャツ類。霧吹きというかもともとたぶん整髪スプレーかなにかがはいっていたとおもわれる細長い容器で水を吹きかけながらアイロンをかけていくのだが、アイロンをシャツにのせてゆっくりすべらせると、布地のうえに散ったいたいけな水滴たちが蒸発していく音がたち、それは砂がやさしく掃かれるひびきのようでもあるし、まだ手つかずの雪が靴で踏まれる音のようでもある。シャツの生地や箇所によっては音がたたないこともある。時刻は六時ちかく、窓外では近所のこどもらの声がたっており、なんとかちゃん、あそんでくれてありがとうございました! とか、冗談か演技的な儀礼のようにしていいあっているのがきこえる。窓からさしこむ暮れ方の空気は淡く青く染まっていて、シャツのうえにかかるとなおさら青いが、くわえて背後の食卓に吊るされている橙色灯をつけたので、こちらの影もシャツのうえにひろくうまれていくらかうごき、そのなかがいちばん青く濃く、その領域のさかいをこえたとなりは電灯のオレンジが青さとまざってなんともいいづらいあいまいな果物のような色合いをのせている。
  • アイロンかけをおえるとそのまま食事にはいったはず。夕刊をもってきてチェックしたが、ぜんぜんおもいだせない。くっていると母親が帰宅した。野菜炒めはのちほど好評をもらった。食事をおえてかたづけをして帰還すると、また書見。ギリシア悲劇をよみすすめ、さいごの「コロノスのオイディプス」にはいって、この日は498まですすんでだからもうあと五〇ページほどになった。443の最後に、ここはまだ「ピロクテテス」のなかだが、「オデュッセウス倉皇と退場」というト書きがあって、倉皇ってなんやねん、こんなことばはじめてきいたわとおもって検索すると、あわてふためくことだという。「蒼惶」とも書くらしい。ネット上の辞書の例文は幸田露伴の「運命」という小説をとりあげており、芥川の文などもでてくる。彼はこの語をたくさんつかっているもよう。そのあたりの作家はけっこうつかっているようで、「そそくさ」とよませることもおおいようだ。「コトバンク」をみるかぎりでは、初出はおそらく一五一八年ごろの『翰林葫蘆集』という書物らしいが、これがどういう書物なのかとうぜんまったくしらない。いわゆる五山文学の詩文集のようだ。漢詩や漢文もよめるようになりてえんだけどなあ。
  • (……)
  • 日記を記述。風呂にいったのは一一時ごろだったか? 排水溝で髪の毛などをうけとる網状のカバーを掃除し、髪の毛をとって袋にいれておくとともにブラシでこすってもおき、また、そのカバーをとりつける排水溝のまわりや、あれはなんといえばよいのか、溝のなかにさしこまれて一体化する、両側がひらいた円筒形の部品的なもの(上にくるほうの縁はいくらか周囲にひろがるようになっており、おそらくゴミなどが下水道へとスムーズにながれこみやすいようにするためのものなのではないか)もこすってあらっておいた。この部品をこするあいだは下水道特有のあの悪臭がほのかに発生していたのだが、洗剤をかけててきとうにゴシゴシやっていると、じきになくなった。毎日風呂にはいるときにこういう具合で、ほんのすこしずつついでに掃除をしておけばおのずとあたりがきれいにたもたれるのだ。ただ、休日はともかく、労働のあった日にそういう気力が湧くかというとなかなかむずかしいきもするが。
  • そのほかはまた日記をしるしたり書見したりしたくらいで、とくだんのことはないはず。

2021/5/27, Thu.

 ヘラクレイトスとおなじ時代クセノファネスが、おなじ [﹅3] 、ひとつの [﹅4] ものについて語っていた。それはまず、ホメロスやヘシオドスにみとめられる、伝統的な神のイメージを批判することをつうじてである。「人間たちは神々が〔じぶんたちと同様に〕生まれたものであり、じぶんたちとおなじ、衣装と声と、すがたをもっていると思っている」(断片B十四)。だが、もし動物たちも人間のような手をもち、ひとびとがそうしているように、おのおのの神のすがたを絵に描い(end27)たとするならば、「馬たちは馬に似た神々のすがたを、牛たちは牛に似た神々のすがたを描き、それぞれ、じぶんたちのすがたとおなじようなからだをつくることだろう」(B十五)。じじつ「エチオピア人たちは、じぶんたちの神々が平たい鼻で、色が黒いと主張し、トラキア人たちは、じぶんたちの神々の目は青く、髪が赤いと主張している」(B十六)のだ。
 神が存在するなら、それはただひとつの、おなじものでなければならないはずである。初期キリスト教の教父、アレクサンドリアのクレメンスが、その思考に言及していた(B二三)。

コロポンのひと、クセノファネスは、神が一者であり、非物体的なものであることを説きつつ、こう主張している。
  唯一なる神は、神々と人間どものうちでもっとも偉大であり、
  そのすがたにおいても思考にあっても、死すべき者たちとすこしも似ていない。

 クセノファネスによれば、神は、「つねにおなじところにとどまって、すこしも動かない」(B二六)。この思考は、たしかにエレア学派のそれとつうじるものであるだろう。現在では、両者のあいだに直接の影響関係はみとめられていない。けれども古代以来の学統譜は一致して、パルメニデスをクセノファネスの弟子と位置づけているのである。
 (熊野純彦『西洋哲学史 古代から中世へ』(岩波書店、二〇〇六年)、27~28)



  • この日は出勤まえに日記をしるすことをおこたり、深夜に前日分をしあげたのみにとどまったので、もう記憶がうすい昼間のことはかいつまんでしるす。天気は雨降りだった。起きたときからすでにそこそこの降りだったのではないか。新聞の朝刊からは、George Floydが殺されてから一年をむかえたが、アメリカの黒人差別はまだまだ根深い、というような記事をよんだ。その内容ももはやあまりおぼえていないが、警察改革にたいする賛否両論がある、みたいなはなしだったきがする。記事の脇に識者のコメントがふたりぶんあって、一方はふつうに賛成、一方は警察の予算をへらして治安維持力を低下させることで、かえって黒人にたいする犯罪が抑止できなくなる可能性もある、みたいなことをいっていたはず。Black Lives Matter運動にかんしては、白人のひとびともおおく参加したのが過去のムーヴメントと決定的にちがう点だ、という言もあった。しかし世論調査にもとづくかぎり、黒人のひとびとの状況がよくなったとこたえる人間のわりあいはすくないと。
  • もうひとつはウクライナアレクサンドル・ルカシェンコ大統領が、飛行機強制着陸および反体制派メディア創設者拘束の件で制裁的な対応をとったEUにたいし、断固反発している、という記事。人間としての常識や倫理を超えている、みたいなことを言ったらしく、ちょっとわらってしまった。ウクライナ側がそれをいうのかと。
  • 出勤まえはだいたい書見。『ギリシア悲劇Ⅱ ソポクレス』(ちくま文庫、一九八六年)。ベッドでよんでいると窓外でなにやらガンガン打音がしはじめて、なにをやっているのかわからなかったのだが、壁自体か、壁からかなりちかいところでなにかをたたいているようで、確認しなかったがたぶん父親が雨降りにもかかわらずやっていたとおもうのだけれど、クソうるせえなと少々不快になったが我慢した。いやがらせかとおもったくらいだ。興が削がれたというかその音のなかで書見をする気分でもなかったので、いちど立ってトイレにいったところ、音はなくなり、上階で母親が父親になにかはなしかけているようすでもあったのでなかにはいったのだろうが、しかしそとにでる気配もなかにはいるときの気配も感知されなかったのだが。だれかほかのひとがやっていたのかともおもったが、まさかそんな人間もいないだろうし。それにしてもなにを、またなぜ、たたいていたのかわからない。なにかの器具をとりつけるかつくるかしていたのだろうか? だとして、なぜわざわざ雨が降っているなかでやったのか?
  • それで書見のつづき。あと、どこかのタイミングで、というか読書にきりをつけたときだろうが、瞑想をした。けっこうながくできた記憶。たしか二時半くらいだったはずだ。三〇分はいかないくらいすわっていた。やはり基本、なにもしないという不動性がポイントだなとおもった。ようはとりあえずじっとすわっていればいいというだけで、あとはだいたいなんでもよい。あまり頻繁にうごくのはまずいがたまに姿勢をなおしたり顔をかいたりするくらいならよいだろうし、精神面にかんしてはどんな思考がうまれようがものをかんがえなかろうが、現在にとどまれず記憶のなかにあそぼうが周囲の知覚源に意識がむこうが、それらすべてなんでもよい。それでただじっとしているだけ。そうすると心身が勝手に調律される。
  • 出勤まえにちいさな豆腐をひとつだけ、あたためてたべた。けっこうな雨降りなので母親がおくっていこうかといってくれるので、甘えることに。じつのところこちらもたのもうかとおもっていた。電車でいくと少々時間が足りないし、徒歩でいくにもわずらわしいくらいの降りだったので。このくらいの雨のなかをあるいていくというのも、それはそれでよいだろうなともおもったが。それで三時半にと依頼し、身支度をすませたあと「英語」をすこしだけ音読。時間ギリギリまで。今日は気温がひくめで、たぶんきのうから一気に一〇度くらいおちていたとおもうのだけれど、それなのでジャケットも着た。
  • セロテープがきれたので、おくっていくついでに駅前の「(……)」で買ってほしいとのことだった。それできれたセロテープの芯をジャケットの左ポケットにいれて出発。傘をさして道にでて、すこし横に移動し、路肩で母親が車をだすのをまつ。助手席へ。はいるさいにやや濡れながら。それで走行。車内ではラジオがかかっており、FMヨコハマだったとおもうのだが、土砂降りでもかまわないから、ずぶ濡れでもかまわないから、みたいな歌詞のサビをもったポップスがながれていて、メジャーどころのJ-POPにやや寄る瞬間もかんじられつつも、全体にむかしのシティポップをおもいださせるような雰囲気でわるくなく、伊藤銀次の"こぬか雨"を想起したのだがその曲ではないし、そもそもこの曲は(……)くんが紹介してちょっとながしたのをいちどだけ耳にしたのみなので、よくもおぼえていない。メロディにはききおぼえがあって、なんか有名な曲なのかなとおもいつつも、なんかさいきんの若いひとがやってる日本のバンドって洒落たかんじのやつがおおいからそのへんのグループなのかな、ともおもったが、かえってからおぼろげな歌詞の記憶をたよりに検索してみると、この曲は大江千里の"Rain"というやつだったよう。槇原なんといったか、あのヤクをやってたひととか、秦基博がカバーしているらしく、このときながれていたのはたぶん秦基博だったのではないか。秦基博はたしかひとつまえのNHK連続テレビ小説の主題歌をうたっていたのもこのひとだったとおもうが、メジャーシーンのJ-POPのなかではそんなにわるくないほうなんではないかというきがする。ほかに、(……)が高校生のころにうたっていたくらいの印象と記憶しかないが。秦基博の"Rain"は新海誠の『言の葉の庭』につかわれたらしい。こちらは新海誠のアニメーション作品をひとつもみたことがないが、それでどこかでふれたのかもしれない。
  • 駅前について礼をいっておろしてもらい、傘をひらき、すぐめのまえまでのみじかい距離の雨をふせぎ、軒下で水気をとばす。傘立てに傘をいれて、設置されてあったアルコール液で手を消毒。こんなまちで文房具屋なんかやっていてどうやって生きているのかまるでわからないのだが、じっさい店にはむろんほかに客はない。たぶん学校におろしたりして利益をえているのだとおもうが、それにしても食っていけるとはおもえないのだが。レジカウンターのむこうにいる店員はわりと若めにみえる女性で、むかしのおぼつかない記憶だとおじいさんがたっていたおぼえがあるのだが、娘なのかそれともアルバイトのひとなのか。セロテープをちょっとさがして棚をみやりながらすすむが、みあたらないのできいたほうがはやいとおもってレジのそばまできたときにあいさつをかけ、セロテープを、とつげると、場所にあんないしてくれた。ポケットから芯をだして、おなじおおきさの品をふたつ選択。そうしてカウンターで会計。四四〇円。袋はいいですよといって礼をつげ、買ったものは左ポケットに芯といっしょにいれて退店。この日はバッグをもたず手ぶらできたのだが、左ポケットだけ重くなり、重心的にやや不格好になった。それで職場へむかう。
  • 勤務。(……)
  • (……)
  • (……)
  • (……)
  • (……)こちらは意外とけっこうよく、というかすぐ笑うタイプなのだ。愛想笑い、といえばそうなのかもしれないけれど、べつに意識したり無理してそうやっているわけではなく、職場にいたり他人とはなしたりしているときは自然とそうなる。べつに技術とか意図とかなく、ただへらへらしているだけだし、場をあたたかくしようとかなごませようとかとくにおもっていないのだけれど、まさかこの俺が、そこにいるだけで空気をほがらかにするような人種になるとはなあ、と我ながらちょっと感慨深い。成長したものだ。大学をでるあたりまでは社交性がほぼなかったのだが。
  • そのあとのことはさほど印象深い物事はない。帰路の記憶もほぼなく、あるいている途中で、こうして労働のあとにしずかな夜道をひとりでゆっくりあるいている時間こそが、もっとも自由と安息をかんじる時間なのかもしれない、とまたおもったくらい。深夜、なぜかVan Halen1984』をきく。いまは亡きEdward Van Halenはロックギターのスタイルとしては確実にひとつの画期を築いたとおもうし、それはライトハンドのみによるものではなく、かなり切れの良いディストーションのトーンにしても、リフなどのこまかく鋭い高速の装飾にしてもそうだとおもうのだけれど、いかんせん曲は弱い。David Lee Rothはいかにも暑苦しいタイプだし、メロディアスな旋律を歌うというタイプではないので、ギターは格好良いのだけれど曲としてはキャッチーな魅力に欠ける、ということはままあるとおもう。Sammy Hagar期になると、彼も彼でボーカルとしては暑苦しいタイプだが、そのメロディ性がカバーされて、けっこうポップな色にかたむく。『1984』は、"Jump"なんか、Lee RothのいるVan Halenとしてそういうポップなことをやってみようとした、というこころみだとおもうけれど、高校のときみずからバンドでカバーしておいてなんだが、いまきいてみるとわりとダサい気もするし、"Panama"にしても冒頭のリフとかバッキングとかは気持ちが良いし均整もとれていてさすがだなとおもうのだけれど、曲としては、サビなんてパーナマ、をくりかえすだけだし、メロディを志向していないことはあきらか。しかし、"Jump"はたしか全米一位になっていたとおもうが、これが大ヒットする八〇年代アメリカとは……? という疑問をおぼえないでもない。けなしていうのではなく、いったいどういう社会だったのか? というのが単純にわからない、という。こんなにメロディなくて、ジャンプ! とかパーナマ、をくりかえしているだけでひろく売れるの? という。むしろそういう標語的なワンフレーズの反復のほうがつよいのか?