2021/11/19, Fri.

 コットンのシャツを
 着ている彼
 摘んだのは彼ではなく
 私の先祖
 摘み、織り、白いボタンを縫い付け
 絶望の重みでしわを伸ばしたものを
 彼が着る(end13)
 そしてボタンを外し 奴隷だった私たちの母をレイプする

 コットンのシャツを
 着た彼は
 袖をまくり上げ
 サトウキビを手に取り
 手元の端から甘みを啜りながら、
 反対の端を骨がきしむほど私たちに打ちつける
 肉が引き裂かれるまで何度も

 (ニール・ホール/大森一輝訳『ただの黒人であることの重み ニール・ホール詩集』(彩流社、二〇一七年)、13~14; 「彼のシャツ」 His Shirt)



  • 八時半ごろにいちど覚めたのだがまた寝つき、その後もういちど覚めたおぼえがあるがそこでも起きられず、最終的に一一時半をむかえた。夢をいくつか見たはずだが、ほぼおぼえていない。さいしょに覚めたときの夢には(……)が出てきて、なにか悶着的なできごとが起こったはず。(……)がなんらか妄想的なかんがえをいだいてまわりやこちらを不当に非難してくる、みたいなことだった気がする。さいごに覚めるまえに見ていた夢のなかでは、たしか東浩紀参院選に立候補して議員を目指そうとしていたはずで、東浩紀も国会議員としてはうーんというかんじだけれど自民党よりはましだろうとおもって彼に投票しようとする、みたいな内容があったとおもう。
  • きょうの天気は薄雲混じりの晴れ。青さのうえにたゆたう炎の霊のように淡い雲がひろがっており、それが全体として窓の右から左へとながされていくうごきはけっこうはやかった。喉を揉んでから離床し、水場で洗顔ほかを済ませてくると瞑想。一一時五五分ごろからはじめて、目をあけると一二時半に達していたとおもうので、なかなかながくすわれて、心身もかなり統合された。瞑想をしているとまずからだのいろいろなところの皮膚表面にぽつぽつと泡のような感覚が生じてきて、それがじぶんのいうところのノイズなわけだけれど、それをかんじながらじっとしているとだんだんとまさしく微小な泡が割れるようにしてそれらは消えていき、肌はなめらかに均されたような感覚になり、ということが何度もくりかえされるうちになめらかさの度合いが上がってきて、一定の段階を越えるとノイズがほぼかんじられなくなってからだの各所がひとつながりの平面として統一されたような感じになり、そうするとからだ全体がぼんやりとした温もりにつつまれているような感覚にリラックスして気持ちが良く、またそのように高度に円滑化された輪郭の内側は軽く、ほとんどなにもなくなったように感じられ、液体的な空洞みたいな感覚になる。現段階では行ってもだいたいそのくらいまでで終えるので、その状態をさらにつづけているとどうなるのかは知らない。マジで身体感覚が解体したり、なくなったかのように感じられてくるのかもしれない。
  • 上階へ。髪を梳かす。きのう母親が買ってきたタンドリーチキンのあまりと米と味噌汁で食事。新聞は竹島問題の経緯をかなりみじかく要約した記事を読んだ。五二年に李承晩が李承晩ラインというのを発表し、そこで竹島を韓国領にすでに組みこんでいたのだという。それいぜんの領有権として韓国側が主張しているのは、一七〇〇年になる直前くらいだったかに江戸時代の日本に渡っていた漁民ふたりが帰ってきたとき、幕府が竹島を朝鮮領とみとめたと証言した件らしいのだが、日本側に対応する史料はないから根拠薄弱だと。
  • 皿と風呂を洗う。風呂場の窓をあけると、きょうは起きるのが遅くなってすでに一時まえだったから、先日とはちがってとなりの敷地には空の西側にもうはいった太陽がつくりだす我が家の影がさしおちており、空き地の縁に溜まっている葉っぱはこのあいだよりも橙の色味をつよめているように見えた。南中にちかいころあいなのだが日なたの色もあまり密と見えず、空気のあかるみも先日の浮遊的だったり夢想的だったりする質感を捨てて冴えていて、浴室内にはかんじられないものの微風もあり、ズタズタに破れながらかろうじて竿にひっかかっている旗の残骸がながれるものに身をほそくなびかせて、まさしく魚のうごきか天女の羽衣めいてうねりながら泳いでいた。
  • 帰室。Notionを用意。ウェブをちょっと見ると一時半。一七日の日記を書きはじめたが、指がうごきづらいような気がしたので先に音読。「読みかえし」から蓮實重彦『「ボヴァリー夫人」論』の引用。BGMはまたOasis。二時過ぎまで読み、洗濯物を取りこみに。父親はソファで寝ており、こちらが洗濯物を取りこみはじめるとうめき声をあげながら起きた。タオルだけ先にたたんで足拭きマットとともに洗面所にはこんでおいてさっさと下にもどり、日記を記した。一七日を終え、きのう、一八日分もかたづけて、そうすると三時一五分だった。まずまずのはたらき。ベッドにころがってルイーズ・グリュック/野中美峰訳『野生のアイリス』(KADOKAWA、二〇二一年)をすこしだけ読みつつ脚をやわらげたのち、音楽をイヤフォンにしてOasisを聞きながらストレッチをした。そしてそのままふたたび瞑想に。ながしていたのは『(What's the Story) Morning Glory?』で、このアルバムのデラックス版は三枚組であり、Amazon Musicでいうと二七曲目からが三枚目だとおもうのだけれど、この三枚目はもろもろの曲のデモ音源やライブ音源が収録されていて、二八曲目あたりから"Some Might Say"やらなにやらのデモとか、たまにライブでもアコギ一本でやっている演奏がけっこうあって、それらがどれも良い。正直かなり良いじゃんと、俺もこういうのやりたいわとおもってしまう。"Some Might Say"にかんしていえばバンドでやっているライブも良くて、ボーカルはまあふつうに音程などやや雑だし、リズムもかっちりしているかといったらそうでもないし、録音の音質じたいも良いとは言えないが、音楽とは音程がどう、リズムがどう、音質がどうなどということではない。ひずんだギターがコードをジャーンと鳴らしているその音だけでなんだかもう気持ちが良いというかんじがあった。"Some Might Say"は曲もまあけっこう嫌いではなく(歌詞も対句だったり、サビでtionの音をくりかえして独特の韻律があったりして悪くない)、もったりした感じの半端なあかるさという調子なのだけれど、Oasisの持ち味ってヒットしてメジャーになった曲よりもじつはこういうほうなのではないかとおもったりもする。良いかどうかで言ったらたぶんヒット曲のほうが良いのだけれど、バンドの持ち味じたいはこういうもったりした半端なあかるさみたいなやつではないかと(とは言いながら、セカンドでいちばん好きなのは"Champagne Supernova"一択なのだが)。"Hey Now"なんかもその路線で、この曲のもったり具合は"Some Might Say"よりもさらにつよいし、あの曲のあのやる気のなさはかえってすごいというか、サビにしてもそれいがいの箇所にしてもよくあんなにのっぺりしたメロディのながれで成立させることができたなとおもうくらいだ。単調きわまりないとおもうのだけれど、あれはあれでなんか曲としてうまく行っている。
  • 三時四五分くらいから四時五分くらいまで音楽とともに座り、上階へ。先ほどあとまわしにしておいた洗濯物類、肌着とか寝間着とかジャージとかをたたんでいく。そとの空気にもう陽の色はないがまだ暗さに向かいはじめる直前というおもむきで、中立的な無色の大気のなかで、イチョウやらカエデやら色を変えた樹々が特につやめきもせずにしずまっている。すぐ近くで子どもらがふたりか三人で遊んでいる声がしており、なにかを叩くような音や、それでゲームをして勝敗をさだめているようなことばが聞こえてきたが、たぶん女児だとおもわれるなかのひとりの笑い声は、たとえば羊みたいな動物の鳴きの震え方にちかい手触りを帯びていた。洗濯物がかたづくと台所に行き、出勤前のエネルギー補給としておにぎりをひとつつくった。塩と味の素とすりごまをかけて握り、室に持ち帰って手早く食す。それからきょうの日記をさいしょから書きはじめ、四時五〇分くらいで身支度のために中断した。現在時に追いつくことはできなかったものの、Oasisとともに瞑想したあたりまで書けたし、ひさしぶりに前日までの分をすべて完成させられているのでよい。歯磨きをしてスーツに着替え、出勤へ。さすがにそろそろ寒いのでコートを着ることにした。
  • 上階に行って靴下を履き、手がなんとなく脂っぽかったので石鹸で洗い、トイレで小便を捨て、玄関で顔にマスクをつけていると父親がはいってきたので行ってくるとあいさつ。そとに出て道へ。コートを羽織りはしたものの、そこまで冷たい空気でもなかった。東の低みにオレンジ色の月が雲に巻かれてうすぼんやりとあらわれている。道を行きながら首をまわしてまた見ると、先ほどよりもすこし色かたちがおおきくなっているそれは薄雲混じりで平板にひろがる淡い墨色の空のなかでなにか巨大な虫というか、なんらか異質な存在のような印象をあたえてきた。道の暗さはたそがれをとうに越えてもうほぼ宵であり、十字路前で視界の先に、白いズボンを履いた男とスカートの下に脚をさらした女子高生が木立の脇で立ち話しているように見えたのだが、動きがないのでそれは錯覚だとすぐにわかり、ちかづいていけばじっさいガードレールと林の縁に置かれたちいさなカラーコーンだった。眼鏡をかけていなかったこともあろう。なんだかんだつけていると疲れるので、職場に行ってからかけるようにしている。きょうは瞑想をしてからだがまとまっていたので、道中つけても問題なかっただろうが。
  • 坂道をのぼっていき、駅へ。ホームにはいると率先して先のほうに出ていく。丘は散在する電灯の裏で表面の襞も見分けられずただ黒一色のかたまりと化しており、線路をはさんで先にある石段上の一軒は明かりがまったく灯っていないために宵の空気にまつわられて沈みこんでいる。ふだんはひとがおらず、たまに来る別荘みたいな用途の家なのかもしれない。そういう向きのひともこの地域にたぶん増えているのだとおもう。もっと先、丘にちかいほうの家は窓に淡い明かりを漏らしており、そこから左に視線をずらせば西の空がひらいていて、もう青もなにもないけれど横向きでそこに張られた雲のすじの下腹のみ、濁ったピンク色をかろうじて受け止めていた。来た電車に乗ると扉際で瞑目のうちに待つ。車内にはこまかいざわめきのなかで声のおおきな人間がふたりおり、ひとりはすぐそばでふたりならんで吊り革をつかんでいるほうのいっぽうで、中年いじょうの男であり、酔っ払っているのか? というかんじのもごもごした口調で、呂律が回らないとまでは行かなくともあまり明晰な発語とはいえず、すき家がどう松屋がどう牛丼がどう、俺にはぜんぜんいらないのよみたいなことを(店や品を比較していたのか?)もうひとりにはなしているそのなかに、おっさん特有の、ともう言ってしまうが、どうでもいい些末なことについて不満を述べヤンキー的にけなしにかかる高圧性のニュアンスがほんのすこしふくまれていて、けっこう鬱陶しそうなかんじだった。もうひとりの声のおおきな人間はたぶん女性だったとおもうのだけれど、遠くのほうにいてチャラ男がどうとかなんとか言っていて、こちらは距離もあったしよく理解できず。
  • (……)で降り、駅を抜けて職場へ。(……)
  • (……)
  • (……)八時四八分くらいに退勤。駅にはいって改札をくぐったところでコートをわすれてきたことに気づいたので、通路をもどり、改札で駅員にすみませんと声をかけ、職場に忘れ物をしちゃって、出たいんですけどと告げた。駅員はSUICAを置く機械を持ち出してきて、ここに置いてくださいというのでSUICAの柄が描かれてある浅いくぼみ部分にカードを置くと、操作がなされて即座に入場データが解除された。機械にはデータ状態を示す文言も三つくらい書かれてあって、ランプの点灯がいちばんうえからまんなかのそとに出られますみたいなことばのところに移ったわけだが、いまはこれをわざわざ乗客に見せるかたちでやるようになっているのだろうか。いぜんは駅員がカードを受け取って、なかの機械のところに持っていって操作していたものだが。ともかくそれで職場にもどり、コートを羽織って出るとふたたび駅にはいって、乗車。席がけっこう埋まっていたので扉際に立って待つ。
  • 最寄りで降車。月が南寄りの高みに飛び上がっていた。もうほぼ満月。駅を抜けて木の間の坂道にはいると、背後の表通りを行っていた車の音が消えたあとから純粋無垢のしずけさがむすんで、じぶんの靴音ばかりがきわだつなかに空気のながれもまったくないから周囲の葉がすれあう音も立たず、端的な無音と動きのなさに耳が張り、それでもすぐに枯れ葉が落ちるだろうとおもったところがそれもなかなか聞こえてこず、しばらく行ってようやく木立のなかからかすかな気配がしたたった。出口近くになるとようやく風のにおいがはじまって葉が揺らいだのは、斜面下に沢がとおっていて水が近くになったからか。十字路の自販機脇についた旗も軟体動物のように表面を波立たせていた。南の直上に浮かぶ月は雲がかりではあるもののほとんどあかるさを減じられもせず、雲のむこうというよりはその上を悠々とながれており、ただ雲を乗せられたためにいくらか黄味をつよめたようで、おなじ色の暈も身のまわりに溜めて宿していた。
  • 帰宅。手とマスクにアルコールをかけて消毒。居間のほうにはいるとたたんだマスクはすぐに台所のゴミ箱に捨て、そのまま洗面所に行って手を洗った。下階にくだって服を脱ぎ、ジャケット、ベスト、スラックスとそれぞれハンガーにかけて部屋のそとに吊るして、ジャージをまとってベッドに転がった。(……)さんのブログを読む。最新の一八日分に下のような記述があったが、これ金井美恵子が『カストロの尻』で書いてたやつじゃんとおもいだした。金井美恵子の描写はけっこううつくしくつややかで官能と色気をふくんでいたおぼえがあったが、Evernoteを見返してみるとたしかにそんな雰囲気だった。ふたつ合わせて引いておく。この作品の金井の文章はだいたいこういう感じでやたらと長く、しかもただ長いだけでなくあまりととのっていないように見えるというか、下の引用のように、なめらかに読ませようという意志が見受けられずくりかえしもおおくてけっこうごちゃごちゃした書き方になっていたはずで、どの程度戦略的にそれをやっているのか(ぱっと見たかんじでは戦略どうこうというはなしではなく、そんなこととはべつの原理とかかんがえとかちからにもとづいている文体のような印象を受けるが)わからないし、ある意味で悪文というようなそれを志向しているような文章といえるのかもしれないが、いま読み返してみるとこれはこれでなかなかおもしろい。

(……)ふたりはりんご飴というか、小さなりんごみたいな果物がりんご飴みたいにコーティングされていくつも並んで串にささっている、裏町で売っているのをたびたび見かけるアナルパールみたいな駄菓子を持っていた。(……)さんがそれをこちらに差し出した。くれるのだという。(……)くんによればりんごではなくサンザシ。最近価格がどんどんあがっているらしい。

     *

 (……)フートンの塀からかすかな甘い香りをひっそりと漂わせるサンザシの白い花が秋になると赤い小さな、リンゴにそっくりな実(そう、ちょうど、あんたが糊のついているのをいやがって着ない浴衣のホーズキの実くらいの大きさの)がなって、冷たい埃っぽい風が吹きはじめる晩秋、アメ菓子売りの響きと調子の良い節をつけた声(京劇の一節のような)がして街中にやってくる、てんびん棒の両端についた大きなわらづとに、竹ぐしに刺した果物につやつや光っているアメを被せたものが何本も何本も刺してあって、濃い紫色のナツメや、小さく一口大に切ったパイナップル、一房ずつ皮をむいたミカンや、輪(end106)切りになったバナナ、なかでも赤い小さなリンゴのような実が長い竹ぐしに、ずらりと八つも刺してあるサンザシが、豪華な血赤サンゴの珠のように、青い晴れわたった空と、たとえば天安門とか東安市場や、フートンの薄茶色の土壁を背景に輝いて、誰だって絶対に買わずにはいられないし、まるでガラス細工のように竹ぐしに刺った果物は光って、クリスマスの色とりどりのガラス玉の飾りのようでもあり、なかでも愛らしく魅力的なのはもちろんサンザシで、長い竹ぐしの一番上の透明なべっこうアメが被った実に歯をたてると、パリッという音がして薄い透明なアメが割れて、時々、割れた薄い鋭くとがった透明なアメが歯茎の裏に突き刺ったりするけれど、むろんすぐに口の中で溶けてしまうし、アメが割れるのと同時にサンザシが甘さより酸っぱさの勝った味と香りをたてながら、軽く水分を含んだ果肉の割れる音をたてて、そう、アメと違って、パリンッ、かもしれない、とあの人は目尻に皺を寄せて笑い(たしかにその笑顔に刻まれた皺を見ると、二人があまりにも年が離れすぎているのが、皺もシミもタルミもないあたしにも胸苦しいようにわかるのだ)、自分は一個食べたらもう充分で、それ以上食べる気にはなれないから、天安門広場でも、東安市場でも、(end107)フートンの入口でも、すれ違った中国人の小さい子供にサンザシの竹ぐしをやってしまうのだったけれど、あれを是非きみに買ってやりたかった、きっと、大喜びしただろうな、と彼は言い(……)
 (金井美恵子カストロの尻』(新潮社、二〇一七年)、106~108; 「呼び声、もしくはサンザシ」)

  • 一〇時前になって起き上がった。トイレへ行って放尿。もどってくると出勤前と同様、また音楽を聞きながら瞑想した。瞑想というか単なる静止で、そのあいだに違いはなく、瞑想という語はほんとうはあまりぴったりしないのでいい加減ほかの言い方を開発したいのだが、坐禅というのもなんだか違う。また、音楽を聞きながら瞑想というよりは瞑想のついでに音楽を聞いているといったほうが良いのかもしれず、そのあたりの差異はあいまいである。ともかくOasisのセカンドのデラックスエディションを先ほどの続きから、すなわちディスクでいうと三枚目の八曲目である"Roll With It (Live At Roskilde)"からながし、イヤフォンをつけたまま枕に尻を乗せてしずかにした。このあとの音源では"Hey Now"のデモとそれにつづく"Bornhead's Bank Holiday"のデモがアコギ一本だが、こう聞いてみると"Hey Now"はそんなにもったりしないというか、バンドでやったスタジオ版よりなんといえば良いのか、ちょっと若いというかおさないというか、ほんのすこしばかり叙情のつやがかんじられないでもない気がする。"Bornhead's Bank Holiday"は曲が良い。"The Masterplan"までながれてここまでにしようと切ったら、ちょうどそれが音源の終わりだった。九時五七分くらいから一〇時二〇分くらいまで座っていた。
  • それからきょうのことを記述。一一時をまわるところまで。そうして食事へ。味噌汁の残りに鮭やキャベツのスライス。食べながら夕刊を読んだ。マルコムXを殺害した事件の犯人とされて二〇年いじょう服役したひとが容疑を晴らされたと。このひとはムハンマド・アジズというひとで、もう八三歳だかそのくらいの年齢だったが、六五年にマルコムXが暗殺された事件ですでに故人となったもうひとりとともに有罪をくだされて、終身刑になって長く服役していたが八〇年くらいに仮釈放されていたらしい。もうひとりのひとがマルコムXを銃撃して致命傷をあたえたとみなされていたのだが、再調査がおこなわれた結果このひとの特徴と一致しない目撃証言の存在、またそれをFBIが隠していたという事実があきらかになり、今回の有罪取り消しにつながったと。アジズ氏はマルコムXが幹部としてつとめて黒人差別に反対したNation of Islamのメンバーだったと書かれてあったとおもう。
  • そのほか大谷翔平アメリカン・リーグでMVPを取ったという報を読んだ。MVPを決めるにあたっては全米野球記者協会という団体の有力記者三〇人が投票権を持っているらしいのだが、今回はその三〇人全員が満場一致で大谷翔平に一位の投票をあたえ、二位となった選手をおおきくはなして堂々のMVP獲得ということだった。一試合で最高の投手と最高の打者を両方とも演じることのできる驚異的な能力のみならず、つねに笑顔をたやさず周囲を楽しくあかるくしながらメンバーやスタッフとも親しく交流するさわやかで紳士的な振る舞いが人気を呼んでおり、人柄の面でも尊敬を得ていると。いままであった典型的な日本人の野球選手のイメージ(イチローや野茂のように、繊細なテクニックでひとつのことを追求するスペシャリスト)をくつがえす存在であり、スポーツをこころざすアジア系の子どもらやひとびとにとってもおおきな先例になるだろうとの言が紹介されていた。
  • 食器を洗って乾燥機にかたづけておくと入浴。湯のなかでも瞑目して静止。きょうは瞑想をよくやったので疲労感が薄く、湯に浸かって目を閉じていても眠くならない。出てくると茶を用意。また、母親がしごとの帰りにケーキとプリン類を買ってきていたので、そのなかからプリンをいただいた。帰室してそれを食べると、茶を飲みながらこの日のことをまた記述し、ここまで綴って現在時に追いついたいまは二〇日の午前二時に達する前である。勤勉なしごとぶりだ。非常によろしい。
  • 三鷹SCOOLで古谷利裕が佐々木敦および山本浩貴とで鼎談するというイベントに行ってみようかなと、先日「偽日記」での告知を見たときからおもいつつもぐずぐずしていたのだが、出不精だから気になったときにきちんと予約しないと行くのが面倒臭くなってしまうというわけで、ここで予約メールを送った。一一月二五日木曜日。そういえば昼間に美容室に電話したのだけれど、このイベントのことがあたまにありながらも二五日の二時をむこうから提案してきたのでそれに応じて散髪を入れてしまった。
  • その後は歯磨きなどしてからだらだらと過ごし、四時前に至る。寝る前にまた音楽を聞こうとおもってMichael Feinberg『Hard Times』をながしたものの、やはりこの時間になるとさすがにからだがぶれるので一曲でギブアップし、四時五分に就床した。

2021/11/18, Thu.

 ぼくたちは規則を守ってゲームをしたのではなく
 規則そのものを完璧に演じたのだ
 違反なしであり 罰もなかった

    ゲームは終わった
    それとも
    はじまろうとしているところか?

 (リチャード・ブローティガン福間健二訳『ブローティガン 東京日記』(平凡社ライブラリー、二〇一七年)、173; 「不正な恋」 Illicit Love; 東京 一九七六年六月二十八日)



  • 作: 「ねむらずの街のほとりで夜を投げ星を殺そう朝が来ぬよう」
  • きょうは正午までだらだらと寝床にとどまってしまった。天気は曇りで、薄白さが空の全面をおおって青さもないが、窓の右端のほうにより濃い白のひかりのボタンめいた太陽のちいさなすがたも見られた。深呼吸をくりかえしてから起き上がると瞑想はサボって上階へ。父親は階段下の室で農業の動画を見ていたよう。母親はきょう、(……)さんとランチをしに行っている。ジャージに着替えて顔を洗ったりうがいをしたり、もろもろすませると食事。ソーセージと卵のソテーに野菜スープと白米。米はもうさいごのほうで、やや固くなっていた。払うと炊飯器に水をそそいでおく。食事を取りながら、文化面に藤井聡太関連の記事がまたあったので読んだ。芦沢央 [よう] という八四年生まれのミステリー作家(さいきん将棋を題材にした小説を書いたという)が観戦経験をもとに書いていたが、ほかのプロ棋士が言ったという藤井についての評言で、「将棋で食べているのではなく、将棋を食べている」ということばがあった。筆者は、タイトル戦というのは藤井にとって目的なのではなく、将棋の真理にいたるための手段なのではないかと言っていて、まあそりゃそうだろうとおもう。
  • 食器と風呂を洗って茶をつくり、帰室。もどるまえに、まだ一時まえだったのだけれど、天気も良くないしこんななかで出していても乾かないだろうとおもって洗濯物はもう取りこんでしまった。Notionを用意し、Oasisをながして「読みかえし」を音読。その後、なぜか何年かまえに買ったゲンロンカフェの東浩紀浅田彰の対談動画のことをおもいだし、なんとなくすこしだけ再視聴してみるかという気になった。それでVimeoにアクセス。ログイン情報がわからなかったというか、いまつかっているgmailのアドレスでははいれず、アカウントをつくったときにだいたいメールが来るはずだからと情報をもとめてgmailにアクセスしたのだが、検索しても出てこず、いまはもうまったくつかっていないもうひとつのアドレスを入力してみるとこれが通った。それで視聴。いぜん浅田彰にやたら興味を持っていた時期があり、そのときにゲンロンカフェで彼がやったトークの動画はすべて購入してあった。今回見たのは二〇一四年の、東日本大震災もしくはいわゆるフクシマは思想的課題になりうるかというテーマのやつで、ほかに中沢新一も入れて鼎談したやつ、千葉雅也と東浩紀が浅田の還暦を祝ったイベントのときのやつ、あと浅田はいないが中沢新一東浩紀のふたりで対談したやつと、全部で四つの動画が保存されてあった。それでダンベルを持って腕をあたためたり、ベッド縁にすわった状態で足先をもういっぽうの腿のうえに乗せ、先端をつかみながら引っ張ってすじを伸ばすストレッチをやったりしながら、36:45時点まで閲覧した。スツール椅子にPCを乗せるとぴったりはまってイヤフォンを挿しこむすきまもなくなってしまうとおもっていたが、単純にすこし椅子の角度をずらしてジャック部分を露出させることができたのでそれで解決。これで映画なんかも気軽に見ることができないでもない。
  • その後、ここまでつづって三時。きょうは休みなので、なんとかできるだけ日記をすすめたい。一四日以降がまだまだ未完成。どの日のどのことをさきに書くかとか考慮せず、まえから現在にむけて単純に順番につづっていくという愚直さにまたもどろうかなという気になっている。それで間に合わず忘れてしまったものはしかたないと。いまもわりと忘れてしまっていることは多いし。まあそう言いながら、きょうのここまでの部分はさきに書いているのだが。
  • いまもう一九日の午前三時前。きょうは一四日のながながしい日記をしまえることができてなにはともあれ良かった。たぶんきょうで四時間くらい書いたのではないか。そんなについやしてはいないか? はてなブログの投稿画面で出た表示によれば、二四〇〇〇字くらいになったよう。きょうつづったのはたぶん一万字くらいか? 坂口恭平がウェブ記事で、一日一〇枚、一年で三六五〇枚書くのを日課としており、いまは一日で五〇枚くらい書いていると言っていたが、一日一〇枚、つまり四〇〇〇字くらいだったら、こういう文章ならわりと余裕ではある。しかし五〇枚、二万字となると一日ではきつい。一五日、一六日は記憶がもうさだかでなかったので、ほぼすでに書いてあったところまでで終了とし、投稿。一七日以降はあしたがんばりたい。基本的にやはり、直近の記憶がうすれてしまうということを意に介さず、ひたむきに過去から順番に書き記すという単純さに回帰しようかなとおもった。この段落も、それに反して先に記している部分だが。ついでに触れておくと、おとといあたりにながしたMichael Feinberg『Hard Times』をいままたながしているが、これはなかなかちからがはいっていて良いジャズのようにおもわれた。
  • 午後三時以降はまず一四日の記事に取り組んだような気がする。いや、ちがうか。いつもどおり「読みかえし」を読んだのではないか。それでやはりいつもどおりベッドに身投げして書見したはず。ルイーズ・グリュック/野中美峰訳『野生のアイリス』(KADOKAWA、二〇二一年)。五時にいたるまえに一四日をすこし書き足したような記憶がある。五時を間近にしてそろそろ上がろうと携帯を見ると、母親からメールがはいっていて、六時ごろになるとおもう、小僧寿しを買うとあった。そうして上階に行くと、野菜スープは少量のこっているし、サラダも昨晩につくられたものがたくさんあったので、あとは米がもうないから磨いでおき、餃子でも焼けば良いだろうとおもい、まず炊飯器の釜を洗って米をあたらしく用意した。六時半に炊けるようセットしておき、つづけて餃子も焼く。水をそそいで蓋を閉じ、蒸し焼きにしたあと、強火で水気を飛ばしながらフライパンを振る。できるとアイロン掛けへ。さほど数はない。四枚ほど。かたづくと五時四〇分くらいだった。階段のとちゅうに衣服をはこんでおき、じぶんのワイシャツは自室のほうへ。それからまた一四日の日記を書きすすめた。七時過ぎまで。
  • 夕食時にたいした印象はない。寿司は海鮮丼。新聞から米中関係の記事だかを読んだのだったか? よくおぼえていない。そういえば(……)の(……)が来年家を出るらしいというはなしがあった。いまもうすでに付き合っている女性のところにたびたび行っているらしく、兄の(……)とおなじパターンである。どこに住むのかときいたが、その点は聞かなかったと。食事を終えると帰室して、またもや一四日の記事に取り組んだ。九時半だか一〇時くらいでさすがにからだがこごってつかれたので倒れ、だらだらしたあと、一一時まえに入浴に行った。湯のなかでは静止して心身を落ち着かせる。あとさいきんまたきちんと束子でからだをこするようにしているが、これも気持ちが良く、リフレッシュできる。基本的に疲労というのは皮膚表面においてかんじられるものだ。
  • 出るともう零時を過ぎた。すこし日記を書くか、あるいはウェブを見るかしたあと、先ほど食わなかった餃子を白米に乗せた丼を用意してきてエネルギーを補給。その後、一四日の記事をすすめてさいごまで終えることができた。一五日と一六日もてきとうにかたづけて、それから歯磨き。口をゆすいだあとに便所にはいって腹を軽くしようとしたのだが、めずらしく便秘というか、出るものがなかなか出てこず、けっこう時間をつかった。トイレを出ると三時半だった。そのあとは夜ふかしをして、就床するのはまた四時五〇分ごろになってしまった。もうすこしはやくしたい。

2021/11/17, Wed.

 へその緒を
 結びなおして
 生命をそこに流しかえすことは
    できない

 ぼくたちの涙が完全にかわくことは
    ありえない

 ぼくたちの最初のキスはいま幽霊になって
 ぼくたちの唇にとりつき(end162)
    唇は忘却にむかって
    色あせる

 (リチャード・ブローティガン福間健二訳『ブローティガン 東京日記』(平凡社ライブラリー、二〇一七年)、162~163; 「過去をなかったことにはできない」 The Past Cannot Be Returned; 東京 一九七六年六月十九日 モンタナで言葉をいくつか加えた 一九七六年七月十二日)



  • 一〇時半に覚醒した。きょうはまた天気がもどって雲のない快晴で、陽射しも寝床までとおっている。しばらくとどまって一一時まえに離床し、水場に行ってきてから瞑想。良いかんじでじっとすわっていたが、とつぜんからだのちかくになにかが落ちてきたような音がして、おもわず目をあけるとベッドのうえになにかの部品が割れたその破片みたいなものが乗っていたのだけれど、それがなんなのか、いったいどこからやってきたのかまるでわからなかった。瞑想を再開しようとしたが急に中断されたためになんとなく興がなくなったのでそこまでとし、カーテンレールなどしらべてみたがそれらしいもとが見当たらない。天井にももちろんなにもない。しかしのちほど、ベッドと壁のすきまに割れた洗濯ばさみが落ちているのを発見したので、どうもカーテンについていたものがなぜか勝手に割れて落ちたようだ。
  • 上階へ行き、ジャージに着替えて食事。煮込みうどん。新聞は一面、オンラインによる米中首脳会談や脱炭素の取り組みについて読む。後者の記事には、天然ガスから燃料水素をつくるさいに生まれる二酸化炭素の九五パーセントを回収・貯蔵できる施設がルイジアナ州につくられたとあった。二酸化炭素の回収・貯蔵技術のことをCCSというらしいのだが、それがCO2の排出量削減のために期待されていると。回収した二酸化炭素は一キロいじょう下の地下に埋めるらしい。
  • きょうは三時には出なければならず、そうすると猶予がないからやはりそれだけでもなんとなく気分が鬱陶しく、ほんのわずかながらストレスをかんじる。ながくなるはずの一四日の日記も書けていないし。食事を終えて皿を洗うと、そのまま風呂も洗って帰室した。コンピューターを用意してまずきょうのことをここまで。
  • そろそろ髪を切りたいので美容室に電話をかけたものの、休みなのかつながらなかった。あるいはコロナウイルス状況の名残りでまだ午前だけの営業なのか。出勤までにたいしたことはしなかったとおもう。ルイーズ・グリュック/野中美峰訳『野生のアイリス』(KADOKAWA、二〇二一年)を読んだりしていたよう。出るまえに瞑想もおこなった。二〇分ほど座ったのではなかったか。瞑想をすると皮膚表面のざらつきが消えて肌がゆるくやわらかくなるのが如実にかんじられて気持ちが良い。やっぱり時間を取ってそういうふうに肌をほぐれた状態にするのが大事だなとおもった。疲労感や調和が違う。
  • この往路は電車ではなく、徒歩。天気はけっこう良かった。坂道にかかって右手、川のほうを見下ろせば、先日も見たイチョウの樹はいかにもあかるく見事で、周辺にさまざまいろどりはあるし川を越えてむこうの林も色変わりしてスプレーをかけられたようになってはいるが、このイチョウのしっとりとしたレモンイエローが視界のなかでひときわあざやかに浮かんでいる。来たほうを振りかえると、かなたの山から川から宙や樹々や屋根まであたり一面、西からゆるくかけながれる午後三時のひかりを浴びてほがらかに自足したかのような色だった。坂をのぼって行くとしかし、頭上の樹冠は先日見たほどにあかるくはなく、ひかりのひろさや濃さが減っているようだったが、それは季節がすすんだということもあり、またきょうは空に雲が淡く混ざっているということもあるのだろう。
  • 街道ではあいかわらず道路工事がつづいており、ガードマンの高年女性が棒をまえに差し出しつつ礼をして車を止めたり、男性がなんとかかんとか文句めいた口ぶりを漏らしながら看板をはこんだりしている。作業場には小さなショベルカーが一台置かれてあり、その側面には、重機の裏に入らない! そこは見えません! みたいな文言が記されてあった(あるいは、そういうことばを記した紙かなにかが貼られてあった)。街道にいても日なたはやはりもうすくなく、ぬくもりもさほど漂っていない。裏通りにはいって進行。とちゅうでうしろから会話が聞こえてきて、声色や口調からしてたぶん男子高校生だなと判別される。ことばづかいもそうかもしれないが、口調や発語自体にやはり締まりのないようなかんじがある。しかしもうひとりのほうはわりあいはっきりした発語で、声も低めで、他方より大人びた雰囲気だったのだが、それでいてなんというか、いかにも男性的というのではなく、いわゆるオネエ的なトーンの色がちょっとかんじられないでもなかった。追い抜かしていくふたりのうしろすがたを見ればやはり男子高校生で、髪は双方黒で丸く、とくに洒落っ気はない。テストのことをはなしており、日本史は暗記だからいけるけどほかはどうこう、みたいなことを言っていた。
  • (……)を越えたあたりで小学生の男児三人が、グリコをやっていた。あれはだいたい階段とか、一歩の目印になるようなものがあるところでやるものではないかとおもうのだけれど、彼らはなにもないふつうの道でやっていた。こちらにいちばん近い位置にいるひとりが主導してぐーりーこ! と掛け声を発してジャンケンをし、勝ったものがおのおののあんばいで大股にすすむのを、その横を通る大人たちがなんとなく微笑ましそうに見やって過ぎる。通り過ぎたあとで一回、ひとりだけでなく三人でジャンケンの声を唱和させる瞬間があった。
  • 勤務。(……)
  • (……)
  • 帰路は電車。駅にはいり、いったんはベンチに座ってルイーズ・グリュックをひらいたが、さすがにもう外気にさらされていると寒いので、待合室へ。書見しながら待つ。あとから三人ほどくわわってくる。なかにひとり、くすんだ茶髪をすこしうねらせたような髪型の、小太りくらいの体型の男性がいて(二〇代後半くらいか?)、ベンチの端に横から腰掛けながら疲労困憊したようなようすでたびたび息をはいていた。(……)が来ると乗車。さきの男性はじぶんの右手、おなじ席のならびに腰掛けてやはり疲労にまかせて眠るようにしていた。こちらも瞑目して休む。そうして発車がちかくなって乗ってきた者のなかに右の男性に声をかけて合流したひとがあって、このひとはすこし酒がはいったような雰囲気をかんじないでもなかった。会話を盗み聞くに、飲み会かなにかあったけれど疲れたのでもう先に帰ってきたということだったのか、あるいは飲み会ではなくて、なにかギャンブル系の遊びのような印象だった。競輪だか競艇だかがどうとか言っていたし、あしたはどこでやる? みたいなことをとなりのひととはなしていて、(……)の名が挙がっていたのだけれど、しかしそんなほうでギャンブルとかやる? という疑問はある。雀荘とかなのだろうか。あるいは個人の家とかで場が立つのか。

2021/11/16, Tue.

 若い日本の女性のレジ係、
    彼女はぼくがきらいだ
    なぜだかはわからない
    ぼくは存在するというほかには彼女に何もしていない
 彼女は光にせまるような速度で
    計算機を使って伝票の数字を足してゆく

 カチャカチャカチャカチャカチャカチャカチャカチャ
    彼女はぼくに対するその嫌悪を
       足してゆく

 (リチャード・ブローティガン福間健二訳『ブローティガン 東京日記』(平凡社ライブラリー、二〇一七年)、126; 「レジ係」 The Cashier; 東京 一九七六年六月十一日)



  • 作: 「あすもまた来るものは来ず俺はただ逃亡線を引きなおすだけ」
  • 「読みかえし」、127番。

 私たちの間の共生は、こうしてさまざまな混乱や困惑をくり返しながら、徐々に制度化されて行った。それは、人間を憎みながら、なおこれと強引にかかわって行こうとする意志の定着化の過程である。(このような共生はほぼ三年にわたって継続した。三年後に、私は裁判を受けて、さらに悪い環境へ移された。) これらの過程を通じて、私たちは、もっとも近い者に最初の敵を発見するという発想を身につけた。たとえば、例の食事の分配を通じて、私たちをさいごまで支配したのは、(end18)人間に対する(自分自身を含めて)つよい不信感であって、ここでは、人間はすべて自分の生命に対する直接の脅威として立ちあらわれる。しかもこの不信感こそが、人間を共存させる強い紐帯である[﹅23]ことを、私たちはじつに長い期間を経てまなびとったのである。
 強制収容所内での人間的憎悪のほとんどは、抑留者をこのような非人間的な状態へ拘禁しつづける収容所管理者へ直接向けられることなく(それはある期間、完全に潜伏し、潜在化する)、おなじ抑留者、それも身近にいる者に対しあらわに向けられるのが特徴である。それは、いわば一種の近親憎悪であり、無限に進行してとどまることを知らない自己嫌悪の裏がえしであり、さらには当然向けられるべき相手への、潜在化した憎悪の代償行為だといってよいであろう。
 こうした認識を前提として成立する結束は、お互いがお互いの生命の直接の侵犯者であることを確認しあったうえでの連帯であり、ゆるすべからざるものを許したという、苦い悔恨の上に成立する連帯である。ここには、人間のあいだの安直な、直接の理解はない。なにもかもお互いにわかってしまっているそのうえで、かたい沈黙のうちに成立する連帯である。この連帯のなかでは、けっして相手に言ってはならぬ言葉がある。言わなくても相手は、こちら側の非難をはっきり知っている。それは同時に、相手の側からの非難であり、しかも互いに相殺されることなく持続する憎悪なのだ。そして、その憎悪すらも承認しあったうえでの連帯なのだ。この連帯は、考えられないほどの強固なかたちで、継続しうるかぎり継続する。
 これがいわば、孤独というものの真のすがたである。孤独とは、けっして単独な状態ではない。孤独は、のがれがたく連帯のなかにはらまれている。そして、このような孤独にあえて立ち返る勇(end19)気をもたぬかぎり、いかなる連帯も出発しないのである。無傷な、よろこばしい連帯というものはこの世界には存在しない。
 (石原吉郎『望郷と海』(筑摩書房、一九七二年)、18~20; 「ある〈共生〉の経験から」)

  • 128番。

 時間の感覚のこのような混乱は、徐々に囚人をばらばらにして行く。ここでは時間は結局、一人ずつ[﹅4]の時間でしかなくなるからである。人間はおそらく、最小限度時間で連帯しているものであろう。人間に、自分ひとりの時間しかなくなるとき、掛値なしの孤独が彼に始まる。私はこのことを、カラガンダの独房で、いやというほど味わった。このような環境で人間が最初に救いを求めるのは、自分自身の言葉、というよりも自分自身の〈声〉である。事実私自身、独房のなかの孤独と不安に耐えきれなくなったとき、おのずと声に出してしゃべりはじめていた。しかし、どのような饒舌をもってしても、ついにこの孤独を掩いえないと気づくとき、まず言葉が声をうしなう。言葉は説得の衝動にもだえながら、むなしく内側へとりのこされる。このときから、言葉と時間のあてどもない追いかけあいがはじまる。そしてついに、言葉は時間に追いぬかれる。そのときから私たちには、つんぼのような静寂のなかで、目と口をあけているだけのような生活がはじまるのである。
 (53; 「沈黙と失語」)

  • この引用のさいごの一文、「そのときから私たちには、つんぼのような静寂のなかで、目と口をあけているだけのような生活がはじまるのである」という文はすごい。「つんぼのような静寂」という言いかたの苛烈さ。「つんぼ」という語はいまや差別語なのでつかってはならないのだが、ここに書かれてあることの本質を表現し、伝達するためには、この「つんぼ」という語が必要だったとおもう。
  • いま二時過ぎで、(……)さんのブログを読んでいるのだが(最新の一五日付のあと、一一日に遡行)、後者のうちの下の一段落におもわず笑ってしまった。

となりのとなりの席に幼い子連れの家族がいた。その子どもがちょうど誕生日だったらしく、簡単なかぶりものをした店員たちが誕生日おめでとう的なメッセージの点灯した電光掲示板みたいなものを持って踊りながらあらわれた。音楽が流れる。店員たちが手拍子をはじめる。参加しないわけにはいかねえ! と血が騒いだので、外国人の特権を利用し、その場でひとり「フオオオオオオオ!」と歓声をあげたり「おめでとー!」と日本語で叫んだり頭上で両手を打ち鳴らしたりした。店員や周囲の客はそんなこちらの反応を受けて苦笑。それにくわえて隣の席にいた(……)さんが死ぬほど恥ずかしそうにしているのがまた面白くてたまらず、ますます悪ノリを重ねまくった。最終的に(……)さんはむこうの席に移動した。終わったところで、わたしは「社交恐怖症」なんです! 先生みたいな恥ずかしいひとと一緒にいたくない! と力一杯いうので、ゲラゲラ笑った。周囲の人間が恥ずかしがるようなことをするのが大好きだ。

(……)躁鬱の人はルーティンをこなす毎日が合っているような気がしますね。多くの人は「週5日働け」と言われたら大体働けるわけですけど、でもそこから僕みたいにルーティンすらぶっ飛ばしてしまうともっと自由ですよ。僕は毎日10枚原稿を書くと決めて、本当に毎年3650枚は書いてきましたし、今は一日50枚くらい書いています。執筆業のほうも、それがルーティンであることが僕にとって一番重要なことなので、「本にする」という概念すら捨てて、使えるか使えないかは一切気にせずただ書くようにしているんです。こんな感じで、僕は本一冊分のテキストを一週間ほどで書いてしまいます。

──昨日書いた原稿と今日書いた原稿がつながるともかぎらないような。そういう怒涛の書き方だとものすごく担当編集との信頼関係が必要そうですね。

つながらないようで、いつかどこかでつながるんですよ。打ち合わせはね、「書籍をつくります」というスタート自体が社会性そのもののように感じられて嫌なので、一度もしないんです。編集さんの提案や意見を待たずに、こちらが最初から原稿3000枚用意しておきたい。数千枚の原稿をポシャることもありますけど、ポシャるという感覚もあまりなく、「今は違うけどいつかはきっと」ととらえているラッキーボーイです。今日も急に雨が止んで、すごく晴れましたしね。

     *

1日に100人の自殺志願者の電話に出るとなると、自分もどこかで楽していかないと「なんで0円でこんな大変なことをやってるんだ」と我に返ってしまうかもしれない。中途半端に社会性を帯びた人間にはなりたくないので、とにかく素直でいることを心がけています。僕にとっては、美術も文章もただ素直でいつづけるための手段なんです。評価されることが目的ではないので、誰からなにを否定されようが一ミリも痛くない。実際に僕は自画自賛してるだけですから。「この素直さは半端ないぞ!」って自分で言ってるだけですからね(笑)。

  • 一〇時まえにいちど覚めたが起きられず、一一時ごろになって再度覚醒。ちょっとぐずぐずしてから一一時一五分に離床した。水場に行ってくると臥位にもどる。きょうは書見をせずにコンピューターを持ちこんでウェブを見たり(……)さんのブログを読んだり。残念ながらこのところの快晴はとぎれ、きょうはひかりもあいまいな曇天であり、さいしょのうちはそれでも薄青さがのぞかないでもなかったが、午後にくだって雲の色がより増していった。正午にいたって上階へ。
  • 両親はみかん狩りに行くとかで出かけている。洗面所でボサボサの髪を梳かし、食事へ。フライパンにウインナーがあったのでそれを皿に取ってレンジで加熱し、野菜スープはコンロで熱して米を椀に盛った。それぞれ卓にはこんで、新聞を読みながら食す。文化面と社会面にあった藤井聡太についての記事を読んだ。文化面のほうでは谷川浩司(鈴村和成がこんなような、似ている顔だった気がする)が藤井の特徴を解説しており、かつて谷川は勝負師/芸術家/研究者という三区分によって棋士のスタイルをかんがえたことがあるというが(大山康晴が勝負師タイプ、升田幸三が芸術家タイプで、このふたりが対局しているようすを横から写した六〇年代くらいの写真が載っていたが、それを見るに升田幸三というひとはモジャモジャした髪の毛で口のまわりにすこし髭を乗せた風貌で、たしかにちょっと芸術家っぽいというか、むかしの文豪とか美術家みたいな雰囲気に見えないでもなかった)、それに沿うならば藤井聡太は研究者的な側面がひとつあると。つまり真理追求型ということで、藤井聡太はじっさい、勝敗にこだわりすぎるとうまく行かなかったときにモチベーションが下がるのでそれをあまり重要視せず、対局や打ち手の内容こそを大切にかんがえている、という発言をたびたびしているらしい。その点、羽生善治にもつうじるところがあると。勝ち負けにあまり頓着せず盤上におけるおのれの真実をひたすら追い求めるという姿勢はたぐいまれなる平常心にもつながっているのだろうと谷川は述べており、じぶんの経験や羽生のようすも引き合いに出して、おおきなタイトルがかかった勝負というのは勝敗がかかる局面で動揺するもので、じぶんも勝ちが見えた手を打つところで手がふるえて苦しくなったし、羽生でさえらしくない打ち方をしていたが、藤井聡太はそのあたりでの気負いや動揺がまったく見られず、一〇代でそのような精神性やかんがえかたをはぐくんでいるのは驚異的だと評していた。谷川もいわゆる「ゾーン」にかんして触れていたが、社会面のほうでも藤井のきわだった集中力について言及されており、今回竜王戦をあらそったあいてである豊島将之というひとも、藤井はとにかく集中力がなみはずれていてそこに才能をかんじる、手をながくかんがえつづけているとつかれてしまうじぶんのような者は並の棋士にすぎないのだと痛感させられた、とかたっていた。藤井本人も、対局中にあいての表情とか仕草とかを見て気にすることはないと言っていて、マジで目の前にくりひろげられている盤面以外には目もくれていないようで、その点文芸批評でいうところのテクスト論者的な禁欲性とかある種の倫理性をおもわせるものだが、そういう発言を読みながら同時に麻雀漫画『哲也』のなかの挿話をおもいだした。二二巻あたりで上野 [ノガミ] のドサ健に負けた阿佐田哲也は新宿をはなれて放浪の旅に出て、西日本方面の各地でつわものたちとたたかいをかさねていくのだが、三〇巻あたりで最終的に鹿児島の知覧にいたって、元特攻兵で部下をさしおいて戦争を生き残ってしまったことに罪悪感を持っており米兵との麻雀に勝ってあいてを怒らせることで米兵の手によって殺されたいという願望をかかえた醍醐という男と命がけの対戦をすることになる。醍醐は米軍基地だか米国が接収した飛行場だかを舞台にえらんで、点棒が空になったらじぶんにむけられた機関銃が発射して死ぬという装置を用意し、たたかいの結果哲也がロンすれば勝つというところまで行って、いよいよ死ねるぞと胸をおどらせるのだが、哲也はじぶんがロンすれば目の前のあいては死ぬというおもいにとらわれて和了ることができない。その後、負けそうになった哲也は機関銃を一台じぶんのほうにも向けて、対等な条件をつくることで「これで博打になった」とじしんも命を賭けるのだけれど、そういうなかで見いだした解が、じぶんがドサ健に負けたのは上野と新宿のあらそいというような、卓上いがいのことにとらわれていたからだ、卓上で起こっている勝負から目をそらしたから負けたのだ、麻雀を打っているあいだ、卓上のことと卓外のことはなんの関係もなく、ただ卓上でいま起こっている勝負をのみ見据え続けなければならないのだという認識で、そういう勝負師としての倫理性にいたったことで彼はあいてを殺すことになるという恐怖を乗り越え、ロンと言って手をたおすことができたのだけれど(ちなみにだからといって醍醐は死ぬことにはならず、機関銃が発射される瞬間に哲也がその額にはなった雀牌によって彼はのけぞって銃撃をまぬがれ、それでも死のうと射線のまえに出るのだけれど、おりから降っていた桜島のシラスが銃に詰まって弾は出なくなる)、どうもそれといくらか似たような姿勢を生きているのが藤井聡太であるらしい。きのうの夕刊だかの編集小欄でも藤井について触れられており、そこでは、将棋をやるのが嫌だとかつかれたとか、駒に触れたくないとかおもったことはありません、という発言を引きつつ、論語の一節(あることを知っている者はそれを好きな者に如かず、あることを好きな者はそれを楽しむ者に如かず、という部分)と照らして、藤井聡太はまさにこれであるらしい、と述べられていた。好きこそものの上手なれ、を地でいった結果として究極的なレベルに到達した人間のようだが、いぜんに新聞で読んだところでは大谷翔平もそういうタイプらしい。藤井の発言としてはまた、将棋にまったくおなじ局面はただのひとつもなく、試合をするたびにその都度あらたな景色があらわれ、どう打てば良いのかわからない未知の瞬間に遭遇する、そこでじぶんなりに解をかんがえて打つのがたのしくおもしろい、これからもあたらしい景色を発見しつづけていきたい、みたいなことばも載せられてあって、完全に芸術家の言い分じゃないかとおもう。あと、子どものころに詰将棋をかんがえながらあるいていたために足もとが不注意になり、ドブに落ちて服をよごしたということが何度かあったようで、おまえはタレスか、というかんじ。
  • 皿と風呂を洗って、茶を持って帰室。コンピューターを用意し、一時ごろから「読みかえし」。BGMはまたもOasis。三〇分ほどで切った。便所に行って糞を垂れるとともに上階に上がって洗濯物を取りこみ、たたむのはあととなまけて部屋にもどると、もうすこし音読をしたほうがいいとおもっていたのだがしかしなんだかやる気にならなかったので、ダンベルを持ちながら(……)さんのブログやウェブ記事を読んだ。なぜか文を読むのがやたらはやく、するするというかんじでどんどん読めた。(……)さんのブログは一五日と一一日と一〇日。またこの昼は心身がおちついていたというか、いまここのからだにおのずと意識がフォーカスしやすいようなかんじがあったのだが、それはたぶんきょうが休日だから、出かけなければならない、何時には勤務に行かなければならないというあたまが生じないからだとおもう。労働がある日はじぶんで意識していなくとも、やはり起きた瞬間からそういう焦りが心身のうちに混ざっているのだろう。
  • その後、ひさしぶりにギター。まあ悪くはないがあんまりパリッとはしない。なめらかにながれるといえばながれるし、弾いているうちにたどったことのない経路をとおる瞬間も何度かあったが、全体的にあまりととのってはいなかった。ほんとうは似非ブルースだけではなくジャカジャカガシガシやりたいのだけれど近所にたいするおもんぱかりがはたらいて踏み切れない。(……)に練習室があるらしいので、そこを借りるのが良いかもしれないが、いまのところそんなに真面目にやる気も起こらない。
  • 三時半くらいからルイーズ・グリュック/野中美峰訳『野生のアイリス』(KADOKAWA、二〇二一年)を読みはじめた。縦ではなく横書きのデザインで、左ページに和文、右ページに英語原文が載せられている構成。英語は語彙や構造の面からすればそこまでむずかしくはない印象。訳は悪い点はなにもないが、ここは良いなというきわだった部分があるかというと、いまのところそれに出会えていない。とはいえまだぜんぜん序盤だ。ただ、原文も載っているからこの語やこの部分をこういうふうに訳しているのだなというのがわかるのだけれど、英語の意味の順序や区切りのリズムとけっこう変わっている箇所がおおかったり、ここの一節の意味はこうじゃないのか? とか、この語のニュアンスを盛りこまなくていいのか? という箇所があったりして、俺だったらこういうかんじで訳すのに、と素人の不遜な横槍があたまに浮かんでくる。語順や意味の順序にかんしては詩であれ散文であれ、翻訳をするかぎりしかたのない部分はおおいわけだし、単純になるべく原文の順番にあわせれば良いというものでもむろんないはずだ。英語と日本語だと節の主従が逆転することがままあるわけだけれど、そこを英語にあわせるとばあいによっては倒置技法の感がつよくなって本意でない強調が生まれる危険もある。この詩集の訳はそのあたりは、基本的に日本語としてのスタンダードな順序に変換しているような印象を持った。
  • だらだらころがりながら読んで、四時半くらいから起きてきょうの日記を記述。両親は四時まえくらいに帰宅していた。キーボードを打っているうちに五時をまわったので、現在時に追いついていなかったが中断して上階へ。アイロン掛け。めちゃくちゃたくさん溜まっていた。じぶんの私服のシャツやワイシャツが多い。テレビのニュースをときおり見やりながらひとつひとつ処理していく。母親は台所で鶏肉と里芋を煮物にするなどしていた。ほか、メンチを買ってきたという。ニュースでおぼえているのは、荻窪で七九歳だかの無職男性がおなじアパートの一階下に住んでいた七〇歳くらいの女性を刺したという事件で、あいての部屋の戸口まで行って呼び出すといきなり刺したらしい。下手人はこの女性からいやがらせを受けていて鬱憤が溜まっていた、と供述しているらしいのだが、ほかの住人によると反対に女性のほうが長年いやがらせを受けていたという証言もあるようだ。福島駅でも刺傷事件があったらしく、これはきのうあたりにもどこかで言及を目にしたおぼえがある。京王線の事件があって九州新幹線のなかでもそれを真似たという放火未遂があり、さらに福島でもということで通り魔的な事件がつづいている、みたいな文脈だったはず。ほか、福岡は天神の商店街で軽自動車に衝突したあと爆走して逃げる車があったとか、コロナウイルスが下火になってきているが蔓延をとおして変化した業界もいくつか、みたいな話題とか。テレワークがおおくなったのでスーツの売上は一五パーセントくらい落ちたというが、そんななかで、脱ぎ着がしやすく着ていてもうごきやすい、伸縮性のあるスーツが売れていると。スーツというものは一万売れればかなりのヒットらしいが、それが発売以来五万くらい売れているらしい。見たかんじだとめちゃくちゃ伸びるかわりにちゃちそうというか、じぶんで着たいとはおもわない品だったが、テレワークで自宅にいるけれどあまりだらしない格好をして画面に映るわけにもいかない、かといってスーツまで着るのもなあ、みたいな状況にはたしかに役立ちそうだった。おなじようなもので、ぱっと見にはよくわからないがじつはシャツとスーツが一体になっており、かぶるようなかんじで即座に着れる、という品も発売したばかりですでに三〇着くらい売れているらしい。あと、だんだんとおせちの予約がはじまるシーズンになってきたが、大豆かなにかの代替肉をつかったおせちなんかが人気だというはなしもあり、代替肉のいいところとして、食べても罪悪感がなく、肉とおなじように満足できる、みたいな消費者の声が紹介されていたのだけれど、罪悪感ってなんやねん、とおもった。ずいぶん大仰な語をつかうな、と。言っていることはむろんわかって、じっさいの肉だとカロリーをたくさん摂ってしまうから多く食べると太ってしまうし健康にも良くない、というだけのことなのだが、肉を食べる程度のこと、ひいては太ることや健康にあまり良くない行動を取ることが、修辞的な水準とはいえ「罪」といわれてしまう世とはいったい? とおもったのだ。この比喩的な「罪」の意味をとおして、この社会に蔓延している痩せることへの欲望とか、ばあいによってはそれにたいする義務や強迫観念のようなものが垣間見えたような気がして違和感をおぼえたのだとおもう。
  • アイロン掛けを終えると六時二〇分くらいだったとおもう。それから石油を補充するためにストーブのタンクを持ってそとへ。ジャージのうえにダウンジャケットを羽織った格好だったが、そとはとくに寒くなかった。風もない。勝手口のほうにまわって、暗いなか保管箱を開け、ポンプをタンクに挿しこんでスイッチを入れて、機械が勝手に燃料を汲みこんでくれるのを待つ。すでに夜に落ちている空は黒く、とはいえ下部では灰色っぽい地帯が東の果てで市街のマンションの明かりの下地となっているが、いずれにしても星も月もなにも浮かぶものは見えずに覆われており、近間に目を落とせばすぐそのへんの近所の空間も墨を注入されたように黒くなっている。ポンプが音を立てて満杯を知らせてくれると注ぎ口をタンクから取ってかたづけ、重くなったものを片手に提げて屋内へ。そのまま手を洗って食事にすることにした。米やメンチ、即席の味噌汁、大根の葉のソテーに煮物、セロリや春菊を混ぜた生サラダ。食べながら夕刊を読む。愛知県の大村秀章知事にたいするリコールで署名偽造があった事件で、高須克弥の秘書が書類送検されたと。高須はリコールの活動団体の会長。理事長だかなんだか実働責任者みたいなかんじだった田中なんとかいう人間が偽造を主導したようだが、そのひとが佐賀だったかの広告会社に偽造にかんする仕事を依頼したさい、高須会長の秘書もやっているから大丈夫、と言っていたらしい。高須は、偽造については承知していなかった、とうぜん捜査に全面的に協力するし、必要ならばわたし自身もよろこんで聴取を受ける、と表明。ほか、一面に、バイデンと習近平がオンライン会談したという報。まあたがいに一定程度友好を志向し演出しつつもいっぽうで牽制、みたいなかんじのようだ。米国でバイデン肝いりの一兆円(一一四兆ドル)規模のインフラ投資法案がようやく成立したという報もあった。
  • 食事を終えて食器を洗うと下階へ帰り、きょうの日記を書きはじめた。その時点でたぶんまだ行って七時半くらいだったとおもうのだが、ここまで書いて現在時に追いつくとなぜか九時に達している。Oasisをヘッドフォンで聞いてBGMにしていたのだけれど、ヘッドフォンをつけていると耳がずっとつつまれ圧迫されているからやはりつかれるなというわけで、とちゅうでイヤフォンに変えた。ヘッドフォンのほうがひろがりがあってあきらかに音質がいいしイヤフォンなんて音空間がせまくてつまらんだろうというあなどりをいだいてここ数年はイヤフォンで音楽を聞くことがまったくなくなっていたのだけれど、じっさいやってみればこれでもべつに満足できる。それにしてもこのイヤフォンは二〇〇〇円もしなかったやつなのに、むかしにくらべるとずいぶん音が良くなったなあという印象。OasisのつぎはなんとなくThe Clash『London Calling』をながし、The Clashもいままできちんと聞いたことがないのだが、Talking Headsと似たにおいをかんじた。しかしこのあたりの、七〇年代にパンクといわれた連中の、レゲエを入れたりなんだりみたいな独特の雰囲気はなんなのか? The Policeとか。The Policeはパンクではなく、あくまでパンク風なのかもしれないし、パンクでもいろいろあるのだろうが。
  • その後、一三日の記事にかかってきのうのつづきで職場の状況についての観察や分析をながながとしるしていたのだが、The Clashが終わったのでつぎはなにをながそうかなとdiskunionのジャズの新入荷ページをおとずれ、いちばんさいしょに出ていたMichael Feinberg『Hard Times』というやつをAmazonでながしてみた。このひとはベーシストらしく、参加しているメンツで知っているなまえはRandy Brecker(一曲のみのゲスト)とピアノのOrrin EvansとドラムのJeff 'Tain' Wattsのみ。あとはまったく知らないが、たぶんさいきんの界隈ではけっこう知られているのだとおもう。さいしょの曲をすこし耳にするだけでも(ちょっとGlasper的、というほどでもないが、キーボードのテクスチャーが主となったメロウ&クールなサウンドで、Glasperを連想したのはたぶん、『Black Radio 2』の"Trust"(この曲だとおもうのだが)にほんのすこしだけ似ているようなメロディとか質感があったからだとおもう)、やっぱジャズっていいな、気持ちいいなとおもった。ただ、たぶんカナル型イヤフォンの性質上ということではないかとおもうのだけれど、Orrin Evansのピアノの音がやや詰まったような感触に聞こえて、ジャズを聞くならほんとうはやはりヘッドフォンのほうがいいのだろうなともおもった。
  • 作: 「声高に愛を伝えよこの今日は生まれ変わって書かれつづける」

2021/11/15, Mon.

 カミナリの音と光がかけぬける夏の嵐の
 今夜の東京 午後十時ごろには
    大量の雨と傘
 これはいまのところ小さなつまらないことだ
 でもとても重要なことになりうる
 いまから百万年後に考古学者が
 われわれの廃墟の中を通りぬけ、われわれを想像で
    描きだそうとするときには

 (リチャード・ブローティガン福間健二訳『ブローティガン 東京日記』(平凡社ライブラリー、二〇一七年)、93; 「考古学の旅の小さな船」 A Small Boat on the Voyage of Archaeology; 東京 一九七六年六月五日)



  • 覚醒して、ベッド脇に置かれてあるスピーカーのうえの時計を見て九時半ごろを認識したのだが、しばらくしてから起きあがって携帯を見るとそれは八時半のまちがいだったことが判明した。スピーカー上のアナログの目覚まし時計は短針がちょっとずれ気味でわかりづらいことがあるのだ。きょうも空が真っ青でまっさらな海となっている晴天で、寝床で陽を浴びながら九時半にしてはいきおいが弱いなとおもっていたのだが、じっさいには一時間はやい時間だったのでとうぜんである。例によってしばらく喉を揉んだりしてから起き上がって携帯を見ると、八時五四分だった。水場に行ってきてもどるとふたたび臥位になり、脚をマッサージしながら書見。蓮實重彦『「私小説」を読む』(講談社文芸文庫、二〇一四年/中央公論社、一九八五年)。藤枝静男論を読み終え、安岡章太郎論へ。この安岡章太郎論が蓮實重彦がはじめて日本の現代文学について書いた評論らしいのだが、そのせいか、藤枝静男論とくらべると文章のキレが弱いような気がする。分析の手法とか言っていることは収録された三篇(志賀直哉藤枝静男安岡章太郎)のどれも大差ないわけだが、文章や論のながれかたとか、細部のことばえらびとか、漠然とおぼえる熱量みたいなものとかは藤枝静男論がいちばん充実しているような気がする。あと、蓮實重彦の文章ってきちんと本のかたちで公刊されたものでも、ここにはほんとうはなにかのことばがはいっていたはずでは? という欠語めいた部分をはらんだ文とか、構造的対応としてかっちりはまりきっていない文とかが意外と見られて、こんなに丹念に読む人間なのに、じぶんの書いた文章はあまり推敲しないのだろうか? とまえから不思議なのだけれど、安岡章太郎論はそういう意味で文章がこなれきっていないようなところが比較的おおい気がするし、藤枝静男論のほうがぎゅっと詰まったような感触をおぼえる。
  • 一〇時過ぎで切り、瞑想。二〇分ほど座って肌の感覚をやわらげた。上階へ。イヤフォンを耳につっこんだ状態の母親にあいさつ。ジャージに着替えながら南の窓外を見やれば、一〇時半の陽射しが近間の瓦屋根をてらてら白くつやめかせている。うどんを煮込むように用意してあったので、それを鍋にぶちこんで熱しつつ、隣のコンロではハムエッグを焼いた。それを米に乗せ、うどんも丼によそって卓に持っていき、食事。きょうは新聞が休みなのできのうのものをまたひらき、立憲民主党の党首選について読んだりしつつ食べ、平らげると皿洗い。きょう、父方の祖母が父親によって病院に連れていかれているらしい。入院するのだと。くわしいことを知らないし母親もあまりよくわかっていないのだが、たしか体内に血管をひろげる金具だったかわすれたがなにかはいっていて、それを取り替える手術をするのだとか。その金具のせいなのか、祖母はからだがかゆくてたまらず、難儀しているらしい。
  • 風呂を洗う。きょうも窓をあけると、そとの景色はここ連日となにもちがいがないが、となりの敷地に散っている黄色い葉の数だけはいくらか増えたような気がする。浴槽をこすって出ると、茶をつくって帰室。コンピューターを用意してNotionに記事をつくったりちょっとウェブを見たりしたあと、きょうもOasisをながして「読みかえし」を読みはじめた。109番から124番まで。とちゅうでトイレに立って腹を軽くしていると、母親が個室のそとから行ってくると呼びかけてきて、洗濯物を(ベランダの)端のほうに寄せておいたからあとで入れてくれとのこと。「読みかえし」はだいたい石原吉郎の詩のところだったが、「葬式列車」がやはりよくできているなとおもわれた。一行一行のながれや、それらが数行でまとまったパート(行開けはなく、全篇接したかたちでつらねられてはいるのだが、あきらかにブロック的なまとまりの感覚がある)のながれかたがととのっており、すぐれて音楽的な(あるいは物語的な、というべきなのかもしれないが)構成感覚をおぼえる。そのなかで、さいごのほうにある「誰が機関車にいるのだ」という一行だけが浮いているというか、この一行だけでひとつのパートを構成しているとおもわれるのだけれど、この一行が境界線として置かれ、リズム的に変化を導入することで、さいごのパートがしめくくりとしてお膳立てされてきわだつという効果を生んでいるようにおもう。
  • ここまで記して一時一六分。
  • その後、ふたたび蓮實重彦を読んだ。三時半までで一気に読了した。蓮實重彦は特有の長たらしくうねうねした文体とか、量とか程度とかをあらわす副詞のこまかい活用によるもってまわったような言い方のニュアンスとか、ときに形容句をともなった漢語的名詞の多用が生むふてぶてしさみたいな感触などのくみあわせによって、独特の読み味をあたえられる書き手であり、その文章を読みにくいという向きもけっこうあるのだとおもうが、この本にかんしていえばながながしい文はまだあまり出てこないし、作品に書きつけられている言葉そのものの布置やつながりや対応関係を徹底的に具体的に分析するというその批評スタイルからして、観念的な論述の方面に向かうことがほぼないので(蓮實重彦自身の一般論的な意見とかかんがえとかはこの本のなかにほぼまったく記されておらず、ただ、「文学」とか「作家」とか「読むこと」とかについてときおりそれが表明されるのみだが、それは論として論じられるというよりは、この本でおこなわれている批評的実践を演じるにあたっての前提として触れられたり、ときに再確認的にそこに立ち戻ったりするものとしてある――ただ、一般的な「意見」とかはないとしても、テクストに触れる蓮實重彦自身の生理みたいなものは、その読み方とか頻出する語句とか、高評価するテーマや記述とかからけっこうにおいたつような気はする)、つまり抽象概念をもちいてこむずかしい議論を展開するようなことが(すくなくともこの本では)ないので、論述がつねに具体的で一歩一歩地に足ついてすすんでおり、だからじっさいかなり読みやすい。するするというような調子で読んでしまった。こちらとしてはこういう緻密で禁欲的なテクスト分析をベースにしながらも、そのさきでどうにかうまく一般的主題にひらいていくような議論がいちばんおもしろいのではないかとおもっているのだけれど、マクシム・デュ・カン論がたぶんそういうことをやっているはずで、だから浅田彰もあの本は「傑作」だと断言していたのかもしれない。
  • きのう、電車のなかで藤枝静男論を読んでいたさいちゅうには、一、二箇所、ここはすごいなというか、ちょっとおお、と興奮させられるような記述があって、そうなるとやはり藤枝静男の作品じたいを読んでみたくなるわけで、そういうふうにじぶんが批評分析するテクストに読者をみちびきいざなうちから、紹介者としての手腕はやはりさすがの卓越ぶりだなとおもった。だれが書いていたかわすれたけれど、映画作品そのものを見ているときよりも、蓮實重彦が書いている映画についての文章(もしくは描写?)を読んでいるときのほうがより映画を見ているような気分になる、みたいな評言をどこかで目にしたおぼえがある。
  • 勤務。(……)

2021/11/14, Sun.

 すべてが黒いヒスイのようにかがやいている

    ピアノ(発明された
    彼女の長い髪(地味な
    彼女のあきらかな無関心(弾いている音楽への

 彼女の心は、その指から遠く、
 百万マイルもむこうでかがやいている(end91)

    黒い
    ヒスイのように

 (リチャード・ブローティガン福間健二訳『ブローティガン 東京日記』(平凡社ライブラリー、二〇一七年)、91~92; 「とても気どった高級なカクテルラウンジでグランドピアノを弾く若い日本の女性」 A Young Japanese Woman Playing a Grand Piano in an Expensive and Very Fancy Cocktail Lounge; 東京 一九七六年六月四日)



  • 一〇時ごろに覚醒。昨晩、深呼吸をしてから寝たのでからだの感覚は軽かった。全身をひろく全般的にあたためてほぐすには、ながく吐ききる呼吸をくりかえすのがいちばん良い。マジで手の指先まで感覚が変わる。ただし、就寝がおそかったためか、まぶたのほうはやや重く、覚醒の瞬間からぱっとひらくというわけにはいかなかった。きょうもまた快晴だったのでカーテンをひらき、白くかがやかしい太陽光を顔に取り入れ、そのちからをかりてまぶたをこじあける。一〇時二五分ごろ離床。水場に行ってきてからもどり、コンピューターをつけてLINEを確認。きょうは(……)くんや(……)さんなどと(……)で夕食を取ることになっていたので。このときだったか瞑想のあとだったかわすれたしどちらでもいいのだが、改札のそとでと待ち合わせを確認し、電車の関係で17:10ごろになるとおもうというメッセージをおくっておいた。(……)くんと(……)さんは午前から日比谷に『ONODA 一万夜を越えて』という映画を見に行っている。LINEを見ているとこちらが起きたのを聞きつけたらしい母親が来て布団を干そうといったので手伝い、それから瞑想。一〇分でみじかくきりあげた。
  • 上階へ。ジャージに着替える。ここ数日と同様に晴れ晴れしい日で居間にも窓にもあかるさが満ちておりあたたかいのだが、空は意外と白さをまぶされており、南窓の先にのぞいた空の下端、山のちかくは、垂らしてからけっこうな時間が経って褪せたミルクのような淡い雲が青を隠しきるちからはなくしかしそれでもうすぎぬめいてながれている。あとで茶をついだときにも、ベランダのほうからはいってフローリングの床のうえに映りこんだひかりに雲の白さまでふくまれているような気がした。着替えると髪を梳かし、食事。煮込んだ幅広のうどんがあまっていたのでそれと、薄皮クリームパン。新聞からはアメリカで警察廃止論が転機にかかっていると。George Floydの件から警察を解体せよという声がつよくなり、ミネアポリスでは先般市民投票がおこなわれたのだが、結果は否決。警察の予算と人員が削減されたことによってとくに貧困地域(アフリカ系のひとびとの居住地域ともかさなる)での犯罪が増加したというデータもあるようで、ある黒人女性は、警察改革はとうぜん必要だと言いながらも、安全な地域に住んでいる上流層のひとびとは、(警察の横暴の被害者であるのみならず)多くの犯罪の被害者ともなるわたしたちのリアルをわかっていない、と漏らしていたという。ニューヨークでも先日黒人の市長が誕生したが、このひとは元警察官で、警察の予算削減は治安の悪化をまねくと批判していたのだけれど当選したと。ニューヨークでも警察の縮小によってやはり治安が悪くなった地区もあり、また、人種差別的に偏向しているとみなされた保釈金制度が改革されて凶悪犯罪でなければ比較的容易に保釈されるようになったらしいのだが、それによってなんども保釈されてはおなじ犯罪をくりかえすという人間も出てきているようで、とある窃盗犯は今年で四六回逮捕された、とかいうことも起こっているらしい。たとえば刑務所廃止論者、すなわちabolitionistの道行きはきわめて険しい、彼ら彼女らの理想は果てしなく遠いなあとおもう。
  • ほか、ホンジュラスの大統領選で台湾との断交を主張し中国に接近しようとしている野党候補が勢いを得ているとか、カンボジアのフン・センがASEAN内で存在感を増しているとか。書評面には『客観性』という本がとりあげられており、きちんと紹介を読んでいないのだが、客観性を追究するとされる科学的思考の歴史においてもその客観性にいくつかの種類と変遷があり、いまわれわれがつうじょうかんがえるような意味での客観性概念は一九世紀につくられたものにすぎない、みたいなはなしをしている本のようだ。
  • 食事を終えると皿を洗い、風呂も。蓋の縁がぬるぬるしてきていたのでそれもこすっておいた。出ると茶をつくり、帰室。コンピューターとNotionを用意してきょうのことをまずここまで記した。部屋の空気はぬくもっており、茶を飲むと暑いのでジャージのうえを脱いで肌着になった。出かけるまでに一一日以降の日記をできるだけすすめておきたいのだが、三時には出なければならないから(いまは正午をまわったところ)こころもとないし、木曜日はまだけっこう書くことがあるのでたぶんその一日すら終わらない。
  • とおもったが、おもいのほかに指がすばやくテキパキとはたらいて、一時半までで一一日の日記はしまえることができた。一一日を書くまえに二〇分か三〇分ほど「読みかえし」も読んで、岸政彦の『断片的なものの社会学』からの引用があつまっているところだったのだが、文章を読みかえしながらこの本はやはりなかなか良い本だなとおもった。
  • それから出発の時間まではたぶん書見をしていたはず。蓮實重彦『「私小説」を読む』(講談社文芸文庫、二〇一四年/中央公論社、一九八五年)。三時くらいになって身支度。よそおいはGLOBAL WORKのカラフルなシャツにUnited Arrows green label relaxingで買ったスラックスっぽいブルーグレーのズボン、そしていつもながらのモッズコート。余裕を持って出発。三時半なので道のうえにはもう日なたがないが、南の山はまだ西陽につつまれて緑の質感をあかるく浮遊させていた。(……)さんの宅のあたりまで来ると坂の脇に繁った濃緑のこずえのなかに太陽が見え隠れし、ときおり集束的なかがやきをあらわすとともに葉のすきまをひかりの液で埋めている。坂道に木洩れ陽ははや薄く、光線の角度が低くなったためにもう路上に宿るものもなく、右手の古びた法面のなかで溜まった葉っぱに注目をうながすかのようにぼんやりあかるむ二、三の小円があるのみだった。
  • 最寄り駅で乗車。山帰りのひとで満員だった。乗ったところにひとりぶんのスペースがかろうじてあるのみだったので、リュックサックをおろしてまえに持ち、扉のほうをむいて片手をガラスにあてながら揺られる。ときおりまぶたに閉ざされた目の前を視界いっぱいにひかりの色が(……)に移動して乗り換え。発車まで間がいくらかあったのでぞろぞろと移っていくひとびとから逃れ、いそがずに先頭へむかった。小学校の石段のうえにあるイチョウはまだ意外と黄葉していない。脇の丘の樹々はもう緑の統一をくずして調和のない多彩さを発揮しており、おりおり黄色をはさむとともに赤系統の色もつくっているが、後者の色味はまださほどつよくない。いちばんまえの車両に乗り、いちど本をとりだしたが、なんとなく心身の表面がほんのすこしだけざらついているような気がしたので、(……)あたりまで休むかと決めて瞑目した。そうして意識をリフレッシュさせ、じっさい(……)から書見。「藤枝静男論」を読みすすめた。(……)についても乗り換えずそのまますわりつづけたが、だいたいみんな特快に乗るのでこちらはけっこう空き、とちゅうでとなりの席もあいたくらいで楽にすごせた。本に目を落としつづけていたが(……)を越えて線路が高架にのぼると視界の端でそれを察知したようでおもわず顔が上がり、見れば果てまで起伏なくひろがる平らな町並みのむこう、もうひかりが遠のき青がつめたくなってきた北の空がさらにひろがりつづけており、町の屋根屋根から抜けて鉄塔が数本立っているのがそこに目立って、さいしょは横にはなれて散在していたそれらはしだいに距離を廃して近寄っていき、すべるようにあつまるとある地点で一瞬、てまえから奥まで縦一線にかさなりあうやいなや、すぐにまたはなれておのおのの場所にもどっていった。
  • そうして(……)まで、席で書見をしながら過ごした。降車。リュックサックから携帯をとりだして連絡が来ていないことを確認し、ホームをあるく。ひとがたくさんあつまっている上り口は避けてもうひとつさきに行き、階段をのぼると、尿意があったのですぐ脇のトイレへ。放尿。となりでやっていた中年から高年くらいの男性は小便を終えるとこちらのほうに横向きになって、時間をかけてもたつきながらズボンのチャックをしめていた。手を洗ってハンカチで拭きながら室を出ると(……)へ。目的地は(……)なので(……)。階段を下りているときから電車がホームに来ていたが急ぐのも面倒臭いし、(……)はすぐに来るので意に介さず、下りるとちょっとさきのほうへ移動。柱にちかい場所に立って目の前を左右にとおりすぎていくひとびとをやり過ごしながら数分待ち、来た電車に乗った。まもなく降車。
  • (……)という街ははじめてきたがホームはおおきくない。左右にホームドアが完備されている。出口に向かってあるいていくと、階段からのぼってきたふたり連れの若い男性が韓国人らしかった。ことばがそう聞こえたのだが、しかし声が聞こえるまえからなんとなくそういう印象があって、どの点で判別しているのかじぶんでもよくわからない。階段通路を行くと上りと下りを示すために壁や足もとに描かれている表示が原色的な赤と青で、このつよい配色は韓国的なものなのか? とおもったが、そこに根拠はない。改札を抜けてごったがえしているあたりを見回ったが、(……)くんらのすがたは見えなかった。それでしばらく周辺をうろついたり、改札付近に突っ立って駅内から来るひとびとのほうを見やったりしていたがあらわれないので、とりあえず(……)くんに電話をかけたもののつながらず、またうろついていると着信があって出れば(……)さんだった。駅を出て通りをわたってすぐそこに(……)があるが、そこを折れた道にいるというので横断歩道をわたりながら了解し、いわれた路地にはいるとすこし先に四人あつまっているすがたがあって、あれだなと見分けられた。(……)くんが手をあげて振ったのでそれにこたえながらちかづいていき、あいさつ。どうも、(……)です、とかいわずもがなの名乗りを述べた。このときだったかあとでだったか、たぶんお会いできてうれしいですとか言ったときに、(……)さんがほんとうに存在してるかどうかみんなうたがってたんで、とか、(ZOOMの映像は)精巧なホログラムかと、とか言われたので、実在してましたと笑った。それでともかく飯を食いに行こうと。特別目的地は決まっていないようだったが、土地勘はむろんまったくないのでじぶんはただついていくのみである。あるきながら(……)さんとならぶと、(……)さんが意外とおおきくておどろきました、といわれたので、ひょろひょろですよ、とかかえし、でもたしかにこのなかだと(……)くんが意外とおおきいですね、とつづければ、ぼくはチビなんで、みたいな言がもどったが、たしかに(……)さんはそこまで背丈がたかくなく、このなかだといちばん低かった。(……)くんの念頭にはおそらく「(……)」という店があったようだが(LINEで行きたいと言っていたし、このときも口に出していた)、路地をすすんでいるうちに突如として立ち止まって、そうだ、おもいだしたというようすで、あそこの店が知り合いのおすすめなのだとマンションのほうを指してみせた。ネパール料理屋というか、そもそも専従の料理屋ではなく、スパイスとかを売っている店の奥で食事もできるという穴場的な店らしい。店名は「(……)」。ここをすすめたという知り合いは「(……)」と呼ばれていたが、これは(……)にいたひとらしい。それでどうしますか、行ってみますか、みたいなかんじになり、うまければなんでも、とこちらが言うと、うまいかどうかは正直保証できないが、あまりできない食事ができるとおもうと返り、ともかくも見るだけ見てみようかとまとまって階段をのぼった。のぼったところにはまずたしか「(……)」とかいうなまえの美容室があって、なかにふたり待ち客がすわっていたが、そのまえを過ぎてつぎに行き、入り口のところでうかがっていると、なかにいた浅黒い肌の男性(とうぜんネパール人のはずである)が、いくらかカタコト的な調子で、どんなご用ですか? だったか、なんの用ですか? みたいな問いを発したので、食事できますか? とたずねると肯定が返り、人数を聞かれたので、もうここにはいってしまうか、行ってみよう、とまとまった。それで入店。店内はせまい。はいってすぐの周囲はたしかにスパイスやらなにやら棚に雑多にならべられており、男児がふたり、床のうえでにぎやかにさわぎながら遊んでおり、男性はたびたび彼らをうるさい! うるさいよ! と叱った。子どもらも主に日本語を喋っていたとおもうし、男性が叱りつけるのも日本語のうるさい! だったのだが、のちにすがたが見えた母親らしき女性はこのひとも日本人ではないように見えた。スタッフはほかにあとひとりかふたり、男性を見たとおもう。はじめの男性とべつにもうひとりいたのはたしかだが、さらにもうひとりいたか、通路をとおった人間がひとりだったかふたりだったかさだかでない。たぶんそのうちのひとりが厨房で料理をつくっていたのではないかとおもうのだが。ともかくも店の奥に通されて、そこにはかなり密着的に詰めればギリギリ四人かけられないこともないというくらいのテーブル席が狭いスペースに三つほど用意されていて、その先が厨房というか料理場になっているようで、男性は注文を聞いてそこにつたえるときにはネパール語をはなしていたとおもう。かなり細い通路をはさんで左右に分かれ、こちらは左側のテーブル、(……)さんの右隣につき、店の入口側にあたる向かいには(……)さんがつき、(……)さんもはじめはそこにいた。というのは右手のテーブルが片側しか空いておらず、もう片方は狭くて座れないようになっていたからで、(……)くんがそこにひとりだけはいって孤立していたのだが、店員の男性が彼の向かいでスツール的な椅子に座ってなにかやっていたので、なんでこのひとここにいんの? なにやってんの? とおもっていたところ、それはスツール椅子の高さを下げていたのだ。それで、ここ座ってください、と席が用意されたので、(……)さんがそちらに移って三人とふたりに分かれた。男性は笑みを浮かべることがなく、マスクで顔の下は見えないものの目つきはすこしするどいといえばするどく、愛想はあまりなかったが、しかし水が減っているとお水いりますかと言ってたびたび補充にきたりして、接客はわりと丁寧だった。それで水とおしぼりが配られ、メニューを見て注文。メニューは一枚の紙もしくはシートで、おすすめのプレートもしくはセットが三つ、写真つきで上部にならべられ、下部にはランチセットとしてもろもろの品が五種か六種くらい記されてあり、裏面はその他さまざまな単品のものが無数に取り揃えられてあった。みんな上部の三種のなかのまんなかのプレートを選ぶことにして、さらにこちらがソーセージを(さいしょは唐揚げを頼もうとおもったのだが、そう言うと男性は唐揚げはいま切らしているとこのときはやや日本人的な眉の曲げ方でことわってきたので、ソーセージに変更した)、(……)さんが水牛の餃子を頼み、みんなで分けて食った。飲み物は(……)さんがビールで、(……)さんがコーヒーだったとおもうが、ほかのふたりはわすれた。こちらはべつに飲み物はいらなかったのだが、飲み物はどうですかという店員のすすめにしたがってみんな頼んでいったので、そのながれに乗って、じゃあジンジャーエールをと注文したところ、このジンジャーエールはめちゃくちゃ薄くて炭酸も風味もぜんぜんないような代物だった。
  • 頭上にはそう高くない天井の近くに電車の網棚のようにものを置くスペースが通されてあり、そこに箱がたくさん置いてあったり、壁にはネパールの風景らしき山やら湖やらを描いた絵がかかっていたり、また周囲にはこまごまとしたちいさなものが置かれていたとおもうが、そんなかんじで雑然としていたものの、われわれがいるあいだほかに客は来なかったし(店を出るときになってちょうど入れ替わり的にべつの一組がはいってきた)、飾り気がなく庶民的で意外と過ごしやすいというか、落ち着く気がした。入り口にちかいほうでは子どもらがあそびまわっており、たまにわれわれのテーブルのあいだをとおっているかなりほそい通路を行き来してもいた(男性もたびたびそこを通るが、席がせまいのですこしそちらにはみ出すようにしていた片足をそのときは引っこめなければならない)。また、こちらの位置から見て前方、通路の入り口あたりにはカウンターがあり、その下は壁だったが、その壁の一部にちいさな扉が取りつけられて開閉するようになっていて、まだまだ背丈のちいさな子どもはそこを開けてカウンター内のスペースに出入りしていたので、あ、そういうかんじなのね、とおもい、また、のちほど女性も身をかがめてそこをくぐり抜けていたので、あ、大人もそういうかんじなのね、とおもった。それで食べ物はさいしょにこまぎれにされたソーセージが届いた。なんの肉なのかわからないが、やたらと柔らかく、しっとりしたような肉で、ふつうにうまかった。餃子も肉汁があふれており、またカレー的な風味のスパイスも付属していてうまく、(……)さんが、うま、これはうまい、と満悦していた。メインとして頼んだプレートはいろいろな種の食べ物がそろえて載せられたもので、まんなかにあったのがたぶん加工米だったのだとおもう。これは味がまったくなかった。その右横に、ほんとうはすこし違うのだがベビースターラーメンをこまかく割った見た目というかそんなようなかんじの品があり、こちらはすこし塩気がついていた。左隣は豆。それが中央の列で、下は右から大根の漬物、ソーセージ、ソテーかなにかしたジャガイモ、上部左にはキュウリとニンジン(これも漬物だったのかもしれないが、味つけはほぼかんじられなかった)、そしてラム肉なのかなんなのかわからないがタマネギのこまかなソテーと混ぜたなにかの肉(黒々とした色で、かなり固く、顎の訓練になるくらい何度も噛まないと飲みこめなかったがふつうにうまい)という構成だった。メニューにも、おつまみという文字が見えたが、これはメインの食事というよりは、酒のつまみとしてバリバリ食うみたいなかんじなのではないか(しかし(……)くんによれば、ネパールではこれを主食として食べるらしい)。どういう食い方をするのが正解なのかわからなかったが、加工米に味がないから両隣のものと混ぜて食えばけっこううまいなと混ぜはじめ、最終的に上下も混ぜてバリバリ食った。乾き物で腹に溜まるし、ゴリゴリ咀嚼するのに時間もかかるので、一皿食べればだいぶ満腹する。(……)さんなどすこし食べ切れなくて残していたくらいだ。いくつかの品には辛味がふくまれていて、こちらは辛いものが得意でないのでたびたび水を口にふくみながら食べすすめたが、いちばん辛かったのは大根の漬物だったとおもう。漬物といって日本のそれとはかなり違い、たぶんピクルスにちかいかんじなのだとおもうが、くすんで黄色っぽいような色をうっすらと帯びたなかに胡椒みたいな黒い点が付された見た目で、けっこう辛かった。肉もいくらか辛かったが、これはさほどではない。あと忘れていたが、(……)さんがラーメンを頼んでいた。きょうは夜にこうして飯を食うということで朝からほとんど食べていなかったので、ぜんぜん行けると言っていた。(……)くんによれば(……)にもこういうプレートのネパール料理(カジャというらしい)を出す店があるといい、そちらのほうがうまいと。おそらく日本人に合わせた味になっているのだろう。この店のほうがより本場的なのだとおもう、とのことだった。
  • (……)

(……)

  • この食事のあいだにはなしたことは、映画『ONODA』のことしかおぼえていない。午前中からこれを見てきた(……)さんと(……)くんにはなしを聞いたのだが、まあすごい映画だったと。時間も三時間あってながく、かなりボリュームがあって重たい映画だったようだ。太平洋戦争が終戦をむかえてもひとりフィリピンのジャングルにのこってその後三〇年ほど作戦行動を遂行しつづけていた小野田寛郎という軍人を題材にした作品で、しかしつくったのはわりとさいきんのフランスの監督らしい。小野田は諜報部隊の一員で、彼がのこったフィリピンの島は戦略上重要な拠点だったらしく、いつか援軍がやって来ると信じていた彼は、そのときのために島の各地を探索し、どこになにがあるのか調査したり、地形を調べたり、川や山になまえをつけたりして情報を整理していたのだという(山だか丘だかに、むかしつきあっていたか好きだったかした女性にちなんで、「~~の乳」だか「~~の胸」だかという名をつけたというのは笑った)。だからマジで、いずれまた戦闘をして、島を占領するというつもりでいたのだろう。各地になまえをつけたり、敵もしくは他者の気配を敏感に警戒しながらあるきまわるというのは、もろロビンソン・クルーソーだなという印象。食べ物はどうしていたんですか、とたずねると、小野田とおなじ部隊だった一員に農家の出身で植物にくわしいひとがいたらしく、彼に、これは食べられる、これは毒があるがここだけ取れば食べられる、これはこう調理できるといったかんじでいろいろ教わっていた知識が役に立ち、森のものを取ってまかなっていたという説明が(……)さんからあった。小野田は諜報員としての教育や訓練を受けていたので、地元のひとなどが戦争はもう終わったとつたえに来ても、それをすべてじぶんをだますためのプロパガンダであるとおもって拒絶していたらしい。いちどなど、小野田の親族だか、あるいは友だちの遺族だかわすれたが、見知った顔が説得に来ても、なんだか似ているひとがいるな、敵方はよくも巧妙にこんな人間を用意したものだが俺はだまされない、というかんじでやはり応じなかったと。小野田がそこまで作戦遂行にこだわったというのは、隊長だか上官からの命令があったからで、後続の援軍がやってきて攻撃するときのためにおまえは絶対に生き残らなければならない、なにがあっても生きていなければならない、と命じられたそれをまもってずっとひとりでたたかっていたのだという。すごすぎて笑うしかないが、(……)くんにいわせれば「絶望的」な映画であり、ドグマ的なものを非常にかんじさせられたと。戦前の日本がそのような狂気じみた超人的一徹の徒をつくりだしてしまったという事実にはそらおそろしいものをかんじざるを得ないが、右翼というか、いまだに皇国史観に賛同していたり、愛国的軍人をあがめるようなひとにとっては、小野田はおそらく理想的な軍人の鑑、英雄中の英雄ということになるだろう。そんな人間がいったいどのようにして武装解除し、戦争が終わったということに同意したのかむろん気になるところだが、いわく、バックパッカー的なひとりの男性(青年?)がそれをみちびいたという。このひとは世界中を旅してまわっていたらしく、当時の日本人としてはたぶんけっこうめずらしいタイプの人種だったのではないかとおもうが、そのひとが小野田に会いに行き、酒をくみかわして説得したとかいう。小野田に会ったときは、会えてうれしいです、会いたいとおもっていました、と感激し、野生のパンダ・小野田さん・雪男の順番で出会いたいとおもっていた、と言っていたらしい。そのひとがどうにかして関係を築き、酒をいっしょに飲みながら、小野田さんは何か国に行ったことがありますか(とうぜん日本以外にはこのフィリピンの島だけのはずである)、ぼくは五〇か国いじょうをまわって見てきました、とかはなして、戦争が終わったということを納得させたらしい。そういうわけで終戦が受け入れられ、武装解除がなされるわけだが、そのときも生き残っていた上官だか元軍人がやってきて、武装解除詔勅だかわからないが文書を重々しく読み上げ、玉音放送をながすという正式な儀礼がおこなわれたといい、さいごまで軍人としての矜持と形式を生きなければやはり終われなかったわけだ。ちなみに(……)くんによれば、小野田は戦後(というか帰国後)日本の空気が合わずブラジルだかに移住して農場を経営していたらしいのだが、テレビで日本の若者がホームレス狩りをしているということを知って衝撃を受け、こんな日本であってはならないと若者の教育をこころざし、ふたたび帰国して教育団体みたいなものをつくって活動したという。それじたいはふつうにいいことだとおもうのだが(そこでおこなわれた教育の内容によるが)、その後は日本会議にくわわって、妻も日本会議のけっこううえのほうにいるらしく、まあそりゃ日本会議のようなひとびとからすれば神みたいな存在だろうな、というかんじ。
  • 店を出たのは七時半か八時かそのくらいだったのではないか。わからない。もうすこしはやかったかもしれない。とちゅうで時計を見て、まだ六時かとおもったのはおぼえている。会計へ。目つきのするどい男性がタブレットをつかって計算し、八四〇〇円だというのでこちらが一万円を出してとりあえず支払いをすませた。それでありがとうございました、ごちそうさまでしたと礼を言って退店。ひとり一七〇〇円をあとで精算。喫茶店に行って駄弁ろうというわけで路地を駅のほうへ行ったが、そのあいだ周囲のひとを見るに、コリアンタウンといわれて有名だけれど先ほどのネパールのひとのような、東南アジアとか南アジア方面の出身だとおもわれる浅黒い肌のひとなんかもたくさんいるし、ひとびとが意に介さずうろうろぶらつくなかを車ががんばって通る道に接した商店など見れば、店先でおおきなドリアンや、色がめちゃくちゃくすんでいて絶対にうまいとはおもえないバナナなどを売っている八百屋と軒をひとつづきにしたそのとなりになにか服とかこまごましたものを売る店がちぐはぐに合わさっていたりして、じつに雑駁な町空間となっており、こういうところで育つのと、我が町のような田舎、現在でも外国人がそこまでは多くない田舎町で育つのとではぜんぜん違うだろうなとおもった。
  • 駅近くの通りに出ていくらか店を見たものの、どこもまだコロナウイルス状況のなごりか営業がみじかくて八時くらいで閉まってしまうらしく、(……)まであるいて行きましょうかとなった。それで駅横の路地を行く。すすんでいくと道は非常に暗く、またほそくせまくなり、左右は亡霊じみて暗んだボロアパートとかが見られ、その戸口というか塀の下部につけられた蓋つきライトがまえをとおるものの気配におうじてかろうじてひかりを灯したりはするものの、それは気のせいみたいなほんのかすかなものでほとんど意味がないのではないかとおもわれるくらいで、たとえば女性がひとりで通るのはぜったいに怖いにちがいない、ひったくりとか暴行が起きてもおかしくないような裏路地だった。行く手には一本、たかくそびえたったビルがのぞいていた。道中はだいたい(……)さんととなりあってはなしながらあるいた。(……)
  • 道中はまた、音楽のはなしが多かった。(……)さんも高校時代、あと大学もだとおもうがバンドをやっていて、ドラムを叩いていたようだ(ZOOMで映った部屋にはベースがあったとおもうが)。良かったらセッションでもと二、三回さそわれたが、スタジオにはいってちょっと遊ぶくらいならいつでもやる気はある。きちんと曲をやるとなるときついし、また遊ぶといっても似非ブルースくらいしかできないが。あと、いますぐつかえるようなエレキギターが手もとにないが。こちらも高校大学といちおうバンドをやっていたわけだけれど、どんなものをと聞かれたのでそのあたりはなした。高校時代に聞いていたのはもっぱらハードロックだというと、さらに具体的に聞かれたので、もう定番のDeep PurpleLed ZeppelinBlack Sabbathはぜんぜん持っていなくてあまり聞かなかったと付言する)、Guns N' Roses、Mr. Big、となまえを出すと、もろハードロックですねという反応がかえり、"Colorado Bulldog"の曲名が出たので、やりました、ぜんぜん弾けないですけどねと笑った。"Colorado Bulldog"はイントロの超速弾きを一時期練習したことがあって、あれはPaul Gilbertはじっさいには指をめちゃくちゃひらいて2→5→7・4→7→9みたいな二弦単位の高速レガートで弾いていたのだったとおもうが、じぶんはレガートができなかったので12フレット付近で六弦からはじめてひたすらオルタネイトピッキングで弾いてやろうという愚かさを発揮し、ひところけっこうなはやさまで行っていた記憶がある。それにつづけて(……)さんは、Daddy……brother……とかいいかけて例のいわゆる「ドリルソング」も持ち出したので、三年のときの文化祭でやりましたよと応じると、いいですねえとかえった。"Daddy, Brother, Lover And Little Boy"(だったか?)をやったのは体育館での後夜祭ではなく、文化祭本篇中の音楽室で、音楽室で軽音楽部が演奏を披露する機会があたえられたというのは、たしかこの三年時だけだったのではないか。一年のときはやったおぼえがないし(ほかのバンドはどうだったかわからないが)、二年時のじぶんは一日目のクラスでのしごとが終わると午後のはやい時間からさっさと帰って、本番にそなえて自室で汗だくになりながら三時間か五時間くらい"Burn"を練習した記憶がある。ただ、われわれではなくて(……)とか(……)とか(……)(あまりにもなつかしいなまえ!)がHYの"AM11:00"を音楽室でやっているのを見た記憶もあり、これは三年時ではないような気がするから、二年か一年のときにも音楽室でのバンド演奏はあったのかもしれない。(……)は三年のときか二年のときにはテニス部のさいごの試合があるとかで文化祭当日にはいなかったのではなかったか。そのあたりふつうにどうでも良いのだけれど、(……)さんとのはなしにもどると、ぼくはヘヴィメタル方面にはあんまり行かなくて、ハードロックっていうかまあブルース的なかんじがちょっとのこってるくらいのやつが好きでしたね、たとえばAngraとか、ああいうほうはまあべつに嫌いではないけど、よく聞くわけじゃなかったです、とはなし、それで高校の文化祭では、一年のときが"Highway Star"、二年で"Burn"をやったんですけど、三年でおなじバンドのメンバーだったやつがなぜかHelloweenをやろうって言い出して、"Eagle Fly Free"をやりました、と笑うと、ツーバスじゃないですか、たいへんだったでしょうというような反応がかえった。じっさい当時の(……)はかなりがんばっていたし、こちらもああいうドコドコやりながら八分裏にスネアを入れていくリズムのうえで弾いたことがそれまでなかったので、ズーズクズーズクという一六分の刻みを合わせるのに苦労して(どうしても目立って聞こえるスネアをおもてにせずに裏で取るというのが難しかった)、放課後の教室で汗だくになりながらたくさん練習した記憶がある。
  • (……)さんのほうは高校時代に人間椅子にはまっていた友人がいて、そこでいろいろおしえられたという。人間椅子ってなまえだけはなんとなく聞いたことがありつつもそれいじょうなにも知らなかったのだけれど、たしかわりとコアなほうではなかったかという漠然としたイメージがあったので、そういう雰囲気でやや知ったかぶったような反応をかえすことになってしまった。その印象にはまた、なんかノイズだかハードコア方面でそんなようななまえのバンドあったよなというかすかな記憶が寄与していたもので、とはいえこの会話の時点からそれは人間椅子とはべつのバンドだということははっきり判断されていたのだが、このかすかな記憶というのはたぶん非常階段のことである。非常階段を聞いたことはない。もうひとつくらい似たようななまえのコアなバンドがあったような気もするのだけれど、わからないし、たぶんそれは思い違いだとおもう。人間椅子というのは(……)さんのはなしによれば、東北のほうの土着的というか、まあおどろおどろしいようなイメージみたいなものを、方言もとりいれながらうまくロックとして形式化しているグループらしい。いまWikipediaを参照してみると、たしかに「日本の3ピース[5]ロックバンド[1]。1987年、青森県弘前市出身の和嶋慎治と鈴木研一によって結成された。ブラック・サバスを彷彿とさせる70年代風ブリティッシュ・ハードロックのサウンドに、日本語・津軽弁での歌唱、怪奇をテーマとした世界観の歌詞を乗せた、独特の音楽性を特徴とする」とのこと。そりゃおもろいじゃあないですか。日本の音楽だとじぶんはあと、七〇年代に関西とか福岡のほうでやっていたブルースのひとびとを掘りたいというのがひとつあって、当時はけっこうおおきなシーンになっていたらしい。サンハウスとかそのへんで、そこにいた鮎川誠がシーナ&ロケッツを結成することになり、このバンドは有名で、何年かまえにもWilko Johnsonといっしょにライブをやったりしていたはず。しかしそのあたりまだまったく聞いたことがない。
  • あと、(……)さんはAC/DCをよく聞いたらしく、その影響でSGを買ったくらいらしい。そういうはなしをしているうちに(……)につき、めっちゃ久々に来たわ、となった。とはいえいままでそう遊んできたわけでもなく、(……)の店などぜんぜん知らないので、(……)くん、(……)さん、(……)さんがまえをあるいていくあとをひたすらついていくだけなのだが、やけに広い横断歩道を渡る直前くらいで(……)さんが、日本のラウドもよく聞いていたと言ってなんとかいうバンドのなまえを出したのだけれど、これはまったく知らない名だった。(……)さんじしんも、いままで聞いているっていうひとに出会ったことがないという。ラウドと言っていたが、いわゆるミクスチャー的なかんじなのか、たとえばDragon Ashみたいなやつをもっとコアにハードにしたかんじ、みたいな説明があった。それでいま検索してみたのだけれど、これはPay money To my Painというバンドのことだったかもしれない。なんかそんなような語感だった気がする。日本のラウドロック方面では欠かせないバンドだったようだが、ボーカルのKというひとが二〇一二年に急逝して活動停止したという。「RIZEなど同世代のバンドと親交があった」とWikipediaにあるが、RIZEはCharの息子がやっているバンドで、このひとたちの曲はこちらが高校生だかそのくらいのときになにか一曲だけテレビに乗って、メジャーな領域でながれた記憶がある。RIZEの元メンバーだというTOKIEというベーシストは浅井健一がやっていたAJICOのベースとして聞いたことがあり、またもうひとつ、なんとかいうインストバンドの音源をむかし持っていた、とおもったが、これはunkieだ。けっこう格好良かった記憶がある。あと、TOKIEとはたぶんなんの関係もなかったはずだが、おそらく同時期に聞いていたものとして記憶が刺激されたものとおもわれ、なんかCosmoなんとかみたいななまえのプログレHR/HM的なスリーピースインストバンドがあったなとおもいだし、気になっていま検索を駆使し、突き止めた。しばらく調べてもそれらしきものが出てこないので記憶を探りなおしてみると、なんかギターがRichmanとかいうなまえだった気がする、という情報が出てきたので、Richmanというギタリストを探してみるとJeff Richmanというフュージョン方面のベテランがいた。これだな、とおもった。SantanaとかJeff Beckとか、いろいろなトリビュート作品に参加しているひとだが、たしかにそんな記憶があった。それでこのなまえの関連を調べてみたものの、しかしこちらがおもっているバンドは出てこない。それでおかしいなとおもいつつ、diskunionのページにいたり、ここでふつうにバンド名検索すれば出てくるじゃんと気づいてcosmoでHR/HMカテゴリを検索すると、Cosmosquadというバンドが出てきて、これだわと確定した。『ACID TEST』というのがこちらが持っていた作品だ。二〇〇七年発売。ギタリストはJeff Kollmanというなまえだった。ドラムが大仰でパワフルなスタイルでB'zのサポートをやっていたShane Gaalaasだったので、たぶんこの線から知って入手したのだろう。いまはなき地元の「(……)」に売っていたか、それかもしかすると興味を持って取り寄せ注文したのかもしれない。
  • それで喫茶店はひとつ目に見に行ったビルの最上階にある洒落たような店がいっぱいで入れないということだったので引き返し、トイレにめちゃくちゃ行きたいとみんな口々に言いながらあるいて、こちらでも見覚えがある広場的な通路にいたって、そこにあった「(……)」という店が良いのではないかとなって入店。本式らしいメイドの格好をした女性店員が給仕をする店で、入り口で五人だと通路をはさんで分かれてもらわなければならないと言われ、了承してなかへ。手を消毒し、一階くだって地下のフロアへ。客はほぼおらず、われわれがはいった時点でさきにいたのはたぶん一組だけで、めちゃくちゃ空いていた。通路をはさんでと聞いていたので店員が通るようなふつうの通路をはさんでグループを分けなければならないのだとおもっていたのだが、そういうわけではなく、おなじテーブルにあつまってはならないということだったらしく、片側がひとつづきのソファ席になっている区画で、ふたつのテーブルに分かれてはいることができた。ポジションはソファ側の右にこちら、左のテーブルのおなじ側が(……)くん、こちらのまえに右から(……)さん、(……)さん、そして(……)くんのまえが(……)さんだった。じぶんは例によってココアを頼み(ラム酒つきということで少量の酒がそそがれたごくちいさな器が付属していたが、これはけっきょくつかわなかった)、ほかの四人はそれぞれコーヒーやらなにやらで、たぶん全員飲み物とともにケーキを注文していたとおもう。(……)さんがモンブランだったかわすれたがなにかを頼んだのだが、しばらくして女性店員がやってきて、それはもう終わってしまったと言い、彼女が提示した四つくらいの選択肢のなかからレアチーズケーキがあらためて選ばれたのはおぼえている。けっこうみんなトイレに行きたくなっていたわけだが、注文をしたあと雑談をしているとちゅうで(……)さんがしずかに席を立っていなくなったのを受けて(……)くんが、ああやってなにも言わずにしれっと行くんですよ、みんな行きたかったのに、と笑っていた。
  • はなした話題はだいたいやはりこの本が気になっているとかこの思想家が気になっているとかそういうこと。アリストテレスのはなしが出たひとときがあった。(……)くんが(……)アリストテレス全集を順番にさらっているのだという。ただアリストテレスのばあい、こまかな内容というよりは、彼が問題にアプローチしたやりかたや手順とか、つくったカテゴリーや枠組みとか、そのへんのほうが重要で、正直詳細なところまできちんと研究しようという気にはならないと。すごく勉強にはなるが、あくまで勉強、というかんじのようだ。快楽は薄いのだろう。こちらとしてはアリストテレスは『動物誌』にいちばん興味があるつもりで、それは要するに博物学にたいする興味で、博物学にたいする興味というのは要するに系統分類とかというよりは、観察者が動物とか植物とかをことばでスケッチするその書き方にたいする興味で、だからつまるところ描写にたいする興味に帰結するのだけれど、『動物誌』はそういう著作だと聞いている。ほか、まあ『詩学』とか『ニコマコス倫理学』とかもふつうに読んではみたいが、ニコマコスにかんしてはそのなかでふつうに奴隷制肯定というか、奴隷制は前提のものとして記されていたはずだし、アリストテレスをいま読んでどうかんがえるか、どう活かすかというのはなかなかむずかしそう、みたいなことを(……)くんか(……)さんが言っていた。『詩学』とか『弁論術』はおもしろいというか、読んだほうがいいと(……)さんは言った。『弁論術』は要はあいてをどのように説得するかという言語技術論なのだとおもうが、たとえば聴衆にかたりかけるときはまず明快な結論から述べたほうが良い、そうすればひとびとは演説者がはなすあいだにじぶんのあたまのなかでなぜそういう結論になるのか、根拠や論理の道筋を予測するので、それをなぞるようにはなしをすればより説得力を生むことができる、みたいなことを言ったりしているらしく、だから(……)さんとしてはけっこう自己啓発本的なスキル紹介のように響いたようで、自己啓発書とか読むんだったら『弁論術』読んだほうがいいのにとおもいました、とのことだった。アリストテレスはそういうふうに、聞き手を説得し納得させるという意味での修辞学を重視したひとらしく、ただ正しいことを言ってもあいてを説得できるとはかぎらず、受け容れられないこともあるとかんがえていたようなのだが(なぜそういう認識を持っていたかについてもちょっと触れられたような記憶があるのだが、その点は忘れてしまった。アテナイの民主政の崩壊以後の混乱した時代に生きたから、みたいなことだったか?)、それはきわめて重要なポイントだとじぶんはおもう。ひるがえってプラトンはおそらくそうではなかった。彼は弁論術というのは悪しきソフィストが強弁をおしとおすための堕落した技法だとかんがえていたはずで、また哲学者は真実在をおいもとめ観想するにいたる崇高な存在だと認識していたはずであり、それがプラトンじしんの明示的な主張かどうかはともかくとしても『国家』のなかではその哲学者が王となる哲人国家のヴィジョンをあきらかにしている。またおなじ『国家』中で、詩人というのは真実在であるイデアをコピーしたものに過ぎない事物をさらに言語によってコピーするわけだから、ミメーシスのさらにミメーシスをしている卑しい連中でしかない、みたいなことを書いていたはずで、あと神々にかんしても詩人たちは虚偽を述べている、神とか英雄は善やちからそのものである崇高な存在だからたとえば悲嘆の感情に屈して泣いたり嘆いたりすることなどあるわけがないのに、ホメロスでさえそのようなことを語り、神をおとしめひとびとをたばかっている、したがってわれわれの国家には虚偽の徒である詩人は必要ない、みたいなことも述べていたはずだが、しかしプラトンいぜんには詩と哲学はおなじものだったはずでしょう、とこちらは言った。プラトンソクラテスいぜんの、断片としてのこっているイオニア自然哲学者なんかはだいたい詩とか箴言のような形式で思想を語っているはずだと。プラトンがそういうふうに文学と哲学を峻別して前者をおとしめる発想を導入したところからはじめてそうなったわけだが、弟子のアリストテレスがそれにたいして修辞学、言語の修辞的な側面を再評価してかんがえたというのは、文学好きとしてはやっぱり興味がありますね、とはなした。はなしのなかに出てきた文献としては、アルマン・マリー・ルロワ『アリストテレス 生物学の創造』という、わりとさいきんみすず書房から出たという上下本がひとつある。あとこれは飯屋でのことだったが、フィリップ・セリエ『パスカルと聖アウグスティヌス』という法政大学出版局叢書・ウニベルシタスの本も(……)くんがおしえてくれた。このセリエというひとはフランスのパスカル研究の権威らしく、彼が編集したセリエ版全集というのがいまいちばんメジャーなものになっているとか。
  • あとなにかのタイミングでガタリの名が出たというか、たしかはなしを受けてこちらが名を出したのだったとおもう。ガタリという人間がおもしろそうで興味があると。というのは、これはいぜん(……)さんから聞いただけの情報なのだけれど、ガタリはずっとガチガチの活動家として政治運動をしてきたひとであり、ドゥルーズとの共著もだいたいガタリがてきとうにまとまりなくはなしたことをドゥルーズがひろってつなぎあわせるみたいなかんじでつくられたのだという。また臨床の現場でもずっとはたらいていたはずで、『カオスモーズ』は、まだ読んでいないのだけれど、病院で精神疾患の患者たちがどのように集団のなかで主体性を立ち上げていくのかというようなことを、じぶんの経験をもとにして書き語った本だという漠然とした認識を持っている。くわえてエコロジー方面にも行っているし、横断性というものを重要視していたらしいがまさしくそれにふさわしく、じぶんの具体的な現場を持ちながらもいろいろ幅広く手がけていた、めちゃくちゃでなんかやばそうなひと、という印象をじぶんは持っている。ひとつにはじぶんじしんがわりとこじんまりとまとまった神経症的な人間なので、そういうカオス的な人物に興味とかあこがれみたいなものがあるのだとおもうし、もうひとつには非常に具体的な現場に根ざして地に足ついた(政治的・社会的)活動というものをやるのにじぶんは躊躇してしまうような、面倒臭がったり、その大変さをすすんで引き受けようとはしない人種だとおもうので、活動家というタイプの人間に興味があってそこからまなびたいということがある。それでガタリが気になっているのだけれど、さいきん本屋に行ったらガタリがブラジルに行ったときに現地の活動家と対談したり講演したりしたときの記録をおさめた本が出ていたという情報もみなに知らせておいた。
  • (……)
  • 一〇時で閉店だったので会計して退店。そろそろ帰宅へ向かわねばならない時間だが、さいごに(……)のほうに行って、読書会の本と日程だけ決めましょうか、ということになった。(……)くんはきょう、朝の六時に寝て八時に起きるみたいなありさまだったらしく、それで午前中から映画も見に行ったので、へとへとに疲労困憊して死にそうになっていた。読書会はいぜんもオンラインでやっていたが、またこのメンツで月一で、今度はじっさいに会って飯でも食いながらやりましょうか、ということになり、課題書の候補としては『ボヴァリー夫人』が挙がっていた。ネパール料理を食っているあいだにそのはなしが出ていて、河出文庫の訳が良いという評判だという情報が出たので、山田𣝣のやつですね、ぼくは一回読みました、森鴎外の、孫? だったかな、それでジャクってなまえなんですよ、蓮實重彦の師匠にあたるひとで、ゼミのあとの飲み会で、いいかおまえら、知ってるか、『感情教育』ってのはな、終わらねえんだ、って言って、そのことばが蓮實のその後の一生を決めたらしいです、とエピソードを紹介した。このはなしはけっこういろいろなところで語られていたはずだし、講談社文芸文庫の本のうしろのほうについている年譜でも触れられていたはず。いぜん『ボヴァリー夫人』を読んだのはたしか鬱様態から回復してすぐのころだったはずで、だからかんじるべきことをそんなに十分にかんじとれたとはおもわれないし、もういちど読むことになんの異議もない。河出の訳も持っているから都合が良い。それで駅南口のほうにあるいていき、うえにのぼって、ギターを鳴らしながら下手くそな歌をうたう弾き語りの女性(まえをとおりすぎたときには斉藤和義の"歌うたいのバラッド"をやっていて、のちにそのすがたの見えない広場ではなしていたあいだには"勝手にシンドバッド"が聞こえてきたが、この後者はぜんぜんちゃんと歌っておらず、なんかすごかった)がすこしひとをあつめている横をとおって広場的なスペースへ。そこでしばらく立ち話をして、会の日程は一二月一九日(日)、課題書は『ボヴァリー夫人』と決まった。場所や時間など、こまかいところは未定。そうして帰路につくことに。
  • やけにひろい横断歩道を渡って駅の口にはいり、(……)さんはべつのほうなのでここで別れ、(……)さんも家は(……)なので別れ。三人で改札をくぐり、こちらだけ(……)でふたりはいっしょなので別れた。(……)さんにはさきほど、きょうで顔を合わせるのもしばらくなくなりますけど、お会いできて良かったですと言っておいたが、ここで、からだに気をつけて修論をがんばってくださいとかさね、(……)くんには、とにかく寝たほうがいいよ、眠くなったらさっさと寝ちゃったほうがいいよ、といたわりをかけたが、じぶんじしんも夜ふかし組なのであまり説得力はない。また、(……)くんは眠いのを強いてやることをがんばっているというよりは、たぶん眠くならなくてながく起きてしまい、その結果つぎの日に用があったりすると睡眠がほとんど取れずやばい、みたいなかんじだとおもうので、あまりあたらない助言ではあった。それで(……)にくだり、ちょうどやってきた特快に乗車。南側の扉際につき、ガラスにまっすぐ向かい合って手すりをつかみ、立ち尽くしたまま瞑目して心身を休めた。さすがに疲労感はあった。おなじ扉前の片側には、灰色のパーカーを着てフードをかぶった若い女性がいて、このひとの目がけっこうよどんだかんじというか、フードによって顔もすこしかくしているようなようすだったし、なにかにたいする不満とか苛立ちとかばあいによっては憎しみとかを秘めているかのような、もしかしたら精神的にまいっていたりあやうかったりするのだろうかという印象をおぼえるような雰囲気だった。身の運びもなんとなくゆらりとしたかんじで、とちゅうの駅で止まって乗客が乗り降りしたさいなど、車内のうごきが終わって席が空いていないことがわかったあともしばらく、座席端の手すりのところから車両内をじっと見ていた。
  • (……)で降車し、乗り換え。席に座ることができて、瞑目のうちに閉じこもって回復を図ったが、ここで胃のほうから空気があがってくるかんじがつづいてなかなか苦しかった。むかし、飲み会に行った帰りなどよくなっていた現象で、そのときはジンジャーエールとかグレープフルーツジュースとかをたくさん飲んで胃酸が過多になったために起こるものだとおもっていたのだが、きょう飲んだのはやたら薄かったジンジャーエールは除外してかんがえれば水とココアのみである。ネパール料理の加工米とか豆とかが乾いてバリバリしていたので、消化が大変だったのかもしれない。それでやや苦しみながら揺られ、(……)でふたたび乗り換え。その後の帰路はわすれた。

・『岩波 女性学事典』
エリザベート・バダンテール『XY 男とは何か』
高田里恵子『文学部をめぐる病い』
・ロンダ・シービンガー『女性を弄ぶ博物学
田中美津『いのちの女たちへ』
・駒沢喜美『魔女の論理』
・女たちの現在を問う会『銃後史ノート戦後編8 全共闘からリブへ』
ジュディス・バトラージェンダートラブル』
・イヴ・K・セジウィック『男同士の絆』
上野千鶴子『家父長制と資本制』
加賀まりこ『とんがって本気』
・中村方子『ミミズに魅せられて半世紀』

2021/11/13, Sat.

 ひとつの言葉

 待つ……

 から
 ほかの言葉の
 雪崩がおこる

 女性を(end84)

 待つ……

 ときのこと

 (リチャード・ブローティガン福間健二訳『ブローティガン 東京日記』(平凡社ライブラリー、二〇一七年)、84~85; 「アルプス」 The Alps; 東京 一九七六年六月二日)



  • 九時台後半から覚めて、一〇時二〇分に離床。きょうもまったくの快晴で、雲の一滴もなく水色に凪ぎわたった空のまんなかにふくらみ浮かんだ太陽を顔にじりじり受けながら、喉やこめかみを揉んで深呼吸をした。脚をマッサージしながらすこしだけ書見も。起き上がると水場に行き、洗顔やうがいや用足しをしてもどり、瞑想。きょうは二時には家を発たなければならず、いつもより猶予がすくないので焦る気持ちがあったのだろう、一五分強でみじかく終わった。窓をあけなかったが、ひゅるひゅるというトンビの鳴き声がガラス越しに何度か聞こえてきた。
  • 上階へ。ハムエッグを焼いて米に乗せ、きのうの残りである鍋とあわせて卓へ。そとで落ち葉を掃いていたらしい母親がはいってくるとサラダもあるというのでそれも。大根とニンジンをこまかくスライスしたうえに生ハムを乗せたもの。新聞からは中国の六中総会で第三の歴史決議がなされ、習近平の威光が毛沢東・鄧小平とならぶものとして確立したという記事などを読んだ。ものを食べ終えると食器を洗い、風呂も。きょうも風呂場の窓をあけてみると、きのうと違ってとなりの空き地の黒っぽいシートのうえには無数の落ち葉の黄色が点じられてあるが、そのほかは、道路をすべて覆っている日なたの池といい、石塀のうえに投影された電柱の分身(子どもがクレヨンをつかって船のマストとその周りの付属具を描いたように見える)といい、きのうとおなじである。出ると帰室。
  • コンピューターを用意して「読みかえし」、その後に書見。母親が車でおくってくれることになっていた。
  • 出勤までのことはわすれた。たぶんだいたい書見をしていたはず。蓮實重彦『「私小説」を読む』(講談社文芸文庫、二〇一四年/中央公論社、一九八五年)。出るまえにヤマザキの「薄皮クリームパン」(ちいさめの丸っこいクリームパンが筒に詰めこまれたスライムみたいに五個セットでひとつのパッケージにおさめられたもの)をひとつふたつ食ったのだったか? わすれた。一時五〇分に出発した。出発ギリギリまできょうのことを記していたのはおぼえている。だらだら本を読むことを優先してきょうのことを綴っておらず、もう時間がなかったので現在時に追いつくことはできず、うえの三段落目がみじかく切れているのはそういうことだ。そとに出て、母親が出してきた車の後部に乗る。道中の記憶はとくにない。母親は買い物のために外出したのだが、ついでに(……)まで行って映画を見てきたいらしく、それが二時二五分からとかでもうあまり猶予がないので、駅のほうまでははいらず大通りでこちらを下ろしたかったようで、信号が赤になればいいけどとか漏らしていたところ、じっさいに都合よく駅前にはいるT字の分岐点のてまえで信号にひっかかったので、じゃあここで降りるわと礼を言って車を出た。天気はきわめて良い。T字の縦棒(そのさきに駅がある)の根もとを横切るかたちの横断歩道がいま青になっていたが面倒臭いので脚を急がせずにそこまで行き、赤になった信号がもういちど変わるのを待った。通りのむかいには数人そぞろあるいているなかに、T字の上の横線を縦にわたる方向の横断歩道を待っている若い夫婦があって、ベビーカーをともなっているので夫婦とわかったのだが、そういうすがたや穏和でのどかそのものといった空気のあかるさを見ていると土曜日の昼下がりというにおいがかんじられてくる。右手の南にむけて視線をはなてばかなたの山のすがたはほとんど薄れても濁ってもおらず、まなざしがそこまでいたるあいだに無数の大気の積層が分厚くはさまれていることをかんじさせず、空気の透明さ澄明さがよく理解される。真っ青にひらいたそのうえの空はじぶんがいまいる通りの近間にそびえたマンションのきわまで夾雑なしでひとつながりにつづいているが、そのねずみ色っぽいビルの輪郭も水のように明快な青にせまられくっきりかたどられている。信号の変わった横断歩道をわたっていると、祭りで鳴らされる鉦みたいな、なにか金物の打音が聞こえて、すぐに、たぶんここのビルだな、喫茶店でなにかやっているのかもしれない、と目の前の二階に音源が同定されて、直後に太鼓的なパーカッションも聞こえたが、ビルの入り口のまえを通り過ぎるときに視線をやってみると、サルサバンドが演奏をするという看板が見えた。駅前に配されたイチョウの樹はまだおおかた緑をのこしていて、変色しているとしても端がわずかに褪せてきているのみが大半だが、パン屋の目の前あたりにある一本だけ、よそおいをほぼ黄色くあらためていた。
  • 勤務。(……)
  • (……)
  • (……)

2021/11/12, Fri.

 そこから歳月が流れた。
 ぼくは大きくなった。
 もう十歳ではなかった。
 急にぼくは十五歳になり、戦争は記憶の奥に去り、日本人への憎しみもそれと一緒に去っていった。感情が蒸発しはじめたのだ。
 日本人は教訓を学び、寛大なキリスト教徒であるぼくたちはかれらにやりなおしの機会をあたえ、かれらはりっぱにそれに応えていた。
 ぼくたちはかれらの父親で、かれらはぼくたちの小さな子どもであり、かれ(end23)らが悪いことをしたからぼくたちはきびしく罰したのだが、かれらはいまよい子になり、ぼくたちもよいキリスト教徒としてかれらを許してやっている。
 つまり、かれらははじめは人間以下だったが、ぼくたちが人間になるように教えてやり、かれらはとてもすみやかに学んでいる、ということだった。
 さらに歳月が流れた。
 ぼくは十七歳になり、十八歳になり、十七世紀からの日本の俳句を読みはじめた。芭蕉と一茶を読んだ。感情と細部とイメージを一点にあつめるように言葉を使って、露のしずくのような堅固な形式にたどりつくかれらの方法が、ぼくは気に入った。
 日本人は人間以下の生きものなんかではなく、十二月七日のわれわれとの遭遇の何世紀も前から、文明をもった、感情のある、あわれみぶかい人々であったことをぼくは知ったのである。
 戦争がはっきりと見えてきた。
 何が起こっていたのかをぼくは理解しはじめた。
 戦争がはじまると論理と理性がはたらかなくなり、戦争があるかぎり非論理(end24)と狂気がのさばることになる仕組みがわかってきたのだ。
 ぼくは日本の絵画と絵巻物を見た。
 とても感銘をうけた。
 ぼくは鳥が好きだから、かれらの鳥の描き方が好きになった。そしてもう、日本人を憎んで叔父のかたきを討ってほしいと願った第二次世界大戦の子どもではなかった。
 サンフランシスコに移ったぼくは、禅を学んで深い影響をうけている人たちとつきあいだした。友人たちの生活ぶりを見ていたことからの浸透作用でぼくはすこしずつ仏教をつかんでいった。
 ぼくは論理を追った宗教的な思索ができる人間ではない。哲学はほんのちょっとしか勉強したことがない。
 ぼくは友人たちがその生活や家の中をととのえたり、自分を訓練したりするやり方を見ていた。ぼくは仏教を、白人がアメリカに来る前のインディアンの子どもがものごとを学んだようにしてつかんでいった。かれらは見ることによって学んだのだ。(end25)
 ぼくは見ることによって仏教を学んだ。
 ぼくは日本の食べ物と日本の音楽を好きになった。ぼくは五百本以上の日本映画を見た。字幕を読むのがはやくなり、映画の中で俳優たちが英語をしゃべっていると感じるほどになった。
 日本人の友だちもできた。
 ぼくはもう戦時中の子ども時代のあの憎しみにみちた少年ではなかった。
 エドワード叔父さんは死んだ。家族の誇りであり未来であったのに、人生の盛りのときに殺された。かれをなくしてぼくたちはどうしたらよかったのか?
 百万人以上の日本の若い男たち、それぞれの家族の誇りであり未来であったかれらも死んだのであり、そのうえ、日本への爆撃で、そして広島と長崎の原子爆弾で、何十万人もの罪のない女性や子どもが死んだのだ。
 かれらをなくして日本はどうしたらよかったのか?
 そういうこといっさいが起こらなければよかったとぼくは思った。

 (リチャード・ブローティガン福間健二訳『ブローティガン 東京日記』(平凡社ライブラリー、二〇一七年)、23~26; 「はじめに さようなら、エドワード叔父さん、そしてすべてのエドワード叔父さんたち」)



  • 八時台後半に目覚め。快晴。ひかりをいっぱいにふくんだカーテンをあけて太陽のかがやきを顔に浴びつつ、例によってしばらく喉やこめかみを揉んだり深呼吸をしたりしてからだを調える。九時二一分に起き上がったが、携帯を見て時間を確認するとすぐにまたあおむけにもどり、下半身をマッサージしつつ蓮實重彦『「私小説」を読む』(講談社文芸文庫、二〇一四年/中央公論社、一九八五年)を読んだ。32からはじめて、ひとつめの篇である「廃棄される偶数 志賀直哉『暗夜行路』を読む」をさいごまで。そうすると一〇時過ぎだったはず。上階へ行き、ジャージに着替え(着物をかえながら南の窓の先を見ると、(……)さんの家の脇からカラスが一匹飛び立って、すぐうえにある電線の電柱につながっているもとのあたりに乗り、とまっているあいだその背にはひかりの白さが反映して、ふたたび飛んでさらに一段うえの電線に移動したときにも翼をバサバサうごかすあいまに黒のなかで白がひらめき、周辺の瓦屋根も晴れの日のつねでひかりを敷かれてつやめいて、空は山のはるかむこうまで淡い水色にひらかれていて、雲は横につーっとまっすぐ引かれた眉のように低みにたなびいている細いひとすじしか見当たらなかった)、ゴミや急須の茶葉を始末したり洗面所でもろもろやったり。食事はどれもきのうののこりであるワカメの味噌汁や唐揚げやブロッコリー。新聞からは瀬戸内寂聴の訃報と評伝を読んだ。きょうはこの件のために文化面が六ページ目とずいぶんまえのほうに来ていて、国際ニュースよりもまえに出ていたくらいだ。井上荒野という作家が文を寄せていたが、このひとは井上光晴の娘だといい、瀬戸内寂聴井上光晴の愛人だったらしく、子どものころから彼女が家に来ていて面識があり、井上光晴が亡くなったあとも交流がつづいたと。父親の愛人と、その妻や娘とのあいだに交友がもたれるというのは変だとおもうひともおおいだろうが、そうさせたのはひとえに瀬戸内寂聴のひとがらだったとおもうといい、井上荒野は近年この件を題材にした小説も書いたらしく、そのさいに瀬戸内にインタビューをして、うちの父親は関係を持った男性のなかで何人目くらいでしたか? とたずねたところ、「みーんな、つまらない男だったわ!」と破顔されたと語っていた。快活である。このページの記事には若いころ(まだ瀬戸内晴美だったころ)の瀬戸内と、川端康成円地文子とが一座に会している写真が載せられてあり、たぶんどこかの高い料亭みたいなところだとおもうが、テーブルのうえにやたらおおきい、ひらべったいハット型の帽子をひっくりかえしたみたいなかたちの灰皿がふたつ乗っていて、川端の手もとには煙草の箱が置かれてあったとおもう。社会面のほうにも記事があったので読んだが、そこには横尾忠則黒柳徹子林真理子がコメントを寄せており、横尾忠則はなんでもはなせる友人だった、覚悟はしていたが残念だ、せめて一〇〇歳まで生きていてほしかったと述べていた(瀬戸内はこのたび九九歳で逝去)。『幻花』という新聞に連載されたらしい小説の挿絵を横尾が担当していたというが、たぶんこの小説が単行本化したかなにかを機に横尾と瀬戸内と浅田彰が鼎談したイベントのようすを映したみじかい動画がいぜんYouTubeにあって、そこで浅田はこの『幻花』だったかべつの作品だかを「めっぽうおもしろい」みたいに言っていたので多少気になっていた。それにしても、七六歳で『源氏物語』を全訳したというし、作家生活で出した本は四〇〇冊を越え、何年かまえに『いのち』というやつを出していたがそのあとも二、三冊出していたようだからすごい。
  • 食器を洗って風呂も。風呂の窓をあけてそとを見れば道路のうえには日なたが隈なく乗ってひろがり、揺らぐことなくしずまった日だまりの池と化しており、影はガードレールの足もとにまっすぐ引かれている一線と、林の縁を区切る石塀のうえに映った電柱のそれのみで、すこしかたむいたすがたで投射された電柱の影は不安定さに耐えられずたおれてしまいそうなカカシをおもわせるもようをなしており、石塀のうえにもそのうえの樹々のなかにも渋めの臙脂色や黄色が混ざりこんで、もう緑のほうがすくないくらいのまだらもようとなっている。浴槽をこすり洗い、出ると茶を用意。一杯分そそいでおき、先にゴミ箱を持って自室に帰るとコンピューターを用意。それから茶を持ってきて一服しつつ、さっそく「読みかえし」ノートを読んだ。74から92。例によってOasisのセカンドなどながしている。切りにすると一二時一〇分か二〇分くらいだったのではないか。それから便所に行って糞を垂れ、手を洗うとともにうがいをして喉をうるおし、もどってくるときょうのことをここまで記して一時直前。
  • 出勤前に歯をみがいているときに上記で触れた鼎談動画を見たが、浅田による瀬戸内作品への言及はなかった。もうひとつべつのクリップがいぜんはあって、そのなかで触れていたのかもしれない。あるいは動画内ではなく、このイベントの内容を記したブログかなにかで見たのか。この催しは横尾忠則の展覧会を機会におこなわれたものらしく、だから『幻花』発表当時ではなくもっとさいきんのものだった。瀬戸内がSEALDSの名を出して、わかいひとたちがさいきんじぶんの意見をどんどん言うようになってきて、わたしあれはとてもいいとおもうんです、みたいなことを述べていたくらいだ。
  • ほかにあまり記憶はない。出勤路は午後五時だがそこそこ寒く、顔面に触れてくる大気が冷たかったおぼえがあるし、帰路はさらに冷えこんでいて、首をかたむけて夜空を見上げていると空腹と寒さのためにちょっとくらっときたくらいだったし、道をあるいていればおびただしく群がる蜂たちのように冷気がスーツの表面にだんだんと溜まって貼りついてきて、ほんとうはもうコートを着るべき気候になっている。(……)
  • (……)
  • この日のことはほか忘れて、帰路も帰宅後も記憶がない。一〇日の記事は終わらせたらしい。この前日の一一日も多少書いたようだ。

2021/11/11, Thu.

 ぼくは戦争のあいだずっと日本人を憎んでいた。
 ぼくは日本人を、文明がすべてのものに自由と正義をもたらして栄えてゆく(end20)ためには滅ぼさなくてはならない、人間以下の悪魔的な生きものだと考えていた。新聞の漫画ではかれらは出っ歯のサルとして描かれていた。プロパガンダは子どもの想像をかきたてるものだ。
 ぼくは戦争ごっこで何千人もの日本兵を殺した。ぼくは「タコマの亡霊の子供ら」(『芝生の復讐』所収)という短篇を書いたが、それはぼくの六歳、七歳、八歳、九歳、十歳のときの、日本人を殺すことへの熱中ぶりを示している。ぼくは日本人を殺すのがとても上手だった。かれらを殺すのはおもしろかった。

 第二次世界大戦のあいだ、ぼくは自分ひとりで三十五万二千八百九十二人の敵兵を殺し、ひとりも負傷者を出さなかった。子どもの戦争が必要とする病院は大人よりもずっと少ない。子どもたちはどうしても戦争をただ死があるだけという側面から考えるのだ。

 戦争がついに終わったときのことをぼくはおぼえている。ぼくは映画館でデニス・モーガンの映画を見ていた。歌の入った砂漠の外人部隊ものだったと思(end21)うが、いまは確かめようがない。とつぜんスクリーンに言葉をタイプした黄色い紙が出て、それは日本がアメリカ合衆国に降伏して第二次世界大戦は終わったというものだった。
 映画館にいたすべての人が心底から声をあげて笑いだし、無我夢中になった。通りにとびだしてみると車のクラクションが鳴っていた。暑い夏の午後だった。あらゆるものが大混乱におちいっていた。まったくの見知らぬ人どうしが抱きあい、キスしあっていた。すべての車のクラクションが鳴っていた。通りには人があふれていた。交通はすべて停止した。人々はむらがってキスしあい、笑い、クラクションを鳴らしつづける車に蟻のようにのぼり、車は有頂天になった人々でいっぱいになった。
 そうする以外に何ができただろう。
 戦争の長い歳月が終わった。
 すんだのだ。終わりになったのだ。
 ぼくたちは人間以下のサルである日本人を負かし、滅ぼした。正義と人類の権利が、都市ではなくジャングルにいるべき生きものに対して勝利をおさめた(end22)のだ。
 ぼくは十歳だった。
 そんなふうにぼくを感じていた。
 エドワード叔父さんのかたき討ちはすんだのだ。
 かれの死は日本の破滅によって清らかなものとなった。
 広島と長崎はかれの犠牲というバースデーケーキの上で誇らしげに燃えるろうそくだった。

 (リチャード・ブローティガン福間健二訳『ブローティガン 東京日記』(平凡社ライブラリー、二〇一七年)、20~23; 「はじめに さようなら、エドワード叔父さん、そしてすべてのエドワード叔父さんたち」)



  • 何度か覚めつつも一一時までだらだらと寝過ごす。ベッドでうめきながら深呼吸したり喉を揉んだりしていると、窓外で父親がネットに引っかかっているゴーヤの葉や蔓の残骸をかたづけているらしい音が立ちはじめたので、それを機に床に立った。瞑想はサボる。窓をはさんですぐ横でガサガサされてはさすがにやりづらい。それで上階に行き、洗面所で洗顔やうがいなどもろもろすませて、おじやで食事。おかずがなかったので冷凍庫をさぐると竜田揚げを発見したのでそれを三粒皿に乗せ、レンジであたためた。加熱をしているあいだは屈伸をくりかえして、起き抜けの鈍くこごっている脚に血と活力をおくる。そうして卓につき、新聞を見ながらものを食べた。いちばんうしろの社会面に細木数子の訃報が載っていたので、細木数子なんてなまえめちゃくちゃひさしぶりにおもいだしたなとおもいながら向かいの母親に、細木数子死んだってと知らせると、母親は細木数子ってだれだっけ、みたいな表情を一瞬取ったあとにおもいあたったようすで、何歳? と問うたので、八三、と告げ、それでその件は終わった。細木数子というのは、記事にも「歯に衣着せぬ物言いで人気を博した」みたいな評がみじかくあったが、「あんた、死ぬわよ」とかいう断定的で大仰なものの言い方で人気になり一時期テレビによく出ていた胡散臭い占い師で(そもそも占い師とは定義上、すべて胡散臭いのかもしれないが)、番組をやっていたのはたぶんこちらが高校生くらいのときだったろうか? 母親はたしか当時、その番組をわりと見ていたような記憶がある(というか要するに、夕食時のテレビにかかっていたような記憶がある)。いまWikipediaを見ると、二〇〇四年後半にはブームのピークをむかえたとあるので、こちらは一四歳、中学三年生だ(こちらははや生まれなので、一五歳になったのは中学三年生の三学期の一月ということになるはず)。ところでいま細木数子で検索したさいに、瀬戸内寂聴も九九歳で死んだという情報に行き当たった。細木数子にかんしてはとくになにもおもわないが、瀬戸内寂聴はすこし残念な気持ちをかんじないでもない。と言って、彼女の作品をひとつも読んだことがないのだが。単純に、九〇を越えて一〇〇歳ちかい高齢になっても文章を書きつづけていたというその一点のみで、なにがしかの尊敬の念みたいなものを勝手におぼえていたようだ。
  • 細木数子Wikipediaの経歴欄をざっと見てみたところ、「東京・渋谷に生まれた。 父・之伴の許には大野伴睦や、松葉会会長の兄などが出入りしており、暴力団関係にも幅広い人脈をもっていた」、「16歳のころにはミス渋谷に選ばれた。1955年、東京駅の高架下で「ポニー」というスタンドコーヒーの店を開く。成徳女子高等学校在学中に宝塚音楽学校に合格するが入学辞退したと言う。その後、高校を3年で中退し、店を切り盛りした。17歳~18歳の時だった」、「20歳で銀座にクラブを開くなど、若い頃から飲食店の仕事を行ってきた」という感じで、すげえなとおもった。「1982年に、独自の研究で編み出したとされる“六星占術”という占いに関する本を出版。1985年に出した『運命を読む六星占術入門』がベストセラーとなり、以降、「六星占術」に関する著作を次々に発表、「六星占術」ブームを巻き起こし、人気占い師となる」ということで、テレビに出るよりもはるかまえから人気を博していたらしい。そのつぎの段落には、「銀座のクラブのママであった1983年(45歳)に、政財界にも力を持つ事で知られる陽明学者の安岡正篤(1898年 - 1983年)と知り合い、結婚の約束を取り交わす。安岡の親族が反対するなか、安岡と交わした結婚誓約書をもとに単独で婚姻届を提出し、受理された。しかし、当時安岡は85歳と高齢であり、入院先の病院での検査では認知症の症状があったとも言われ[10]、安岡の親族が「婚姻の無効」の調停申し立てを行った翌月、安岡は他界した[8]。調停により、婚姻は無効であるとした和解が成立し、初七日には籍を抜くこととなった」というゴタゴタが記されてあるが、「陽明学者」という語にちょっと笑うというか、やっぱりそっち方面なのね、とおもった。この安岡正篤という人物についてはなにも知らなかったが、これもWikipediaを見てみると「日本主義の立場から保守派の長老として戦前戦後に亘って活躍した」ということで右翼の大御所みたいな存在だったらしく、逸話欄にたとえば、「戦前にあっては血盟団事件に「金鶏学院」の関係者が多く連座したため安岡も一時関与を疑われた。井上日召は、「血盟団事件の検挙の発端は、金鶏学院への波及を恐れた安岡が当局に密告したため」と、戦後に証言している[13]。また安岡が、五・一五事件二・二六事件の首謀者の一員とされる大川周明北一輝東京帝国大学時代に親交があったことからこれらの事件への関与を指摘する向きもあるが、安岡自身はこのことについて何も語っておらず、現在ではこれらへの関与を否定する見方が一般的である」などとあって、井上日召大川周明北一輝という固有名詞のならびにつらなってるのやべえなとおもった。「戦時中からすでに政治家や右翼活動家に影響力があったため、GHQより戦犯容疑がかかったが、中華民国の蔣介石が「ヤスオカほどの人物を戦犯にするのは間違いだ」とGHQを説得し逮捕されなかった」、「戦後にあっては、自民党政治の中で東洋宰相学、帝王学に立脚し、「実践的人物学」、「活きた人間学」を元に多くの政治家や財界人の精神的指導者や御意見番の位置にあった。安岡を信奉し、師と仰いだとして知られる政治家には吉田茂池田勇人[注釈 12]、佐藤栄作[注釈 13]、福田赳夫大平正芳など多くの首相が挙げられる[15]。岸信介以降の歴代首相(田中角栄三木武夫を除く)に施政方針演説の推敲を依頼されていたと言われる」、「晩年陽明学に傾倒した三島由紀夫は、自決の2年前の1968年(昭和43年)5月26日付けで安岡に手紙を書いている[18]。この手紙では、当時入手困難だった安岡の著作を、伊沢甲子麿を通じ安岡本人から贈ってもらったことへの謝辞を「(安岡)先生のやうな真の学問に学ぶことのできる倖せ」と言い表すと共に、朱子学に傾倒する江藤淳や徂徠学に傾倒する丸山眞男への批判が述べられている[18][注釈 15]。三島の自決後、安岡は新聞が論評した三島流の「知行合一」を「動機の純粋を尊んで、結果の如何を問わないなんていう、そんなものは学問でもなく真理でもない」と批判している一方、三島個人については「惜しい人物であった。もう少し早く先師(王陽明)に触れていたら・・・」と述べたという」などもろもろ。
  • 図書館に行きたいとおもっており、母親も出かけるようすだったので(夕方に図書館(彼女のばあいは分館のほうだが)にリクエスト本を取りに行くとのことだった)、乗せていってくれないかと頼んで了承を得た。その後、アイロン掛けをしていたさいちゅうに、四時ごろに出るということに決定。外出をおもいたったのはひとつには茶を買おうとおもったからで、というのはきのうだかおとといだかに開封した「辻利」の茶がぜんぜんうまくないものだったからで、母親もそう言っていた。われわれの舌が粗雑である可能性もあるが、入手元を聞けば(……)ちゃんの姉の家の母親(義母)だかが亡くなった葬式の返礼としてもらったということだったので、それならまずくてもおかしくはないと判断し、葬式の返しでもらう茶は基本的にぜんぜんうまくない、たまに例外があるが、基本的にはぜんぜんうまくない、と糾弾した。それで図書館に行くついでに「(……)」まで出向いて茶を買ってこようとおもったのだが、この茶屋は祖母など生前たぶんよく買っていたはずで、六〇〇円でも味が濃くて充実しておりわりとうまい茶があるということを知っている。図書館に行くのは新着などでなにかめぼしい本がはいっていないかひさしぶりに確認しておきたいという動機もあったが、いま読んでいるミシェル・ピカール『遊びとしての読書』がたいしておもしろくないので、いったんそれを中断してもう図書館でなにか借りてしまい、ガンガン読んでいこうとおもったのだった。さらに(……)でちゃんぽん麺を食いたいという欲求もあった。
  • それで外出までは「読みかえし」を読んだりミシェル・ピカールを読んだり、母親が洗ってくれたシーツを寝床に取りつけて整えたりなど。あとはストレッチもしっかりおこない、三時にアイロン掛けをすませてしまおうと上階に上がった。南窓の先はいくらか光度が減じたとはいえまだあかるさが満ちており、路上では日なたと蔭とが互いにななめに切りこみあって勢力をあらそっている。風はすこしもないようで、窓ガラスの下方に見られる梅の木のもう裸になった梢はぴたりと止まって鳥のおとずれすらなかったし、シュロの緑葉もその指先を揺らさずにしずまっていた。居間に人間はおらず、いまはうごいていないストーブのまえに洗濯物が小山をなして乱雑に放置されたままだった。アイロンを終えたらそれもたたもうとおもっていると、たぶん家のまえの掃き掃除をしていたらしくそとに出ていた母親がはいってきてたたみはじめた。腹を空かせた状態で外出してちゃんぽんを食い、茶屋まで腹ごなし的に歩いていき、もどってきて図書館を見ようという計画を立てていたが、しかしすでにあまりにも空腹で耐えられなかったので、バナナでも一本食ってちゃんぽんはあとまわしにしようともくろんでいると、昼に煮込んだ蕎麦ののこりがすこしだけあるというのでそれをいただくことにして、アイロン掛けをいったん中断して鍋を熱し、丼半分くらいの量をそそいで卓で食べた。それからまたアイロン掛けをおこない、米ももうなかったので新たに磨いでセットしておくだけはやり、もどるとここでようやくきょうのことを綴ったが細木数子Wikipediaなど見てしまったために二段落目を書いたところまでで時間が尽きた。身支度をする。歯を磨き、服を着替え、モッズコートを羽織り、リュックサックを持ってうえへ。四時一〇分くらいだった。母親もすでに外出の支度をすませて発てる状態だったので、赤い靴下を履き、ハンカチを尻のポケットにおさめて、父親に行ってくると告げてそとへ。四時を過ぎるとさすがに家のまえの道路にもはやひかりの色はなくなって林のつくりだす蔭があたりを占めていくらかさむざむとした雰囲気である。母親が車の用意をしているあいだにポストから新聞などを取って、一回鍵を閉めた玄関をあけなおしてなかに入れておき、道に出た車の後部座席に乗車。出発。母親は、きのう犬を連れた婦人が見ていたとおもわれる、(……)さんの宅跡の敷地に立っているイチョウについて、イチョウがすごいきれい、もう黄色くなってて、と言った。きのうあそこで、なんつうの? あの、なんか、家建てるまえにやるじゃん、祈りみたいな、と言うと、地鎮祭? という語が返ったので(母親は「じしんさい」と発音していたが)、地鎮祭やってたよ、なんかちいさい台みたいなの組んで、と知らせた。地鎮祭という語じたいは知っていたが、「祭」という語からもっと大規模にやるものだとおもっていたというか(たぶん、地鎮祭訴訟の漠然としたイメージもそれに影響していたのではないか)、あんなに小さくても地鎮祭と言って良いのかという疑問があってあれは地鎮祭なのだろうかと決めかねていたのだが、あのレベルでも地鎮祭と言って良いようだ。まあ、祭りの本義とは神に祈ること、祀ること、たてまつることなのだろうし。街道に出て走っていると、なぜか意外と道が混んでいてたびたび車のならびのなかに止まることになり、そうすると退屈をおぼえたのだが、それは顔の横の窓に覆いがかけられてあってそとのようすが見えないからで、それをはずして薄水色の空が見えるようにすればそれだけでもう退屈はしなくなる。そうして図書館の分館へ。駐車場に停まり、母親が本を受け取ってくるあいだひさしぶりに手帳にメモを取ろうとおもってモッズコートのポケットから取り出して、二項目ほど情報を書きつけたものの、すぐに面倒臭くなったというか、わざわざ書かないであたまのなかで記憶を振り返っておけばそれでいいのではないかというかんがえになって、目をつぶって水曜日のことや月曜日の通話中のことを反芻した。これはむかしわりとやっていたことで、いぜんはマジで一日のことをなるべく全部書くという強迫観念に憑かれていたので、おそらく二〇一五年頃だったとおもうが、一時期は毎晩寝るまえに寝床でその日の起床時からのことをできるかぎりこまかく想起するということを習慣にしており、一時間か二時間ねむれずにそれをおこなってからようやく寝つく、みたいなこともたまにあった。それをまたやってもいいかもしれないな、とおもった。じっさい手書きにしろパソコンに打つにしろメモを取るというのは面倒臭いのだが、じぶんのあたまをもうそのままメモにしてしまえばそれがいちばん楽なわけで、毎日寝るまえにやるまではしないとしても、おりおりの空き時間とか、風呂にはいっているときとかに多少想起の方向にあたまをまわしても悪くはない。過去の経験から実感しているが、じっさいいちど記憶をなぞっておくだけでことがらは格段におもいだしやすくなる。記憶力とは要するになにかをおぼえこむちからのことではなく、おもいだすちからのことであって、ひとがものごとをおもいだすにあたって有効な方策など反芻の一事いがいにありはしない。ものをすぐにおぼえてしまえるひとというのは、単純なあたまの能力とか意識の明晰さとかもあるにはあるだろうが、たぶん自覚的にか無自覚にか、瞬間的な反芻を高速で何度もしていたり、ちょっと時間が経ったあとにおもいだしたりしているのではないかとおもう。こちらのような人種が道をあるいていて見聞きしたことをその場であたまのなかで書いているのもそういうことで、いまはもうわざわざ能動的に全部おぼえておこうなどとはおもわないし面倒臭いので意識的にはやらないが、道をあるいていてなにか印象深いものに触れたさいにはやはりその場で勝手に言語化の機能がはたらくし、そこを過ぎても自動的に、また断続的に反芻がつづくことは多く、ずっと歩いていった先でふとまたおもいだしたり、また意味論的に見ておなじようなテーマの事物に出くわしたときにおのずと想起されることはままある(要するに、たとえばサルスベリの花を見てあそこのサルスベリはああだったなと思い返されたり、植物というテーマをつうじてべつの木や花のことが蘇ってきたり、たとえばなにか黄色いものを見てあそこのイチョウがあざやかに黄葉していたということがおもいだされるとかそういうことだ)。そういう想起の能力を意図的に訓練する方法として一日の終わりにその一日のことを覚醒時から順番にできるかぎりこまかく(見たものの視覚的イメージや、そこでじぶんがなにを感じかんがえたか、どういう印象を持ったか、こちらのばあいにはそのものをどう言語化し、どういった比喩であらわしたか、などもふくむが、とうぜんながら得た印象をその場で十全に言語化するなどできるわけがないので、のちほど文を書くときにあのときこういう印象の手触りを受けたなというその感覚をおもいだしながら、その感覚をうまくあらわすことばづかいを探すということはこちらにあっても他人にあってもふつうに多くおこなわれることで、というか体験を書くということはたぶんすべてそうなのだが、その想起された印象というのはその場で得た印象とはおそらくもうずれており、だから二次的な、ある種フィクショナルなものになっているのだけれど、ことばはそれを志向しながら組み立てられ、生成され、だから印象もそれを通して事後的に再生成されて座を占めることになる)おもいだしていくというのはとうぜんながらまあふつうに有効で、これを習慣化すればふつうに記憶力は上がるとおもう。
  • 母親はすぐにもどってきた。ふたたび出発。はしっているあいだもきのうのことなどおもいだそうとしたが、しずかでうごきのない状態でないとあたまが多方向の知覚や情報に引かれるのでなかなかやりづらい。車内にはラジオがかかっており、さいしょ、千葉県の津田沼高校の生徒がおのおのじぶんの夢を語ってパーソナリティがそれを応援するみたいなコーナーをやっていたが、そのうちに母親が番組を変え、(……)の踏切にさしかかるころには音楽がながれ、ハンマリングとプリングをちょっとからめた感じのすばやいギターリフがイントロとなっているややハードロック風味のそれはどことなく聞き覚えがあるような印象で、なつかしいような往年の雰囲気を持っており、あとSIAM SHADEの"1/3の純情な感情"にちょっと似ているような気もしたが、曲がはじまってちょっとすると母親が、これ吉川晃司? と言った。吉川晃司などまったく聞いたことがないのでわからず、判断がつかなかったが、まあそういうなまえが出たのはイメージとしてわからないでもない。ただこちらは、それかBOOWYじゃない? 氷室京介じゃない? と返して、これもボーカルの声とかギターの感じから受けたなんとなくのイメージによる当てずっぽうでそもそもBOOWYだって聞いたことはないのだが、サビにいたると鏡のなかのマリオネット、と歌われて、あ、マジじゃん、これやっぱBOOWYじゃんと判明し、じぶんでちょっとおどろいた。というかなぜこの曲がBOOWYのものだと知っているのか、それじたいじぶんで不思議なのだけれど、どこかで聞き知ったらしい。あとほかにも"ONLY YOU"だけはわかる。
  • 図書館につくまでは母親がなんやかやとはなすのにあまり反応をせず、聞き流しつつ目を閉じている時間が多かった。図書館に行くまえに、「(……)」で餃子を買いたいというので路肩に停めた車のなかで待ち、母親がすぐにもどってくると礼を言ってそこで降り、図書館に向かった。時刻は五時直前くらいだったはずで、西空の果てにもう希薄なオレンジ色がたゆたって、天上から放射状にひらき降って空間をかこむ淡青色に追いやられていた。図書館のビルのほうへ渡る横断歩道が青だったが急ぐのが面倒臭かったのであゆみをはやめず、その手前で(……)の脇にある階段をのぼって高架歩廊に踏み出し、そこを渡って図書館にはいった。もう入館時間を記録したりということはおこなわれていないが、入り口と出口は左右に分けられている。はいると足で踏むタイプの装置で手を消毒した。あとで退館の際にまた消毒したときに気づいたのだが、アルコールを足で踏んで出すタイプの消毒装置が多いのは、手で容器を押して出すと消毒前の手がたくさん触れることになり、しかも容器自体は意図しなければ消毒されないから、そこから感染がひろがる可能性を危惧してのことなのだろう。めちゃくちゃいまさらのことだとおもうが、いままでその点についてまったくかんがえたことがなかった。ただ足で踏む装置があるという認識でしかなく、その意味をかんがえたりとか、そこに疑問をおぼえたりすることがいちどもなかった。手の菌を殺してフロアをすすむと、いちおう文芸誌を表紙くらいは見ておくかというわけで左に折れ、瞥見。興味を惹かれる雑誌はない。唯一の例外は『現代詩手帖』であり、「ミャンマー詩は抵抗する」だったか、現代のミャンマー詩人の特集が組まれていたのと、また松本圭二のなまえが見えたのでそれで手に取った。松本圭二の新しい詩は「ジュライ・シンドローム」だったか、そんなタイトルだったとおもう(とおもっていま検索したが、「ジュライ・ラプソディー」のまちがいだった)。いくつかの篇による連作のようだった。それからいちおうCD棚のジャズの区画も、なにかまだ知らない目新しいなまえがないか見ておくかというわけで見分したが、とりたてたものはなし。そうして上階へ。
  • 新着図書。Bill Evansの晩年の恋人だったとかいう女性が書いた回想録的な本や、なんとかいう染色家の『失われた色を求めて』という本などを手に取って見る。また、KADOKAWAから出たルイーズ・グリュックの詩集のはじめての邦訳もあり、ひらいてみるとわりと良さそうだったのであとで借りてもいいなとおもわれた。装丁やデザインもけっこう良さげで、KADOKAWAって売れ線の本しか出していないイメージなのだが、こんな本出すんだなとおもった。まあ、ノーベル文学賞をとっているわけなので、これも売れ線といえばそうなのかもしれないが。ほか、中公新書の新刊として出た武井彩佳『歴史修正主義』があり、これは読むべき本だとおもわれる。武井彩佳というひとはホロコーストとかドイツユダヤ人とか、ホロコーストの記憶が戦後ドイツでどのように扱われたか、継承されたか、問題化されたかとか、想起の文化方面の研究とかをやっているひとだったはずで、それはこちらの興味関心から言ってきわめて重要な研究である。新着の見分を終えると哲学のほうへ。目新しいものはあまりない。ながめていていま借りて読みたいという気になるのは熊野純彦『カント 美と倫理とのはざまで』くらい。とくに、目次を見てみると、第八章のタイトルが「音楽とは一箇の「災厄」である」となっていて、これはたぶんカントのことばなのだとおもうが、格好良すぎない? とおもった。しかしいまその章の内容をちょっと覗いてみたところ、これはどうも肯定的な意味でもちいられた表現ではないようだ。カントからの引用として、「音楽には、高雅なありかたという点で、ある種の欠陥がつきまとっている。すなわち音楽は、とりわけその楽器の性状からして、求められる以上の影響を(近隣に)ひろげ、そのことでいわば押しつけがましいものとなり、かくてまた音楽会につどった者たち以外の他者たちの自由を毀損してしまう」ということばが見られるし(193)、おなじ引用内でカントはさらに、説明を嗅覚の比喩へと横滑りさせ、音楽のそうした防ぎがたい音響の「押しつけ」を、香水をふくんだハンカチによってひろがりそれをもとめない人間を「その意思に反して苦しめる」においになぞらえている。それを受けて熊野純彦は、「そのとき、音楽はひとつの災厄(Übel)となる。あるいは悪しきもの [ユーベル] となるのである。音楽が享受の一種であるかぎり、それは「たえまなく変化してゆく必要があり、くりかえし反復されるなら退屈を生まずにはおかない」(328)。ことが享受にかかわっているならば、反復とは退屈の別名であり、それはやがて「吐き気を催させる anekelnd」(326)ものとなる」と書いているので(194)、ここを読むかぎりではカントが音楽という芸術にくだしている評価は最底辺のものだとおもわれる。「音楽とは一箇の「災厄」である」という表現は、鮮烈な比喩だとおもったのに。はなしをもどすと哲学の棚でほかに気になったのは、斎藤慶典が東洋の論理みたいなものもしくは井筒俊彦について書いた選書がひとつ。あとはまえまえから気になっているものたちで、アガンベンの『哲学とはなにか』とか、ダン・ザハヴィの著作ふたつとか。
  • 哲学の区画を見終えるとその棚の反対側、フロアの一番端の通路にはいったのだが、それはサイードの『人文学と批評の使命』を再読したいような気がしていたからで、図書館のジャンル整理におけるいちばんさいしょ、すなわち全棚のはじまりの位置にある「総記」という区分にあたるこの場所(学問とは、知とは、みたいなおおきくて全般的な問題をあつかったり、教養主義とか人文学の復活みたいなことをとなえるたぐいの本がある)にいぜんこの本があって借りて読んだのだけれど、残念ながらもうなくなっていた。この著作はたしか岩波現代文庫にはいっていたはずなので、買っても良いといえば良い。山本貴光の『「百学連環」を読む』という書もここにあって、この本は出た当時くらいからけっこう気になっていたのだが、「百学連環」というのは西周のテクストで、この著作はタイトルどおりそれをじっくり丁寧に読んだものらしい。あらためてひらいて諸所を見てみると、全文を著者が訳して、みじかく区切りながら注釈や補足や考察を付してこまかく解説していく趣向のようだった。こういうしごとをじぶんもいつかやりたいなとおもった。あとでちゃんぽんを食っているときにもそのあたりかんがえたが、やるとしたらやっぱりTo The Lighthouseかなと。じぶんで翻訳しながら、本文からわかること、気づいたことを詳しく記すとともに、どうしてその訳、そういうことばづかいにしたのかなどを解説するというような。ひとが(ひとが、というか、一例としてのじぶんが、ということだが)ことばを読み、翻訳して文を書くというときに、あたまのなかでなにをかんがえているのか、そこでなにが発生しているのかを詳細に記述する実践としての読みというか。それはともかく、総記のところを見たあとはフロア壁際の新書を冷やかした。そこで気づいたのだが、窓際の学習席の利用はもう半分解禁になったらしく、座っているひとがけっこういた。それから政治学あたりを瞥見したあと、文芸のほうへフロアを渡る。瀬戸内寂聴が亡くなったので棚の側面にその特集がもうけられていた。とりあえずエッセイのさいごのほう、日記・紀行といちおうわりふられている区画を見るが、日記らしい日記はあまりない。そこから推移して漢詩のあたりを見たり(一休宗純の『狂雲集』とかちょっと気になる)、中国文学を見たり(閻連科と残雪)、英米にはいったり。ウルフの『波』は借りられているのか棚になく、平凡社ライブラリーで出ている『幕間』はあって、これを借りても良いなとおもっていたがけっきょくそうはしなかった。ここでたしか、ドナルド・キーンのことをおもいだしたというか、なんとなく日記を読みたいような気持ちがあったのだが、それで彼の『百代の過客』のことをおもいだし、これは日本人の日記文献をいろいろとりあげて論じたものらしいのだけれど、『ドナルド・キーン著作集』が批評あたりの棚にたしかそろっていたはずと想起して、そちらへ移動した。じっさいずらりとすべて揃っていて、さいしょの一巻をとってうしろのほうを見ると『百代の過客』は二巻三巻に収録されていることがわかり(三巻は近世や近代以降)、両方とも手にとって見てみたが、おもいのほかにピンとこないというか読むならやはり論より一次テクストかなという気もされて、今回は見送ることに。そのうち読みたい。それで海外文学のほうにもどり、ドイツ、フランス、ラテンアメリカ、イタリア、ロシアと順番にさらっていき、ユルスナールを読むか? とか、ガルシア=マルケスの『生きて、語り伝える』をまた読むか? とかおもいつつも通過して、棚のいちばん端のいちばん下にあるギリシャローマのところまで来て、中井久夫が編訳したリッツォスの詩集も棚に出ているうちに読まなくてはとおもいつつちょっとひらいたのみでもどし、最下段の端までくると国書刊行会が比較的さいきんに出したマヤ文学の作品が二冊あって、たぶん両方ともおなじ著者だったとおもうのだが、ひらいて見てみるとおもしろそうでこれを借りて読むかという気持ちに自然となった。ホルヘ・ミゲル・ココム・ペッチ/吉田栄人 [しげと] 『言葉の守り人』というやつ。もう一冊は、この本のいちばんうしろの「新しいマヤの文学」全三冊の広告ページを見るに、イサアク・エサウ・カリージョ・カン/アナ・パトリシア・マルティネス・フチン『夜の舞・解毒草』というやつだ。おなじ著者ではなかった。
  • それから振り返って、文庫棚。哲学をちょっと見て、宗教、政治、と瞥見しながら移行し、文学まで来るとそのあと日本の実作の区画にははいらず、単行本のほうへ。放っておくと日本の作家の作品をほんとうにぜんぜん読まないので、なにか現役のひとのやつを借りて読もうとおもっていたのだ。文芸誌に載ったのを単行本にしたやつならわりとすぐ読める分量のものも多いし。それであ行の区画から見ていったのだけれど、しかしいざこうして見分してみても、正直なかなか借りて読もうという気持ちが起こってこない。このときはスルーしてしまったが、いしいしんじとか、新聞の人生相談欄の回答を見るといつもけっこう良い感じのことを言っているし、口調も独特なので、もしかしたらおもしろいのかもしれない。蓮實重彦が『伯爵夫人』で三島由紀夫賞をあたえられたときにも、わたくしとしてはいしいしんじさんが受賞なさるのが順当だったとおもっておりますが、とか言っていたおぼえがある。金井美恵子もむろん読みたいは読みたいが、家に何冊かあるしなあとおもい(『目白雑録』シリーズがいぜんは何冊かあったはずなのだが見られなくなっており、『スタア誕生』と『カストロの尻』とあと一冊なにかの三冊しかないようだった――『カストロの尻』はむかし読んだことがある、というか金井美恵子の小説作品でじっさいに読んだことがあるのはまだそれだけだったような気がする)、川上弘美なんかも評判はいいがどうも手をのばす気にならず、黒川創も手に取ってはみたものの借りるほどの気は起きず、どうしようかなとおもいながら推移していって、坂口恭平の名を見たところで坂口恭平はいいんじゃないかとおもった。それで三冊あったのを見分し、『家の中で迷子』と『建設現場』と、あと『家族の哲学』とかいう文言がタイトルにふくまれている一冊があったのだが、『家の中で迷子』がなんとなくいちばん気になったのでこれを借りることに。表紙の写真も良い。
  • これでだいたい借りるものは出揃った感があった。すなわち、ルイーズ・グリュック『野生のアイリス』、熊野純彦『カント 美と倫理のはざまで』、ホルヘ・ミゲル・ココム・ペッチ/吉田栄人『言葉の守り人』、坂口恭平『家の中で迷子』。それで通路を出たところで、あと蓮實重彦の『「私小説」を読む』があったはずだからこれもこの機会に借りて読んでおこうかなとおもい、文庫のほうへもどった。この講談社文芸文庫の本はむかしいちど読んだはずだが、そのときはあまりわからなかったはずだし、とちゅうで挫折もしくは中断したような記憶もかすかにないではない。先ほど日本文学のところを見たときに目に留まらなかったので、もしかしてもうなくなっているかとおもったが無事発見されたのでそれを保持し、そうして哲学のところで熊野純彦を、新着棚からグリュックを回収して貸出機に寄り、手続きをした。付属のペンで画面をタッチしていると男性がひとりやってきて機械の横で番を待ちはじめたので、手続きの終わった五冊をつかんで会釈しながらはなれ、リュックサックに本を入れると、来たときにもむろん視界に入れていたが「古典の日」特集とかいう台が組まれてあり、そこにアーサー・ウェイリー訳『源氏物語』をさらに日本語に訳しかえした全四巻が置かれてあったのですこしだけ手にとって見た。これも読みたいとはおもっている。クリムトの絵を活用したきらびやかなデザインも、ちょっとけばけばしすぎるといえばそうかもしれないが、これにかんしてはうまくはまっているような気がする。
  • そうして退館へ。フロアをくだり、出口へとだらだら歩き、とちゅうで雑誌の区画の端にふっと寄って『現代思想』と『思想』のバックナンバーをちょっと見分しておいた。『現代思想』はさいきんマックス・ウェーバー特集をやっていたようだ。主に見たのは『思想』のほうで、棚の下に積まれてあるバックナンバーを取って各号の表紙をながめ、寄稿者名や論考名を確認したが、どこかの号に中島隆博の名があった。ほか、知っている名も知らない名も。後者のほうがやや多いような印象。知っている名といっても、じっさいにその文章を読んだことがないひとが大半だったはず。
  • 退館すると道に下りる。階段で若い女性ふたりとすれ違い、なんとなく中国人だろうかという気配をおぼえたが、べつにそんなことはなかったかもしれない。下の道に下り立つとバーガーかなにか食いながらあるいている高校生くらいの男子ふたりがあらわれて、彼らとすれ違って表に出ると通りを北へ。駅から発してまっすぐ伸びたいちおう目抜き通りというべき筋にあたるのだとはおもうが、田舎町のことでそんなレベルには達していない。あるきはじめてすぐの道端に女性がひとり、待ち合わせにはずいぶん半端な場所だが誰かを待つ雰囲気でたたずんでいた。クレープ屋のまえでは眼鏡をかけた地味な男性が品ができるのを待っている。すすんでいって横断歩道にかかると、向かいの角に「(……)」とかいうジムができていて、ここはたしかまえはゲームセンターがあった場所だったとおもうのだが。いままで生きてきてゲーセンであそんだことはほとんどない。したがって、レバーをガチャガチャ操作してうごかすアーケードゲームというものをやったこともほぼない。ここにあったゲームセンターも、小学生か中学生のときにいちどか二度行ったのみだったとおもう。しかしゲーセンによくあそびに行っていた子どもは、もしかしたらああいうところで世の猥雑さというものを多少知ったのかもしれない。いきがったヤンキーに絡まれてカツアゲされたりということもたまにあったようだし、脱衣麻雀をやっているおっさんがいたりとか、競馬を模して金もしくはコインを賭けるゲームなんかもあったはずだから。そこを過ぎてまっすぐ北上。田舎町とはいえこのあたりはおもてで車もつねに通るし、道路の左右にある建物は人家ではなく主にさまざまな店のたぐいで街灯も多く、午後六時の夜空はひかりの裏で黒々と色を深め、そこに見えるのは貼りついている半月だけで、星は地上から宙にひろがるあかるみによってかき消されている。街道にぶつかってさらに渡り、もうすこし北にすすんで茶屋へ。入り口に置かれていたスプレーを手にかけ、入店。右手、レジのほうにふたりがはいっており、左手では箱を開けて商品を整理しているようなようすの女性がひとり、レジのほうもふたりとも女性だがこちらのほうが若く、左手の女性は中年いじょうだった。はいってすぐ目の前に茶がそろえられており、ちょっとあたりを見回ったあと、そこから八〇〇円の品と一二〇〇円の品を取り、和菓子なんかも売られてあるので少々見たがとくに買おうとはおもわなかったので会計。会計をしてくれた女性は若いほうのひとりで、若いといってよほど若くて高校生くらいと見えたからバイトではないか。ものを買って出ると道をひきかえし、すぐちかくにあったスーパー「(……)」にはいったのはさいきんまた音読をよくするようになったし、職場でもしゃべるわけなので、龍角散のど飴を買っておきたかったからだ。はいって籠は持たずに通路を行き、区画を見つけてのど飴をゲットすると、夜食用にパンでも買っておくかということでそちらへ移動し、チョココロネと「ランチパック」の卵のやつを取って会計へ。間隔をあけてならぶ。品を持ったままなにをするでもなくあたりに置いてあるものを見たり、レジのスタッフのうごきを見たりしながらしばらく待って会計。五〇一円。礼を言って品物を受け取り、台にうつるとリュックサックに入れてなかをちょっと整理し、退店へ。このときにすれ違った店員の女性が(……)さんのように見えたのだが、もしかしたらここでバイトしているのかもしれない。そとに出ると駅のほうへと引き返していき、街道にまたぶつかるところで信号は青だったが面倒臭いのでいそがず見送り、先に横方向に通りをわたって縦の通過に許可が出るのを待った。ここはいちおう街道で幹線といって良いのかわからないが車はひっきりなしに目の前をとおりすぎていき、風切り音と道路をこするタイヤの音がなかなかさわがしい。横方向に渡ってきたときの目の前、角には「(……)」という安いラーメン屋のたぐいがあり、その店舗の脇の駐輪スペースにひとり男性が自転車を停めたところだったが、そのスペースが建物に比してあまりにもちいさくて三台か四台くらいしかはいらなそうだったので、ここは従業員用の場所なのか? とおもったくらいだが、たぶんあの男性は客だったとおもう。店内はまあたいしてひとがはいっていないが、女性の二人連れなんかがあかるい顔で談笑している。南に向かって街道を渡るとそのまままっすぐあるいていき、(……)の横まで来たところでなかにはいってフードコートへ。フードコートといっても名ばかりのじつにちいさな室ではあるが、はいってすぐ、手前のほうには高校生くらいの男女がテーブルやカウンターにけっこうあつまっており、駄弁るなり勉強するなりしていたようだ。そこから正面にすすめば右に折れるかたちでフロアはL字型をなしており、折れた先のほうは二人席のテーブルが主でひともほぼいなかったのでそちらに座ることにして、(……)でちゃんぽんを注文。半チャーハンをつけた。それで席につくとさきほど借りた蓮實重彦『「私小説」を読む』の冒頭をちょっと読みながら飯ができるのを待ち、もらっていた呼び出し用のベルが卓上で振動してガタガタ音を立てると(唐突におおきな音が立ったのでちょっとびくっとなった)品物を受け取りに行き、着席してコートを脱ぎ、腕時計とマスクをはずすと食事。まわりを見るとスマートフォンを見ながらものを食っているひともけっこういて、いまわりとそういうひとがおおいとおもうが、じぶんもむかしは飯を食うときに携帯を片手にしていて(しかしそこでいったいなにを見ていたのかまったくおもいだせないのだが)、祖母にきちんと食べな、味がわからなくなる、みたいにたびたびたしなめられたなとおもいだした。いまになればわかるが、たしかに飯を食うときは飯を食うことに集中したほうが良い。とはいえ、家では携帯のかわりにいまは新聞を読むことが多いし、このときのようにそとで食っても、たとえば上記したTo The Lighthouseのことをかんがえたりしていて、そんなに口内の味に集中しているわけではなかったが。
  • 食べ終えるとちょっとだけ息をついてさっさとその場をあとにする。返却棚に返却して礼を言って去り、通路に出るとトイレに行った。用を足し、やたらと泡立つ石鹸水で手をよく洗い、ハンカチで水気を拭きながら通路をあるいていくと(フードコートを出た目の前あたりになにか時計のベルトとかなのか小間物をなおすみたいな店がひとつあるのだけれど、そこの番をしているおっさんは客がぜんぜんこないのだろう、いつもサボっているというか、カウンターに突っ伏して寝たりしているし、この日は顔をうつむかせてやや身をかがめながらカウンターの下を見ていたが、たぶんあれはそとから見えないように携帯をいじっていたのではないか)、出口のそばにペット保険の広告が立っていたのだがそれをじっと見つめているサラリーマン風の中年男性がいた。その横からそとに出て、通りをわたって駅へ。ロータリーを回っていき、警官がふたり入り口にならんで立ってはなしながらロータリーのほうを見ている交番のあたりまで来ると(……)行きが来るというアナウンスが駅内に聞こえ、だからここで急げばふつうに間に合ったのだが急ぐのがいやなので足をはやめずに階段をのろのろのぼり、改札を抜けてエスカレーターに乗ると(……)行きから降りてきたひとびとがぞろぞろ反対側をのぼってきた。そのむこうで電車が発つにまかせ、ホームに降り立つと先のほうへ。ベンチの端がさいしょは埋まっていたのだが、タイミング良くすわっていたひとがひとり立ったのでそこにはいり、本を読もうかとおもったがそういう気にもならなかったので目を閉じて電車が来るのを待ち、着くと乗って同様に瞑目。(……)へ。乗り換えても目をつぶってこの日のことかきのうのことかを思い返していたのだが、意識がやたら明晰になっており、これはかえってすこしあやういかもなと予感していたところ、電車が発車するとじっさい緊張というかそうとうひさしぶりに小発作めいたことになり、身のうちで熱と動悸と不安が高まってドクドク言い出して、それにはそこそこボリュームのある飯を食ったばかりで腹が重くなっていることも寄与していたとおもうのだが(要するに嘔吐恐怖がすこしだけあったとおもうのだが)、ひさしぶりにその場から逃げ出したいというくらいの気持ちをかんじて目を閉じたままじっとしていることもやや困難で、座席の端についている手すりをつかんで姿勢を変えたり目をちょっとひらいては閉じたりしていたのだけれど(目をつぶったままでいると身中の不安と変化にまともに向き合わなければならないからだが、目をひらいて外界の視覚情報がはいってくればそれはそれでまたすこし緊張する)、けっきょく覚悟を決めたというかそこまでのことではないが瞑目のままじっとやりすごしていると、たしかに不安は高くなっていて逃げたいかんじもあるし動悸もつよく打ってはいるのだけれど、その不安がからだの厚い輪郭線にとりかこまれてしっかりそのなかに抑えられ(ガードされ)、多少あばれてはいるが枠内でうごめいているだけでそこから溢れ出てくる気配はなさそうだと判断されて、それで落ち着き、まもなくほぼ平常に復した。発作めいたことになりながらもそれが明晰に対象化されてガードされるというこれはいままで経験したことがなかった感覚で、というか経験したことじたいはあるのかもしれないがいままでになくガードが強固だったので経験したことがないような種とかんじられて不思議だった。俺のからだもここまで来たか、とおもった。
  • それで最寄り駅に降りるころにはなにごともなくなっていた。帰路をたどり、家のある通りまで来るとここはひかりがすくないし頭上もひろいから空があまりみだされることなく銅板めいた青さがあらわに見て取られ、弦のなかほどあたりがすこしへこんで暗んでいるためにまさしく半円型のかんざしのように見える半月や、方々に散っておのおののリズムでかすかに身じろぎしまたたいている星々らもあきらかに映っていた。帰ると手を洗って部屋に帰り、借りてきた蓮實重彦『「私小説」を読む』(講談社文芸文庫、二〇一四年/中央公論社、一九八五年)を読んだのではなかったか。そのあとのことはもう記憶にのこっていない。一一月八日の日記をしあげて投稿することはした。翌九日ももうできていたので投稿し、一〇日の水曜日はこの日はまだ完成しなかったのだったか。

2021/11/10, Wed.

 雨の夕べの暗くなる前の
 そのしげみの様子はどうだ。若く、清く、
 蔓を惜しげもなくふりまきながらも、
 ばらであるということに思いをひそめる、

 低きに咲く花は、もうそこここで開いているが、
 どれも望まれず、手入れもされず、
 このように、いつまでも自らに凌駕されつつ、
 言いようもなく内から焦立ちつつ

 そのしげみは、夕べの物思いに
 ふけりながら道を行く旅人に呼びかける。
 おおわたしのさまを見よ、わたしがどんなに安全で、
 しかも守られていないかを、どんなに自分に役立つものを持つかを。

 (神品芳夫訳『リルケ詩集』(土曜美術社出版販売/新・世界現代史文庫10、二〇〇九年)、194; 「野ばらのしげみ」; 一九二四年六月一日、ミュゾットの館にて成立; カール・クローロウ「新しい解釈の時が始まるだろう ――リルケの創造的ためらい――」より)



  • 七時から九時ぐらいにかけて一度か二度覚めたおぼえがある。そのそれぞれについて夢を見たし、一〇時に正式に覚めたときにも夢を見ていた記憶があるが、おぼえているのはそのうちのひとつのみじかい場面のみ。職場の奥のほうではたらいていると(……)さんが入り口のほうから呼んできて、いそいで行ってみると授業の日程変更をしたいという保護者がいたのだが、そのひと(たぶん女性だったとおもう)がヘッドロックみたいなかんじでこちらのあたまをかかえて絞めてきた。それで解放されると抗議し、そのひとを叱りつけたという場面。ほかにふたり、やはりおとながいてその三人はおなじ家族だったようだが、あとのふたりはなにもしていないから良いとしても、あなたの行為はたいへん不愉快です、みたいなかんじで至極慇懃な口調ながら厳しく糾弾していた。いまじぶんは授業中なので生徒を待たせてここに来ているのだ、それなのに余計な時間をつかわせないでほしい、みたいなことも言っていた。その抗議の語調がじつに滔々たるというか、非常になめらかでいかにも弁じている、という調子だったので、目覚めたあとに、俺こんなにうまくしゃべれないぞとおもった。
  • 一〇時で目覚めがさだまった。九時くらいだかに覚めたときにはまだ雲が空を多く占めていて、陽のひかりもないではないもののおおかた雲に吸収されて淡かったのだが、一〇時にいたると空の半分は青く露出しており、太陽はちょうど雲の縁をなぞるように浮かんでときにあかるみときにつつしみとせめぎあい、その後、雲が去っていって青が勝利すると陽の色が染みた晴れの日がおとずれた。一〇時半まで喉やこめかみや頭蓋を揉むなどして床にとどまり、起きて水場に行ってくると瞑想をした。三〇分ほど。きのうはサボったがきょうはきちんと座って止まることができて上々である。空気にはまったく冷たさがなく、風の音も立たず、窓のほそい隙間からはいってくるながれもない。
  • 上階へ。母親はそろそろ出ると。洗面所で髪を梳かして食事。きのうのアジフライが半分のこっているのでそれをあたため、ほかは鍋と白米。新聞は国際面を主に見る。ベラルーシから四〇〇〇人ほどの難民がポーランドとの国境に集結しており、ポーランド側が動員した一万二〇〇〇人だかの部隊とにらみ合いになり、一部小競り合いが起こったという。難民はおおむねイラクなどの中東やアフリカの出身と見られるらしいが、ポーランド側の言い分によれば難民らの後方にベラルーシ当局の人間と見られるすがたがあり、ベラルーシEUに嫌がらせ的な反抗をしかけるために移民難民を動員したのではないかとのこと。六月にEU内を航行していた飛行機を強制的に着陸させて乗っていたジャーナリストを拘束するみたいな事件があってからEUベラルーシに制裁を課しており、対立していて、今回の件もEU側はもちろん非難して追加制裁もにおわせている。
  • そのEU諸国では一年前と同様にコロナウイルスの感染者がまた拡大しているといい、ドイツでは五日に一日あたりの感染者が三万七一二〇人をかぞえて過去最多を記録し、イギリスでもさいきんは連日五万人いじょうの規模で高どまりしているらしい。日本は東京でもきのうが三〇人くらいでわりと安心だが、それでも微妙ながらまた増えてはいるわけで、たしか外国人の入国もつい先日解禁されていたはずだから、またそのうち拡大するのではないか。欧州での感染拡大はワクチン未接種の若年層が中心となっているもようで、おなじく未接種の高齢者が亡くなる事態も多く発生しているよう。WHOはまたEUが世界的な感染拡大の中心になりかねないと警告し、マスクの着用をもとめ、ロックダウンにならないよう社会規制を徹底するべきだと声明を発表していると。
  • ほか、パレスチナの人権活動家六人のスマートフォンイスラエル企業が開発したハッキングソフト「ペガサス」によってハッキングされていたことが判明したと。パレスチナで活動する六団体の七〇人ほどの携帯を調査したところ、六台にハッキングの形跡があったと。「ペガサス」はNSOグループという企業がつくってテロ対策を名目に各国に輸出されているのだが、ただイスラエルの電話番号をハックすることだけはできない仕様になっているらしく、ところが今回侵入が発覚した携帯のうち数台はイスラエルの番号を持ったものだったわけで、となれば唯一規制の枠外にあるイスラエル政府が下手人であるのはまちがいないと。ハックするとマシンを遠隔操作してメールの情報を抜き取ったり、電話を傍受したりできるらしい。
  • あと菅沼孝三の訃報があった。六二歳くらいだったはずで、まだ若い。母親がもう出るといって勤務に向かったので彼女の分もあわせて食器を洗い、風呂も掃除。出ると自室にもどってきてコンピューターを用意し、きょうのことをここまで記述。すると一二時半。きょうは三時には出なければならない。日記はおとといのことが記せていないが、まあ帰宅後でも悪くはない。
  • 「読みかえし」ノートを読んだ。一時をまわると書見。ミシェル・ピカール/及川馥・内藤雅文訳『遊びとしての読書 文学を読む楽しみ』(法政大学出版局/叢書・ウニベルシタス667、二〇〇〇年)。一時半で洗濯物を取りこみに。居間にあがると父親はソファで座布団を胸に抱きながらまどろんでいた。ベランダにつづく戸をあけると生き生きとした陽射しが非常にまぶしく、目の前をつつみこんで埋め尽くす。しかし洗濯物はといえば文句なしに乾いたというほどではなく、とくにバスタオルが湿り気味だったので、いちど取りこんだ二枚を洗濯ばさみでまたハンガーにとりつけて、戸口にちかくまだひかりの通っているなかにかけておいた。父親が寝ているソファの背でタオルをたたんではこんでおき、帰室するとまた書見をつづけた。二時半まで。
  • 出勤時に飛ぶ。三時七分くらいに発った。まだ日なたが家のまわりにもけっこうのこっていて、空と空気はかがやかしい。家のちかくにあるカエデの木が、まだまだ本式ではないが、色を混淆させはじめていた。行く手の坂道をのぼりはじめてまもない位置には犬を二匹連れた中年女性が立ち止まって川のあるほうを見ており、ひとりごととも犬にはなしているともつかない口調でなにか漏らしていたが、それはたぶん川というよりはイチョウの木か、眼下の土地で用意されていた地鎮祭のようすをながめていたのではないか。こちらもその位置にまで行きながら顔を右手に向けてながめたが、もともと(……)さんの家が取り壊されたあとひろい空き地になっていた場所にこれから新しい家が建つようで、ちいさな台というか、白い布もしくは紙(ぬさというやつだろう)の色が見えたのでおそらく神道式の祈願台みたいなものが設けられてあり、そこの平地の端のほうに立っているイチョウはもうあざやかな黄色に染まりつくして、ひかりをふんだんにはらんで澄んだ空に雲の気配は微塵もなく、青以外に見えるものといって非常にかぼそい昼の月の刻印がたよりなく浮かびあがっているのみである。
  • 犬を連れた婦人のあとを追うようにしてゆっくりした足取りで坂をのぼっていると、風が湧いて頭上でざわめきがふくらみながら降ってきて、見上げれば横からひかりに通過された淡緑の梢が震動しながらあかるさのために色を見分けづらく希薄化しており、数歩すすめばすでにかたむきはじめてやや濃くなっている陽の色をそのまま染み入らせたかのような橙の梢もこまかく揺れて、葉はその風に飛ばされるから樹の下よりも木の間を抜けてあたまのうえになにもなくなったところでかえって降ってきて、ひらいた大空のどこからともなくあらわれて落ちてきたかのような風情だった。
  • 街道へ向かう。(……)さんの家を過ぎておもて道に沿って曲がるところの角にススキが豊富に生えているそれらが穂を重そうにおおきくして群れをふくらませながら手を差し伸べるかたちで脇から道のほうへとはみ出していた。曲がると、ガードレール沿いに、炎をデフォルメ的に記号化したようなかたちのおおきな葉っぱがいくつも落ちていた。街道にも陽が通ってあたたかく、ここでもやはり雲は四囲の果てまでまったく存在せず、もうだいぶ鈍くなった丘の緑色とくっきり対照しながら青がどこまでもひろがっている。とちゅうで横断歩道を渡り、裏道に折れると、正面にあるアパートの垣根に紅色の花が生まれはじめていて、だからあれはたぶんサザンカではないか。裏路地では楽な服装をした老人が家のまえに出て地面をすこし掃いていたりもするが、あまりひと通りやひと気はなく基本的にしずかで、ときおりうしろから追い抜かしてくるひとがあったり、車があらわれたりする。空はとにかく真っ正直に晴れわたっているから家々の庭のうえとか電線のあいだとかにつくられている蜘蛛の巣があらわに浮かび上がってすぐに発見され、その主や、一枚だけぽつりとひっかかった葉っぱの切れ端のすがたなどもはっきり映る。白猫が飼われている家からあらわれて道を横切るのを見たが、その場所にまで行くとむかいの敷地の奥に深くはいりこんでおり、車の下にもぐるところだったのであきらめた。それからまたすこし行っているとうしろから高校生であることが容易に察せられる口調の男女の声が聞こえてきて、自転車に乗っている気配だったが、彼らはこちらの横を追い抜かしていったさいに、似てたね、~~に似てた、というつぶやきをのこしていったので、たぶんこちらの後ろ姿とかたたずまいとかが友だちの誰かに似ていたのではないかとおもわれた。
  • 職場に着くと裏口を開けてはいり、勤務。(……)
  • (……)
  • (……)
  • (……)

2021/11/9, Tue.

 日当りのよい道のほとりに
 半分に折れて窪みとなった木の幹が
 以前から水を溜めているところで、
 水の表面をそれ自体の中で更新しつつ
 わたしは自分の渇きをいやす。水の
 明かるさと素性を手首を通して受け入れる。
 飲むというにはあまりにひそかな、目立たない仕草。
 けれどもこの待つ姿勢は
 澄んだ水をわたしの意識にもたらす。

 (神品芳夫訳『リルケ詩集』(土曜美術社出版販売/新・世界現代史文庫10、二〇〇九年)、193; 一九二四年六月初め、ミュゾットの館にて成立; カール・クローロウ「新しい解釈の時が始まるだろう ――リルケの創造的ためらい――」より)



  • きのうのアラームをしかけたままだったので、八時半に起こされた。それがはっきりとして軽い目覚めだったので二度寝に入らず、一〇分ほど留まってからもう起床。昨晩来の雨がつづいており、朝にもかかわらずかなり暗かった。水場に行ってきてから、きょうは瞑想をするのではなくさっそく書見。また臥位になって脚をほぐしつつ、ミシェル・ピカール/及川馥・内藤雅文訳『遊びとしての読書 文学を読む楽しみ』(法政大学出版局/叢書・ウニベルシタス667、二〇〇〇年)を読んだ。一〇時一五分くらいまで読んでうえへ。両親にあいさつして食事。きのうの鍋にもはいっていたが、やたら脂の多くてベトベトしている豚肉(たしかイベリコ豚と書いてあった気がするが、これは(……)さんにもらったものだったはず)をネギといっしょに炒めて米のうえに乗せた。鍋スープもよそって卓へ。新聞からは青木保が先ごろ亡くなった中根千枝という人類学者への追悼文を寄せていた。助教授として指導してもらったと。とにかく行動力と決断のひとだったといい、五〇年代にすでにひとりでインドの奥地アッサムに行ってフィールドワークをしていたし、長野県にフィールドワークに行ったときも、男の院生ですら尻込みするような夜道を意に介さずひとりで湯を浴びに行っていたと。欧米の大学に留学するのもいいが、そのまえにじぶんのフィールドを見つけてきちんとそこを調査しなさい、そうすれば海外に留学したときにもまわりと対等にはなすことができる、と言っていたといい、それはみずからの経験にもとづいた考えだったようで、青木保もその助言にしたがってまずタイの現場を調査してから留学したと。
  • 食器を洗い、風呂も洗った。洗濯機に残り湯を汲みこむポンプがまたヌルヌル汚れてきていたので、それもブラシでこすっておいた。出ると茶を支度。まだ昼なのに、南の窓のむこうはもう四時くらいになったかのような色合いで、うっすらとした青さをふくみながらやや暗んでおり、水っぽい大気をかきみだしている雨線の幕の先では川沿いの樹々が紅葉をすすめて緑をのがれた部分が多くなっていた。部屋へ。コンピューターを用意し、ウェブをちょっと見たあと「読みかえし」。竹内まりや『LOVE SONGS』をながした。一時くらいまで、一時間ほど読んだはず。それからひさしぶりにギターを弾こうという気になった。自室に持ってきててきとうにいじる。まあまあ悪くない感触。あいかわらず曲を手習う気にならないが。
  • その後ふたたびベッドで書見をして、(……)四時過ぎで上階へ。買い物に出ている母親から、米だけよろしくというメールが届いていたので、ひとまず先に磨いでおくことに。アジフライとサーモンを買ったとかいうからおかずはさして必要なさそうだった。玄関の戸棚にはいっている米が尽きたのであたらしい袋を開封。あまっていた米を計量カップに入れて計るのも面倒臭く、二杯目はザルにざーっとながしこんだので正確な量がわからず、全部でまあたぶんだいたい四合くらいだろうと目分量でさだめて台所へ。炊飯器の釜を洗って米を磨ぎ、水とともに仕込んでセットしておいた。そうして居間のカーテンを閉め、もどってくるとここまできょうのことを記述。五時にさしかかろうとしている。
  • 作: 「山上の結婚式をおとずれる夏と風だけ信じたいのさ」
  • ブログに記事を投稿するのをわすれていたので、一一月四日から六日までを投稿。そうして上階へ。両親が帰宅していた。アイロン掛けをおこなう。その合間、テレビのニュースをながめる。NHK『シブ5時』。さいしょのうちは、湯たんぽやカイロなどで容易に低温やけどになる危険を紹介し、注意をうながしていた。充電中のスマートフォンもけっこう温度が高くなるらしく、電源につないだまま布団にはいって動画を見ているうちにうとうとしてしまい、機械が顔にくっついた状態でながく過ごす、というときなど、やはり低温やけどになるという。それが終わるとニュースにはいって、なかに意識を惹かれたのは、都内の中高一貫校に通っていて卒業したトランスジェンダーのひとが一万名いじょうの署名をあつめ、性別にかかわらず制服を選択できるような制度に変えるべきだと都教委に提言したとの件。このひとは戸籍上は男性とされているが精神的には女性であり、女子は現在スカートもスラックスも選べるが、男子にはスカートを身につけるという選択肢はあたえられていないからスラックスを着なければならず、非常に違和感をおぼえる状態で三年間を過ごすことになったと。そのあとはまたつうじょうのニュースをはなれて、初心者でも手軽にあつかえて騒音も気にしなくていい電子楽器が、コロナウイルスで自宅待機の時間が増えたこともあって人気をあつめている、という話題がとりあげられた。
  • アイロン掛けを終えると室に帰り、七日の日曜日のことを記述。六時半ごろでしあげて投稿し、きょうのこともまたここまで書き足した。
  • 六時四五分くらいだった。夕食へ。両親が買ってきたカキフライとアジフライ、それにモヤシ炒めを一皿に乗せ、ほか、白米と昼につくられた麺の残り、それに生サラダ。アジフライは一枚がやたらとおおきなもので、カキフライもあるしそんなに食べる気が起こらなかったので半分にした。食事を取りつつ夕刊を読む。「日本史アップデート」。遊女の歴史について。日本で売春が生まれたのは九世紀ごろだと見られているらしく、それいぜんの古代と呼ばれる時代は夫婦関係がゆるく、多くの人間と関係を持つことがそんなに忌避されていなかったといい、したがって性的にからだを売るということがそもそも対価として成り立たなかったらしい。そんなことわかるの? とおもうが。律令制の影響などでだんだん夫婦関係がかたまってくるとともに売春という観念が生まれ、中世期は女性が主体的になる側面もあり、当時の遊女は宴席ではべって芸事をおこなうとともに旅人に宿を貸してからだをひさいでいたが(「ひさぐ」という語は「春をひさぐ」という言い方でしか聞いたことがなかったが、「売る」という意味なのだ)、和歌とか歌舞とかの教養があって貴族が弟子入りすることすらあったらしい(吉原の遊女もそのトップのほうになるといろいろな教養をそなえていないとつとまらないものだったと聞いたことがある)。中世期は言ってみれば女性の自営業的なものだったのだが、戦国くらいから男性が経営主体となった売春がはじまり、豊臣秀吉が京都に傾城町(というのもおもしろいなまえである)をひらくことを許可し、江戸時代はいうまでもなく吉原に京都大阪と色街があって、江戸の後半になると売上の一割を役所におさめるというかたちで管理売春がおこなわれていた。営業の独占を許可して売春を公認するかわりに税を取り、また非公認の売春は店のほうにとりしまりをまかせていたらしいが、遊女のあつかいはやはりひどい場所もあったようで、そのあたり遊女自身が書いた日記の研究などがさいきんすすんでいるという。記事に紹介されていたところでは「梅本記」という史料があるらしく、店のひどい仕打ちに耐えかねて(飯を食わせてもらえずに仕置きされたと)火をつけて告発をはかった遊女が書いた日記がそのなかにふくまれており、これは裁判資料としてあつかわれたので残ったらしい。ちなみに一八四二年くらいには(ということは水野忠邦のころだろうが)遊女や歌舞伎役者を浮世絵に描くのが禁じられている(たぶんそれいぜん、松平定信のときもやっていたのではないかとおもうのだが)。明治になると娼妓解放令とかいうものが出されて、公的な管理売春ではなくて個々人で勝手にやれ、というようなことになったようで、そうなると娼婦を「みだらな女」とみなす差別的な観念が強化されたと。江戸時代までは家が貧しくて身売りに出なければならず、みたいな事情が多くてそのあたりまだ比較的ゆるかったようで、明治になっても現実にはそういう事情はとうぜん多かったというが、法的には、また観念のレベルでは自分の好きでやっているということになるわけで、そうなると色事が好きなあばずれ、みたいな捉えられかたになるのだろう。吉原の遊女のほうは、いわばトップアイドルみたいなものだった、という俗説をよく聞くものだが。ほんとうにそう言えるのかどうかわからないが、遊女を描いた浮世絵は男性だけでなく女性も楽しんで見ていたとおもわれるらしく、この記事にコメントを寄せた学者は、ファッション雑誌を見るような感じで、派手できらびやかで奇抜だったりする装いを非日常的な世界として楽しんでいたのではないか、と言っていた。
  • 編集委員鵜飼哲夫の「ああ言えばこう聞く」も読んだ。大野和士という指揮者。コロナウイルスの状況下でも人間が人間として生きるために芸術は必要であり、不要不急のものなどではないと。「困難は、私たち音楽家と聴衆の意識を決定的に、しかもポジティブな方向に変えたと思います」ということばが力強い。「再開後、最初の演奏会では観客の数もオーケストラの数も制限しましたが、演奏後に聞いた楽団員の言葉は忘れられません。/「これまでは満座の拍手を当たり前と思っていた。しかし、今回の拍手は数は少ないが、これほど胸に突き刺さる経験をしたことはなかった」」とのこと。このひとは九〇年代、三〇代のときにクロアチア紛争下でザグレブ交響楽団の指揮をしていたといい、空襲がたびたび起こるなかで練習も公演もおこなったらしい。

 その時の光景で忘れられないのは、灯火管制で暗くなった道を黙々と集まってくる人々が会場でつくるムンムンとした熱気です。そして演奏すると立ち上がり、涙する人もいる。それが終わるとまたひっそりと家路につく。
 人間は食べるためだけに生きているのではなく、心があり、イマジネーションがあり、感動を求めている。しかし、心は、耕し、水をささないとしおれてしまう。
 心に水をさすことは人間にしかできない。そして音楽をはじめ文化芸術は、心を震わせ、イマジネーションの翼を広げ、人間が人間らしく生きるための糧です。それが不要不急のわけがありません。

  • 食事を終えると皿を洗い、緑茶を用意。まえのものがなくなったので、「辻利一本店」というメーカーのものをあらたに開封した。たぶん有名な会社なのだとおもう。宇治茶らしい。それで室に帰ってくると、(……)さんのブログを読んだ。最新の一一月八日。いちばんはじめ、授業のために朝にバスに乗って学院まで移動しているところを読みながら、え、なんかめちゃくちゃなつかしいな、という感覚がきざした。授業じたいは先日にもういちどやっているようだが、その日の記事はきちんと読んでいなかった。なつかしいという感覚とはちがうが、きのう読んだ記事で、飯屋の老板と再会してこころよくむかえられているのを見たときにも、なんかめちゃくちゃいい雰囲気だなという印象をえていた。
  • 一一月五日の冒頭より。ここでの「ディスクール」は、いわゆる「物語」(個々人が世界と生を分節し認識するにあたっての意味論的体系)とだいたい置き換え可能な語としてつかわれているように見える。ディスクールってそういう概念だったのか、とおもった。

 ディスクールの構造は、真理に支えられた動因が他者に働きかけ、生産物を生み出させるものであり、その際に真理と生産物のあいだは遮断されているのであった。主人のディスクールでは、主体(/S)と対象aのあいだが遮断されていた(…)。ラカンは、この遮断がファンタスム(/S◇a)に相当し、享楽に対するバリアとしての機能を果たしていると言っている。この議論は、六〇年代の神経症論と接続することができる。それによれば、神経症者はファンタスムをつかって対象aの顕現から身を守っているのであった(…)。反対に、精神病者はファンタスムの形成に必要な「対象aの抽出」を行えておらず、ファンタスムをうまく形成できていない。これは、精神病者にはディスクールの構造があてはまらない、ということを意味している。後にラカンが述べるように、精神病者は「ディスクールの外部 hors-discours」(AE490)にいるのである。
 ディスクールの外部にあるものとしての精神病。この図式がもっともよくあてはまるのは、スキゾフレニーである(五〇年代ラカンの精神病のパラダイムシュレーバーのようなパラノイアであったとすれば、六〇年代後半から七〇年代前半にかけてのそれは明らかにスキゾフレニーである。(…))。実際、七二年の「エトゥルディ」のなかで、ラカンはスキゾフレニーについて次のように述べている。

いわゆるスキゾフレニー患者 le dit schizophréne は、いかなる既成のディスクールにも捉えられていないことによって特徴づけられる。(AE47/4, (…))

 スキゾフレニー患者は、ディスクールに従属しておらず、ディスクールの外部にいる。このような考えは、すでに六六年の論文「哲学科学生への応答」のなかにも胚胎されていた。そこでは、スキゾフレニー患者は「あらゆる社会的関係の根源に迫るイロニー ironie を備えている」と規定されていた(AE209)。ここでいうイロニーとは、「大他者は存在しないこと、社会的紐帯はその根底において詐欺であること、みせかけ semblant でないようなディスクールは存在しないこと」を示す機能のことである(Miller, 1993a)。つまり、スキゾフレニー患者は、神経症者が依拠している通常の主人のディスクールが正常なものでも普遍的なものでもないことを暴露する機能をもっているのである。イロニーと呼ばれているのは、ディスクールに対するこのようなニヒリズム的態度である。
 スキゾフレニー患者のこのようなあり方の発見は、既成のディスクールを相対化することを可能にする。つまり、どのディスクールが正統なものなのかは決定不可能であり、さらには「既成のディスクールラカンが呼ぶものは、ノーマルな妄想 délires normaux のことである」(Miller, 2004)とすら言うことができるのである。エディプスコンプレクスに対応するものとしての主人のディスクールは、たしかに「正常」と地続きの神経症者を生み出す。しかし、スキゾフレニーの側からみた場合、主人のディスクールは「正常」なものでは決してなく、むしろ「妄想」のヴァリアントのひとつなのである。すなわち、神経症者が依拠する象徴秩序もまた「妄想」のひとつであり、その意味で「人はみな妄想する tout le monde délire」とすら言いうるのである。このようなパースペクティヴを、ミレール(1993a)は「妄想の普遍的臨床 clinique universelle du délire」と呼んでいる。
松本卓也『人はみな妄想する――ジャック・ラカンと鑑別診断の思想』 p.322-324)

  • BGMにOasisのライブ盤である『Familiar To Millions』をながしていたのだが、一〇曲目(CDだったらディスク一の最終曲)である"Stand By Me"がめちゃくちゃいいじゃんとおもった。先日聞いたときにもそうおもったが。これは三枚目の『Be Here Now』にはいっているらしい。三枚目なんてほぼ聞いたおぼえがない。というかたぶん音源を持っていなかったから、まったく聞いたことがないのではないか。『Standing On The Shoulder of Giants』と『Heathen Chemistry』はほんのすこしだけ聞いた記憶がある。そのうちでも前者はほぼ聞いておらず、後者のほうがまだそれよりも多くながした。こちらのOasis体験は二枚目とファーストでほぼ尽きている。
  • そのまま(……)さんのブログも読む。一一月二日の「行為と嫉妬」。

橋本治の読解によれば「行為」の力とは、「私は彼に負けてもいい」と思えることだ。私そのものを彼にぶつけたい、対象にぶつかった結果、私が砕けてもいいと思うことだ。それは対象への憧憬に基づく単純な衝動であって「そんな私」のメタ視点はない。

ここでの対象とは、彼でもあり美でもある。

「行為」の力とは、恋をする能力とも言えて、恋をする能力とは、対象を前にした自分が、それに負けたり死んだりしても良いと思うことのできる力である。

「行為」の力に欠ける場合、自分は対象を見て、対象に恋することができずに「嫉妬」する。「嫉妬」とは、自分が対象によって滅ぼされることを恐れる、対象を前にした自分が、それに負けたり死んだりすることの出来ない、そのことへの焦りや苛立ちである。

「嫉妬」する者は、やがて対象と対等の場所に立つことを回避するようになる。そして愛する対象が、自分ではなく他人に殺されるところを見たいと願う。それが権力者の欲望である。

「行為」の力とは、自分が対象と同化したい、自分が対象と等価でありたいと願う欲望の力である。それと同然でありたいと思うから、はじめて自分は、自分の死を許容できるようになる。

「嫉妬」する私は、もはや対象と自分との戦争状態だ。対象が、はじめて私に対する「革命」を仕掛けた。それに対して私は「嫉妬」と呼ばれる軍隊を動員し「反革命」のクーデターをおこして、事態を鎮圧する。

妄想の暴君たる私は再び王座に即き、そうなったとき最大の寵臣は失われていた。しかしそれでも構わない。「私」にとって重要なのは、「恋」でも「愛」でも「性欲」でもなく、暴君としてある「支配権」なのだ。それはまた、一般には「自己達成」と呼ばれるものでもあるが。

(「「三島由紀夫」とはなにものだったのか」207頁)

  • (……)さんのブログは最新の一一月五日から一〇月二七日までさかのぼって読み、そうすると九時。ひさしぶりに散歩に行こうというつよい気持ちが湧いていたので、屈伸をしたり開脚をしたりして脚のすじを伸ばしてから上階へ。散歩に行くと告げて出発。マスクはつけなかった。夜道でひともほとんどいないし、マスクをつけていると眼鏡を顔にぴったりひきつけてかけることができず、顔からすこしはなしたとしても息で曇りがちなのでうまくものを見ることがむずかしくなるからだ。ジャージのうえにダウンベストをはおった格好でそとに出た。夜気に寒さはなく、路上に空気のながれは弱々しくあってさいしょのうちは顔にすこしだけ冷たかったが、それも冷え冷えとするというほどではなく、歩いているうちにかんじなくなった。雨はすでに止んでいたが空は完全に曇って暗み、とはいえ黒々とした山の影が完全に空とつながって隠れるほどではなく、稜線のあたりに靄が湧いて烟っているのも見て取れる。あるきながら道端を見やれば街灯のひかりをかけられてみずからうすぼんやりと発光する黒色体のようになった葉群は写真にとらわれたすがたのごとくくっきりしており、アスファルトも同様にまだまだ水気にまみれた表面の内からスポンジめいて光色がにじみ出ているかのようになめらかで、あたりのものものがことごとくきわだって映るあの感覚がひさしぶりにおとずれたが、それは推移していく視界のひとつひとつ、瞬間ごとが切り取られた写真であるかのような、あるいは映画のなかにはいりこんだかのような感覚で、はいりこんだといってもそのなかの登場人物や参与者として世界に根ざして生活しているのではなく、その世界のひとやものにとっては透明で認識されない幽霊のような存在としてただかたわらにあるようなありかたで、だからそれはある種の夢を見ているときの感覚にちかいのかもしれない(目の前でくりひろげられる物語やシーンのなかにじぶんの存在がなく、一員としてそれに参加するわけでもなく、自動的に展開する光景に対してただ見る者としてのみ(したがって、不在の純粋な視線として)接するという夢をときおり見ないだろうか)。参入しているわけでも参入していないわけでもない、つかず離れずの傍観者であるあわいの位相。それはまたおそらくは少量の疎外と、なによりも孤独の場所でもあるのだが、しずけさと夜歩きのむすびにおいてその位置は自由と安息の時間となる。そういう一種の非日常感、おそらくは離人感と呼ばれうるであろう感覚は、しかしとうぜん、あるいているうちにだんだんと馴らされ、まぎれ、いくらか薄れてはいく。
  • このままどこかに行ってしまって、来た道をもどることなくさらに永遠にどこかに行ってしまいつづけたいな、というような気分が湧いていた。雨後のことで、十字路から通る小橋のうえでは、林の闇の奧に鳴っている沢の音のなかにポクポクという泡立ちの響きがいくらか聞き取れた。とぼしいながら虫の音もある。坂道をのぼっていくと狭い路上は街灯のひかりが拡散的に染みこんでかなり靄っており、ガードレールのむこうでは近間の樹々ととおくの山にまったく区別がつかず、完璧なまでの黒の平面としてただ溶け合っている。煙草の匂いがどこからか漂っていた。裏路地をすすんでいく。ここもやはり定期的に設置された街灯の暈が水っぽい宙に漏れ出して、大気がぼんやりと希薄化されている。空は非常に暗く、裸の枝々を天に突き立てた庭木のその先が暗色のなかに溶けこんで、眼鏡をかけていてすら見分けがつかないくらいだ。街道に出ればさすがに車はいくらか走っているが通るひとはない。西に折れておもてを行った。無人のガソリンスタンドがシャッターを閉ざし、うごかぬ機器を配置したあいだにひろい空間をさらしており、すこし先ではコンビニだけが、衛生的な、人畜無害ぶった蛍光灯のひかりをあからさまに誇示して夜のなかに白いオアシスをつくり差しこんでいる。駐車場の前に差しかかるとちょうど車がやってきて停まり、そこから降りたふたりはよく見なかったがたぶん中年くらいの男女だったとおもう。ほかにすでに停まっていた車は一台だけで、駐車場の片側にはあまりまっすぐな線には揃えられずにカラーコーンが配置され(端の駐車スペースを一部進入できないように区切っているふうに見えたのだが、そうだとして理由はわからない)、奥の敷地際に四つ設けられている看板(「お客様へのお願い」が記されてある)にもちいさな灯火が付属して文字を読めるように照らしていた。店舗入口のうえには乃木坂46の新作の予約開始だったかの情報が横に細長い紙で掲示されており、特典として生写真がつくとか書かれてあったとおもう。その奥の店内は天井に何本もの蛍光灯がまっすぐに複数列でならんだ下、ややクリーム色っぽいような白さのひかりが均一に満ちてまさにひとつの隈もなく空間を埋め尽くしており、この商店全体が切り出された石材じみて巨大な四角いひかりのかたまりであるかのようだ。店舗の横には空調方面のおおきな室外機や変電機がいくつか設置されて、発出するというよりはむしろ吸いこむような鈍い稼働音を立てており、その脇に立った電柱にはかなり古びた見た目の、消火器がはいっているらしい箱(表面に薄れた「消火器」の文字が記されてあり、毀損された赤の色で、棺のような印象を受ける)がとりつけられていた。コンビニを過ぎれば視界の最奥までまっすぐ伸びていく道路の左右にあるのはほぼ人家のみで、だから道沿いにひかりが漏れることもなく(家のまえまで来ればあかるんでいる窓もおりおりあるが、道を見通すかぎりでは左右から漏れ出すほどのひかりは見られない)、色味と言って途上の宙にふたつ浮かんだ信号のまるい青緑色と、正面へと走り去っていく一台が尻にともした赤い点くらい、その車が果てに消えればいまはながれがとぎれているところで静寂が満ちむすばれて、ピリリピリリというよりは、トゥウィットゥウィットゥウィットゥウィッみたいに聞こえる虫の声が通りの向かい(右側、すなわち北側)からあらわれる。建物がとぎれると左のかなたに川向こうの土地がひらき、山影を背後に負って這っている黒さのなか、一本のひかりの棒をこまかく砕いてパラパラばら撒いたような街灯の散在が見られるが、一部の山際にも霧のような乳白色のあかるみがぼんやり湧いて浮かんでいるのは、山の向こうの町の明かりが空に投射されているということなのか? 行く手には(……)駅があり、そこから何人か出てきて帰路につくのが見られ、ついで電車が発ってさらに奥へと去っていく音も聞こえたが、電車がこの駅に来るまでの響きをなぜかまったく聞かなかった。駅の前まで来ると横断歩道を渡って、来た道の反対側をそのまま引き返してあるいた。とちゅうに長く垣根がつづくところがあって、よくあるあのこまかくギザギザしたかんじの葉で一様に区切られているその向こうに庭木がやたらたくさん生えており、枝ぶりを詰められた裸木も常緑のうからもあり松の木などはざらつきながらもいくらか垂れ下がった葉にみずみずしく滴を帯びているが、ここは一家の所有している土地なのだろうか。それにしてはずいぶんひろく、内側に建物もいくつかあるようだったが。いままでまったく意識したことがなかったが、こんなところに土地持ちがいたのだろうか。
  • 街道沿いをそのまま東へずっとあるいた。ゆるいカーブになったところで先から車があらわれるのを見たときに、むかしはここで車が車線をはずれてじぶんに突っこんできて死ぬのではないか、そういう事故が起こらないとはいえないという不安をかんじていたなとおもいだし、おもえばとおくに来たもんだ、というような感慨をえた。とおくに来たもなにも、まったく移動をしないまま、生まれた土地にだらだらとどまりつづけているのだが。(……)と(……)の境になるあたりに街道に接して花壇があり、いまはなにも植えられておらず濡れたシートがちいさな襞をつくっているのみだけれど、その台座となっている丸太様の木の側面におおきなナメクジがいてからだを伸ばしていた。(……)の前あたりで対岸、右手にむかって空間がひらき、短時とおくの市街のほうまで見通せるようになって、果てに何個か立ち上がっているマンションのあたまから根もとちかくまで、また側面をマーブル状にいろどっている光点のつらなりもあきらかに見え、それらが戴く空は鈍い墨の色に閉ざされているが偏差なく完全に曇っているためにかえってすっきりとひろがっているようにすら映る。(……)のそばまで来ると車のとぎれた隙に、林の樹々から、あるいはその梢のあいだを落ちる水滴の音がひかえめながらいくつも差し入ってきた。
  • (……)のてまえで車が路肩に寄ってきて進路を一時ふさがれるかたちになり、それは乗り手がそこの(……)のひとで車を駐車スペースに入れるためだったのだが、それで足を止めたのを機に対岸にわたった。ここの(……)はたしか(……)さんというなまえだったはずで、それで夕方に父親が、(……)さんのお母さん、亡くなったってと母親につたえていたのをおもいだした。もしかしたらここのひとの親かもしれない。
  • ほんとうはもうすこし遠回りして帰るつもりだったのだが、脚がつかれてきたので最寄り駅のまえから折れることにした。いつもの勤務後の帰路である。駅の待合室にある時計を遠望するとちょうど一〇時ごろだったから、四五分か五〇分くらいは歩いたわけだ。木の間の坂道はあたりから水滴のささめきが絶え間なく立つ。街灯のうちいくつかは枝葉がすぐそばにあって、葉っぱが至近からひかりをつよく直射されて白いかがやきを鏤められているが、そうなると台座の一枚一枚は緑とも見えず、もはや緑とか色とかそういうことではないな、とおもった。だからといってなんなのかはわからないのだが。色を剝奪された純粋な明暗の組み合わせということなのか? ありがちな言い分だが。
  • 坂を出て自宅までの平らな道を行くあいだ、行きと同様砂のようなひかりでなめらかに均されたアスファルトや、道沿いの家々や葉群や屋根の裏の暗い空などを見やりつつ、これらのすべてが書くに値するのだとおもった。どんなものであれこの世にあるかぎり、そこにあるというだけでうたがいなく書くに値する、書くに値しないものなどこの世界には、原理的にはなにひとつ存在しない、そうとしかおもわれないし、そうでないということがわからない、という、例のむかしながらの確信がひさしぶりに回帰してきて、俺はまだこの信仰を捨てる気はないらしい、と理解された。それらがとくにうつくしかったりすばらしかったりするわけではない。ただ、ものは、したがってすべての瞬間は、ただそこにあるというだけですでに書くに値するのだ。そうおもえなかったり、それにふさわしく行為できなかったりするのは、たんに人間の無能力をしめしているにすぎない。あるものがそこにあるということ、あるいはかつてあったということ、それを、それだけをひたすらにつたえるのが書くということであるかもしれない。ひとりの人間が意識野にひろいあげて言語化できることなど、たかが知れているとすら言えないほどにとぼしい。だから全世界のあらゆる人間がじぶんの見たもの気づいたもの生きたことをおのおのじぶんなりにすこしずつ書けば良いとおもう。それらの無数の記録たちがつながりあったり補完しあったり、重なりあったり矛盾したり、あるいはすこしもそうならず、関連を持たずにただ平行したり、ともかくも原子の行き交いのようにおびただしく交錯し、そうして世界が書物化する。もしそうなったとして、その書物はこの世界のうちの一兆分の一よりも、果てしなくはるかにちいさなことがらしか記せないだろう。
  • 帰宅すると手を洗い、帰室。きょうのことを加筆。一時間が消し飛んだ。一一時半くらいになって入浴へ。髭と顔の毛を剃った。髪もそろそろ切りたい。出ると零時一五分くらいで、部屋にもどるとふたたびきょうのことを書いた。散歩は一時間ほどだったわけだが、一時間の歩みのことを記すのにその倍いじょう時間がかかるというのはどういうことなのか? 二時前で腰がこごってつづけられなくなったのでいちど寝転がり、しばらく休んでから起き上がって、カップうどんを用意してきた。それを食ったあとまた加筆して、四時前でここまで追いついた。しかしきのうのことを記せていない。
  • それからちょっとだけウェブを閲覧し、四時半で消灯・就床。

2021/11/8, Mon.

 あなたは、ご自分の詩がよくできているかどうかとおたずねになる。この私におたずねになる。あなたはその前にほかの人たちにもおたずねになった。さらにいろいろな雑誌に作品をお送りになる。ご自分の詩をほかの人の詩と比較なさる。いくつかの編集部があなたの詩を拒否すると、あなたは不安をお感じになる。さてそこで、(助言をせよとのことなので)あえて申し上げますが、このようなことはすべておやめになるようお勧めします。あなたは目を外へ向けていますが、それこそなによりもあなたが今やってはいけないことなのです。誰もあなたを指導したり支援したりすることはできません。手段は一つしかありません。ご自分の内部へ入ってお行きなさい。あなたがどうしても書かずにはいられない原因を探りなさい。その原因があなたの心の最も奥深いところに根を張っているかどうかをお験 [ため] しなさい。書くことを許されなくなったとしたら、死なずにはいられないかどうか、ご自分に正直に言ってごらんなさい。とりわけ申し上げたいのは、あなたの夜の一番静かな時間に、自分は書かねばならないかと、ご自分に向かって問うてみることです。深部にひそむ一つの答えを求めて、ご自分の心の中を掘り下げてみてください。その答えが肯定的であるなら、あなたがこの真剣な問いに対して力強く簡潔な「書かずにはいられない」とのことばで応じるだけのいわれをもっているなら、それならばあなたはそのやむにやまれぬ気持ちにしたがってご自分の人生を築いていかれたらよろしい。あなたの人生は、どんなにつまらない、とるに足らない時間であっても、すべてその内なる促しのしるしとあかしにならなくてはなりません。それならばあなたは自然に近づきなさい。それならばあなたは、この世の最初の人間のつもりで、ご自分が見るもの、体験するもの、愛するもの、失うものを、言い表わすよう試みなさい。恋愛詩を書いてはいけま(end159)せん。さしあたり、あまりによく使われるありふれた形式は避けることです。そういう形式は最も扱いにくいものです。なぜなら、すぐれた、部分的には輝かしい遺産が山ほど集まっているところで、独自なものを作り出していくには、よほどの円熟した力が必要だからです。それゆえ一般性のあるモチーフは敬遠して、あなた自身の日常が提供してくれる特殊な題材を取り上げるのがよいでしょう。ご自身のさまざまな悲しみや願い、脳裡に浮かんでは去っていくさまざまな想念や、ある美しいものの存在への確信、そういったものを描いてごらんなさい。これらすべてを、心のこもった、静かな、謙虚な誠実さをもって描いてごらんなさい。そして、自己実現のためには、あなたの周囲にある物たちや、夢に出てくる形象や、思い出の中にある事柄などをお使いなさい。ご自分の日常がどんなに貧しく見えようとも、それをなじってはいけません。責めるなら、ご自分を責めなさい。周囲の日常世界の富を呼びおこすに十分な力量の詩人にまだなっていないからだと、自分に言いきかせなさい。なぜなら、創作をする人間にとっては、貧しい日常というものはなく、取るに足らない場所など存在しません。たとえあなたが牢獄の中にいるとしても、そして四方の壁に遮られて世間の物音が何ひとつあなたの感覚に届かないにしても、それでもあなたにはご自身の少年時代が、あの貴重な、王国のような豊かさが、さまざまな思い出の宝庫があるではありませんか。そちらの方へあなたの注意を向けてください。この遠い過去のさまざまな感動を、水底から引き揚げるよう努めてください。そうすれば、あなたの個性は確固たるものとなり、あなたの孤独は拡大し、暮れゆく住処となるでしょう。すると世の人たちのたてる騒音は遠く素通りして行きます。――そしてこの内面への転向、自己の世界への沈潜から詩が生まれてくるとするなら、あなたはもう、それがよい詩かどうかなどと、人にたずねようとはなさらないでしょう。あれこれの雑誌に働きかけてご自身の作品を売りこもうと努めたりもなさらないでしょう。(end160)なぜならあなたはご自分の作品を、自然から与えられた所有物であり、あなたの生命の一片であり、一つの声であると見なすだろうからです。芸術作品は、それが必然から生まれた場合には、すぐれたものになります。このような作品生成の事情にこそ作品の価値判断の規準も存在します。ほかの規準は存在しません。ですから、カプスさん、あなたに助言できるとすれば、このことだけです。すなわち、ご自身の内面に入って行き、あなたの生命の根源となる深部を探究することです。作品の拠ってきたるゆえんを知ることによって、あなたは、作品を書かねばならないかどうかの問いに対する答えを見つけるでしょう。答えを解明しようなどとせず、聞こえてくるままに受け取ればよろしい。おそらく、あなたには芸術家たる天命の与えられていることが明らかになるでしょう。それならあなたはその運命を自らに引受けなさい。運命の苦難と偉大さをともに担いなさい。外部からもたらされるかもしれない報酬のことなどたずねてはいけません。なぜなら、創作する者はそれ自身が一つの世界でなければならず、自分の中に、そしてその人が密接に結びついた自然の中にすべてを見つけ出さなければならないからです。
 (神品芳夫訳『リルケ詩集』(土曜美術社出版販売/新・世界現代史文庫10、二〇〇九年)、159~161; 「若き詩人への手紙」より; フランツ・クサヴァー・カプス宛; パリにて、一九〇三年二月十七日付)



  • 七時だったか八時だったか、アラームの鳴るまえにいちど覚醒。寝つく。そうして八時半にしかけておいたアラームで正式に目覚め、寝床でしばらく深呼吸などしたのち、九時をまわって起き上がった。肩をぐるぐるまわして息をととのえ、水場に行ってきてから瞑想。二〇分ほど座った。きょうの天気は曇りで、午後にかけてときおり陽の色が見えないでもなかったが、基本的には白く平板。昨晩の遅くには雨らしき音もすこし聞いた。
  • 上階へ行き、ハムエッグを焼いて食事。新聞、二面にミャンマーについての記事。NLD(国民民主連盟)が圧勝した昨年の選挙から一年と。国軍系の政党(連邦団結発展党)はたしか三三議席とかそのくらいしか得られず、NLDは単独で過半数を獲得したのだが、国軍は選挙に不正があったといちゃもんをつけ、やり直しの要求にNLDが応じなかったので二月にクーデターを起こしたというのが現状の背景にあるながれである。国軍は来年だか再来年だかに選挙実施を予定しているが、その前に選挙法を民主派に都合の悪いように変えて、国軍系勢力が勝てるようにしようともくろんでいるらしい。アウン・サン・スー・チーらも拘束されて裁判にかけられているが、もし有罪となったら立候補はできなくなると。
  • 皿を洗い、一〇時がもう間近だったので風呂はあとにして帰室。コンピューターを持って隣室へ。(……)
  • 自室にもどり、ベッドで脚を揉みながら「読みかえし」を読んだ。三時で階を上がり、風呂洗い。洗剤がほぼ切れていたので詰替え用のパッケージを開封し、ボトルにあたらしくそそいでおく。そうしてよく出るようになった洗剤をつかって浴槽を念入りに洗い、排水溝カバーに引っかかったよくわからないゴミもブラシで取り除いておいた。さいちゅう、父親が、また郵便を出してくれと言ってきたので了承。たぶん(……)関連のものではないか。上階に上がったとき、そちらの方面のひとと電話をしていたので。
  • きのうの大根の煮物のあまりと、白米に鮭の振りかけをかけて用意し、自室へ。ウェブを見つつ食事。それからきょうのことをここまで記してちょうど四時。
  • (……)さんのブログ、一一月六日より。一年前の二〇二〇年一一月六日からの引用の一部。

 同じことが, 空間ではなく時間において起こるとどうなるでしょうか? 私たちはふつう, 過去から現在を経て未来に至る, という時間の「ちゃんとした方向づけ=良識」があることを前提としています。だからこそ, 自己を過去から現在を経て未来へと至るひとつのストーリーの中で把握することができるのです。では, もしそのような時間における「良識=ちゃんとした方向づけ」が機能しなかったとしたら, どうなるのでしょうか。パースラインのない世界と同じように, 過去・現在・未来の出来事がすべて等価なものとして扱われるようになるはずです。つまり, 東田さんが言うように, ひとつの流れにむかって記憶を方向づける「線」によってまとめあげられていない, 「点の集まり」としての記憶の中を生きることになるはずです。おそらくは, それこそが自閉症の人々の生きる時間なのです。実際, ドゥルーズは, 彼が「純粋な出来事」と呼ぶ世界においては, ひとつひとつの出来事は「決して現前しない〔=現在にあらわれない〕が, 常に既に過ぎ去っており, かついまだ来たるべき jamais présent, mais toujours déjà passé et encore à venir」という時間性をもっていると言っています。つまり, 過去から現在を経て未来へと進む方向に整序されていないパラドキシカルな時間の世界こそが, ドゥルーズが描き出そうとした時間なのです(…)。
 なお, 後にとりあげる現象学者の村上靖彦は, 『自閉症現象学』(2008)の中で「低機能の自閉症においては時間は流れない」「自閉症児は, 時間流の感覚を持たない永遠の現在に生きている可能性がある」と述べています。「時間は流れない」「永遠の現在」と言われると, われわれ精神病理学を学ぶ者としては, それはどんな時間の停止なのかと考えなくてはいけません。なぜなら, これは症例49のような内因性うつ病における時間の生成停止や, それによって生じる「永遠の現在」とは異なるからです。つまり自閉症では, 流れていた時間が止まるのではなくて, むしろ過去と現在と未来が一定の方向づけによって統御されずにフラットに存在するがゆえに, 「時間が流れない」のだと考えることができるわけです。
 では, このような時間の世界から, タイムスリップ現象を考えてみましょう。
 自閉症の子どもの記憶は, 過去から現在, そして未来へ不可逆的に進んでいく時間の秩序によって統御されていません。定型発達であれば, 記憶(出来事)は過去から現在へと向かう方向に従って順番に並べられた状態にあるわけですが, 自閉症の子どもにとって, 過去の記憶(出来事)は巨大なデータベースの中に, それぞれの記憶が時間によって整序されていない等価なものとして蓄積されているようなものだと考えてください。そして, カナーの症例ドナルド(症例85)のところでみたように, そのデータベースの中にあるひとつひとつの記憶(出来事)は, それぞれ別々のものとして記録されています。つまり, ひとつひとつの記憶(出来事)がそれぞれ, 他のものには還元することのできないこの性をもっているのです。
 例をあげて考えてみましょう。ふつう, 私たちは子どものときに食べた一回一回の給食がどういうものだったかなんて, 覚えていませんよね。「カレーがたくさん出たな」くらいのことでしょう。しかも, その一回一回の「カレー」がどんなものであったのかまでは覚えていないはずです。それは, 私たちが言語を使うことによって, 個々の「このカレー」という体験を, 抽象的な「カレー」という言葉によって処理したうえで記憶しているからです。しかし, おそらく自閉症の子どもの記憶は, その都度その都度の「カレー1」「カレー2」「カレー3」……が, すべてがデータベースの中に格納されているようなものなのです。つまり, 彼らの記憶は抽象化・一般化が施されていないのです。抽象化・一般化をするためには分節化された言語が必要です。定型発達の人々の記憶は, 言語を獲得し, 抽象化・一般化をすることができるようになった後のものだけであり, 抽象化・一般化が可能な言語をまだ獲得していない時期に体験したことは記憶には残らないのですが, 反対に, 自閉症の子どもの記憶は, そのような抽象化や一般化を経ていない, 「純粋な出来事」としての記憶です。杉山登志郎は, タイムスリップ現象における「その記憶体験は, 普通児において一般に想起することが出来ない年齢のものまで含まれ」ていることを指摘していますが, それは, 彼らの記憶が抽象化・一般化を経ずに記録されたものであるがゆえに, 言語獲得以前の記憶をもちうるのだということなのではないでしょうか。
松本卓也『症例でわかる精神病理学』 p.236-240)

  • 作: 「鉛筆の芯の先からはじめよう光と塵と破壊のうたを」
  • 通話中のことだけ書いておこう。(……)
  • (……)
  • (……)
  • (……)
  • (……)
  • (……)
  • (……)
  • (……)

2021/11/7, Sun.

 もう耳のためのものでない……ひびき、(end152)
 それはいっそう深い耳のようになって
 聞いているつもりのわれわれを逆に聞く。
 空間のうらがえし、
 内部の世界をおもてにくりひろげる、
 誕生する前の寺院、
 溶けにくい神々をいっぱいに
 ふくんでいる溶液……ゴング!

 おのれへの信仰を告白する
 沈黙するものの総体、
 ひたすらに口をつぐむものの
 自己への激烈な回帰、
 時の流れを圧搾してできた持続、
 鋳型に注ぎ変えられる星……ゴング!

 おまえ、けっして忘れることのない、
 喪失によってこそ生まれた女 [ひと] よ。(end153)
 もうとらえようのない祝祭、
 目にみえない口に注がれる葡萄酒、
 ささえている柱のなかのあらし、
 旅人が道のなかへころがり出る、
 「全」に対してわれわれをさらけ出す……ゴング!

 (神品芳夫訳『リルケ詩集』(土曜美術社出版販売/新・世界現代史文庫10、二〇〇九年)、152~154; 「ゴング」 Gong; 後期の詩集より)



  • 「読みかえし」より。407番。この一節はマジですごいとおもう。

 アンゼルム (……)聞こえましたか、またはじまった? ……たった一人で星の海を漂っているのです、たった一人で星の山に座って、なにも言えずにいるのです。醜い顰めっ面をしてみせることしかできないのです、不良少女のレギーネは……しかし、顰めっ面だって内側から見れば一つの世界で、隣人もなしに、自分の天体音楽を響かせながら無限のなかに拡がっているのです……彼女は甲虫と話せないから、甲虫を口にいれました、彼女は自分と話せないから自分を食べたのです。彼女はほかのひとびととも話せない、しかも――かれらみなと合一したいというこの恐ろしい欲求を感じているのです!
 マリーア 嘘、嘘、嘘! そんなことは嘘です!
 アンゼルム しかし嘘とは、異なった掟のあいだで揮発する、夢のように近い国々へのノスタルジアですよ、わかりませんか? それは魂により近いのです。(end203)たぶん、より誠実なのです。嘘は真実ではありません、しかしそのほかのすべてなのです!
 (斎藤松三郎・圓子修平訳『ムージル著作集 第八巻 熱狂家たち/生前の遺稿』(松籟社、一九九六年)、203~204; 『熱狂家たち』)

  • 久しぶりに一一時台の覚醒。離床は一一時半ごろだったか。きょうは陽射しのない曇り。白さのなかに、太陽の刻印だけは見られたが。水場に行ってきて瞑想。二五分ほど座ってからだの感覚がなめらかにまとまった。そうして上階に行き、母親にあいさつして食事。中華丼である。フライパンで加熱された素を丼の米にかけ、ほか、昨晩の団子汁も。新聞はいろいろと興味を惹かれる記事はあったが、一面の、山内昌之アフガニスタンについて書いた文だけひとまず読んだ。タリバンによる政権の崩壊とガニ大統領の逃亡は史上まれに見る風声鶴唳(おじけづいた兵士らが風の音や鶴の声程度のちいさな物音をも敵の襲撃ととりちがえて恐慌すること)の例であり、アフガニスタンイスラーム共和国とはいったいなんだったのかと。米国は多額の資金をついやしてこの共和国を支援し、とりわけ兵士らを訓練してきたわけだが、じっさいのところ国家や軍としての一体性が欠如していることは当初よりあきらかだったという。アフガニスタンには四つの主な民族があり、そのうちパシュトゥーン人パキスタンとの結びつきがつよく、そちらの関連ではパキスタンと敵対的なインドの思惑も絡んでくるし、タジク人とウズベク人はそれぞれ同名の国がある中央アジア方面とかかわっており、そこを通してロシアの影響力もおよんでくる、最後のなんとかいうシーア派の民族はイランの支援を公然ともとめて隠さず、軍内部もそんなふうに割れた状態だから敵対的な民族が多い地域には出動したがらず、とてもではないが国家の軍隊としての体をなしていなかった、と。
  • 食器と風呂をいつもどおり洗って帰ると、茶を飲みつつウェブを見、それからきょうは「読みかえし」ノートを読んだ。ここ二日ほど読めていなかったので。Oasis『(What's The Story) Morning Glory?』をながして音読するわけだが、やはり声を出して文を読むとやる気が出る感じがあり、興が乗ってながくつづけ、383番から最新の418番まで一気に読みとおした。それからベッドに寝転がり、書見も。ミシェル・ピカール/及川馥・内藤雅文訳『遊びとしての読書 文学を読む楽しみ』(法政大学出版局/叢書・ウニベルシタス667、二〇〇〇年)。しかしこの本はいまのところちっともおもしろくないし、勉強になるなあという箇所もほぼ見当たらない。訳もとりたてて悪くはないがぴりっとしない感じがおりおりある。それでも三時半くらいまで読み、その後ストレッチ。それからきょうのことをここまで記述。四時半過ぎである。
  • いまもう九日の火曜日にいたっている。この日曜は休日でいつもどおりだらだら過ごしたし、特段の記憶もほかにない。ウェブ記事はRichard Gray, "Why we should all be wearing face masks"(2020/7/2)(https://www.bbc.com/future/article/20200504-coronavirus-what-is-the-best-kind-of-face-mask(https://www.bbc.com/future/article/20200504-coronavirus-what-is-the-best-kind-of-face-mask))と斎藤環「人は人と出会うべきなのか」(2020/5/30)(https://note.com/tamakisaito/n/n23fc9a4fefec(https://note.com/tamakisaito/n/n23fc9a4fefec))を読んだ。斎藤環のやつは「あとで読む」ノートにメモしてあったのをなんとなく読んだが、これはいぜんにもいちど読んだものだった。ほか、ミシェル・ド・セルトー/山田登世子訳『日常的実践のポイエティーク』(ちくま学芸文庫、二〇二一年/国文社、一九八七年)の書抜きも終了。また、めずらしく新聞を部屋に持ってきて何記事か読んだ。六面にサンジャイ・スブラマニヤムというインド出身の歴史家(いま六〇歳で、オックスフォードやコレージュ・ド・フランスの教授をつとめたらしい――コレージュ・ド・フランスといわれると、無条件で尊敬の念をおぼえてしまう)へのインタビュー。モディ政権のヒンドゥー至上主義などについて語っているので読みたかったのだ。ヒンドゥー至上主義は古代インドを神話的に理想化しているらしいのだが(いぜんThe New Inquiryで読んだ記事でも、テレビドラマとして翻案された『ラーマーヤナ』がその人気に寄与したり、なまえをわすれたがヒンドゥー至上主義の中心人物である政治家がその主人公であるラーマ王子に扮して街宣をおこなったり、じっさいにこの伝説の舞台だったとみなした地のイスラーム寺院を破壊してヒンドゥー教の寺院に建て替えたりといったことが起こっていると読んだ)、この学者によれば、英国の植民地支配によってインドが「歴史の断絶」をこうむったのが一因にあるようだ。「古代インドは歴史をサンスクリット語ペルシャ語で記していた」のだが、「英国はそれを「神話・空言」と断じ、インド社会に歴史の概念はないと決めつけた」と。その結果、大衆レベルで「劣等感、その裏腹の過激な民族主義」、そして「歴史の忘却」と「西洋に対する遺恨」が起こり、「ありもしない理想郷の再生を掲げるインド人民党が支持される社会心理」が整備されることになったと。またイギリスか! とおもった。またというか、パレスチナのことをかんがえているに過ぎないのだが、土着のものをじぶんたちよりも劣った非合理なものと決めつけて排除したり利用したりする糞みたいに傲慢な西洋中心主義とオリエンタリズムのせいでいまのインドがこうなってしまったのだ、とおもって反感をおぼえたのだった。とはいえあくまでそれは一因のはずで、イギリスのせいで、と短絡的な物言いをするのは誤りだろう。ちなみにこのひとの兄はインドの外相であるジャイシャンカルというひとらしく、兄はとうぜんインド人民党の党員であり、したがってヒンドゥー至上主義を奉じているはずだが、スブラマニヤム氏自身は、「一つの文化に素直に向き合えば、それが様々な文化の混交の結果であると見えてくるものです」という至言ではなしをしめくくっている。
  • ほかのニュースではニカラグアの大統領選にまつわるはなしをメモしておきたい。一九七九年に親米独裁政権を倒した革命の立役者だったというダニエル・オルテガ大統領が通算五度目の再選を果たすのが確実らしいのだが、この大統領が独裁色をつよめていて、野党候補やその関係者を弾圧し、立候補をみとめなかったり逮捕拘束したりしているという。九〇年にオルテガはいちどやぶれて、ビオレタ・チャモロという女性が大統領をつとめており、その娘が今回野党統一候補として出馬する動きがあったのだが、マネーロンダリング容疑で逮捕されたと。彼女の弟であるジャーナリストのカルロス・チャモロは隣国コスタリカに逃げ、おなじように弾圧をのがれた野党関係者やジャーナリストが首都サンホセにあつまっているらしい。親米独裁政権を倒したわけなのでオルテガはとうぜん反米であり、米国側も今回の選挙についても非難するとともにいぜんから制裁を課しているらしい。八五年にはレーガン政権の支援を受けた反政府ゲリラ(コントラ)との内戦が激化したと記事付属の年表に記されてあるが、ゲームボーイだかスーファミだかファミコンだかで出ていた『コントラ』というアクションゲームはこの名をもとにしたものだったはず。むかし家にソフトがあったはずで、ちょっとだけやった記憶がある。
  • 書評面では入り口で仲野徹が北里柴三郎の功績を紹介していた(ミネルヴァ書房の伝記シリーズの一冊である福田眞人北里柴三郎』がとりあげられている)。本欄からは塩田純一『アルフレッド・ウォリス 海を描きつづけた船乗り画家』という本が目に留まった。イングランド南西部セント・アイヴスの画家で、船乗りや中古船具店をやって生き、妻に先立たれたあと七〇歳から独学で絵をはじめたひとだという。紹介文を読むかぎり、良さそう。こういう、非正規的な領域でひたすらコツコツやってるアマチュア、みたいな人間にはどうしても興味をおぼえる。じぶんをそういう人種だとみなしているからだろう。
  • 日曜版の絵を紹介しているシリーズ記事では、芹沢銈介「ばんどり図四曲屏風」というやつがとりあげられていた。人間国宝に認定された染色家で、柳宗悦民藝運動に共鳴して行動をともにし、東北や地方の民芸品に注目したいっぽうで、もともとデザインをやっていた時期もあったらしく、あざやかな色使いのモダンな作品もつくったという。

2021/11/6, Sat.

 ばらよ、おお 純粋な矛盾、
 おびただしい瞼の奥で、だれの眠りでもないという
 よろこび。

 (神品芳夫訳『リルケ詩集』(土曜美術社出版販売/新・世界現代史文庫10、二〇〇九年)、152; Rose, oh reiner Widerspruch, Lust,; 後期の詩集より; この三行詩はリルケが自らの墓碑銘として書き遺した詩句。)



  • 八時三五分におのずと目覚め。なにか夢を見ていた気がするが、忘れた。きょうもまた雲のない青空のなかに剝き身の太陽がたゆたう快晴。喉やこめかみをしばらく揉んで、八時五〇分にいちど起床し、水場に行ってきてからまた臥位になって陽を浴びながら本を読んだ。ミシェル・ピカール/及川馥・内藤雅文訳『遊びとしての読書 文学を読む楽しみ』(法政大学出版局/叢書・ウニベルシタス667、二〇〇〇年)。いまのところ特別おもしろくはない。九時四〇分くらいまで読み、そこから瞑想。睡眠が五時間くらいでみじかいためか、座っているうちにあたまがやや前にかたむいて意識がすこし曖昧化し、気づいて姿勢をもどすということをくりかえした。精神の感触としても、全般的にあまりはっきりせず、澄んだ明晰さにはいたっていなかった。致し方ないこと。一〇時五分くらいまで座って、上階へ。
  • 母親はすでに勤務。父親は山梨。例によってハムエッグを焼いて食事。日本に逃れてきているウイグル族の苦境について新聞記事を読んだ。パスポートを更新しようとしても大使館で拒否されるらしい。代わりに旅行証という準パスポートみたいなものを取得するのだが、それにあたっても面談をしなければならず、いろいろ訊かれるらしい。記事ではなしをきかれていたひとはみな、ウイグル自治区に帰れば拘束されたり弾圧されたりすると恐れており、月に一度故郷の家族と通話しているという男性によれば、数年前から父親はイスラームにおける日常的なあいさつである「あなた方に平安がありますように」みたいな文句すら口にしなくなったという。日本国内で氏名を公開して抗議活動をしている男性が兄と通話していたときには、とちゅうで漢族の男がはいってきて、抗議の参加者を教えてくれればあなたが望んでいる帰化ができるよう便宜を図るみたいなことを言われたといい、要するにスパイに誘われたわけだが、それで通話を切ったと。兄のからだには暴行を受けた痕があったといい、その後の安否は不明。日本国内には二〇〇〇人ほどのウイグル人がいるらしいが、帰化を望んでいるひとが多く、すでに一割くらいは帰化したと見られるらしい。継続的な収入などの帰化条件を満たせないひとは難民申請に望みをかけるが、周知のとおりこちらは狭き門で審査に数年以上もかかる。
  • 食器と風呂を洗って帰還。ウェブを見て、一一時半ごろからきょうのことをここまで記述。きのうの記事も一文だけ足して完成。
  • その後、家を出るまではだいたい読書。ミシェル・ピカール/及川馥・内藤雅文訳『遊びとしての読書 文学を読む楽しみ』(法政大学出版局/叢書・ウニベルシタス667、二〇〇〇年)。一時くらいで食事。きのうの夜の炒めもの(豚肉とピーマンやネギを合わせて炒めた料理)がすこしだけのこっていたので、それをレンジで加熱し、白米とともに食った。そうして洗濯物を取りこんでたたみ、出発の準備へ。歯を磨いたり瞑想をちょっとだけしたり着替えたりしてうえに上がるとほぼ二時。玄関を抜けると家のまえに落ち葉が転がっていたので、箒と塵取りを取って五分だけ掃除をした。そのくらいの短時間でもおおかたかたづく程度の量ではあった。駐車場の奧、そこが吹き溜まりなのか家壁にちかいほうによく溜まっていたのでそれも回収し、林の縁に持っていってじゃーっと捨てておく。そうして出発。道をすすむにつれて左右にあらわれる樹々がところどころ赤やオレンジのいろどりに変化しており、緑の葉たちのなかにも黄色く褪せかかったものが混じっている。(……)さんが家の前に出て木をいじるかなにかしていたのであいさつをかけて過ぎた。このころには雲が生まれて直上から西空にかけてひろく覆っており、太陽はそのむこうにとらえられたようであたりに陽の色はなし、背後を向けば東の方面は煙の切れ端めいた雲をいくらか受けいれ乗せながらもおおかたはまだ水色に伸べられている。最寄り駅から乗車。ベンチにも山に行ってきたらしい高年が溜まっていたし、電車も混んでいるのではとおもったがそのとおりで、ただこの時間はまだ満員というほどではなかった。四時くらいになると満員電車になる。とはいえすでにけっこう空間は埋まっており、先頭まで行っても扉のちかくを老人らが占めている口ばかりだったので引き返し、優先席のそばの口からはいって席のまえの隙間に居場所を確保した。吊り革をつかんで揺られつつ目を閉じてぼんやり休み、(……)に着くと降りて職場へ。
  • 勤務。(……)
  • 退勤(……)。それからこちらはホームを歩いて自販機でチョコレートを買い、引き返してベンチに座り、書見しながら電車を待った。夜にホームで大気にさらされながら座っているともうだいぶ寒い気候で、ほんとうはコートを着なければ防げないような寒気が、明確な風のうごきがなくともおりおり寄せてきた。右方の端に座っていたもうひとりはおそらく去年の生徒だった(……)くんで、一度か二度、なにかひとりごとを漏らしていたようだったが(寒さに耐えかねておもわず苦情を言っているか、それかなにか動画でも見ていてそれにたいして反応しているような気がされた)、そんなタイプだったとは知らなかった。しかしいまだとイヤフォンで耳を塞ぎ、動画を見たりしていればそとでも簡単にひとりの世界にはいれるから、ちょっとひとりごとを言ってしまうとかはけっこう多いのかもしれない。
  • 最寄りへ。帰り道をあるいているあいだもやはり寒い。からだの芯にまでは浸透してこず、震えることもないが、これはたぶんストレッチなどを習慣化したためで、二、三年前の肉体だったらふつうに震えていた気がする。(……)さんの家に息子だか娘だか知らないが子の夫婦が孫を連れてきていたようで、戸口で別れて車に乗りこんでいるところに遭遇した。ちょっと視線を向けたが、あいさつはおくらずに過ぎる。それから林の縁にある石段の際をあるいていると、しずかな夜道のなかに突如としてかすかな音がはいってきて、それはすぐそば、段のうえの草むらのなかから虫が一匹鳴いているのだったが、その目の前に来るまでまったく聞こえなかったくらいあまりにもひかえめな声だったので、おもわずちょっと立ち止まって、見えるはずもないのに葉っぱの襞のあいだにその微小な声の虫をさがしてしまったほどだ。林の奧、そそりたった樹々がつくりだす闇のなかからはなにか風のような響きが聞こえないでもないのだが、道にながれるものはないし、上の通りを走る車の音が濾されてきているのか、それか間近の沢の音か、あるいは遠く川の響きがつたわってきて反響しているのか、とおもわれた。

2021/11/5, Fri.

 おお 視覚のとらえた高い樹木よ。葉を落としたいま、
 枝を通して射しこむ空の
 おびただしい光と競わねばならぬ。
 夏であふれていたとき、その木は深く茂り、
 ほとんどわれわれのことを思うようで、親しみある頭部だった。
 いまこそ木の内部全体が空の街路となる。
 そして空はわれわれのことを知らない。

 思いきったことをいうなら、われわれが鳥の飛ぶように
 わが身を新しく開かれた空間に投入すると、
 その空間はわれわれを拒む。いくつかの世界とだけ
 交わっていればよいという権利が空間にはあるからだ。
 われわれの縁 [ふち] の波動する感情はつながりを求めても(end151)
 開かれた空間のなかでは旗となって満足するほかない――
 ……………………………………………………
 けれども樹木の頭部へと郷愁は向かう。

 (神品芳夫訳『リルケ詩集』(土曜美術社出版販売/新・世界現代史文庫10、二〇〇九年)、151~152; 「秋」 Herbst; 後期の詩集より)



  • 一〇時二〇分ごろに覚醒。きょうも快晴。空は青く、陽射しがよく通っている。こめかみや喉を揉んだあと、からだのうえにかかっていた布団を持ち上げてたたみ、脚をほぐしたかったのでそのまま書見をはじめた。ミシェル・ピカール/及川馥・内藤雅文訳『遊びとしての読書 文学を読む楽しみ』(法政大学出版局/叢書・ウニベルシタス667、二〇〇〇年)。一一時一〇分ごろまで。それから起き上がって水場に行き、洗顔、うがい、用足しを済ませてもどってくると瞑想。深呼吸をくりかえしてからだをやわらげてからうごきを停止した。かなりしずかで良い。そとから聞こえるのは空間の奧に敷かれている川のものらしき薄い響きと、ときおりながれる微風がゴーヤのネットの枯れた草葉を撫でるときのすれあう音のみで、そのシャラシャラという乾いた音はつらなってなだれおちるひかりの粒のきらめきをイメージさせる。とちゅうで干してある布団を叩く音が近所のどこかから立った。イベントのときに盛り上げのために鳴らされ、空中にかすかな煙の残滓をのこして消えていくちいさな砲のようなほがらかな破裂感。
  • 上階へ。食事はきのうのカレーのあまりと煮込み蕎麦。カレーは辛かった。舌がヒリヒリしてなかなか食べすすめられず、たびたび水を口にふくんで口内を更新しなければならなかった。新聞からは岸田文雄が首相に就任して一か月経ち、前政権までの批判を意識して対話と発信の姿勢につとめているというはなしがひとつ。立憲民主党の代表選出で四人くらいが出馬の見込みというのがひとつ。中国が二〇三〇年までに核弾頭を一〇〇〇発まで増やす見込みだと米国が報告し、核軍縮をすすめたいバイデン政権の意向がなかなか実行できなそうというのがひとつ。米国とロシアはそれぞれ半世紀くらいまえまでは三万発くらいの核弾頭を保有していたようなのだが、いまはその一〇分の一、三〇〇〇とか二〇〇〇くらいまで減っており、アメリカは核軍縮をすすめたいようすで、ロシアも新STARTに応じている以上(今年の二月にバイデンがロシアとのあいだで五年間延長した)、いちおうそのつもりだろう。そんななかで中国は我関せずという調子で軍縮にそっぽを向き、急ペースで軍備増強をすすめていると。去年だったかの報告では中国の核弾頭保有数は二〇〇だかそのくらいで、三〇年までに倍増する可能性がある、という程度だったのだが、それが一〇〇〇まで行くと修正されたかたちになる。
  • 母親は勤務へ。皿洗いや風呂洗いをおこなうともどってコンピューターを用意。ウェブを見てからきょうのことをここまで綴り、一時半過ぎ。気温は高めで安穏とした空気だ。
  • それからきのうのこと、一一月一日のこと、三日のこととつづけて記した。二日は外出してながくなるのであとまわし。とちゅう、二時に洗濯物を取りこみに行った。陽射しはベランダの手前側、戸口にちかいほうにではあるがまだまだ溜まっていてあたたかく、そのなかですこし屈伸をした。
  • 三時から書見。しかし、三時半くらいで本を置き、目を閉じているうちにまどろんでしまった。四時のチャイムが聞こえたことではっと気づき、あぶなかったとおもいながら起きて、上階へ。煮込み蕎麦の残りをあたためて丼にそそぎ、持って帰ってきて食す。食器を洗ってきて歯も磨くと四時半、ふたたび瞑想へ。やはり静止の時間を多く取るのが肝要だというかんがえにまた立ちもどっている。四時三七分くらいから五三分まで座り、便所に行って腹のなかを軽くしてから着替え。スーツ姿になると本や携帯などを鞄に用意して出発へ。居間のカーテンを閉め、マスクを顔につけて眼鏡をかけると玄関を出た。ポストにはいっていた夕刊および封筒を玄関内に入れておいて道へ。地上はもう暮れきっているが空には青さがのこり、西空に星がひとつふたつ、ずいぶんあかるく、いかにもするどくさだかに穿たれた針穴めいて黄みがかったひかりを点じていて、夕星 [ゆうづつ] なんてことばをおもい起こした。ただ、いま検索するとこれはたんに夕方の星ということではなく、特に金星、いわゆる宵の明星のことを言うようだ。空はもう暗んでいても昼間の晴れがつづいておおかたなめらかにならされているなかに、西空の下辺には雲が重たるく溜まって、濃い色が隙間なくあつまって低みを埋めている。
  • 駅へ。ホームに立ってまた西方に目をやれば、もう青さもほぼ失せて宵にはいりかけている空のうち、丘と樹々のあいだにひらいた低い一角に雲がひとひら影となり、ほつれた繊維をちょっとあとに散らして引いているのが、皮膚のうえにできた擦り傷、子どもが転んで膝小僧につくってしまう擦りむいた痕のようだった。乗車。ひとは多い。扉際も埋まっているので、座席の端の柱をつかんで瞑目。目の前の席のならびには外国人が赤ん坊を抱いてすわっており、その左方、扉のまえには若い女性がふたり立って談笑、背後は山帰りらしい中年男が二、三人いて、そのうちのひとりがずいぶんもごもごしたような発話でよく喋っていたが、もしかすると酒を飲んで酔っていたのかもしれない。
  • 勤務。(……)
  • (……)退勤は八時四〇分ごろ。駅にはいり、すでに来ていた電車に乗って席で瞑目。いつであれどこであれ、目をつぶってじっとしていればそれがすなわち瞑想である。もうからだが訓練されているから、数分ですぐに皮膚やすじがやわらいでくるのをかんじる。首のすじなどわかりやすく、ワイシャツの襟にかこまれた肌がゆるんで余裕をもったような感覚になる。むかいに電車が来て乗り換え客が移ってくると、ホームを行く足音や、ひとが乗りこんできたときの車両の揺れ、そこからさらにつづく足音と振動、座席に座りながら荷物として持っているビニール袋をガサガサいわせる音、衣擦れ、などの知覚刺激が各所からつぎつぎと生じて意識野をにぎわせる。
  • 最寄りで降りると暮れ方に見たのとおなじものか、星がくっきり灯っていた。マスクをずらして顔を出し、だれともすれ違わない帰路を行く。木の間の坂道をくだっていると前方に猫らしきすがたがあって、こちらをうかがいながら先んじてさっさとあるいていく。野良猫なのかなんなのかわからないが、たまにこのあたりで見かけるやつだろう。こちらの歩みが遅いので見えなくなっていたのだが、出口近くになると道端のガードレール下あたりにいたのが道を横切って暗がりへとはいっていき、そこまで行って見てみると(……)さんの庭の境界あたりにそれらしきうっすらと白い影があったので立ち止まってしばらくながめた。猫のかたちをしているように見えるその影にじっと視線をおくってにらめっこめいた対峙をしたり、たまに口笛を吹いたり舌を鳴らしたり、片足をパタパタさせて音を出してみたりとしたのだが、あいてはまったくうごかない。あまりにもうごかないので、もしかして猫じゃなくて低い庭木の影じゃないだろうなとおもったくらいで、もしそうだったらかなり間抜けな図になってしまったのだが、とちゅうでいちどだけ、首を横に振ってべつの方向を向いたように見えたので、たぶんあれが猫だったはずだ。それいがいはおそらくずっとこちらのほうを見つめていたはずで、こちらも止まってうごかずに見つめかえしていたのだが、あいてもなかなかの忍耐強さ、きょうは負けをみとめて引いてやろうというわけで、じきに切りをつけて歩きだした。夜空は雲なくすっきりと晴れて、見事に切り落とされた金属板の襞のない純ななめらかさ、コバルトのつよさまでは達さず鈍くくすんだ青の表面に星があかるくただよっていた。
  • 帰宅後はひとまず休息。一〇時過ぎで夕食へ。豚肉とピーマンやネギを合わせて炒めたものや、煮込み蕎麦。うまい。新聞で政府による一八歳以下への一律一〇万円給付やマイナンバーカード保持者への三万円分ポイント付与についてなど読む。食事を終えると母親と入れ替わりに風呂にはいり、ときおり冷水を浴びながらゆっくり浸かってからだをいたわり、出ると茶をつくって帰室。一服したあときょうの日記を書き出し、一時に達するてまえで一回切って瞑想。しかしさすがに疲労があって静止に耐えられない。一〇分程度で切るほかなく、その後ヘッドボードにもたれてちょっと休み、きょうはなんとか眠りこけることなく二時まえには復活できた。ウェブを見たあと、三時まえからふたたびきょうのことを記述し、三時二〇分でこの現在まで追いついた。
  • その後すこしだけ書見し、三時四〇分ごろ就床。