2022/9/26, Mon.

西脇順三郎訳『マラルメ詩集』(小沢書店/世界詩人選07、一九九六年)

●66(「エロディヤード」; Ⅲ 聖ヨハネの讃歌)
 その超自然の停止が
 上げた太陽は
 直ちにまた落ちる
 白熱して

 あたかも椎骨の中で
 暗闇が戦慄しながら
 ひろがって一つに融合するのを
 私は感ずる。




 覚醒したのは九時半ごろ。一〇時過ぎに起床。水を飲んだりパソコンを拭いたり、用を足して顔を洗ったりと済ませたのち、寝床にもどってChromebookで一年前の日記を読む。きょうはひさしぶりに明確な晴れの日で、空に雲もみられずただ青さだけがひろがっている。きのうは読みかえしをサボったので、2021/9/25, Sat.からはじめて翌日分も。熊野純彦レヴィナス』の引用は両日とも〈近さ〉について説明しているが、このはなしは(……)さんがきのうおとといでブログに書いていた夢の記述とか、映画作品などについての記述のはなしと通ずるものなのではないか。

 〈近さ〉とは「融合」ではない(137/165)。物理的距離が消滅し、さらに一方の身体が他方の身体に侵入したとしても、他者が他なるものとして消滅するわけではない。〈近さ〉とは、かえって「同時性」と「共時性」を「断絶」する差異をふくむ(136/163)。他者にどれだけ接近したとしても、差異がなおそこにある。あるいは「接近すればするほど踏みこえられない隔たりがある」(223/260)。他者は〈近さ〉であるがゆえに遥かにへだたり、遠ざかっているがゆえに私を〈触発〉しつづける(「他者による触発」「他 - 触発」 hétéro-affection)(193/224)。差異である近さ [﹅7] が、かくて「強迫」となる(133/160, 136/163)。〈近さ〉とは差異があることであり、〈近さ〉にもかかわらず差異があるとは「無関心では - (end244)ありえないこと」(non-indifférence)なのである(133/160. ほかに、cf. 97/119, 114/139, 218/254, 227/264)。なぜか。なぜ無関心では - ありえない [﹅5] のだろうか。
 「無関心である」とは、差異のうちにとどまっている(in-différence)ことである。レヴィナスによれば、だが、ディアクロニーという断絶を超えて、なお「関係」がなりたっている(23/31)。どうしてだろうか。
 「主体性」は「関係であるとともに、その関係の項である」(rapport et terme de ce rapport)(137/165, cf. 136/164 [註165] )。他者との関係は [﹅3] 私にとって不可避であり [﹅6] 、私はすでに他者との関係を身体の内部にかかえこんでいる。他者は〈私〉のうちに食いこみ、私は他者を身のうちに懐胎している。しかも他者は、踏みこえられない隔たり、遥かな差異そのままに私のうちに食いこんでいる。つまり共通の現在 [﹅5] を欠いているほどに、私とへだたっている他者が、私の主体性のうちに孕まれている。絶対的な差異によってへだてられた他者と私のあいだに、なお関係がなりたってしまって [﹅4] いるのだ。――私は、他者の現在にけっして追いつくことがない。にもかかわらず、私は〈他者との関係〉につねに・すでに巻きこまれ、私は関係そのものをすでに [﹅3] 懐胎している [﹅4] 。差異がないわけではない、それどころか差異によって隔絶した項とのあいだに、にもかかわらず関係がなりたち、私はその関係そのものであるとともに、その関係の項となってしまっている。関係はとり返しがつかず [﹅8] 、他者との関係は済むことがない [﹅7] 。だからこそ、他者にたいして私は(end245)「無関心であることができない」。そのゆえに、他者はつねに強迫する。私は他者にとり憑かれて [﹅6] いる。
 もうすこし具体的に考えてみよう。〈近さ〉は《近さの経験》ではない。近さとは、それが意識されることで、あるいはそれを「主題化」することによってむしろ消失してしまうなにものかである(123/148)。近さは、現在の経験としてはけっして生きられないなにごとかである。経験の現在に居あわせる「意識」はかえって〈近さ〉を抹消してしまう(131 f./159)。〈近さ〉の「強迫」を意識が「引きうけることはできない」。意識が引きうけようとすれば、意識は「転覆」されてしまう。もしくは、〈近さ〉が転倒して〈隔たり〉となってしまうのだ(139/167)。
 〈近さ〉を引きうけようとする、あるいは〈近さ〉を意識しようとする経験とは、どのような経験でありうるだろうか。レヴィナスがここで、「触診であることに不意に気づいてしまう愛撫、あるいは冷淡な愛撫」(132/159)を挙げていることに注目しよう。触れているさなかに意識が立ちあってしまう愛撫は、愛撫ではない。それは触診 [﹅2] である。つまり「探究」であり「知」と化するものである(cf. 143 f. n.3/341)。触れることの現在をみずからに回収(se ressaisir)する、つまりじぶんが触れていることを察知しつづけ、われを忘れることのない冷淡な愛撫は愛撫ではない。意識が居あわせる、それはむしろ一箇の詭計 [﹅2] であろう。

 (註165): この表現は、たぶんヘーゲル精神現象学』自己意識章の定式――「自我は関係の内容であり、関係することそれ自身である」(Ich ist der Inhalt der Beziehung und das Beziehen selbst)――をふまえたものであろう。Vgl. G. W. F. Hegel, *Werke* Bd. 3, S. 139 f.

 (熊野純彦レヴィナス――移ろいゆくものへの視線』(岩波現代文庫、二〇一七年)、244~246; 第Ⅱ部、第三章「主体の綻び/反転する時間」)


     *


 愛撫される皮膚は、生体の防御壁でも、存在者のたんなる表面でもない。皮膚は、見えるものと見えないもののあいだの隔たり、ほとんど透明な隔たりである。〔中略〕〈近さ〉の測りがたさは、認識と志向性において主観と客観が入りこむ接合とは区別される。知られたものの開示と露呈を超えて、法外な現前と、この現前からの退引が、不意に驚くべくもたがいに交替する。退引は現前の否定ではなく、現前のたんなる潜在でもない。つまり、想起によって、現勢化によって回収可能なものではない。退引は他性なのであって、相関者との共時性において総合へと集約されるような現在あるいは過去とは、共通の尺度を欠いている。〈近さ〉の関係は、まさにそれゆえに離散的なものなのである。愛撫にあっては、そこにあるものが、そこにはないものであるかのように、皮膚が自己じしんの退引の痕跡であるかのように、探しもとめられる。愛撫とは、それ以上ではありえないというほどにそこにあるものを、不在として索めつづける憔悴なのである(143 f./171 f.)
 (熊野純彦レヴィナス――移ろいゆくものへの視線』(岩波現代文庫、二〇一七年)、248; 第Ⅱ部、第三章「主体の綻び/反転する時間」; 『存在するとはべつのしかたで』より)

 ほか、二五日付のほうからは、職場でのミーティング後にとうじ教室長だった(……)さんをケアしているようすが目にとまった。一年前は検閲していた部分である。「われながら丁寧にやるなあ、とおもわないでもない」と述懐しつつ、先日同僚に菓子をよくあげることについてふれたときとおなじように、打算というか一戦術としての要素がそこにあることを語っているが、だんだんこういうささやかな調整役みたいなことがならいとなってきているようで、職場や他者へのたしょうの奉仕心めいたものが身についているようだ。(……)さんがあたらしい室長としてやってきたのがこの前年(つまり二〇二〇年)の七月くらいだったとおもうのだけれど、まあこっちのほうがこの職場じたいはながいからいろいろとわからんこともあるだろうし、と、またせっかくあたらしい室長として来たのだからやりたいことができるようにとおもっていろいろサポートしているうちに、いつの間にか講師のなかではいちばん中心みたいな、室長の補佐みたいな、そういう役回りになってしまってそのままいまにいたっている。もともとひとりで黙々とやっていたいタイプだったので、たいした成長ではある。とりわけ(……)さんはけっこう雰囲気が硬かったり、いそがしいようすを周囲に放散したり、ほんにんもたぶん気が長いほうではなく、ときにやや圧迫的なこともあったり、機嫌がよくなさそうだというのがありありとわかったりして、そういう雰囲気をかくさずにまわりに発してしまうと講師たちもはなしかけづらかったり萎縮したりはたらきづらかったりするだろうから、したでも言っているようにメンタルケアとかすこし気にしていたのだろう。あと単純にやはり仕事量がおおくてぜんぜん追いつかないのだろうなというのもわかったので、まあほんのすこしだけでも楽にできればとおもってじぶんができる範囲のことはやるようにしたりとか。(……)さんのときはどちらかというとそういう感じで、かのじょの仕事を減らすとか、かのじょのやりたいことを尊重してサポートするという意識が主だったようだが、いまの(……)さんはそのへんちょっとちがって、こちらがそんなにサポートする必要がないというか、もちろんサポートはするのだけれどわりと講師連に好きにやらせてくれるタイプなので、こちらもじぶんのやりたいようにやるという側面がつよくなっている気がする。そういう意味では(……)さんよりたぶん相性は良い。(……)さんとの相性もわるかったわけではまったくないし、むしろ信頼を得られていたつもりだが(したにも書いてある「つかれたーと漏らして伸びをしたり」というような「そこそこ気の抜けた雰囲気」は、おそらくこちらのまえでしかみせることがなかったはず)、かのじょじしん意外と人見知りというか、合わないひととどうにかしてうまく付き合っていくということができないタイプだったので、その点じぶんから友好的に声をかけて味方の感じを積極的に出し、いろいろ手伝ってくれるというこちらは信用を得やすかったのだろう。じぶんはある種「取り入る」のがうまかったのかもしれない。いまもまあわりとそうで、職場の同僚のうちでこのひととは合わない、このひととはうまくはなせないというにんげんはひとりもいないとおもう。まあ、そんなにへんなひとはそもそもおらず、みんな常識人の範疇だから。

(……)(……)さんはつかれたーと漏らして伸びをしたり、そこそこ気の抜けた雰囲気を見せた。こちらは良かったんじゃないですか、と言い、かたづけなどしたあと、せっかくなので多少ねぎらったり好意的な感想をつたえておいたりしたほうがいいかという気持ちもあって、報告を書くかなにかで打鍵をいそいでいた(……)さんに、まだやることありますか、電車が一〇時四一分なのでもしいっしょに出られれば、とむけると、待っててくださいとかえったのでしばらく待った。間に合うかどうかあやぶまれる残り時間だったが、なんとか三分くらいまえに職場を出ることができ、ふたりで駅へ。おつかれさまでした、あのスライド、よくつくりましたね、と言うと、きょうの四時半くらいからがんばってつくったのだということだった。通路と階段を行きながら、ひとりひとりコメントしてもらったのも良かったとおもいます、ああいう、フィードバックですか、大事だとおもうんで、きょうは(……)さんとみんなが、交流、でもないですけど、個人的なところが見えた会になったんじゃないですか、と述べ、ホームにあがると、(……)行きの乗り口まで行き、あいさつをして別れた。その後の帰路にたいした印象はなし。帰宅後、メールをまとめて正式に感想というか良かったとおもいます、ということをつたえておいた。なんというか、われながら丁寧にやるなあ、とおもわないでもない。それは単純なねぎらいということもむろんあるのだけれど、(……)さんとこちらのあいだの信頼関係をよりつくっておこう、とか、承認を明確に言語化してあたえることで彼女のメンタルの安定にささやかながら寄与し、それによって職場の雰囲気をよく保とうとか、おなじことだが、講師たちからそんなに直接的な反応はたぶんないだろうから、(……)さんがそのことで落胆するといけないので、先回りするかたちでそれをフォローしておこうとか、そういう打算的な思惑ももちろんないわけではない。べつにそれらをいちいちこうだからこうしよう、とかんがえ、効果を計量してやっているわけではないが。

 一一時前に起き上がって瞑想。そとの保育園では子どもらの声がにぎやかで、ほとんどモンスターじみて号泣しつづけている子なんかもいる。瞑想前にというか日記の読みかえし前にだったか、洗濯をはじめていた。瞑想を終えるとそれだけ出しておいた集合ハンガーをなかに入れてタオルや靴下や肌着などをたたみ、いま洗ったものをあたらしくとりつけてまたそとへ。その他バスタオルやきのう着たシャツ。そうして体操的にからだを伸ばすと食事へ。煮込みうどんをまた食べることにした。鍋に水をそそいで火にかけ、沸騰するあいだはちょっとパソコンを見て待ち、沸くと麺を投入。割り箸でちょっとかき混ぜてはやばやとザルにあげ、それを流水で洗っておくとタマネギとキャベツを切った。キャベツはのこりがすくなかったのでぜんぶ。麺つゆとあご出汁と鰹節を入れて熱した湯にそれらを投入。しばらく煮て、麺は水をちょっとかけて死ぬのを防ぎつつ待ち、加えるとちょっとぐつぐつやるあいだにもうまな板ほかを洗った。コンロはながしのすぐ右なので洗い物のさいに手から水滴が飛んで火やその近くに落ちるとジュー……という音が立つ。完成すると椀によそって食事。なにかしらウェブを見たはず。時刻は一二時半ごろか、すでに一時にちかかったかもしれない。ちょっとのこしておいてのちほどまた食べて行こうかなとおもっていたがけっきょく平らげてしまい、音読などしてちょっと息をついてから、(……)くんの和訳文の添削にはいった。きょうの出勤前はこれを優先し、まあこれができてあときょうのことが書ければ御の字、きのうのことはあした以降だなとみこんでいた。そうしてGoogleドキュメントをつかって文書をつくっているとちゅう、なんだか動悸がからだにひびいて、喉もとにあがってくるような感じがあり、じっさい痰のたぐいがあがってきていたのだが、胸もつかえるようで、いつの間にかじぶんが緊張していることに気づいておどろいた。腹の感じはよくなっていてみぞおちを押してもほぼ痛まなくなったし、きのう実家に行くさいの電車も特段問題はなかったから、きょうはふつうに出勤するつもりだったし、昨晩(……)さんにもそのようにメールしておいたのだ。ところがこのありさまで、ちょっとまずいなと動揺した。緊張というよりも不安のレベルに達していたと言ってもよいかもしれない。腹のなかがうごめいて体内がなんか変だし、トイレはすぐそこにあるのに急に小便に行きたくなってきたりして、あきらかにからだが動揺しているわけである。作業を止め、ちょっと目を閉じてじっとしたりしてみたが、こりゃ駄目だとおもってさきほど食後にも飲んでいたロラゼパムを追加した。そうするとすこしはほぐれるが、ちょっとこれはよくないな、まいったな、という感じだった。これで電車に乗ったらまずそうだなというのがありありとわかった。文書をつくろうとしてもそんな状態ではあたまが乱されるから文もうまく書けない。きのう行くと言っておいたそばからまた休むというのも体面が悪いと躊躇して、きょうはともかくヤクをぶっこんででもどうにか行こうかと迷ったものの、ここで無理すると場合によっては二〇一八年の二の舞いになりかねんぞという慎重さがまさって、知らせるならはやいほうがいいと職場に電話したが、その時点で二時半くらいになっていた。からだが緊張しているからあいさつをする声も細くなって出づらい。事情を説明し、きのう行くって言ったんですけど、すみません、と謝って、とりあえずいま毎日一錠で出勤日はもう一錠飲んでいたが、毎日二錠飲むようにしてようすを見てみるということにした。一週間か二週間か、いったんお休みしてもらったほうがいいですかね? と(……)さんは寛大に言ってくれて、しょうじきわからんがそのほうがもしかしたらよいのかもしれない。とりあえずはたらくにしても、一〇月は週一か週二にしたほうがよいだろうなとおもっている。ひとまずきょうは休み、きょう以降だとあさっての水曜日がつぎの出勤で、たぶん(……)さんのあたまではここももう休みという認識になっているとおもわれこちらもそのつもりだが、あしたまたメールを送っておいたほうがよいだろう。それ以降はまだ一〇月のシフトが出ていないのだけれど、ふつうに行くならつぎの勤務日は一〇月三日の月曜日で、ここから復帰するか、それともこの週も休みにして一〇月一〇日の月曜から復帰するかというところだ。シフトはいま作成中だろうから、あしたそのへんも決めて知らせたほうがよい。さすがにちょっとまいったというかなかなかうまくいかないなあという感じで、とはいえ二〇一八年にいちど最悪をみてはいるので(その最悪のしたは端的に自殺だ)、そのときと比べればまだぜんぜんうえのほうにはいる。いるとはいえ、なにかちょっとまちがって悪いほうに行くと一八年のようなことにもなりかねないぞという危機感もかんじられるような気がする。おもうににんげんの心身というのも音楽とおなじで、いま成り立っていることがつぎの瞬間には成り立たなくなるかもしれないという根拠のとぼしいところで、刻一刻とどうかして保たれているものなのだろうと。古井由吉みたいな言い分だが、だれの生もじつはそういう危機をときどきに踏まえつつ、それを越えてどうにかこうにかつづいているのだろう。気づかれないうちにその危機が越えられていたり、あとからあれはそうだったのかと気づいたり、直面のそのときに気づいたりといろいろだろうが、じぶんにおいては不安の接近というかたちでそれがまざまざと顕在化している。きのう実家に行くのにOKだったのにきょう駄目で、しかも職場のしごとをしているさいちゅうに緊張したというのは、労働がけっこうストレスとしてこちらの身にのしかかって負担をかけているということだろう。あとは文書をつくっているとちゅうのことでもあったから、文を書くという行為が負担でもあるのかもしれない。じっさい、いますでに二七日に変わって午前一時の夜で、いちおうこのように文章を書けてはいるけれど、書きながらやはり腹がしくしくするような感じと、それに応じて痰が喉もとにわだかまるような感じをおぼえている。だったらさっさとやめればよいのにそれでも書いてしまっているのが業というものだが、そろそろやめようとはおもっている。この日々の書きものもいまのじぶんにはだいぶ重荷なのかもしれず、労働などもあっておもったように書けない、しかし書きたい、なるべく書かなければならないという、強迫観念じみたそういう二律背反の状況ぜんたいが、おそらくはじぶんを裂いて心身に負荷をかけ、からだがそれに耐えられず不安や身体症状のかたちでダメージを表面化させているのだろう。このままそれがすすんで文を書くことじたいが不安とむすびつけば、それこそが二〇一八年の再来である。だから日々の書きものもばあいによってはしばらくやめるか、すくなくともすこしだけにしたほうがよいのかもしれない。こんなものは、じぶんのからだを損なったり滅ぼしたりしてまでやるようなことではない。健康に生きることのほうが大事だ。もちろんそうおもうのだけれど、しかしじっさいやめようとおもってやめられるかどうか? もうすこしひどいところまで、それこそ一八年くらいのところまで行かないと、じぶんはこれを中断しないのではないか? 去年はこんなものはいつでもやめられるとたびたびニヒルを気取り、さいきんも、じぶんは文を書かないとしてもふつうに生きていけるとたしかにおもっていたのだけれど、ここに来てちょっとそれにうたがいが生じてきた。書くことをやめることじたいはできるかもしれないが、もしそうなったら、じぶんはなにをやればよいのかわからなくなって呆然としてしまうのではないか、という気がちょっとしている。こんなことをいうのはいかにもありがちでかなり嫌なのだけれど、じぶんはじぶんを保つために書くことを必要としているのではないかと。じぶんがじぶんでありつづけるために、なんて、尾崎豊の曲名か、そのへんのできのわるい大衆漫画が標榜しそうなモットーみたいだが、もしかするとそうなってしまっているのかもしれない。二〇一八年のときはたしかにそうおもっていた。読み書きができなくなったことでもはや生きる価値はないと絶望していた、それはたしかだ。しかしいまはもうそうではないとおもっていたのだが。畢竟、日々書くというこの行為こそが、じぶんにとって最大の、そしてもっとも根源的な固定観念、強迫観念なのであって、だからそれは最大の拘束であり不自由であるわけだが、ここから逃れることができたときに、ようやくじぶんはほんとうに自由になったと言えるのかもしれない。あるいは、じつはじぶんの欲望はもはやこの日記にはないにもかかわらず、書きものがじぶんのアイデンティティとあまりにも強固に癒着しすぎてしまっているため、それをやめればじぶんを失ってしまうかのようなことになる、そのことを恐れるがゆえにほんとうはやりたくもないことをやりつづけている、ということなのか? 葛藤のかたちは、書きたい、もしくは書かなければならないのに書けない、なのか、それとも、ほんとうは書きたくなどないのに書かなければならない、なのか。じぶんじしんではそのどちらなのか、見定めがつかない。
 とはいえやっぱり、たんじゅんなはなし、がんばってやろうとするとどうも駄目っぽいなという感じはある。たとえばおとといきのうはわりと邁進できて、二四日分まではしあげることができてよかったなというところなのだけれど、そういうふうに、からだをよくうごかして活動的にととのえてバリバリどんどん書くぜみたいな、そうやって能動的にがんばるとけっきょくこういうことになるのかな、という感触がある。その活動性が心身にたいする負担になって、キャパシティを超えるのではないかと。そういうふうにがんばって書くというのはけっきょくわすれないうちにできるだけ書きたい、おおく書きたい、なるべく完全に書きたいというあたまもしくはこころから来るもので、それは要するに生産性の問題なのだ。生産性をあげたいということ。そして、生産性でやるとじぶんはどうも駄目なのではないかと。生産性と効率性というのは資本主義の金科玉条である。やはり資本主義とじぶんとは相容れない敵同士だということなのか? 敵までは行かないとしても、その原理はどうしてもじぶんの心身にはなじまないものだということなのか? この身体症状はそれにたいする一種の拒否反応なのか? いずれにしても、能動的にがんばるのではなく、楽にしぜんに無理なくできる方式でないと、おそらくはもはやこのさきつづけられないというところに来ている気がする。生産性原理をかんぜんに捨てて、それとはちがった地平をひらかなければ駄目なのではないか。ガルシア=マルケスをモデルとして日記で小説をやりたいという目論見を捨て、それにこだわらなくなったことでかえってもっとよく、それこそばあいによってはもしかすると小説みたいなことまで書けるようになったのとおなじように、毎日書くという最大の固定観念を、いよいよほんとうに解体するところまで来ているのかもしれない。


     *


 この日はそういうわけで勤務を休んだし、さらにしばらく休むことになったのだけれど、電話を終えてもからだのなかはざわざわしていてそわそわするようだし、肩や背や首なんかにもひりつく感触が貼られているようで、いままさにじぶんの身にストレスがのしかかってきているということがわかるようだったので、とりあえず寝床に避難して休んだ。休むからといってウェブを見る気にもならず、もちろん本や文を読む気にもならず、なにをするでもなく目を閉じて静止してみたりぼんやりしてみたりするこの感じは、二〇一八年中に鬱的様態におちいった時期のことをちょっとおもいださせないでもなかった。無気力な感じがすこし似ていたのだが、ただし鬱々と気分が落ちこむようなことはない。希死念慮もない。とはいえまたこれからそういう事態に下降していく可能性がないとはいえない。
 その後この日は部屋にこもったしそんなにたいしたこともせず、日記にとりかかったのもうえの部分でふれられているように日付替わり前くらいからだったはず。それまでのあいだはわりとだらだら過ごした。むしろそうするべきだっただろう。ただ、なにかの拍子に「考える人」のウェブサイトにあたり、そこで高山裕二「ロベスピエール 民主主義の殉教者」という連載をみつけて興味を持ち、夕食時から食後まで一気に最新まで五回分を読んだ。腐っても西洋史コース出身、しかもじぶんの卒論は、論などと到底呼べる文書ではなくレポート以下のまさしく腐ったゴミだったが、いちおうフランス革命をあつかったもので(フランス革命時に啓蒙の原理にしたがって宗教性が排されながらも「理性」があらたな宗教と化し、まさしく儀式的な要素もふくみながら宗教的なものとして崇められる、というような成り行きをいちおう追ったものだったとおもう)、しかも洋書文献を最低でもふたつだか用いなければならないという規定にしたがってつかった英書のひとつが、ロベスピエールの伝記だった。とうじのじぶんのちからで読み通せるわけがないので、一部だけ読んで、ほんとうにほんのちょっと典拠にしただけだが。連載中にもなまえが出てくるRuth Scurr, Fatal Purity: Robespierre and the French Revolution, 2006というのがまさしくその本である。あとはロベスピエール関連だと遅塚忠躬の『ロベスピエールとドリヴィエ――フランス革命の世界史的位置』という本も読んだはずだが、内容はまったくおぼえていない。たしかロベスピエールの土地制度にかんする思想とかをけっこうくわしくあとづけたようなものだったような気がしないでもない。あと、この本の序文みたいなところで、カントの「物自体」を援用しつつ、歴史を記述するというのもわれわれは歴史そのものにいたることは決してできないのだからこれと似たようなもので、というはなしをしていたような記憶もある。ではそこで歴史学者はどのような姿勢を取るべきかというはなしもそこでは語られていたはずなのだが、そちらについてはおぼえていない。『フランス革命を生きた「テロリスト」 ルカルパンティエの生涯』というNHKブックスの本も読んだような気がしないでもないので、もしかしたらこっちに書かれていたことだったかもしれないが。


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  • 「ことば」: 1 - 5
  • 「読みかえし1」: 607 - 608
  • 「読みかえし2」: 1 - 9, 10 - 11
  • 日記読み: 2021/9/25, Sat. / 2021/9/26, Sun. / 2014/2/20, Thu.


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高山裕二「ロベスピエール 民主主義の殉教者: 第1回 真の民主主義を求めて」(2022/5/23)(https://kangaeruhito.jp/article/426987(https://kangaeruhito.jp/article/426987))

 これに対して、いや、民主主義とは人民の多数派の支配だとしても、個人や少数派の権利を尊重するものでもあり、それを保障するのが司法の独立や報道の自由だ、というような反論がありうる。しかし、それが仮に民主政治を支えるものだとしても、それはまた別の理念であって、民主主義それ自体ではない。原理的に言えば、デモクラシーとは古代ギリシアに由来する「デモス(民衆/人民)」の支配であって、それ以上でも以下でもない。マイノリティの権利を擁護し多様な意見を尊重すること、また多数決を採用することでさえ、それは民主政治のひとつの手法であってその目的ではない。
 その点で、多様な意見の代表ないし政党による討議に基づく代議制=議会主義も、民主主義そのものとは別物である。かつてそう喝破したのは、ドイツの思想家・法学者のカール・シュミット(1888-1985年)である(『現代議会主義の精神史的地位』1923年)。シュミットによれば、民主主義は国民の平等(=同質性)に基づいて治者と被治者の同一性を前提とした統治である。これに対して、議会主義は国民の不平等と個人主義に基づいて治者と被治者の差異性を前提とした統治であって、これは民主主義というよりも自由主義の一種と言うべきである。したがって両者、要するに民主主義と自由主義とは明確に区別されなければならない。
 問題は、民主主義がその原理からして、「デモス」の一体性を求め、そうでないものを排除しうるところにある。人民の支配と言っても、まずは「人民」とは何かが問題となり、人民とそうでないものとが分類される。確かに全員が「人民」ということはありうる。そこに表向きは、外部(敵)はないのかもしれない。しかし、小規模でよほど同質的なコミュニティでもないかぎり、そうあることは難しい。まして、現下のグローバル化する世界においては、そのような同質性を民主国家内で維持することが不可能であることは明らかだろう。逆に、それが国民には移民の増加によって毀損されていると感じられる・・・・・がゆえに、一体性を強く求め、そのために強い権力が求められているようにも見える。そのことは、国民の同質性が比較的高いと言われてきた日本にとっても、情況の激変(移民国家化?)によって無縁ではなくなっている。
 もうひとつの問題は、民主化と世俗化(脱魔術化)が急速に進んだ結果として、民主主義自体が「宗教的」様相を帯びるようになったということである。つまり、人びとのアイデンティティ、あるいは生きる意味のようなものを確証してくれる宗教ないしは〈信じるもの〉の力が弱まるなか、私や私たちの存在証明が民主政治に託されるようになったということである。特に冷戦体制の崩壊で、「世俗宗教」としての共産主義への信用も衰微して以降、その傾向がますます強まっているのではないか。現代フランスの政治思想史家、マルセル・ゴーシェはこれを「代替宗教の破綻」と評した(『民主主義のなかの宗教:脱宗教化ライシテの軌跡』[伊達聖伸・藤田尚志訳『民主主義と宗教』]、1998年)。

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 20世紀に入って、ロベスピエールの名誉回復に先鞭をつけた高名なフランス革命史家のアルベール・マチエは、彼を「怪物として憎む者もあれば〔革命の〕殉教者として崇める者もある」が、どちらも革命をめぐる利害・情熱にとらわれており、今こそそこから離れて真実を明らかにしなければならないと訴えた。だが、そのプロジェクトは依然として未完である。
 その人と思想を理解するためには、さしあたり革命期の評価を一旦離れて、ロベスピエール個人の精神史に着目する必要があるだろう。というのも、もともと彼にとって真の自己(私)の存在の探求と真の政治(共和国)の探求はオーバーラップするものだったからだ。ロベスピエールによれば、市民は「仮面」を剥ぎ合い、その意志は他の市民、そして社会や国家の意志と一直線に結びつく、結びつくべきであり、その一体性によって初めて真の共和国=《民主主義》が実現する。逆に言えば、民主主義は〈私〉同士が一致し――皆が純粋に〈私〉を告白すれば必ず意志が一致するということを前提にして――、そうでない者を取り除くことで成り立つ政治である。そもそも民主主義とは、一体としての人民の意志の支配のはずではないか。
 ところが、ロベスピエールもその犠牲者となる。いや、《民主主義》=真の民主主義を追求したからこそ、彼自身もギロチン台で〈敵〉として露と消えなければならない運命だったのではないか。一体としての人民の支配としての民主主義はひとつの特権も、ひとりの独裁者も許さないはずだから。ここに浮かび上がるのは、革命の殉教者というよりも、あくまで《民主主義》の殉教者としてのロベスピエールの姿である。
 では、「ポピュリスト」と呼ばれる現代の政治家に、民主主義それ自体のために [・・・・・・・・] 殉教する覚悟はあるだろうか。むしろ、ロシアをはじめ東欧や南米の一部の政治指導者によって私益のために民主主義は利用=偽装され、各地で「専制化」しつつある。しかし問題がより深刻なのは、すでに述べたように、そのような傾向が「西側」でも進んでいることである。なるほど、「東側」の指導者は西欧の民主主義は偽善だと主張するが、その主張を暗に讃える有権者が欧米諸国のなかにも多く存在していることはその証左だろう(アメリカ合衆国ではプーチン大統領を英雄視する人びとも少なからず存在するという)。その事実は、民主主義を利用した権威主義体制が世界中に拡散した未来を予感させる(イワン・クラステフ、スティーヴン・ホームズ『消えゆく光』[立石洋子訳『模倣の罠――自由主義の没落』]、2019年)。


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高山裕二「ロベスピエール 民主主義の殉教者: 第2回 美徳と悪徳」(2022/6/27)(https://kangaeruhito.jp/article/516603(https://kangaeruhito.jp/article/516603))

 アラスは、フランス北部アルトワの州都(県庁所在地)である。その地で、弁護士のフランソワ・ド・ロベスピエールとジャクリーヌ・カロの長男として、1758年5月6日に生まれたのがマクシミリアン=マリ=イジドール(洗礼名)、のちの革命家マクシミリアン・ロベスピエールである。ロベスピエール家は、300年前に遡るとされる法曹一家で、マクシミリアンも将来、法曹の道に進むことになる [*: 以下、ロベスピエールの伝記的事実については、邦語で読めるもっとも充実した伝記である、ピーター・マクフィー『ロベスピエール』(高橋暁生訳、白水社、2017[原著は2012]年)に多くを負っている。] 。
 フランソワは、州の最高裁判所である州上級評定院で弁護士をしていた。彼(当時26歳)がビール醸造業者の娘カロ(当時22歳)と結婚したのは1758年1月のこと、その4ヶ月後に生まれたのがマクシミリアンだった。そして、1760年から63年のあいだにシャルロット、アンリエット、オギュスタンと立て続けに子どもが産まれるが、翌年、一家を悲劇が襲う。難産が理由で母カロが急逝したのである。父は精神に変調をきたして家庭を離れ、他の地で役人になったとも伝えられるが不安定な生活を続け、子どもたちは叔母や祖父母に預けられた。つまり、一家は離散することになったのである。ロベスピエール、わずか6歳の出来事だった。
 妹のシャルロットの回想によれば、兄は母のことを語る際はいつも目に涙を浮かべていた。そして、この不幸のために、「騒がしく、乱暴で陽気」だった子どもは、「生真面目で、思慮分別のある、勤勉な」少年になったという。いまや騒々しい遊びよりも、読書とチャペルの模型を作ることに興味を抱くようになっていた。この回想がどこまで正確かはともかく、マクシミリアン・ロベスピエールにとって、母親の死が大きな心の傷痕となり、早くも人生のひとつの転機を迎えていたことだけは確かだろう。
 では、ロベスピエールはどのような幼少期を過ごしたのだろうか。幼少期の不幸や貧困がトラウマとして残り、彼のその後の人生を決定したとする論者も少なくない。だが、実際のアラスでの生活は穏やかで規則正しいものだった。彼とその弟を引き取った母方の叔母は敬虔さで知られ、2人をよく世話したという。結局、ロベスピエールは、伝記作家のマクフィーが「信仰の要塞」と呼んだアラスで、「徹底的にカトリック的な子ども時代を送った」のだ。しかも、妹たちの住居は数分しかかからない距離のところにあって、しばしば会うことも可能だった。
 他方で、この町では3人に1人がその日暮らしで、マクシミリアン少年も物乞いや浮浪、犯罪を日々目の当たりにしていた。それが彼の少年時代の原風景として頭に焼き付けられ、その後の革命家の歩みに影響を与えたことは十分に考えられる。この頃、同地を訪れたイギリスの著名な農業経済学者、アーサー・ヤングは、その印象を次のように書き残している。「その土地の労働力の大部分は収穫期のさなかだというのに失業してぶらぶらしている」(『フランス旅行記』[宮崎洋訳『フランス紀行』]、1788年)。
 こうした教会と都市の静と動、ある意味では正反対の世界のなかで育った少年を革命の指導者へと導くのは、なによりもその土地の教育環境である。アラスは、学校教育では長い伝統のある町で、識字率も他の地域に比べて高かった。8歳でその町の学校に通い始めた頃には、すでに文字が読めるまでになっていたロベスピエールは、その能力を発揮し、すぐに頭角を現すことになる。
 11歳の頃には、成績優秀のために奨学金を獲得する。そして、アラスのコレージュ(中等教育学校)の提携校であったパリの名門コレージュ、ルイ=ル=グラン(=ルイ大王)学院への入学が認められたのである。そのため、母そして(母の死後は)叔母、祖母や妹という女性たちに囲まれた親密な環境から離れ、大都会パリへと単身向かうことになる。馬車に揺られること24時間、ようやく辿り着いたパリは少年を圧倒する都市だった。

      *

 初年時(文法科生)、そして15、6歳(修辞科生)にはラテン語やフランス語、そしてギリシア語などを学ぶが、最上級の哲学科生になると古代ギリシアやローマの歴史や道徳哲学、キリスト教思想を学ぶようになる。そのテキストのなかには、アリストテレスの『ニコマコス倫理学』やプルタルコスの『英雄伝』などがあった。また、主に使用されたテキストとして、「共和政ローマのもっとも輝かしい時代」に書かれたものが採用され、そこには祖国愛や自己犠牲などの「美徳」とともに、「贅沢、貪欲、陰謀、堕落といった悪徳」が描かれていた。
 このカリキュラムで使用されたテキストのなかには、有名なキケロ(前106-前43年)によるカティリーナ弾劾演説[古代ローマの執政官だったキケロが、貴族政治家カティリーナの一派による政権転覆の陰謀を未然に防いだことで名高い演説]もあった。それはまさに象徴的なかたちで、「陰謀家」たちの〈悪徳〉に対して共和政のあらゆる〈美徳〉を対置する教材だった。

われわれに対する唯一の陰謀は、われわれの市壁の中にあるのだ。危険は、敵は、内側にいる。……要するに公正、節制、勇気、賢明、これらすべての美徳が、不正、放蕩、臆病、軽率といったすべての悪徳と戦っているのだ。(同上)

 ここには、〈美徳〉と〈悪徳〉という二項対立の図式が見られる。伝記作家マクフィーの言うように、これがマクシミリアンの思考法に埋め込まれてゆくだろう。加えて、〈陰謀〉や〈敵〉といった言葉が使われていることとともに、それが《内側》にあると言及されている点も記憶しておきたい。なぜなら、それはおそらく未来の革命家のレトリックともなるからだ。
 ロベスピエール自身も、革命期の回想のなかで、コレージュを「共和主義の養成所」だったと表している。彼の教師アベ・エリヴォは、特に古典語の成績が抜群なマクシミリアン少年のうちに「ローマ人の諸特徴」を認めたと言われるほどである。ちょうどこの頃、ランスであった戴冠式(1775年6月)からの帰路、ルイ16世とマリ=アントワネットがルイ=ル=グラン学院に立ち寄ることになった。そこでエリヴォが、500人の生徒のなかから両陛下に賛辞を捧げる代表に選んだのは、ロベスピエールだった。
 しかし、彼とは歳が4つしか離れていない国王(当時21歳)との出会いは、少年にとって良い思い出になったとは言い難い。雨が降りしきるなか、校外で待ち続けること数時間、やって来た両陛下は歓迎スピーチを馬車のなかで聞くと、すぐに立ち去ってしまったのである。
 (…………)
 (……)なるほど、最新の伝記はこのエピソードの信憑性を疑い、青年が仮に両陛下にパリで拝謁しえたとしても別の機会[2人が初子誕生の祝いにパリを訪れた1779年2月]だと指摘しているが(Hervé Leuwers, Maximilien Robespierre, 2014)(……)


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高山裕二「ロベスピエール 民主主義の殉教者: 第3回 「名誉」を超えて」(2022/7/25)(https://kangaeruhito.jp/article/583266(https://kangaeruhito.jp/article/583266))

 当時、アラスは2万2千人ほどの住民が暮らす地方の中心都市だった。それでも、長引く不況で繊維産業は衰退し、伝統的な穀物取引に多くを依存していた。政治も、アルトワ州三部会からして貴族によって占められ、また高位聖職者が行政権力に食い込み、同州司教コンズィエを中心に「特権階級」が大きな影響力をなお誇示する世界だった。そこでロベスピエールは、父や祖父と同様、王国の四つの州にある州上級評定院つきの弁護士として登録されるが(1781年11月)、みずから個人的なネットワークを構築してゆかなければならなかった。
 「一着の服と穴のあいた靴しか持っておらず」、社交的でなかったパリの大学の給費生が、帰郷した地方の世界で生き抜いてゆくのはそれほど簡単ではなかっただろう。だが、彼はここでもその能力によって頭角を現すことになる。半年後、普通は10年待つとされた司教管区裁判所[アラスとその周辺にある30ほどの教区を管轄する裁判所]の5人の裁判官の1人に抜擢されたのである。その能力と人格は、周囲にも強い印象を残したという。裁判デビューを果たしたロベスピエール氏は話ぶりやその明晰さの点で彼に及ぶものは皆無というじゃないか――アラスのある弁護士は手紙にそう書いている。これに対する返事で、当時パリ法科の学生だった同郷のエティエンヌ・ラングレはこう賞賛した。

事実、このド・ロベスピエール氏という人物は、君が言うように恐ろしい人だ。付け加えて言うなら、彼の優秀さに喝采を送り、このような才気溢れる人物を生んだわが故郷を祝福したい気持ちを抑えられないよ。(マクフィー『ロベスピエール』)

     *

 上級評定院では、1年目から13件の裁判の弁護を担当し、2年目は28件で法廷に立ち、3年目は13件と数こそ減ったが、そのうち10件で勝訴した。仕事は順調だったが、苦い経験もした。司教管区裁判所の裁判官でもあったため、殺人者に死刑判決を出さねばならなかったのである。しかも当時は、ギロチンが発明される前で、庶民には車裂きの刑が処されていた。妹の回想によれば、その判決の夜、帰宅すると兄は絶望した様子で、「彼が有罪であり、悪党であることはわかる、それでも1人の男に死を宣告せねばならぬとは……」と繰り返したという。こうした伝統的な慣習・因習と彼の「良心」との間の葛藤は日に日に大きくなってゆく。
 シャルロットによれば、兄が法曹の道に進んだのは「抑圧された人々」を擁護するためだった。1783年に始まるドトフ事件裁判はその一例である。それはある修道士(会計係)が修道院若い女中クレマンス・ドトフの兄を窃盗容疑で告発した事件だった。兄フランソワによれば、修道士は自身の窃盗を隠すため、また妹を口説いたが断られたその腹いせのために告発したのだ。地方の有力な地主でもあったアンシャン修道院に対して「質の悪いパンすら家族に供給することも難しい」庶民は泣き寝入りせざるをえないところ、ロベスピエールは彼を果敢に弁護し、3年に及んだ裁判で勝利した。このとき、既存の法秩序に対する「常軌を逸した見解」を表明したと弁護士会から叱責を受けたが、ロベスピエールがそれを意に介した様子はない。彼は「抑圧者に対して抑圧された人々を守ること」を義務だと信じていたからにほかならない。

     *

 ロベスピエールの弁護士活動でもっとも有名な訴訟として、「避雷針事件」(1783年5月)がある。ある法曹家の建てた巨大な避雷針を不安に思った――先入観のためにその装置に落雷して爆発や地震が起こると思い込んだ――住民たちの訴えを認めるかたちで、裁判所はその取り壊しを命じた事件である。これに対して、訴えられた側は上級評定院に上告、富裕な弁護士でアマチュア科学者でもあったアントワーヌ=ジョゼフ・ビュイサールに弁護を依頼した。するとビュイサールは、当初はその教育係を務めていたロベスピエールにその仕事を任せたのである。そこでロベスピエールは、この20歳以上離れた友人が所蔵する膨大な啓蒙書を参照しながら、本件で逆転勝訴を勝ち取った。その弁論は彼の「哲学」を開示する機会ともなった。
 新米の弁護士は口頭弁論冒頭、アリストテレスからデカルトまでの哲学の歩みや、医学の発見について触れた後、次のように言って〈光の世紀〉を謳いあげる。「今後は才能がその活動のすべてを自由に行うことが許され、科学は完成に向けて急速にその歩みを進めます。われわれの世紀を特徴づけるのはこの理性という特性であり、そのために人間精神がこれまで思いついたなかでもおそらくもっとも大胆でもっとも驚くべきアイデアが、普遍的な熱意を持って迎えられてきたのです」。ここには、個別の事件の弁護を超えて、彼の時代認識とそのうえでの自己主張を見てとることができよう。それは、今は理性の時代であり、人類は誤謬や偏見のためにその歩みを止めてはならず、その進歩にむしろ奉仕すべきだという理念である。
 第2回口頭弁論でも、冒頭でこう述べる。「前回の弁論であなた方に提出された反対意見に対し、今日も応答する勇気を私に与えるのは同じ動機です。私はできるかぎり全力で、それと思い切って戦いさえするでしょう」。ヨーロッパ中の支配者や国民がこの戦いに加わってきたし加わるべきであり、フランス人もそれに倣うべきだと呼びかけ、一地方の「避雷針事件」を、ヨーロッパに残るあらゆる旧弊に挑むという普遍的な問題にしてしまう。そして、「すべての科学者の側に味方する」かどうかは、わが祖国の名誉の問題であるとさえ言って憚らない。

この事件に注がれるヨーロッパ中の眼差しによって、あなた方の判決が受けるべきあらゆる評判は確実なものとなるでしょう。この狭い地方内部に視野を制限しないでください。首都を見てください、フランス全土を、他の諸外国を見てください、あなた方の判決を待ちかねています。……パリ、ロンドン、ベルリン、ストックホルムトリノ、サンクト・ペテルブルグはアラスとほとんど時を同じくして、この科学の進歩に対するあなた方の英知と熱意の金字塔をすぐに知ることでしょう。

     *

 「避雷針事件」で科学を勝利に導いたロベスピエールは同年11月15日、ビュイサールが院長を務めるアラス王立アカデミー(学士院)会員に選出される。そして翌年の4月に行った入会演説は、彼の政治観を初めて披瀝したという点で事実上のデビュー作といえる。
 その演説でも偏見と不正義の不・利益を訴えるが、そこで選ばれたテーマはいわゆる加辱論、すなわち「市民権の喪失を伴う処罰」によって罪人の家族全員もその不名誉を背負うべきかどうかというテーマだった。これは実は、メッス(フランス北東部にある都市)の王立アカデミーが公募した懸賞論文の論題に由来し、加辱は有害か、そうだとすればその対処法は何かを問うたものだ。演説後、ロベスピエールは原稿をいくらか手直しして懸賞論文に応募し落選するも、選考委員会が感銘を受けて特別賞(入選と同等の報賞400リーブル)が授与されることになった。同年、彼は報賞金を使ってパリで同論を自費出版する。
 主にモンテスキューの『法の精神』(1748年)を引き合いに出しながら語られるその入会演説は、未来の政治指導者にとって事実上のデビュー作といえる。その理由は、政治・社会の基礎には〈美徳〉がなければならないという、彼の根本思想が語られているからにほかならない。これに対して批判されるのは、モンテスキューが君主政の原理と規定した「名誉」である。
 演説冒頭、アカデミーないし科学者は「公共の利益」に尽力するものであると述べ、自分もあなた方(アカデミシャン=科学者/研究者)には遠く及ばないとしても、その役に立ちたいと語る。その観点から加辱の原因である「偏見」は有害であると断じる。彼によれば、偏見はある国民や人類の名誉をある個人の行為に帰すことから始まったもので、ある時代の意見(opinion)にすぎないが、統治の形態次第で大きな影響力を有することになったという。
 たとえば、「専制国家においては、法は君主の意思でしかありません」。それは、刑罰が君主の怒りの表徴でしかなく、不名誉が君主の意見によって決まることを意味する。これに対して、「各人が政治に参加でき、主権の構成員であるとすれば」、その種の偏見が力を持つことはない。つまり「共和政の自由は、この意見の専制に反抗するでしょう」。ここでは、君主政が直接批判されているわけではないが、それに対して共和政の利点が語られているのは明らかである。
 モンテスキューが言明したように、共和政の原理は〈美徳〉だが、共和政において偏見が追放されてきたことは古代ローマの歴史が証明している。また、ロベスピエールは現代の近くにある模範としてイギリス国制に注目する。この弁護士によれば、イギリスは君主国でありながら国制としては「真の共和政」をなし、それゆえ「意見の軛」を払い除けることができたのだ。ここでは、『法の精神』の著者のようにイギリスの政治体制を評価することよりも、同じく君主政をなす同国と母国フランスの政治を対照させることで、君主政の革新を主張することを慎重に避けながらも、その問題点をあぶり出すという意図があったのだろう。
 実際、モンテスキューがイギリス君主政の原理として評価した〈政治的〉名誉(=「名誉」)の問題点が指摘される。ロベスピエールは、名誉を政治的と哲学的なそれに区分し、君主政の原理と考えられる前者を批判する。彼によれば、「政治における名誉の本質は、〔人が〕好まれ区別されることを切望するところにあります。そして尊敬に値するというだけでは満足せず、特に評価されたいと望み、行動において正義より偉大さを、理性より華々しさや威厳を優先したいと思わせるものです。この名誉は少なくとも美徳と同じくらい虚栄心と結びつくものです。ただ、政治秩序のなかでは美徳自体に取って代わるものなのです」。〈哲学的〉名誉は、これとは対照的である。

哲学における名誉とは、気高い純粋な魂がそれ本来の威厳さのために持つ甘美な感情以外のものではなく、理性をその基礎とし、義務感と一体となるものです。それは、神以外に証人はなく、良心以外を判断としないもので、他人の視線からも離れて存在するものでしょう。

 判断の審級となるのは、外面ではなく内面にあり、前者が他人の意見であるのに対して後者は自分の良心である。この哲学的 [・・・] 名誉とは、〈美徳〉と言い換えられるものである。
 君主政では不可避的に地位や身分が必要とされ、生まれによって人を評価するような慣習があるが、その場合に評価の基準となるのは外見である。ロベスピエールはこれを他人の意見ないし「世論(l’opinion publique)」の評価とみなし、「偏見」と深く結びついていることを問題にする。これに対して、「真の共和政」は哲学的 [・・・] 名誉(=美徳)と呼ばれる内面から湧き上がる感情、良心に基づく政治であり、そうでなければならない。その政治の具体的な方策が示されているわけではないが、その方向性が示唆されている点にアカデミー入会演説の意義がある。
 最終的にロベスピエールは、同演説ないし論文のテーマである罪人の家族への加辱についても同様な偏見に基づくものだと指摘し、論難した。その貧しさや身体の不自由、性別のために、無実を証明できない民衆は、被告の家族までもその訴訟に巻き込まれるのだ、と。この主張には、民衆=善ではないとしても、やはり「抑圧された人々」のために働くロベスピエールの姿がある。これもまた、未来の革命指導者の政治のヴィジョンを示すものであるに違いない。ただ、彼のなかでその思想と行動が一致し激しく動き出すためには、パリの寄宿舎でその作品を読み耽った心の「師」との出会いが必要だった。


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高山裕二「ロベスピエール 民主主義の殉教者: 第4回 心の「師」との出会い」(2022/8/22)(https://kangaeruhito.jp/article/659553(https://kangaeruhito.jp/article/659553))

 1786年2月、ロベスピエールはアカデミー会長に選出された。本業の弁護士業がもっとも忙しくなるなか(訴訟を24件担当)、同年4月、アカデミー会長として年に一度の公開会議を主宰した。そこでは4名の名誉会員が承認されたが、そのうちの2人は女性だった。そのとき彼が行った演説は、女性を学術の世界に受け容れることの歴史的意義を示し、この機会に女性の「権利」を擁護してみせるものだった。冒頭、その加入を祝した後、次のように述べた。

次のことを認めなければなりません。文芸のアカデミーに女性を入れることは、これまである種の異常なこととみなされてきました。フランスやヨーロッパ全体でも、その例は本当にごくわずかです。慣習の支配とおそらくは偏見の力が、この障害によってあなた方のなかに地位を占めたいと望みうる人々の願いを妨げてきたように思えます。(中略)〔しかし〕彼女たち〔今回選ばれた2人の女性〕の性別は、彼女たちの能力が与えた権利をなんら失わせることはなかったのです。

 ロベスピエールにとって、女性の「権利」の主張は、偏見や無知との戦いの一環だった。「女性にアカデミーの門戸を開き、同時にその害毒である怠慢と怠惰を追放してください」。そして、「才能と美徳を育むのは競争です」と言って、性別の隔てない「競争」を科学の進歩の観点から称賛したのである。
 この点で、「単純な、粗野に育てられた娘」のほうが「学識のある才女ぶった娘」よりもはるかにマシだと語った『エミール』の著者とは対照的だった。ルソーは同書でさらに次のように続けている。

こうした才能の大きい女性はみな、愚か者にしか畏敬の念を抱かせることはできない。(中略)彼女に真の才能があるならば、こうした見栄をはることでその才能の価値は下がってしまう。彼女の品位は人に知られないことにある。彼女の影響は夫の敬意のうちにある。彼女の楽しみは家族の幸福のうちにある。(樋口謹一訳)

 確かに「弟子」のロベスピエールも、その演説で、男女にはきっとそれぞれに相応しい学問分野があり、女性は想像力や感情の点で豊かだと言っている点では、おそらくその時代に支配的な女性観を前提にしていると言えるだろう。その点では案外ルソーと近かったのかもしれない。しかしだからといって、女性は男性の付随物、「お飾り」ではなく、その能力で評価されるべき一個の人間とみなすべきだと彼が声高に主張し、その「権利」を擁護したこと自体は過小評価されるべきではないだろう。
 前年、マリー・サマーヴィルというイギリス人女性の訴訟を引き受けたのも同様な観点からだっただろう。彼女が夫の死後、負債のために強制的に逮捕・監禁、晒し者にされた事件で、ロベスピエールは彼女を無償で弁護した。このことは、彼が社会の進歩の一環として、自由に能力を発揮する機会を女性に与える義務を主張していたことと平仄が合う。「この義務は、われわれが他のシステムを採用することができないなら、いっそう不可欠なものです」。
 女性は「弱い性」で、そのかぎりで弁護すべき対象であるが、そうさせているのは社会体制の側であって、そのなかで女性の能力を発揮する機会が開かれておらず、彼女たちの社会実践が「未経験」であることに問題の根本がある。こう主張することでロベスピエールは再び、「抑圧された人々」と運命を共にし、彼女たちの側に立つと宣言したのである。


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高山裕二「ロベスピエール 民主主義の殉教者: 第5回 「幸福の革命」に向けた3つの矢」(2022/9/26)(https://kangaeruhito.jp/article/696195(https://kangaeruhito.jp/article/696195))

 1788年7月5日、ルイ16世は突如、全国三部会[1302年に国王フィリップ4世が召集した身分制議会]の近い将来の開催を約束、8月8日には、翌年5月1日の召集を発表した。
 これには伏線があった。財政上行き詰まった王家は、免税特権の廃止をめぐって貴族と対立する一方で、新しい税制の創設に向けて高等法院とも対立した。旧体制下、高等法院はパリのほか13の地方にある最終審裁判所であり(アルトワ州のように最高評定院が類似の役割を果たした地方もあった)、その法律の合法性に関して助言する建言権と王令登記権を有していた。つまり、高等法院によって登記されなければ、王国のいかなる諸法も効力を持たず、その意味で高等法院は法的な権限だけではなく、政治的にも大きな権限を握る組織だった。
 そこで、八方塞がりとなった国王が放った窮余の一策が議会の召集、つまり1614年以来開かれていなかった全国三部会の再開だった。三部会は、貴族と聖職者のほか、「第三身分」と呼ばれる都市や地方の平民・・から構成されていた。要するに、高等法院の多くを構成する貴族――しばしばお金で買われたものだったが――を超えて、広く国民の「世論」に訴えることによって事態の打開を図ろうとしたのである。
 旧体制(アンシャン・レジーム)末期、印刷物の広がりを背景にして、国王およびその側近たちの形成する意見とは異なる「世論」が都市の社交界を中心に形成されつつあった。そこで、ルイ16世が全国三部会の召集を決定すると、その会議の手順や投票方法をめぐって「世論」が沸騰することになる。各身分が個別に会議を開催するのか、決議は各身分1票なのか等々が不明確なままだったからだ。数千に及ぶパンフレットが公刊され(国王の「発表」後に月平均で100点が出版されたと言われる)、「世論」は盛り上がり、大きな力を持つことになった。
 地方でも、誰をどのように選出するのかが大問題となる。そもそもアルトワ州のような地域では、州三部会[旧体制期の州の代表機関]が特権階級によって占められていた。貴族は100票、聖職者は40票を持ち、第三身分には30票ほどが割り当てられ、しかも各都市から選ばれるそのメンバーは三部会が指名できる権限を有していた。そこで、これまで自己の良心と社会の悪弊の間で煩悶してきたロベスピエールも、この機会をとらえ、「世論」の法廷に向けて発言を開始することになる。(……)

     *

 翌年1789年1月、国王はアルトワ州でも他の地域と同様に代表を選出する選挙を実施すると発表した。それは奇しくも、『第三身分とは何か』というこの時代にもっとも有名なパンフレットの1つが匿名で出版された月だった。そのなかで、著者のエマニュエル・ジョゼフ・シィエス(1748-1836年)が、第三身分こそ「国民」であると主張したことはよく知られている。
 同年2月、アルトワ州でも匿名でパンフレットが出版された。題名は、『アルトワ人に向けて――アルトワ州三部会を改革する必要性について』、83ページほどのパンフレットだった。これが、ロベスピエールが改革に向けて放った第2の矢である。その主題は「代表」問題であり、エスタブリッシュメントがいかに人民を「代表」しておらず、「危険な敵たち」であるか、一方で「われわれは彼らに与えられた鎖の下で眠らされている」と訴え、奮起を促したのである。こうして地方でも、すでにペンの力で革命の火の手があがっていた。
 代表者は実際に [・・・] 選ばれなければならず、そうでなければ議会は「亡霊」でしかない。では、現状はどうか? 聖職者は誰にも選ばれていないし、貴族はなんら委任を受けていない。また、第三身分の「代表」と言っても、都市参事会から構成され、彼らはみずからを代表しているにすぎない。彼らは一部の特権的な都市の住民から選ばれているにすぎず、〈われわれ〉を代表する権利はまったくない。こう言ってロベスピエールは、自分たちで選ぶ自由、すなわち人民の普通選挙権が不可欠であり、これが与えられるなら、町の栄誉を得る(=代表になる)のは能力と美徳によってのみとなり、悪弊は消え去るだろうと訴えたのである。
 議会の亡霊を「真の国民の議会」に代えること、われわれ自身で選んだ代表に代えること。未来の革命家は、これを再び「幸福の革命」――女性によって進められると言われたあの革命――と呼んでいる。そして、「われわれを苦しめるあらゆる害悪の終わりは、国民議会でわれわれの利益を擁護するというおそるべき名誉を託す人々の美徳と勇気と感情にかかっている。それゆえに、この重大な選択において野心や陰謀がわれわれの行く手に撒き散らす障害を注意深く避けよう」と語り、さらに次のように問いかける。

愛国心や無私の仮面の下ですら野心を隠せない人々に何を期待するというのか、考えてほしい。

 3月末にアラス市で第三身分の会議が開かれたとき、法曹家で富裕な「友人」デュボワらが影響力を行使し、民衆に選挙権を与えることを拒もうとした。それに対して、靴職人の職能団体の会合に招かれたロベスピエールは、彼らの「陳情書」(国王が各地域でまとめるよう指示していた意見書)の作成に携わり、そうした企てに激しく反発した。そこで、その憤慨を言葉にあらわしたのが、『仮面を剥がされた祖国の敵――アラス市の第三身分会議で起きたこと』というパンフレットだった。これが、改革を訴えた第3の矢である。ロベスピエールは同冊子で、デュボワを含め彼らエスタブリッシュメント愛国心あるいは人民の代表者という「仮面」を剥ぎ取るべきだと訴えたのである。なぜなら、彼にとって、良き市民のもっとも重大な奉仕は「たくまれた陰謀の秘密」を暴露すること、「仮面」を剥がすことにあると考えられたからだ。

まさにここで私が率直に暴露したいのは、公共の大義を捨てた臆病な首謀者たちの気弱さ、そしてそれを謀った悪しき者たちの卑小さである。

 祖国の敵の「仮面」を剥がすこと、この「幸福の革命」を遂行することは、人間のもっとも神聖な義務であり、それは同胞の幸福のために身を捧げることにほかならない――。ここではいわゆる特権身分(聖職者や貴族)ではなく、デュボワをはじめとする第三身分の〈内〉にいる「敵」に攻撃の照準が合わされていることに注意したい。
 もちろん、この理屈は自身が第三身分の代表に選出されるための戦略の一環でもあっただろう。だが、それはロベスピエールの思想という観点から見て、きわめて示唆的である。〈われわれ〉の外にいる特権階級の見える [・・・] 「敵」だけでなく、いやそれ以上に〈内〉にいる第三身分の見えない [・・・・] 「敵」と戦う必要があると彼は考えたのである。つまり、〈われわれ〉の内部に存在する「敵」こそが改革のより危険な障害であり、その「仮面」を剥ぎ取ることで「敵」を〈内〉から排除するべきだという発想である。

2022/9/25, Sun.

西脇順三郎訳『マラルメ詩集』(小沢書店/世界詩人選07、一九九六年)

●60(「エロディヤード」; Ⅱ 劇; 乳母)
 貴女の寵愛の財宝が待つ神が異常に
 和し難いものであり、神自身哀願者である
 ということは、暗い恐怖心からでなければ
 想像出来ない! (……)




 いまもう日付が変わって九月二六日の零時二八分。きょうは七時のアラームで覚めてうだうだ起床し、一一時過ぎに家を発って(……)まであるいては菓子などを買ってから地元に移動して、美容室に寄って髪を切りあいさつしたあと実家に行った。アパートに帰ってきたのは六時過ぎくらい。さきほどきのう、二四日の記事を書き終えて投稿したところで、きょうのこともさっさと書いておきたかったのだが今夜はもはやその気力がない。おれももう三二だし、からだをいたわって無理をせず、夜は休んだほうがよい。ストレッチなどをきちんとなるべくまいにちやったりよくあるいたりして身をやしなわないとこの営みもつづけていけないぞ。いちおうまだ死ぬその日まで書くつもりでいる。髪型はぜんぜんたいしたものではなく、いつもどおりまわりを刈って全体的にただ短くしただけで、まあ言ってみればオールバックではない、貧弱そうな覇気のないグラハム・ボネットみたいな感じですね。顔とあたまのかたちはたぶんけっこう細長いんだよな。したはどこかのタイミングで読んだ(……)さんのブログからで、「カップ麺を食いたいから」という言い訳にはさすがに笑う。たしか去年この記述の引用元当日で読んだときもおなじように笑った気がするが。そしてもしかしたら去年のそのときにもおなじように「さすがに笑う」と言及していたかもしれない。

(……)さん、まさかの100分通話……。長すぎる。さすがに疲れた。端的にいって、めちゃくちゃ甘えたような声で、かなり媚びてきてるなという感じがあった。これは正直予想外だった。60分ほど通話したところで、さすがに夜も遅いし、一方的にあれこれしゃべりまくっている感じもしたから、ぼちぼち切り上げ時だろうと思って会話を終わらせようとしたのだが、そこで「もうちょっと……」と言われたときには、あれ? こいつ共産党から優秀教師のもとに送り出されたハニートラップか? と思ったものだ。 100分経ったところで、「カップ麺を食いたいから」という、われながらひどすぎる理由で通話をなかば力ずくで終えたのだが、そのあとも微信は届くし、「もう食べた?」と、食べ終わったら通話再開しましょうという含意のありそうなメッセージも届くし、いやいやいや、おしゃべりの相手くらいならいつでもしますとはいったものの、連日これだったらかなりきついぞと思った。


     *


 出発したのは一一時過ぎ。道に日なたもひらいているが、日陰にはいってながれも来ればばあいによっては肌寒いような、涼しげな秋の陽気だった。公園前で折れて車道に向かい、渡ると左折して、ストアやコンビニのある南へすこし。空には青さがおおく、頭上にある雲はいくらかつながっていたものの、それもそうひろくはなく、ほぼみんなちぎったような丸めたような、輪郭がほわほわした感じの独立雲としてあいだに青をそそぎながら浮かんでおり、それらに太陽がひっかけられて日が出たり出なかったりという調子のあかるい昼だった。一路西へ。ネコジャラシがまだまだ緑を濃く溜めて茂っている一角がある。踏切りをわたって病院方面、きのうも脇をあるいた空き地は昼間に見れば一面草で、コオロギ類の鳴き声がところかまわず湧いている。土地の南辺にあたるそこに沿ってすすむと、病院前の角で右折、すなわち北上したのは昨晩とちがってさいしょから敷地裏側のルートで行くためである。裏に向かうあゆみの右かたわらにも草はらがひろくひらけており、エンマコオロギがヒュルヒュルヒュルヒュル声を送ってくるそちらをみれば、ほんとうに浅い緑の全一というか全覆というか、背の高い低いや種のちがいはいくらかあるにしても、みわけられるのは近間の草くらいで、ちょっと距離がはさまればともかく緑、あざやかでもつややかでもなくこれから老いの季節をむかえるおだやかな緑のひといろだった。つきあたると左にわたって病院裏の道をふたたび西へ、昨晩も見た駅そばのマンションは昼の空気のなかで壁の茶色がよりあらわであり、窓にひかりはともっていないがベランダをかくす磨りガラスらしき腰壁が、薄青いようで、昼は昼でひかえめに装飾されている。対岸にもうけられた駐車場のいちばんてまえにあたる縁には木が何本か立っており、なかのひとつが幼児でもつかめそうなほどに垂れ下がった枝先を中心にこずえをゆらゆら風にあそばせているさわやかさをいぜん目にしたところだが、どの木も枝を切られて葉はとぼしく、無骨なすがたをさらして固く、とりわけくだんの一本は幹だけになるとこんなに太かったのかと、飾りを廃した裸形がかえってこんどは堂々と充実していた。紅のサルスベリがすでに散った自転車レーンではちいさな女児を連れた父親が、自転車の乗り方をおしえようとしている。なんとか高い声をあげながらもたもたしているその子の顔をみやりながら過ぎると、乗り出してまもなくたおれていたようだった。(……)通りにあたると横断歩道で少々待ち、涼しいとはいえこのころにはたしょうの汗も生まれていたはずだが、止まって立った背に球がころがるほどではない。渡るとそのまままっすぐ、やや繁華な区域をすすんでいく。とちゅう、右手向かいに建物が解体されたあとの、すこしふくらんだような白いフェンスに囲われた一画があり、フェンスのさきでとおくにショベルカーの黄色がのぞいているけれど地面がどうなっているのかは見えず、敷地のむこうにはマンションがいくつか接して立っているので、あそこのひとは、おそらくは瓦礫が散乱しているだろう荒涼とした図を俯瞰一望できるだろうなとおもった。左は左でこちらも白さに包囲されながら高いビルを建設している。駅前まで来ると駅舎にあがる階段のてまえでちいさな横断歩道がある。そこに止まればとおくの空の水色などみているうちにこちらにもあちらにも続々とひとがあつまってきて、みな信号が変わるのを待つのだが、そんななかでひとりだけ、白い日傘を差した女性が、信号を意に介さず道に踏み出し、まったくいそぐではなくゆったりとした、ほとんど優雅なような速度と足取りで、両岸の人群れのあいだを先んじてしずかに渡っていった。だれもがかのじょに注目していたわけではないが、まったく単独の位置に立ったそのすがたは目には立っただろうし、すくなくともこちらの目は惹いた。まもなく信号も変わってみなわたりだしたが、行きつつ見上げれば駅舎につづく階段をすでに中途まであがった女性の足取りはあくまでゆるやかで、記憶があいまいだがうえは日傘とおなじで白の装い、したが紺色のボトムスではなかったかとおもう。ちいさなバッグを身にたずさえていた。こちらは階段にはいらず、小便をしたかったので駅舎下にある駐輪スペースのまえを沿うて公衆トイレに行き、用を足すと駅舎入口部分に横からあがる、左右端をエスカレーターに縁取られたひろい階段からなかにはいった。だれもがエスカレーターをえらび、ながめの階段をのぼる者などひとりもいないが、こちらがそのひとりになってやる。そうしてそのままひとのながれのあいだを抜けて(……)へ。はいると手を消毒し、フロアをすすんで「(……)」。美容室のふたりにはよく買っているクッキー詰め合わせのプティガトーと、タカノフルーツパーラーの粒状チョコレートがいっぱいはいったやつでよかろうと。実家にはなんか三つ入りの濃厚ショコラみたいなやつと、たまには菓子ではなくてなんか佃煮とかそういうのでも買っていくかとおもい、(……)家にもこのあいだあげた味噌のこんどは赤だしではなくて「あさげ」という種類の品と、あとアサリの生姜煮みたいなやつをえらんだ。籠に入れたのをレジに持っていき、会計。手提げを三つ入れてもらう。そうして店を出るとレシートとか財布とかをかたづけ、紙袋を提げてフロアのとちゅうから改札内へ。ホームに下りて(……)行きに乗った。FISHMANSを聞いたはず。
 電車内のことはとくべつおぼえていない。だいたい隅のほうに立っていた。(……)に着くと(……)行きがすでに来ていたので乗り、席でしばらく瞑目したのだったか、それとも携帯で(……)さんのブログでもみたのだったか。すこし待って発車し、実家の最寄りに降りると駅を、ふだんは南側に出るがたまには逆から行くかと北側に抜けて(通路のとちゅうにハイキングにでも来たらしき若い夫婦と子どもふたりがいる)、線路沿いをあるいていった。おどろくべきことにツクツクホウシがまだ一匹、林のなかにのこっている。じつにおちつく空気だった。緑の濃さをまだまだのこした丘がすぐそこに見え、林も木々も同様、そしてなにしろひとがおらず、正確には家の縁側でなにかいじっている年寄りがいたがそれくらいで、しずけさのひろい大気のなかに虫の音やカラスなんかの声があきらかで、ほかに気配もたいした音もない。おちつきは場所のおだやかさへの安逸でもあろうが、なじみの土地に来た安堵感もまたあったのだろうか。踏切りを越えて街道沿いに出ると美容室「(……)」はすぐそこ、はいってあいさつすると(……)さんのすがたはなく、(……)さんひとりである。荷物を置いて洗髪台へ。その後切ってもらうあいだ、ようやく実家を出て(……)にいるとか、とくに不満なくやっているとか、とはいえ環境が変わってストレスがあったらしくパニック障害がすこし再発したとか、そういったことをはなす。次回はあちらであたらしい店をみつけようとおもうが、ずいぶんながいあいだお世話になったのでこれはきちんとあいさつをしておかねばならんと、それできょうは土産もあるので、と意図を告げた。散髪中の会話にたしょうの印象もあった気がするのだがよくおもいだせないので割愛し、五か月分だか伸びた髪をばっさばっさ落としてすっきりしたあとは、会計を済ませてから手提げ袋にクッキーとチョコレートを入れて、礼を言いながら渡した。(……)さんはもちろん、そんなのいいのにわざわざ、ありがとうございますーという感じの反応で、いくらか身をただしたようにして受け取ってみせた。(……)さんはきょうはもう上がったらしいが、かのじょの分もあるのでと言ってもう一袋わたし、こんど来たときにあげてくださいと言っておく。会計のさいにそういえば、じゃあカードをここまでで回収していいかなとなり、引き換え品としてシャンプーの詰替パックをもらった。nano suppli Green appleというやつ。ありがたい。シャンプーにこだわりもないので、いまつかっているやつがなくなったら、ボトルはちがうが詰め替えてつかおう。
 それで退店。陽射しがまぶしい街道を渡り、木の間の坂をおりて実家へ。父親が家の南側にいるようだった。玄関があいているのではいっていくと、母親は居間のソファでうとうとしていたが、こちらの気配に正気づいておかえりというので、どうもどうも、と受ける。土産を渡し、飯をもらうことに。焼きそばがあると。ケンタッキーフライドチキンもあるというので食いてえなとおもい、しかし胃をおもんぱかっていちばんちいさなやつにして、米も少量にする。その他味噌汁。食っているあいだはこのまえも聞いたが、母親が行っている資格講座のはなしなどを聞いたはず。むずかしいというので、そりゃ勉強するなんて高校以来でしょう、と受ける。母親ははっきりいって、学力的には馬鹿の部類といってまちがいないのだが、しかし六〇を超えてあらたにものを学ぼう、ここからあたらしいことを知ってやってみようという意欲があるというのはうたがいようもなくすばらしいことで、なかなかだれにもできることではないので、その点は帰りの車のなかで、すごいじゃない、たいしたもんだと言っておいた。飯を食ったあとはみずから食器を洗い、アイロン掛けを待っているシャツやハンカチなども居間の片隅に置いてあったので、せっかく来たしこれもやってやろうと家事にはたらく。そのあとは自室におりて部屋のかたづけも。机の引き出しのなかに幼少時から溜まって放置されているこまかく雑多なものたちを主に始末し、燃える燃えないプラスチックにわけたり、いらない用紙書類として溜めておいたものをシュレッダーするものしないものに分けたりなど。これで四つある机の引き出しのうち、もっとも幅広のひとつと、右手に三つかさなっているうちのいちばんうえの中身はかたづけることができた。二番目三番目はまたこんど。母親もとちゅうで部屋に来て、お父さんが死んだあとこの家がのこったらかたづけどうしようっておもうよ、とおなじみの嘆きをくりかえすので、だからいまこうしてやってんじゃないかと笑う。かたづけに切りをつけたあとは持っていく本を選別。ちょうど土産を買ってきた紙袋があったのでそれに入れていけばよいというわけで、机のうえに乗った棚の右側に開口スペースがあるそこに積まれていた単行本を主に持っていくことに。いちおう持ってきたやつを記しておくと、城戸朱理訳編『エズラ・パウンド長詩集成』、エリザベス・グロス『カオス・領土・芸術 ドゥルーズと大地のフレーミング』、ガタリの『分子革命』、菅野昭正『セイレーンの歌』、河出書房の『古井由吉 文学の奇蹟』、ガタリの『カオスモーズ』、ブレンダン・ウィルソン『自分で考えてみる哲学』、あと『現代思想』のBLACK LIVES MATTER特集と、『ユリイカ』の蓮實重彦特集。まあ持ってきたところで置く場所もあまりないし、一向に読めもしないのだけれど。
 母親が焼きそばとか持ってく? というのでいろいろもらっていくことに。焼きそばにチキン、カボチャの煮物、あと母親もプティガトーを食べたくて買ったというのでそれを少々分けてもらったのと、たぶん自家製のゴーヤ。五時ごろになるとそれらも袋にまとめてリュックサックにおさめ、荷物を整理してそろそろ行くかというころあいだったのだが、どうも疲れがあってねむかったのでソファにすこしだけ身をあずけた。それで出発。母親が(……)駅まで送っていってくれる。父親はぜんぜんなかにはいってこなかったので発つまえに顔をあわせておこうと、玄関を出ると家の南側へ。自作の木製テーブルが設置された部分、やはり木板でできているその床をブラシでゴシゴシこすっていた。ちかづいていって手をあげ、もう行くよと告げる。いろいろ買ってきてくれたみたいでありがとうねというので、味噌を買ってきたから料理につかってくれと返し(さいきんは母親がいそがしくしているから父親が飯を用意することもわりと多いらしく、母親にいわせれば「主夫」をやってくれているとのことだった)、体調はまあぼちぼちという感じで、どうもやはり胃がなんか連動しているようでよくないのだが、まあなんとかやっていると言っておく。それで別れて小坂をのぼり、家のまえに出て母親の車に同乗。駅まで行くあいだはまたおなじみの繰り言で、父親について、家事をやってくれるのはありがたいがなんではたらかないのかっておもう、お金がどんどんなくなっちゃうじゃん、山梨行けばガソリン代とかだってつかうし、あとなんかいろいろ道具とかも買ってさ、やっぱりにんげん、はたらけるうちははたらいてお金取ってこないと、いまいそがしいと、そうすると休みの日がほんとになんか休みだーっていう感じでありがたい、休みのありがたさがわかるね、みたいなことを母親はつらつらしゃべる。まあ典型的な、はたらかざるもの食うべからずの価値観と言ってよいとおもわれ、こちらじしんはまいにち一生休みであるべきだとおもっているにんげんだからもちろんそのような価値観に同意しないが、いぜんはまいにちのようにこれを聞かされて苛立ちの種となり、ときにはその苛立ちから無駄だと知りながらも反論を口にしてしまったりしていたけれど、こうしてたまに聞かされるくらいならまあどうということもない。ところでこの日帰り道か帰ったあとにおもったのだが、母親の嘆きや不安の対象というのはあくまで現世的なことがらなのだ。つまり、かのじょはじぶんの死にたいする不安を口にしたことはいままでいちどもない。母親が不安におもうのはあくまでもこれからの、将来のじぶんの生にまつわることがらだ。母親の繰り言の主題としてここ数年つねに二大巨頭の地位をえているのは、まずひとつ父親に再就職してほしいということ、もうひとつが、父親が死んだあとにのこされた家のかたづけや処理をどうすればいいのかわからないということである。ひとつめの点は、父親にはたらいてほしいというのは、家にいられると鬱陶しいとか、じぶんの夫が(定年したとはいえまだはたらける年齢なのに)はたらいていないのは世間的に恥ずかしいとか、にんげんはやはり労働をして社会とかかわるべきでそうしてこそ生き生きできるのにいまの父親はそれがないからいかにもしょぼくれたようで髭も剃っていないし、もうほとんど「終わったひと」(これは内館牧子原作の映画で、舘ひろしがその「終わったひと」の立場を演じているらしい)みたいになってしまっているから、このまま終わらずにまだまだもっとかがやいてほしいみたいな、こちらからすればアホかみたいな、じぶんの勝手な理想を他人に押しつけるような傲慢な観念がいくつかあるのだとおもうのだけれど(こちらにも理解でき、同意されるのはさいしょの「家にいられると鬱陶しい」だけで、ほんとうのところこれが本質で、その他の理屈はそれをはっきり言わないためにあとづけで見出された文化的虚飾だと穿って見ているのだけれど、この日帰ったときには、やっぱり家にずっといられて年中顔を合わせてると気が詰まるっていうか、おたがいに、だからそれもあって資格講座に行くようになったんだよね、ということを言っており、それをはっきり言うようになっただけよかったのではないか)、それにくわえてやはりたんじゅんに金銭の問題、はたらかないでいると金が減っていくばかりだし、まだはたらいておかないと今後の生活でお金が足りなくなるのではという不安があるのだとおもう。だからそれは母親の老後の生活にまつわる現世的な不安である。ふたつめの点も同様で、なぜかわからないが母親のなかでは父親のほうがさきに死に、じぶんがもろもろの後片付けをすることになるというのはもうほぼ確定された未来としてなかば事実化されているようなのだ。かのじょは、じぶんがさきに死ぬかもしれないということや、じぶんが死ぬということそれじたいを不安におもっているようにはまったく見えない。そういう思念がふとよぎる瞬間がないようにすらみえる。たぶん、ほんとうにそうなのではないか。母親だってこのじぶんがあと二十年か三十年かわからないが、そのうちに死ぬということはもちろん知っており理解しているはずだけれど、母親のあたまにその事実がなんらかのかたちで浮かぶことはないようにみえるし、よしんば浮かんだとしても一定以上とどまることは絶無におもえる。かのじょはじぶんの死にたいして不安をおぼえていない。かのじょがおぼえる不安はすべて、じぶんの生にたいするものである。そういう、思考において抽象的領域や超越との関係が形成されないという点で、母親はじつにすぐれた意味で世俗的なにんげんなのだとおもう。ハイデガーならおそらくは、これこそまさしく頽落した非本来的な人間のありかただと言ったのではないか。母親が資格講座に精を出したりしているのも、おのれの死と存在の本来性に直面せず、それを忘却せんがための気晴らしだということになる。この世俗性はこちらにとってひとつの、確固とした他者だ。身近に接するにんげんのなかで、こちらにとっていちばん他者度が高いのはおのが母親である。だからかのじょの思考傾向やメンタリティを観察したり分析したり理解したりするのはけっこうおもしろい。まえにも記したが、一種の文化人類学的な興味がある。となるとそこに、母親というひとりの身近な他者を書くネタにして、自己の知的優位をうたがわない立場から分析したり解剖したりすることの道徳性もまた、ひとつの問題としてちょっと生じるわけだが。
 それで駅まで送ってもらうと礼を言って別れ、電車へ。この日ののこりのことはあと特段におぼえていない。もらってきた焼きそばを食ったり、書抜きをしたり日記を書いたりという感じだった。


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  • 「ことば」: 11 - 15
  • 「読みかえし1」: 585 - 600, 601 - 606


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金井美恵子「いつの間にか忘れられてしまうこと③」(2021/6/10)(https://www.webchikuma.jp/articles/-/2426(https://www.webchikuma.jp/articles/-/2426))

 ところで、少し横道に逸れるのだが、園児というものは、スモックと呼ばれる木綿のゆったりしたシャツのようなものに、白い丸襟、、のついた制服を着せられている。何年か前までは男女で色分けされていたような気がするが、園児たちより、子どもを送り迎えする母親たちが騒々しい園の門前を見ていると、現在は男女ではなく冬用のネイビー、夏用の水色に分けられている園もあるようだが、変わっていないのはスモックのシルエットと白い丸襟である。白いステンカラーやシャツ襟ではなく、白い丸襟というものは、姉に言わせると、男は卒園後一生身につけることのないアイテムではないかと言うのだ。60年代後半のピーコック革命に始まった、サイケデリックと混じり合うことになる男性ファッションには、白い大きなウサギの耳のように垂れた先のほうが丸い襟の派手な色彩のシャツがあったし、今でも襟先が丸くカットされた柄物のシャツを着るタイプの男はいるけれど、それらにはネクタイとスーツがセットされていて、あの形だけは無性的な園児用スモックとは違うし、あれを2年だかの間着せられたのが、一種のトラウマになっている男というのがいるのではないか。タモリは幼稚園でスモックを着せられ、さらに幼稚な恥ずかしい歌に耐えていたのだろうか、と言うのである。

     *

 朝日新聞の「介護とわたしたち――2025年への課題」という特集記事(’20年12月13日)には、「認知症の人の数 [、、、] (患者 [、、] ではなく、人 [、] と書かれていることに注意。傍点は引用者による)が600万人以上と推計される中、国が認知症施策推進大綱で掲げた柱の一つが「共生」だ」が「一方で、岩盤のような偏見は今も社会のあちこちで見え隠れする」と記事を書きはじめる。「認知症の人と家族の会」の家族会員の一人は、新型コロナウイルス感染症への偏見は認知症とも重なる課題だと言う。「どちらも、誰もがなる可能性があり、決して本人のせいではない。否定的に受け止めるのではなく、なっても安心して暮らせる方向につなげることが大事ではないか」
 そのとおりではあるけれど、それはわざわざ病気を選ばずに言えることのはずだ。どちらも誰もがなる可能性があり、決して本人のせいではない [、、、、、、、、、、、、] 病気がある一方で、たとえば生活習慣病 [、、、、、] と、その原因は個人の自己責任の範疇にあると、執拗と言おうか過剰に暗示 [、、] されたり明示 [、、] される病気(かつて野坂昭如は、この病名について、全部お前の悪しきデタラメな生活習慣のせいだと言われているようだと書いていた)があることを認めた上での、本人のせいではなしに罹患したにもかかわらず偏見にさらされる病(あえて、やまい [、、、] 、とやまと言葉がおどろおどろしい印象の言葉を使うことにしよう)があり、それはどうやら、1946年に世界保健機関(WHO)が定義した「健康」の概念に発しているらしい。たとえば、≪健康優良児≫を表彰する制度があり、子どもの頃、周囲にそういう子どもがいたかどうか記憶にはないのだが成人した後年、元健康優良児だったという人物は見たことがある。それはそれとして、生活習慣病という言葉が定着する以前に、老人たちが医療費が無料であるのをいいことに [、、、、、] 、必要のない薬品をもらったり、仲間同士で病院にたむろして時間をつぶしていると批難する風潮があり、そうした事態から脱却するための「国民健康づくり対策」が当時の厚生省から提唱されたのが78年で、「自分の健康は自分で守る」自覚が重要とされたそうだが、(’20年10月10日朝日新聞「オピニオン&フォーラム」欄)、こちらとしては年齢のせいもあって、まるで馬耳東風だったが、ふと思い出して『昭和家庭史年表』を開くと、77年のデータの一つとして「良い医師、悪い医師」のアンケート調査(中川米造「よい医師像」『医学教育』第8巻2号)が載っていて、病気にかかれば、私たちは、とりあえず医師と出会うことになるのだが、そのアンケートの翌年に厚生省は「自分の健康は自分で守る」自覚が重要だと言っているものの、認知症とコロナ(知的人物はこうした曖昧な通称 [、、] を使わず、COVID-19とちゃんと病名を書く、と、いとうせいこうはパオロ・ジョルダーノのコロナ本の書評の中で断言していたが)は、どちらも誰もがなる可能性のある、決して本人のせいではない病気なのだ、という言説が存在する。それはどこか、なんの罪も科もない者に降り掛かった災厄を嘆く言葉に似ていて、それでは罪や科(とが)のある者に同じ災厄はふりかかっていいのか、といういかにも幼稚な疑問を呼び起こすのだ。

2022/9/24, Sat.

西脇順三郎訳『マラルメ詩集』(小沢書店/世界詩人選07、一九九六年)

●56(「エロディヤード」; Ⅱ 劇; エロディヤード)
 私の髪は人間の苦悩を忘れさす
 香りを放つ花でなく、黄金でありたい、
 香料の残忍な光の中でも、鈍い薄明の中でも、
 金属の不毛の冷寒を保つ黄金でありたい、
 それは私の孤独の幼時からの懐かしい宝――
 生家の城壁よ、武器よ、花瓶よ、
 お前たちを反映してきた黄金でありたい。




 七時ごろにいちど目覚めた。雨降りはつづいており、カーテンを閉めていれば部屋のなかがだいぶ暗い朝である。もうすこし寝ようとおもってあおむけに直り、寝ついてつぎに覚めたのが一〇時ごろだった。ゆめをけっこう見て、おおまかには二種類に分かれていたのだが、ひとつはBill Evansにかんするもので、かれが沖縄に住んでいてその演奏を聞いたというもの。おそらく米軍の一員としているような設定で、かつ時代はいまよりもかなりむかし、Bill Evansのだいぶ若いころに据えられていたようで、演奏がおこなわれた野外の通りというのは沖縄という認識だったが、じっさいには地元の街道のとちゅう、角に交番がある(もうないのだったか?)(……)の五叉路のあたりがモデルになっているようだった。Evansが演奏していたのはさいしょは”All of You”だったはずなのだが、これも聞いているうちに、あれこれはなんだっけ、この進行の感じは、”There Will Never Be Another You”じゃないかな、というふうに更新された。そのほかEvansが飯屋の店員として、ポテトがいっぱいに盛られた皿をさわやかげな笑顔ではこんでいるカットも記憶している。もう一種類のゆめはよくおぼえていないのだけれど、体育館でバスケの試合を見ているようなものだった気がする。
 意識がいちおうかたまるとカーテンの端をめくり、真っ白な空を目にふれさせて覚醒をさらにさだかにする。腹を揉んだり、息を吐いたり、足首を前後に曲げて脚のすじを伸ばしたり、あたまを左右にころがしたり。胎児のポーズもやっておいた。一〇時半ごろに離床。カーテンを開け、洗面所に行くよりさきに椅子について水を飲む。ちびちびやりながらコンピューターをティッシュと消毒スプレーで拭き、立ち上げてNotionを用意。それから便所に行くとクソを垂れ、顔も洗って出るとうがいをした。蒸しタオルもきょうはやっておく。そうして寝床に帰ると一年前の日記の読みかえし。2021/9/24, Fri.である。冒頭の熊野純彦の引用は、きのうもふれたレヴィナスの〈近さ〉についての説明になっている。

 〈近さ〉とは、しかしなんだろうか。〈近さ〉は第一に「幾何学的に」測られるものではない。空間的に近接 [﹅2] していることそのものが〈近さ〉なのではない。「主体は空間的な意味に還元不能なしかたで〈近さ〉にまきこまれている [註164] 」(129 f./157 f.)。――〈近さ〉は、また一致 [﹅2] を意味しているわけでもない。むしろ、とレヴィナスは書いている。

 〈近さ〉とは差異であり、つまり一致し - ないことであって、時間における不整脈である。それは主題化に抵抗するディアクロニー、つまり、過去の諸相を共時化する想起にたいして抵抗するディアクロニーなのである。〈近さ〉とは物語りえないものなのだ! 他者は物語られることで、隣人としての顔を失ってしまうのである(258/301 f.)。

 (註164): 逆に空間それ自体もまた「透明さと存在論」によって汲みつくされるものではない。空間そのものには「人間的意味」が、また人間的意味を超えるものがあるのである(275/321)。

 (熊野純彦レヴィナス――移ろいゆくものへの視線』(岩波現代文庫、二〇一七年)、243; 第Ⅱ部、第三章「主体の綻び/反転する時間」)

 ニュースはロシア下院選まわりなど。

また、ロシア下院選で「新しい人々」という新党が議席をえると。きのうだかおとといにこの選挙の暫定結果をつたえる記事があって、むろん与党統一ロシアの圧勝なわけだけれど、とはいえ与党は三三四議席から三二四に減らすことになり、また自由民主党もだいぶ減ったいっぽう、「公正ロシア」だったかそんななまえの左派と共産党議席を増やし、くわえてこの新党があらわれていたのだ。一三議席くらい取るもよう。新党の素性はしれなかったが「新しい」とわざわざうたっているからにはすくなくとも反プーチンではあるはずだろうとかんがえ、だからいちおうリベラル派、反プーチン派が伸長したという結果にはなっているのだなと理解したのだけれど、きょうの記事によればFISHMANSの曲みたいななまえのこの党はやはり反プーチン勢力で、たとえば比例代表では改正憲法に反対した極東サハ共和国ヤクーツクの市長を候補に立てたりしているらしい(この都市は兄が何度か行っていたはずだ)。しかしそれも一抹あやしさがただよっているらしく、有力紙の報道によればこの新党のバックにはプーチンがいるとかで、党首とプーチンにちかい有力者らの関係が取り沙汰されており、結党からわずか三か月で選挙参加をみとめられたのも異例だから、政権側が批判の受け皿として用意した「官製野党」なのではないかという見方もあるようだ。

 往路帰路の記述は以下のようなもので、往路のほうはけっこう書いてはいるのだけれど、読んでいてそんなにおもしろくは感じなかった。なんというか、意外とながれていないというか、リズム的に単調というか、やはり見聞きしたものを順番にならべているだけの感があるというか、そういう意味でこれだけこまかく書いても意外とうごいていないというか。単線的なのだろうか。感覚やニュアンスのようなものが生じない。それに比べて帰路のほうは、「秋の夜風が絶えず生まれて路上をさらさらおよいでいき、精霊のような涼しさがつねにひらひら舞い踊っては頬やからだをなごませる」と、このさいしょの一文からして、なにかできているなという感じがあった。「秋の夜風が絶えず生まれて路上をさらさらおよいでいき」というこのはじまりの部分だけで、もうじぶんの文、じぶんのリズムだなという感覚がある。

着替えて出発へ。空にはやはり雲がおおくこびりつくようにはびこっているが、水色が見えないわけでなく、雲も全体に青味をふくんでひろがっており、あたりに陽の色はないものの暗い空気というわけではない。坂道をのぼっていくと左右の端に色変わりした落ち葉が溜まって縁なしており、そろそろそういう時季である。駅について階段を行くに、若青さをはらんだ稠密なビリジアンの樹々の向こうで北西の空はほとんど雲に埋められており、かこいこまれたすきまから太陽のあかるみがどうにかというかんじでわずかに洩れ出て周囲の雲を青く染め、目をふった先の東では雲の色味はいくらか落ちて、空の水色のうえに部屋の四隅の埃のような薄灰色が群れをなしている。ホームにはいって先へ行き、線路のほうをむいて立ち尽くせば、風がながれて歩行にあたたまった肌をなだめてくる。もうセミは死滅したものだとおもっていたが、さいきんの好天にさそわれたのか丘の林のほうからツクツクホウシの鳴きがまだひとつふたつほそく聞こえ、電線を飛び立ったカラスは鈍い青雲にかき乱された西空のなかを黒くはばたき、先日見かけたヒマワリの隊、労役囚めいてうなだれながら影色に枯れていたあの残骸たちはもはや消え去って、空っぽになった空間の奥に林の緑とその脇の家が視線を受け止めるばかり、そうして見ているうちにあたりの空気がいつの間にか暮れていて、黄昏の青さをかすかに先取った五時二〇分のしずまりのなか、線路沿いのオシロイバナが低みで風になでられながら赤紫を点じている。


秋の夜風が絶えず生まれて路上をさらさらおよいでいき、精霊のような涼しさがつねにひらひら舞い踊っては頬やからだをなごませる。夜に歩くに良い季節となった。中秋節を過ぎて右上が欠けた月は濃厚な黄味をたたえたすがたで背後の東空にのぼり、雲にかくされたりあらわに照ったりしているがその存在感はいつもあきらかで、裏道の中途でひろい空き地に接して見上げれば南空の雲のかたちもありありと浮かび、砂糖かなにかの粉末を押しかためたようにひろくを占める乳白色の、ひび割れたほそいすきまの淡青のなかに星もひとつ、きらめいていた。白猫は車のしたにいなかった。表通りに出るとコーラでも買うかというわけでローカルなコンビニみたいな商店の横でペットボトルを買い、街道沿いを行くが、その間今夜は聖なる静寂はおとずれず、タイヤの音が背後のとおくに去っていったと聞くのもつかのま、まだすがたの見えぬまえからながく伸びた先触れのひびきが空間のなかにはいってくる。(……)

 二〇一四年のほうも読んだ。2014/2/19, Wed.。とくにおもしろいことはないが、勝手口まわりが雪で埋まって出られないので屋根からしたたる水を受けながらそこをがんばって始末していたり(このときのことはわりと記憶にのこっている。真っ青なジャンパー的なものを着ていたはずだ)、三時限の労働に辟易したりしている。「三時限の労働は疲労ももちろんだが拘束時間が長くなるのが何よりも許しがたい。この時期にいたってはみなリハーサルとして五十分をはかって過去問をやるわけだが、まだ忙しいほうがよくて、生徒が問題を解いているあいだの待ち時間などやることがなくて退屈極まりなく、どうにか仕事を見つけてプリントをコピーしてみたりするものの、そんなものはすぐに終わってしまって結局はぼけっとすることになると、なぜ自分はここにいるのかという疑問が持ち上がってくるのだった」と言っており、この時期はまだまだ自己中心主義にとらわれているから、労働による拘束にはけっこうなストレスを感じていたはずである。徒歩で出勤しながら無性にいらいらして、だれかを殴りつけたいような、刃物で刺したいようなふつふつとした怒りを胸底に感じたというか、このままだとそういう行為に出てしまいかねないのではないかというくらいの怒りをおぼえたこともあった。労働者、というか塾講師としての技量やこころがまえや器もまだまだで、「やることがなくて退屈極まりなく」などとほざいているのはおのれの無能をあかしているにすぎない。やることがない状況など、よほどでなければない。なければないで生徒のようすを見たり、まわりを見たり、じぶんで過去問を解いてみたりすることもできる。
 ところでこの日の日記の欄外には、「書くことは孤独なことであるという言葉の意味が以前よりもよくわかるようになった昨今である。文章を通じて人とつながる、それも悪くはないが、つながりたい欲求は容易につまらない承認欲求に堕する。くそくらえだ。SNSで互いの作品にいコメントをしたりされたり、小さな仲間同士のグループ内で褒めあって悦に入ったり、そんなことをするために書いているんじゃない。誠実、真摯でなければならないのは読者や他人に対してではない。おのれに誠実であれ。そして何よりも文学や言葉に対して誠実であれ」、「黙々とただいい文章を書くことだけを目指せ」というじぶんを奮起するための述懐が記されており、いかにもかぶれたものの切実さをひびかせていてわりあいに暑苦しい(めちゃくちゃどうでもよいのだけれど、鬼束ちひろの”月光”に、「そんなことのために生まれてきたわけじゃない」みたいなフレーズがなかったか?)。欄外の書きつけがあるのは一七日、一八日も同様で、一七日にいわく、「「人生って、それに触れたり、他人に示したりできる、そんなものとは違うんじゃないのかしら――七十余年の人生は。私はただこの現在の瞬間をとらえるだけだ、と彼女は思った」。「私はただこの現在の瞬間をとらえるだけだ」! そのとおりだ。私はただこの現在の瞬間をとらえるだけだ!」というこれはたぶん、『ダロウェイ夫人』か、それか『歳月』の一節だとおもう。後者のほうかな。ダロウェイ夫人はまだ七十余年も生きていなかったはずなので。また、「学者が誠実であるべきなのは、(おのれでも?)読者でもなく、何よりも学問、知という営みに対してではないのか」というのは與那覇潤『中国化する日本』を読んでの反応だろう。とてもではないが学問や知という営みにたいして誠実な本だとは、とうじのじぶんにはおもえなかったということだ。一八日のほうには「『族長の秋』をこえるもの、少なくとも方向はちがっていても同じくらいの強度と完成度を誇る作品を書けたら死んでやってもいい、そのくらいの気概でいないといけない」、「自己言及をやめて書く機械になれ。黙々と書くだけだ」とあり、なかなか意気軒昂できらいではない。いまのじぶんにはもはや失われてしまった威勢の良さで、SNSでつながりあって内輪褒めしてそんなのはくそくらえだうんぬんというのも、まあいまも積極的にやろうとはおもわないけれど、いちおう仲間もいくらかはいるしnoteに投稿してもいるし(投稿するだけで交流はまったくしていないが)、いまやそんなにかたくなな態度をまもっているわけではない。いちおうはもっと軽薄化している。こういう一匹狼をつきつめてつらぬこうとする威勢の良さは好ましいものだが(まあ、こんなことを言っておきながらじっさいに書いている文がこれじゃあなあ、という感じもあるにはあるが)、こういうことをわざわざ書きつけるということはあきらかにじぶんにそれを言い聞かせているわけだから、じっさいにはやはりおのれの営みを他人から認められたいという承認欲求をかかえて鬱屈していたことをあかしているだろう(日本語において「証す」と「明かす」が同音であるというこの二重性には、毎度つかうたびになかなかたいしたものだなとおもう)。その軽いルサンチマンの反動として、くそくらえだみたいな威勢の良さが出てくるわけで、いまは身のほどを知り、じぶんがそんなに他人から認められるべき存在だとはおもっていないから、くそくらえだというほどのこともない。とうじのじぶんはとにかく黙々と書きつづけること、粛々と日々書きつづけることだけが大切なことだと一途におもいこんでいたようだが、それはいまもまあそんなに変わっていないと言えばそうだ。継続主義者であるじぶんは、すくなくともこの日記にかんしては、日々それを書きつづけることこそが重要であると、継続そのものが目的であるという自己目的化の不毛さをおそれない。というかそもそもこちらが日記を書いているのは日記になにか書きたいことがあったり日記でやりたいことがあったりするわけではなく、ただ日々を死ぬ当日まで(なるべく詳細に)記録したいという欲望にしたがっているものなのだから、継続そのものが自己目的化するというよりも、はじめからそれこそがほんらいの目的だというべきだろう。ところで一九日の書きつけにはまた、「世界のすばらしさを特別なものとして書くのではなく、すばらしかろうが醜かろうが、世界はそれ自体ですべて書くに値するということだ。原理的にはこの世のすべての物事は平等に書く対象となる」とあるのが注目されるところで、書きものを本格的にはじめて一年少々、この時点ではやくもすでにれいの「信仰」がはっきりと表明されている。こんなにはやかったか、という印象。二〇一五年くらいからかなとおもっていたのだが。現在の瞬間にたいする志向も(おそらくはヴィパッサナー瞑想を経由して)さきのウルフの文への共感にすでに明確化されているし。
 一一時半ごろにふたたび離床して瞑想。二〇分。からだはけっこうこごっている感じがあった。それなのでひさしぶりに息を弱くゆっくり吐きながら体操というかからだをうごかして、各所を伸ばす。それから食事へ。そろそろ煮込みうどんをつくって食おうとおもっているのだが(皮がしなびかけている大根もそれにつかえばよいし)、このときはまだいつもどおりサラダとウインナーがはさまったnipponhamのナンにした。サラダはキャベツにセロリに豆腐にトマト。シーザーサラダドレッシングののこりがすくなかったので、容器を逆さにして振ったり尻のほうを叩いたりしてなるべくぜんぶ出すようこころみたが、内壁に付着したものをすべて垂らし尽くすことはできない。(……)さんのブログを見ながら食事。九月二一日分。冒頭は以下で、著者がこれまでの論のながれをわかりやすく要約してくれた記述なのだとおもわれ、じっさいわかりやすいが、「心術の選択」というのがどういうことなのかという点だけ、ここまででいまいちつかめていない。

 こうして我々は、カントの議論の後半部——人間は彼が信じているよりもずっと不自由であるが、同時に、彼が知っているよりもずっと自由である——にたどり着く。我々の行為に関する決定論の道をたどりきってしまった時、我々はある自由の剰余に出会う。我々は、〈他者〉の内の欠如に、心術とは選択されるものである——もちろん、全く空虚な場所から、である——という事実の中にたち現れる欠如に、出会う。主体を倫理的主体として再構成することが可能となるのは、まさにこの地点においてである。倫理的主体は、二つの欠如が出会う瞬間に現れる。それは、主体の内なる欠如(「強いられた選択」の瞬間における主体の自由の欠如)と〈他者〉の内なる欠如(〈他者〉の〈他者〉は存在しない、原因の〈原因〉は存在しない、という事実)が出会う瞬間に現れる。(…)
 出発点は、「強いられた選択」——「自由か〈他者〉か」という二者択一——である。ここで主体は、自由を選ばざるをえない。なぜなら、〈他者〉を選択するということは、S——「主体化されていない主体の原料」——の選択という不可能な選択、すなわち「不在」あるいは「非-存在」の選択に他ならないからである。こうして我々はS/——分裂した主体、自分が自由であると信じているが、実際この自由から疎外されている主体——へとたどり着く。ここでカントは「脱-心理学の要請」、あるいは「決定論の要請」を導入する。この一手により、主体は当初不可能であった選択肢へと送られ、〈他者〉の意志の対象としての、単なる機械的心理的因果律の歯車のひとつとしての主体自身に直面させられることとなる。しかし、さらにカントは心術の選択という第二の議論をここに導入し、主体の自由の次元を切り拓く。確かに自由の主体は〈他者〉の産物であるが、この主体が〈他者〉の内にある原因の結果であるという意味においてではない。そうではなく、主体とは、〈他者〉の中にはけっして見つけられない原因があるという事実の結果、この原因の不在の結果、つまり〈他者〉の内なる欠如の結果なのである。
 第一章の終わりで立てた問いを思い出そう——倫理的行為への駆動力、誘因が同時にその結果であるということを我々はどう理解すればよいのか? どうしたら自由が自由の必要条件であるということが、自律性が自律性の必要条件であるということが、可能なのか? 今や我々は、れらに答えることができる。これらの循環構造は、主体というもののあり方、性質そのものである。すなわち、主体の存在なしに自由はありえないが、この主体の誕生は、すでに自由な行為の結果である。これらの問いに見られる実践理性の「循環」論理は、主体の構造を考えることによって、みな説明できるのである。
 (『リアルの倫理——カントとラカン』アレンカ・ジュパンチッチ・著/冨樫剛・訳 p.56-58)

 食後は食器類をすぐさま洗い、ドレッシングの容器も水や洗剤を入れて振り、なんどもゆすいできれいにした。開口部をはめているプラスチック器具は切れ目がないと取るのがたいへんだが、このときは爪をひっかかりにして引っ張ると意外とかんたんに外すことができた。席にもどると音読。「読みかえし」ノートからは以下の情報など目に留まる。

岡和田晃「北海道文学集中ゼミ~知られざる「北海道文学」を読んでみよう!~: 「北海道文学」の誕生とタコ部屋労働(4)~羽志主水「監獄部屋」」(2018/9/30)(https://shimirubon.jp/columns/1691800(https://shimirubon.jp/columns/1691800))


565

岡和田 『常紋トンネル』 [小池喜孝『常紋トンネル 北辺に斃れたタコ労働者の碑』] の恐ろしいところは実話だったというところがすごいわけですよ。北見はやはり苛烈なところだったというのが伺えますね。『常紋トンネル』の112ページ113ページにタコ部屋の歴史区分というのがあります。1890年から1946年には消滅しています。これはGHQの命令で解散させられたということになっているわけです。

長岡 GHQの影響だったんですね。

岡和田 1925年から28年というのはだいたい再編成期と沈静期という、タコ部屋が社会問題になって命令が出ていた時期ということなんですよね。こういうふうな歴史区分というのがあります。ちょっと戻っていただいて32、33ページでは常紋トンネルの生き埋めを目撃した人というのがいたわけですね。
 タコ部屋っていうのは使えなくなったら生きているのも死んでいるのもトロッコに入れて、トロッコごと投げて捨てるというのが書いてあります。生きているタコでも弱いものはトロッコに積まれた、反抗もできないというようなことが書いているわけです。


566

 在日朝鮮人の人が実際に強制連行で朝鮮人狩りに北海道であって、そして寝込みを襲われてタコ部屋に入れられるっていうのがあったわけですね。
朝鮮人のタコには精錬はやらせず、監視の目の届く露天掘りと坑内の仕事をやらせた。そして坑内から出た水銀の猛毒を含んだ蒸気で歯をやられ、内臓を蝕まれて廃人になるため、坑内作業には朝鮮人中国人を添えさせたわけですね。こういう記憶がやっぱり朝鮮人墓地が心霊スポットとなるような、なんというか悪いことをしたという集合的無意識に繋がっているんじゃないかと思われます。
 去年出た、石純姫『朝鮮人アイヌ民族の歴史的つながり』というとてもいい本があります。ここではタコ部屋のような強制労働から逃げ出してきた在日朝鮮人アイヌ民族がかくまったという実例が各地で報告されていて、これはサハリンでもあります。樺太にもいっぱいタコ部屋があったので。ここでは、人間と思えぬ虐待や酷使、国による強制連行、強制労働をした朝鮮人アイヌコミュニティが受け入れたという事例がいろいろ語られます。
 一方『常紋トンネル』では、けっこう地元の人達が隠れているタコを見つけて突き出すという例がかなり語られるんですね。要は見た目が汚らしいし、突き出すと報酬ももらえたんでしょう。ただアイヌ民族の人が突き出したという例はひとつも見たことがないですね。
 あったらひとつくらい聞かれてると思うんですけど、語られるのゼロなんで、実際マイノリティとして共感するところは多分にあったんじゃないかと思われます。
 それでもう少し話を戻すと、タコ部屋の棒頭というのは沼田流人の小説では平気で人を殺すサイコホラーの怪人のように描かれていて、『常紋トンネル』では棒頭に勇気をつけさせるために、わざと人の肉が混じったやつを食わせたということも語られていて、実際にあったみたいですけど、そういうこともしていたということです。
 タコ部屋暮らしで管理側、棒頭の側の生き残りというのが当時いたわけですね。山口さん、1907年。ネットでは名前は伏せられていますが、ここで実際に郷土を掘る会の人がタコ部屋の生き証人として呼んだら、「タコは金で買った奴隷ですよ、奴隷に人権なんてないですよ。そんな甘い時代じゃないんだ」ということで、タコ部屋の棒頭を正当化し始めたというすごい例なんです。
 逃走者が出ると人夫を飯場に閉じ込めて、幹部が一斉に捕まえて出勤する。「何しろタコほどいいものはない。女を抱いて酒飲んで三百円の前借りでタコ部屋に入る。そこのタコ部屋が悪ければ逃げると。逃げてるんだからね、そしてまた中島遊郭に行くんだろう」と。
 それは前借りだから、まぁあほだから自業自得だって話ですよ。捕まえて逃げて帰ってくれば優秀な幹部になるので、積極的に捕まえに行くわけです。タコが死んだ場合は逃走届を一枚警察に出せば良い。だから逃走率というのは死んだ率が多分かなり入っているんですね。


567

渡邊 夏目漱石の「坑夫」っていう話があって、あれもインテリの子が地下に潜っていって坑夫と出会ってっていう話なんですよね。

岡和田 あれも一種のサバルタン(従属的被支配階級)でしょ。私も実際に三年くらい建築現場で肉体労働をしていて、六本木ヒルズが現場だったこともあります。よく労働者の間で、一ヶ月くらい前に足場から二人くらい落ちて死んだみたいな話とか聞きましたね。

渡邊 よくありますね。実際工事現場に入ると上から屋根がバンと落ちてきて、歩いてる奴が怒られるっていうね。僕もそういうのよくやってたので。

岡和田 だから、語られないだけであるんじゃないかと。渡邊さん、プロですからね。

渡邊 西成に行って、立ちんぼして、トラックに乗せられて現場に行って。お弁当は出る。それを楽しみにしてて。まぁトンネル掘ってたんですけど、お弁当が来たっていってばって開けたらご飯があって、コンニャクの炊いたやつだけが入ってる。完全に冷えてるから、それを食べるわけです。朝は電通みたいな人たちが来てですね、「ここの計画はこうなっていて」っていうのを僕らも聞かなきゃならないわけですよ(笑)。

一同 (笑)

岡和田 昔の漫画とか読んでると、そういう日雇いっぽいおっちゃんが日の丸弁当食べてるっていうのは本当にけっこうありました。

渡邊 コンニャクかぁ~……って思いましたね(笑)。

マーク 塩気もない。

渡邊 しょうゆで味付けするんですよ。
 前の晩に泊まった人は朝ごはんを食べていいわけですけど、僕らも平気で朝そこに乗り込んで食べて。見つかったら袋叩きにあうわけですけど、全然平気で食べて。密入国してきた外国語しか喋れない人たちがいて、そこに入り込むんですよね。そうすると誰も話しかけてこないから。で、来いって後ろから棒とかで突かれて、行くんです。その方が楽だったっていうのもあります。

 584番までたくさん読んで、それからきょうのことを記しはじめた。ここまで書けば二時半過ぎである。洗濯も、あしたは一時から美容室だし、その後は実家に寄るし、晴れたとしても干しづらいぞとおもって、雨降りだがもうきょう洗ってしまうことにした。機械はすでに稼働を終えている。胃やみぞおちのあたりとか、喉の詰まりの感覚とかはわりとおちついてはいるのだが、ないわけではなく、みぞおちの、肋骨の接合点のきわを押すとちょっと痛いので、ここがなにかしらのクリティカルポイントであることはまちがいない。この痛みがなくなればまあひとまずOKと見てよいだろう。炎症ができているのか、それともヘルニア的になっているのか。ほんとうは医者に行ったほうがよいのだろうが、その気は起こらない。この分なら、ヤク二錠の助けを借りれば月曜日には問題なくはたらけるだろうとはおもう。さてきょうはそうすると休みをもらって一日自由ではあるので、二一日と二二日の日記をかたづけてしまいたいところだ。あと書抜きもしたいのと、ドレッシングがほぼないので(コブサラダドレッシングだけほんのすこしのこっていたはず)買いに行きたい感もあるが、それはべつにあしたでもよい。きのう籠ったしあるきたいきもちもないではないので、(……)まであるいていって本屋で鈴木大拙を買うのもよいかもしれない。


     *


 そのあとなんとなくギターをいじる気になってしばらく遊んだ。まあまあ。わるくはない。音のうごきがそこそこ見えた。そんなに熱中もせず、てきとうなところで切り上げたのち、二一日および二二日分の日記にとりかかった。六時過ぎくらいに飯を食ったおぼえがあるのだが、それまでに二日間とも完成したのだったか。いずれにしてもこの日で二三日分までしあげて投稿することができ、ほぼ現在時に追いつけたわけなのでよろしいことだった。六時過ぎくらいに食った夕食というのは煮込みうどんである。ようやく食べることができた。先日スーパーで稲庭だという二つ入りの安い生麺を買ってあったのだ。まず鍋に水を汲んで火にかけたのは、麺をいちおうさっと湯がくためである。煮込むのでべつに湯がかずにそのまま入れてもよいのかもしれないが、やはりなんとなくいちど湯にとおす。それで水が沸騰するのを待つあいだに投稿作業を済ませようとおもったところが、検閲してブログに文章をアップするより沸騰のほうがはやかったので、そうかとおもいながら火力を弱めたおぼえがある。このとき投稿していたのが二一日分だったような気がするので、二二日分は食後か散歩のあとにしあげたのかもしれない。いずれにしてもブログに記事を投稿すると火をまたつよめて麺を投入し、割り箸でほぐしたり混ぜたりしながらちょっと茹でて、ザルにあげる。実家にいたころはコンロが三つあったし鍋も複数あったから、さきに汁の鍋で野菜を弱火でじっくり煮込んでおいて、ということができたのだけれど、この部屋はコンロがひとつしかないからそうもできない。鍋もザルもひとつしかない。それなので麺をザルにあげてからようやくタマネギや大根を切り出す始末だ。すこしだけのこっていたそのふたつと、あとキャベツもたしょう切って、麺つゆと顆粒のあご出汁と鰹節で味つけしたつゆのなかに投入する。ほんとうは弱火でじっくり煮込みたいのだけれど、そうしているとザルに取ってある麺がかわいてしまうから、しかたなく時間を短縮して、てきとうなところで麺もさっさと入れてしまった。それでちょっと煮込んで完成。丼もないので木製の椀ですこしずつ食べる。やや薄味だったがともかくも煮込みうどんをようやく食えたことで満足である。あたたかい麺料理はうまい。胃がそんなによくないから、無理にぜんぶ食わずにのこしておいてあした食べてもいいなとおもっていたが、けっきょく平らげてしまった。椀のおおきさにたいして二杯+αというくらい。
 食後は洗い物をさっさと済ませたあと、日記を書いたのだったかなにをしたのだったかおぼえていないが、腹をこなしながら過ごし、八時ごろにいたると夜歩きに出ることにした。ほんとうならきょうのことを書いて現在時に追いつけておくべきところだが、なにか歩きに行きたいというきもちがまさったのだ。それで歯を磨き、このあともう雨は降らないのか否か、天気予報の雨雲レーダーをみて降らないようだと確認し、ジャージにきがえてマスクとともにそとに出た。まだ午後八時台、それも土曜日とあって、路地にも自転車の通りや犬の散歩があり、車道沿いの歩道に出ても帰宅するひととよくすれ違う。出口のないような不思議な夜、土曜日の夜である。アパートから南にまっすぐすすんで路地を出るところでは、さらに南に家並みを越えてそびえるおおきなマンションの灯があかるく、黄味っぽいものと白のと二色がそれぞれ縦に走ってかわるがわる、正確にはそのあいだにより沈んで淡い白の列もときにはさみながらならんでともっていた。右折をすれば行く手は西、みあげる夜空の大半は雲で、きょうはあかるい夜らしく、籠もり詰まった音のような白さがよくみえるなかにほつれて細くひらいた地の暗さが、かえってそちらのほうが雲めいた浮遊の相にうつる。マスクはいちおう顔につけてはきたものの、野外だし夜気を吸いたいから口からははずしている。ドラッグストアの横まで来ると、子連れで犬を散歩している母親がおり、女児はこっちから帰ろうよーとかなんとか言っている。この夜はまだ髪を切っておらずぼさぼさだったし、髭も剃っていなかったので、あまりよい人相にはみえなかっただろう。ちょうど青だったみじかい横断歩道をさっさと渡り、一路西へ、車道沿いをまっすぐあるく。この時間だとまだまだ車の通りがおおい。雨はすでに止んでいるが、そのへんの駐車場に停まっている車の表面をみるに、水気が車体か大気かまだどこかにのこってでもいるものか、ひかりの反映や像のうつりこみがつるつると、すべるような質感をどこか帯びてかんじられる。しかし車道をみれば路面ははや乾いており、歩道の足もとは街路樹のおかげで濡れあとをわずかのこしているものの、信号の色を引っ張ってくるほどのちからもそれにない。踏切りのちかくまで来るとさきほど細いほつれだった雲の間が拡張して、岬や小島をいくつもいだいた複雑な地形の湖めいてきており、しかも下端からは水路がひとつ垂れながれているそのさきを追えば西の向こう、低みでは雲が消えて晴れの夜らしく、青さの地帯がひろがっていた。踏切りを越えて行けば(……)病院の敷地、草っ原となっている空き地横を過ぎて病院前までやってくると風がまえから生まれて涼しく、ああ風だ、とつつまれればそこに立っている低い木の枝先が、ふわりふわりとやわらかに揺れて、建物のまわりには浅い緑が茂って低くひろがっているのが設置された電灯に斉一で、みているうちにあれはどうもヒマワリもまだのこっているなと、しかし花はもうさすがに、と垂れてそむいた首を遠目にしたのもつかのま、歩道ちかくに出現したものはまだ弁の黄色も顔もきちんとたもっていた。
 家を出てきてしばらくはあるいていてもやはりどことなくみぞおちや胸のなかがちくちくして、胃液や内容物が腹のなかで揺れているのだろうという感じだったが、折り返したあたりから胸郭もよほどゆるんだらしく違和感がほぼ消えていた。病院や文化施設を越えて(……)通りに行き当たると右に折れる。パトカーのサイレンがはじまって響き、まもなくあらわれた赤ランプの車は車体も真っ赤だったが、拡声された声が協力への礼を述べながら過ぎ去っていく。焼肉レストランの正面頭上、ネオン管の表示のうち、「肉」の字の一部が消えかかっており、バチバチジージーいうような音を立てながら痙攣的にひかっていた。そこを過ぎてまもなく右折すれば一本ずれた道でもとの方角にもどることになる。自転車レーンがつくられているここにはそのレーン沿いに紅色のサルスベリがずっと植えられているが、さすがにもう色はない。右手の病院敷地の縁に植えられているムクゲのほうはまだ白さをけっこう散りばめており、その向こうから、あるいはまわりから、エンマコオロギの声が湧いてくるけれど、いくつもひっきりなしなのでどの方向から来るのか、まわりのどこからでも鳴いているような感じがした。ここも風が吹き、まえからからだをまるごとつつんで肌をさらっていこうとする。じきに駅前のマンションが駐車場の向こうにみえてくる。てまえのひとつは横にひろく端のほうは階段状になっており、薄黄色だったり乳白だったりいずれにしてもおしなべてカーテン越しの淡いあかりが窓をいくつも染めてはひろがった輪郭をかすませながらまだら模様を生み出していて、奥のもうひとつはこちらがいつも駅のホームからみやったり前を通ったりしているものだが、ベランダの区切りがより明確で線が太いので明かりもいくらかかたまっているけれど、双方茶色っぽい壁のどちらも装飾された巨大なケーキのようにみえなくもない。駅そばの踏切りを渡って、煙草を吸う男らがそとで談笑している飲み屋のまえを過ぎ、(……)通りにあたると渡って左に移行して、いつもの帰り道である裏の路地にはいった。とちゅうで猫が一匹右手からあらわれて、さいしょは猫というよりも焦茶色の丸細いうごめきにしかみえなかったが、猫だとおもってあゆみをすすめると回転する円筒のように道を渡るそいつはちょっと足をはやめるのみで、こちらのちかづきに気づいていないわけがないがことさらいそいで逃げるでもなく、左の家の門を抜けてはいっていった。アパートの通りまで来ると、これでたぶん四〇分くらいあるいたはずだが、あっという間だったな、ほとんど一瞬だった、一瞬は言い過ぎにしても、数分くらいでしかないような、ほんとうにあっという間に帰ってきたような感じがする、とおもった。じっさい階段をのぼって部屋にはいり、パソコンをみてみれば二一時八分で、出の時間はおおよそ八時半だったはずだからやはり四〇分だ。
 二二日や二三日をかたづけたのはこのあとだったかおぼえていないが、このさきの夜にたいしたことはない。カフカ書簡の書抜きをしたり、湯を浴びたり、ユーディット・シャランスキー/細井直子訳『失われたいくつかの物の目録』をちょっとだけ読んだくらいだ。翌日は昼過ぎに地元の美容室に行くことになっており、そのため七時には起きようとおもって、アラームをしかけて一時二〇分くらいには床についた。ストレッチをしたりあるいたりしたためだろう、胸はわりとほぐれている感じで、肋骨の接合部をちょっと押しても生じる痛みがちいさくなっていた。


―――――

  • 「ことば」: 6 - 10
  • 「読みかえし1」: 564 - 584
  • 日記読み: 2021/9/24, Fri. / 2014/2/19, Wed.

2022/9/23, Fri.

西脇順三郎訳『マラルメ詩集』(小沢書店/世界詩人選07、一九九六年)

●52~53(「エロディヤード」; Ⅰ 序曲)
 そしてすぐにその紅色の薄暮
 後ずさりする肉体の蠟を貫くだろう!
 薄暮ではなく紅の日の出だ
 すべてを終らせる最後の日の出だ。
 人々はもうその時刻をも覚えないほど(end52)
 この予言者時代の黎明は悲しくもがいて
 眼を羽にかくす一羽の白鳥のように
 自分の貴い心の中へ追放された少女のために泣く
 彼女は老いた白鳥が眼を入れる羽のような
 その羽の苦悩からのがれ、彼女の希望の
 永遠の並木道へと去った、死にかけてもう
 光らない一つの星に選ばれた金剛石を見るために。




 九時台に覚醒。腹を揉みほぐし、カーテンの端をめくって窓ガラスの白さを目に取り入れることでまぶたのひらきをさだかにする。一〇時ごろにいちど床を離れて、ルーティンをこなしてからまた臥位に。日記を読むのではなくてウェブをてきとうに見回ってしまう。どうもやはり腹の感じがあまりよくなくて、そのためにストレスを感じたり(逆にストレスがむしろ原因なのか、結果と原因が循環するのでよくわからないが)、からだが安心してまとまらずにやる気が出ないようだった。一一時過ぎに起き上がって瞑想。二〇分ほど。おとといの勤務中からはじまったものだが、喉のつかえというか、喉の奥になにかが詰まっているようなひっかかりがまだある。精神的なものでもあるのかもしれないが、ふつうに胃の問題であるようにもおもえる。ここでもやはり神経的な領域と器質的な領域が癒着しほぼ融合しているので、どちらがさきとかどちらが根源だとかがわからない。いずれにしてもからだがあまりよくはない。臍とみぞおちのあいだを中心に腹をよく揉んでやわらかくしておくとたしょう楽なようだが。ともかくも食事だが、そういう不調をはらんだからだをおもんぱかって、サラダはキャベツと豆腐とリーフレタス(つかいきった)のみですくなめにした。とはいえ勤務に行くなら炭水化物も食っておいたほうがよいだろうということで、きのうスーパーで買ったさつまいもの混ざったパウンドケーキも食べることにしたが、これも慎重に、半分だけにしておいた。それでもやはり食後の腹から胸や喉にかけてがすっきりせず、詰まりの感覚がのこってはいるので、これで電車に乗って職場ではたらくのはけっこうたいへんそうだなと気後れし、おもいきって今日明日休ませてもらうかと決断した。きょうはふつうに授業があり(授業前に生徒面談も一件)、あしたは授業はなくて生徒面談の手伝いだけだったので、きょうはがんばって行ってあした休ませてもらおうかなとさいしょはおもっていたのだけれど、大事を取って二日間の休息をもらうことに。当日なので調整がたいへんだろうから申し訳ないが、まあ職場にはけっこう貢献しているつもりだし、たまには休ませてもらってもよいだろうと。それで正午を越えたあたりで(……)さんに電話し、じつは体調があんまり良くなくてということを伝え、今日明日休ませてもらうことになった。月曜日から復帰予定。そのときにはちょっとした礼をわたそうとおもう。さてそうして今日と明日勤務に行かなくてもよいと決まればやはりきもちが楽になるのだろう、からだの感じもいくらかやわらいだ気がしたし、時間がたくさん生まれたから精神的にも余裕ができて、日記は溜まっているけれどすぐにとりかからず、腹を揉みながらウェブをみたり音読をしたりした。体調が万全でなくとも、なにげに文はたくさん読むんだよな。「読みかえし1」ノートを、きょうはいまのところ、531番から547番まで読んでいる。二時ごろ切ってシャワーを浴びた。せっかく二日間の休みができたのでこのあいだに日記をかたづけたいというもくろみはもちろんあるし、部屋の掃除もしたいところなのだが、そうかんがえてしまうのがこちらの意外とワーカホリックな性分なのかもしれず、むしろもっとなにもせずだらだらして心身を弛緩させたほうがよいのかもしれない。じぶんはある意味で典型的な仕事人間なのかもしれず、ただじぶんのばあいその「仕事」と労働が一致していないというだけで、読んだり書いたり音楽を聞いたりが封じられてしまったときになにをすればよいのかわからず立ち迷うような気がするというのは、世の仕事人間が余暇になにをやったらいいのかわからないというのとだいたいおなじなのではないか。三時ごろから寝床にころがってChromebookを持ち、またウェブをみたり一年前の日記を読んだりしつつ脚をほぐした。2021/9/23, Thu.からは冒頭の熊野純彦の『レヴィナス』を再掲する。かなりよくわかるな、というはなし。身体が主体におけるみずからとの絶え間ないずれなのだという点はほんとうによくわかるし、「目に見える私の身体は、私にとっては、だがほとんど可視的ではなく、身体は圧倒的に他者のまなざしにたいして曝されている。私の身体の表面を他者がまなざし、他者がかかわってくる(me regarder)(148/177)。他者たちの視線こそが、まなざすというしかたで私の身体を所有 [﹅2] している。――凝視されることはときに不安であり、また恍惚でもありえよう。不安とはここでは、他者にまなざされる場にあり、他者の視線に圧迫 [﹅2] される雰囲気のうちにあるとき私がおぼえる、押しつけられた存在の気分である。それは、身体 [﹅2] 感覚としては、身がちぢむ収縮 [﹅2] 感覚であり、からだごとゆらめく揺動 [﹅2] 感覚であり、あるいはじぶんが身体からずれてゆく離脱 [﹅2] 感覚であろう」というあたりを読んでみても、パニック障害の再発によってひとのいる電車内で緊張や圧迫を絶えず感じている現在のじぶんにとっては、まさしく体感的に理解できる記述だ。しかもそこでは他者の「まなざし」が問題であるわけですらない。他者がじっさいにこちらをまなざしているか否かは不問で、他者がそこにいることじたい、他者の「存在」そのものこそが、圧迫の来たるもとである(もちろん、そこにいる他人がじっさいにこちらを見ているか、こちらに関心を持っているかとはかかわりなく、こちらじしんが不安を原因として内面においてそのような視線を仮構しているととらえることもできるはずで、つまり他者の「存在」そのものが自動的に「まなざし」に変換して受け止められる、他者がそこにいることと他者がこちらを見ることとはほぼおなじことがらなのだとかんがえることも可能なはずだ。ここで拙速に文学的レトリックにながれるなら、他者の存在そのものがこちらを見ている、ということになる。そしてこのことは、じぶんがいままでなんどか記してきた、ひとはひとを真に無視することはできないということがらとほぼおなじ意味だろうとおもう)。あと重要なポイントはレヴィナスのいう〈近さ〉というワードだとおもわれ、近いということはつまり一致していないということ、残余としての距離がいつまでもあいだに生じつづけるということなのだという発想は(たしかそういうはなしだったとおもうのだが)すばらしいとおもう。

 1 身体であることにおいて、主体は皮膚的な界面の内部 [﹅2] に閉ざされているかに見える。だが、身体は外部 [﹅2] からの不断の侵襲に曝されている以上、この内部は内部たりえていない。あるいは内部であることがただちに外部に反転することを意味している [﹅6] 。主体が身体であることをめぐる、ことのこの消息が、一方では世界のただなかで主体がみずからの存在から離脱することを可能にし、あるいは余儀なくさせている。他方ではまた、身体としての主体がみずからと不断に断裂していることが、〈語ること〉の、意味することの基底なのであった。身体はたえずみずからとずれ [﹅2] てゆく。この隔絶によって記号が、すなわち、あるもののかわり [﹅3] になるあるものがなりたつ。他からの圧迫によって息切れ、息切れが声 [﹅] となるとき、私は全身を記号 [﹅2] と化している。つまり他者との〈近さ〉のなかで意味しはじめている。この〈近さ〉が問題なのであった。
 「四囲 [﹅2] 」はたしかに「気圧 [﹅2] 」(atmosphère)として私に「押しつけられ」る。身体をたずさえた私は、他なるもの、外部性に曝され、喘ぎ、「捻じれ」「ひび割れ」て、むしろ身体としての自己を喪失する(三・1・3)。烈風によって私は「からだから吹き飛ばされそうに」なり、あるいは大気の熱と体温とが溶け合うことで、大気そのものと身体とが融(end240)解する。身体であるという内部 [﹅2] が、四囲の外部 [﹅2] に転じてしまう。――このことは、だがとりあえず匿名の外部性との関係で生起している。ここで〈他なるもの〉とはいまだ他者 [﹅2] ではないようにおもわれる。この他なるものはすぐれて他者でもありうるのだろうか。〈近さ〉の問題にすすむに先だって、なお考えておく必要がある。
 皮膚の表面はつねに四囲に曝され、気圧は私の身体を圧し、変形させ、身体の内部に入りこむ。そのことで身体の内部は外部へと捻じれ [﹅3] てしまう。しかし、身体の表皮は同時に他者によって見られるおもて [﹅3] でもあり、四囲は雰囲気 [﹅3] (atmosphère)でもありうる。目に見える私の身体は、私にとっては、だがほとんど可視的ではなく、身体は圧倒的に他者のまなざしにたいして曝されている。私の身体の表面を他者がまなざし、他者がかかわってくる(me regarder)(148/177)。他者たちの視線こそが、まなざすというしかたで私の身体を所有 [﹅2] している。――凝視されることはときに不安であり、また恍惚でもありえよう。不安とはここでは、他者にまなざされる場にあり、他者の視線に圧迫 [﹅2] される雰囲気のうちにあるとき私がおぼえる、押しつけられた存在の気分である。それは、身体 [﹅2] 感覚としては、身がちぢむ収縮 [﹅2] 感覚であり、からだごとゆらめく揺動 [﹅2] 感覚であり、あるいはじぶんが身体からずれてゆく離脱 [﹅2] 感覚であろう。恍惚もまた方向と意味が逆転した剝離の感覚にほかならない。身体のこのずれ [﹅2] あるいはぶれ [﹅2] はすべて、〈他者との関係〉がひきおこす身体の変容の経験なのであって、身体がそのおもて [﹅2] で〈他なるもの〉として(end241)の他者に曝され、あるいは身体の内部 [﹅2] に他者という外部性 [﹅3] を孕んでしまっている経験であるとおもわれる。
 ここでも、身体である主体はじぶんの存在から離脱すること [﹅6] を余儀なくされ、不断にみずからと断裂している。「皮膚の内側にある」とは「じぶんの皮膚の内側に他者をもつこと」にほかならない(181/212)。他者に強迫され、他者の視線に侵襲されつづけていることが身体であることの意味だからである。主体性とは、かくてこの場面でこそ、すぐれて「〈同〉のなかの他 [﹅6] 」(l'autre dans le Mêeme)であり、「〈他〉によってかきたてられた〈同〉の動揺」である(46 f./59)。身体である主体とは、「自己の外部への自己の追放」なのである。つまり、主体はすでに「他者とおきかわって」(substitution à l'autre)いる(175/205)。
 そもそも「自己は自己のイニシアティヴによって生じたものではなく」、〈同〉はあらかじめ〈他〉を「懐胎 [﹅2] 」している(166 f./196)。私が身体の輪郭を劃定し、皮膚的界面の内部に閉じこもるためにすら、私は他者とのかかわりを必要とする。その意味で「〈私〉はじぶんの身体に結びつけられるに先だって、他者たちに結びあわされている」(123/148)。他を「懐胎」することに着目するなら、身体であることの原型とは「母性」(maternité)である(121/147, cf. 109/133, 111/135)。ただし子宮のうちに安らう母性ではなく、他を孕むことで傷を負い、他者に曝されつづけ、みずからと不断にことなりつづけ差異化しつ(end242)づける母性、つまり綻びてゆく主体性 [﹅8] としての母性なのである。母性という主体性のこの規定が、主体の自己差異化と、それをもたらす他者との〈近さ〉の比喩となっているようにおもわれる。
 (熊野純彦レヴィナス――移ろいゆくものへの視線』(岩波現代文庫、二〇一七年)、240~243; 第Ⅱ部、第三章「主体の綻び/反転する時間」)

 四時過ぎになると起き上がり、きょうは雨降りではないようだが湿り気のふんだんにのこったような薄暗い曇天で、部屋がすでにけっこう暗かったので明かりをともした。そうして便所に行って放尿し、黒いマグカップに注いだ水をパソコンの左脇に置いて、ときおりそれを飲みながらここまできょうのことを記述した。そうしていまはちょうど五時。腹が減ってきている。あとそういえば、二時ごろに携帯をみると(……)さん((……)さん、すなわち叔母=母親の妹)からSMSが来ており、きょうしごと? とあったので、きょうあしたしごとだったが体調があまり良くないので休みにしてもらったとこたえると、もし可能なら今夜夕食を食べに来ないかという。(……)の食事会をことわってしまったので、それで顔合わせの機会をもうけるつもりだったのかもしれない。こちらとしても、(……)家の飯はいつもうまいし、遊びに行くにやぶさかではないのだが(あるいて四〇分か四五分くらいだろうからふらっと行ける)、あいにく胃が悪くていやな感じなのでと今回は遠慮した。体調が全体的に良くなってきたらふらっと遊びに行きたいとつたえておく。


     *


 腹が減ったのでそろそろ二度目の食事を取ろうかなとおもったのだが、そのまえに電子レンジの場所を移動することにした。まえまえから本格的に料理をするならいま電子レンジによって半分以上占拠されている冷蔵庫のうえのスペースをあける必要があるとおもっていたのだ。そこから右方、洗濯機や流しやコンロを越えて、扉のすぐ脇にある靴箱のうえにうつせばよいだろうとかんがえていた。そちらにはいま電気ケトルや、割り箸や歯ブラシを入れた紙コップ、それにガラス製のマグカップなどが置かれてある。それらをデスクのうえや床にどかして、電子レンジのうえに乗せていた醤油とかラップとかもべつのところに置いておき、雑巾でレンジ表面や配線などをちょっとぬぐうと移動した。しかしいざ置いてみると靴箱のうえは前後の幅がそうひろくないから、レンジを置くと壁についている電源が隠れてしまい、コンセントを挿しづらい。無理やり挿せないこともないが、レンジ本体と電源とのあいだで圧迫を受けてケーブルがかなり消耗するだろう。電源タップは一個未使用のものがあるにはあるのだけれど、それは冷蔵庫や洗濯機をつないでいる場所につかうつもりだったし(そうおもいながら買って以来ながく放置してまだ導入していないのだが)、レンジのためだけにそちらのほうに電源タップを置くのもなんだし、扉のそばには良い置き場所もいまいちない。それでどうしたものか、冷蔵庫のうえはやはり空けたいし、その脇の床に置くしかないかとかんがえながら扉のほうにどこかほかにコンセントがないかと見ると、いままで気づかなかったというか、たぶんさいしょに見ていらいずっとわすれていたのだが、靴箱の上部、天井からいくらか下がって上限となっている面の端に挿し込み口が存在した。ここに挿せばよいではないか、というわけである。その電源のすぐ脇は換気扇がなかにある囲いの部分になっており、垂れ下がる換気扇のケーブルは、いまレンジで隠れてしまった電源のほうに挿してあり、ちなみに洗濯機のアース線もそこにつながっている。そういうわけで電子レンジの移動は解決し、ひろくなった冷蔵庫の上面に木製皿とかクレラップとかをもどしておき、ついでにながしに置いてあった紙パックを始末することにした。先日なんとなくメロンのジュースとかあったら飲みたいなとおもってスーパーの飲み物コーナーを見ていたところ、メロンだけではなく四種混ざっているが味はメロン風味だというTropicanaがあったので買って、それをきのうだか飲み干していたのだ。鋏でパックの口をひらいてゆすぎ、水切りケースに入れておいた。床の掃き掃除もすることに。パソコンからアンプにつながるケーブルをはずし、FISHMANSの"バックビートに乗っかって"をBGMとしてながしだして、入り口のほうから埃や髪の毛をあつめていく。ちょっとあつめると蓋をはずしたゴミ箱の袋のなかにすぐ捨て、箒の先端に絡まった髪の毛や付着した埃もその都度取ることをくりかえした。椅子のしたも、きょうは保護シートをめくらないのでぜんぜん不完全だがやり、さらに机のしたのコットンラグのうえも。ここの食べ滓とかがいちばん気になっていたのでできてよかった。しゃがみこんだり膝をついたりしつつ箒とちりとりを持ってひたすら掃いていると、腰がかなり疲れて大変だ。あきらかにやはり電動クリーナーのたぐいを買ったほうがほんとうはよいのだろう。コットンラグも布地の繊維があるからそれで埃がまとまって、掃けば掃くだけ埃が生まれでてくるような、RPGのマップ上で無限にポップアップするモンスターのようにして灰色のちいさなかたまりが無数に出現するのだが、まあ完璧にやる必要もないだろうと、"WALKING IN THE RHYTHM"が終わるのを機に掃除も終えた。日々このようにしてすこしの時間でもたびたび掃除できるのがいちばんよいのだが、そうはおもってもなかなかじっさいにできないのがにんげんである。そのあとだったかそれとも掃除のまえだったかおぼえていないが、引っ越してきてさいしょのうちに二本買って飲んでいらい靴箱のうえにずっと放置していた飲むヨーグルトの空パックを、ここでようやく始末する気になった。Tropicanaのおかげである(ちなみに飲むヨーグルトも先日一本買って、いま飲んでいる)。カッターで切りひらき、口のほうにあたる部分はあきらかに紙ではなくてプラスチックなので、ここにもカッターをまわしてとりのぞいておく。Tropicanaのほうも注ぎ口をとりのぞかなければならないが、それはまだやっていない。さらにデスクの向こう、部屋の壁際にやはり置きっぱなしになっている雑紙類も、nojimaの袋がもういっぱいになっているのでいくらかは始末しておくかという気になって、役所でもらったゴミ捨てハンドブックをひらいた。雑紙やチラシの類は紐で縛るか紙袋に入れるかである。紐はあるのでやれないこともないが、サイズも質感もちがう紙類をいろいろあわせて縛るのもめんどうなので、紙袋を入手するまではとりあえずいくらかべつのビニール袋にうつしておくかと、nojimaの真っ青な袋から中身をとりあげてある程度移動させた。紙パックはまたべつなので、それはそれでビニール袋に入れておく。二五日に地元の美容室に行くときに菓子を買っていくつもりなので、そこで紙袋をひとつ入手できるはず。というかよくかんがえたら引っ越しのときにつかったものが何枚か、収納スペースの奥にあるのだった。それをつかえばよいではないか。
 そういう感じでそこそこ部屋の整理ができたが、段ボールなどは放置のままだし、冷蔵庫の脇や裏も掃除できていないし、きれいな状態にはまだまだほどとおい。しかしともあれ腰がつかれたので寝床に逃げて、Chromebookでウェブを見ながら座布団にからだの背面をもぞもぞこすりつけた。掃除をしたので、窓は開けて外気をとりいれておいた。いつからか雨が降っており、そとの空気はおおいに濡れていた。そうして休んだのがたぶん七時くらいまでか。食事へ。キャベツに豆腐、セロリに大根にタマネギのサラダをこしらえる。大根がそろそろ皮がしなびた感触になってきているので、さっさとつかってしまわないと。そのほか昼間に食ったパウンドケーキののこりと、それを食ってもいけそうだったので、ウインナーのはさまったチーズナンもひとつ食べた。食欲はわりと感じて、それらを食べてもまだなにか食べたいような気もしたのだが、特にちょうどよいものもないし、胃や食道をおもんぱかる。みぞおちのあたり、臍からうえにのぼっていって左右の肋骨の接合点にあたるそのへんを押すとたしょう痛みがあるので、胃だか食道だかわからないがなにかしら悪くなっているのはまちがいがない。喉のつかえめいた違和感も、軽くはなったが抜けてはいない。食後は皿洗いをすぐに済ませ、ウェブを見てなまけたあと、ユーディット・シャランスキー/細井直子訳『失われたいくつかの物の目録』(河出書房新社、二〇二〇年)を読みはじめた。きのう図書館で借りた三冊のうちのひとつである。おもしろい。「はじめに」と「緒言」しかまだ読めていないが、「はじめに」はこの本が執筆される間にこの世から消え去ったものたちと反対に見つけ出されたものたちを列挙する二段落になっており、じぶんはさまざまなものの列挙という手法に基本的に惹かれてしまう性質をもっている。「緒言」も人類による死のとらえかたとか、記憶や保存とかそういうテーマの、いろいろな固有名詞や歴史やエピソードを織り交ぜたエッセイ的文章になっており、冒頭の、町の中心にマルクト広場ではなく墓所があるというデンマークのある島のはなしからして魅力的で、この「緒言」は11から25まであってけっこうながいのだけれど、おおかたの部分を書きぬこうという気になった。この本は地元の図書館の新着図書ではじめて見たときから、これはたぶんおもしろい本、良い本だろうなと直感していたのだけれど、予想通りである。そもそもタイトルからして、「失われた」「物」「目録」とあきらかにじぶん好みのテーマがそろっている。だから不思議なことではないといえばそうだ。九時くらいまで読んで「緒言」の終わりにいたり、それからきょうのことを書き足して、ここまでで九時三七分。


     *


 いまもうまさに日付が変わるところ。九時三七分のあとは一九日の日記にとりかかり、勤務時のおぼえていることをある程度書き足してしまいとした。それでだいぶ疲れたので、寝床に避難する。頭蓋骨や後頭部が硬かったり、また首すじもこごっている感じが顕著で、Chromebookをとりながらもたびたび置いて胎児のポーズを取ったり、あおむけで静止したりしてからだを休め、ゆるくする。雨降りだが窓をひらいており、目を閉じてそうして休んでいるあいだは雨音がひだりのちかくから聞こえつづけていて、どこを垂れるのかあるいはながれるのか、降るというよりは水がびしゃびしゃとながれている感じの響きだったり、どこかにカチカチカンカンと当たる音だったりが混ざって、どのタイミングを切り取ってもひどく似通っていて判別がつかなそうではあるがしかしそのじつ無法則に無限の多様性をはらんでひたすらに持続をひろげるその音響は、耳にふれているとかなりおちつく。風というほどのものはないけれど、そとの涼しさが網戸からしずしずと来て肌にふれるのもきもちがよい。「雨もまた隷属を知りすべもなく降り継ぐことに賭けているのだ」「神々も砂になるほど熱い日に歴史は変わるさうつくしさ抜きで」という二首をつくった。起き上がると一九日分をブログやnoteに投稿し、短歌も191番から200番に達したのでnoteに投稿、それから二〇日のことを記述し、てきとうに済ませてこれも投稿。これできょうのことはもう完成も同然だし、二一日と二二日のことはあしたでいいかなとおもっている。


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 「読みかえし1」ノートより。なんどでも引いておかなければならない。

Matthew Hill, David Campanale and Joel Gunter, "'Their goal is to destroy everyone': Uighur camp detainees allege systematic rape"(2021/2/2)(https://www.bbc.com/news/world-asia-china-55794071(https://www.bbc.com/news/world-asia-china-55794071))

557

Then sometime in May 2018 - "I don't remember the exact date, because you don't remember the dates inside there" - Ziawudun and a cellmate, a woman in her twenties, were taken out at night and presented to a Chinese man in a mask, she said. Her cellmate was taken into a separate room.

"As soon as she went inside she started screaming," Ziawudun said. "I don't know how to explain to you, I thought they were torturing her. I never thought about them raping."

The woman who had brought them from the cells told the men about Ziawudun's recent bleeding.

"After the woman spoke about my condition, the Chinese man swore at her. The man with the mask said 'Take her to the dark room'.

"The woman took me to the room next to where the other girl had been taken in. They had an electric stick, I didn't know what it was, and it was pushed inside my genital tract, torturing me with an electric shock."



559

Another teacher forced to work in the camps, Sayragul Sauytbay, told the BBC that "rape was common" and the guards "picked the girls and young women they wanted and took them away".

She described witnessing a harrowing public gang rape of a woman of just 20 or 21, who was brought before about 100 other detainees to make a forced confession.

"After that, in front of everyone, the police took turns to rape her," Sauytbay said.

"While carrying out this test, they watched people closely and picked out anyone who resisted, clenched their fists, closed their eyes, or looked away, and took them for punishment."



560

Detainees had food withheld for infractions such as failing to accurately memorise passages from books about Xi Jinping, according to a former camp guard who spoke to the BBC via video link from a country outside China.

"Once we were taking the people arrested into the concentration camp, and I saw everyone being forced to memorise those books. They sit for hours trying to memorise the text, everyone had a book in their hands," he said.

Those who failed tests were forced to wear three different colours of clothing based on whether they had failed one, two, or three times, he said, and subjected to different levels of punishment accordingly, including food deprivation and beatings.

"I entered those camps. I took detainees into those camps," he said. "I saw those sick, miserable people. They definitely experienced various types of torture. I am sure about that."

It was not possible to independently verify the guard's testimony but he provided documents that appeared to corroborate a period of employment at a known camp. He agreed to speak on condition of anonymity.

The guard said he did not know anything about rape in the cell areas. Asked if the camp guards used electrocution, he said: "Yes. They do. They use those electrocuting instruments." After being tortured, detainees were forced to make confessions to a variety of perceived offences, according to the guard. "I have those confessions in my heart," he said.


     *


 うえまで記したあとは特段のこともなく、また「読みかえし」ノートを読んだり、ウェブを見回ってだらだらしたりして、二時半か三時前に就床した。


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  • 「ことば」: 1 - 5
  • 「読みかえし1」: 531 - 535, 536 - 547, 548 - 564
  • 日記読み: 2021/9/23, Thu.


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Maya Yang, Léonie Chao-Fong, Martin Belam and Michael Coulter, “Russia-Ukraine war latest: what we know on day 212 of the invasion”(2022/9/23, Fri.)(https://www.theguardian.com/world/2022/sep/23/russia-ukraine-war-latest-what-we-know-on-day-212-of-the-invasion(https://www.theguardian.com/world/2022/sep/23/russia-ukraine-war-latest-what-we-know-on-day-212-of-the-invasion))

Pro-Russian authorities in four regions of occupied Ukraine – Luhansk, Donetsk, Kherson and Zaporizhzhia – have been conducting widely-condemned “referendums” on whether the regions desire to be annexed by the Russian Federation.

     *

The governor of the Kharkiv region Oleh Synyehubov has said 436 bodies have been exhumed from a mass burial site in the eastern city of Izium. Thirty of the bodies bore visible signs of torture in the burial site in Kharkiv, a region held largely by Russian forces before a Ukrainian counteroffensive this month, Synyehubov told reporters alongside the region’s police chief.

     *

Long lines of vehicles continue to form at Russia’s border crossings on the second day full day of Vladimir Putin’s military mobilisation, with some men waiting over 24 hours as western leaders disagree over whether Europe should welcome those fleeing the call-up to fight in Ukraine. The Russian president’s decision to announce the first mobilisation since the second world war has led to a rush among men of military age to leave the country.

     *

The Hungarian prime minister, Viktor Orban, wants European Union sanctions on Russia lifted by the end of the year, a pro-government daily newspaper said. Orban, a Putin ally, has frequently railed against the sanctions imposed on Russia over its invasion of Ukraine.

Many of the Ukrainians exchanged in the largest prisoner swap with Russia since the beginning of the invasion show signs of violent torture, the head of Ukraine’s military intelligence said on Thursday. On Wednesday, Ukraine announced the exchange of a record-high 215 imprisoned soldiers with Russia, including fighters who led the defence of Mariupol’s Azovstal steelworks that became an icon of Ukrainian resistance.

2022/9/22, Thu.

西脇順三郎訳『マラルメ詩集』(小沢書店/世界詩人選07、一九九六年)

●51~52(「エロディヤード」; Ⅰ 序曲)
 彼女は時々混乱して
 悲痛な予言を歌った!
 なめし皮の小姓が給仕する食事用寝台は
 亜麻布でなく、役にたたなく修道院的よ!
 夢をひそますあの懐かしい妖術の本も
 また廃れた山羊の毛織の墓所の天蓋も
 眠る髪の毛の香りももうない。あったことがあるか?
 冷たい少女は散歩を美妙な楽しみとし
 花が寒さに震える朝でも
 またザクロを折った意地悪の夕暮でも!
 三日月は、そうだ、時の鉄の指針面にただ一つあり
 振子としては反逆の天子が吊られている
 それはいつも人を傷つけ、暗黒の涙に滴る
 水時計でいつも新しい時間は泣くのだ。
 見捨てられてさまよう彼女の影の上には彼女の(end51)
 言い難い足どりにつきそう天使もいない!




 目を覚まして携帯を見ると九時四七分だかそのくらいだった。カーテンの端をめくってそとを見てみると、空は淡い雲をまぶせられて希薄化した水色。そこから腹を揉んだり脚の付け根をさすったり、あたまを左右にころがしたり胎児のポーズをとったりとからだをすこしずつセットアップしていく。数日前からようやく秋らしい涼しさの日々にうつっており、布団を脇にのける必要もなく、それを覆い被せられたままでもぞもぞうごく。昨晩の件があってやはり腹を揉んでおくのが大事なのだなとおもったので、下腹部全体を、そしてとりわけ臍のうえあたりをよく揉みほぐしておいた。一〇時四〇分ごろに離床。前夜はたしか二時五〇分かそのくらいに床についたとおもうので、睡眠なら七時間、滞在なら八時間ほどでどちらにせよわるくない。七時間八時間くらいはやはりねむるものだろう。洗面所に行ったりうがいをしたり、水を飲んだりしたあときょうは蒸しタオルもやった。それですぐにまた寝床にもどり、Chromebookで一年前の記事の読みかえし。2021/9/22, Wed.にはしたのような記述。

(……)新聞からはイスラーム思想家でもあるというヨルダン王子(現国王のいとこ)へのインタビューを読んだ。アル・カーイダのようなジハード主義者がやっているのはジハードではなくてテロリズムであると。ジハードはもともと努力という意味で、みずからのこころの悪に打ち克つという意味での大ジハードと、「正戦」としての小ジハードがあり、重要なのは前者だし、「正戦」にしてもそれをおこなえるのは国家だけで、おこなうにしても先に攻撃されたとか規範から逸脱してはならないとかきびしい制約が課せられているものだと。だから二〇〇一年九月一一日のテロのような、自国から遠くはなれた国の民間人を標的にした攻撃は本来の意味のジハードとはまったく言えない。イスラームの宗派としてはスンニ派シーア派という大別があるわけだが、スンニ派内でもそれまでに積み重ねられてきた法学者たちの解釈の伝統を尊重しそれにしたがおうとする派閥(スンニ派のうち六五パーセント)と、それらの蓄積を無視して初期イスラームの時代にもどろうとするような派閥とで分かれているといい、このあたりはカトリックプロテスタントの区別に似ているのかもしれない。前者のうちには四大学派があり、そのうちのハナフィー学派という派閥から派生するかたちで独自解釈をこころみたのがデオバンド派であり、タリバンはこれにもとづいている。後者の派閥にはサウジアラビアの一部などで見られるサラフィー・ワッハーブ派やエジプトのムスリム同胞団、そしていわゆるジハード主義者のたぐいがふくまれると。彼らはイスラーム解釈の伝統を無視し、一部を極端に重要視した拡大解釈をおこなっている、とのこと。

     *

いま二時(二六時)四五分。二〇日月曜日の記事をしあげ、火曜日分とともにブログに投稿し、ようやっとその日のうちに前日分までしあげて投稿するというところまで持ってくることができた。きょうのことはまだ書けていないが、あしたにはおそらく、ひさかたぶりで現在時まで記述が追いつく、という状態にできるだろう。先日の記事にしるしたとおり、日記なんてものはその日のうちかせいぜいつぎの日までにさっと記録するものであり、何日もかけたり、一週間後になってようやく一週間前をしあげたりするものではない。これはじつにただしい主張である。このことをこころに留めて、さっさかさっさかと楽にやっていきたい。そして日記を日々コンスタントにかたづけることができれば、それいがいのことにとりくめる。つまり翻訳をやったり、詩をつくったり、ばあいによっては小説のたぐいをこころみたり、家事をやったりということだ。そもそもむかしはふつうに毎日完成・投稿のペースをまもってやっていたのだが、なぜいまのようなことになったのか? 認識と記憶の成長によって書くこと書けることが増えすぎたというのがやはりおおきくはあるのだろう。二〇一四年あたりには二〇〇〇字三〇〇〇字くらいでひいひい言っていたとおもうし、五〇〇〇字書いたらめったにない快挙だった。いまなら三〇〇〇字五〇〇〇字などもののかずではない。三〇分散歩すればそのくらいはふつうに行くだろうし、数時間街に出れば一万字は余裕で超える。世界はつねにゆたかであるのだから、それはしかたない。あとは単純ななまけごころと熱情の衰退。

 「先日の記事にしるしたとおり、日記なんてものはその日のうちかせいぜいつぎの日までにさっと記録するものであり、何日もかけたり、一週間後になってようやく一週間前をしあげたりするものではない。これはじつにただしい主張である」というのはいまも同意だ。まったくもってじつにただしい主張だ。ところがじつにただしいとおもうその主張にしたがうことが一向にできない。
 往路の記述は以下のようなもので、まあわりとやってんなと言ってやってもよい文にはなっている。二段落目は記憶を喚起されるようでよい。

(……)三時四〇分ごろに出発。このころには晴れていて、川向こうの集落や山にまだまだいろ濃くにおやかなオレンジ色が投射され、空はおおかたきりりと青いなかに粉状の淡い雲がすこしひっかかっていたり、チョークの粉をつけた指でなぞったような細雲が引かれているのみ、公団前まで来るとまぶしさがいっぺんにひろがり視界が占拠され、おもわずほとんどまぶたを閉ざすようになり、陽射しは肌にじりじりと暑いが十字路まで行けば風が木立をざわめかせて、まろやかな涼しさをもたらした。坂道は枝葉の天蓋でひかりが弱く、時もまだはやいから鋭角薙ぎのあまい木洩れ陽もないが、左手のガードレールの奥では木立の上方にあかるさが侵入して水平にひろがり、射られた一本の緑葉がことごとく白さをはめこまれて季節はずれの電飾のようになっていた。

暑かった。蒸す感覚はなくて気持ちの良い秋晴れではあるものの、陽射しがなかなかに旺盛で、駅につくころにはからだがだいぶ汗ばんでいた。ホームにはいると屋根がつくりだしている蔭の端に止まって、電車到着のアナウンスがあるまでひとときたたずんだ。微風があまり途切れずながれて汗に涼しく、線路脇に群れて茂った立位のほそながい草ぐさは、揺れるというほどの動きでもなくごくしずやかに、しかし絶え間なく風にさそわれたわむれていて、寝入ったからだのような微細な息づきがかならずどこかしらで生じて法則なしに交替しあっているその動きは催眠的というべきものかもしれなかった。草と空のあいだのひかりが満ちとおった宙には一匹の虫がただよって、トンボだろうかと見つつ定められなかったが、あかるいひかりの橙のなかでさらに独立したオレンジの一片として行き交っていた。目をふればホーム上の柱の上端と屋根のあいだに張られた三角旗のような蜘蛛の巣も、大気のあかるさを分けあたえられ、ひかりを塗られてきらめいている。

 それから2014/2/18, Thu.も。つぎのような一段落。とくにおもしろくはないが、二〇一四年のじぶんにしてはがんばっていると言ってやってもよい。

 木々のあいだをすりぬけた光はその先で民家にぶつかって広がり、無表情な素朴さを見せる家壁がオレンジ色のスクリーンに変わると、光の手にさらわれた分身がそこに映しだされた。西の空には落日がまばゆく輝いていた。緑と紅色が暗く混ざりながら長く伸びる林はその全体が淡いオレンジ色に包まれ、夕陽が宿ったすべてのものに分け与えられるあのつくりものめいた美しさをまとって町に寄り添った。斜陽の光が波のようになかばまで広がった頭上の空には、糸のほつれた帯のような雲がひとすじ走った。広場では無数に連なった雪の小山が昼間の太陽の力でえぐれて襞をつくり、波立つ海面が凍りついたふうにも、あるいは白い砂漠が広がっているようにも見え、それ自体がひとつの完成された造形作品さながらの存在感を放っていた。

 「寄り添った」「走った」というこの二文の終わり方は、いまだったらふつうに「寄り添っていた」「走っていた」としてしまうところだが、たぶんこのとうじは、具体的に特定できる時空において主体(こちら)がみたものとしてというよりも、この林とか空がそれそのものとしてあるように書きたかったのではないか。つまりこちらの一人称ではなく、三人称的な視点にちかいものとして。もうひとつ、この前後はどちらも「輝いていた」「放っていた」と「~~ていた」で終えているので、あいだもそうするとぜんぶおなじ文末になってしまうというあたまもあったかもしれない。いまだったら一文をもっとながくしてそういうことを回避してしまえるけれど、このとうじはまだながい文をつらねてつくるちからはさほどなかっただろうし、マルケスの影響も受けていただろうから、堅実に締まった文のリズムを体得しようとしていたはず。二〇一五年くらいからそのリズムの一定性が退屈になってきていたような記憶がある。というか、のちになって読みかえしたときにそうおもったのだったか。さいしょからさいごまでほんとうにおなじリズム感でずっと書いていて単調だな、と。それくらい身についたということではあったわけだ。
 あと、「教室のすぐ正面にあるバス停が雪の重みで斜めに倒壊し、黒い縞が入った黄色いテープで囲まれ、危険を警告する紙が貼られていた」と。言われてみればたしかにこういうことがあった。それくらいの影響をもたらす大雪だったのだ。
 起き上がり、正午前から瞑想。二五分ほど。わるくはないが、そうながくすわれたという感じでもない。洗濯をすることに。このころにはすこし陽の色がみえていたのだ。その後、午後三時現在ではまた白さに閉ざされて、さきほど洗濯物を入れたときにふれたピンチの先端がちょっと水気を帯びていたから、見えないほどのかすかな雨もはじまっていたようだ。ニトリのビニール袋にはいっている汚れ物をひとつずつとりあげてはひろげて洗濯機に放りこみ、注水をしているあいだに便所でクソを垂れ、出ると洗剤を入れて開始。うごきはじめたその洗濯機のうえで野菜を切る。サラダはキャベツと豆腐とリーフレタスのみで、ドレッシングも胡麻のもの。昨晩とおなじで、ひきつづき腹のようすを見ることにしたのだ。食うのもさいしょのうちはゆっくりしていたが、大丈夫そうだったのでわりとふつうに食べすすめ、サラダいがいにこのあいだスーパーで買ったバターデニッシュも食べた。消費期限がきのうまでだったので。冷蔵庫に入れておいたのを電子レンジですこしあたためてはようすを見、ちょうどいいくらいの温度になったところで出してもぐもぐかじる。あいまは(……)さんのブログ。一八日分と一九日分。冒頭の引用はよくわからないところもあるが、興味深いのでふたつとも引いておく。

 そもそも主体は、自らの根源的な「病」を経験していなければ、分裂した主体であることを選択できない。まず決定論の要請、あるいは「脱-心理学」の要請によって形成される領域を旅していなければ——自らが行うすべての行為の原因すべての間に、一貫した、「閉じられた」連鎖関係が存在することを、そしてこれによりすべての行為の動機や意義が完全に説明できるということを、仮定するような領域を通り抜けていなければ——主体は(自由な)主体であることを選択できない。つまり主体は、まず強いられた選択肢ではなく、排除されたあるいは不可能な選択肢にたどり着いていなければ、主体としての存在を選択できない。まさにこれがSという選択肢——不自由であることの選択、完全に〈他者〉に従属した状態、自分の行為すべてが動機や利己心やその他の原因によって完全に決定される状態の選択——である。主体は、まず「私は行う」、「私は考える」などと言えないような場所にたどり着いていなくてはならない。このように主体自身が不在であるような不可能な点、主体に言えることは「私は存在しない[アイ・アム・ノット]」のみであるような点を通過することが、自由な主体としての地位を獲得するための必要条件である。そこに到達して初めて、決定論を極限まで突きつめていって初めて、倫理的主体の基盤となる「余り」が現れるのである。カントは、自由の基盤をなすこの根源的疎外の経験をどのように記述し、そして理論化しているのだろうか?
 しばしばカントは、現象としての主体は自由でありえない、自由とは主体性の「ものそれ自体」としての「側面」のみに属する、と主張する。が、批評家たちに言わせれば、そのような立場は、どうしようもないジレンマに陥るのみである。自由が「ものそれ自体」の領域に限定されるならば、それは現実の人間主体を理解する上で何の役にも立たない、全く空虚な概念となってしまう。逆に、実際に自由はこの世界に変化をもたらしうると考えるならば、それは超時間的なもの、「ものそれ自体」ではないということになる。すなわち、問題はこれである——どうしたら自由というひとつのものが、全く同時に、経験的性質と純粋思弁的な性質とをあわせもちうるのか? どうしたらひとつの行為が必然であると同時に自由でありうるのか? 『たんなる理性の限界内の宗教』の中で、カントはこれらの問いに答えて言う。

 選択意志の自由は全く独特な性質をもつ。というのは、誘因は、人がこれを彼の行動原理にとり込んでいるかぎりにおいて(これを、自分の行動を決定する際にしたがう一般的原理としているかぎりにおいて)、彼の選択意志を決定することができるからである。このようにしてのみ誘因は、それがどんなものであれ、選択意志の絶対的自発性(つまり自由)と共存できるのである。

 主体の特徴である自由にたどり着くためには、法則の対立項である恣意性あるいは任意性から考えなくてはならない、などというのは間違いである。その行為が予測不可能であるからと言って、主体が自由であると言えるわけではない。そのような解決が示しているのは、まだ我々が「脱-心理学の要請」の道を歩みきってはいない、ということのみである。確かに、その動機だと思われるものが、実際そうではなかった、ということもありうる。しかし、だからといって主体には他の動機、他の「病的」な利己心がなかった、ということにはならない。それゆえ我々は、主体の行動の恣意性の中にではなく、法則あるいは必然性自体の中に自由を探さなくてはならない。我々は、法則あるいは因果律による必然の中で主体が果たしている積極的役割を明らかにしなくてはならない。つまり、主体とは無関係のように思われる因果律の中に主体がすでに書き込まれている点を、明らかにしなくてはならないのである。
 右の引用でカントが言っているのは、まさにそういうことである。主体の問題においては、すべての原因と結果の関係の大前提として、必ずある種の行為(「意識的」であるとはかぎらないある種の決断)——何らかの駆動力を(十分な)原因として確立するような、つまり主体の行動を導く原理に組み込むような、ある種の行為——が想定されている。このような読解は、「組み込み理論」として、ヘンリー・E・アリソンによって提出されている。駆動力は、それ自体何の動機にもならない。それは、直接的には何物をも生み出すことができない。それは主体の行動原理に組み込まれた時にのみ、そのような力を発揮する——つまり「動因」あるいは「誘因」となる。

 簡単に言おう。自己保存、私利私欲、あるいは幸福が私の行動原理である時、それらがそのような権威ある立場にあるのは、私の中においてそれが自然な状態であるからではなく、私自身がそれらに原理としての権威を与えているからである。……もちろん、だからといって我々は、我々の行動の根底にある原理が前時間的・非時間的に、あるいは意識的・意図的に、外部から採用される、などと考えてはいけない。むしろ、自己を顧みた時、我々は、自らがそのような原理——道徳に関する根源的な意志の方向づけ——にずっとしたがってきたことを知るのである。

 アリソンによれば、カントの主張は次のようにまとめられる——「(自然な)ことの成り行きに流されるもよかろう。だが最終的に、このような必然性という君の行動の原因を原因としているのは、他でもない、君自身である」。主体の行動の原因の原因は存在しない——原因の原因は、他でもない主体自身である。ラカンの言葉で言うなら、〈他者〉の〈他者〉とは主体である。意志を超越論的なものとして、自由なものとして位置づけること、これは意志がその対象すべてに先行するということを意味する。意志は何らかの対象に向かうかもしれないが、この対象自体はそれに向かう意志の原因ではない。
 以上のことは日々の経験からも証明されるであろうが、より明確かつ印象的な事例を提供してくれるのは、精神分析が発見したもののひとつ、フェティシズムである。人物Aが何の関心も示さないある物体を見ると、人物Bは、自らの意志とは無関係に一連の行為あるいは儀式を行わずにはいられない。これはその物体が、二人の内のリビドー配分図において同じ場所を占めてはいないからである。カント流に言えば、Bの場合、この物体は、すでに彼の行動原理に組み込まれており、それゆえ動因として機能しているわけである。さらにカントが言うには、我々は、これには主体すなわちB自身が一枚噛んでいる、と考えなくてはならない。我々は、この動因あるいは誘因を行動原理に組み込む際になされる決断は主体のものである、と考えなくてはならない——たとえ主体がこの決断をそのようなものとして経験しなくても、である。フェティシストは、「今日この日、私は、ハイヒールを私の欲望の究極の対象、動因とすることに決めた」などとは言わない。彼は、ただこう言うのみである——自分ではどうしようもないのだ……私が悪いのではない……我慢できないのだ……。
 このような決断は、もちろん無意識レベルのもの、カントの言葉で言えば「心術」——すなわち誘因を行動原理に組み込む際の究極的な基盤である主体の心的傾向——のレベルに位置づけられるべきものである。しかしここで重要なのは、この「心術」、主体の究極的な心的傾向それ自体、主体によって選択されるものであるというカントの主張である。これは、精神分析において「神経症であることの選択[ノイローゼンヴァール]」と呼ばれるものに近いと考えていいだろう。主体は、自らの無意識に従属している[サブジェクト]——あるいは、隷属している——と同時に、最終的には、その無意識の主体[サブジェクト]——その無意識を選択した者——でもあるのだ。
 「主体が自らの無意識を選択する」という命題——これを、「(精神分析流)自由の要請」と呼ぼう——こそ、精神分析成立の条件である。精神分析の目的=終着点[エンド]である視界の変化、ラカンが「移行[ラ・パス]」と呼ぶものは、この原理を背景としてのみ起こる。無意識が選択されるのは一度だけではない。精神分析は、主体を新たな選択ん入り口まで導いた時、つまり主体が新たな選択の可能性があることに気づいた時、終了するのである。「精神分析の倫理」についてのセミナーの開始を告げるラカンの言葉——むしろ問いかけ——は、このような観点から理解されねばならない。

 これは言っておきたいのだが、道徳的行為は我々に問題を投げかける。というのは、精神分析は、我々にこれに対する心構えをさせると同時に、最終的には、その入り口のところで我々を置き去りにするからである。実際、道徳的行為は、現実に接ぎ木されている。それは現実なるものに何か新しいものをもち込み、そうすることによって、そこでは我々が存在している位置が正当化されるような、そんな道を切り拓く。精神分析が我々に道徳的行為に対する心の準備をさせるとは、いったいどういうことか? もし、本当にそのようなことがあるならば? 精神分析が我々を、言わば、いざそのような行為にとりかかることのできる状態にするとはどういうことか? なぜそれはこのように我々を導くのか? また、なぜそれは玄関口で立ち止まってしまうのか?

 (『リアルの倫理——カントとラカン』アレンカ・ジュパンチッチ・著/冨樫剛・訳 p.47-52)

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 「理論哲学」においてそうしたように、カントは実践理性の領域に、現象のレベルにも「ものそれ自体」のレベルにも還元できない第三の要素を導入する。彼が『純粋理性批判』で発展させた主体の概念は三つの要素——まず現象としての「私」、表象としての、あるいは意識されるものとしての「私」、第二に「ものそれ自体」のレベルに位置づけられる「考える『もの』」、そして第三に純粋統覚としての超越論的「私」——からなるものであったが、実践理性の領域においても、我々は同じように三つの部分からなる主体性に出会うことになる。第一に現象の領域、つまり因果の連鎖の領域における人間の行為や行動——ここにあるのは「心理学的私」、自分自身が自由であると信じている意識のレベルの「私」である。次に、主体の心術であるが、これは「ものそれ自体」のレベルに属する。なぜならそれは、主体が直接経験することのできないもの、主体の行動から推測するしかないものだからである。そして第三の要素として、主体によるこの心的傾向の選択、現象のレベルに属さず、また「ものそれ自体」のレベルにも属さない「主体が自発的に行う行為」があるわけである。
 アリソンは心術を、カントが第一『批判』において「統覚の超越論的統一」、あるいは「主体が自発的に行う行為」と呼んだものの「実践的」対応物として理解してはどうかと言うが、これはいささか早合点だと思われる。この解釈の問題点は、それが心術と、主体による心術の選択という(超越論的)行為との差異を抹消してしまうことにある。確かにカント自身、時折、統覚としての「私」と(「ものそれ自体」としての)「考える『もの』」との区別を曖昧にしてしまっているが、この区別は、彼の実践哲学においては絶対的に重要である。主体の心的傾向とは選択されるものであることを強調する際、彼は、「我々の内にある『ものそれ自体』」——つまり心術——と、主体による心術の選択が行われる空虚な場所に他ならない超越論的「私」との区別をも強調している。この空虚な場所は「ものそれ自体」のレベルにはない。むしろそれは、現象と「ものそれ自体」の差異を保証する盲点の具現である。この「盲点」があるために、(行為する)主体は自らに対して透明ではありえない、つまり「主体の内にある『ものそれ自体』」、すなわち心術に直接到達することができないのである。
 さらにこの差異は、超越論的自由と実践的自由の差異の源でもある。カントの言う実践的自由とは、心術のレベルの自由、主体の行動を決定する原理に特定の誘因を組み込む自由である。他方、超越論的自由の機能は、この根源的な選択の背後には何もない——自由の「メタ基盤」など存在しない——ということを示す空虚な場所の輪郭を示し、そしてそれを維持することである。主体の心術が、あの誘因ではなくてこの誘因を組み込む原因であるとすれば、ここにおいて超越論的自由の存在が意味することは、他でもない、この原因の〈原因〉など存在しないということである。
(『リアルの倫理——カントとラカン』アレンカ・ジュパンチッチ・著/冨樫剛・訳 p.52-54)

 ひとつめの引用の、「我々は、この動因あるいは誘因を行動原理に組み込む際になされる決断は主体のものである、と考えなくてはならない——たとえ主体がこの決断をそのようなものとして経験しなくても、である。フェティシストは、「今日この日、私は、ハイヒールを私の欲望の究極の対象、動因とすることに決めた」などとは言わない。彼は、ただこう言うのみである——自分ではどうしようもないのだ……私が悪いのではない……我慢できないのだ……」とか、「しかしここで重要なのは、この「心術」、主体の究極的な心的傾向それ自体、主体によって選択されるものであるというカントの主張である。これは、精神分析において「神経症であることの選択[ノイローゼンヴァール]」と呼ばれるものに近いと考えていいだろう。主体は、自らの無意識に従属している[サブジェクト]——あるいは、隷属している——と同時に、最終的には、その無意識の主体[サブジェクト]——その無意識を選択した者——でもあるのだ」という部分を読んで、過去になにか似たような、にんげんだれもじぶんの強迫観念をえらびとってそれを引き受けながら生きていくしかないものだろう、みたいなことばを書きつけたことがあったような気がした。たしか一八年の変調中に、医者で、じぶんの書きものが強迫観念的だといわれたときではなかったかとおもったが、それでブログを検索してみると、時期としてはやはりそのころ、2018/1/21, Sun.のことで、「自分はやはり、出来る限り平静と自足を保ち、その瞬間瞬間を丁寧に生き、その時々の自己と他者を大切にして生きて行きたいと思うものであり、それが自分にとっては多分、要は書くことと生きることを一致させるということの内実だと思うのだが、そのような考えがもし強迫観念となって自分を苦しめるとしても(しかし人間、ある意味で、何かしらの事柄を強迫観念としなくては生きていけないのではないか? 自らそれに従うことを同意し、自覚した形での強迫観念、それがそれぞれの人の「物語」であり、あるいは「信仰」というものではないのだろうか)、そうであっても自分はそのようにしていきたい、瞬間を書き続けることをやめたくはないという結論が、一応導出された(しかしまたそのうちに、これを疑いはじめるのではないかという気もしており、さらにその後、またここに回帰するのではないかという見通しまで立つ。もう自分はそのように、常に迷い続ける存在で良いと思う)」という一節が見つかった。この時期はあたまがだんだん狂いだして、そのように現在の瞬間を絶えず(もちろん断片的・飛躍的にだが)あたまのなかで言語化してしまう意識のはたらきとか、そういうふうにあたまのなかで言語が自動的に生まれてながれていくさまそれじたいとかが怖くなり、日記を書こうとコンピューターのまえについてもじぶんの脳内の言語もしくは思考そのものが怖いわけだから、そんな状態でまともに書けるはずもない。この一月二一日はそれでもまだ書いているが、このあと二月三月にかかるにつれてだんだんと書けなくなっていき、それに応じるように感情や感覚が希薄化して、じぶんがなにも感じない(かのようにおもえる)という離人症もしくは鬱的な症状がじぶんにとってのリアルな現実となり、鬱的様態にはいっていくことになる。一八年中は一二月までずっとそうで、そのあいだはなにかの手違いで冥界から現世にもどってきてしまった死者のように、おりおり絶望と希死念慮を書きつけるだけだった。
 食後はすぐに皿を洗い、音読。さいちゅうに洗濯が終わったので(すでに一時ごろだった)、まずひとつのみ出していた集合ハンガーをなかに入れ、吊るしてあるものを取ってたたむ。そうしてあたらしいものをハンガーたちにとりつけるとそとへ。このあたりでは空は雲がちながら水色の間もいびつとはいえはさまれて、窓辺にも薄陽がかかっていてわるくなさそうだったのだけれど、そのあとたいしてあかるさには行かず、けっきょく冷え冷えとしたような色の平板な白曇りに変わってしまい、雨すら降ってきそうな気配で、だから三時ごろにはもうしまってしまった。音読をつづける。「読みかえし」ノートから目についたのはしたのもので、この513番のさいごで話されていることはこちらが先日(……)との通話を受けて「神」について書きつけた汎神論/否定神学の話題とつうずるものがあるだろう。それにしてもバルトの『記号の国』の、皇居は不在の中心であるみたいなあれって京都学派がすでに先行していたのか。

「対談:ホー・ツーニェン×浅田彰 《旅館アポリア》をめぐって」(2020/1/5公開)(http://realkyoto.jp/article/ho-tzu-nyen_asada/(http://realkyoto.jp/article/ho-tzu-nyen_asada/%EF%BC%89))

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浅田 この作品の中に出てくる京都学派について、予備知識を持たない聴衆の方々のためにきわめて基本的なことを言うと、ふたつ大きな問題があると思います。ひとつは、特に西田幾多郎に言えることですが、ロジカルというよりはレトリカルだということ。もうひとつは総じて非常に図式的だということです。
 前者に関しては、鈴木大拙と比較してみればいい。彼は西田と同世代で親しい関係にありましたが、禅をはじめとする仏教について英語で書き、ジョン・ケージや抽象表現主義者といったモダニストたちにも大きな影響を与えた。大拙がかなりロジカルに書いていて、わかりやすかったからでしょう。しかし西田は、それより真面目だったというか、座禅などの体験において体で感じ取るべきこと、言葉で言えないことを言葉で言おうとしているので、非常に無理のあるレトリックを反復していくことになるんですね。だからロジカルに理解することがとても難しい。西田に比べて田邊元はロジカルだとは思いますが。
 後者は京都学派一般に関して言えることで、特に西洋に対する東洋という形で非常に図式的な議論を組み立てるきらいがあるということです。例えば西洋思想では全体論と要素論、全体主義個人主義が対立しているが、東洋思想は全体でも要素でもない「関係のネットワーク」に重点を置くものであって、その東洋的関係主義によって西洋の二項対立は超えられる、というわけですね。「人の間」と書いて「人間」というように、人間は全体の一部でもなくバラバラの主体でもなく、関係のひとつの結節点である、と。西洋では全体主義個人主義の二項対立がある。全体主義の中でもスターリン共産主義ムッソリーニヒトラーファシズムが対立しており、それらに対して英米の自由資本主義が対立している。そうした対立を、関係主義、あるいは京都学派左派だった三木清の言う協同主義で乗り越えられる、と。要するに、東洋の知恵によって西洋の二項対立を全部乗り越えられる、それこそが西洋近代の超克だ、というわけです。しかし、それは図式的な言語ゲームの上での超克であって、現実的に関係主義とはいかなるものか、協同主義はどういう制度なのかというと、よくわからないんですね。
 ついでに言うと、西田も1938年から京都大学で行った講義『日本文化の問題』でそういうことを言っているんですが、41年のはじめごろ、真珠湾攻撃より前に、天皇を前にした「御講書始」において、いま言ったようなことを生物学のメタファーで話しています。生物学者でいらっしゃる陛下はよくご存じのことと思いますが、森というのは全体でひとつというのでもないし、バラバラの動植物の総和でもない、エコロジカルな関係のネットワークなのであります、といった感じですね。だから社会もそうでなくてはいけない。アジアに関しても、西洋に代わって日本が全体を帝国主義的に支配するのではなく、トランスナショナルかつエコロジカルなネットワークとしての大東亜共栄圏を築くべきだ。日本はその先導役を務めるべきだけれども、西洋の植民地主義帝国主義に取って代わる新しいヘゲモンになってはいけない、と。京都学派の主張は総じてこうしたもので、耳障りはいいのですが、それが日本の植民地主義帝国主義を美化するイデオロギーでしかなかったのは明らかでしょう。京都学派は海軍に近く、陸軍のあからさまな全体主義帝国主義に対して最低限のリベラリズムを守ろうとしたのだ――そういう見方はある程度は正しいものの、大きく見れば海軍も陸軍と同罪であり、京都学派も同様だと言わざるを得ません。
 ひとことだけ付け加えると、西田が禅の体験などについて言っていることは、東洋武術の人がよく言うことに似ています。西洋では、筋肉の鎧をまとい、さらに鉄の鎧をまとった剛直な主体がぶつかり合って闘争が起こり、その結果、次のものが出てくる。これが西洋の弁証法だ。東洋は違う。水のように自在な存在として、相手の攻撃を柔らかく受け止め、相手の力をひゅっとひねることで相手が勝手に倒れるように仕向ける、と。西田の好んだ表現で言えば「己を空しうして他を包む」というわけです。ブルース・リーと同じことで、「水のようであれ(Be formless, shapeless, like water)」という彼の言葉を香港の民主化運動家たちが運動の指針としているのは面白いことではあります。ただ、西田は『日本文化の問題』の中で、それを天皇制と結びつけるんですね。西洋には「私は在りて在るもの(存在の中の存在)だ」という神がおり、神から王権を与えられて「朕は国家なり(国家、それは私だ)」という絶対君主がいる。それが近代では大統領などになり、そういうものを頂く国家が、上から植民地主義帝国主義で世界を支配しようとするわけです。しかし、東洋は違う。そもそも、日本の天皇は「朕は国家なり」とは絶対に言わない。むしろ、皇室とは究極の「無の場所」であって、だからこそすべてを柔らかく包摂し、トランスナショナルかつエコロジカルな大東亜共栄圏の中心ならざる中心になりうる、というわけです。美しいレトリックではある。しかし、「無の場所」としての皇室がアジア全体を柔らかく包むと言われて、アジア人が納得するとは僕には思えませんが。

 音読に切りをつけると音楽を聞こうとおもって、Bill Evans Trio『Portrait In Jazz』を#4 ”When I Fall In Love”から#7 ”Spring Is Here”までながしたのだけれど、どうもねむいというか目をとじて音楽を聞いていても意識がはっきりせず、音を見るための瞑目内の視界がはっきりせず、それだからたいしてとらえられもせず、とちゅうからはあたまがまえにかたむくようなありさまだった。#5 “Peri’s Scope”でEvansがよく踊っているなというのがみえたくらい。Evansは意外と躍動的に踊るピアノだ。もちろん優美な踊り方で、ファンキー風味に跳ねるとかそういうことではないけれど、ただつっこみかたとか引っ掛けかたとか特有のリズム感覚というのはあると聞こえ、あかるめの曲で軽快にやるのも相当にうまい。
 音楽を聞いてかえってあたまがぼんやりしたので、椅子から立つと背伸びしたり、あるいはそのまま寝床になだれてちょっと転がってしまったりしたが、すぐに起き上がるときょうのことを書きはじめて、ここまで記せば四時をまわったところだ。瞑想中には、どうしても日記が追いつかないし、やはりおもいきって記述を大幅に削減するべきなのではないか、ほんとうにつよく印象にのこったことだけ書くようにして、朝起きてどうのこうのとかあんなどうでもいいことはもうはじめから省いてしまえばよいのではないかとおもっていたのだけれど、いざ書き出してみれば習慣のちからというものか、やはりふつうに書く気になってしまい、だからこういうことになっている。きょうはこのあと図書館に行かなければならない。けっきょくぜんぜん読めなかったが返却日がきょうなので。カフカ全集のほうは二七日だが、こちらもぜんぜん書抜きをすすめられていない。ブランショの『文学空間』もちびちびとしか読めずにいたが、きのうの夜にようやく読書会のノルマとなっている半分ほどまで読むことができたので、ここでいったんほかの本に行きたい。ポール・ド・マンガウスセミナーも読みさしになっているのだけれど、小説か詩か、どちらでもいいがとにかくいいかげん実作を読みたい。部屋にある本のなかからえらんでもよいだろうし、ちょうどきょう図書館に行くわけだからそこでなにか借りてきてもよいとおもっている。


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 うえまで記し、腹が相応に減ったのでレトルトのハヤシライスを食うことに。というかうえまで記し終えるすこしまえから鍋に水を汲んでパウチの湯煎をはじめていたのだ。そうして書き終えるとパック米も電子レンジであたためる。申し訳程度の換気扇を回してはいるが、火をつかうとやはりそれなりに暑くはなり、その暖気が椅子にすわっているこちらのほうにまで届いてくる。窓外ではそろそろお迎えの時間のはずだが保育園の子どもたちがまだまだ旺盛に声を張り上げてあそんでいる。木製皿に米を出してスプーンでちょっとほぐし、鍋から箸をつかってパウチをとりあげ、ながしのなかで鋏で開封し、洗濯機のうえに乗せている木製皿のところまで持っていき、火傷しないようにソースをかけた。そうするとながしの排水溝のカバーを取って、すぐにパウチをゆすいでしまう。それで席について食いながらまた(……)さんのブログを読んだ。最新の二〇日付に追いついた。冒頭の引用。じぶんが生半可ながら哲学思想なんぞにずっと引かれつづけているのは、けっきょく自己と他者(世界)とその関係のありかたに興味があるからなのだとおもう。

 (…)言い換えるなら、他律性の場所としての〈他者〉それ自体の内に、それが完全な体系として閉じることを妨げるような異質なものが全く含まれていない、という保証はどこにもないのである。主体と〈他者〉の関係には、何か他のもの——主体にも〈他者〉にも属さない、どちらの内にも外-在する[エクスティミト]何か——がある。我々は、主体とは〈他者〉の〈他者〉として理解することができる、と指摘した。今度は、この〈他者〉の〈他者〉とは、ラカン対象a——主体にも〈他者〉にも属さないがゆえにこれらの間の関係を決定する、欲望の「対象[オブジェクト]-原因[コーズ]」——と呼ぶものに他ならないことを指摘して、この公式をさらに詳しいものにしたい。カント哲学において、この対象aの役割を果たすものはいったい何か? もちろん、現象のレベルにも、「ものそれ自体」のレベルにも属さない超越論的主体である。
 現象のレベルの自我、実践的自由(動因の行動原理への組み込み)にかかわるものとしての主体の心術、そして超越論的自由、これらの区別を考えると、カントの実践哲学が教えているものは、「ものそれ自体」のレベルにおける自由と現象のレベルにおける必然の差異、などという問題ではなさそうである。むしろそれは、(実践的)自由と同様、必然(不自由)もまた超越論的自由という背景があって初めて可能となるということである。
(『リアルの倫理——カントとラカン』アレンカ・ジュパンチッチ・著/冨樫剛・訳 p.54-55)

 樫村愛子の記述も。わかりやすい。

 転移とは他者を理想的なものと設定することであり、宗教の教祖に対する転移や、心理療法の分析家に対する転移など、心の操作の入口に存在し、自己変容の支えになっていくものである。子どもは他者に力の審級を措定し、この他者に依存することで成長が可能である。大人になっても、理想的なものを設定し、それがあるからこそそこに向かって人は努力が可能となる。つまり転移とは、片方で退行し快楽を受け取りつつ(依存や甘えによって心理的緊張を緩和したり、現実認識を他者に仮託しこれを節約する)、一方でその他者が導くような理想へと自己を変容させ現実を受容していくプロセスである。人が厳しい課題に取り組むとき、そのインセンティヴ(動機)として他者からの評価は機能し、また他者への依存により課題のもつ困難は見えにくいものとなるだろう。でなければ快感原則に閉じようとする自己を現実に即して変容させていく力を得ることはひとりでは困難であろう。このような転移を支えとした成長の過程は、子どもが母親に絶対的に依存しながら世界を取り入れていったように、人に備わった無理のない基本的な構造であり、大人になっても機能するものである。実際、科学的生産にしろ、世間からの評価・カリスマ的チーフへの依存・隣人の心理的サポートなどに支えられているものである。宗教における修行やお務め、心理療法における自己分析は、このように転移に支えられ進められていく。
樫村愛子ラカン社会学入門』より「自己啓発セミナーの危険性」p.7-8)

 そういえばひとと会って飯を食っている一八日の記事には「日記にこれ以上時間を奪われたくないので要点だけかいつまんで記す」とあったが、こうはいいつつもぜんぜんかいつまんでないというかじゅうぶん詳細だよねという感じで、これとおなじことはじぶんの日記を書いていてもたびたびおもう。なになににかんしてはめんどうくさいので割愛しよう、とかいいつつもなぜかかんぜんに割愛することはなくその直後からそれについてちょっと書き出してしまい、しかもそのままそこそこながくなったりすることがあり、ぜんぜん割愛してねえじゃんとじぶんでおもうことがある。
 いま四時半過ぎなのだけれど、何時に行こうかなという感じですね。図書館は八時までやっているので、けっこう遅くなってもだいじょうぶではある。あと、一〇月一五日の(……)くんらとの読書会のために、ちくま文庫鈴木大拙『禅』もできたら買っておきたい。図書館まではあるいていこうかな。ひさしぶりに長距離をあるくのもよいだろう。そうするとしかしたぶん一時間弱はかかるはずだから、それを考慮に入れなければならない。


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 「読みかえし」ノートより。「大気や光、世界の風景は、まずは「表象の対象」ではない。かえって、「われわれはそれらによって生きているのである」! 「風や光や風景は「生の手段」でもなければ、「生の目的」でもない(同)。ひとは生きるために [﹅3] 呼吸をしているのではなく、呼吸をするために [﹅3] 生きているのでもない。私はただ、大気を吸い込み、そのこと、つまり〈息をすること〉によって [﹅4] 生きている」! 「世界は私の「糧」(nourriture)であり、「糧を消費することが、生の糧である」」! 「身体とは、いっさいの〈もの〉への《意味付与》という、意識へと帰属される特権への恒常的な異議申し立てなのである」!

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 ひとは、「大気」を吸い込み、日の「光」を浴び、さまざまな「風景」を目にし、それを愉しみながら生きている。より正確にいえば、それら「によって」(de)生きている。たんに呼吸することでさえ、大気を享受することである(cf. 154/216)。
 ひとは、しかし風の流れで大気を認識し、光のなかで〈もの〉のかたちを枠どることで、ある意味ではそれを構成 [﹅2] し、風景をみずからに表象 [﹅2] しているのではないか。そうもいわ(end20)れよう。だが、たとえそうであるとしても、世界を認識するためには、私はまず生きていなければならない。構成されたものであるはずの世界が、世界を表象するための条件、生の最下の条件をととのえている。「私が構成する世界が〈私〉を養い、私を浸しているのである」(136/190)。大気や光、世界の風景は、まずは「表象の対象」ではない。かえって、「われわれはそれらによって生きているのである」(Nous en vivons)(前出)。
 風や光や風景は「生の手段」でもなければ、「生の目的」でもない(同)。ひとは生きるために [﹅3] 呼吸をしているのではなく、呼吸をするために [﹅3] 生きているのでもない。私はただ、大気を吸い込み、そのこと、つまり〈息をすること〉によって [﹅4] 生きている。大気や光、水、風景は私の「享受」(jouissance)へと、つまりは「味覚」(113/158)へと供され、私の〈口〉に差しだされている。世界は私の「糧」(nourriture)であり、「糧を消費することが、生の糧である」(117/165)。世界を構成しようとする、たとえば超越論的現象学のくわだてが結局は「失敗」してしまうのは、世界が私の「糧」であるからである(cf. 157/220)。〈糧〉としての世界の受容こそが、比喩的にいえば、経験の原受動的な層をかたちづくっている。
 世界をたんに表象するとき、世界は私のうちにとりいれられる。そこでは「〈他〉が〈同〉を規定せず、〈他〉を規定するものはつねに〈同〉である」(130/182)。世界は私の外部に [﹅3] 存在するということ、世界は私とは〈他なるもの〉であること、つまり世界の「外部(end21)性」を、認識はけっきょくは否定する。認識され知られたかぎりでの世界は、認識と知の内部に [﹅3] 存在するからである。世界が提供するさまざまな「糧」によって生きている私は、これにたいして、世界の外部性を肯定する。それはしかも、「たんに世界を肯定することではなく、世界のうちで身体的に自己を定立することである」(133/187)。――身体はたしかに、「世界の中心 [﹅2] 」(*ibid*.)を指定する。知覚される世界は、身体を中心にひらけている。世界を認識する私は、世界に意味をあたえ、世界がそれにたいして立ちあらわれ、世界の意味がそこへと吸収される、つまり世界という〈他〉が〈同〉と化するような中心点である。だが、身体である私は、まず世界によって養われていなければならない。
 かくして、「裸形で貧しい身体」(le corps nu et indigent)が、なにものももたずに [﹅9] 、ただ身体だけをたずさえて世界に生まれ落ちた〈私〉が「いっさいの肯定に先だって、《外部性》を、構成されはしないものとして肯定している」(133 f./187 f.)。そのいみでは、「身体とは、いっさいの〈もの〉への《意味付与》という、意識へと帰属される特権への恒常的な異議申し立てなのである」(136/190)。純粋意識もまた身体のうちに受肉する。受肉した意識はもはや、無際限な意味づけの主体ではありえない。
 (熊野純彦レヴィナス――移ろいゆくものへの視線』(岩波現代文庫、二〇一七年)、20~22; 第Ⅰ部 第2章「自然の贈与 ――始原的な世界を〈口〉であじわうこと――」)

 どこかのタイミングで読んだニュース。尹錫悦もろくでもなさそうだなあという印象をもってしまう。

「韓国大統領、カメラに気付かず米国侮蔑発言 米主催の会合で」(2022/9/22)(https://www.afpbb.com/articles/-/3425205(https://www.afpbb.com/articles/-/3425205))

 【9月22日 AFP】すでに史上最低の支持率を記録している韓国の尹錫悦(ユン・ソンニョル、Yoon Suk-yeol)大統領が21日、訪問先の米ニューヨークでジョー・バイデン(Joe Biden)大統領主催の国際会合に出席した際、米国を侮蔑する表現を用いて側近に話し掛ける瞬間を映像に捉えられ、非難を浴びている。
 尹氏は、感染症対策に取り組む基金への増資を検討する会合で米国が60億ドル(約8600億円)の出資を表明した後の記念撮影の時に「もし、こいつらが議会で可決しなかったら、バイデンのクソメンツは丸つぶれだな」と側近に韓国語で話し掛けている。
 この映像は韓国で一気に拡散された。ユーチューブ(YouTube)では投稿から数時間で再生が200万回を上回り、韓国語ツイッターTwitter)上では「こいつら」がトレンド1位になった。
 尹氏の発言は、バイデン氏が約束した資金拠出には米議会の承認が必要な点を指摘したものとみられるが、ユーチューブのコメント欄には、「大統領の言動は韓国の威厳に関わる」との投稿があった。
 5月に大統領に就任したばかりの尹氏だが、すでに評論家の言うところの「無理解」ぶりを連発し、支持率は一時24%まで下落した。その後32%まで持ち直したものの、記録的な低迷が続いている。
 数日前には、エリザベス英女王(Queen Elizabeth II)の国葬参列のため訪英した際、女王のひつぎが公開安置されていた国会議事堂のウェストミンスターホール(Westminster Hall)を弔問に訪れず、その理由を「交通渋滞のため」と釈明する羽目に陥ったばかりだった。(c)AFP


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 この日はその後、徒歩で四〇分ほどかけて図書館に行ったのだけれど、めんどうだから詳細には記さない。出るときには降っておらず、傘を持っていこうとおもっていたのに、数日前に飲んだクラフトコーラの缶を片手に持っていたためかわすれてしまい、そうすると道に出てまもなく頬を点々と濡らすものに気づくわけである。しかしもどるのもめんどうくさい。徒歩をやめて電車に乗るか? ともおもったものの、せっかくの歩く機会だし、しょうがねえからコンビニで傘を買おうと決断して、(……)前のFamily Martで一二〇〇円かそのくらいもする六五センチの黒傘を買った。とはいえいま家にあるのはたぶんおなじ店で買ったものだが七〇センチの白いビニール傘と、柄の接着部分がこわれた実家出自の黒い傘なので、こわれたほうの代わりが手に入ったとおもえばわるくはないし、ともあれこれでそとをあるきつづけることができる。それでいったん向こうから渡ってきた踏切りを再度越えて西へまっすぐすすんでいると、交通量のおおい幹線である(……)通りにいたるころにはもう心身がけっこうおちついてどことなくきもちよくなっており、ウォーキング・チルにはいっていた。そこで右へ、つまり北へと曲がって道沿いにずーっとすすめば図書館のある区域にいたる。とちゅう、電車の通るしたをくぐりぬける立体交差があって、都市のこういうところに点火されているあのなんとなく不穏な雰囲気の、精神を覚醒させるようなオレンジ色の明かりはいったいなんなのか。もうすこし落ち着いた色にできないものなのか。なんだかんだ言ってこの立体交差を抜けて駅の南北を越えたことはいままでなかった気がする。越えれば場所はれいの、なんの思い出もないなつかしき(……)ビルの付近にあたり、といってもよくみえるのはそのちかくの趣味の悪いカプセルホテルのほうである。そこから道路はややななめにながれて、中洲みたいなちいさい歩道がいくつか浮かんだ交差部にかかり、そこを渡って、大通りではなくもう一本横の道路沿いにすすむのだが、高校時代に帰りがてら学校から図書館に向かったときの道は、ここを通ることもあったがもうひとつ横の裏だなと記憶を照合しておもった。あの道はけっこうなんというか、なにか特徴があるような路地ではなくて、だいたい人家がならんでいるのみで、あと魚屋があったような気もするが、特別な道ではないのだけれど、なにがしかなつかしいようなものとしていまのじぶんにのこっている。道そのものというよりも、学校を終えてひとなかを離れ、ひとりで黙々とあるいて図書館に向かっているときの、なにかしらぽっかりとした解放感のような雰囲気や、そのときの気分が、感触としてのこっているのかもしれない。梶井基次郎がいうところの「聖なる時刻」をおもいださせないでもない。じっさいこちらは二年か三年のころには、午後の授業をめんどうくせえとおもい、早退するって先生に言っといてくれとだれかにつたえて帰ったことがなんどかあったが(ほんとうは保健室に行って早退理由を出してもらうか、せめても担任につたえて許可をもらわなければならなかったはずだが)、そういうときにまっすぐ帰らず図書館に寄ったということもあったはずだ。だとすれば、みながまだ学校にいて授業を受けているときにひとりだけべつの場所で道をたどっているという、その自由と孤独の感覚が、一日のつうじょうのながれのなかにおもいがけずひらいた余白地としてじぶんをつつんでいたのかもしれない。そして、ひとの生にのこるのはやはりそういう時間なのだ。
 図書館ではとくに事前の当たりをつけていなかったのだけれど(ヴェルナー・ヘルツォークの『氷上旅日記』がはいっていれば借りちゃおうかなくらいにはおもっていたが)、ヘルツォークの本はたぶん文学ではなくて映画のほうにあるのではないかとおもいつつもドイツ文学を見分していると、ユーディット・シャランスキー/細井直子訳『失われたいくつかの物の目録』に行き当たり、これまえから読みたかったやつだしこれにしようと即座に固まった。ほか、英米のエッセイや詩の区画もみて、エッセイ類も読みたいものはいくらでもあるし詩も同様だが、『パティ・スミス詩集 無垢の予兆』を借りることに。さらに英米の小説のさいしょのあたりをなんとなく見ていると、アンナ・カヴァンの『草地は緑に輝いて』が目にとまって、アンナ・カヴァンは文遊社から何冊か出ていて文遊社の本はどれも想定がけっこうきれいであり、この本もわりときれいだから書店で目に留めたこともあったはずだが、タイトルもいいし、これも借りてしまおうと手に取って、その三冊で最終的に確定させた。貸出し手続きをして退館。
 帰路はまた歩くのも良かったのだけれどからだが疲れていたし、電車に乗ることに。一錠しか飲んでいないからだいぶ緊張するのではとおもい、じっさいそこそこ緊張したが、おもったほどではなかった。しかしこの翌日には喉につかえを感じて勤務を休むことになるわけで(それじたいはきのうの水曜日の勤務中に喋っているうちに出現したのに気づいていた)、一錠だけでの外出というのはけっこう影響はあったのかもしれない。スーパーにも寄って帰宅。


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  • 「ことば」: 11 - 15
  • 「読みかえし1」: 501 - 513, 514 - 518, 519 - 526, 527 - 530
  • 日記読み: 2021/9/22, Wed. / 2014/2/18, Thu.


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 「いまなぜカントなのか? 秋元康隆×吉川浩満 『いまを生きるカント倫理学』刊行記念対談」(2022/9/22)(https://shinsho-plus.shueisha.co.jp/interview/【対談】秋元康隆x吉川浩満/21226(https://shinsho-plus.shueisha.co.jp/interview/%e3%80%90%e5%af%be%e8%ab%87%e3%80%91%e7%a7%8b%e5%85%83%e5%ba%b7%e9%9a%86x%e5%90%89%e5%b7%9d%e6%b5%a9%e6%ba%80/21226))

Q 私は格率(Maxime)というものを、いわゆるマイルール、その人なりの行動原理と理解していますが、人が倫理的であるためには、格率が普遍的でなければならないとカントは言っています。でも、普遍性のある格率って画一的で多様性が乏しい印象を持ちますし、普遍性がある時点でマイルールというより、社会共通のルールのように思えます。ですから私は、格率とは矛盾なのではないかと思っています。倫理的でかつ個性的な、その人なりの行動ルール、格率とはどういったものなのでしょうか?

秋元 普遍性のある格率とは、画一的で多様性が乏しい印象があるというご意見ですね。これは、結局、道徳法則とは何なのだろうか、という話です。確かに、ある種のカント研究者の中には、道徳法則にはいわゆる正解みたいなものがあって、そこにたどり着かなきゃいけないのだという解釈をする人も結構います。
 でも、私はその解釈は間違いだと思っています。だって、「そんなのどうやってたどり着けるの?」って思いますよね。そんなもの、たどり着けるわけないでしょう。それで、「そうしたゴールにたどり着けない以上、私たちは、道徳的善をなせないのですか?」という話になりますよね。能力や運があって正解を導ける人だけが道徳的善をなすことができるということであれば、その人個人の能力や運の良し悪しによって道徳性が決することになります。それはどう考えたって、おかしい。ですから、私はあくまで自分で考えて、自分で判断を下す。その際に、自分の行為が道徳的であるかどうかは、正解にたどり着けるかどうかではなく、根拠によると、私は考えています。根拠さえあれば、道徳法則というものは成り立ちます。どんな根拠を見出すか、何を道徳法則と見なすかという点には、その人の個性が表れると思いますよ。 
 ただ、そこでよくある疑問として、とんでもない格率を持った場合、それを道徳法則としてみなせるのか? という問題がありますよね。例えば、人を無差別に殺すという格率を持った人がいて、その動機が正当化されるならば、道徳法則たりえるのかという疑問です。私は、こうした反論はもっともだと思います。確かに、そうした格率を持った人間が生まれる可能性を理論的に完全に否定することはできません。
 例えば、そうしたタイプの人間として、アドルフ・アイヒマンを想起することができると思います。アイヒマンというのは、第2次世界大戦中にドイツ軍の将校として、大量のユダヤ人を強制収容所に送る手配をしていた人です。彼は戦後、裁判にかけられて、自分は正しいことをしたと主張し、その根拠としてカント倫理学を持ち出すわけです。
 アイヒマンは、カント倫理学に照らし合わせ、自分は確信を持って正しいことをしたのだと法廷で述べています。けれども、その一方で、自分は上司の命令に従っただけであり、個人的に判断をする権限などないのだから、無実であるといったような、まったく逆の主張もしている。結局、こうしたタイプの人間は、言動を追ってみると、大体、整合性がとれていない。後付けで理屈を考えているだけではないのか? と思えるケースが多いのです。
 『いまを生きるカント倫理学』の中でも、相模原障害者施設殺傷事件の話を取り上げています。この事件の犯人である植松聖死刑囚は、社会の利益のために障害者を殺したのだと供述し、今でもそう確信していると言っています。ですが、その一方で、面会に来たジャーナリストに対して、自分は今まで社会の役に立たない人間だったけれども、障害者を殺したことによって、役に立つ側にまわれた、と微笑みながら語っている。ここに彼の本音であり、利己性が、口や表情に出てしまっているのです。
 ですから、理論的には、どのような行為でも道徳的善になりえるというのはおかしいのではないか、という批判は分からなくはないのですが、現実的にはそのようなことは有り得ないと私は思っています。そうした場合は、話していると、不整合やら、利己性やらが出てくることになるのです。


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西村章「スポーツウォッシング 第5回: 「国家によるスポーツの目的外使用」その最たるオリンピックのあり方を考える時期」(2022/9/21)(https://shinsho-plus.shueisha.co.jp/column/スポーツウォッシング/21142(https://shinsho-plus.shueisha.co.jp/column/%e3%82%b9%e3%83%9d%e3%83%bc%e3%83%84%e3%82%a6%e3%82%a9%e3%83%83%e3%82%b7%e3%83%b3%e3%82%b0/21142))

 1988年のソウルオリンピックは、1980年のモスクワ、1984年のロサンゼルス、に続いて行われた大会だ。モスクワは、ソ連のアフガン侵攻に抗議するという理由で西側諸国の多くがボイコット。1984年のロサンゼルスでは、その報復としてアメリカのグレナダ侵攻への抗議という名目で東側諸国が参加をボイコットした。1988年のソウルは、政治に翻弄されたこれら2大会を経て東西両陣営が久々にスポーツの舞台で競い合う大会になった。
 「国家の威信があれほどガチンコでぶつかり合ったことは久しくありませんでした。その結果、かつてないほどのドーピング合戦になったわけです」
 陸上男子100メートルで世界記録を更新して優勝を飾ったベン・ジョンソンが、ドーピング検査で陽性反応が検出されて、新記録取り消しと金メダルを剥奪された一件は非常に有名だ。この事件で、ドーピングという言葉が広く世界に知られるようになったといってもいい。ソウルオリンピックでは、これ以外にも多くの選手がドーピング検査の陽性が出た、と二宮 [清純] 氏は言う。
 「西側諸国と東側諸国のドーピングは、それぞれ意味合いが違っていました。西側諸国のドーピングは資本主義型。これは、金メダルを獲り世界記録を出すことによって金を稼ぐ、いわば一攫千金を狙ったものです。一方、東側諸国は、当時の東ドイツなどが典型ですが、国威発揚型のドーピングでした。つまり、同じドーピングでも種類が違っていたわけです。
 一方で、この時期のオリンピックは1984年のロサンゼルスで成功した商業主義の手法がさらに進んで、スポーツ関連会社や飲料メーカーなど様々な企業が公式スポンサーとして参入しました。では、ドーピングで揺れた1988年の大会は、スポンサードした企業にとってプラスだったのか、それともマイナスだったのか。これは各企業の判断によるでしょうが、以降も金を出し続けたということは、ネガティブな材料があったとしてもそれを上回るメリットがあったからでしょう。それがオリンピックの魅力であり、魔力でもあるのだと思います。たとえいろいろな矛盾があっても、お祭りの喧噪がそれをかき消してしまう。オリンピックには、そうした現実があります。」

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 たとえば昨年の東京オリンピックは、開催前から賛否が大きく分かれて様々な議論を呼んだ。しかし、いったん大会が始まってしまえば、新聞やテレビはスポーツ欄とスポーツコーナーを全面的に使って、〈勇気〉と〈感動〉と〈人々に寄り添う〉ドラマばかりを来る日も来る日も量産し続けた。
 このように、スポーツメディアが社会事象の批判的チェックや検証という機能を放棄しているようにしか見えなかった一方で、その役割を果たしていたのは、ゲリラ的な存在感を発揮した週刊誌やそのオンラインニュースなどだ。競技結果を広報装置のようにただ報告し続ける日本のスポーツメディアは、果たしてジャーナリズムと名乗るに足る能力を持ち得ているのだろうか。
 「それはスポーツのみならず言えることであって、政治や経済においても(日本のジャーナリズムは)非常に不完全なものだと思います。どの国の報道にも程度の差こそあれ、問題はあります。しかし報道の自由度ランキング(2022年)で、日本は世界71位。まぁロシアや中国よりは上ですが(笑)」
 と、二宮氏は厳しい視線を向ける。
 「『国家の価値は結局、それを構成する個人個人のそれである』と語ったのは、英国の哲学者J・S・ミルですが、メディアに対してもリテラシーという点では国民がそこをチェックするわけだから、今の日本メディアの状況はやはり国民を反映した姿なのでしょう。
 具体的に東京オリンピックとスポーツメディアについて言えば、当初、東京開催が決定したときから東京都民や国民の支持はあまり高くありませんでした。だから、官民一体となって、政・官・業・メディアが複合体として盛り上げなければいけない、という動きが出てきたのかもしれません。その流れの中で、新聞社がオリンピックのスポンサーになりましたよね(註:読売新聞グループ本社朝日新聞社毎日新聞社日本経済新聞社がオフィシャルパートナー、産業経済新聞社北海道新聞社がオフィシャルサポーターとして契約した)。そこに関してはやはり、踏みとどまるべきだったと思います。監視機能を鈍らせる恐れがありますから」

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 イベントの利害関係者となった新聞やテレビがスポーツ欄やスポーツコーナーで、〈勇気と感動のドラマ〉を流し続けることは、スポーツと社会、スポーツと国民の関係を毀損することにもなる、とも二宮氏は指摘する。
 「東京オリンピックで、日本の選手たちは金27、メダル獲得総数58と史上最多になりました。では、これらのメダル獲得は果たして国民に還元されているのか。そこが非常に重要で、選手のトレーニングや強化には、いくらかの税金が使われているのだから『感動をありがとう』で終わっちゃダメなんですよ。
 一例を挙げれば、金メダルを獲るためのトレーニングやチームビルディング等のノウハウが民間企業や民間の組織づくりに役だちましたとか、あるいはこういうトレーニングが少子高齢化社会の大きな課題である健康寿命と平均寿命の差を縮めてQOL(クオリティ・オブ・ライフ:生活の質)向上に役立ちましたとか、金メダリストのトレーニング方法や食生活等が我々の社会と生活に還元されましたよ、と可視化されていない。そこが可視化されるようになれば、オリンピックに対する否定的な意見が少しは減ったかもしれません。
 つまり、勇気をありがとう、感動をありがとう、だけで終わるとその先がなにもないから思考停止に陥ってしまう。確かにスポーツには、『ガンバるぞ!』と思わせる〈精神浮揚効果〉があるのは間違いないんです。しかし、それだけでは漠然としていて、勇気や感動という言葉から先へ進んでいかない。だからといってすべてを細かく数値化しろ、ということではないんですよ。ただ、良い結果を出すためのノウハウや組織作りなどをもっと国民に還元する努力をしなければいけない。その仕組み作りがないから、国民とアスリートの間の乖離が大きくなっているのかもしれません」

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 「今日〈する〉人が明日は〈見る〉人になってもいいし、〈支える〉人になってもいい。また、〈支える〉人が今度は〈する〉人になってもいい。いちばん大事なのは、この流動性なんです。
 一例を挙げれば、ソルトレークシティオリンピックの取材に行った時、現地でメディア用のバスに乗ると、ボランティアの中に元オリンピアンがいました。『今までいろんな人に支えてもらったので、今度は自分が送迎係をやっているんだ』と、支える側になっているわけです。日本では元メダリストが送迎係をやっているなんて聞いたことがないですよね。オリンピックに出た人は、いつまで経っても選手目線で話をする。でも、引退したら見る側の目線も、支える側の目線も必要なんですよ。自分の役割を固定化するのではなく、スポーツをする側、見る側、支える側と立場を変え、固定化しない。それによってエコサイクルが生まれてくる。
 もちろん、結果を出した選手に対するリスペクトは必要ですが、役割が固定されてしまうと今度は悪い意味でアスリートが特権階級みたいになってしまう。そうなると“上級国民”といった批判が起きる。流動性の確保こそ優先すべきものです」
 この役割固定化と多様性という点では、障害者スポーツに対するメディアの取り扱いも同様の問題を抱えてきた、と二宮氏は指摘する。
 「たとえば、パラリンピックは最近では日本でも市民権を得てスポーツとしてメジャーになりつつありますが、かつては選手たちがどんなに素晴らしいパフォーマンスを発揮しようとも記事はスポーツ面ではなく社会面の扱いで、『感動をありがとう』で終わっていました。障害者スポーツはずっと福祉行政として厚労省の管轄でしたが、スポーツ庁ができたこともあって、パラリンピックを巡る状況はここ10年ほどでだいぶ改善されてきました。福祉やリハビリとしての障害者スポーツ厚労省の管轄でいいのかもしれませんが、大会に出場するレベルの選手ならスポーツ庁の管轄は当然のことだと思います。
 しかし、その一方でデフリンピック(4年に1度、世界規模で行われる聴覚障害者の総合スポーツ競技大会。2025年の東京大会開催がさきごろ決定した)はまだスポーツ面の記事になりませんよね。なぜデフリンピックの記事はないのかとメディア幹部に訊ねると『パラリンピックは市民権を得ましたけれども、デフリンピックはまだですから』と。要するに新しい格差、新たな差別が始まっているわけです。
 市民権を得たから記事に出すとか出さないとかではなく、アスリートたちの競技なのだからメディアは自分たちで自主的に判断をして記事にすればいいんですよ。なのに、先ほどの役割固定化と同じで、根拠はなくても『こういうものだから』と自己規定して、それが慣習になってしまう。そこはたえず見直すべきではないかと思います。
 お上のお墨付きがあるものをスポーツと解釈するような硬直した考えではなく、もっと自主的に、自分たちがスポーツだと思うものをどんどん発信していけばいい。そもそもスポーツの語源(註 : ラテン語のdeportare)は余暇、気晴らし、楽しみ、といった意味なのだから、身体を動かして気持ちが晴れるようなことは全部スポーツの範疇に入れてもいいのではないか。もっとフレキシブルな発想が必要だと思います」

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 そして、スポーツを支え出資する企業の考え方も、投資に見合う効果を求めるスポンサー型から、ともにスポーツを育むパートナーシップ型への移行が求められるようになってゆくだろう、ともいう。
 「現在、私は中国5県の広島、山口、岡山、島根、鳥取で活動する様々な競技のクラブを支えるプラットフォーム〈スポーツ・コラボレーション5〉のプロジェクトマネージャーをしているのですが、企業に支援をお願いすると、『広告費に見合う費用対効果はありますか』と必ず聞かれます。
 それぞれのクラブは、老若男女皆がする・見る・支えるという役割を皆が分担し入れ替わりながら、地域のコミュニティの核になることを目指している。この活動を通じて皆が健康になって親子の会話が弾むかもしれないし、地域の活性化を通じて観光資源になるかもしれない。『だから、費用対効果はやってみなければわからないけれども、一緒に子どもを育てるような考え方で、そのために皆が少しずつマンパワーやお金などを出し合うパートナーになっていただけるのであれば非常にありがたい』という説明をするようにしています。
 スポーツはもともと公共財という側面が大きいので、そこに出資する企業にとっても元が取れるか取れないかという費用対効果以上に、これからはその公共財を共に育てるという発想や役割が重要になってくるのではないかと思います。
 近年は投資家も企業のESG(環境・社会・企業統治)に注目するようになりました。従来なら財務情報の中に企業のすべてが詰まっている、という考え方でしたが、今では財務諸表の数字には含まれない環境問題や人権問題などへの対応が重視される傾向にあります。それに呼応する形で、企業のスポーツに対する接し方も、スポンサーシップからパートナーシップへと変わっていくと思われます。株主資本主義からステークホルダー資本主義、そしてESG型資本主義へ――といった流れですかね、ざっくり言えば。でも、こうした考えは、日本には昔からあった。近江商人の“三方よし”なんていう商売哲学は、まさにこれですよ。そんな時代において、不都合な事実を隠すことをホワイトウォッシングといいますが、スポーツを通じて都合の悪いことを浄化しようと企んでいる企業や国家は、世界の中で居場所を失うでしょうね。マネーロンダリングをやっている国家や企業と同じ運命を辿ることになるでしょう」

2022/9/21, Wed.

西脇順三郎訳『マラルメ詩集』(小沢書店/世界詩人選07、一九九六年)

●48~49(「エロディヤード」; Ⅰ 序曲)
 この独特な舞台装置の室 [へや] は、
 戦争時代の栄華、色ざめた黄金、
 かつては古代色の雪の白さであった
 その壁掛は真珠母の光沢があり(end48)
 魔術師 [マージ] に古い爪を捧げる巫女 [シビラ] の
 くぼんだ眼に似た無駄の褶 [ひだ] がある。
 巫女の一人が、暗い銀色に小鳥を散らした
 空に閉 [とじ] こめた白い象牙色の私の着物 [ローブ] の上の
 縫取の枝をもち、仮装し、幻影となり飛び立つ
 ように見える。香りがする、おお薔薇だ、香りだ、
 吹き消された蠟燭に隠された空の床を遠く
 離れて香袋の上をさまよう冷たい黄金の香りだ
 月への偽証者のような一つの花束だ
 (消えた蠟に一つの花はまだ花弁をおとす)
 その長い悲歎もその茎も
 衰弱した閃光の一つの孤独な
 ガラスの花瓶の中に浸される。
 暁はその涙の中へ翼を引きずっていた!




 一〇時過ぎに覚醒、離床。いつものルーティンをこなしたあと、寝床にもどってChromebookを持つ。ウェブをちょっとだけ見てから一年前の日記を読みかえしたが、この日はみじかくてたいした時間もかからない。2014/2/17, Mon.もつづけて読んだ。「與那覇潤『中国化する日本』を三分の一読んだが、このような本に時間を使わなくてはならない今の状況そのものが苛立たしく、義務感でどうでもいい本を読むことほどつまらないことはなかった」と言っているが、これはとうじやっていた(そしてこんどの一〇月一五日に再開する)(……)くんらとの読書会で課題書にえらばれたもので、とうじはこちらと(……)くん、(……)くんいがいに(……)さん(したの漢字がこれで合っているか自信がない)という女性が参加しており、かのじょが読みたいと言ったものだったのだ。(……)さんは(……)くんの友人で、たしかサークル(「(……)」)で知り合った関係だったはずだが、トルコの政軍関係とかに興味があったひとで東大の院にすすんでおり、與那覇潤も東大出身なのでまわりで話題になっていたようなはなしだった。本屋でも平積みされてもてはやされていたおぼえがあるが、Wikipediaをみてみれば同書が出たのは二〇一一年だからこの時点でそれからもうけっこう経っている。しかしたしか課題書を決めるときに(……)の(……)で平積みにされているのを(……)さんが見てこれを読みたいと言ったような気がするので(その時点でしょうじきこちらは嫌だったというか、あんまりなあとおもっていたわけだが)、三年経っても売れていたのではないか。で、じっさい読んでみてもうえのようなことを述べているわけで、内容はぜんぜんおぼえていないけれど(たしか江戸時代以後の日本のありかたがいろいろ宋王朝の中国にすでにあらわれていて、みたいなはなしだったか?)、理論としてもけっこうつっこみどころのあるものだったのだろうし(疑問点とか不正確な点とかを詳細に検討したブログもあったはず)、とうじのじぶんにそのへんを明確に認識するちからがなかったとしても、じぶんがなによりもくだらんとおもったのはその書きぶり、語りぶりだった。最新の研究ではどうこうということをたびたび権威的にもちだしたり、他人を馬鹿にして読者を煽るような文言がおりおりふくまれていたりして、それだけでもうこれは読む価値のない本だな、そういう下品な芸風の書き手なんだなとおもったのだった。とうじはじぶんも文学にかぶれてまもないから、いまよりも文学とか学問とか芸術というものをはるかに神聖化してすばらしいものだとおもっており、だから東大の博士を通過したにんげんがこんなあさましい書き方をして良いわけがないだろう、学問というのはそういうものじゃないだろう、おのれのいとなみにたいする誠実さがない、といきどおったのだが、そういうふうに読者を怒らせて話題になり、大衆にアプローチするというのがとうじの與那覇潤の狙いだったのかもしれない。そういうことはとうじもおもいながらも、しかし怒りは怒りとしてあり、だから読書会の場でも(……)さんがおもしろかったとはなすのにたいしてこちらはずっと黙っており(かのじょが属していた東大の院生のあいだでもみんなおもしろいと言って評価していたとこの席で聞いたが、そんな馬鹿なととうじのこちらはおもったし、かりにも日本の最高学府の院生がもっぱらそんな調子でいいの? ともおもった)、それはなにか言えば非難やけなしになってかのじょの気持ちを害してしまいそうだったからなのだが、感想を聞かれたところで重い口をひらいてけっきょくすこしずつ批判をはじめてしまい、そうすると(……)さんもとうぜん反論するからだんだんヒートアップして、こちらもとうじはいまよりもはるかににんげんができていないから、ちょっと気色ばむようになってしまったのだった。オーウェル(『一九八四年』)のときもおもったけど、とことん合わないね、と(……)さんは言い、帰り道で(……)くんが、いやー、ぼく、本屋でえらんだときからこうなるんじゃないかなって気がしてたんだよね、ともらしたこともおぼえている。こちらじしんもその予感はあったはずだ。その後だんだんとおのれの身のほどを知り、学問とか芸術にたいする神聖視もよほどうすくなっていくにつれて、(……)さんにはわるいことをしたなとときおりおもいだしては申し訳なくおもったし、いまも申し訳なくおもっている。けっきょくそのあとかのじょは参加をやめてしまったので、こちらが排除したようなものだろう。與那覇潤にかんしてもこの本からして良い印象はもっていなかったわけだが、その後双極性障害をわずらって、というじぶんの体験を語ったウェブ記事とか読んでみるに、いやそんなにしょうもないひとではなさそうだぞと認識をあらため、現在では特段の悪印象はもっていない。さすがに『中国化する日本』をもういちど読んでみようとはおもわないが。学者というよりは批評家・評論家・時評家的なタイプなのだろうし、Wikipediaにも、「2021年6月に刊行した『歴史なき時代に――私たちが失ったもの 取り戻すもの』では、前年来の新型コロナウイルス禍における大学所属の歴史学者たちの無見識と不作為を強く批判。同年8月刊の『平成史――昨日の世界のすべて』を最後に「歴史学者」の呼称を放棄し、評論家として活動している」とある。ちなみに(……)さんはその後、(……)くんからときどき消息を聞いたかぎりでは、トルコにわたって研究をしたいとたびたびいいながらも金を貯めたりとかあったのだろう、たしか防衛省と外務省でそれぞれはたらき、このときはむろん激務でひどい生活だったようだが、また民間のどこかでもはたらいたのだったかわすれたが、最終的にトルコに行ったんだったかな? それもわすれた。一六年か一七年か、会合のあとに(……)駅の改札内で別れるまぎわ、かのじょの近況を聞いて、それでいまはたらきながらそういうトルコ関係の本とか読んでんのかね? と聞いてみると、いや、そういうわけじゃないとおもうよ、と返ってきたので、ってことはほんとうは研究したいわけじゃないんじゃない、そこまでの欲望はないんじゃない、欲望を感じているなら、いま日本にいてはたらきながらでもじぶんの関心を探究しようとするでしょ、と、ほんにんがいないのを良いことにまた偉そうなことを言った記憶がある。ただそれは(……)くんも似たような印象を得ていたようで、トルコの研究がしたいというよりはトルコに行きたいとか、あこがれている海外で優雅な研究生活を送りたいみたいな、そういうこころがじっさいなのでは、というようなことを言っていた。
 二〇一四年の記事にもどると、與那覇潤をけなしたつぎの段落では、「車のなめらかな輪郭に反射して散った光の雫の一片が目に飛びこんできた。汗をかきながらも雪は晴天に負けずに形をとどめ、一車線となった道路の脇にうず高く積まれたかたまりは、ところによってはほとんど背の高さまで達していた。車は狭い道を海中の魚めいて左右に動いたり、雪の列のあいだにわずかにあいた待避所のような空間に控えたりしながら行き違った」と書いており、この風景はちょっとおぼえているなとおもった。とくに「車は狭い道を海中の魚めいて左右に動いたり、雪の列のあいだにわずかにあいた待避所のような空間に控えたりしながら行き違った」の部分。医者(ちょうどきのうも行った(……)である)に行くために(……)駅まであるいていったはずだから、たしかこの車のようすを見たのは(……)かそのへんだったはず。(……)のあたりではなかったか。
 医者で待っているあいだは『族長の秋』を読んでおり、「一生をかけてもこのような小説は書けないだろうと容易に確信できるほどの作品だった。昨年の夏にこの小説に出会って人生を狂わされた。迷宮に引きずりこまれてしまったのだ」と言っている。「休みをはさみながらの一時間半で一章、四十頁しか読み終わらなかったところを見ると、やはり体力のいる小説ではあった」とあるが、べつにふつうのペースではないか。こちらの読書ペースはだいたい二分に一ページくらいのはずなので。むしろはやいとすら言える。
 帰りに寄った「ローソンストアでは物流の麻痺で野菜やパンなどはなくなり、空の棚が並んでいた」というわけで、このときの大雪はそのくらいの影響があったようだ。体重は五五. 二キロらしい。いまも変わらないか、それよりすくないかもしれない。
 一一時過ぎに起き上がり、瞑想のまえに洗濯をはじめてしまうことに。レースのカーテンの白さにひかりの感触はなく、まったくの曇り空でかなり涼しいくらい、こんな日に干してもしょうがないなという感じではあったが、溜まっているので洗わないわけにも行かない。洗濯機を稼働させはじめると椅子にうつって瞑想。わるくない。からだのほぐれ度が底上げされていてまえにくらべると起きたときからそこそこ軽いから、座りつづけるにも苦労がすくなく、まとまりやすい。とはいえこのときは右足が痺れてきたので目をあけると、二〇分しか経っていなかったが。だがその痺れも弱く、さすればすぐに散る。時刻は一一時五〇分ごろ、食事を取ることに。床にしゃがんでプラスチックパックを切ったりして始末し、まだガタガタうごいている洗濯機のうえにまな板を置いてキャベツを細切りにする。その他豆腐、リーフレタス、トマトをそろえてシーザーサラダドレッシングをかけ(シーザーサラダはなぜユリウス・カエサルの名を冠されているのか?)、きょうはカレーではなくてきのう買ったレトルトのハヤシライスを湯煎した。米を食うための品がいまレトルトのそれしかない。そろそろタマネギと豚肉を買って炒めたりしてもよいのだが。あと煮込みうどんが食いたい。
 食事中は、谷田邦一/中北浩爾「日本共産党結党100年:時代に合わせ柔軟に変わった1世紀」(2022/8/1)(https://www.nippon.com/ja/in-depth/d00826/(https://www.nippon.com/ja/in-depth/d00826/))と板倉君枝/橋本直子「日本のウクライナ避難民対応と難民政策を検証する」(2022/8/12)(https://www.nippon.com/ja/in-depth/d00823/(https://www.nippon.com/ja/in-depth/d00823/))を読んだ。このサイトはきのう読みかえした「読みかえし」ノートの二〇二〇年ミャンマー総選挙についての記事が載っていたところで、あらためてちょっとのぞいてみたのだった。nippon.comなんていうなまえだから右派なのかなとおもったら、どちらかといえばそうなのだろうけれど、左派的な話題もみられる。学びになればどちらでもよろしい。食後はすぐに汚れた皿を洗い(カレーとかハヤシライスとかは放置しておくとルーの残り滓がかたまってめんどうになってしまうので)、音楽を聞いた。きょうはさいしょからBill Evans Trioの『Portrait In Jazz』。冒頭からはじめて、”Come Rain or Come Shine”, "Autumn Leaves", "Witchcraft", "When I Fall in Love", "Peri's Scope", "What Is This Thing Called Love?"までで六曲。感想をこまかく記すのはめんどうだし、時間もないが、"Autumn Leaves"がやはりすごいのと、"When I Fall in Love"が絶品そのものでおなじくらいすごいかもしれない。"Witchcraft"はLaFaroが旺盛で六一年のライブのかたちを予兆している感があるというか、ここから発展していったらああいうことになるだろうなという気はする。ただ、"Autumn Leaves"にせよ"Witchcraft"にせよ、ここにあるのはまだ並行共存のそれではなく、どちらかといえば対話的な関係で、とはいえあからさまに対話するというよりは交差の感がつよいから、対話と並行共存のあいだに位置するありかたとして、それを対位的と呼ぶべきかもしれない。"Autumn Leaves"は間奏的なかたちでそういうことを演じる範囲を枠組みとしてつくっており、だからこの部分は要はセリフのかけあい、戯曲である。ただそれも前述のように、あいてに応じてというよりは、あいてがやっているなかでおのおのじぶんがさしこめそうな間合いを探ってそれを見出したら勝手に差す、という向きがつよいように聞こえ、だから受けて返してというよりはすれ違いの気味が顕著で、一般的な対話感とはちがうのではないか。それを対位と言っても良いのだろうし、交差的対話法などと言ってみても良いのかもしれない。たしかにとうじこのメンバーでのBill Evans Trioがはじめて出てきてひとが注目したのは、この交差感だっただろう。"Witchcraft"を聞いたベーシストは、やばいことをやるやつが出てきたな、こんなふうに弾けるやつがいるのかと衝撃を受けたはずである。ここからかれらは対位ですらなくなっていく。だんだんとたがいのほうを向かなくなっていき、あいてを見なくともそれが問題にならないような緊密なしぜんさをたがいの関係に得るにつれて、それによってこそ達成されうる拡散性へと到達するだろう。
 音楽を聞くと一時前くらいだったか。洗濯物を干すのをわすれていたので干す。このころはまだ向かいの保育園の上空に、あさくうねる白雲のなかに埋まった太陽のすがたが弱々しく絞られているのみだったが、その後薄陽のあかるさがカーテンにかかる時間もあった。そうはいっても三時一三分現在だとまた曇っている。洗濯物を干し終えるとちょっと音読してからきょうの記述にとりかかり、ここまで。四時半の電車で行かなければならない。それかその一本前に乗って、このあいだとおなじように(……)から歩くか。


     *


 勤務時のことを書く。(……)
 (……)
 (……)
 (……)
 帰路ほかは忘却。


―――――

  • 「ことば」: 6 - 10
  • 「読みかえし1」: 484 - 491, 492 - 500
  • 日記読み: 2021/9/21, Tue. / 2014/2/17, Mon.


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谷田邦一/中北浩爾「日本共産党結党100年:時代に合わせ柔軟に変わった1世紀」(2022/8/1)(https://www.nippon.com/ja/in-depth/d00826/(https://www.nippon.com/ja/in-depth/d00826/))

日本は長年、アジアで唯一の先進国でした。この事実を踏まえ、宮本顕治書記長が主導して1961年、先進国でありながら社会主義革命ではなく民主主義革命(民族民主革命)を目指す独自の綱領を採用しました。さらにこの綱領のもと、まず米国に妥協的なソ連と衝突し、続いて武装闘争を求めた中国共産党とぶつかり、自主独立路線を確立します。「モスクワの長女」と呼ばれたフランス共産党はもちろん、イタリア共産党ソ連への遠慮が消えませんでした。これら二つの西欧最大の共産党と比べても、日本共産党の特異性は際立っています。

     *

武装闘争方針を放棄した55年の六全協(第六回全国協議会)の後、最高実力者になった宮本のもとで成立した日本共産党の政治路線を、私は「宮本路線」と呼んでいます。それは、第一に民族民主革命を平和的手段で実現することを目指す61年綱領を中核としつつ、第二に国際共産主義運動の内部で自主独立路線をとり、第三に大衆的な党組織の建設と国会などでの議席の拡大を図るものです。

宮本路線という言葉を使ったので、独裁的な権力を党内で行使したように思うかもしれません。しかし、宮本は集団指導の原則を少なくとも形式的には守りました。その結果、日本共産党は外国の兄弟党にみられるような個人崇拝とは無縁でした。今でも、それは変わりません。実は宮本自身、集団指導の原則ゆえに「宮本路線」や「宮本体制」といった用語には批判的でした。

     *

参院選前の2022年4月に、志位和夫委員長が党本部の総決起大会で「有事の際に自衛隊を活用する」と発言し、他党から批判が相次ぎました。志位氏は「急に言い出したことではなく、2000年の党大会で決定し綱領にも書き込んでいる」と反論しましたが、これも同党がよく理解されていないことを示す事例ですか。

志位氏の発言は不正確だと思います。共産党はいったん00年に自衛隊活用論を打ち出したものの、党内に批判があって、当面は自衛隊を活用しないという方針に軌道修正しました。安保法制反対運動後、野党共闘を進めるなかで再度持ち出してきたというのが真相です。自衛隊活用論一つとっても紆余曲折があり、私たちだけでなく、党内でもきちんとした知識や情報が共有されていないと感じました。

―やはり時代に合わせて柔軟に変遷させてきた外交・安全保障政策の振幅が大きいからでしょうか。

日本共産党の政策には、強固に維持されている部分と、それ以外の柔軟な部分の両方があります。同党の外交・安全保障政策について言えば、米国帝国主義への批判は一貫していて揺るがない。しかし、自衛隊に関しては、かなりの柔軟性があります。戦前の共産党天皇制の打倒がメインの方針でしたが、1961年綱領以降、日米安保条約の廃棄(破棄)が最も重要な政策です。それに比べると、自衛隊はやや脇の論点です。これも十分に理解されていない点であり、天皇制廃止論や自衛隊違憲論が共産党の主張のコアだと思っている人が意外に多い。同党にとって一番重要なのは、日米同盟の解消なのです。近年、日本共産党は中国批判を強めていますが、それが日米安保条約の肯定にまで至るかというと、かなりハードルが高いと思います。このことが立憲民主党などとの野党共闘を進める上で大きな障害になっています。

―最近、女性の登用が盛んですが、かつては日本社会に根深い女性差別から逃れられなかったと著書で触れています。

私の本では、戦前の日本共産党の暗部だった女性差別について、地下活動を行う男性幹部に女性活動家がハウスキーパーとして手当されていた事実を慎重な表現で紹介しました。立花隆の『日本共産党の研究』にも書かれていて、昔からよく知られていることなのですが、知り合いの研究者などからは、批判が生ぬるいと言われました。「日本共産党は性暴力を容認していた」と書くべきだったという意見も、複数のフェミニストからいただきました。

同党は最近、本腰を入れて女性を登用しようとしています。今回の参院選では58人の候補者のうち32人、55%が女性でした。当選者でも4名中2名、5割が女性です。党幹部についても女性を増やしてきています。しかし、その一方で、分派の禁止を伴う民主集中制の組織原則が維持され、党中央が下部を強力に統制しています。ジェンダー平等を重視し、多様な性のあり方を認めることも大切ですが、それとともに党内に多様な意見が存在することを認め、党員間で自由に議論を戦わせるようにならないと、党組織は活性化しないと思います。

     *

多くの老舗企業も同じですが、変わるのは容易ではありません。しかし、今回の参院選日本共産党が獲得した比例票は361万で、前々回の601万、前回の448万から大きく減らしています。また、野党間の選挙協力も今回の参院選で後退し、見通しを失っています。体力が残っている今のうちに変わらなければ、じり貧に陥る恐れがあります。しかし、見方を変えると、共産党が本格的な路線転換に踏み切れば、野党共闘が強化され、自公ブロックに対抗できるようになる。つまり、日本政治の閉塞感を打破するゲームチェンジャーになりうる存在なのです。


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板倉君枝/橋本直子「日本のウクライナ避難民対応と難民政策を検証する」(2022/8/12)(https://www.nippon.com/ja/in-depth/d00823/(https://www.nippon.com/ja/in-depth/d00823/))

2022年3月以降、日本が受け入れたウクライナ避難民は7月下旬時点で1600人を超えた。「1982年から2021年までの約40年で日本政府が認定した難民の数である915人を、わずか4カ月で超えました。そして難民よりも、良い待遇、充実した支援を受けています」と橋本氏は言う。

「特別扱い」は、21年8月タリバン復権したアフガニスタンからの難民と比較すると明白だ。日本政府は、日本と関係がある、あるいは協力したために命を狙われる可能性のあるアフガン人の国外退避支援を躊躇(ちゅうちょ)した。大使館、国際協力機構(JICA)の現役職員は家族も対象としたが、日本のNGO現地スタッフの場合は、本人のみ。同年8月時点で雇用契約が切れていた元現地職員や家族帯同を希望するNGO職員など、そのリストから漏れた人たちは「民間退避」となり、ビザの取得が極めて困難だ。日本人か永住者の身元保証人、滞在中の生活費の支払い能力、日本での就職先など厳しい要件が課されている。

一方、ウクライナ人には条件を大幅に緩和し、即時に短期滞在ビザを発給、政府専用機に搭乗させる異例の対応もした。来日後は就労可能な在留資格に切り替え、ウクライナ人「限定」の就職先や公営住宅のあっせんもある。生活費補助、日本語教育など官民からの支援も手厚い。

     *

「避難民」に公的定義はないが、今回はロシア軍による無差別暴力を逃れてきた人たちを指し、1951年の「難民の地位に関する条約」(難民条約)に定義された「条約難民」とは区別される。

戦時でも平時でも、条約に明記された5つの事由「人種、宗教、国籍、特定の社会的集団の構成員であること、政治的意見」のいずれかに基づく差別によって迫害を受ける恐れがある場合に、条約難民の定義に当てはまる。ただし、国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)が指摘する通り、多くの場合内戦下では、武力攻撃が完全に無差別であることはまれだ。

日本の難民認定率は1%にも届かない。欧米と比較して際立って低いのは、「迫害」の概念を狭く解釈していることも一因と橋本氏は言う。

「迫害の “恐れ” がどの程度あれば難民とみなすのか。日本は他国と比べると、その要求水準が高く、悪い意味で完ぺき主義だと言えます。命からがら逃れてきた人にとって、迫害に関する客観的な証拠をそろえるのは至難の業です」

難民認定は、過去に迫害を受けたかだけでなく、将来、どの程度迫害の対象になるかを予想することです。民事裁判、刑事裁判とは全く違う基準、考え方が求められるのです。また、移住労働者として経済に貢献できるかなどの短期的実利ではなく、日本が人道的な国という国際的評価を得られるか、中長期的な国益を俯瞰した戦略的判断が必要です」

「日本には、良しにつけ悪しきにつけ、外交政策としての難民保護という考え方が(インドシナ難民を除いては)ほとんどありません。移民にせよ難民にせよ、基本的に外国人を受け入れることが政策カードの一つになっていない。単一民族的国家だという強い思い込みが残っていることも、背景にあるかもしれません」

     *

2021年に政府が国会に提出した入管法改正案は、野党や国内外から強い批判を浴び、廃案となった。中でも、3回目以降の申請で送還停止効を解除する点が難民条約の「ノン・ルフールマン原則」に反し、「人権侵害」だと問題視された。入管施設に収容中のスリランカ人女性が亡くなったことも、審理の逆風になった。

岸田政権は、ウクライナ避難民などを「準難民」(補完的保護)として扱う制度を全面に押し出して、改正案を今秋にも再提出予定だ。

「補完的保護という単語は、昨年の改正案にもありました。ただ、『難民条約上の5つの要件に当てはまらないが迫害の恐れのある人』を対象としているので、今のように迫害の恐れの解釈が狭いままでは、保護対象者は増えないでしょう。EUの補完的保護を参考に、『無差別武力紛争を逃れてきた人』や『拷問の恐れがある人』と明記すべきと考えます」

     *

橋本氏は、送還停止効のもう一つの例外規定案に関しても注意喚起する。昨年の改正案には、仮に難民(申請者)が、受け入れ国の安全にとって危険な存在になった場合、ノン・ルフールマン原則は解除されるという難民条約の条文にのっとり、その要件が列挙してあった。

「例えば、日本で反社会的な集団とみなされている団体を、そうとは知らずに手助けしてしまった場合でも、送還停止効解除の可能性があります。チラシの中身を理解していないのに頼まれて配ってしまった、あるいは、相手がテロリストと知らずに通訳のアルバイトをしてしまった、そのような行為をした疑いがあるだけで、送還・追放の対象になり得る条文案でした。これでは『危険』とみなす範囲が、あまりにも広すぎます」

誰を危険とみなすか、どの程度の「迫害の恐れ」との比較衡量(ひかくこうりょう)が妥当か。母国で拷問される危険があるので送還できないが、受け入れ社会にとって「危険」である人をどう扱うか。その基準は諸外国でもばらばらで、世界的な難民法学者たちも頭を抱えている超難問だと言う。

     *

法務大臣の自由裁量となる「在留特別許可」(在特)の在り方も、検討が必要だ。

「例えば、日本に家族がいるから特別に在留を許可するというのは、母国での迫害の恐れとは無関係なので、難民認定作業とは切り離した別枠での人道的配慮が必要です。補完的保護に無差別暴力と拷問からの避難民を含めた上で、条約難民認定、補完的保護、人道的配慮に基づく在留特別許可の3つのカテゴリーを整理する。同時に、今後も『顔の見える国際協力』を推進するなら、日本に協力した(元)現地職員と家族の退避制度も整備すべきです」

日本では、入管が警察・検察・司法の三役を担っていることや、在特の基準が不透明であることが批判されている。

法務大臣は、「難民審査参与員」のヒアリングと意見書を参考にして、難民不認定者からの異議に対する判断を下すことになっている。参与員は、法律または国際情勢に関する学識経験者から選ばれる。橋本氏もその一員だが、参与員全員が難民法や認定手続きに詳しい専門家とは限らない。さらに、参与員の意見書が法務大臣による判断を拘束するわけでもない。

「日本には難民政策に限らず、独立した第三者機関がほとんどないことを考えると、すぐに実現するのは難しいでしょう。でも、少数精鋭の難民・庇護政策の専門家委員会が準司法的な最終決定権限を持った形で、フルタイムで従事することが理想です」

     *

すぐに難民政策を大きく変えることが難しいとするならば、いま日本ができることは何か。

「既に2010年から実施している第三国定住(難民キャンプ等で一時的な庇護を受けた難民を、当初庇護を求めた国から新たに受け入れに合意した第三国へ移動させること)を拡充していくことです。すでにUNHCRのスクリーニングを経て、日本政府が事前に面接し、審査を通った人たちです」

「政府は、2020年から、アジア地域に滞在する難民を毎年60人受け入れるという閣議了解を出しましたが、コロナ禍でストップしています。ウクライナ避難民を受け入れられるなら、その人たちも受け入れられるはずです。早く再開し、もっと数を増やすべきです。例えば、2010年から19年にかけて、ミャンマー難民を計194人しか第三国定住で受け入れていない。欧州の小国でも年間数千人程度は受け入れているのです。世界的に見て、受け入れ枠が質量ともに貧弱すぎます」

人道主義に基づく難民受け入れと、長期的な国益は相反するものではありません。日本はまだそのことを十分認識できていません。外交戦略としての難民受け入れ政策という大きなビジョンが欠けていると言えます」


―――――


Gloria Oladipo, Martin Belam and Pjotr Sauer, “Russia-Ukraine war latest: what we know on day 210 of the invasion”(2022/9/21, Wed.)(https://www.theguardian.com/world/2022/sep/21/russia-ukraine-war-latest-what-we-know-on-day-210-of-the-invasion(https://www.theguardian.com/world/2022/sep/21/russia-ukraine-war-latest-what-we-know-on-day-210-of-the-invasion))

The president also threatened nuclear retaliation, saying that Russia had “lots of weapons to reply” to what he called western threats on Russian territory and added that he was not bluffing. In a highly anticipated televised address, Putin said the “partial mobilisation” was a direct response to the dangers posed by the west, which “wants to destroy our country”, and claimed the west had tried to “turn Ukraine’s people into cannon fodder”.

     *

Putin’s decision to announce a partial mobilisation sent shockwaves across Russia. Since the start of the invasion on 24 February, the Russian president has sought to shield his population from the grim realities of war, with the Kremlin eager to cultivate a sense of normality on the streets of Moscow and other major cities. But with the decision to announce a partial mobilisation and the call-up of 300,000 mostly young Russian men, the war will now enter the household of many families across the country.

     *

Putin also said Russia would give its full support to the referendums announced for this weekend in Luhansk, Donetsk, Kherson and Zaporizhzhia to join the Russian Federation. He accused the west of starting a war against Russia in Ukraine in 2014. “In its aggressive anti-Russian policy the west has crossed all lines,” the Russian president said.

2022/9/20, Tue.

西脇順三郎訳『マラルメ詩集』(小沢書店/世界詩人選07、一九九六年)

●47~48(「エロディヤード」; Ⅰ 序曲)

     乳母
    (呪文)

 廃滅して、その恐ろしい翼が、その驚きを
 写す廃滅した泉水の涙の中で、裸の黄金の
 羽で深紅色の空間を打ち
 一つの暁は羽の紋章となって
 われわれの納骨塔と犠牲を捧げる女を選んだ
 一羽の美しい鳥が逃げ出た重い墓、(end47)
 空虚な黒い羽がある暁の孤独な気まぐれ……
 ああ腐敗した悲しい地方の領主の館!
 波の騒音もなし! その暗い水は運命を諦める
 そこには鳥類や忘れられない白鳥の訪れもない、
 水は燃え残りを消し、秋の孤独を写すばかり。
 その時未だ光ったこともない或る古 [いにしえ] の里の
 清い金剛石に悩まされた白鳥の
 頭は蒼白い廟墓か羽の中へ
 姿をかくしてしまったのだ。




 いくばくかの覚醒やまどろみをくりかえし、最終的に起き上がるには正午過ぎまでかかってしまった。午後にかかるまで寝床にとどまっていたのはひさしぶり。昨夜はなぜか明け方までだらだら過ごしてしまったので不思議ではない。雨降りはつづいており、真っ昼間なのにカーテンを閉めた部屋の内は暮れ時いじょうに薄暗い。あけても濡れた白さにたいしたあかるみはない。覚醒してから手をこすったり腹をさすったりしたが、夜更かし寝坊のわりにからだはなぜかそうこごってはおらず、ふだんは寝床にもどって脚を揉んだりするところだが、きょうは時間もおそくなったし水を飲んだり顔を洗ったりしてから、屈伸をちょっとしただけでもう瞑想にはいった。そしてそれでぶれもせず、脚に痛みや痺れも生まれず、だいぶさだかにすわれる。呼吸もすでにいくらかほぐれているような具合だった。息を吐いて吸うたびに行き当たる胸から肩や首すじにかけてのひっかかりがさらに、呼吸の反復のうちでじわじわとほどけてすこしずつながれさっていく。地下に掘り進めた隧道の最前線の突き当たりをちょっとずつ、ほんのちょっとずつ打ちつづけてさらに空間をひろげているような感じだ。雨はつづいており、きのうの夜に吹き荒れていた風はもはやたいしたことはないが、それでも雨粒はかたむいてはいるようで、バラララバラララという蜂の巣製作じみた、あるいは微小量の火薬が音だけで無害に爆発しつづけるようなそんな打音や、物干し棒から垂れたしずくが手すりにあたるのか、カンカンいう高めの音が聞こえつづける。目をあけるとあぐらで乗っていた椅子が気づかないうちに左に九〇度回転しており、視界が目を閉じるまえに正面にあった図とちがったので一瞬ちょっとおどろいた。ぴったり三〇分。体感的にはもうすこしいったような、けっこう充実した感があった。時刻はそれでもう一時なわけである。携帯をみると母親からSMSがとどいており、資格の勉強につかっているらしいなにかのレポートをいちぶ切り取った画像が載せられていて、この漢字がわからないからおしえてくれとあった。「可塑性」だった。かそせいと読むのだとつたえ、もののかたちが変わっていくことができるということ、変形力みたいなことだろうと意味もおしえておく。ついでに二五日に(……)に髪を切りに行くからそのときちょっと寄るわとも言っておいた。「塑」という字にかんしてはおもいだすことがあって、中学校時代にたしか「彫塑室」という美術の部屋が学校にあったとおもうのだ。とうじのじぶんにはみなれないむずかしい漢字だからさいしょは読めなかったはずだし、「ちょうそしつ」と、たぶん教師が言っているのを聞いてそう読むのかと知ったあとも、この「塑」という字はなんなのかと、油断するとすぐに読み方をわすれてしまうようだし、なにかとっつきにくいような漢字だった。母親もおなじく地元の(……)中学校出身なので、おぼえていれば「塑」の字のニュアンス(土をこねてかたちをつくること)がより理解できるだろうとおもったが、たぶんおぼえていないとおもうのでそれはふれなかった。
 それから食事。れいによってそのまえに水切りケースとかコンロのまわりのすきまとかに置いてあるプラスチックゴミを始末する。ほんとうはきょうの朝がプラスチックゴミの回収だったのだけれど、さくばん帰ってくるときに風がすごくて、帰り道沿いにあるいろいろなアパートでけっこうゴミ袋が飛ばされてとおくにころがりだしたりしていたので、これは今夜出してもおなじことになるかな、と今回は見送ることにしたのだった。だから来週まで保管しておかなければならない。食事はもはやキャベツも切れたし、豆腐・大根・タマネギをサラダにして、レトルトカレーを食うほかはない。きょう医者に行くつもりなので、その帰りに買い物もしてこなければならないだろう。野菜ふたつはスライスし、そのうえに豆腐を乗せて、コブサラダドレッシングをかけるとハムものこっていた三枚をつかってしまった。カレーは湯煎。からだや胃のなかが水以外に空っぽなところにタマネギや大根の辛味が来るとちょっととおもって、豆腐を崩してよく混ぜながら口にはこぶ。(……)さんのブログを見た。一七日分の冒頭に引かれていたしたのはなしはこれもおもしろい。引用を読むかぎりではこの本はかなりおもしろそう。ただ、フロイトラカン派の精神分析理論については(……)さんのブログに引かれている文章で断片的にふれているだけで、いまいち体系的に理解していないし細部もよくわかっていないので、いきなりこれに行っても駄目な気はする。シフターすなわち転位語のはなしが出ているが、これはエミール・バンヴェニストの概念で(バンヴェニストだけではないかもしれないが)、このへんの理論や思想にたいする構造主義言語学の影響ってやっぱりかなりおおきいよなとおもう。ソシュールはもちろんそうなのだけれど、それよりはとりあげられることのすくないバンヴェニストもかなりおおきいのではと。バルトなんかもろにそうだし。『一般言語学講義』だったか(『一般言語学の諸問題』だった)、あれもだからやはりいずれは読みたい。二つ三つ版があったとおもうのだけれど、みすず書房のやつは七〇〇〇円とかして高いんだよな。もっとしたかな?

 「脱-心理学」という点では、ラカン構造主義の旗にしたがう——曰く、「無意識は言語のように構造化されている」。これが意味するのは、原則として我々は、主体の症状や行動に解釈(フロイトの言う「解読」)を加え、その起源を探ることができるということである。ロマン派的な想像力=創造力をつかさどるものとしての無意識、「夜の神々」の宿る場所、主体の自発性の源泉などと考えられてきたものの内にも、厳密な論理や法則が作用している、というわけである。しかし、構造主義が主体と構造とを完全に同一視するのに対し、ラカンはそこにまさにカント的なひとひねりを加える。彼は、〈他者〉の内なる欠如——つまり、構造が完全に自らを閉じることに失敗するまさにその点——を補うものとして主体を定義する。これには二つの方法がある。第一に、「主体の存在の証拠」として還元不可能な享楽を提示する方法、第二に——こちらのほうが我々の議論にとって重要である——発話行為とそこで用いられる「私」という転位語[シフター]との関係から主体を定義する方法である。「私」とは、その他すべてのシニフィアンの機能を奪うシニフィアン、それらを「不-完全」[パ・トゥ]にするシニフィアンである。なぜなら、それは、意味する(他のシニフィアンへと差し向ける)のではなく指し示す要素、言語の構造の外側にある何か——発話という行為それ自体——を指し示す要素であるのだから。〈他者〉の亀裂を埋める機能のある固有名詞とは異なり、「私」はそこに修繕不可能な虚空を切り拓く。「私」という言葉が用いられるたびに、発話の主体にふさわしいシニフィアンがないことが明らかになる。ミレール——私がここで要約している議論は彼のものである——が彼のセミナー『一、二、三、四』で指摘しているように、「〈他者〉の〈他者〉は存在しない」という命題は、〈他者〉や発話された内容の存在を保証するものは、それらがそれらとして発話されるという偶然性以外の何物でもない、と主張するものである。〈他者〉の機能からとり除くことのできないこの依存関係こそ、〈他者〉の内なる欠如の証拠である。発話の主体は、〈他者〉の構造の中に確固たる場所をもたない、もつことができない。それは、発話するという行為の中にのみ居場所をもつのである。以上、まとめよう。非心理学的に主体について思考すると言っても、主体が(言語であれ、その他のものであれ)構造に還元できると言っているわけではない。ラカンの言う主体とは、「脱-心理学」化が終了した後に残るもの、まさに発話がなされる点、つかまえどころのない「ピクピクする」点なのである。
(『リアルの倫理——カントとラカン』アレンカ・ジュパンチッチ・著/冨樫剛・訳 p.44-46)

 食後は食器類を洗い、ちょっと音読した。「読みかえし」ノートは、岡和田晃「北海道文学集中ゼミ~知られざる「北海道文学」を読んでみよう!~: 「北海道文学」の誕生とタコ部屋労働(1)~国木田独歩空知川の岸辺」」(2018/9/28)(https://shimirubon.jp/columns/1691732(https://shimirubon.jp/columns/1691732))とか。むかし読んだ文章や情報を時をおいて読み直すというのもおもしろいものだ。そのあと屈伸とかしてから音楽を聞きにはいった。おとといきのうと同様、碧海祐人『逃避行の窓』から、#5 ”Comedy??”, #6 ”Atyanta”, #7 “秋霖”。ふれたいこまかいところもいろいろあるのだけれどいまは書くのがめんどうくさいので全体的な印象だけ述べておくと、『夜光雲』より良いようにこちらはおもうというか、『夜光雲』にかんして述べたことばのいかにも文学っぽい硬さだったり、それと旋律との結合の問題だったりが、ここでは解決されているように感じられるのだ。漢語的な二字熟語とか硬いような言い回しとかは『夜光雲』よりだいぶ減ったようにおもえるし(”夕凪、慕情”のC部だったかでは、行の冒頭で一語ずつそういう熟語を置いていたようだが、後述の理由でそれはぎこちなく響かない)、また、このアルバムではたぶんどの曲も、サビ的なパートで高音にひらきコーラスをかさねたファルセットでながめの音価を歌うというやりかたがとられていたとおもうのだけれど、ことばもそれに相応して漢語からひらかれ、動詞的に伸びやかにながれていたとおもうのだ。だから旋律とことばがひとつの調和にまとめられてゆったりとながれており、かつファルセットや全体的な歌声の、あまりいかにもな歌唱の声としてかためない、素朴さをどこかにのこしたような声質とコーラスの添え方とかがあいまって、ひとつのスタイルがかたちになっているという感覚を得た。それをきもちよくなじみやすくまとまってしまった、という向きもないではないかもしれないが、こちらは好きだし、この伸びやかさはそれとしてとりあげることのできるニュアンスにいたっているとおもう。いっぽうで『夜光雲』でもやっていたように、こまかい連続音で歌う部分も#2や#3にふくまれていて、そこはそこでとちゅうでうごきに変化をとりいれてうまく行っている印象だ。どちらもたしか二回目のAだかBだかで一回目とはちがうこまかなつらなりをとりいれ、かつそれをちょっと展開させるという感じだったはずで、#3ではベースとのユニゾンなんて工夫もされていた。


     *


 いま帰宅後の八時半。夕食をとりながら一年前の日記を読んだ。2021/9/20, Mon.である。「きょうは気温がだいぶ低くて涼やか。天気もきのうにつづいて濁りのない快晴で、一年でもっとも過ごしやすい秋のかるさ」だというが、今年はこういう雲のない、からっとしたような秋晴れをまだみていない。ちょっと晴れる日はあってもだいたい雲がおおく混ざっていて、そのくせ体感としてもひかりがまだ熱く、いかにも秋のさわやかな涼しげな晴れの日だな、という空気の質感に出会っていない。午前中の窓外の描写として、「そとはひどくあかるく、ひかりはどこにも行き渡って満ち、そのために川沿いの樹々や山襞は蔭をかえって濃く溜めて、なだれるように充溢した明暗のコントラストがきわだっており、川沿いの樹壁のなかでいちばんあかるい一部分は泡っぽい希釈水の緑に浮かび上がって、もうすこしてまえではあたりの屋根があるものは瓦の四面を区切る突端の線にひかりをあつめてかがやかせ、あるものはゆるい傾斜の一面をすべて白く発光させている」とあるが、これはなかなかやってんな、とは言ってやれないレベルの記述だ。書きぶりはべつにいつもどおりでわるくはないけれど、見たものをただ順番にならべて書いているだけで、そこにあったはずのなにかひとつのニュアンスをいまのこちらに喚起するまでのちからを持っていない。観察の段階にとどまっており、そこから感応の地へとはみ出せていないということだ。まあそういう意味ではむしろ記録然としたものではあるのかもしれないが。
 「誰も彼もかしこぶり屋の治世では冗談だけが愚者の矜持さ」という一首をつくっている。まあわるくはない。労働から帰宅したあとの深夜はPink Floyd『The Dark Side of the Moon』をながし、「このアルバムは中学生当時に同級生で当時唯一の音楽仲間だった(……)が入手して聞いていたはずで、彼の家でこちらもすこしだけ耳にしたおぼえがある(それで"Money"か"Time"だけその後印象にのこっていたおぼえがある)。やつはほかにたしかYesも入手していた気がするし、もしかしたらKing Crimsonも聞いていたかもしれず、プログレの有名所をいくつか手に入れていたとおもうのだが、たかだか中学生でプログレなんぞ好んで聞いていたとはいけすかない、ませたクソインテリだったなといまさらながらおもった」と友人をけなしている。「それいらいPink Floydをほぼ聞いたことがなかったのだが、いま聞いてみると#2 "Breathe (In The Air)"のバックのサウンドの質感からしてひとつのきわだった雰囲気をかもしだしており、なるほどこれはたしかに、とおもわれ、中学生でこれを聞いていたのはやはりすごい。やつは暑苦しいだけのこちらより数段先を行っていた。FISHMANSも高校当時ですでに聞いていたおぼえがあるし(FISHMANSのライブ盤を聞かされたとき、おまえにはこういうのはわからないだろうが、と馬鹿にされたおぼえがある)。大学ではバンドサークルにはいって、Kurt RosenwinkelとかBill Frisellなんかを真似しようとしていた」というこの友人とは(……)のことで、やつもいまどこでなにをしているのか、もうながいこと会っていない。たしかあたまがおかしくなり体調がわるくなった一八年よりまえに一回くらい会ったおぼえがあるから、たぶん一七年か一六年のことか。「ませたクソインテリだったな」とけなされているが、じっさい国際基督教大学に行ったし(もともとは東京大学を目指していたのだけれど果たせず、そちらに行ったのだが、ICUは自由で風通しのよい校風だとよく聞くので、やつにとってもそっちのほうがよかったのではないか)、哲学思想なんかにもそれなりの興味関心は持っていたようで、こちらが読み書きをはじめてからまだそう経っていないころ、おそらく二〇一五年くらいのことかとおもうが、ある日電車内で会ったときにこちらがウルフの『灯台へ』(みすず書房版の古い訳のやつだった)をもっているのに興味をしめしたのでちょっと冒頭を読ませたらなにかコメントをしたし、そのときだったかわすれたが、ドゥルーズとかにも興味がある、読んでみたい、と言っていたこともあった。それはたぶん別の日にやつの実家の部屋にあそびに行ったときだな。部屋のなかでそういうはなしをしたような記憶があるので。こちらは、ドゥルーズも読みたいがぜんぜんよくわからなそう、おれはバルトだな、あとフーコーも読みたい、とこたえたおぼえがある。ところがそれいらいバルトはともかく、フーコーなど主著は一冊もふれられていない現状である。ドゥルーズもおなじく。
 あとこの日は(……)くんらと通話していて、TENGAのはなしなんかしている。(……)くんがとうじなぜか買おうかなとおもっていたようだ。一年前は検閲しておいたけれど、まあ一年経ったしいいかなと。

あとはTENGAのはなし。(……)くんが、なんのきっかけがあったかわすれたが、TENGA買おうかなとおもってるんですよね、つかいすてじゃなくて、洗って何度もつかえるやつ、といいだしたのだ。TENGAというのは男性向け自慰サポート用器具のたぐい、つまりいわゆるオナホールの有名商品だが、何年かまえにいろいろ種類が出て、たしか「エッグ型」とかもろもろあり、デザインもあからさまでなく部屋に置いてあってもバレにくい、とか言われていたのをおぼえていたが、それいじょうの、あるいはそれ以降の情報がなかったので、いまどうなってるんですかね、といいながらサイトを見物した。オナホールを売っているくせにスタイリッシュというか、スタイリッシュではないかもしれないが、淫靡なかんじがぜんぜんなく、ほがらかに堂々としたサイトで、よく画像を見かけるあの赤っぽいメジャーなやつはつかいすて用のほうらしく、何度もくりかえしつかえるタイプのものはデザインがまたすこしちがっていたが、あまりよく見なかった。ポケットタイプとかいって、ポケットにはいる薄型というものもあり、いつでもどこでも、思い立ったらすぐに、とかいう売り文句が書かれていたので笑う。また、TENGAを推す著名人がコメントを寄せたり質問にこたえたりしているページもあり、ミュージシャンとかラッパーとかアスリートとか変わり種では僧侶とか(仏教は基本、禁欲を奨励するものではないのか?)、かなりの数のひとびとがあつまっていて、なかにはかなりメジャーななまえもあるのだが、TENGAの精神はじぶんがやっていることと共通しています、とか、大仰な褒めかたをしているひとがなんにんかおり、いやただのオナホールやんと笑う。

 どうせだからまじめなはなしも引いておくか。

あと、(……)くんがかたったWoolfとニーチェのはなし。LINEに画像を貼ってくれたのだが、『ダロウェイ夫人』のなかでいきなり漠然とした主体であるoneが出てくる箇所があり、その非人称性というのはニーチェが『悲劇の誕生』でかたっていることにつうじているのではないか、ということで、(……)くんによればニーチェギリシア悲劇や芸術においてアポロン的なものディオニュソス的なものという区分をとらえた人間で、前者は秩序、後者は無秩序とかカオス的なものをあらわすわけだが、ニーチェのかんがえではギリシア悲劇の本質というのはディオニュソスの領域で、なおかつそれは「声」の領分なのだと。作家がものを書くとき、意味が先に来るのではなく、声や音調がどこかからやってきて、それにひっぱられるようにみちびかれるようにしてことばが出てきたり作品が構成されたりする。その「声」の感覚というのはだれがかたっているというものでもなく、出所のわからない非人称的なものなのだが、ニーチェとしては芸術の本源はそれだとかんがえていたらしい。わりとわかるはなしではある。で、だからギリシア悲劇において肝要なのは秩序だった対話の部分ではなく、コロスだと。(……)くんはWoolfがつかうoneなどにもその「声」の存在を見たわけだが、それでTo The Lighthouseのなかにも、ちょうど前回か前々回くらいでやったところにそういう部分があったと。すなわち、Never did anybody look so sad. からはじまる一段で、いきなりやたら詩的な表現になっている箇所なのだけれど、あそこは要するにこの「声」で、Woolfが書いているさいちゅうにこういうイメージとか言い方がどこかから来てしまったのだろう、と。その理解は、こちらとしてもわりと納得が行く。で、そのあとの段落ではpeopleがラムジー夫人のうつくしさの秘密を問う、みたいな内容になっており、さらにつづく段落では括弧にくくられてバンクスがラムジー夫人と電話して彼女のうつくしさをおもっているところが書かれるわけだが、非人称的な「声」のような状態からはじまって、それがpeopleという複数者としてすこし具体化され、さらにそのうちのひとりとしてバンクスが召喚されるというのが(……)くんの整理であり、なるほどたしかに、となった。

ニーチェやっぱすげえな、だいたいのことはニーチェが言ってるな、と(……)くんはあらためておもったというが、これは要するに構造・構造化とその構造から漏れ、はみだし、回収できないものという対比の構図だとおもわれ、それをすこし敷衍すればむろんおなじみの物語/小説図式になり、精神分析的にいえば言語化された世界と現実界ということになる。おそらく西洋の哲学の伝統においてこの図式は、概念や用語を変え、手を変え品を変えてずっと継続し、受け継がれているものなのだろう。すこし種類がちがうが、体系と断片という対比もいちおうそこにくわわるはずで、ニーチェはむろん体系家を糾弾し断片を称揚した思想家の最たるひとりのはずなので、ディオニュソス的なものに惹かれるのは道理だろう。で、こちらは、ミシェル・ド・セルトーの『日常的実践のポイエティーク』にもそういうはなしがありましたね、と言った。エクリチュールとそこから漏れる声、という対比で、一〇章・一一章か、一一章・一二章でそういうはなしが展開されていたはずである。エクリチュール、すなわち書くという営みや書かれたテクストは近代西洋世界の根幹をなしているシステムであり、しかしそれによってたとえば民衆文化とか未開地域といわれるような異文化の「声」、要はその他性は秩序化され、解釈され、理解可能なものに翻訳されて西洋のシステムのなかに回収され組み入れられてしまう、というようなはなしだったはず。

 で、こういう構造化・体系化・言語化できるものだったり、秩序的にととのっていたりということをもっともおおづかみにいう西洋的な概念がおそらく「ロゴス」なはずで、だからデリダのしごとのひとつというのはうえでふれたような、西洋思想において「概念や用語を変え、手を変え品を変えてずっと継続し、受け継がれて」きた、秩序(さまざまなかたちの「ロゴス」)とそこから漏れるもの、そこに統合されえないもの、という図式(と、その二項関係におけるつねに変わらぬ前者の優位)をさかのぼってあとづけたものだという理解でよいのだろうか。


     *


 昼間の食後に聞いた音楽は碧海祐人だけではなくて、アルバムが終わったので自動再生を待ってみるとはじまったそれが諭吉佳作/men "くる"という曲で、しばらく聞いてこりゃすごいなとおもったのでさいごまで聞いた。よくこんな複雑なコード進行のながれをつくって、かつポップスとしてしあげられるもんだと。後半ではけっこうわかりやすくメロディしているサビ的部分もあったし、ことばの置き方をふくめてプログレッシヴな要素をいろいろ入れこんでいながらぜんたいとしてはきちんとポップスとしてまとまっている。こういうのにあまりふれたことがないひとが聞いて、なんだこれ、よくわからない曲、へんな曲だとおもったとしても、でもなんかいいなとさいごまで聞けてしまうのではないか。しかも情報をしらべてみるとこのひとはまだ一九歳だというからビビるもので、一九歳でこれつくっちゃうのかー、とおもうと、三二にもなっておれはいっこうになにもつくらずまいにち日記を書くだけでいったいなにをやってんのだろうか、というきもちもちょっと生じないでもない。崎山蒼志と中学時代から親交があるといい、Wikipediaをみてみれば崎山蒼志もまだ二〇歳だ。数年前にやたらすごい中学生シンガーソングライターみたいな感じでテレビに映っていたのをみたことがあるだけで、そのときこれはたしかにすごいなとおもったのだけれど、けっきょくその音楽はまだ聞いたことがない。長谷川白紙ともつながりがあるようだけれど、このなまえは(……)さんのブログでおりおり目にする。あと諭吉佳作/menのWikipediaには、坂元裕二の朗読劇の音楽を担当したという情報もあって、坂元裕二はさいきん古谷利裕の「偽日記」でよくとりあげられ、詳細に分析されている脚本家なので、こういうところがつながるのかとおもった。
 そのあと『Portrait In Jazz』。冒頭からはじめて"When I Fall In Love"まで。Amazon Musicを検索して出てきたのはKeepnews Collectionと書いてあるやつで、さいしょの"Come Rain or Come Shine"("降っても晴れても"という邦題になっているが、たのむからアルバムタイトルを英語でしめしたのなら原題表示をしてほしい)にはテイク5とあり、終盤にボーナストラックとしておさめられている"Autumn Leaves"のモノラル版もテイク9となっていて、そうだったの? そんなにやってたの? ぜんぶ聞きたいんだが、とおもったものの、コンプリート版みたいなやつはたぶん出ていないだろう。こちらがCDで入手して聞いていたやつは枯葉のステレオ版とモノラル版が二曲目三曲目でつづけて収録されていたので、このKeepnews Collectionは三曲目以降のトラックナンバーが記憶よりひとつずつはやいことになる。こちらのもっていた音源には枯葉とあと"Blue In Green"も二テイク収録されていたが、Keepnews Collectionはさらに"Come Rain or Come Shine"の別テイク(テイク4)と、"Blue In Green"も全部で三テイクはいっているので、じぶんの聞いていたやつより二曲多い。そういうわけでいろいろ版があるなかでこれをえらんだ。いろいろ感じたりおもったりはあるのだけれど、いまは詳しく書くのがめんどうくさい。夕食後にも"When I Fall In Love"から四曲、"Spring Is Here"まで聞いたのだが、このときはなんだかねむくて音があまり聞こえず。


     *


 この日は医者に出向いてヤクの追加をもらってきたわけだけれど、その間の消息をこまごまと綴るのもめんどうくさいし、いまもう二三日の夜で日付替わりもちかいくらいだから記憶もさほどのこっていない。(……)に着いたころには(五時半ごろだったが)もう日暮れてけっこうたそがれており、道も青いような薄暗いようななかに民家の塀内で紅色のサルスベリが色をめだたせていたのをおぼえている。医者や薬局では携帯で(……)さんのブログを読み、帰りの電車内ではブランショ『文学空間』を読んだ。診察はいつもどおりで、まあ変化もたいしてないし五分もかからずすぐ終わるのだが、やっぱりどうも電車内だとまだ緊張や圧迫がどうしてもあるということを報告する。とはいえ全体的には体調はよくはなっているとおもわれ、きょう来たときは意外とひとがいなくて、いつも先頭車両の端の四人掛けに乗っているのだけれど(というと先生は三人掛けでしょう、と言ったのだが、たしょう、え? となりつつも、先頭車両のいちばんまえは四人席なのだと返すと、そうなんですか、いちばんまえの車両はあんまり乗らないから、知らなかった、とのことだった)、さっきはその四人掛けの区画にじぶんしかいなかったのでかなり楽だったとか、ひとがいるとやはり緊張する感じはあって、けっこう座っているときなんかは車両のいちばん端に立ってますね、すこしでもこうひとのいないほうに、距離を取って、などとはなすと、じぶんで工夫しているわけですね、と返り、工夫などというものではなくてたんなる防衛反応か逃走本能にすぎないが、そういうことをはなしながらへらへら笑っているじぶんのその笑い方からして、たしかに全般的によくなってきている、心身の状態が底上げされていると言ってもよさそうではあった。いちおうさいごに、いままいにち一錠飲んで、電車に乗る日はもう一錠なんで、とりあえず一錠だけで乗れるようになりたいとはおもっております、と述べておくと、そうなれるとおもいますよ、と軽い返事があったが、まあこちら当人としては、それにはまだそこそこ時間がかかるかなという感触だ。帰路は(……)でスーパーに寄ったはずだが詳細をなにもおぼえていない。往路帰路の空のようすもおぼえていない。医者の待合室のようすというかそこにいるひとそれぞれの特徴というのも詳しく書けばけっこうおもしろいのだろうし、この日もそれなりに見てはいたのだけれど、そうするほどの意欲が起こらない。若い男女のカップルがいて、ふたりともけだるげなようすでラフなかっこうをしており(男性のほうはジャージかスウェットみたいな見た目だったとおもうが、呼ばれて診察室にはいっていったのはかれのほうで、女性は付き添いらしくソファに座ったまま携帯を見て待っていた)、女性はギャルになりきらないくらい、男性はチンピラでもないがすこしだけとがったような、それでいて翳のあるような、やや鬱屈しているような雰囲気で、口調もなんかそんな感じだった。あと精神科とはいえ、体育会系でもないが、会計で呼ばれて受付に行くときの返事やそぶりがはきはきとした感じの中年なんかもいる。ジョギングとか好きそうな、スポーツマン的な雰囲気がないでもなかったが、精神疾患はスポーツ好きだろうがなんだろうがかんけいなくおとずれる。


―――――

  • 「ことば」: 1 - 5
  • 「読みかえし1」: 466 - 471, 472 - 483
  • 日記読み: 2021/9/20, Mon.

2022/9/19, Mon.

西脇順三郎訳『マラルメ詩集』(小沢書店/世界詩人選07、一九九六年)

●45~46(「詩の贈物」(Don du Poème))
 夜明は、香料と黄金に焼かれたコップを通して
 凍った、ああ! まだ曇った窓ガラスを通して
 天使のようなランプの上になげられた。
 ヤシの木だ! 夜明はこの残骸を
 素気なく微笑むその父に見せた時
 不毛の青い孤独な振動した。
 おお揺籃をゆする女よ、君の娘と一緒に、君たちの冷たい(end45)
 足の純潔さで、この恐るべき生誕を迎えてくれ。




 一〇時から通話のため、八時に鳴るようアラームをしかけてあった。しかしそれいぜんに二度覚める。いちどめはまだ寝ついてからまもなく、早朝五時ごろだったはず。そのつぎが七時すぎで、そこでもうおおかた目覚めていたがまぶたを閉じつづけてアラームとともに正式な覚醒。膝を立てたり、あるいは布団をぐしゃぐしゃと脇にどかしてあおむけの棒になったりしつつしばらく静止して、だんだん腹や胸をさすったり。台風による雨が間欠的につづいており、カーテンの端をめくっても空は真っ白、ひとみやまぶたもなかなかしゃきっと固まってこない。とはいえからだはわりとほぐれているので、八時四〇分ごろには起き上がった。カーテンをひらいたところでたいしてあかるくもない。きょうはさきに冷たい水を一杯飲み、それから洗面所に行って用を足したり顔を洗ったり。うがいや蒸しタオルはやりわすれた。寝床に帰るとしばらく脚を揉んだり胎児のポーズを取ったりしながら過去の日記を読み返す。2021/9/19, Sun.。以下の一段がこいつなかなかやってんなという感じ。

五時であがっていつもどおりアイロン掛け。はじめたときには南の山や樹々にまだ飴のような夕陽の金色があたたかく添えられていたが、五時二〇分にははやくもそれが消えてあたりはこれといった色調もなくなり、晴れた昼間のあかるさを過ぎたもののまだ暮れの翳にもはいりきらないというどっちつかずの退屈さがしばらくつづいたあと、また目をあげれば山のきわからかすかな紫があらわれていて、あいかわらず雲と濁りをゆるさない山上の空は真白とほぼ見分けのつかない青さに淡く、まぶしさをとりのぞかれた光の色がそのまま伸べられ定着したような風情だった。すわった位置から見えた空はどこも淡さそのものであり、ひろがる青から空白へ、そして山際ではオレンジか紫へと、色の名が意味をうしないどの段階も実質的には白のバリエーションでしかない希薄さでもって推移しており、そこに境はなく、推移のみがただ存在していたのだが、作業を終えてたちあがり、東南方向が見える位置に来ると、午後六時をひかえて暮れの忍び寄る大気がまた変化したのでもあろう、おもったよりも層はおのおの厚く、色も濃くあつまっており、紫のさらに下には天上よりも充実した青さが重たるく垂れ下がるように溜まっていて、それでいながらすべてはハマグリの吐く気をおもわせるような靄の質感をおびた海だった。

 したのようなはなしも。ノミスマとノモスとか貨幣の恣意性というのはとくに目新しいはなしではないが、前半のおどろき、とりわけ「(……)という企業が社員にそれだけの金と生活を保障できるということ」にたいするおどろきが、いまのじぶんにとってもなにがしかのリアリティを帯びてうつる。

アイロン掛けの途中、炬燵テーブル上に兄夫婦が帰国後入居する予定の物件の情報をしるしたシートみたいなものがあって、アパートではなくて一戸建ての家を借りるのだけれど、賃料がひと月(……)とあったので、先日すでに見かけて知ってはいたが、あらためてすげえなとおもった。一か月ごとに欠かさずそんな大金を支出できるとは。そういう兄の経済力にもおどろくし、(……)という企業が社員にそれだけの金と生活を保障できるということにも、兄のやっている仕事や立場がそれだけの金銭をえられるものとして換算されているということにもおどろく。しかしそれからちょっと思念を転じて、たとえば作品がヒットした漫画家とか小説家とかが大金をえたりとか、ヒットしないまでも印税で幾ばくかの収入をえて生きていることとか、あるいはそれだけでは生きられなかったりしていることとか、もろもろをめぐらせたあと、経済的価値というのもまったく恣意的なものだよなあとおもった。ある物事や事物にどのような経済的・金銭的価値をあたえるかということについて確固たる統一的基準などなく、ある程度のものはあるにしても、場所や個人や状況によってそれは千差万別で、まったく不確かなものだと。そもそもそれが経済ということなのだろうし。おなじものでもそのまわりに付随する要素によってその都度価値が変化するわけで、そもそもたしか古代ギリシアでは貨幣というのは「ノミスマ」とか呼ばれていたはずで、「ノモス」がたしか法という意味であり、それはつまり(自然と対比的な)人為によってさだめられた掟、という意味での法だったはずで、ノミスマもだから人為的な仮構物、というたぐいの意味合いを多分にふくんでいたはずだろう。そうかんがえると西洋的にはそもそもの語源からして貨幣と人為性・恣意性とがむすびつけられていることになる、ということをアイロンをかけながらおもった。

 そのあとウェブを見たのか、もうこれで九時半ごろに達していたのかわすれたが、そのくらいになると起き上がり、瞑想をはじめる。寝床にいるあいだ窓外で保育園の気配がまったく立たないのに、きょうは祝日だとおもいあたった。のちほどGoogleのトップページで見たが、敬老の日らしい。瞑想中は雨が加速するときがあり、バチバチという音が窓に寄せてすぐしずまったかとおもいきや、ふたたびやってきてさらにまさり、雨というよりごうごうという風のような響きを冠にともないながらバチバチバチバチ打ちつけることをしばらくつづけていたが、それもながくは持続せずこらえ性なくじきにほどけていって、とあからさまに降ったり去ったりをくりかえしていた。その後だんだんとおさまったようでカーテンの白さも白さのままに明度を変化させていき、午後二時前現在だと薄雲ののこった空に水色がいくらか透けて薄陽がかかり、まだ濡れている路面を眼下に窓辺には日なたが生じていたので、さきほど集合ハンガーだけそとに出しておいた。バスタオルも出そうとおもったのだが風がまだやたらつよくてうなりを立てながら駆けるので、タオルを棒に吊るすとおおいに浮かび、なんかやばそうとおもったのでとりやめた。集合ハンガーのほうもひっきりなしに押されてかたむき、洗濯ネットが棒にひっかかってしまうくらいなので、こちらもいまやはりなかに入れておいた。カーテンレールに吊るしてせめても陽を当てようとする。
 九時半から瞑想をしてからだを芯からじわじわほぐし、このくらいかなと目を開けると五三分だった。通話前にレトルトカレーを用意することに。鍋に水を汲んで火にかけ、パウチを入れておくとともに電子レンジではパック米を回す。食事前にもかかわらず便意があったのでトイレでクソを垂れ、プラスチックゴミの始末とかしているともう一〇時を過ぎていたのでZOOMにアクセスした。(……)
 一二時を超えて通話は終わり、会話中に楽器のはなしがちょっと出たのでギターをすこしだけいじりたくなって、部屋の隅に立てかけてあるケースからとりだしたのをてきとうに爪弾いた。そこそこ。手指がうまくうごきはしないが、やっている感覚としては退屈をまぬがれている。一二時四〇分くらいまであそび、それから音楽を聞くことに。音楽を聞くとそれに時間をつかい、くわえて感想を書くのにまた時間をつかいできょうのように勤務のある日などだいぶ猶予が減るのだけれど、しかしやはりまいにち習慣的に聞く時間をつくったほうが良い気はする。からだもたしょう調うし。きょうはきのうの晩とまったくおなじく、碧海祐人の『逃避行の窓』から五トラック、すなわち”Tragedy (Intro)”, “夕凪、慕情”, “残照”, “裏窓 (interlude) ”, “Comedy??”と、Bill Evans Trio『Portrait In Jazz』の冒頭二曲を聞いた。とはいえきのうとはちがって聞いているうちにねむけがうっすら混じりだして音がはいってこず、意識をたしかにたもっていたのは”残照”の序盤くらいまでだったか。感想はいまは措く。おもったのは、感想が書ける余裕が生まれるまでまいにちおなじトラックをくりかえし聞いていれば、書くことがそんなに増えないではないか、ということだ。そういう目論見もあってきのうとおなじものをながしたのだけれど、そんな小癪なはかりごとはやめて惹かれたものを惹かれるままに聞き、感想は書ければよし書けなくてもしかたなしとしたほうがおそらくは良い。ともあれものを食ってから三時間くらい経って消化がすすんだころだったためか、ねむくてあまりはいってこず、ヘッドフォンをはずしてからもまどろみのあいまいさがちょっとのこっていたので、屈伸をしたり背伸びをしたり胎児のポーズを取ったりした。それからきょうのことをここまで綴って二時一三分。きょうは祝日なのでいつもと電車の時間がちがう。とはいえいま調べてみると二、三分の差でほとんど変わりはしない。四時五〇分くらいのそれで行くか、あるいはそのまえに乗って(……)から職場まであるくか、むしろひさしぶりにアパートから(……)まであるいていくか。ただなんか(……)の街をあるくのはなんか飽きてしまったというか、夜の帰路もそういう気にならないのだよな。夜にかんしていえば地元の道のほうがしずかで落ち着くからだろう。昼間もそっちのほうが性に合っているのかもしれず、(……)から職場まであるくほうがどちらかといえば気が引かれる。出るまでにはアイロン掛けをしたり、あとは一六日の日記をすすめて終えられれば御の字というところか。家賃もきょう、どこかしらでコンビニに寄ってもう払っておかなければ。ヤクがもうのこりすくないので、あしたは医者に行くつもりでいる。ひとまずそろそろ飯を食おう。きょうは通話でサラダをつくる暇がなかったので、ここで野菜を食う。


     *


 したは飯を食っているあいだに読んだ(……)さんのブログから。おもしろいはなしだ。「欲望とは要求の純-形式であること、つまり要求からそれを満たすすべてのもの——「内容」——をとり除いた後に残るものであること」という点にはなるほどなあ、とおもった。

 私はこの章を、カントの実践哲学の中枢にある駆動力(動因、または誘因)という概念を紹介することから始めたが、この駆動力とは、意志をその対象に向かわせる衝動に他ならない。確かにカントは、倫理的行為は駆動力を欠くと言っているが、同時に彼は、「真の駆動力」、純粋実践理性の「真の動因」なる概念を導入してもいる。そして、この意志の真の動因を駆動力の欠如としての純-形式として定義している。このように考えると、これはラカンにおける対象aという概念とあまり変わらない。対象aが表すものは、対象の不在あるいは欠如であり、欲望がそのまわりを循環するような虚空である。主体が要求していたものを手に入れ、身体的・心理的に満たされたとしても、欲望は欲望しつづける。それは要求が満たされた後でも消えない。主体がその要求の対象を手にした途端、まだ手にはしていないものを表す対象aが現れ、そして欲望の「真の」対象となるのである。
 ラカン精神分析における対象aと形式の関係については、欲望とは要求の純-形式であること、つまり要求からそれを満たすすべてのもの——「内容」——をとり除いた後に残るものであることを指摘すれば十分であろう。対象aとは形式を得た虚空である、と言ってもいい。ラカン曰く、「対象aは存在をもたない。対象aは要求の前提となる虚空である……。『それじゃない』[ザッツ・ノット・イット]という言葉が意味するのは、すべての要求の下に隠された欲望の中には、対象aを求める声以外の何物もないということである」。
(『リアルの倫理——カントとラカン』アレンカ・ジュパンチッチ・著/冨樫剛・訳 p.33)


 したも、これを読んでララングってそういうはなしだったのかとおもった。

 2020年9月15日づけの記事の読み返し。以下、片岡一竹『新疾風怒濤精神分析用語事典』より。

 70年代に入ると、まずそれまでの言語観が覆されることとなった。ラカンソシュールを参照しながら言語を分節化された構造的なものとして捉え、またそれを〈他者〉の場として、つまりさまざまな他者とのコミュニケーションの場として考えていた。
 こうした考え方は一般的な言語観ともマッチするものだろう。言語には文法という構造があり、それはコミュニケーションのために用いられるメディアだというものだ。だが、言語はこのように使われるだけではない。まだふつうの言葉を話せないような乳幼児を見てみよう。乳幼児は機嫌のよい時などに「アー」とか「ラー」とかいう声を出すが、これは文法に則っておらず、意味をなしていない。それは誰かにメッセージを伝えるためのものではなく、むしろそれを発することによって自体愛的なジュイッサンスを得るためのものだ。こうした乳幼児の言語を喃語 lallation というが、ラカンはそれに掛けてララング lalangue という概念を考え、それを言語の基本に据えた。
 ララングを中心に据えることでいかなる変化が生じたか。それは、言語の機能の原点がジュイッサンスを得るための機能だと考えられるようになったことである。かつて主体が言語の世界に入るということはジュイッサンスの喪失を意味していたが、ここではむしろ、ララングと出会うことによってそこからジュイッサンスを汲み出すのだと考えられている。一般的なコミュニケーションが成り立つためには、このララングをジュイッサンスの機能において使用することを一度中断し、文法を学んで構造化された言語の使用法を習得する必要がある。だがそうしたコミュニケーションとしての言語は後付けのものである。
 幼児が母親から受け取る言語はまずは単なるマークであり、そのあと別にシニフィアン(S2)がやって来ることで遡及的にシニフィアン(S1)になると述べた。この単なるマークが、ここではララングとして考えられている。ララングは構造化されていないので単一の S1 の群れ Essaim である(S1 と Essaim は発音がほぼ同じ)。そのため、ララングとはもはやシニフィアンではないとも言えよう(だがララングをシニフィアンに含めるか否かは議論の分かれるところである)。
(…)
 ララングの導入が明らかにするのは言語の自体愛性である。ララングは他者に伝えるメッセージではなくて自体愛的ジュイッサンスをもたらすもので、それが言語の根本にある以上、むしろコミュニケーションがファンタスムの作用でしかなくなる。日常のおしゃべりにおいても、私たちはそれぞれ自分が言いたいことを言って楽しんでいるに過ぎない。よかったら今度観察してみるとよい。誰かとお喋りしているとき、話題は常にずれていき、一定の到達点も何もなく、会話が終わるのはそれぞれが疲れた時でしかない。私は人と話していると時折、本当にこの人と話が通じているのだろうか、単に交互に発話しているというだけに過ぎないのではないかという疑惑に駆られることがあるが、ララングというものを考えれば、その疑惑はむしろ確信に変わる。誰かと話がかみ合うということは、その人と自分が同じようなファンタスムを持っているからに尽きる。「君とは話が合うね」と言いたくなる相手は、自分に似たところのある人である。考え方が異なり苦手な人と心を交わすべくさまざまなことを述べても骨折り損であったという経験は誰でもしたことがあるだろう。畢竟、人と人との間に充溢したコミュニケーションなど成立しえないのである。私たちは言語においても自体愛的な存在なのだ。
 よってそれまで〈他者〉の場と考えられていた言語は、むしろ〈一者〉 l’Un として捉えられるようになる。言語は〈他者〉ではない。なぜならそれがもたらすのはその主体自身の自体愛的なジュイッサンスでしかないからである。
(片岡一竹『新疾風怒濤精神分析用語事典』 p.149-150)

 ララングという概念の射程、ようやく少しばかり理解できた気がする。上でいえば、「日常のおしゃべり」の具体例は無視していい。というかこの例はあまりに卑近で、そのせいでララングという概念の可能性を見えにくくしてしまっている。論理的な水準における遡行の果てに見出される特異性、一者、自体性愛的享楽。ドゥルーズが「母語を外国語のように酷使するのが作家だ」(大意)みたいなことを言っているのも、特異性と一般性の破壊的接合として理解したほうがおもしろいかもしれない。少なくともジョイス(『フィネガンズ・ウェイク』)を語りうるいまのところ唯一の道具だとはいえそう。

 したはさらに、帰宅後の深夜、食事中に読んだ一六日付の記事冒頭からの引用である。これもおもしろいはなしだ。

 しかし、主体が心理的内発性から切り離された時、つまりこの心理的内発性もある種の因果律にすぎないことが明らかとなり、主体がただの自動人形[オートマトン]に成り下がったかと思われる時、カントはこの主体に言う——まさに今、君は君が知っているよりも自由である、と。言い換えるなら、自分は自律的な存在であると信じている主体に対して、カントは〈他者〉、すなわち主体の支配の及ばない因果律がはたらく次元の存在を主張する。しかし、主体自身がこの〈他者〉——何らかの法則、心的傾向、隠された動機——に依存していることを意識し、「もう、どうでもいい」と言って自分を投げ出そうとする時、カントはこの〈他者〉が隠しもつ「裂け目」を指し示し、そこに主体の自律性と自由を位置づけるのである。
 以上がカントの言う自由の概略であるが、我々はそこにラカンの有名な言葉、「〈他者〉の〈他者〉は存在しない」——言い換えれば、〈他者〉は完全な存在ではない、それはある種の欠如のしるしを帯びている——の反響を聞くことができる。カントは、原因の〈原因〉は存在しないと言っているのであり、まさにこのことが、主体に対して自律性と自由をもたらすのである。だから主体は、たとえ自分の行為が因果律によって完全に決定されたものであったとしても、(違うことをする自由があったと感じて)罪悪感に苛まれることになる。我々は、このように説明されるカントの自由の逆説を見逃してはならない。彼は、因果律を超えたところにある自由の姿を暴こうとしているのではない。そうではなく、彼は、冷酷にも因果律の支配を最後の最後まで突きつめることにより、この自由が姿を現すことを可能にしている。カントは、因果律による決定の内に、つまり原因と結果の間に、ある種の「躓きの石」があることを示す。そして、まさにそこにおいて我々は、厳密な意味における(倫理的)主体と出会うことになる。主体は、因果律による決定の中に生まれるのだが、この決定が直接的に主体を生み出すわけではない——原因とそれがもたらす結果の間の関係を可能とするような何か、「躓きの石」を越えて原因と結果を結びつける何かが、主体を生み出すのである。
(『リアルの倫理——カントとラカン』アレンカ・ジュパンチッチ・著/冨樫剛・訳 p.43-44)


     *


 サラダをこしらえて食事。食材は冷蔵庫のなかにのこりすくなく、野菜はキャベツ、大根、タマネギしかない。それらに豆腐をくわえて食べるほかはない。キャベツもそろそろ終わりかけていて、半玉のさいごのほうに来ているので、もう葉を剝かずにそのまま端からザクザクと落としていき、帰宅後のために半分くらいはのこしておいた。シーザーサラダドレッシングで食い、食後はソフトサラダ煎餅をばりばりやったうえに、先日ストアで買ったものの手をつけていなかったチチヤスのヨーグルトも食べる。なぜかふたつも食べてしまい、しかも皿を洗っているさいちゅうに、ヨーグルトなんかうまいなという謎の満足感があった。そのあとは一六日の日記を綴る。おぼえているのは職場のことだけなので、当たった生徒についてややったしごとにかんして、なにかの役に立つわけでない、ただ記録したいがゆえの記録を書き記し、済んだのが三時半すぎだったとおもう。そろそろ出勤に向けて準備をはじめなければならない。歯磨きはたしか書きもののまえに済ませてあった。真っ白なワイシャツ一枚にアイロンをかける。そのまえに窓辺に吊るしていた集合ハンガーの洗濯物を取ってたたんだか。レースのカーテンのすきまから保育園の建物上空に、白さに撒かれながらもちいさなひかりのかたまりと化した太陽が浮かんでいるのがみられていたのだが、このころにはそれもほぼなくなっていた。アイロンをかけたあとはちょっと屈伸とか背伸びとかして、そうして服をきがえてリュックサックに荷物も用意。時間があまったので五分足らず、椅子にすわって目を閉じた。たかだか五分でも目を閉じてじっとしていれば、からだはいくらかはほぐれておちつく。そうして出発へ。部屋と建物を抜けて道に出ると、暗くはないけれど空に雲がまだまだおおく、西陽の存在感もとおい午後四時の


     *


 いまもう二三日の夜九時半。上記は数日前の夜、たしか勤務後に書きはじめたのだけれど、疲労のためにやっぱり駄目だなと中断したもので、それから記憶もうしなわれてしまったしつづきを書き足すこともできない。この日の勤務でおぼえていることもそう多くはない。(……)
 (……)
 (……)
 (……)
 (……)


―――――

  • 「読みかえし1」: 456 - 465
  • 日記読み: 2021/9/19, Sun.

2022/9/18, Sun.

西脇順三郎訳『マラルメ詩集』(小沢書店/世界詩人選07、一九九六年)

●43~44(「施物」)(Aumône)
 この財布をとれ乞食よ、君は欺し取らなかった
 乳房を貪る老いた乳のみ子よ、一枚一枚の銭から
 君の弔 [とむらい] の鐘をしぼり出すために。

 この貴金属から何か奇異な巨大な罪をひき出せ
 僕等が腕一杯それを抱擁するような、
 それが体を曲げるほどそれを熱烈に称讃せよ

 これらの青楼は皆、香をたく教会だ
 晴れた青空を眠らせるタバコが壁の上で
 無言で祈禱をころがす時は、

 また強烈な阿片が薬屋を破壊する時は!(end43)
 衣裳と皮膚、君は繻子の肌を裂き
 幸福な唾液の中で安逸を飲み

 王侯のカフェーで朝を待ちたいか。
 裸の妖精とヴェールで飾られた天井のある、
 ガラス窓から乞食に一つの饗宴がなげられる。

 老いた神よ君が君の包装用ズックの衣の下で
 震えながら出て行く時夜明は黄金の酒の湖水
 君は誓う我が喉に星群あり! と。




 目を覚まして携帯をみると八時ごろ。昨夜からつづく雨降りの薄暗さである。カーテンの端をめくって空をみても、まぶたがなかなかしっかりとひらいてこない。胸をさすったりして過ごし、九時前に起き上がった。洗面所に行ったり水を飲んだりといつもの行動を取り、つけっぱなしで寝てしまったパソコンでNotionのきょうの記事をつくって、水を飲んでいるあいだにもう一年前の読みかえしをはじめた。それから寝床にうつってつづき。2021/9/18, Sat.に記されているニュース関連は以下。

(……)きょうは雨降りで窓外の景色が白くかすんでおり、空気は湿って薄暗い。新聞からはジャン=ピエール・フィリエみたいななまえの、フランスの中東史の大家だというひとのインタビューを読んだ。Jean-Pierre Filiuというひとだ。九一年からの三〇年を超大国アメリカが中東に介入したひとつの時代とみなし、それが終わったという認識でいると。湾岸戦争からはじまるわけだが、日本でかんがえると平成の道行きがほとんどそれとかさなっており、個人的にはじぶんは一九九〇年生まれなので、まさしく生まれたときからそういう世界、冷戦がいちおう終わってアメリカが唯一の超大国となり、世界の国々を民主化するのだという、前近代から近代にかけて海をわたっていったキリスト教宣教師たちの情熱的信念をおもわせる夜郎自大でもって中東地域に進出していった時代を生きてきたことになる。父親ブッシュからはじまってクリントンは外交音痴のくせに(とこのひとは言っていたのだが)積極的に介入し、オスロ合意をまとめはしたものの当初から賛否ありつつけっきょくその後は機能せずインティファーダを招くことになったし、二〇〇一年以降の息子ブッシュによる報復的ナショナリズムに鼓舞されたアフガニスタンイラクへの侵攻は周知のとおり、オバマもシリアが化学兵器をつかったときに毅然と対応できず腰砕けになって結果としてはISISの跋扈をゆるすことになり、ドナルド・トランプは撤退合意をまとめたけれど彼がかんがえていたのはむろんアメリカの都合だけで、撤退後にどうなるか、どういうとりきめにするかなど知ったことではなかったわけで、そうして九月一一日という象徴的な日付にこだわって撤退をいそいだバイデンはタリバン復権を防げなかった、とこうして概観してみるとここ三〇年のアメリカの中東政策は大失敗だったのではないか、という印象がやはりつよくなる。


     *


夕刊、一面に米国がアフガニスタンでおこなった空爆誤爆だとみとめたと。八月二六日にISISによるテロがあり、いちど報復の空爆をやって、そのつぎの二度目の無人機攻撃のことで(八月二九日に実行)、車両をつかったテロが計画されているという情報をつかんで八時間も対象の車を追ったあげくに攻撃に踏み切ったのだが、じっさいにはその車を運転していたひとはISISと関連のある人間ではなく、米国内に拠点をおく慈善組織に勤めている男性だったと。子ども七人をふくむ一〇人が巻きこまれて死亡。当初米政府は必要な攻撃だったと表明していたが、メディアの報道を受けて誤りをみとめるにいたったようだ。この件はたしかNew York Timesがまず報道したのではなかったか。New York Timesドナルド・トランプ政権期にも一件、あるいはそれいじょう、米軍の誤爆をあかるみに出していたおぼえがある。たしか被害者側への補償につながったのではなかったか? ぜんぜんこまかいことをおぼえていないが。

 先日、八月二八日に、「2021/8/28, Sat.は米軍のアフガニスタンからの撤退および市民らの退避輸送作戦中に起こった空港近くでのテロの続報を記している。夕刊を見て、「米軍が東部ナンガルハル州で無人機をつかってISISを報復攻撃したという。攻撃時、戦闘員は移動中だったとかで、さらなるテロのために準備をしていたのかもしれないとのこと」と書いているが、たしかこれはじっさいにはISIS戦闘員ではなくて、関係のない人間を誤って殺してしまったということがのちほどあきらかになっていたはずだ」と記したが、うえの情報によればこれは誤りで、この翌日の攻撃が無関係のにんげんにたいする誤爆だったのだ。
 前日にワクチンを打ったので、「LINEで「(……)」の三人に「お前ら!」と呼びかけ、「ワクチン受けてきたぞ。腕が痛え。これで俺もマイクロチップ搭載だ! 5G通信で政府のおもちゃと化すぜ」とふざけたのち、「だがそんなことより、これを聞け。めちゃくちゃええで」と言って竹内まりや "五線紙"のYouTube音源を貼っておいた」とも。したの描写はなかなかよかった。

五時まできょうのことを書いて上階へ。アイロン掛け。窓外の色は昼間とほとんど変わりなく、まだ暮れきっていないから薄暗いとはいえ昼のなごりがうかがわれて物々のかたちははっきりしており、雨もいまはやんでいるようで霞みに乱されていない白さのなかに、赤味と言っては誇張にすぎるもののなんらかの、褪せたような色味が混ざっているふうに映って、それが唯一、暮れ方の時をおもわせる。風はなく空気は停滞しているようで、かずかずの緑色もしずかにとまっている。手元の衣服にアイロンをかけ、海面をそのままこおりつかせて固定したようなこまかな筋の波打ちをできるだけ平らにならしつづける。アイロンをうごかしていると蒸し暑いので、とちゅうで扇風機をつけた。それからしばらくしてまた目をあげれば、川のほうでにわかに霧が生じていて、ほかは変わらずしずまっているのにそのぼやけた白さだけゆっくりながらも推移していくので、なんで急に発生したのか? 霧ではなくて煙だろうか、そのあたりの家でなにか燃やしているのだろうかとおもったが、樹々や家並みを越えまたそのあいだをとおって鈍重な巨大生物のようにすこしずつながれていく乳白色は、煙にしてはすぐに散らずむしろ移動した先で宙を濁らせ見えなくしているので、霧が生まれたのではなくて風が生じたのではないか、それでもともと川面のまわりに溜まっていたのがながされたのではないか、とすればまた雨が降りだしたのだろうか、とたちあがってベランダをあけると、伸ばした手のひらにたしかにぽつぽつ触れるものがあった。そのころには先ほど大気にふくまれていたわずかばかりの暮れの色味もすでに去り、あたりはいっそう沈んで気づけば白濁の気味も諸所に増しており、五時四五分を越えたころにはかすかに青さをおぼえさせるほどのたそがれとなって、暗んだ景色の先で山も上辺を白く塗られてかきまぜられて、ところどころで境界線をうしなっていた。

 二〇一四年のほうもたいした文ではないものを一日分読み、それから英語長文ハイパートレーニング3ののこっていた二課を読んでしまった。さいごのUnit 12は脳と精神の関係について書いた文章で、デカルトのれいのことばなんかも引かれているし、こりゃたいていの高校生が読むにはかなりむずかしいだろうなという印象。英語長文のあとはモーリス・ブランショ/粟津則雄・出口裕弘訳『文学空間』(現代思潮社、一九八六年/新装第二刷)もいくらか。いいかげん本もどんどん読んでいかなければならない。さいきんは停滞しすぎている。一一時前に離床して、椅子について瞑想。三〇分弱。鳩尾をよくさすっておくとやはりそれだけでからだが楽だ。雨音は窓のほうからだけではなく、階段にあたるはずの正面の壁の向こうや天井のほうからもいくらか聞こえ、焚き火にくべられた木片めいてパチパチとはじける音がそれぞれの間をはさみながらそれぞれの場所で移動することなくときどき発生し、そのあいまの空間はやわらかなスポンジで埋められつながれたかのような、その他の物音を吸収してしまうようななにかおだやかなしずけさがひろがっており、上階の部屋にいるのかいないのかひとの気配もつたわってこないし、窓外を走る車の音も、路上にかなり水が溜まって飛沫をおおきく散らしているような響きではあるものの、晴れの日よりもよほどちいさく距離を置いてあるように聞こえて、それもやはり窓から道までを埋め尽くしている降る雨の層が緩衝材となって音をころしてしまうのだろうか。きのうの夜に(……)駅で降り出したなかをあるきながら風がやや盛っていたので、台風でも来ているのか、そのかなりはやめの先触れかとおもったが、天気予報を見たところやはりそうらしい。瞑想を終えると一一時半ごろだったが、すぐには食事にうつらず、きのうひらいていたウクライナ関連のGuardianの記事を読んだ。Simon Tisdall, “What happens if Putin goes nuclear in Ukraine? Biden has a choice to make”(2022/9/17, Sat.)(https://www.theguardian.com/world/commentisfree/2022/sep/17/putin-nuclear-ukraine-biden-russian-forces-nato-kremlin)。それから立って食前にクソを垂れ、サラダをつくりにはいる。主食はきょうもレトルトのキーマカレーレトルトカレーばかり食っている。食事中も英文記事を読み、これ以後でSviatlana Tsikhanouskaya, “Putin’s ally stole my democratic victory in Belarus. Now the west must help us fight back”(2022/9/17, Sat.)(https://www.theguardian.com/commentisfree/2022/sep/17/election-belarus-russia-lukashenko-vladimir-putin-sviatlana-tsikhanouskaya)とDan Sabbagh, “Ukraine depends on morale and Russia on mercenaries. It could decide the war”(2022/9/17, Sat.)(https://www.theguardian.com/world/2022/sep/17/ukraine-depends-on-morale-and-russia-on-mercenaries-it-could-decide-the-war)のふたつ。
 食後は皿を即座に洗って、しばらくうえのDan Sabbaghの文を読んだり「読みかえし」ノートをこそこそ音読したり。太平天国の乱についてのニューズウィーク日本版の記事など。中国史もおもしろそう。その後歯を磨いた。洗濯をどうしようかなとおもったのだが、天気予報を調べてみるとあしたも雨なので、あした晴れればあしたやるところだがきょうもあしたもどうせ雨ならおなじだし、きのう着たワイシャツなどはやく洗いたいしもうやってしまうことにした。それで洗濯機をはたらかせながらきょうのことを書き出して、ここまで記して二時過ぎ。洗濯もさきほど終わったところ。またすこしまえに稲光が室内をひらめくとともにそこそこおおきな雷の落音がひびいたが、ここに来ていらいあれくらいちかい雷を聞いたのははじめてのことかもしれない。きょうは夜に通話。それまでにやっておきたいこととしては、(……)くんの訳文添削がまずある。先週できずに二つ分溜まっているので、両方でなくともひとつはやってあした渡さなければ。床もまた汚れているのが気になっており、とくに机の下のコットンラグが食べ滓とかでかなり汚れているので掃除もしたいがどうか。日記は一五日までは済んでいるので一六日いこうを書きたいが、きのうのことは書くことがおおくてたぶんもとよりきょうには終わらないからそう焦ることもない。あと口座振替手続きをおこたっていたために滞納してしまった九月分の家賃をできればさっさとはらっておきたいし(コンビニに行かなければならないのだが、この雨のなかそとに出るのも一興だ)、(……)(いとこ)から入籍してのお披露目会というか食事会へのお招きのSMSもきのう届いていたので(おとうとの(……)もここで入籍したらしい)、返信しておかなければならない。パニック障害で会食がこわいのですまんが欠席させてもらうつもりでいる。


     *


 この日曜日はあと夜九時から通話したことくらい。(……)
 (……)

2022/9/17, Sat.

西脇順三郎訳『マラルメ詩集』(小沢書店/世界詩人選07、一九九六年)

●33(「あの苦い休息に厭き……」(Las de l'amer repos))
 また賢人の唯一の夢にみられるような死の
 静かな落着で私は若々しい風景を選びましょう
 それを私は再び茶碗の上にぼんやり描くでしょう。
 すらりとした蒼白い蒼天の一線は
 裸の磁器の天空の間に一つの湖水になろう
 一つの白い雲に隠れた三日月は
 波の氷の中にその静寂な角を漬ける、
 三本の緑の大きな睫毛の蘆の近くで。




 八時ごろ覚醒した。布団をあいまいにのけて、目を閉じたまま鳩尾あたりをさすりだす。保育園の門だか扉が開く電子音がそとからは聞こえ、子どもの声もすこしあるが土曜日なので数はすくない。カーテンの端をめくって空の水色をみながらひとみの感覚をたしかにし、それからからだの各所をさすったりして八時四〇分くらいに起き上がった。しかしきょうはそのまま立たず、紺色のカーテンをあけるだけでもうChromebookを持ち、また臥位で脚を揉みながら日記の読みかえしをした。二日前からサボっていたので、まず2021/9/15, Wed.。このころもいまと変わらず日記が生に追いつかない問題をかかえており、だからこの一年変わっていないわけだが、以下のように述べている。「そもそも日記というのは日々記すものであり、ほんらいその日気になったり印象にのこったりしたことがらをさっと記す程度のものなのだから、当日内かせいぜい翌日までには書き終えているのがただしいありかたであって、一週間経っても一週間まえの記事がかたづいていないなどというのはまちがっている。ただのアホだ」というのはあまりにも正論すぎて笑った。

いまは帰宅して夕食や入浴をすませ、零時を越えたところ。風呂に浸かっているときに、日記もまた一向に終わらなくなっているし、毎日の記事に読書メモを取るのはやはりやめにしようとおもった。かなり糧になるとはおもうのだが、どうしても時間がかかりすぎる。あれのせいで本文を充分に書けないということもあるし。そもそも日記というのは日々記すものであり、ほんらいその日気になったり印象にのこったりしたことがらをさっと記す程度のものなのだから、当日内かせいぜい翌日までには書き終えているのがただしいありかたであって、一週間経っても一週間まえの記事がかたづいていないなどというのはまちがっている。ただのアホだ。アホであることも一興だけれど、もっと楽でたいへんでないやりかたでやっていかなければとあらためておもった。俺の生は生を記すことだけにあるのではない。なるべくたいへんなことを減らし、たいへんだけれど真にやりたいことにリソースを割けるようにしなければならない。したがって読書メモは犠牲にする。完全に取らないようにするのか、読書中に手帳にページをメモするのもやめにするのか、メモだけはしておいて気が向いたときだけやるようにするのか、などまだいくらか迷うものの、基本的にはやらない方向で。本を読み終えたあとの書抜きのみで行く。読書メモというより、本文にとりあげたり組み込んだりするくらい印象にのこった部分があったら、日記本文の記述として書いておく、という方針がやはり良いのではないか。書抜きは書抜きであり、日記ではないのだから、日記とは独立させてやっていくべきである。

 往路の記述はわるくない。

往路にすでに日なたはなくて林に接していれば道の上はすずしいが、左手の家並みのむこう、低みにあって見えない川も越えた先は山や町が浮遊するがごときおだやかな黄褐色をまだ寄せられている。公営住宅まえに出ればこちらでも陽の色がひらいて、ひかりのなかにはいればにおうような暖気がやはり暑い。前方にはカラスが一羽、路上の陽のなかにたたずんでおり、くちばしにときおりひかりを溜めて銀色に磨かせながらゆっくりすこしずつうごいてフェンスにのぼり、そこからさらに公団の棟のうえにバサバサ飛んでいって、それを視線で追いかけたところに頭上からもう一羽の鳴き声が降ってきて、見上げれば黒影の先の空は水色だった。坂道にはツクツクホウシの声がかろうじてのこっている。駅にはいると階段通路でもまぶしさが射してきて顔やからだを薙ぐのが暑く、ホームに移るとしばらく日陰で汗をなだめて、アナウンスがはいるとともに先頭のほうにゆらゆら移動した。

 2021/9/16, Thu.は冒頭の熊野純彦レヴィナス解説が目にとまる。

 だが、「感性的なものが固有に意味することがら」を、脱 [﹅] 感性化されたことば、知 [﹅] をかたどる用語でえがきとることはできない。それは、「享受や傷といったことばで記述されなければならない」。どうしてだろうか。まず「享受」(jouissance)という面からみておこう。
 感覚されたものは、さしあたり生きられるのであって、認識されるのではない。感覚そのものがただちに知であるわけではない。初夏の緑に目をやり、秋の夕日をながめるとき、「この葉の緑、この夕日の赤といった感性的性質を、ひとは認識するのではなく生きる」。「感覚するとは〈うちにある〉こと」であり、あたえられて在る [﹅2] ものにたんに満足 [﹅2] することだ。「感受性とは享受なのである [註127] 」。――だがそれにしても、感性的性質を生きる [﹅3] こと、純粋な感受性の次元にとどまっていることが、認識ではない [﹅6] のはなぜだろうか。
 たんなる感受性とは、「実詞を欠いた《形容詞》」を、「基体を欠いた純粋な質」を享受する [﹅4] ものであるからである [註128] 。空の青さ、風のそよぎ、光のかがやきは「どこでもないと(end212)ころから到来する」。しかも「不断に到来する [註129] 」。空の青さはなにかの基体 [﹅2] に貼りついたものではない。一瞬ふきわたり、吹きすぎる風は、存続する [﹅4] 実体ではない。光はふと煌いて、過ぎ去ってゆく。ひとはそれらのすべてをたんにひととき享受するだけである。そこでは同一的なものについての知、さまざまにことなって現出するなかでおなじ [﹅3] でありつづけることがらにかんする認識がいまだ成立していない。抜けるような青さや微かな風、あえかな光は、意味づけのてまえで [﹅4] 生きられている。
 《風景を味わう》(jouir d'un spectacle)、《目で食べる》(manger des yeux)といった表現は、たんなる「比喩」ではない(109/133)。食べ物を口にし、文字どおり享受するとき、現に享受へと供されているものは、咀嚼され、輪郭をうしなってゆく。食べる [﹅3] とは、享受されるものとのさかいめ [﹅4] を不断に抹消してゆくことである。だが、感覚的に享受することが一般に、「隔たりを食いつくす」ことなのだ(117/142)。空の青さにこころを奪われるとき、空はへだて [﹅3] られて、かなたにひろがっているのではない。私はふかい青さのなかに吸い込まれてゆく。凪いだ夏の一夕に吹きわたる風が、からだを吹きぬける [﹅3] ことをこそ、私は享受 [﹅2] する。揺らめく陽光に身をあずけているとき、光の煌きと私とのあいだに〈距離〉などありうるだろうか。
 享受のさなか、隔たりは「近さ」のなかで、「接触のなかで睡ろんでいる」(122/148)。この近さそのものは意識されることがない。近さがめざめ、近さが意識されるとき、近(end213)さはむしろ消失し、かえって対 [﹅] 象との隔たりが生成されているからだ。緑が葉の緑として [﹅4] 、赤が夕日の赤として [﹅4] 意識されるなら、〈近さ〉は〈隔たり〉に、享受は知に変容している。(……)

 (註127): E. Lévinas, *Totalité et Infini*, p. 143 f. (邦訳、二〇〇頁以下)
 (註128): *Ibid*., p. 173. (邦訳、二四三頁)
 (註129): *Ibid*., p. 150. (邦訳、二一〇頁)

 (熊野純彦レヴィナス――移ろいゆくものへの視線』(岩波現代文庫、二〇一七年)、212~214; 第Ⅱ部、第二章「時間と存在/感受性の次元」)

 ニュースも。

ほか、ブリンケン国務長官とオースティン国防長官がバイデンにアフガニスタンからの早期撤退はやめ、慎重に、何段階かにわけておこなうべきだと具申していたという。ワシントン・ポストボブ・ウッドワードウォーターゲート事件の報道者)がPerilという新著をここで出すというのだが、そこに政権の内幕がいろいろしるされているらしい。三月か四月くらいにこのふたりがバイデンに意見を述べていたとのこと。きのうの夕刊だか朝刊にはこのおなじ本の内容としてドナルド・トランプ政権時のこともつたえられていたはずで、いわく、政権の終盤、昨年一〇月ごろから、マーク・ミリー統合参謀本部議長(米軍制服組のトップ)がドナルド・トランプの暴走を危惧して中国側の高官に、米国が中国をとつぜん攻撃するという事態はない、もし攻撃することになっても事前に通知する、とつたえていたという。一月にトランプ支持者が米連邦議会議事堂を占拠した際にも、米国の状況は完全に安定しており心配はないと伝達したというし、また、選挙で負けたトランプが「正気を失っている」という判断をもとに、トランプが核攻撃の命令をくだしてもかならずじぶんを通すように、と部下に指示していたと。

ゴーヤを食べながら新聞の一面をすこし読んだが、北朝鮮がきのうの一二時半すぎに弾道ミサイル二発を発射していたらしい。日本海側の排他的経済水域内に落ちたと。変則的な軌道を描くミサイルで、いちど下降したあとに再上昇して飛距離が伸びるものらしい。そちらのほうが迎撃はむずかしくなるわけで、北朝鮮はさいきんこのタイプの開発をすすめているようだ。北朝鮮のミサイル実験によって漁船とか航行している船とか人間に被害が出たことって、たぶんいままでないのだとおもうけれど、万が一、偶然落下地点付近にひとがいて巻きこまれた場合、北朝鮮はどうしようとおもっているのだろう? そんなの知ったこっちゃねえということなのか、衛星とかで予想落下地点のようすをしらべてからやっているのか。もし仮に日本人が巻きこまれてしまった場合、日本国内のムードはまちがいなく北朝鮮をぶっつぶせぶっ殺せという報復戦争論のたかまりが支配するだろうし(たぶん、二〇〇一年のテロの直後のアメリカとおなじようなかんじになるだろう)、自衛隊はそれができないいじょう(もしかしたら安全保障関連法を拡大的に解釈して「存立危機事態」だかなんだかのたぐいと認定するかもしれないが)、米国に要請して頼るほかはない。米軍がなんらかの攻撃を北朝鮮にしかけたとして、そこで万が一金正恩が血迷って核兵器をつかったらもう終わりである。

 そして2021/9/17, Fri.はコロナウイルスのワクチンを接種しに行った日である。「そういえば副反応はたしかにあって、打った左腕が痛い。腕を伸ばしたり肩よりうえにあげようとすると痛む。筋肉痛にちかいかんじでもあり、たとえばボルトのようなものが組織や繊維のなかに無理やり埋めこまれて、ひっかかり妨害しているかのような痛みだ」とのこと。外出したのでなかなかよく書いており、ワクチン接種会場である体育館のようすとか詳細で、全体的にいきおいがあったので、往路から接種時のながれ、その後の図書館やシュナックの感想までながながと引いておく。

駅につくころにはやはり暑く、汗をかいていたので、ホームの先に行くとブルゾンを脱いだ。それで風を浴びつつ立ち尽くして電車を待つ。めのまえの線路地帯を越えたむこうは線路沿いの細道になっており、さらにその先は段があってなだらかにのぼるひろい土地が丘のふもとまでつづいており、おそらくそこの家のひとがいろいろ畑をやっているのだが、この日立った位置の正面では段の端でヒマワリが群れていて、といってもう時季を終えてことごとく花びらを落とし顔を黒いのっぺらぼうと化しながらうつむいた群れであり、葉っぱはまだ枯れながらものこっているものがおおいもののなかにはそれももはや腐らせて屍衣となした花もあり、うなだれの角度もより深いそれは根もとからいちばんうえまですべて焦茶色のほそくかすかな立ち姿で、総じてちからをうしないながらも倒れることを決してゆるされず、消耗の果ての死を待ちながら強制的な行進や労務に耐えている囚人のごとく映った。

     *

良い時間になったところで立って上階へ。トイレに寄った。いちばん端で小便をしているとあたまのすぐ左が窓になり、ひらいたそこからやはり風がつよくはいってきて顔が涼しい。改札をぬけて南側へ。こちらがわもかなりひさしぶりに来た。通路を行き、左に折れて階段をくだろうとすると下には小学生の男女らがいて、なんとかはなしたあと三、四人いた男児がてんでにおおきな声をあげながらバタバタ激しい動きで階段を駆けのぼり出し、それをしたで見ていた女児ふたりは笑ってからあとを追っていた。すれちがって降り、駅を出ると居酒屋の入口で店員がしゃがみこんで口になかばはいるようなかたちで掃除をしており、その先、ロータリーのまわりでは杖を一本ずつ両手について支えとしながら、腰のあたりからおおきく背をかがめて一歩一歩あるくだけでも難儀そうな老人がのろのろすすんでいた。その横をゆっくり追い抜かしていき、南へとむかう。(……)に行くときは曲がってしまうので、こちらのほうに来るのはほんとうにいつぶりかわからない。体育館をおとずれた記憶が成人式のそれしかないのだが。もしそれが最後だとすると、もう一一年まえということになる。さすがにそのあといちどくらいはなにかで来た気がするのだが。南へ伸びる道の脇にはサルスベリがそれぞれ白と紅の泡を枝先に湧かせている。交差点の横断歩道でとまると、飛び立ったカラスが宙をわたって正面の、(……)自動車の店舗の最上、おおきな看板のうえに降り立ち、それをしばらくながめていたがカラスは奥のほうに行って見えなくなり、視線をおろせば店内では母娘なのか中年女性と若い女性がテーブル席についている。右方、西空のほうに目を振ると遠くにはまだしも淡い水色が見えないでもないが、頭上付近は灰と白の混ざった雲でなめらかに覆いつくされ閉塞されている。信号が変わると渡り、ひきつづきのろのろとした足取りですすむ。そのあたりには意外とカフェとか飯屋が数件ならんでいて、こんなところにこんな店があったのかとおもったが、体育館で運動をしてきた帰りの客をつかまえようということだろう。

体育館に到着。看板にしたがって入る。入ってすぐ右に折れた先、スポーツホールでワクチン接種がおこなわれていた。中学校のときに卓球部だったのでその当時はけっこう卓球をやりに来たが、それ以降ホールに来たのはマジで成人式しか記憶がない。ホール入口にちかづいていくと女性スタッフがまだ距離のあるうちからこちらをみとめてうごきだし、あいさつを送ってきたのでこたえかえし、あちらへすすんで検温をと左手をしめすのでそちらに折れてまっすぐ、すると棒の先にスマートフォン的な小型機械をとりつけたかたちの検温機がいくつか設置されているのでやや身をかがめて顔をちかづけ、36. 4の表示を得た。その先には椅子がならべられた一角があり、案内のスタッフがここの列で奥にずっと詰めてすわってくださいというのでそれにしたがって奥へ。とちゅう、消毒済という表示のあるバインダーが置かれた一席があった。こちらのひとつ先、左隣にすわっていたひとは、さいしょちかづいたときなんだか目つきが悪いというかにらみつけてくるような印象をえたのだが、べつに敵意があったわけではないとおもう。よく見なかったがこのひとは外国人だったらしく、たしかにすこし浅黒いような肌色をしていたおぼえがあるが、マヌエルだったかなんだかそんなふうな名が聞こえたので、たぶんスペイン系だったのではないか。椅子に座ると文庫本をとりだして読みながら待つ。まもなくスタッフが来て声をかけてきたので持ってきた書類をバッグから用意。身分証明のパスポート(父親が定年になって保険証が回収されたのでいまこれしか手軽な身分証明がない)と、事前に記入してきた予診票と、封筒でおくられてきた接種券。その三点をわたすと女性スタッフがバインダーにはさんでまとめてくれ、予診票を見ながら先ほどはかった体温を聞いてくるので(家でも測って37.0の値を得ていたが、いちおう空欄にしておいたのだ――しかし、家で測ったときとここで測ったときと、数値が違いすぎないか?――たぶん、腋で測るのと距離を置いて額で測るのとでけっこうちがうのだとおもうが――さいきんはストレッチやマッサージをよくするようになったので体温が上がり、だいたい36. 8か36. 9くらいにはなる)こたえ、その他はOKらしかったので日付と署名を記入するようもとめられた。きょう、ボールペンはお持ちですかとたずねられて、手帳をつねにたずさえているので持っていたのだが、なぜかお借りしてもいいですかとこたえてしまい、すると職員はもっていた消毒ティッシュみたいなやつでペンを拭いてからわたしてくれたので、日付となまえを記入、それでひとまずの手続きは終わりだった。この中年以上の年齢だった女性スタッフはけっこう自信がなさそうというか、なにひとつ失態をおかしてなどいないのにつねに申し訳無さそうに焦っている、というかんじの声色や振る舞いをしたひとだった。

待っているあいだにホール内のようすや各区画の配置を見回したので記述しておくと、横にながいかたちの長方形として俯瞰したとき、いちばん右下の付近がはいってきた口であり、そこから下辺に沿って左には観客席があって、その脇をとおるかたちで検温機まですすみ、その先、ホール内の左方に椅子がならんだ待合スペースがもうけられていた。椅子の列は、きちんと数えはしなかったが、たぶん一〇列かそれに満たないくらいだったのではないか。こちらが来たときには五列目かそのくらいから埋まっていて、じぶんはたぶん六列目か七列目あたりについたのだとおもう。それで順次呼ばれてひとが減っていくと、こんどは空いていた先頭の列から来たひとがとおされて、というかたちだった。待合スペースの正面、上辺は舞台になっているがそのまえには書類を詳細に確認する区画があって、長テーブルに何人かのスタッフがついており、そこから右にすすみ、さらに右に折れてさいしょの入口付近にもどってくるかたちで各段階が用意されており、それらを通過していくことになった。ホール内にはおおきな扇風機もしくは送風機がいくつか設置されていたようで、座っているあいだこちらの背後からも風が来ていたが、見上げれば高いところをめぐっている窓はひらかれず黒い暗幕で閉ざされており、また左右の壁にはおおきな筒状の口、その開口部に縦横の格子がわたされさらにそのまわりをケースめいておおわれている口がいくつかあって、あれは換気扇もしくは換気口なのか、そうだとしていま機能しているのかは見分けられなかった。

しばらくして高年の男性スタッフが、ひとりずつ、お待たせしました、どうぞ、とうながしはじめたので本をしまい、じぶんも立って前方へすすむ。まずやはり年嵩の女性にバインダーを出して接種券をコンピューターに読みこんでもらい、名を言われるのではいと応じ、そこから右にはいって長テーブルの問診へ。あいては女性。ここですでにいくらか医師めいた雰囲気がないではなかったのだが、この区画のひとはたぶんまだ医師ではないとおもうのだが。あるいは医療スタッフだったのか? ふつうに市などの職員だとおもうのだが。女性はパスポートをひらき、しばらく迷うようになり、それから身分情報を指で追いながらこまかく見ていたのだが、住所が確認できるものってお持ちですか? と聞いてきた。それでパスポートに住所がしるされていないことに気づいた。パスポートなどぜんぜんこまかく見ていやしないし、まったくかんがえていなかった。いま見てみると、いちばんうしろに所持人記入欄というページがあって、ここを書いておけば良かったのだろう。しかしこのときは知らなかったので、いちおう探すそぶりをしながらも、住所はないかもしれないですね、とつぶやくと、じゃあいま口で行っていただければ大丈夫です、となったので姿勢をなおし、住所情報を暗唱してOKとなった。あと、さいきん医師の診察を受けましたかみたいな質問のしたに、かかりつけの医師からワクチンを接種して大丈夫だといわれましたか、みたいな質問があって、医者に行っていないから言われるもなにもないのだがとおもいつつよくわからなかったので「はい」をチェックしていたのだが、そこは「いいえ」に直された。それで通過して、医師の問診へ。医師は今度は簡易テントというか、半分くらい白い幕でかこわれ区切られたスペースにおり、そのてまえで若い男性スタッフがまちかまえていてバインダーを受け取り、角度の関係上こちらからはまだすがたの見えない医師に対象者が来たことをおしえ、それからこちらが着席する。しかし問診は一瞬で終わった。医師は髪が灰色になったやはり年嵩の男性で、すこし(……)先生に似ていないでもなかったが、すわったこちらを見て体調悪くないですね、と確認しただけで、あとは予診票をさっと見てすぐさま署名をしていた。やっつけ仕事じゃないか。しかしじっさい問題はないので署名をもらうとつぎに進み、ついにワクチン接種だが、そのまえにも先ほどよりもすくなめではあるが番号の付された椅子のならんだスペースが用意されてあり、座って少々待った。先ほどの俯瞰図でいうと、ここは室の右上の付近である。椅子のなかには男性スタッフがひとりおり、ワクチン接種所があくとつぎのひとに声をかけてうながす役目と、医師の診察を終えてきたひとにむけてわかりやすいよう手をあげ、何番の椅子にお願いしますと誘導する役目を果たしていた。ワクチン接種スペースはAからDまで四つもうけられていて、こちらが受けたのはたしかCかBだったがどちらだかわすれた。接種所は先ほどの医師の簡易テントとおなじようなかたちで、待っているひとからはなかのようすが見えないように配置されており、すすんで角を曲がると荷物を置く用の椅子がいくつかあり、その向かいにもろもろの道具が置かれていて医師用と接種者用に椅子がひとつずつあるという感じだった。ここでの担当は比較的若い、三〇代か四〇そこそことおもわれた女性で、柔和で人当たりが良く、はいっていくと荷物をそちらに置いていただいて、打つのは左腕でいいですか? と聞いてきた。了承して鞄を置くとともにブルゾンを脱ぎ、Tシャツの左腕をまくって上腕を出して椅子に座ると、女性はすぐに用意をして打ってくれたのだが、そのさい、声のかけかたが、肩の力を抜いてくださいね~ではなく(丁寧な命令法)、肩の力を抜きましょうね~でもなく(誘いの文言をつかったうながしで、ここまでは発話者と呼びかけられたひととは確実に分離しており、一人称の主語が想定されるとしてもそれは複数(「(私たちは)肩の力を抜きましょうね~」)でしかなく、したがっていまだ主語の複数性がなりたっている(話法上、呼びかけられる「あなた」の位置と存在は消え去ってはいない))、肩の力を抜きますよ~というかんじで、こちらが主体である行動についてあたかも彼女自身が主語であるかのように呼びかけてやわらかくうながす、という話法をもちいていたので(ここにおいて呼びかけているひと(「わたし」)と呼びかけられているひと(「あなた」)の分離はあいまいになり、「わたし」が主体としての「あなた」の位置にはいりこみ(つよく言えばその位置に侵入して地位を奪い)、いわば主語を肩代わりしてあらかじめその行動を代弁することで誘導するような言い方になっている)、これはふだん子どもか老人(つまり、主体としての確立がまだ不十分であるか、心身のおとろえや認知症などによって主体の確立がみだれてきたあとのひとびと)をおおくあいてにしているのではないか、とあとでおもった。看護師というのはわりとみんなそうなのかもしれないが。

丁寧な命令法(「肩の力を抜いてくださいね~」)では「わたし」が主語になることはできない。誘い - うながし(「肩の力を抜きましょうね~」)では、「わたし」が主語になることはできないが、「わたしたち」はいちおう可能である(おそらく英語でいうところのShall we的な誘導?)。「肩の力を抜きますよ~」では、文言だけを取ってみると「わたし」も「あなた」も平等に主語の位置を占めることができる。この場面ではこのことばがめのまえの対象であるあいて(すなわちワクチンを接種しているこちら)への呼びかけとして投げかけられているので、明言されていない暗黙の主語は「あなた」であるはずだが(おそらく、催眠術師的な話法に近い(「あなたはだんだん眠くなる……」))、しかしそこで「わたし」の影が潜在的可能性として同時につきまとっているため、観念的混線が起こるか、すくなくともそれが起こりうる余地が生まれる。主語の座が即座に直接的に「あなた」に収束するのではなく、選択肢が二つあることで、言表理解および主語決定プロセスにおいて一段階の余剰というか幅が生じ、そこにひらかれた中間的な余地のなかで「わたし」と「あなた」が癒着してかさなりあうことになる。こういう事態そのものの意味解釈や各人にあたえる印象はさまざまなものでありうる。たとえばこの看護師(ワクチン接種スタッフ)の側にフォーカスすれば、彼女はじぶんが接するあいての気持ちや立場に(まさしく)「なる」(それを肩代わりする)ということを言語上で実践していることになり、そういう姿勢はおそらく医療現場においてつねに不可欠なケアの作法のひとつだろうし、このひともふだんからじぶんがはたらく職場でそういう言葉遣いや振る舞いをこころがけているのではないか。その作法を受けるあいて(この場合はこちら)からしてみれば、ものすごく大げさに言えば、主体としての自分の地位が侵害され奪われた、という感覚が生じるということも、完全にありえないわけではないとおもう。じぶんの「わたし」が他者によって言語的に先取りされ、奪われ、まぎれもなく「わたし」に属する述語であるはずなのにそこに「わたし」がいない、ということになる。もしこういう場面で被発話者が違和感をおぼえるとすれば、それはおそらく主語と述語の関係におけるそのずれが原因である。これはあくまで主語が明示されない日本語のやりとりにおいて成立している事態であり、「あなたは肩の力を抜きますよ~」と二人称「あなた」が明言されれば、その時点で「わたし」(発話者)と「あなた」の分離は決定的に確立するから、そうした混同的な違和感は生まれない。主体の混線には潜在性という余白的領域が必要なのだ。

注射自体はまったく痛くなく、ほとんどちくりともせずに一瞬で終わったので、めちゃくちゃ簡単っすね、と笑うと、女性は、そうですね~、でもあしたあたり痛くなるとおもいます、とこたえ、だいたいみんなそうなっていると言った。それですぐ終え、礼を言って退出するとまた職員のみちびきにしたがってつぎの区画の椅子についた。長方形の右上からすこし下に移動したあたりだが、ここはなんの役目を果たしていたのかよくわからない。待つ人間がすわる椅子のむかいには長テーブルが用意されてそこに職員が何人かついており、実質予診票に接種券を貼りつけるくらいの仕事しかないような気がするのだが、いちおうたしかに接種したということを確認し、認定する、ということなのだろう。ここに座っているあいだかその前後、たしかワクチン接種を終えて出てきたあたりだった気がするのだが、なにかドシーン、というかんじの鈍い音がひびいたあと、甲高いホイッスルが聞こえ、なんだとおもっていると担架が出てきたので、どうやら接種を終えて待っているひとのなかに倒れた人間がいたようだった。よく見えなかったが、たしかにならんだ椅子のなかにひとつ、たおれているものがあった。こちらはそことは違う待合スペースにとおされた、というのは先ほどたおれたひとがいたあたりは二回目の接種後の区画で、それは長方形の右半分のうち中央にちかいあたりだが、こちらは一度目なので入口にちかい右下の端のあたりに誘導され、長方形の右辺を正面としてならべられた椅子のひとつに座った。待ち時間は三時四二分までだった。しばらく渡された用紙にかかれてある注意事項(アナフィラキシーショックや、迷走神経反射によって気分が悪くなったり意識をうしなったりすることがありますとか、副反応としてどのようなものが出やすいか、といったことだ)をまじめに読み、それからふたたびシュナックを書見。そのうちに年嵩の女性がやってきて、まだ説明されてないですよね? と、つぎつぎやって来る接種者に追いつかない疲れと焦りをあらわにしながら問うてきたので肯定すると、こちらのうしろに座った女性といっしょに、用紙をよく読んで注意すること、またこのあと待ち時間のあいだにつぎの予約についてはなしがあり、紙をわたすので持ち帰ること、などを伝達された。待っているあいだいちどだけ、とつぜん顔が熱くなってやや息苦しさをおぼえ、やばいか? とおもったときがあったのだが、これは気持ち悪くなるかもしれない、倒れるかもしれないという可能性によって一時的に緊張しただけのことだったのだろう。要するにパニック障害のかすかななごりで、なれ親しんだ事態ではあったし、すぐにおさまった。

二度目の予約はサイトを見たときには一度目を終えてからとあったのでもういちど取るのだとおもっていたが、もう自動的に三週間後のおなじ時間に設定されるというはなしがその後あり、一〇月八日金曜日の一五時からと記された用紙が全員に配られた。周囲でこちらと同様に待っているひとびとのあいだには、本を読む人間は少数派だとしてもスマートフォンを見ている者も意外とすくなく、手になにも持たずなにもせずにただぼんやりと時間がすぎるのを待っているひとが多い印象だった。四二分が来ると知らされたので立ち上がり、ひかえていた職員に礼を言って退出。退出口は入口とはべつで、入口をはいってすぐ右手の、右辺の壁から、というかたちだった。そこからそのままそとへと通じていたので出たところで、救急車がサイレンを鳴らしながら体育館のまえにあらわれ、とまった。先ほどたおれたひとを搬送しに来たのだろうかとおもい、喉がかわいていたので先ほどはいったときの入口脇にある自販機に目を留めてそちらにちかづいていったのだが、それはじつのところ、救急隊員のうごきを見物したいという野次馬根性によってなかば意図的にその場にとどまる理由をつくり、時間をかせいだかたちだった。雨がぽつぽつ降りはじめているなか、自販機に寄って見たが、やはりとりたてて飲みたい気になるものもなく、救急車にほうに視線をおくりながら帰路のほうに向かいはじめると、隊員たちは意外とのんびりしていて、車のうしろから担架をおろしてキャスターつきのそれを押しながらあるきはじめた三人はまったく急ぐようすもなく、日常的な悠長さそのもののスピードで体育館にむかっていった。

来た道を駅へともどる。あるくあいだ、陰謀論者にいわせればこれで俺もマイクロチップを埋めこまれて政府に管理される愚民の一員となったわけだが、まずもってワクチンとともにマイクロチップが体内にはいりこんだとしてそれはどこにとどまることになるのだろうとか、そのマイクロチップはどのくらいの大きさと想定されているのだろうとか、そういった極小の(ナノレベルの?)高度技術はそもそもいま可能なのか、可能だとしてどれくらいのことがそれにはできるのか、「管理」というけれどその「管理」とは具体的にどういうことなのだろう、人体のデータを収集するとしてどのようなデータが送られるのだろう、位置情報とかなのか? などもろもろの疑問が湧いて、陰謀論支持者はそのあたりをどのくらい具体的にかんがえているのだろうな、とおもった。たぶんそんなに具体的にかんがえられてはいないのではとおもうし、そんなに具体的にかんがえてられてはいなくても(ことによるとそれがゆえに)信じることが可能なのだろう。駅前につづく通りの途中には茶屋が一軒あり、行きにもちょっと目に留めていたが、帰路は住居とつながっているらしいその店舗の横で男女の幼子がふたりしゃがみこんで遊んでおり、おそらく店主か店番だとおもわれる年嵩の女性がすぐそばで水道からバケツに水を汲むかなにかしていた。駅前ロータリーにはいって行っていると前方に、来たときにも見かけた老人、両手杖で背がおおきく曲がりあるくのが難儀そうな老人を見つけて、あれはさっきのひとじゃないかと見れば老人はゆっくりタクシーに乗りこむところで、どうもすぐむかいの薬局から出てきたらしく、その隣には「(……)」という医院があるので、行きに見かけたときはここの医者にはいるところだったんだな、それで診察を終えて帰るところなのだろう、とはかった。駅舎にちかづきながら、それにしてもやっぱり外出して町に出るとそれだけで書くことがむこうから勝手にいくらでもやってきておもしろいなあ、毎日それだと書かなければならないことが多くなりすぎてきついが、とおもった。

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ひさしぶりにここまで出てきたついでに図書館に寄っていくつもりだった。特に借りたい本といっておもいつかなかったが(強いていえばウルフ『波』の新訳くらいだった)、新着図書や入荷本を見ておきたかったし、また見ていて借りたくなったときのためにいちおう図書カードは持ってきてあった。それで駅の北側へ。高架歩廊に出てすすむ。前方にはカーディガンを羽織ったすがたの男子高校生がふたり、特有の気楽そうなようすでいたが、すぐにコンビニのほうにおりる階段に折れていった。(……)の建物は、北へ伸びる表通りに面してながくつづく側面がすべてシートで覆われそのなかに足場が組まれてあり、なにか改装をするもようだった。ビルにはいって手を消毒しながら図書館のゲートをくぐる。いぜんは入口で図書カードを見せて職員に確認してもらい、滞在は六〇分までなので時間のかかれた紙を受け取っていたのだが、いまはもうそういう対応はなくなったようで、入口付近にはだれもおらず、自由にすすんでいけた。CDの新着を一瞬だけ見て(崎山蒼志のなんとかいうアルバムがあったはず)、上階へ。新着図書の文学や小説のところにもなにかしら目に留めて手に取りひらいたものがあったはずだが、と書いておもいだしたが、作品社から出ているジェスミン・ウォードのあたらしい翻訳があったのだ。ジェスミン・ウォードという作家についてはなにも知らないが、『歌え、葬られぬ者たちよ、歌え』というタイトルが格好良くて書店で目に留め、名をおぼえていたのだ。ほか、岩波文庫では熊野純彦が訳したカッシーラーの『国家と神話』だったか『国家の神話』だったかそんなやつがはいっていたし(カッシーラーカントーロヴィチがなぜかいつもごっちゃになりがちなのだけれど、たしかカッシーラーだったはず――『王の二つの身体』がカントーロヴィチであることは明確におぼえているのだが)、三島憲一などが訳したベンヤミンの『パサージュ論』の何巻目かも二冊はいっていた。そのほかはわすれた。エリザベス・ボウエン小説集、みたいなやつが一冊あったのはおもいだした。新着図書の見分を終えると哲学の区画に行ったが、ここにはあまり目新しいものはない。ふりむいて精神分析のあたりも見てみると、松本卓也がなんとかいうひとと共訳したなんとかいう学者の『HANDS』という本があり、これはなかなかおもしろそうだった。手というものの社会文化的な歴史記述みたいなかんじだったよう。出版社はたしか左右社だったはずで、いちばんうしろのほうにティム・インゴルドの『ラインズ』となにかもう一冊、さらにレベッカ・ソルニットの『ウォークス』が広告されているページがあって、これらもまえから気になっている書物ではある。

海外文学へ。そのまえに日本のエッセイの区画のさいごのあたりを見たところ、古典の日記文学の註釈集成みたいなシリーズがあったり、近世紀行文集成みたいなやつもあったりでこれらも興味を惹かれる。註釈集成はかなり専門的だろうからともかくとしても、古典紀行文集成みたいなやつはふつうに読みたい。そこからずれて海外文学のほうにはいっていくと、最初はアジアや中国なのだけれど、ここに赤い本の漢詩集(たしか集英社だったような気がするのだが――一巻目の出版年は一九九六年だったとおもう)が何冊もならんでいて、腐っても日本、腐っても図書館だなと称賛した。漢詩集のほうが、『失われた時を求めて』よりも冊数多く棚に出ている(こちらは鈴木道彦が訳した集英社の水色の単行本で二巻目までしか書架には出ていない――むかしはもっとならんでいたのだが――とはいえ、岩波文庫版はたぶんぜんぶ出ているはずだ)『楚辞』も『詩経』もふつうにあったので、さっさと読みたい。とはいえ全集だとやはりたいへんだから、まずはやっぱり岩波文庫ということになってしまうか。それかアンソロジーのたぐいか。はるかむかしに一冊だけ入門書みたいなものを読んだことはあるが、なにもおぼえていない。

そのまま横に移行していって英米文学のはじめのあたりに来たところで、村上春樹が訳したレイモンド・カーヴァーの詩集とか、マーガレット・アトウッドとか、ニール・ホールという黒人詩人とかに目が留まって、詩を読もうという気持ちになった。それでまずこの三冊を借りることに。マーガレット・アトウッドが詩も書いているとは知らなかったが、『サークル・ゲーム』というのがあったのだ。そしてまちがえたが、借りたのはレイモンド・カーヴァーではなく(村上春樹訳のそれは三冊あって、それも多少目に留めはしたが)リチャード・ブローティガンブローティガン 東京日記』だった(平凡社ライブラリー福間健二訳で、いぜんから良い評判はたまに見かけている)。あと『ただの黒人であることの痛み ニール・ホール詩集』というやつで、このひとはかなりさいきんのひとのよう。詩は五冊くらい借りようとおもった。そんなに借りて、期限内に、読み終えるのはともかく書抜きまで済ませられるかこころもとなかったというかほぼ無理だろうが、勢いにまかせてとりあえず借りるだけ借りようというわけで書架のまえを移っていき(ウルフの『波』新訳はなかったので誰かが借りているらしい)、ドイツまで来たところで神品芳夫訳の『リルケ詩集』を借りることにした。土曜美術出版とかいう会社が出している世界現代史文庫みたいなシリーズの一冊で、これはそうとうにむかしにいちど読んだことがあるが、もういちど読むことにした。あとはひとり、日本の詩人をだれか借りるかというわけでいったん棚のあいだを抜け、日本の詩の区画へ。見ていき、須賀敦子と、高見沢隆だったか、『ネオ・リリシズム宣言』というやつがわりと気になったのだけれど、今回は須賀敦子に決定。だから日本人とはいっても海外文学にだいぶちかい日本人になってしまった。『主よ一羽の鳩のために』という河出書房新社の本で、クリームっぽい薄水色のカバーで端正な、こじんまりとまとまった瀟洒な小家みたいなすてきな雰囲気の書である。

     *

それで機械で貸出。トイレに寄って放尿すると退館へ。あとのことはとりたてておぼえていないし、面倒臭いので省略しようとおもう。(……)のホームにやはり風が盛んでよくながれさわいでいたのと、シュナック/岡田朝雄訳『蝶の生活』(岩波文庫、一九九三年)をこの日で一気に読み終えたことくらい。借りてきた詩集をはやく読みたかったからである。シュナックのこの本はまあまあというかんじで、マジで蝶好きすぎでしょ、というものだが、記述じたいはたぶん典型的にロマン派的なものだとおもわれ、つまりいかにも文学的、というかんじの比喩や描写が多く、そしてことばえらびとしてそのロマン派の典型性からはみだす瞬間はほぼなかったとおもう(それでもメモしようとおもう比喩などはいくらかあったが)。特徴的なのは蝶の存在をつねに太古とか悠久の時みたいな人間未然の歴史とむすびつけたがることで、翅の模様や色はそういう時を反映していると想像され、またいっぽうで、非常に頻繁に自然や地理的様態(太陽とか、夜とか、月とか、島とか、海とか)になぞらえられる。だからシュナックにとっては蝶の翅のなかに地球の歴史が刻印され自然の縮図があらわれているような印象で、具体的な箇所を多少ひいておくと、たとえばまだ個々の種の記述にはいるまえの総説的な「蝶」のさいごのほう(21)で、「物の本質を見通す眼の持ち主には、蝶の羽の多様な斑紋や、神秘的な翅脈の文字が、何万年にわたる地球のさまざまな体験のしるしであることがわかるだろう」とか、「氷の光に彩られた蝶もいるが、それは氷河の流れが反映したものにちがいない……」とか言われている。この後者のひとことは「蝶」のさいごの一文だが、そこからページをめくると具体的な蝶種の記述に移行して「コヒオドシ」のパートがはじまり、そのさいしょは先の一文を受け継ぐようにして、「コヒオドシは、その緑色の血の中に壮大な地球創成時代の記憶をもち続けている蝶のひとつである。コヒオドシは氷河時代とその短い夏を忘れることができない」(22)ということばからはじまっている。で、類似の部分はその他もろもろあるのだけれど、一気に飛んで終盤(「ヒトリガ類」の章)に、こういうメタファー的認識、メタフォリカルなかさねあわせをより直截に、まるでまとめのようにして述べた一連の箇所と、その中核となるべき要約的一語があって、その一語とは「神秘説」(311)である。いわく、「大きなものが小さいものの中にあるように、天上の世界が地上にあるように(……)太陽が地球にとって代わるように、星々の形が、星々の色が、星々の出会いが蛾の羽の秩序と天空の中に織り込まれたのであろう」(309~311)というわけだし、そのつぎの段落では火星、水星、金星等々と、それぞれの星の色と性質がどのように蛾の羽に反映されているか、想像的記述の具体的な展開がなされ、そのあとで行が変わるとそのはじめに、「このようにして宇宙の刻印を押された蛾」(310)という縮約的一節がある。その段落のさいごで、「もしも私が私のささやかな蛾の神秘説を語ったならば、親方は首を横に振ったことであろう」(311)と「神秘説」という語をつかって一連の記述がまとめられるのだ。「親方」というのは蝶の絵を描くのが非常に巧みなガラス職人の親方で、シュナックの蝶仲間のひとりなのだが、手工業者ということはおそらくそんなに抽象的思考になじんでいなかったと推測され、シュナックもそういう認識でいるようで(面倒臭いので引かないが、全篇のしめくくりちかくにもその傍証がある)、だから彼はこういう「神秘説」には「首を横に振っ」て、否定の態度か、よくわからない、理解できない、という反応をしめすだろう、ということではないか。ちなみにシュナックの主要な蝶仲間としてはもうひとり、レアンダーという蝶博士が出てきて、このひとは博士と言われているとおりじっさいの専門的学者のようだから、インテリである(ちなみにおもしろいことに、このひとの弟はビジネスでアトラス山脈のほうに行ったときに現地のベドウィンの族長と懇意になり、族長の死後その地位を継いでベドウィン族の一員になったといい、そこからめずらしい蝶をレアンダーにおくってくれるというはなしだ)。全篇はそれぞれ独立した関係としてかたられていたこのふたりがシュナックをあいだにはさんではじめて邂逅し、レアンダーの屋敷の温室ではなしたり蝶を見たりする挿話でしめくくられている(そのあと、「あとがき」として蝶の研究に心血をそそいできた先人たち(そのひとりめはアリストテレス)の紹介がみじかくあるが)。全篇は三部にわかれており、第一部は「第一の書 蝶」、あいだに間奏曲的な、蝶をモチーフにした幻想譚みたいな小物語が三つはいり、後半は「第三の書 蛾」で、種別に章が用意されているのでわりとどこから読んでもいいタイプの本ではあるが、ただ完全に断片的というわけでもなく、うえに触れたように全体の認識的基盤は統一されて冒頭と終盤ちかくで対応しているし、ある章の一部がべつの章の一部やまえに出てきた挿話を参照することもあるし、一連のエピソードのとちゅうで章が変わってべつの種の説明にうつることもあるし、終わり方も意をこらしてあるから、意外と物語的な構成や連続性は考慮して書かれたのだとおもう。あと、蝶についてはわりとどの種も記述が詳しくて、翅の模様の配置や構成を詳細に書いたり、それにまつわる体験的挿話をはさんだり、幼虫や蛹についてつらつら説明したりするのだが、蛾の部ではなかばをすぎたあたりから記述が簡素化してやっつけ仕事みたいになってきて(一、二ページでさっと終わるものが多くなる)、そこから多少もちなおしてさいごにつながる、というかんじなのだけれど、やっぱり蛾については基本夜のものだからあまり見たことがなくて情報がなかったり、単純に蝶のほうが好きだったりしたのだろうな、とおもった。

 一〇時をまわったあたりで離床。顔を洗ったり用を足したりといつもの行動連鎖を取りつつ、洗濯機も準備して服をあらわせはじめた。注水のあいだとか、蒸しタオルを電子レンジでつくっているあいだとかは屈伸をして脚をかるくする。そうして一〇時三五分くらいから瞑想をした。鳩尾をよくさすってやわらげておくとやはり呼吸が楽なようで、そうすると全身的にもすこしコンディションが向上する気がする。酸素と血液がよく届くようになるということなのか、肩とか脚とかがはやくもほぐれているような感じがある。呼吸の楽さは明白で、ちからを抜いてからだにまかせたときに、いつもより周期がゆっくりになっているし、息を吐くときも、能動性をはたらかせていないので吐くというよりは抜けていくような感じだが、じぶんにも気づかれないかのようなかすかな感触でじわじわと進行していくそのうごきの先端がどれくらい沈むか、また吸うほうにうつるまえにほとんど停止したような宙吊り状態がどれくらいのこるか、というところにすでにしてからだがいくらかやわらいでいるのを感知する。とはいえ座ったのは二〇分少々。Notionできのうの支出を記録しておき、LINEをのぞくと、というかさくばんすでにのぞいていたが、おくられてきた(……)の件で一八日に通話したいと呼びかけられていたので、きょうあしたけっこういそがしいのですまんがおれ抜きで進めてくれと言っておいた。しかしのちほど、けっこう悩んでいてできればはなしたいとあったので、それならとやはりあしたの夜に通話することに。それから地元の美容室に電話した。いったいどこで髪を切ればよいのか情報収集もせずに先延ばしにしてモサモサ放置している現状だが、かんがえてみれば地元の美容室には高校のときいらい一五年いじょうも世話になったわけだし、それだったらさいごに一回行っておいて、なおかつ菓子折りでもあげてありがとうございましたとあいさつしておこうかという気になったのだ。ずっと世話になっていたのに、とつぜんなんの音沙汰もなくなるというのもわびしいものだろう。そういうわけで電話をかけ、あいさつをして来週の営業はどんな感じかと聞くと、何曜日がいいかと来る。火木が休みなんでというと、いまは予約の客のみになってたぶん営業日もけっこう減らしているのではないか、二九日になってしまうというので、それだとなあと笑い、土日ではと聞くと二五日の日曜と来た。それでいまようやく実家を出まして、と報告し、(……)にいるので行くのにちょっと時間がかかるからと午後一時からにしてもらった。そうしてあいさつを言って切り、食事へ。いつもどおりプラスチックゴミを始末して、床に置いてある水切りケースからまな板などとりだし、サラダをこしらえる。主食はレトルトカレーにすることに。鍋に水を入れてコンロにかけ、パウチを加熱する。シーザーサラダをかけたサラダをバリバリ食いながら(……)さんのブログを読んでいるうちに鍋が沸騰してきたので、レンジでパック米をあたためて、木製皿に出したうえからカレーをかけて、パウチはもうその場ですぐにゆすいでおいた。まな板などもすでに洗ってある。そうして椅子にもどって米をかき混ぜ、口にはこぶ。読んだブログ記事は九月一〇日と一一日。一〇日の序盤は先日もう読んでいたが、ここに記してしまうと、冒頭の夏目漱石の文章はやっぱりさすがだなとおもった。この観察はちょっとすごい。「退屈のあまり、ぼうんを聞いて器械的に立ち上がった」にせよ、「羨ましい女だ」にせよ、おお、とおもう。

 高柳君は雑誌を開いたまま、茫然として眼を挙げた。正面の柱にかかっている、八角時計がぼうんと一時を打つ。柱の下の椅子にぽつ然と腰を掛けていた小女郎(こじょろう)が時計の音と共に立ち上がった。丸テーブルの上には安い京焼の花活(はないけ)に、浅ましく水仙を突きさして、葉の先が黄ばんでいるのを、いつまでもそのままに水をやらぬ気と見える。小女郎は水仙の花にちょっと手を触れて、花活のそばにある新聞をとり上げた。読むかと思ったら四つに畳んで傍(かたわら)に置いた。この女は用もないのに立ち上がったのである。退屈のあまり、ぼうんを聞いて器械的に立ち上がったのである。羨ましい女だと高柳君はすぐ思う。
夏目漱石「野分」)

 あと(……)さんの本文が、「アバズレビッグフットの歌声が耳栓を貫通する! こいつはワギャンランドの末裔か?」ではじまっているのにはさすがに笑う。かれが前回東京に来てあそんだとき、(……)さんと三人で昭和記念公園をぶらついたが、だだっぴろい「みんなの原っぱ」にはいってあるいていると、めちゃくちゃ咆哮している男子高校生がいて爆笑し、ワギャンランドっていうゲーム知ってる? あれおもいだすわ、とはなしたのをおもいだす。
 食後は即座に椅子から立ち上がってはやばやと洗い物を済ませて、それから椅子にもどって水を飲むかなにかしているさいちゅう、右手の窓のほうを見てカーテンの白さを確認したときに、やべえそういえば洗ったのに干してなかったわとおもいだした。それで水切りケースを洗濯機のうえから下ろして洗濯物を干す。そとは白っぽい薄雲空でひかりもあまりさだかでないが、窓をあければおだやかで、薄陽がとおるときもないわけではない。タオルは一枚しかなかったし、肌着のパンツとシャツもめんどうくさいのでいっしょに集合ハンガーに留めて吊るした。その他ワイシャツやバスタオルやハーフパンツ。土曜日のため保育園には園児がすくなく、一階のほうからすこしだけ声が聞こえるものの、おなじ高さで真向かいの二階の室は、ふだんは子どもらがわちゃわちゃしているところを、いまはあかりも消えて窓辺に雑巾らしきものがいくつかまとめて干されているのがみえる。そうして席にもどると、きょうは音楽を聞くのではなく「読みかえし」ノートを読み返す気になった。きのうの夜も読みかえしたが。Andrea Moro, "Why you can 'hear' words inside your head"(2020/9/30)(https://www.bbc.com/future/article/20200929-what-your-thoughts-sound-like(https://www.bbc.com/future/article/20200929-what-your-thoughts-sound-like))の記述からで、下部にうつしておいたが、声を出さずにことばを読んだときにブローカ野に発生する電気信号の波形と、じっさいに声を出して読んだときに観測される物理的音の波形が一致するというはなしでおもしろい。そのつぎは古井由吉ムージルからの引用。ここもさすがにすごい文がいろいろある。429の一段落目は声に出して読んでみると、なんかリズムが完璧かもしれないとおもった。431の着物の比喩がいきなり出てくるのもすごい。434の終盤もすごい。

429

 二人して戸外を歩むと、二人の影はごく淡くて、歩みを地につなぎとめる力も失せたかに、だらりと足にまつわりつき、そして足の下では堅い地面がいかにも短く、たえだえに響いて、葉を落した灌木が凝然と空を突きさした。この途方もない鮮明さにおののくひと時の中にあっ(end28)て、もの言わぬ従順な物たちがいきなり二人から離れ、奇妙なものになっていくかに感じられた。物たちは薄い光の中に屹立し、まるで冒険者、まるで異国の者たち、まるで現 [うつつ] ならぬ者たち、いまにも響き消えていきそうにしながら、内側ではなにやら不可解なものの断片に満ちていた。その不可解なものは、何ものにも答えられることなく、あらゆる対象からふるい落され、そしてそこからは一閃の砕かれた光が世界へ差し、投げ散らされ、まとまりもなく、ここではひとつの物の中に、かしこではひとつの消えていく思いの中に、輝きでるのだった。
 そんなとき彼女は、ことによると自分はほかの男のものにもなれるのかもしれない、と思うことができた。しかも彼女にはそれが不貞のように思えず、むしろ夫との究極の結婚のように思えた。どこやら二人がもはや存在しない、二人が音楽のようでしかなくなる、誰にも聞かれず何ものにもこだまされぬ音楽にひとしくなるところで、成就する究極の結婚のように。それというのも、彼女はそんなとき自分の現在の生活というものを、錯綜した沈黙の中で自分自身を聞きとるためにぎしぎしと刻みこんでいくひとすじの線のようなものにしか、感じられないのだ。そこではひとつの瞬間が次の瞬間を呼びだし、そして彼女は自分のおこなうとおりのものに、たえまない瑣末なおこないどおりのものになり、しかも、彼女にはどうしてもおこなう(end29)ことのできない何かがのこる。自分たちはことによると、ものぐるおしいまでに心こまやかに響いてくる、かすかな、せつない音色を、そんな音色を耳にすまいとする声高な抵抗によって、ようやく愛しあっているのかもしれない、という思いにおそわれながら、彼女は同時にまた、いっそう深いもつれあいを、途方もないからみあいを予感するのだった。それは言葉がとだえてあたりに音もなくなるその時、ざわめきの中から涯 [はて] もない事実の中へ目ざめて、意識されぬ出来事のもとにひとつの感情をいだいて立つ、その瞬間に生れるからみあいだった。そしてそれぞれ孤独に、平行して高みへ突き入っていくという苦痛とともに――そうなのだ、これにくらべればほかの行動はすべて、おのれを麻痺させ、おのれを閉ざし、ざわめきたてながらまどろみ入ろうとする試みにほかならないのだ――このような苦痛とともに、彼女は夫を愛した。最後の苦しみを、重い重い苦しみを彼にあたえなくてはならないと思うそのとき。
 (ムージル古井由吉訳『愛の完成・静かなヴェロニカの誘惑』(岩波文庫、一九八七年)、28~30; 「愛の完成」)


431

 雲間にかすかな風が起り、雲を一列にととのえてゆっくりと引いていくように、じっと動か(end36)ぬふくよかな感情の中へ、この実現の動きが吹きこんできたのを、彼女は感じた。内には受けとめられず、かたわらをかすめて……。そしてさまざまな事実が不可解にも流れ動きはじめるとき、感じやすい人間たちがおおくそうであるように、彼女はもはや精神のはたらきをもたぬことを、もはや自分ではないことを、精神の無力と、屈辱と、受難とを愛した。ちょうど弱いものを、たとえば子供や女を、かわいさのあまり叩いてしまって、それから着物になってしまいたい、着物になってたった一人で自分の痛みを人知れずつつんでいたいと願うように。
 (ムージル古井由吉訳『愛の完成・静かなヴェロニカの誘惑』(岩波文庫、一九八七年)、36~37; 「愛の完成」)


434

 彼の言わんとしたところのものは、そのころにはおそらく、ときおり岩石の中に形づくられるあの紋様のようなもの――それが暗示しているものはどこに棲息しているのか、また完全に実現されたとしたらどんな姿となるか、誰ひとりとして知らないそんな紋様、あるいは城壁に、雲に、渦巻く水に見られる紋様のようなものでしかなかった。あるいは、それはちょうどとき(end104)おり人の顔に浮かんで、当の顔とはすこしも結びつかず、あらゆる目に見えるものの彼方にいきなり推しはかられる異なった顔と結びつくあの奇妙な表情と同様に、まだここにはない何かからとらえがたく由来するものでしかなかった。あるいは喧騒のただ中を流れるささやかな旋律 [メロディー] 、人間のうちにひそむ感情。そうなのだ、彼の内には、言葉によってそれを求めればまだとうてい感情とはいえぬ、感情があった。それは感情というよりもむしろ、あたかも彼の内で何かが長く伸びだして、その先端をすでにどこかにひたし、濡らしつつある、そんな感じだった。彼の恐れが、彼の静けさが、彼の沈黙が。ちょうど、熱病の明るさを思わせる春の日にときおり、物の影が物よりも長く這いだし、すこしも動かず、それでいて小川に映る姿に似てある方向へ流れて見えるとき、それにつれて物が長く伸びだすように。
 (ムージル古井由吉訳『愛の完成・静かなヴェロニカの誘惑』(岩波文庫、一九八七年)、104~105; 「静かなヴェロニカの誘惑」)

 そのあときょうのことを書き出し、ここまでで一時半にいたっている。きょうは勤務。六時半には職場にいる必要がある。ふつうに行くなら五時半ごろの電車。ただ、月一のミーティングの日だから、せっかくなので(……)で菓子を買ってみなに配ろうかともおもっており、とすればその一、二本前で行ったほうがよいか。じぶんくらい同僚に菓子をあげているにんげんもあまりいないとおもう。だれかがシフトを追加してくれたときとかは、タイミングがあえばじぶんのかわりでなくてもわりとあげている。それはひとつにはふつうに感謝とねぎらいをつたえる素朴な善性の発露であり、ひとつには好感と信頼をかせいで関係構築を容易ならしめようとする打算の産物であり、またひいてはそういう局地的なはたらきかけによって職場ぜんたいの雰囲気をなんとなくちょっと気楽なものにして、所属者相互のコミュニケーションを円滑ならしめようとするささやかな一戦術でもある。


     *


 出るまえにまたちょっと「読みかえし」ノートを音読して、そのときのメモ。

439

 彼女はあのころ、一頭の大きなバーナード犬の、毛が好きだった。とりわけ前のほう、広い(end128)胸の筋肉がふくらんだ骨の上で犬の歩むたびに二つの小山のようにもりあがる、そのあたりの毛が好きだった。そこにはいかにもおびただしい、いかにも鮮やかな金茶色をした毛が密生して、見渡すこともできぬ豊かさ、静かな果てしなさにとても似ていて、たったひとところにひっそりと目を向けていても、その目は途方にくれてしまう。そのほかの点では、彼女はひとまとまりの強い親愛の情、十四歳の少女のいだくあのこまやかな、物にたいするのと変りのない友情を感じていただけであったのにひきかえ、この胸のところでは、ときおりほとんど野山にいる気持になった。歩むにつれて森があり、牧草地があり、山があり、畑があり、この大きな秩序の中にどれもこれも小石のようにじつに単純に従順におさまっているけれど、それでもそのひとつひとつを取りわけて眺めると、どれもこれもおそろしいほどに入り組んで、抑えつけられた生命力をひそめている。それだもので、感嘆して見つめるうちに、いきなり恐れにとりつかれるのだ。まるで肢をひきつけてじっと地に伏せ、隙をうかがう獣を、前にしたときのように。
 ところがある日、そうして犬のそばに寝そべっていると、巨人たちはこんなじゃないかしら、と彼女はふと思った。胸の上には山があり、谷があり、胸毛の森があり、胸毛の森には小鳥た(end129)ちが枝を揺すり、小鳥たちには小さな虱が棲みつき、そして――それから先のことは彼女にはわからなかったけれど、それでおしまいにすることはなく、すべてはまたつぎつぎに継ぎあわされ、つぎつぎにはめこまれ、そうして強大な力と秩序に威 [おど] されてかろうじて静止しているかに見えた。そして彼女はひそかに思ったものだった。もしも巨人が怒りはじめたら、この秩序はいきなり幾千様もの生命へ、大声をたてて分かれてしまい、恐ろしいほどに豊かな中身を浴びせかけてくるのではないかしら、と。さらに巨人が愛に駆られておそいかかってきたなら、山鳴りのように足音が轟いて、樹々とともにざわめいて、風にそよぐ細かな毛が自分の肌に生えて、毒虫がもそもそと這いまわり、言いあらわしようもない喜びにうっとりと叫ぶ声がどこかに立ち、そしてそのすべてを彼女の息は虫や鳥や獣の群れのようにひとつにつつんで、吸い寄せることになるのではないかしら、と。
 (ムージル古井由吉訳『愛の完成・静かなヴェロニカの誘惑』(岩波文庫、一九八七年)、128~130; 「静かなヴェロニカの誘惑」)

 いま帰宅後の一時半過ぎ。きょうは職場のミーティングで、終了後も(……)さんとながくはなしたりして、家に着いたのは零時を過ぎていたのだけれど、なぜかこうして文を書きつけておく気力がある。やっぱり鳩尾の解放じゃないでしょうか? 職場ではある意味けっこうおもしろいことがあり、きょうの記事はなぜかやたら引用もしているし盛りだくさんになってしまう。職場でのできごとはブログを読んでくださっているひとびとにはつたえられないが。さきほど一時ごろから食事を取った。こんな時間にカレーとか食べておまえはだいじょうぶなのか? とおもったものの、ふつうにサラダをこしらえてレトルトのカレーも食った。さらに食後にこのあいだドラッグストアで買ったソフトサラダ煎餅まで食っている。あいまは(……)さんのブログを読み、九月一四日分まで。したのはなしはおもしろい。

 まず、「形式主義」というラベルは、カントが合法性と呼ぶものにこそふさわしいと指摘しなくてはならない。合法性という観点から見て問題となるのは、ある行為が義務を果たすかどうかだけであり、その行為の「内容」——義務を果たす真の動機——は無視される。そのようなことは問題ではないのである。しかし、合法性とは異なり、倫理は意志の「内容」を問う。倫理は、行為が義務を果たすことのみならず、義務を果たすこと自体がその行為の唯一の「内容」あるいは「動機」であることを要求する。実際、カントが形式に力点をおくのは、倫理的な行為に向かう動因の所在を明らかにするためである。彼は、倫理的行為においては、「形相」が「質量」によって占められていた場所を占めなければならない、形式それ自体が動因として機能しなければならない、と言っている。形相が意志を決定するためには、形相それ自体が質量としての負荷をもつ余剰として作用しなくてはならないのである。くり返そう。カントの主張は、道徳的意志の土壌からすべての質量の痕跡を排除しなければならないということではなく、むしろ行為の駆動力となるためには、道徳律の形式=形相それ自体が内容=質量のように作用しなくてはならないということである。
 このように考えた時、「純粋」に倫理的な行為の可能性に関して、解決されるべき二つの問題あるいは「神秘」が我々の前にたち現れる。第一の問題は、通常我々がカント倫理学に関連づける問題である——どのようにしたら我々の行動からすべての「病的」な動機や誘因をとり除くことができるのか? どうしたら主体はすべての利己心を、快楽原則を、自分自身や近しい人々の幸福に対する配慮を、棄てることができるのか? どのような怪物的な、非人間的な主体をカント倫理学は想定しているのか? これらの問いは、主体の意志の「かぎりない浄化」という問題、およびそれに付随する「どれだけ頑張っても、いつももうひと頑張り必要だ」という論理へとつながっていく。第二の問題は、カントの議論が要求する「倫理的主体化」とでも呼ばれるべきものに関係する——どのようにしたらただの形式を、実質的効果をもつ動因に変えることができるのか? この問題は、第一のものより重要である。なぜなら、その答えには、第一の問題の答えが必然的に含まれるからである。どのようにしたらそれ自体「病的」ではないもの——つまり、快楽や苦痛の表象とは関係のないもの、主体内における通常の因果律とは関係のないもの——が主体の行動の原因または動因となることができるのか? 問題は、もはや動因や誘因の「浄化」などよりもはるかに根源的だ——どうしたら「形相」は「質量」となることができるのか? どうしたら主体の精神世界の中で原因となるはずのないものが、突然原因となることができるのか?
 これこそ、倫理のもたらす真の奇跡である。カント倫理学が提起する最大の問題は、「どうしたら意志からすべての『病的』な要素をとり除き、それを全く含まない義務の純-形式をとり出すことができるのか?」ではなく、「どうしたらこの義務の純-形式が『病的』な要素として、つまり我々の行動の駆動力、誘因として機能しうるのか?」である。もしこのようなことが起こるとしたら、もし「義務の純-形式」が実際に主体の行動の動機として作用するのであれば、もはや我々は、「意志の浄化」や「病的」な動機の排除などに気を揉む必要がないであろう。
 しかしそうなると、この主体にとって倫理とは言わば第二の天性であり、もはや倫理であるとは言えないのではないか? もし倫理的に行動することが単なる動因の問題であり、何の努力も必要としないのであれば、もし倫理的な行動が犠牲や苦痛や自制を要求しないのであれば、もはやそれは美点、美徳と呼ばれるに値しないのではないか? 実際、カントもそのように考えた。彼は、そのような状態を「意志の神聖性」と呼び、人間主体には到達できない理想であるとした。この理想に到達してしまったら、善とは全く陳腐なものとなるだろう——ハンナ・アーレント流に言えば、「完全善の陳腐さ」とでもなるだろうか。しかし——これを示すことが、この本の最大の目的のひとつなのだが——このような分析はあまりにも手際がよすぎ、それゆえ何か大切なものを見落としている。そもそも我々がここで倫理について考える大前提は、人間行動の神聖性や陳腐性に堕することのない倫理を動因=欲動(ドライヴ)という概念の上に築き上げることができる、ということなのである。
(『リアルの倫理——カントとラカン』アレンカ・ジュパンチッチ・著/冨樫剛・訳 p.29-31)

 あと、なんにちかまえの記事に授業時の写真が載せられていたけれど、あれを見たとき、これすげえな、事前情報なにもないひとがこの写真みても、ぜったい大学で授業してるってわからないだろうな、とおもった。(……)さんはすげえ柄のシャツ着てたし、スクリーンに表示されていた画像は浜辺ででかい犬のしたに両手をかかげたちいさな(……)さんがいてなんかスイカもある、みたいなやつで、どういうことなのか意味がわからんし、それを指示棒で(……)さんが指しているというわけで、大学の授業どころかなにをやっているところなのかがふつうにみるとぜんぜんわからん。あれがシュルレアリスムというやつか。
 きょうは外出前までで一四日の記事をしあげて投稿し、きのうの往路のことも書き、一五日もちょっと書き足してもう投稿できるし、こうしていまも書いているわけでなかなか勤勉でわるくないしごとぶりだ。職場でもそこそこのしごとをしたとおもうし、個人的におもしろいこころみもあった。あとはうえのように書いておきたいできごともあったし、やはりにんげんが複数あつまって関係を構築すればそれだけでいろいろ書くことはあるわけで、組織というのはなかなかおもしろいですなあ。そういうこともあるし、また塾講師のしごとは子どもたちとの関係もある。おとなとまったく同様に子どもたちもひとりひとりまるでちがったにんげんなので、かれらのことを書くのもまたおもしろく、ふだんじぶんは世界にたいしてなんら恥じることなく堂々と、なるべくはたらきたくないし一年中ずっと休みであるべきだと断言してやまないにんげんだが、それにもかかわらず、仮に金をかせぐためにはたらく必要がなくなったとしても、週一か二くらいは塾講師のしごとをやるかもしれないとおもうし、なんらかの現場をもってそこに属するかもしれないともおもう。


     *


 勤務のことを記しておこう。(……)
 (……)
 (……)
 (……)
 (……)帰宅は零時を過ぎていたはず。


―――――

  • 「読みかえし1」: 425 - 435, 436 - 446

Andrea Moro, "Why you can 'hear' words inside your head"(2020/9/30)(https://www.bbc.com/future/article/20200929-what-your-thoughts-sound-like(https://www.bbc.com/future/article/20200929-what-your-thoughts-sound-like))


425

Let us now turn back to our experiment. Sixteen patients were asked to read linguistic expressions aloud, either isolated words or full sentences. We then compared the shape of the acoustic waves with the shape of the electric waves in the Broca’s area and observed a correlation (which was not unexpected).

The second step was crucial. We asked the patients to read the linguistic expressions again, this time without emitting any sound – they just read them in their mind. By analogy, we compared the shape of the acoustic wave with the shape of the electric wave in the Broca’s area. I should note that a signal was indeed entering the brain, but it was not a sound signal – instead, it was the light signal carried by electromagnetic waves, or, to put it more simply, a signal conveyed by the alphabetical letters we use to represent words (ie writing) but definitely not an acoustic wave.

Remarkably, we found that the shape of the electric waves recorded in a non-acoustic area of the brain when linguistic expressions are being read silently preserves the same structure as those of the mechanical sound waves of air that would have been produced if those words had actually been uttered. The two families of waves where language lives physically are then closely related – so closely in fact that the two overlap independently of the presence of sound.

The acoustic information is not implanted later, when a person needs to communicate with someone else, it is part of the code from the beginning, or at least before the production of sound takes place. It also excludes that the sensation of exploiting sound representation while reading or thinking with words is just an illusory artifact based on a remembrance of the overt speech.

The discovery that these two independent families of waves of which language is physically made strictly correlate with each other – even in non-acoustic areas and whether or not the linguistic structures are actually uttered or remain within the mind of an individual – indicates that sound plays a much more central role in language processing than was previously thought.

It is as if this unexpected correlation provided us with the missing piece of a “Rosetta stone” in which two known codes – the sound waves and the electric waves generated by sound – could be exploited to decipher a third one, the electric code generated in the absence of sound, which in turn could hopefully lead to the discovery of the “fingerprint” of human language.


426

The very fact that the majority of human communication takes place via waves may not be a casual fact – after all, waves constitute the purest system of communication since they transfer information from one entity to the other without changing the structure or the composition of the two entities. They travel through us and leave us intact, but they allow us to interpret the message borne by their momentary vibrations, provided that we have the key to decode it. It is not at all accidental that the term information is derived from the Latin root forma (shape) – to inform is to share a shape.

  • 日記読み: 2021/9/15, Wed. / 2021/9/16, Thu. / 2021/9/17, Fri.

 2021/9/17, Fri.より。

 視覚は見られるものを、聴覚は聴かれるものを「愛撫」する。「接触」はおしなべて「存在へと曝されていること」(128/154)なのだ。見ることができる眼は、同時に [﹅3] 、強烈な光線に射抜かれる器官でもなければならない。先天性の視覚障害者の開眼手術の記録がしめしていたように、視覚の対象もまずは文字どおり目にふれ、ときに視覚器官に傷を負わせる [註134] 。〈傷つきやすさ〉こそが、おしなべて感覚をそれとして可能にしている。だか(end219)ら、第二の異論にかんしていうならば、〈傷つくことができる〉ということが、かくて視覚それ自体をもふくめて、感覚的経験一般が可能となる条件である。「感受性とは〈他なるもの〉にたいして曝されていること(exposition à l'autre)なのである」(120/145)。(……)

 (註134): 哲学史的にいえば、これはいわゆる「モリヌークス問題」にかかわる論点である。最近の論稿としては、古茂田宏「魂とその外部――コンディヤックの視覚・触覚論によせて」(『一橋大学研究年報 人文科学研究』第三四巻、一九九七年刊)参照。

 (熊野純彦レヴィナス――移ろいゆくものへの視線』(岩波現代文庫、二〇一七年)、219~220; 第Ⅱ部、第二章「時間と存在/感受性の次元」)

     *

あとは帰宅後に、英米豪の新たな協定についての報も読んだ。AUKUS(オーカス)というと。オーストラリアのAと、UK、USをそのままならべただけの命名である。東シナ海および南シナ海で傍若無人にふるまっている中国に対抗してオーストラリアの抑止力をつよめたいということで、米国が原子力潜水艦の技術をオーストラリア側に提供するらしいのだが、原潜の技術は米国の軍事技術のなかでも最高度の機密にあたり、いままでに供与されたのは一九五八年だかに協定をむすんだ英国だけで、米側関係者は今回一度かぎりのことだと言っているらしいが、だからそれだけ切羽詰まっているというか中国にたいする米国の焦りがうかがわれる、という趣旨だった。

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Maya Yang, Vivian Ho, Martin Belam and Michael Coulter, “Russia-Ukraine war latest: what we know on day 206 of the invasion”(2022/9/17, Sat.)(https://www.theguardian.com/world/2022/sep/17/russia-ukraine-war-latest-what-we-know-on-day-206-of-the-invasion(https://www.theguardian.com/world/2022/sep/17/russia-ukraine-war-latest-what-we-know-on-day-206-of-the-invasion))

United Nations member states have voted to make an exception to allow Volodymyr Zelenskiy to address next week’s general assembly by video, despite Russian opposition. Of the 193 member states, 101 voted on Friday in favour of allowing the Ukrainian president to “present a pre-recorded statement” instead of in-person as usually required. Seven members voted against the proposal, including Russia. Nineteen states abstained.

Virtually all the exhumed bodies in Izium had signs of violent death, Ukraine’s regional administration chief said of the mass burial site discovered after Kyiv’s forces recaptured the east Ukrainian town. Exhumers had uncovered several bodies with their hands tied behind their backs, and one “with a rope around his neck”, Oleg Synegubov, head of Kharkiv regional administration, said on Friday. “Among the bodies that were exhumed today, 99% showed signs of violent death,” he said on social media.

     *

Russia has accused Ukraine of carrying out targeted strikes in the cities of Kherson and Luhansk against top local officials who have been collaborating with Moscow. At least five Himars missiles crashed into the central administration building in Kherson, which Russian troops have occupied since March after arriving from Crimea. Video from the scene showed smoke pouring out of the complex. In the eastern city of Luhansk, a pro-Russian prosecutor died with his deputy when their office was blown up. The cause of the explosion was not immediately clear. President Volodymyr Zelenskiy’s senior adviser, Mikhailo Podolyak, said Ukraine was not behind the blast.

     *

The Russian president, Vladimir Putin, made his first public comment since his troops were forced to withdraw from the territories they held in the north-east, a move that prompted unusually strong public criticism from Russian military commentators. Putin said he invaded Ukraine because the west wanted to break up Russia. He grinned when asked about Ukraine’s recent military success, saying: “Let’s see how it develops, how it ends up.” Putin said nothing had changed with the ultimate goal of Moscow’s “special military operation” in Ukraine, which was to capture the Donbas.

The United States department of defence has announced it is providing an additional $600m in military assistance to Ukraine to meet the country’s “critical security and defence needs”. In total, the Biden administration has committed about $15.8bn in security aid to Ukraine – $15.1bn since the beginning of Russia’s invasion in February.

Switzerland on Friday aligned itself with the European Union in suspending a 2009 agreement easing rules for Russian citizens to enter the country. “The suspension of the agreement does not mean a general visa freeze for Russians but rather they will need to use the ordinary visa procedure to enter Switzerland,” the country’s federal council said in a statement. The EU took a similar step earlier, suspending a visa facilitation deal with Russia but stopping short of a wider visa ban in response to Moscow’s invasion of Ukraine.

2022/9/16, Fri.

西脇順三郎訳『マラルメ詩集』(小沢書店/世界詩人選07、一九九六年)

●31~32(「あの苦い休息に厭き……」(Las de l'amer repos))
 私はかつて一つの栄光のために自然の青空の下
 薔薇の咲く森の美しい幼年期を避けたが
 私の怠惰がその栄光を傷つけるあの苦しい休息に(end31)
 厭きまたそれに七倍して厭きたのは固い契約、
 不毛に情 [つれ] ない穴掘りの
 私の脳髄の欲ばかりの冷たい土地に
 徹夜で新しい穴を掘る契約だ。




 いまもう一七日の午前一時過ぎ。起床付近のこまかなことはわすれた。覚めたのは九時だったが、床をはなれるには一〇時までかかった。一〇時二〇分だったかな。この日の出勤前はとくだんのことはやっていない。寝床でも日記の読みかえしをサボったし、食後もウェブをてきとうに閲覧して過ごしてしまった。洗濯はおこない、一一時半ごろ再度の離床をしたときに干した。天気はそれほど晴れがましいわけではなく、覚醒時も空気の質感が涼しげだったし、干すころも陽はとおっていても雲が多くて水色がかくれがちだったのだが、大気に浸透したおだやかな熱と風のおかげで、出発するまえの二時ごろに入れたときには意外に具合よくかわいていた。きのう、ワイシャツ二枚をアイロン掛けしておいてよかった、だらだらしてしまったのでシャワーを浴びて身支度するくらいしかできなかった。二時半ごろそとへ。階段を下りていくとアパートの入り口前ではなしている声が聞こえ、箒かなにかもった女性のすがたもみえる。空の郵便受けを確認して出るとちょうどそのひとの目のまえにあたり、女性のそばには老人がおり、かのじょとこちらでたがいにこんにちはと会釈をしながら過ぎてあたまのうごきを老人にもちょっと向けたものの、こちらは無反応だった。素性は知れない。女性は保育園の保育士だったのか、それとも一階のクリーニング屋の店員なのか。老人とは知り合いのような雰囲気だったが、そちらも近所のひとなのかなんなのかわからない。


     *


 道にはひかりがよくとおって日なたがいたるところ敷かれているものの、大気に熱はそう籠っておらず、風もながれつづけてまだ水気ののこっている髪の毛を額や耳もとにささめかせる。からだが西向きになって正面から直射されればもちろん熱いが、肌にじりつくような感触は光線にもはやなく、細い裏路地をすすむあいだ屋根のむこうにのぞく南空や行く手の西から北にかけてが、雲をたくさん溜めた様相で、そのあいまにはさまって埋めている水色にも周囲の雲からぱらぱらこぼれたものが混ざったかに粉がかった質感で、まろやかな空だった。陽射しはかなり厚いけれどのしかかるような重さはなく、いってみれば浮遊的な熱さで、夏の一時回帰までは行かない、ほどけるようなさわやかさが路上にあってたしかにふれられる。路地の出口がちかくなると小学生の声が聞こえて、行けば帽子をかぶったランドセルの男児ふたりが角の別れ際に、あっかんあっかんあっかんべ! だったか、ことばをわすれてしまったのだが、向かい合って声を調子良く合わせた別れの儀式をとりおこなっていた。方向を違えてからもまだ、あしたおれやすみ! とか、なんで? とか言い合ったりしている。(……)通りの横断歩道のところには旗をもった老人が立っており、腕章かベストをつけていたとおもうが、おそらくシルバー人材センターの登録者で、登下校の子らの見守りや誘導をしているのだろう。金曜日というのは近間の小学校がこの時間で終わるらしい。水曜日もおなじ時刻に出るが、そのときは下校中の子どもたちはみかけない。横断歩道で陽を当てられながら寸時待ち、渡ると細道をまっすぐ。ここでもひかりにさらされざるをえないけれど、路地には日陰もたしょうできていて、ひと月前にはそれもなくて晴れた日にはほぼまっさらだった記憶がある。時刻におうじた太陽の位置が、やはりうつろっているのだろう。左手には建設中なのか一軒の、脇の階段を重そうな板状の、なにかコンクリート的なブロックのようにもみえる灰色のものをかかえてのぼっているふたりがおり、さきを行くひとはもう年嵩らしく、息を切らして笑いながら、後期高齢者だからみたいなことをもらしていた。駅に着くと口をマスクで覆ってなかへ。改札を抜けててまえのホームにかかればその表面に反映光がひとときよぎり、階段通路を行って向かいにうつり、てきとうな柱のそばで立って目線をあげると、各室のベランダがくぼみ状にきっちり区切られて洞窟内の広い壁にできたなにかの巣穴をおもわせないでもない、そんな駅前マンションの、そのくぼみのおおくには洗濯物の色が乗せられ、その左脇、とおくで突き立っている赤白の電波塔付近の空は淡い雲をはらはら撒かれながらも水色をとどめている。FISHMANSの『男達の別れ』をきょうも聞き出した。薄赤色をおもわせるようなあかるい陽射しの昼間のなかでナイトクルージングする。


     *


 勤務。(……)
 (……)
 (……)
 (……)
 (……)
 この日は比較的はやく退勤した。といっても八時二〇分くらいだったか。(……)帰路はまた(……)まであるいた。その後電車に乗って(……)まで行くと、帰りはスーパーに寄った。実家からもらってきたピーマンとナスをそろそろ始末しないといけないところが油がないので買っておきたかったのだ。しかしこの日はやらず、炒めものをつくったのは日曜日、一八日(きのうにあたる)の夜。一六日の夜のことはもはやわすれてしまった。


―――――

  • 「ことば」: 6 - 10
  • 「読みかえし1」: 406 - 411, 412 - 424

413

 『ペリフュセオン』は全五巻からなる。創造し創造されない自然については第一巻で、創造され創造する自然は第二巻で、創造され創造しない自然は第三巻で論じられたうえで、第四巻と第五巻が、創造せず創造されない存在をあつかう構成となっている。偽ディオニシオス文書でいうなら、第一巻から第三巻は、神から発するイデアを経て被造物にいたる肯定神学あるいは下りの道(カタファティケー)に、四巻と五巻は、神の痕跡である世界からもういちど創造者へ(end209)と回帰する否定神学(theologia negativa)もしくは上りの道にあたることになる。
 肯定的な道にあっては、神は存在し、真理であり本質であると語られる。だが正確にいえば、被造物についても述語されるこうしたことばは、神については比喩的にのみ語られるのであるから、神はむしろ、存在を超えたものであり、真理を超えたものであると語られなければならない。神がたとえば知恵ある者であるとは、比喩的な意味で語られる(のちにスコラ哲学者たちは「類比的」に、と主張することになるだろう)にすぎない(次章参照)。
 存在を超えた神のありかたは「無」とも言われる。神については、どのようなカテゴリーもほんらいの意味では当てはまらず、上りの語り(アポファティケー)にあってはそうした述語づけのいっさいが否定されてゆくことになるからである。だが、神が非存在であると語られるとき、神は「その語りがたい卓越性と無限性のゆえに」いみじくもそう語られるのだ。神が無であると言われるのは、神がむしろ「存在以上のもの」であるからである。ボエティウスが主張していたように、神が無から世界を創造したと言われるとき意味されているのも、存在は、すべて「神の善性の力」によって非存在から造られたということなのである(第三巻第五章)。

このことば〔無(nihil)という語〕で意味されているのは、人間の知性であれ、天使のそれであれ、どのような知性によっても知られていない神の善性の、語りがたく、とらえがたく(end210)近づきがたい明るみであると思われる。それは本質を超えており、自然本性を超えているからである。それは、それ自体において考えられる場合には存在していないし、存在しなかったし、存在しないであろう。すべてのものを超越しているので、どのような存在者においても考えられないからである。それは、けれども、存在者たちへの語りがたい下降をとおして、それが精神の眼で見られる場合、ただそれだけが万物において存在しているのが見いだされ、現に存在し、存在したし、存在するであろう。(第三巻第十九章)

 (熊野純彦『西洋哲学史 古代から中世へ』(岩波書店、二〇〇六年)、209~211; 第13章「神性への道程 神はその卓越性のゆえに、いみじくも無と呼ばれる ――偽ディオニシオス、エリウゲナ、アンセルムス」)

2022/9/15, Thu.

 すべて要約された精神は――
 私達がそれをゆっくり吹いて
 幾つかの煙の輪にするがそれが
 また他の輪の中へ消えて行く時

 ――一本の葉巻か何かを証明する
 それは物知りらしく燃えている
 灰がその輝く接吻の火から(end126)
 少しでも分離されるならば

 同様に抒情詩人の唱歌隊は
 すぐ唇へ飛びつく
 君が詩を始めるなら、現実はいやしいから
 そこから排除しなさい

 あまり正確な意味は
 君の曖昧な文学を抹殺するのだ。

 (西脇順三郎訳『マラルメ詩集』(小沢書店/世界詩人選07、一九九六年)、126~127; 「すべて要約された精神は……」(Toute l'âme résumée)全篇)




 目を覚まして携帯を見ると、七時四〇分だった。部屋は暗い。そとを行く車の音に、水のひびきが少々ふくまれていたかもしれない。布団を横にどかしてあおむけのまましばらく静止。それから胸をさすったりしつつ、カーテンの端をめくってみると空は真っ白だが、その白さをみているとまぶたのひらきがだんだんよくなってきて、きょうは起き上がらないうちにもうChromebookをもった。ウェブをてきとうにみながら脚もほぐす。離床したのは九時半ごろだったか。洗面所に行って顔を洗ったり用を足したり、出ると流しでうがいをしたり。水も飲んで、デスクのパソコンをまえにしながら歯を磨いた。蒸しタオルはわすれたが、屈伸をしておき、瞑想。一〇時五分からはじめて三五分ほど。きょうは脚はほぼしびれず。窓外では保育園の子どもたちがにぎやかにしている。園庭に出ているのか、あるいはきょうは涼しいので窓を開けているのか、多種の声が混ざってざわざわしており、ときおりそのなかから断片的なことばが聞き取れる。保育士が~~組さ~ん、というのにはーいと唱和する声なんかもあり、そのうちにひとりの子どもが果物の名を、たとえばバーナーナ、とかブードーウ、とかいいながらリズムを取って手を叩くのに応じて、ほかの子どもたちもおなじように声を合わせてパンパン叩きながらくりかえす、という遊びがおこなわれて、ひととおり過ぎたあとにドラゴンフルーツもあるよ! という男児の訴えが聞かれた。全員がそれをやっているわけでなく、そのあいだもほかはほかでざわめきがある。そのあとで~~先生、ばいばーい! とみんなでそろって旅立っていくだれかを見送るような、しばらく休むとか離職してもう会えなくなる先生と別れるような、そんな調子の多声がまた聞かれた。それからは声は基本室内にうつって、あいだがはさまれて遠くなった。瞑想を終えると食事へ。きのうのプラスチックゴミを始末しておき、水切りケースを洗濯機のうえから床に下ろして、まな板や大皿をとりだしてサラダをつくる。キャベツ、豆腐、サニーレタス、豆腐、タマネギ。そのほか昨夜とまったく同様に、冷凍の竜田揚げとメンチをおかずに米である。YouTubeでちょっと音楽のライブ映像をみながら食す。そうするとギターがいじりたくなったので、食後は洗い物をかたづけてからひさしぶりに部屋の角に置いてあるケースに寄り(いちばん上部に埃がうっすらとかかっている)、とりだして椅子のうえで少々いじった。しかし手の爪がやや伸びていてうまく弾けないし、たいしておもしろくもない。三〇分もやらずに切って仕舞い、それから音楽を聞くことにした。きのうとおなじく碧海祐人『夜光雲』。"眷恋"、"逃げ水踊る"(feat. 浦上想起)、"hanamuke"、"夜光雲"の四曲。きのうの印象とまとめてここに書いてしまうが、一年前に聞いたときにはこれほぼceroじゃない? とか記していたわけだ。それに引きずられたのか、きのうもそうはおもった。ある作品にふれたときの感想や印象を書くのにほかの固有名詞を出すのはある種ちょっと失礼というか、忸怩たるおもいがもちろんないわけではない。ただいっぽうで、そういう連想が起こるのはよくあるしぜんなことだし、べつにそういう連想じたいがそれだけでわるかったり、作品のとらえかたをそこなうわけではかならずしもないだろうともおもう。それはそれでその作品がふくんでいるものだろう。ceroに似ているとおもうのもおおざっぱな音楽性や声質のところが主で、方向性としては確実におなじ方面にくくられるだろうけれど、具体的にはたとえば三曲目の序盤、ガットギターだかなんだかわからないが弦楽器の音をバックに歌っているあたりは"マクベス"とか、"大停電の夜に"とかをおもいだしたりもする。ただそれはこちらのあたまのなかで主観的につながるだけで、だからといってそれらがほんとうに質的に類似や共通性をもっているかどうかはさだかでないのだが、そういう連想を生んだということも作品にふれた体験のうちのひとつではある。ともあれきのうはceroというなまえをおもいもしたのだけれど、きょうはまったくおもわなかった。一曲目の"眷恋"はこれだけちょっとラフというか、いわば宅録感があるというか、ほかの三曲のほうがいろいろ手を加えられているような気がしたのだが、そういう演出なのかもしれない。たとえばドラムの音とかこれでいいの? とおもうわけだが。二曲目は好きな感じで、二番からC部にうつり、さらにそこからキーを変えてA部にもどる転調の進行のしかたとかよいとおもう。浦上想起というひとはなまえを見たことがあるだけでなにものなのかぜんぜん知らないが、とちゅうで声がちょっと変わっているから歌で参加しているようだし、ジャズっぽいピアノソロもこのひとなのかもしれない。声というと碧海祐人のボーカルは、メロウな音楽性にそぐうてファルセットを多用するけれど、高音に行ったときの歌はぜんたいとしてちょっとだけ弱いかなという気もした。弱いというのは歌声としての響きとか、あと音程とかで、音程ははずれているわけではまったくないのだけれど、声質もあわせてばちっとはまりきっているとは聞こえない。ただそういう、ある種のニュートラルさがこのひとの歌声なのかもしれないし、そう感じたのは一曲目と二曲目くらいだったかもしれないが。ほんのすこしだけずらしたビート感をかもしている四曲目も音楽としては好きで、というか全体をとおして音楽的には好きなのだけれど、歌詞にちょっとだけ気になるところがないではない。このひとは詞としても独自の表現をしようとしているタイプだとおもわれ、まあメディアからは「文学的」と無造作に広告されそうな雰囲気があるのだが、たとえば一曲目からしてタイトルに「眷恋」なんて語をつかっているあたりいかにもとも言えるわけだ。曲中でもそういう要素はおりおりあって、それこそがまさにこのひとの持ち味だというべきなのだろうが、こちらとしてはそこでことばと旋律やリズムの結合がうまく行ききっているのか疑問な部分もある。たとえば二曲目では冒頭が「かたむく月夜にまだ歩くは深夜の国道沿い」だけれど、この「歩くは」といういいかたとかいかにもな感があるし、四曲目でも、序盤では「淫靡」とか、後半では「悲観」「憧憬」「妖艶」とか、フレーズの終わりに体言止めで漢語をもちいつつ一定以上韻を踏ませようという箇所がある。そのへんがやはりいかにもという感じもするし、また、ちょっと硬めのいいかた、ことばのつくりかたとか、ぎゅっと締まって重いような漢語をもちいると、それがメロウな音楽のなかでわずかに浮くというか、なじみきらないような気がした。つまるところ、歌詞と曲とのあいだに葛藤が生まれて、ことばが旋律のながれや音楽性に抵抗しているように感じられたのだとおもう。そのひっかかりこそが、という向きもあるだろうし、それはそれでわかるが。詞とメロディのむすびあいとしてこちらがいちばん印象にのこったのは、二曲目のCにある「魔法の無駄遣い」というフレーズと、そのあとのさいごの転調Aの冒頭、「かすめたからだにひたり揺れるのはなかみのない果実で」の「なかみのない果実で」の部分。ここはきもちがよかったのだが、これであってんのかなといま歌詞を検索してみると、「重ねた体に湿り熟れるのは中身のない果実で」と歌っているらしく、ぜんぜん聞き取れてないやん。「かすめた」はたしかに聞き直してみれば「重ねた」と聞こえなくもないが、「湿り」のぶぶんはどうしても「ひたり」にしか聞こえない。たぶん「湿り」で「しとり」もしくは「しっとり」と歌っているのではないか。でも、「かすめたからだにひたり揺れるのはなかみのない果実で」のほうがフレーズとしてよくない? 「ひたり」は擬態語としてもとれるし(そうするとややいかにも感が生まれる)、「浸る」という動詞としてもとれる。ちなみにそれにつづく部分は「温度すらない風は吹き去って行く」で、「重ねた体に湿り熟れるのは中身のない果実で/温度すらない風は吹き去って行く」、「かすめたからだにひたり揺れるのはなかみのない果実で/温度すらない風は吹き去って行く」とならべてみても、こちらの聞きちがえたフレーズのほうが調和するような気もするのだが。
 そのあと六一年のEvans Trioから"All of You (take 3)", "Jade Visions (take 1)", "Jade Visions (take 2)", "... a Few Final Bars"。"Jade Visions"はテイク1がおわるとなぜかそのままLaFaroが低音をしばらく打ったあと、けっこうテンポを落としたかたちでまたはじめるのだが、このテイク2のほうがなんかよいような気がした。テンポが落ちたこともあってか、なにか間のようなものがあり、じっさいLaFaroがミスったのかなんだか知らないが拍頭を抜いた瞬間も一箇所あったし(たしか一回目のB部のあたまだったとおもうが、そうするととたんに左側に空白が生まれてコード感や空間性に欠如が出るので不思議な感じになり、耳にきわだつ)、Motianも全体的によりしずかにやって、音を抜いたり、シンバルの開始を遅くしたりしていたのではないか。さいごの"... a Few Final Bars"は全演奏が終わったあとのたわむれとか会話をおさめた余録で、なんと言っているのかぜんぜんわからないのだけれど、さいしょにEvansに呼びかけているのはOrrin Keepnewsなのだろうか。thirty-secondsがどうのとか言って、Evansもthirty-seconds? と聞き返してからピアノを速弾きするので、たぶん、いまこれまだ録ってるから、三十二分音符のフレーズとかやってみてよ、みたいなことを言っているのだろうか。そのあとは各方面でぼそぼそ会話がなされていて、Can you sit down here? とか聞こえたり、女性の声がtoday'sなんとかかんとかとか言っているが、聞き取れるのはそれくらいでほぼなにを言っているのかわからない。
 Evansを聞いたあとAmazon Musicをそのままにしておくと、自動再生でCannonball Adderleyの"Minority"というのがつづいた。その冒頭のドラムのシンバルの打ち方がおぼえのあるもので、これはPhilly Joe Jonesじゃねえの? とおもったがいったん止め、日記を書こうとおもったところが手の爪が伸びていて打鍵もしづらいので、さきに爪を殺すことに。それでその演奏を聞きながら爪を切ることにして、パーソネルを調べようとしたが、『Grand Central with Cannonball Adderley』というタイトルのこの音源の情報になかなか行き当たらない。Coltraneとやったときの音源とかが出てくるが、それではないようだ。Amazon Musicのこのアルバムはコンピレーションのたぐいだったようで、最終的にたどりつくと"Minority"は『Portrait of Cannonball』という五八年のアルバムの一曲目だった。Gigi Gryce作。メンツはBlue Mitchell, Bill Evans, Sam Jones, そしてやはりPhilly Joe Jones。あのシンバルの叩き方はどうせそうだとおもったのだ。Philly Joe JonesかKenny Clarkeかのどちらかだとおもっていた。しかしPhilly Joe Jonesがほかにいったいどこでああいう叩き方をしていたのか、わからない。それを聞きながら爪を切り、Philly JoeからMiles Davisの『Relaxin'』をおもいだしてひさしぶりに聞きたくなったので、つぎはそれをかけながらゆびさきをやすった。そのあときょうの記述をしはじめて、ここまで書くともう三時四七分になっている。あと、文を書くまえにシャワーも浴びたのだった。


     *


 この日はあと日記を書いたり、夜になって近間のサンドラッグに買い物に出かけたりくらいで、書けるほどのこともそうない。サンドラッグでは会計のさいにすこしだけ緊張をかんじた。まずレジのてまえまで行って、婦人が会計しているのを籠を持ったまま立ち尽くして待っている段階で腹に緊張のちいさな芽生えをおぼえた。パニック障害、すなわち不安障害患者は、基本的に公共領域である一点にとどまらなければならないということが苦手である。いまここで発作が来たらどうしようという不安をつねに潜在的にかかえているからだ。さいしょはそれがはじめの発作にむすびついた特定の場所や状況だけだったのが、だんだんとその対象がひろがってきていわば不安に包囲され、日常生活を送るのが困難になってくるというのがその典型的な症状の推移である。この、とどまらなければならない公的領域、もしくは状況にたいする恐怖を広場恐怖という。会計を待つレジの列にならんでいることができないという症状は、これまでこちらはほぼ経験したことがないが(つまり過去にいくらかはそのかたむきも感じることがあったのだが)、わりとよく聞くものだし、ほかにも美容院が駄目だとか、エレベーターのなかが駄目だとか、いろいろある。じぶんにとってのいちばんはもちろん電車内で、そのほかいまは外食の場だ。ともあれこの夜サンドラッグでもわずかな緊張を感じ、じぶんの番が来てお願いしますとかいっても声がかすれてぜんぜん出ない始末である。なさけないが、とはいえ荷物の整理を終えてわずか数分の夜道を帰ればからだにふれてくる夜気が涼しくてここちよい。

2022/9/14, Wed.

 碑

       一周忌――一八九七年一月

 北風に吹き流される黒い巌の怒りは
 信仰者たちの弁護があっても止まないだろう
 この人たちは何か原罪の宿命を祝福するかの
 如く人間の罪悪中に原罪の類型を探すのだが。

 山鳩が鳴くとしてもここではいつものように
 その無形の哀悼は多くの雲の襞をもって
 明日の円熟した星を圧迫するのだ
 その星の輝きは衆生を白く照らすだろうが。

 今しがた私らの浮浪人からはずれて
 孤独にかけめぐるヴェルレーヌを誰が探すのか
 彼は草案の中にかくれている――(end121)

 浅瀬だと非難を受ける死を
 口もつけず一息に飲みほしもせず
 ただあっさりうなずいて死をつかむヴェルレーヌよ。

 (西脇順三郎訳『マラルメ詩集』(小沢書店/世界詩人選07、一九九六年)、121~122; 「碑」(Tombeau)全篇; 訳注: 「「巌」とか「雲」は正統キリスト教を象徴する。」)




 八時ごろにいちど覚めたけれど、なかなかからだをはっきりさせることができず、うごきづらく、つぎに携帯をみたのは八時四〇分くらいだった。そこから膝を立てて静止したり、腹や胸や脚をさすったり、だんだん起床に向かっていき、九時二〇分ごろ起き上がった。ゆめをけっこうたくさん見たようだったが、よくおぼえていない。紺色のカーテンをあけると曇り。空によどみも見えるくらいの曇天だったが、午後一時現在だとたしょう薄陽がカーテンに浮かぶときもある。洗面所に行ったりうがいをしたり、水を飲んだり蒸しタオルを顔に乗せたり。それから寝床へもどる。昨年のものと二〇一四年のものと日記を二日分読み返すが、とくに引いておきたいことはない。去年は(……)くんと通話してかれが書いた小説について聞いたりしており、一四年のほうは祖母の法要を終えて翌日だが積もった大雪の始末をしてからだを疲れさせている。読みかえしにつづいてモーリス・ブランショ『文学空間』もすこし読みすすめた。マラルメの「イジチュール」についての論述がつづくがどういうことを言っているのかだいたいわからない。核心部分、すなわちれいの自由意志的な死と主体にかかわることのない純受動的な死というはなしはいちおうわかって、品を変えつつそれをくりかえしているようなものだが、逆にいえばわかるのはそこだけで、その中核にもとづいて周辺に展開されるもろもろの記述はとらえがたい。読みながら太ももをよくほぐして、一〇時四〇分ごろからだを起こす。脛の側面とか足首のあたりを揉んでから椅子にうつって瞑想。しかしやはり左足がしびれて二五分くらいしかつづかない。きのう四〇分弱も座っていられたのはなんだったのか。とはいえ感覚はわるくない、まえにくらべると起き抜けからからだはかるくやわらかいし、座っていてもちからが抜けていく。肌をなめらかにして、しびれた左足をさすって麻痺を散らし、そうして食事へ。水切りケースに置いてあったパック米の空容器を鋏で切って戸棚内の袋に捨て、まな板と包丁、それに大皿を取ると野菜を切りにかかる。まな板は洗濯機のうえに置き、大皿はその左手の冷蔵庫のうえ、電子レンジのまえのせまいスペースに置いている。昨晩買ったキャベツをあらたにつかいだし、半分に切ったものの葉を剝いで細切りに。その他豆腐、サニーレタス、トマト。サニーレタスもリーフレタスもきのう行ってみるといぜん税抜で一五八円だったのが一七八円にあがっていたのだが、そのぶんなのかまえよりすこし嵩がおおきいような気はする。トマトは行った時点ではもうあまり良いのがのこっていなかった。ごま油&ガーリックドレッシングをかけ、そのほかツナの手巻き寿司一本や、メンチにナゲット。ウェブをみながら食し、食器を洗い(メンチカツなどにつかった木製皿だけは漬けておいてあとで洗った)、そうすると一二時半前だったとおもう。きょうは二時ちょうどくらいの電車で行かなければならず猶予はないが、やっぱり音楽聞いて心身をやしないたいなとおもったので聞くことにして、碧海祐人 [おおみまさと] 『夜光雲』をえらんだ。二〇二〇年一二月リリース。メロウそのものみたいなポップス。四曲入りのミニアルバムでぜんぶ聞いたが、二曲目と四曲目がより好みか。いま余裕がないのでこまかな感想はあとで書けたら。Bill Evans Trioの"All of You (take 1)"も聞いたがやはりすごい。クソを垂れてからここまで記すと一時一二分。


     *


 そのあとはワイシャツ一枚にアイロンをかけ、身支度をしてもう出るよう。一時四五分ごろに出発。部屋を出ると通路端から雲をまぶされた空に水色がみえ、あたりが晴れているのがわかる。階段を下りて道に出てみても路地には日なたが敷かれていて、そのなかを家の影がところどころ四角く突出している。すすんで公園ちかくに来ると園内をみとおしたさき、隣の建築現場から、淡い雲をかけられた空を背景に青緑色のクレーンが高々と伸び上がっているのが目をさそい、先端から垂れ下がったしたには黄色いフックがわずかに揺れて、公園内では滑り台に子どもたちが群れて遊び、こちらが通る縁の道には姉さんぶったような雰囲気の女児とまるこめ頭の男児がそれぞれ自転車に乗って、風がこずえにひびきを吐かせるなか、黄色やら黄緑やら老いてかわいた色の落ち葉が散らばったうえをあいまいにうろついていた。あたまを揺らす木にも濃緑のなかで黄色の点がおりおりのぞいている。陽射しは暑く、夏が一時出戻ってきたようなありさまだ。右折して西をむいても風呂にはいっているような漬けられかた、家のまえで鉢植えされているナスが、実はもうみえないが紫色の花をしなびたようにのこしているのをみやりながら路地を抜けて、渡るとまたはいった。すすむうちに先日も聞いたのだが、野良の白猫が無頓着な顔をしている小公園のそばで、どこか手近の家からリコーダーらしき合奏による旋律が漏れ出してきた。じっさいにそこで演奏しているのではなく、たぶん小学生の発表会かなにかを録った映像でもながしているふうにひびいたが、そのメロディにおぼえがあって、これ"心の瞳"じゃないか? となまえがあたまに浮かんできて、旋律はわかりやすい冒頭部分ではなくてもう終盤だったが、さいごにいたってまたメイン部分にもどったので、やっぱりそうだと確定できた。それでその後、「心の瞳で 君を見つめれば/愛すること それが どんなことだか わかりかけてきた」という冒頭部分をおもいおこしながら行ったのだけれど、これをじぶんが知っているのは中学校のときの合唱祭の選択曲のひとつだったからだ。じつになつかしい。合唱というのはすばらしい、文化のきわみである。合奏ももちろんよいけれど、声をあわせて歌うことはつねにいつだってすばらしい。じぶんは高校時代も文化祭より合唱祭のほうが好きだった。高一まではそうでもなかったが、高二になったころにはそれまでのギター練習やバンド活動によるものだろう、音感がきたえられていたので、それで俄然おもしろくなった。合唱祭、もういちどやりたいとおもうくらいだ。今後そういうグループに参加するのもよいかもしれない。(……)くんがなんかやっているらしいが。アパートだと歌をうたえないのがつまらないところだ。たまにはひとりカラオケにでも行ったほうがよい。
 (……)駅に着くとホームから階段通路にはいり、反対側のホームへ。からだはやわらいでいるので腹のあたりをさぐっても緊張感はほぼ見当たらない。まったく変化がないとはいえないが、自己観察の習慣をもった者でなければぜったいに気づかないくらいのものだ。ホームにはいってすすみ、止まって立ち尽くすと、携帯とイヤフォンを出して、きょうはFISHMANSの『男達の別れ』でもながすかと決めた。冒頭をはぶいて"ナイトクルージング"からにしてしまったが、夜の語を冠した曲にもかかわらず、FISHMANSのこういう浮遊感は陽のかよってあかるく暑いが風もながれてさわやいだ、このときのような昼間にもよく似合う。目のまえの線路上では上下に二本セットでとおった電線のとちゅう、線のあいだを縦につないだ金具がひかりを凝縮させていて、目をこらせば風のうごきや熱のゆらぎでも大気中に見えてきそうな、そんなあかるんだ宙をながめながら、またそのあとは目を閉じて頬に涼しさを感じながら電車を待った。まもなく来る。乗ってつかの間、(……)で降りるときょうも乗り換えに間があるからひとつさきの口まであるき、そこから上って六番線へ。下りていくころには"なんてったの"がはじまっており、これもまたさらに昼下がりのあかるさに似つかわしい曲で、立ち尽くして瞑目に聞きながら乗り換え電車を待った。そのまえに(……)行きが来たときには、こちらの横にカメラをかまえた鉄道ファンがいて、やってくる電車の鼻面を待ちむかえており、こちらもその背や電車の正面を見つつ、ファンにとってはやっぱり電車によってそれぞれ表情があるんだろうなとおもった。さらにしばらく待つと(……)行きがやってきて、そのときには目をあけて来るのを視線でむかえていると、けっこうゆったりとした調子で入線してきて、車体側面のオレンジ色のラインのなかにはホームがうっすら白く映りこみ、まえを向けば待っているこちらや他人のすがたも影となって、ガラスや扉のへこみを難なく通過しながら車体上をながれていく。乗りこむと席はあまり空いていないので角へ。手すりを持って目を閉じ、立位に静止しながら音楽を聞いたりからだの感覚を受け止めたりする。緊張がやはりまったくないわけではなく、先日と同様で、問題はないがヤク二錠のちからがなければもっとめんどうなことになっているだろうというのがわかる。一錠でも行けなくはないのだろうが、すこし苦しくなるかなという印象。(……)だったかで目をあけると席が空いていたので座ったが、その後はやはりだんだんねむくなってきて首が折れた。(……)でもうイヤフォンをはずしてしまい、目を閉じながら到着を待つ。電車内でうごかずに過ごしてきたし、きょうも勤務前にちょっとあるいてからだをあたためておくかというわけで、周辺を一〇分ほどひとまわりした。街道から駅前にもどるとちゅう、角のてまえで右を向けば、奥にあるビルに大口ひらいて穴があけられており、距離はあるのにその粉塵か、こちらの顔のそばにもちらちらただよい過ぎるものがあって、マスクをはずしていたのでおもわず吸いたくないなと反応した。駅前のビルがついに解体途中で、角を曲がって脇を行けば白い壁がもうけられて権利とか法関連の表示があり、なかにはいっていた喫茶店の入り口も立入禁止の文字がみられて、上り階段になるその通路がいかにも暗く、荒涼とみえる。このビルはむかし、こちらが子どものころは(……)で、ポケモン金銀が発売されたとき(たしか小六だったか? とおもったが、調べてみると九九年だから小四のときだ)に、とうじ実家の向かいの木造屋に住んでいた(……)といっしょに(だったとおもうのだが)朝の開店前にならんで、開くと同時にいそいでゲーム売り場にエスカレーターをのぼっていったおぼえがある。しかしそのときはけっきょく買えなかったのだったか、それかなぜかほかのものに目移りしてべつのソフトを買ったんだったか、そんな記憶もあるがよくおぼえていない。
 勤務。(……)
 (……)
 (……)
 (……)
 (……)


―――――

  • 日記読み: 2021/9/14, Tue. / 2014/2/15, Sat.


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Vivian Ho, Martin Belam and agencies, “Russia-Ukraine at a glance: what we know on day 203 of the invasion”(2022/9/14, Wed.)(https://www.theguardian.com/world/2022/sep/14/russia-ukraine-at-a-glance-what-we-know-on-day-203-of-the-invasion(https://www.theguardian.com/world/2022/sep/14/russia-ukraine-at-a-glance-what-we-know-on-day-203-of-the-invasion))

Zelenskiy said about 8,000 sq km (3,100 square miles) have been liberated so far, apparently all in the north-eastern region of Kharkiv. “Stabilisation measures” had been completed in about half of that territory, Zelenskiy said, “and across a liberated area of about the same size, stabilisation measures are still ongoing”. Ukraine now has set its sights on freeing all territory occupied by invading Russian forces.

     *

However, the frontline in eastern Ukraine is approaching the borders of territory claimed by the self-proclaimed pro-Russian separatist Luhansk People’s Republic (LPR) according to Andrey Marochko, a senior LPR military commander.

     *

Russia has probably used Iranian-made uncrewed aerial vehicles in Ukraine for the first time, Britain’s defence intelligence said on Wednesday, after Kyiv reported downing one of the UAVs – a Shahed-136 – on Tuesday. The device is a “one-way attack” weapon, the MoD said, and has been used in the Middle East. The shooting down of the drone near the frontline in Ukraine suggests that Russia is using the weapons as a tactical weapon rather than a strategic one targeting military installations deeper into Ukrainian territory.

     *

Von der Leyen also sent a strong signal over European Union expansion, saying the European Union is not complete without Ukraine, Moldova, Georgia and western Balkan countries. “You are part of our family, you are the future of our union. Our union is not complete without you,” she said.

2022/9/13, Tue.


     エロディヤード

 そう、孤独に花咲くは自分のため、自分のためだ。
 巧妙に目を眩 [くらま] せられたどん底に無限に
 埋もれた紫水晶の庭園よ、君は知る。
 原始の土地の厳しい睡眠の中に
 君の古の光を守る未知の黄金よ、君も知る。
 純粋な宝石のような私の眼がその美しい
 旋律の輝きを借りた石よ、君も、
 私の若い髪に宿命的な栄光と
 その重い歩調を与える金属よ君も!
 君のことだが、意地悪の巫女の洞窟のために
 悪性の世紀に生れた女、人間のことを語る!
 それによると、私の着物の萼 [うてな] から(end62)
 野生の喜びの香気のように
 私の白い裸の戦慄が湧き出よう。
 女は自然に着物をぬぐ
 あの暑い夏の青空が星のように震える
 私の貞潔を見るならば私は死ぬのだと
 予言せよ!
 私は処女の恐怖感を愛し、また私の髪が
 私に与える恐怖の中に住みたいのだ
 夕には床に入り、犯されることのない蛇よ、
 この不用の肉体に、お前の蒼白な光が
 冷やかに輝くのを感じるために。
 死にかけているお前、純潔にもえるお前、
 氷片の、残酷の雪の白い夜
 そしてお前の孤独な妹よ、おお私の永遠の妹よ、
 私の夢はお前の方へ昇って行くだろう、
 それを夢みた心は、すでに稀な透明の光となり、
 私は私の淋しい故国にひとりいるのだと信じるのだ。(end63)
 私の周囲の人は皆、一つの鏡の偶像崇拝に生きる。
 鏡がその居眠る静寂の中に写すのは
 金剛石の明るいまなざしのエロディヤード……
 おお最後の魅力! 私はそれを感じ、私はただ一人。

 (西脇順三郎訳『マラルメ詩集』(小沢書店/世界詩人選07、一九九六年)、62~64; 「エロディヤード」; Ⅱ 劇)




 正式に覚醒をみたのが九時五四分である。そこそこの暑さ。布団を半端にのけつつあおむけでしばらく静止して血のめぐりを感じ、それから腹や胸や脚や手をさする。手をよくさすってやわらげあたためておくとなんかいいなということにさいきん気づいた。胎児のポーズなんかもちょっとやって、一〇時半ちょうどに起き上がった。カーテンをあけるといつもどおりまず洗面所へ。顔を洗い、用を足して、出るとガラス製マグカップで口内や喉を水にさらす。机上の黒いカップにも冷蔵庫の水を一杯そそぎ、パソコンをスリープから解除するとNotionにあらたな記事をつくった。電子レンジを二分まわして蒸しタオルをつくるあいだに屈伸。からだの感じは起き抜けにしてはだいぶ軽い。脚もすぐやわらぐ。蒸しタオルを顔に乗せて視神経をあたためると、洗濯ももうはじめる。ビニール袋にはいったものをひとつずつとりあげてひろげて洗濯機に入れ、いまつかった蒸しタオルや枕のうえに敷いているタオルもくわえて、注水のあいだはまた屈伸したりする。洗剤を入れると蓋を閉めて開始。こちらは寝床にもどって日記の読みかえしである。2021/9/13, Mon.はけっこうおもしろい。まず天気や帰路のこと。したのほうがあの静寂がよみがえってくるかのようでいいかな。

(……)洗濯物をとりこむ。ついでに陽射しを少々浴びた。ベランダには日なたが生まれて足もとにかさなっており、ひかりを肌に浴びればむろん暑くていくらか夏っぽいものの、過ぎていく風のなかには熱気を散らすたしかな涼しさがふくまれていて大気は九月の爽やかさ、空に明確なかたちをなす雲はひとつもなくて淡い粉がさらさら刷かれているばかり、西をあおげば梢の上方で全方位へとふくらむ太陽の白さが空に混ざって雲の白さと見分けがつかない。風はほとんどとまらずながれつづけてあたりの草木草花ははらはらふるえ、我が家の梅の木と隣家の柚子の木のあいだに渡された蜘蛛の糸の中途には一枚の葉っぱ、枝をはなれてもまだ枯れきらず黄色いような緑にかわいたそれも、とらわれの身から脱するべくあがくけれどどうしても脱出できないというように糸といっしょにおおきく揺れさわいでいた。

     *

帰路は徒歩。行きの時点ですでに空に雲が湧いてゆるく畝をなしてひろがっていたが、夜にはそれがさらに密につながって隙間をなくしたようで、夜空は全面模様も差異も見えず一様に埋まっており、天を覆いつくした雲の白さがあらわなほどにあかるくはなく、といって黒い深さに沈むほどに暗くもなく、青みもなくてどうともいいづらい空だった。白猫は不在。裏路地にひとどおりはほとんどなくて、たまさか生まれても足の遅いこちらをさっさと抜かしていくからすぐにまた静寂となり、道の左右を縁取るごとく奏でられている虫の音と、トツトツひびくじぶんの足音ばかりがともづれになる。表に出て行っているあいだ、車のながれがとぎれてあたり一面にしずけさがひろがる例の聖なる沈黙がおとずれたが、それまで耳からかくれていた虫の音が前面にあらわれそればかりがやはりきわだって浮遊するその時間も、すべて聖なるものとはつかの間であるうつし世の原則にしたがってさしてつづかず、数秒すればまた前からまだすがたの見えない車の高い擦過音が侵入してきて、背後からもまだ遠いタイヤのひびきが低くつたわってくる。

 (……)さんのブログの昨年九月五日の記事も引かれていた。すばらしい記述だとおもう。

ナショナル ジオグラフィックの「9.11:アメリカを襲ったあの日の出来事」全六話中の一話と二話を見た。二十年前のことではあるが、今でも昨日のことのように衝撃的で、暗澹たる気分から、しばらくのあいだ立ち直れなくなる。

こういうのを見ると、政局とか情勢とかを知って判断して、正しく適切に行動する、などという言葉が、まやかしとしか思えなくなる。戦略だの戦術だのが、戦争ではない。今ここで、自分という個体がすべての判断根拠をうばわれること、認識という力を人間から根こそぎ奪って、生き物が本来もつ不安と恐怖を呼び起こして直に晒す、これが人間によってもたらされたということ、これこそが戦争と呼ばれる事態だと思う。

戦争は「この私は、こうする」といった主体性そのものを人間から奪う。上に向かうべきか、下に向かうべきか、救出に行くべきか、退避撤退すべきか、今この場所にいて良いのか悪いのか、この直後に何が起きるのか、どこなら安全なのか、どうすれば自分と家族を守れるのか、たった今、この私が、これで正しいのか間違っているのか、それらすべてに対して、拠り所を失って、不安と恐怖に駆られて右往左往するしかない、生き物の本性を、戦争は露呈させる。

「戦争反対」というのは常に、この苦痛を、この悲しみを、この不安を、この恐怖を、この怒りを…という場所から立ち上げなければ、意味がないだろうと思う。それ以外の小理屈がくっついたやつは「戦争反対」ではなくて、むしろ「戦争」に近い。そのような理屈をもてあそぶことで戦争に加担することなく、いつまでもその恐怖と不安と悲しみと怒りを、たった今の出来事であるかのように再生させ続ける必要がある。そのためには、いつまでも執拗に、過去を参照し続ける必要がある。

 また、翌日(……)くんと通話するということで、前回はなした日(二〇二一年の四月三日)の記事を読みかえしており、おもしろかった三段を引いている。「とくに目新しいはなしやかんがえはなく、いままでおりおり書いてきていることばかりだが、わりとよくまとまっているような気がした」と評しているが、たしかにうまくまとまってよく書けている気がする。

この会社はさらに、上でも多少触れたが、社員当人が納得している、という担保を重視し、もとめる。それはもちろん、本当は当人が納得していなかったとしても、納得したということが表面的に明言されれば良いという形骸化につながりうるわけだ。だから(……)くんも、実際には時間外労働をやっており、やらざるをえなかったわけだけれど、定期的にその点にかんして査察というか、私は時間外労働をやっていませんという証明書類みたいなものを書かされるらしく、しかしそこには当然、勤務時間以外にも仕事をやっていますということは書けないわけだ。正確には時間外労働をやっていますか? という問いがあり、それに対してはいとこたえると調査が入って、社員当人への対応とか環境的是正とかがなされるみたいな感じのようなのだが、それでまた仕事が遅れるとか、もろもろ勘案するといいえとこたえるほかはない。そして、その書類でもっていいえとこたえてしまった以上は、実際には時間外労働をしていたとしても、あの書類はまちがいでしたと取り消すことはできないわけだ。だってあなたはここできちんと証明しているじゃないですか、なんでこのときに時間外労働をしていますとこたえなかったんですか? ということになってしまう。ほかにも、たとえば(……)くんのように体調を崩したり、心身に問題をかかえたりした社員をケアするための専門の部署および社員というものも設置されているらしく、だから外面的には非常に丁寧に制度が整備されているように見えるのだけれど、実際にはそれらが機能していないというか、一種のエクスキューズとなっているようにも思われる。つまり、理屈の積み重ねでもって社員がみずから主体的な選択として納得とともに働いているかのように「洗脳」し、そこから逸脱した人間に対するケア的応対もシステムに組みこむことで企業としては十全に責任を果たしていると主張することが可能になり、社員が何かトラブルや問題に陥ったり、勤務維持が困難になったりしても、それはあなた自身の責任ですと、いわゆる「自己責任」論にもとづいて個人に過失を送り返すことが容易になるわけだ。実際入社する際には、ここはこういう会社だけどやっていけそうか、ということを念入りに聞かれるらしく、もし合わなければ辞めてほかのところに行けば良い、というスタンスが明言されているらしい。まあそれはそうだろうとは思う。ただ聞いてみればなんというか、いかにも現代的というのか、それともいわゆるポストモダン的と言って良いのか、強引に抑圧して強制的に従わせるのではなく、当人の思考に働きかけて行動を誘導しつつ監視するという、ソフトで緻密で侵入的なやり方が、いわゆる規律訓練以降の権力のやり口だなという感じが大いにするわけだ。こういうのは監視社会とか、生命科学とかと結びついたフーコー以後の権力論などでたぶんたくさん論じられているのだろう。ひとつの企業内でこれがおこなわれるにとどまっているうちは良いのだろうが、それが社会全体の一般になってしまうと、こちらなどはむろんまったく馴染めないような世界になって困るわけだが、残念ながら資本主義はわりとそちらの方向に向かってすすんでいるような気もする。一方でただ、曖昧な感情のようなものに依存して勢力を得たかたちの抑圧が、いままで社会領域のさまざまな場面で猛威を奮ってきたということはあきらかな事実だし、かっちり分けられることをきちんと区分けしてそういった事態が生じないようにしよう、という動勢もわかるはわかるわけだ。「働き方改革」とやらがかしましく言われるのもその成果ということだろうが、ただそこで極端に走っても結局うまく機能しないというか、目指したはずのところに行けないのではないかという気がする。単純な話、合理的制度でガチガチに固めて管理した体制は余裕がなくて、そこにいる人間にとっては窮屈だからまたべつの面で問題が生まれてくるだろうし、また制度的に固く締まりすぎていて余白がないものは一般に弾力的耐久力に乏しく、どこかが崩れればそれがひろく波及して、修復は困難で手間がかかる。くわえて言えば、以前散歩の途中に見かけた保育園にこちらが通っていた頃にはなかった柵が新たに設けられていた、という観察に関連して記したことだが、合理的分割を徹底的に推し進めておのおのの分をかたく守り異質なものを入れないようにしようという姿勢は、その行き着く先は結局のところナチスドイツでありディストピアであるように思えてならないのだ。そして残念なことに、資本主義における金科玉条は効率であり、合理的分割とはそのまま効率化であるとともに異質なものとは効率の敵なので、資本主義と上のような発想は大変に相性が良い。また一方では、制度的外形だけをいくらきれいに整えても、そのなかでは結局感情的要素のようなものが隠然とはびこって、かえって制度を悪用したり、骨抜きにしたり、新しくより姑息で複雑な抑圧の仕方を編み出したりするのではないかという気もする。あとは単純な話、(……)くんがいた会社のような仕組みだと、人間的意味の領域がきわめて希薄になるわけだ。それは社員ひとりひとりに言わばAIになることをもとめるというか、個人の人間性を捨てて大きな機械の一部となり、社員全員で総合的にひとつのコンピューターをつくりあげることをもとめているようなものだろう。しかしまだ実存を捨てられるほど人類は進化していないし、科学と哲学がどこまで進もうが、当分のあいだは「この私」が確かにあるという主体幻想を、それが仮に本当に幻想だと証明されたとしてもひとは放棄できないだろう。誰も意味から逃れることはできずそれに悩んで日々と生を生きているわけで、人間的意味を考慮に入れずあまりに捨象するというのはむしろ現実的でないように思うのだが。

そういうわけで(……)くんは仕事を一時辞め、いまはゆっくりと暮らしながら次の職や生き方を模索するところに入っている。強迫神経症と聞いていたが幸い体調は日常には問題なく、文を読むということもリハビリみたいな感じですこしずつやっていると。今回の会社は自分には合わなかったから体調を崩さなくとも遅かれ早かれ辞めていたとは思うが、前の職場がそれとは対極みたいな感じでゆるゆるで、少人数でやっていたところだから、二つ現場を見てきて本当に色々なところがあるなあと勉強になった、というようなことを言っていた。せっかく時間と環境ができたんだから、気の向くままに色々やってみたら良い、とこちらはすすめる。(……)くんとしても、自分は~~しなきゃ、という意識がけっこう強いほうで、案件が多すぎてキャパシティを越えたことももちろんそうだけれど、もともとのそういう性向が今回の変調を招いた一因だと認識しているようだった。いまも、自由になったはずなんだけど、まだそういう思考に縛られているというか、一日のなかで、あれやんなきゃと考えることが多い、と言う。それはわりとわかる話だ。まあひとは誰も、多かれ少なかれそういう義務的な事柄に追われて生きているのだろうし、そうせざるをえないのだろうが、ただ最近思うのは、結局のところ、この~~しなきゃ、から四方八方すべて逃れるというのが自由という状態の完全な実現なのだろうな、ということだ。仏教で言えば諸縁を放下するというのがそうなのだろうし、あらゆる意味でのしがらみから解き放たれて自分ひとつだけである、ということ。そもそも「自由」という語自体が、みずからによる、自分自身に(のみ)由来する、という字面になっているわけだし。ヴィパッサナー瞑想が目指す境地というのもそういうことなのだろうというのがだんだんわかってきた。ただ、以前からおなじことをくり返し書いているけれど、仮に諸縁を完全に放下して理想的な自由にいたることができたとしても、それはあらゆる物事に対する無関心ではないし、またそうであってはならず、仮に超越にいたったとしてもそのままそこにずっといられるわけはないと思うし、此岸にもどってきて現世のなかで具体的に生きなければならない。ただまあ生まれてからこの方、人間というのは知らず識らずのうちに、外から植えこまれたのでもあるだろうしみずからつくり出したのでもあるのだろうが、無数の~~しなきゃ、に包囲され占領され支配されて生きているようだということを最近よく感じるもので、ときにそれが~~したい、と見分けがつきがたくなっているあたりがまたたちが悪い。こちらも、死ぬまで毎日文を読み書くのだとか、できるだけすべてを記録するのだとか、そういうこだわりと執念をもってこの数年間生きてきたし、それはそれでべつに全然良かったのだけれど、そういうみずから主体的に選び取ったはずの原則もまた拘束であることに違いはなく、そういうこだわりも本当はあっけらかんと投げ捨てたほうが良いのかもしれないな、という気持ちに最近はなってきた。それですくなくとも後者の、なるべく多くを記録するという点にかんしては実際もうわりと放棄しているし、死ぬまでずっと読み書きを続けるというほうにかんしても、以前よりも強迫性が弱くなってきた。まあ前からおりおり、やめたくなったらさっさとやめれば良いと書きつけてもいたけれど、その発言が前よりもちかしく感じられるようになった気がする。読み書きも、文学も、書物も、音楽も、捨てて、起きて眠り飯を食って道を歩きひとと話しては光と風を浴びるだけで満足するような単純な存在になったほうが、本当は良いのかもしれないなあ、と思う。そうは言いながらも、いまのところ読み書きをやめたいという気持ちは起こっていないし、すぐにやめるということはないだろうが。

諸縁を放下するというのは、いまこの瞬間に自分がここに存在しているというその事実だけで自足する、ということとたぶんだいたいおなじではないかと思っている。過去とか未来とか人格的な自己意識とかは、自分を何かに縛りつける拘束でありしがらみであるわけだ。そういうものから完全に、恒常的に逃れることはたぶん無理なのだろうけれど、瞑想などによって一時的にその拘束を軽くすることはわりとできるし、そういう実践を重ねていくとそのほかの時間にあっても自分を縛る力がそこそこ軽くなる。完全になくすということはたぶん無理なのだが、それまでよりも弱くするということは普通に可能だ。そうすると浮世のよしなし事に対する対抗力ができて、色々な物事にあまり振り回されず、それなりに楽に生きられるようになる。ヴィパッサナー瞑想というのは、究極的には、生のあらゆる時間をそういう自由な心持ちや状態で過ごすことを目指すものなのだと思う。(……)くんは、~~しなきゃ、とか思うのは、普通にやらなければならないことがあるということもあるが、無駄な時間をつくらないというか、有限である時間を最大限に活用しなければならないというか、ある時間が何かにつながり、何かにならなければならない、という固定観念があるのだと思う、というようなことを言った。つまり意味づけの問題で、ひとは基本的には無意味に耐えられないわけだ。たとえば電車とかバスとか、なんでも良いけれどもろもろの待ち時間を、いまたいていのひとはスマートフォンを見て過ごしていると思う。あれは何もしないという時間、その意味の希薄さと退屈さに耐えられないので、それを何かしらの行動とか情報とかで埋めようとしているわけだろう。それはあるひとにとっては暇つぶしであり、積極的な意味は持たないが、とりあえず退屈を埋めて紛らわせてくれる程度のことができればそれで良い。また、言わばより意識が高いというか、隙間の時間を自分の能力向上とか情報収集とかに活用するひともいる。何か勉強したりとか、語学をやったりとか、ニュースを見たりとか。ひとはだいたい誰でも物語、言い換えれば人生全体を統括する大きな目的意識を程度の差はあれ持っているもので、しかしその物語はむろん、たいていの場合は、生のすべての時間がそれに接続し、吸収されるほどの包括性はそなえていない。物語とか人生観という大きな体系から見たときに、その意味論的システムから漏れ落ち、無駄と判断される時間はかならず生まれてくる。上に記した意識が高いひとの行動は、そういう時間をもなるべく自分の意味論的体系の内部に組みこもうとする情熱だと言えるだろうが、いずれにしても意味の無さに耐えられないことには変わりなく、後者のひとのほうがむしろ積極的に有意味をもとめるあたり、強迫的な補完欲に追い立てられていると言えるかもしれない。ここで言っているのは何かの待ち時間という個別的で小さな合間のことだが、それを人生全体に敷衍すれば、だいたいのところ、パスカルハイデガーの洞察とおなじことになる。つまり、ひとが不幸になるのは部屋のなかでただじっとしていることができないからであり、人間は絶えず気晴らしをもとめて駆けずり回っている、みたいなことを言ったのがパスカルであり、ハイデガーに言わせれば、ひとは自分がかならず死ぬという生の根源的無意味性に目を向けず、それから意識を逸らすためにいつも気散じに耽って頽落した非本来的な生を送っている、ということになるだろう。ヴィパッサナー瞑想はこの無意味性をそのままに受け取るというか、何につながらなくともそこにはそれ自体でささやかながらも意味があるのだ、というような受け止め方を涵養する、と一応言える。待ち時間が無意味で無駄だと感じられるのはあくまでそのひとの総合的な物語とか、そのときの目的および行動連鎖の文脈においてのことであり、純然たる無意味としての時間などというものをひとは経験できない。だから無意味で無駄だと思われる時間においても、もちろん一定の意味は生じており、ただそれは多くのひとにとっては感じ取れず、それ以外の時間よりも希薄だと感じられているだけのことだ。ヴィパッサナー瞑想もしくはマインドフルネスというのはいまそこにある物事に気づく能力を養うタイプの実践であり、そういう能力とそれに付随するある種の感性が鍛えられると、だいたいどのような時間でもそれそのものとして受け止めて味わえるようになる。つまり、退屈をちっとも感じなくなる。たとえば駅で電車を待っているあいだなど、風の感触とか、周囲を行き来する人間たちの様子とか、目前の風景とか、そういう何の変哲もない物々を感得しているだけでまあそれなりに面白いということになる。あるいは目を閉じて自分の頭のなかの思念を見ていても良い。めちゃくちゃ面白いわけではないが、普通に退屈はしなくなる。これらのささやかな感覚的情報も、その時空がはらみもっている意味の断片群である。たいていのひとはたぶん、これらの微刺激を明瞭に意識していないし、気づいたとしてそれはごくありふれた日常的な平凡事に過ぎないから、それに対して何を感じるでもないし、それらから何をもたらされるでもない。だからその時空は、無意味で何もない時間だと判断されてしまう。瞑想的な心身をはぐくめば、それらの意味断片群がそれとして感覚器に映るようになり、自分の世界のなかに豊かにあらわれてくる。それらは特に何につながるわけでもないが、それ自体として一定の刺激と、面白味を、言ってみれば味わいのようなものをあたえてくれる。それは音楽を聞くことや、飯を食うこととそこまで遠くはない。音楽や食物は何につながらなくともそれ自体で快楽や満足感をもたらしてくれるものである。ひとが何かの物事について「意味」という言葉を使うとき、多くの場合それは、そのものがつながる何かべつの物事、という意味で用いられている。だから手段と目的の二分論が成立するわけだし、役に立つうんぬんとか利益がどうとかかしましく語られるわけだ。何かある物事があれば、それはかならずべつの物事につながらなければならない、というのが現在の人類が広範に捕らえられている強迫的な固定観念である。何にもならない時間というものに耐えられないという感性も、たぶんそこから出てきているだろう。いまの人間は生まれた瞬間からその固定観念に心身を浸食されつつ育つことになっている。そこに資本主義的社会制度と、利益という、その発想内における唯一絶対の意味づけとが大いに影響していることはまちがいないだろう。だから何のため、何の役に立つのか、何の意味があるのか、という問いが人々の口からあふれかえるわけだ。これはむろん、未来予測によって現在の生の意味を色づけてしまうという事態と相同的である。数日後に迫る運動会が嫌でいま遊んでいても楽しくない子どものようなことだ。その最大級に極端な例がニヒリズムで、最終的には自分が死ぬということを理解したことによって現在の生までもまったく無意味に思えてくるという観念的操作がそれだ。人間は目前の物事を見ながら絶えずべつのものを志向している。諸縁を放下するといったときの「諸縁」というのはそういうことで、あるいはおそらくそういう意味もふくめて考えることが可能で、縁とは何かとのつながりのことであり、つながりはひとを支えもするが、同時に縛りつけもする。瞑想的実践は精神をその拘束からある程度解放させてくれると、一応は言える。物事が何につながらなくともそれそのもので肯定し、肯定しないまでも受容し、あるいはひとまず受け止めることがわりとできるようになるし、うまく行けばそこに楽しみや面白さをおぼえることも可能になる。だからヴィパッサナー瞑想的なあり方を極めた人間にとっては、おそらく生のだいたいの瞬間が、精神的に食事を取っているみたいなことになるのではないか。いつのどんな時空であっても味わえるようになるということ。もちろん甚大な苦痛が生じるような場合は無理だろうが。で、(……)くんはそういう種類の時間として、ひとつの体験例を挙げた。まだ働いている最中のことだったかそれとも辞めてからの最近のことだったか忘れたが、駅で電車を待って座っているときに、目の前にハトがいてまごまご動いているのをただ眺めていたのだと言う。普通のひとだったら無駄な時間だと思うんだろうけど、僕はけっこう好きなんだよね、そういうの、ああいうときはたしかに自由なのかもしれない、と彼は言った。そういうタイプの感性と心身を持ち合わせている彼が、上記したような種類の会社でやっていけなかったのは、むしろ当然のことのようにも思える。

 その他したのもの。

斎藤美奈子「世の中ラボ: 【第132回】ブラック校則は学校だけの問題か」(「ちくま」2021年4月号より転載)(http://www.webchikuma.jp/articles/-/2370(http://www.webchikuma.jp/articles/-/2370))のほうがおもしろかった。世田谷区立桜丘中学校といって、校則を完全撤廃した学校があるらしい。ルールをつくるというのは非常に効率的でその後のコストを格段に下げることができる操作であり、ルールが確立されているところではそれを課す側は、それはルールなので、とただひとつおぼえに言っていればよいだけなのでかなり楽をできる。ひるがえってルールというものがないとなると、なにか問題が起こったときに掟の一般性に準拠することができないままに、具体的な状況で具体的なあいてとその都度詳細で個別的なやりとり=交渉をして事態の解決をはからなければならなくなるわけで(もちろんルールがあってもそれらは存在するし、ルールが明文化されていなくとも事例の蓄積とその都度の対応のしかたによって慣例法的なちからは生まれるだろうが、すくなくとも「それがルールだから」という論拠はつかえなくなる――端的にいって、それまで「注意」とか「指導」とか「命令」とか「抑圧」とかだった領域が、「交渉」や、それにちかいものになる)、それこそが真にコミュニケーションと呼ぶべき契機だとはおもうものの、これは非常に手間のかかるたいへんなことでもある。だから校則全廃などという事態が曲がりなりにも実現できたということは、個々の教師が相当に労力をついやしてがんばったのではないかと想像する。


 2021年2月16日、大阪地裁で注目された裁判の判決が下された。仮に「頭髪訴訟」と呼んでおこう。
 ことの発端は15年、大阪府立懐風館高校一年生だった女子生徒が、生まれつきの茶色っぽい髪を黒く染めるよう教諭らに強要されて、翌年、不登校になったことだった。彼女は約220万円の損害賠償を求めて府を訴えた。17年のことである。
 報道によると、横田典子裁判長は元生徒側の訴えを一部認め、府に33万円の支払いを命じた。だがその一方で、こうした校則は生徒の非行を防ぐ教育目的に沿ったものであり、「社会通念に照らして合理的で、生徒を規律する裁量の範囲を逸脱していない」との判断を示した。また、教師らの頭髪指導も「教育的指導における裁量の範囲を逸脱した違法があったとはいえない」とした。違法とされたのは、校則ではなく、不登校後の学校側の対応だけ。

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 荻上チキ+内田良『ブラック校則』の副題は「理不尽な苦しみの現実」。本書が生まれたきっかけは、くだんの「頭髪訴訟」である。訴訟は衆目を集めたのを機に、有志による「ブラック校則をなくそう! プロジェクト」が立ち上がる。世間で交わされているのはあてずっぽうな議論である。実態調査もデータもない。
 そこでチームは18年2月、10代(15歳以上)から50代の男女2000人を対象に自身の体験を聞くアンケート調査を行った。ほかに現役の保護者2000人を対象にした調査も行った。本書はその回答の結果と、複数の論考を集めた本で、この件について考えるための、ほとんど唯一の基礎資料である。
 校則は生徒手帳やプリント、ウェブなどに明記されたものだけではない。「伝統」「校風」の名の下で行われているもの、校長や教師によって急遽ルールができるケースも含まれる。そのうち、社会から見て明らかにおかしい校則がブラック校則だ。
 まず頭髪について。生まれつきの髪色を「茶色」と答えた人は、本人・保護者ともに8%程度。うち約一割が中学で、約二割が高校で「髪染め指導」を受けていた。また、天然パーマの矯正を求められたり、髪型を細かくチェックされた人もいた。
 生まれつき茶髪の娘が、二か月ごとに黒く染めるよう求められた(福岡県・私立高校・保護者)。長くなると茶色が目立つため、地毛証明書を提出していても、「毛先を切れ」「結んで目立たないようにしろ」といわれる(茨城県・私立高校・当事者)。子どもがくせ毛であることは申請してあるのに、「ストレートパーマで伸ばすように」と注意された(三重県・公立高校・保護者)。
 服装の規定で目立つのは「下着チェック」だ。
 中学三年の時に、プールの授業があった日の放課後に男性教諭から呼び出され、「下着青だったんでしょ? 白にしなきゃダメだよ?」といわれた(愛知県・公立中学校・当事者)。スカート丈の短い女子生徒を呼び止め、女性教員がいきなりセーラー服の上着をまくりあげ、スカートをベルトでたくし上げていないか、点検する(東京都・私立中学校・教師)。修学旅行の荷物検査で一部分が白でない下着を持っていた女子生徒が没収され、そのまま二泊三日をノーブラで過ごさせられた(佐賀県・公立中学校・保護者)。
 日本の学校、くるっているとしか思えない。共通するのは学校や教育委員会に訴えても相手にされなかったという点だ。しかも校則の細かい規定は減るどころか、近年増加傾向にある。

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 西郷孝彦『校則なくした中学校 たったひとつの校長ルール』は校則を撤廃した中学校の記録である。著者は世田谷区立桜丘中学校の校長(20年に退任)。桜丘中には生徒を縛るルールがない。
 ①校則がない。②授業開始と終了のベルがない。③中間や期末の定期テストがない。④宿題がない。⑤服装・髪型の自由。⑥スマホタブレットの持ち込み自由。⑦登校時間の自由。⑧授業中に廊下で学習する自由。⑨授業中に寝る自由。⑩授業を「つまらない」と批判する自由。――そんなバカな!
 最初はバカな、と私も思った。しかし本書を読むと、右のような形に至るまでには、相当な時間と手間が費やされており、「はい、今日から校則をなくします」なんて話じゃないことがわかる。
 西郷校長が赴任した2010年、桜丘中は教師の怒号が飛び交う学校だった。朝礼ひとつとってもまるで軍隊。「黙れー!」「そこ! 早く並べ!!」「おい、後ろを向くな!」。
 校長は朝礼の見直しから手をつけた。
〈生徒がうるさくしていても、それは私の話がつまらないせい。だから生徒を怒鳴ることをやめましょう〉。
 教師には〈子どもは管理するものであり、教員が指示を出すもの〉という固定観念がしみついている。朝礼には〈一糸乱れず整列して、校長のありがたいお話を大人しく聞かなければならない〉という暗黙のルールが敷かれている。ならばルールを取り除いてしまったら? 生徒が騒ぐのは校長のせい、と責任転嫁してしまえば、生徒を注意する必要はなくなる。
 桜丘中には「セーターの色は紺」という規定があった。派手にならないためという理由である。だが、派手とはいえない白や黒もダメ。理屈に合わない。そのうち生徒からグレーや黒も認めてほしいという要望が出てきた。セーターの色は「紺」から「紺・黒・グレー」になり、最終的には「自由」になった。
 この本は、校則をなくすまでの過程を通して、学校がいかに「思い込み」に支配されてきたかを浮き彫りにする。多くの校則には合理的な理由がない。「なぜそうなのか」を議論することで、矛盾が浮かび上がり、教師も生徒も自分で考えざるを得なくなる。
 試行錯誤の末、桜丘中は16年に校則を全廃した。
 校則がなくなって、いちばん変わったのは教師だった。〈それまで、校則があるばかりに、教員は生徒が校則違反をしていないかどうか、目を光らせていなければなりませんでした。(略)当然、反抗的な生徒も現れます。「こんな校則、破ってしまえ」となる。/すると教員は、さらに強権的に指導しなければならなくなります〉。これでは教師と生徒の信頼は築けない。

 二〇一四年のほうもひさしぶりに読むことにして、二月一三日と一四日のつづき記事。この二日間は祖母の法要で、兄と(……)(いとこ)とともに葬儀場に泊まったのだ。「緊張も大きな感情の動きもなかった。僧侶が入場して経を読み、父が涙をこらえながら挨拶をし、集まった人々が焼香を済ませるのを淡々と眺めた」とのこと。兄がとなりで泣いていた記憶はある。去年亡くなった山梨の、つまり父方の祖母のすがたも記録されている。「父方の祖母と会ったのは、二〇一一年、大学三年時の夏休みが最後だった。あのときはまだ病気もそれなりに勢力をたもっていたのに、薬をもっていくのを忘れていくらかひどい目にあったのを覚えている。小さくなったのかもしれなかった。曲がった背骨が突き出して礼服の背中を盛り上げていた。食欲はあるようで色々と食べていたのはよかったが、以前の記憶よりも声がかすれているような気がした」。通夜の明けた翌朝、はやばやと礼服にきがえて準備をととのえているこちらのいっぽう、「兄はこういうときいつも鈍重で、給湯制限時間の九時直前にシャワーを浴び、親戚連中がおおかた集まっても即席麺を食べており、僧侶が来たころになってようやく着替え出した」ということで、体型もそうだが神経もさすがの図太さだ。そういえばこのときじぶんは献花とか果物籠の集金役をわりあてられて、親戚連中から金をあつめて記録したりして、「集めた金を数え、業者の方と確認し、領収書を受け取って配ったりしていると食事をしている時間がなくなって半分ほどしか食べられなかった」といっているが、このときの業者のひとが眼鏡をかけた中年の、したしみにくい慇懃さの女性で、ロビーかどこかのソファでかこんだテーブルに向かい合って確認をおねがいしますといわれて、あつめた金をかぞえようと不器用な手でまごまごしていると、ちょっといいですかと介入されてあちらがさっさと金をかぞえ終わり、集計してしまったことがあって、そのとき、じぶんはもう二四にもなるのにずいぶん幼稚で世間知らずだな、こういうときの如才ないふるまいかたひとつできない、と恥をかんじたことをおぼえている。
 再度床をはなれて、また水を飲んで足首あたりをちょっと揉んでから瞑想。一一時三四分からはじめて一二時一二分まで行ったから四〇分弱、なかなかながい。屈伸をよくやったりしていたのがよかったようで、座っているあいだはほぼしびれを感じなかったし、解いてからもじんじんこなかった。空気はわりあいに暑い。座ってじっとしているだけなのだが肌が熱を帯び、汗もうすく生じて、肌着の黒シャツが胸や背にじんわりと貼りついてくる。それを感じ、またその気づきをしぜんとあたまのなかで言語化しながら、その些末さに、じぶんはじぶんの経験を書き尽くしたいのかなとおもった。つづいてさらに、それはいってみればなまみのじぶんをくまなくテクスト化することで言語のなかに死んでいきたいということなのか、まるで断崖から海にむかって日々投身自殺するかのように言語のなかに消えていきたいのか、じぶんをテクスト的存在として組み換え転生させるというか、いわば翻訳作品のようにしてしまいたいということなのか……などとおおげさなことをかんがえた。じっさい何年かまえ、たぶん二〇一五年か一六年あたりに、じぶんやかかわりのあったひとびとを知り得るものがだれもいなくなった遠いいつかに、われわれがもともとの肉体や実存的アイデンティティをうしなったたんなるテクスト的存在として電脳空間のかたすみを永遠に漂流しつづけるとかんがえること、それはこころをそそるロマンティックな夢想だ、という言を書きつけたおぼえがある。いまはそのときほどそういう夢想に惹かれてはいないのだが。
 瞑想後、洗濯物を干す。瞑想前に椅子から右をみやったときには空気の色は曇りと晴れの中間のようなところで、とはいえレースのカーテンの右下に、布の色とほとんど変わらないあかるみがうすく宿りとどまってもいたのだが、干すころには粉だったり薄ぎぬだったりちいさな丸まりだったりいずれ弱い雲がたくさん混じりつつも水色は敷かれ、ひかりも相応にあったので洗濯物にはそうわるくなさそうだった。ハンガーを物干し棒にピンチではさんでずらりとならべる。そうして食事へ。野菜はもうキャベツとタマネギしかないので、それらを切ったりスライスしたうえにハムを乗せて食うしかない。豆腐がないのがなんとなく物足りない。サラダに豆腐を入れるのはかなりよい。そのほかレトルトのカレーだが、鍋もあるしということで湯煎することにした。水をそそいでコンロに乗せて、これまでいちどもつかっていなかった換気扇のケーブルをほどき、電源につないでつけてからガスの栓をひねって火をつけたところが、ガスのにおいがけっこうして、そのわりに換気扇の勢力はたよりなく、だいじょうぶかとおもったのでさきほど閉めた反対側の窓もあけておき、すると野菜を切っているあいだにだんだんにおいがしなくなった。(……)さんのブログ、九月七日分をきのうのつづきから読みながら食事。カレーはたいしてうまくなかった。S&Bの「ホテル・シェフ仕様 欧風ビーフカレー 特製濃厚ソースの深いコク」という四個パックのやつで、このへんの品で値段のわりになんかコクがあるようなかなりうまいやつがあって実家にいたころよく食っていたのだけれど、正確におぼえていない。食後はさっさと食器を洗い、そうするとたぶん一時をまわったくらいだったか。


     *


 きょうも音楽を聞くことに。昨夜の食後にJoshua Redman, Brad Mehldau, Christian McBride, Brian Blade『LongGone』の後半を聞こうとしたけれど、労働後で時間も遅かったので(午前一時を過ぎていたはず)とうぜん音楽を聞けるような明晰な意識になるはずもなく、ここでリベンジした。"Kite Song", "Ship to Shore", "Rejoice"。やはりMehldauとRedmanのふたりのソロに耳が行く。Brad Mehldauは、変則的ながらブルースっぽい五曲目の"Ship to Shore"ではソロの冒頭はそれらしきフレーズをちょっと弾き、まもなく展開・彷徨していくのだけれど(ほかの曲のソロもまずさいしょはコードやキーに合わせた尋常な音使いからはいっている)、この曲のソロはお得意の両手の交差をつかってうねうねするようなうごきをみせており、こういうあたりたぶん理知的とか形容される部分なのだろう。ちょっと煮え切らないような、まとまりきらなかったような感じを受けないでもないが、かえってそこになにか好感を得るようだった。実験的な向きをみたのか。ただそれは一、二曲目にかんじた独自の旋律の位置を見出そうとするような姿勢とはまたちがうようにも聞こえ、どちらかというとこの曲でこの技をつかってなにができるか、みたいなことのような気がする。既存の手札の範囲でどうなるかやってみたというような。Redmanはやはり四、五曲目でも几帳面かつ流麗に音符をはめてスルスルながれていくのが基本のやりかたで、だから二曲目にかんしてブロウにながれなかった禁欲うんぬんと言ったけれど、むしろもともと加速的なシーツ・オブ・サウンドのような吹き方はあまりしないひとなのかもしれない。リズムのはめかたが正確ですごくよくながれるので、聞いていてきもちがよい。ただこのアルバムの白眉でもっともくりかえし聞きたくなるのは、どうしてもライブ音源の"Rejoice"で、おとといは冒頭のMCをChristian McBrideだとおもったけれど、McBrideだともっと声が低くて太いかとよくわからず、ふつうにこれRedmanかなとおもって検索したら、この曲は過去『Moodswing』でもやっていたらしい。それでやはりRedman作のようだ。熱のこもったライブ演奏で冒頭からMcBrideもBladeもスタジオとはちがった様相をみせているし、弾力的なキメ方でサックスとピアノがリズムと交錯する曲構成もキレていてかっこうよい。ただ拍子構成はよくわからない。基本八分の七だとおもうのだけれど、A部からB部に移行するときはすこしだけはやくなっているし、A部にもどるときも同様で、どうなってんのかあたまのなかで把握できない。またのちにサックスやピアノのソロ中、フォービートで走るところは四分の四の箇所もあり八分の七の箇所もありと聞こえてその移行もよくわからないのだけれど、こういうのはかんがえて数的に把握しようとしても無駄で、構造の面は捨て置いてただ目のまえで展開されている演奏をそれとしてひたすらに追いつづけるほかにない。そうすればやっているほうはとうぜん体感として構造を把握しているから、ここが区切りだなあたまだなというのが各方面のうごきからけっこう感じとれるところもあり、意外となんとかついていける。このライブ演奏はいうまでもなくすごいので、もう何回か聞いてみたい。
 そのあとまたきょうも六一年のEvans Trio。ディスク3にはいって、"Detour Ahead (take 2)", "Gloria's Step (take 3)", "Waltz for Debby (take 2)", "All of You (take 3)"と四曲。"Detour Ahead (take 2)"ではLaFaroがうごきすぎだろというくらい、ほぼ絶え間なくうごいており、Evansが去ったところに浮かびあがってくるような補完的なふるまいもあるのだけれど、ここでは平行してそれぞれの方向にむかうふたつのながれがほぼかんぜんにできていると言ってよいとおもう。それは副旋律ということではなくてほとんどソロがふたつ同時にあるようなもので、だからEvansとLaFaroはここではほんとうに対等になっているように聞こえる。Motianの刻みとシンバルのひろがりがあるからそれができるのだろうが、それにしても"Detour Ahead"という曲は雰囲気としてあたたかい、バラードにちかい種類のものなのだけれど、そういう曲でこういうことをやるのかというか、そういう曲だからこそむしろできるのだろうか。いずれにしても優美な、優雅な二線のダンスになっている。"Gloria's Step"のテイク3ははじまった直後からLaFaroがドゥルドゥダドゥルドゥダドゥルドゥダと左側でやたら荒ぶっているのが特徴で、全体的にもうごきかたははげしく、あとではバッキングのとちゅうでも一六分音符をぶちこむ馬鹿げたようなふるまいもあったし、ソロのなかでも高音部で連打しながらスライドして伸びるような箇所もある。これができてしまう、ゆるされてしまうというのがこのトリオのすさまじいところで、ふつうこんなことをおおまじめにやるやつがいたら、いやいやおまえはいったいなにをかんがえているのかと、そんなことをやってはいけないだろうと呆れ果てられるか、たぶんピアニストに馬鹿野郎とぶっ飛ばされるか怒鳴られるかするはずで、ベースがこんなことをやった時点でトリオが終わってもおかしくない。聞いているほうにしてみても、とうじLaFaroのこういうやり口に憤ったり嫌悪をいだいたりした人間がいなかったはずがないとおもう。いまだってそれは同様で、Scott LaFaroジャズベースにおける革命者であり、かれを擁したBill Evans Trioは伝説であり、六一年六月二五日の音源は歴史的名盤として評価が確立してしまっているから、だれもいまさらわざわざ言わないのだけれど、これを聞いたときにひとはもっと馬鹿じゃないかとか、おかしいとか言って、おどろいたり怒ったりするべきだとおもう。このVillage Vanguardでのライブはその価値が決定的に確立された古典的名盤などではまったくなく、現在進行系の、過渡的なジャズだとおもう。なんでみんながいまだってこれをすごいすごいやばいおかしいともっと言わないのかわからない。ここであきらかにジャズは起こっているし、音楽はなにかにむかっての生成の途上にあるとおもう。
 "Waltz for Debby"はしょうじきこの音源のなかではいちばんわかりやすい演奏なのでは? と、いちばんとっつきやすく、ふつうで、わるくいえば退屈な演奏なのでは? とこのあいだテイク1を聞いたときにはおもったのだけれど、テイク2のほうはイントロが済んだあとのテーマ部からしてなんかみんなちからがはいっているように聞こえるし、テンポもたぶんテイク1よりはやいのではないか。Evansのソロは旋律によりフォーカスしてきれいだし、疎密の配置も明朗で、LaFaroもEvansが上昇して舞踊のながれの区切りにひらめく手のようにさいごにひとつ高音を鳴らすのに応じて、三連フレーズで追いかけるようにあがっていったり、対位的なやりかたがみられる。とはいえだからその点、やはりわかりやすいとは言えて、この曲はこのトリオにおいて、やさしげな曲調とメロディを尊重しつつ対話的な方法で演奏するものとして位置づけられていたのかもしれない。Evansはここではベースソロの裏でバッキングをつけている。それもなんとなく、この曲はコード感を明確に持続して色合いわかりやすく提示するものなのだ、LaFaroとMotianだけにして抽象度を高めるやりかたが合う曲ではない、という判断があるような気がする。ただ、テイク1でバッキングがついていたかおぼえていないのでわからないが。こちらがこのトリオで一貫して惹かれてきたのは、ほかになく並行共存的な秩序をつくりあげているさまだけれど、一曲ごとにきちんと聞いてみるともちろんそれだけではなく、対話的な様相もおりおりふくまれており、曲によってこれはこういうふうにやる、これはこういうことを試す、という認識が三人やEvansの側にもあったのではないかと想像される。その点興味深くなってくるのは『Sunday at the Village Vanguard』であり、このあいだ図書館で立ち読みした中山康樹の本によると、LaFaroの死後に音源を出すとなったとき、EvansもOrrin Keepnewsといっしょに曲目の選択に参加したらしいからだ。だから『Sunday at the Village Vanguard』の選曲にはEvansの、LaFaroのプレイをみせるにはどのテイクがベストかという判断が反映されているはずで、それがそのままトリオ全体の演奏としてどうかというところにはつながらないかもしれないが、しかしLaFaroをフィーチュアするにあたっての判断と、このトリオの革新性をしめすという観点の判断では、そう遠くなくかさなるところがあるような気がする。だから『Sunday at the Village Vanguard』にはEvansがじぶんのトリオの演奏をどのようにみていたのか、その痕跡がもしかしたらふくまれているのかもしれないということで、だからコンプリート版ではなくてこのアルバムの曲目で聞いてみるのも興あることだとおもったが、そのばあい注目されるのはやはり"My Man's Gone Now"がはいっていることだとおもう。あのトラックをどうつかんだらいいのかがまだわかっていない。
 "All of You (take 3)"はきのうも聞いた。そこで、このテイクは比較的対話的かもしれないと書き、きょう聞いてもまちがってはいないとおもうが、ただ"Waltz for Debby"からつづけて聞くと対話要素がみえるとはいってもかなり微妙で、あからさまに噛み合わせるものではなく、LaFaroとMotianがおのおの試しながら、どうやれるのかうかがいつつ展開しているような気配をおぼえる。Evansはつねに一貫している。やや拡散的なワンコーラスの区切りがちかくなるとMotianがうまく機をとらえてシンバルをひろげだし、わずかなあいだにひろがった空隙をEvansの端正なフレーズが上昇していき、その最先端部が鳴らされると同時に瞬間的なブレイクがとぎれて、直後からスティックによるフォービートに移行する。そしてこのフォービートにはいってからのBill Evansの完璧さ。じぶんがどう弾くべきか、ではなく、じぶんがどう弾くのかをあらかじめ知っているようにしかおもえない正確無比なコードの断ち方。拍頭を欠いたかたちでおおく打たれるブロックコードの、堅固で、鋭利で、強力な、たたみかけ。また感動して泣いてしまった。Evansはイメージに反して、反復的にたたみかけるピアニストである。おおくのソロで後半、両手をあわせてかたまりとなったフレーズを、ほぼ同型でたたみかけていき、じわじわとボルテージをあげたすえ、解放する。そのときの和音の強固な立ち方と、正確な打鍵によるするどい断ち落としは、類例のすくない稀有なあざやかさである。
 音楽を聞くと二時八分だった。立って背伸びしたりからだをちょっとほぐして、さきほど出たプラスチックゴミをさっさと始末し、それからきょうのことを書きはじめた。ほんとうは音楽の感想まで一気に書いて現在時に追いつけるつもりだったのだけれど、一時間ほど書いたところで脚がこごってもどかしいのを感じたので、いったん切って寝床に避難し、かかとで太ももを揉みながらブランショの『文学空間』を読んだ。二種類の死というか二重の死というものがあり、いっぽうはこのわたしがこのわたしとしてもとめる死であり、もういっぽうはわたしとはなんのかかわりもない、このわたしが死ぬことのできない、端的な虚無や不可能性のようなものである純然たる受動=受苦としての死であり、自殺者は自由意志によって前者の死をもとめることでじつは後者の死を拒否し、投げやりな態度でそれを回避しようとしている、そしてこうした死にたいするひとの関係のありかたは、芸術家の作品/書物にたいする関係と相同的にとらえられる、というところからマラルメ『イジチュール』のはなしなんかにはいっていく。自律的で能動的な死と、かんぜんに他的で純粋受動的な死とは、それぞれ「作品」と「書物」にかさねあわせられているようだ。便宜上うえのように二区分できるこれらの死はしかし、ほんとうは言語におけるように截然と整理できるようなものではなく、たがいのあいだにもっと複雑で屈折した関係や矛盾をはらみながら、かさなりあったりあわなかったりするものなのだとおもう。
 ブランショを一〇ページかそこら読んで起き上がると四時過ぎ。四時一七分からまた瞑想した。このときは二五分ほど。からだはやわらぐ。一回瞑想して静止しながら音楽も聞けばもうかなりなめらかにまとまっているのだが、より微細な点でちいさなうごめきがあるのが感得される。そとでは保護者が保育園の子どもたちを迎えに来るころあいで、いくつもの声がにぎやかに湧いており、幼児の甲高い声がそこから飛び出してきたり、だっこ? だっこがいいの? と聞いている母親がいたりする。そのあとよい、せっと! と掛け声を出しながら子どもを抱き上げたらしいその声は、直前までよりちからがこもってちょっとざらつき、なんかいなせなような響きだった。きょうの日記のつづきを書きはじめようとしたが、西陽の時が終わって窓は白く、雲も空を覆っているようだったので、ちょっと書いただけでいちど切って洗濯物を取りこんだ。カーテンをあけて物干し棒からピンチとハンガーをふたつずつ取っていると、向かいの保育園の二階では、暮れにちかづいてかえってガラスの向こうがみえやすくなったその窓際に園児が寄ってこちらを見たりしている。笑いかけてやろうかとおもいつつも無頓着な目と顔をそれに返しながら衣服を入れ、それぞれハンガーから外してすぐにたたんでしまった。そうして椅子にもどると書きものにはげみ、ここまで記せばもう六時半過ぎ、腹がだいぶ減っている。野菜もないし買い物に出たいが、億劫なきもちもある。さきにありものを食って、夜がもうすこし深まってから行くのがよいか。


     *


 その後はうえに書いたとおりさきに飯を食い、九時か一〇時だったか買い物に出たのだが、道中のことはそんなにおぼえていない。書きものに邁進したり、せまい部屋のなかで壁にかこまれながらさらにせまくるしいモニターをながめてばかりいるためか、精神がかたいようになっていて、からだはほぐれていてもあたまのなかが熱をもって緊張しているみたいな、集中的な負担でちょっと追われすぎたみたいな、そとに出ても虫の音とか物音とかが妙に立って聞こえるような、これがはげしく行き過ぎるとたぶんまた心身の変調をきたしかねないなという状態になっていたのだが、外気にふれられながらあるいているうちに、さいしょのうちははいってくる情報のいちいちが立っていたのだけれど、いつか知覚がほぐれて楽になっていた。やはり部屋から出て脚をうごかし、風にふれられながらあるくのは大事なことだ。たかだか一〇分程度でもそうなる。うごきのない部屋のなかにくらべて情報量が爆発的に増えるから、さいしょのうちはやや負担がかかるのだろうが、じきに精神のピントが合うというか、情報量におおさに対応して自動的に知覚がすこし鈍くされるのだとおもう。だからここではいわば外空間の知覚情報のおのおのが凝り固まったあたまのうちや精神をほぐす微細なマッサージとして機能しているようなものだ。きょうはながく夜歩きするつもりはなかったが、すこしだけでも歩行の時間を増やしたかったので、スーパーにまっすぐ行かずわざわざ裏から駅前にむかい、まわりこむようなかたちで店に到着した。駅前にいたる直前、寺とマンションにはさまれたこずえのある道は風がよく吹く場所で、この夜もまえから厚くふくらんで身をつつみながら過ぎていった。


―――――

  • 「ことば」: 1 - 5
  • 「読みかえし1」: 400 - 405

405

 人間は、じぶんの理性のうちに変わることのない真理を発見する。感覚的な事物のうちには内在しない、完全な「ひとしさ」、ものには帰属しない、真に「ひとつである」ありかたを、精神がとらえる。すなわち、「完全なもの perfecta」(『真の宗教』三〇/五五節)をとらえるのである。もちろん、人間の理性、人間の精神それ自体は完全なものではありえない。だが、私がもし、私のうちに「より完全なものの観念 idea entis perfectioris」を有していなかったなら、私はどのようにして、じぶんが不完全なものであることを知りえただろう(デカルト省察』三、(end177)第二四段落)。それゆえ、「理性的なたましいを超えた不変な本性が神であること、第一の知恵が存在するところに、第一の生命、第一の本質が存在することは疑いえない」(『真の宗教』三一/五七節)。有限で不完全な理性の内部で完全なものが、相対的なもののただなかで絶対的なものが、内在のうちで超越的なものが、内面において神という絶対的な外部性が出会われる。だから、とアウグスティヌスは語っている(同、三九/七二節)。

外に出てゆかず、きみ自身のうちに帰れ。真理は人間の内部に宿っている。そしてもしも、きみの本性が変わりゆくものであることを見いだすなら、きみ自身を超えてゆきなさい。しかし憶えておくがよい、きみがじぶんを超えてゆくとき、きみは理性的なたましいをも超えてゆくことを。だから、理性の光そのものが点火されるところへ向かってゆきなさい。〔中略〕きみが真理それ自身ではないことを告白しなさい。真理は、自己自身を探しもとめないけれども、きみは探しもとめることで真理に達するからである。

 「外に出てゆかず、きみ自身のうちに帰れ。真理は人間の内部に宿っている noli foras ire, in teipsum redi, in interiore hominis habitat veritas」ということばを、フッサールがみずからの、ほとんど最後の思考を系統的に展開しようとした遺稿の末尾に引用している。世界を取りもど(end178)すためには、世界の存在をまず判断中止によって中断しなければならない、と説いたそのあと、いみじくもデカルトの名を冠した論稿のおわりに、である。フッサールの、この引用は、フッサール自身の立場について誤解を招く。フッサール現象学が、意識の「内部」を問題としていたように響くからである。引用された表現だけでは、アウグスティヌスそのひとの思考も、同時にまた誤解にさらされることだろう。アウグスティヌスはかえって、内在をつうじた超越について、語りはじめているからだ。問題は「きみ自身をも超えて」ゆくこと、自己の超克、他なるものに向けた超出、神への超越にある。フッサールも、あえてアウグスティヌスを引くならば、直後につづく一文まで引用を採るべきだったのである。
 (熊野純彦『西洋哲学史 古代から中世へ』(岩波書店、二〇〇六年)、177~179; 第11章「神という真理 きみ自身のうちに帰れ、真理は人間の内部に宿る ――アウグスティヌス」)

  • 日記読み: 2021/9/13, Mon. / 2014/2/13, Thu. - 2/14, Fri.

2022/9/12, Mon.

 病的な春が悲しくも追放してしまった
 冬を、静朗な芸術の季節、透明な冬を
 そして陰鬱な血液が支配する私の存在の中で
 無気力な長い欠伸となってのびている。

 古い墓のように鉄をめぐらし締めつけられる
 私の頭蓋の下では白い黄昏も生温くなったろう
 そして悲しく私は漠然とした美しい夢を追って
 無量な精気が威張って歩く野原をさまよう

 それから樹木の香りにいらだち疲れて
 私は倒れ、私の夢に一つの墓穴を私の顔で
 掘り、リラの咲く温かい土を嚙むのだ。(end29)

 私は悲しみの淵に沈み私の倦怠が起るのを待つ……
 ――だが生垣の上では蒼空は笑っている、また
 太陽に囀る数多の花の小鳥の目醒も。

 (西脇順三郎訳『マラルメ詩集』(小沢書店/世界詩人選07、一九九六年)、29~30; 「復活」(Renouveau)全篇; 『現代パルナス』から)




 またしても湯浴みをせず、明かりをともしたままに寝ついてしまった。早朝にいちど起きて、手を伸ばしてデスクライトを消したが、扉のほうにある電灯は立っていくのがめんどうくさいのでそのまま放置し、再度就眠。つぎに覚めて携帯を見ると八時五四分。さくばん何時に意識をうしなったのかよくわからないが、一時を越えて、そろそろからだも疲れたし寝床で本を読んで休んでからシャワーを浴びようとうつったので、たぶん二時ごろには死んでいただろう。ブランショを読もうとしたけれどねむくてどうにもならなかったわけである。ただふだんにくらべてそれくらいはやく寝られたのはむしろよかった。今朝は起きるといつもどおりからだの各所をさすったりして離床に向かい、九時半ごろに起き上がった。寝床からみた部屋内や天井は明かりがともっているために暖色を帯びているのだけれど、そのせいだけではなく、カーテンの上端から漏れ出るそとのあかるさのなかにも晴れの日のひかりのいろつやがわずかばかりふくまれている。とはいえからだを起こしてカーテンをひらいてみると空の青さはパウダー状の白雲を混ぜこんでもいる。からだはいつもとくらべると比較的かるく、やわらかかった。洗面所に行って顔を洗い、用を足して、出るとブクブク口をゆすいでうがいもすこしする。さくばんまた歯磨きもできなかったとおもっていたが、口をゆすぎながら感触をさぐるにどうも磨いてある。よくおぼえていないが、寝床にうつるまえに磨いたのだったとおもう。水を一杯飲むとタオルを濡らしてしぼり、電子レンジで二分。そのあいだをつかって屈伸もする。椅子について額と目を覆ってタオルを乗せ、うしろに背と首をあずけながら熱がとぼしくなるまで待ち、それから布団のうえにもどった。Chromebookで一年前の日記の読みかえし。いくつか引いておきたいところがあったが、本文中で言及するほどではないかな。「座っているあいだ、虫の声や物音のあいだに草のささやきめいたひびき、もしくは空間がところどころぽろぽろ剝がれ落ちるような音が生まれだしたので、雨が降ってきたなとわかった」というのと、「もっとてまえの川沿いや近間の樹々は、大気があかるくないせいもあろう、ならぶ緑に差異はほとんど見受けられず、風もないようで群れてやすらぐ鈍重な平原の動物のように不動の斉一性にしずまっている」というのはちょっとよかった。そのあとさいきんぜんぜん本を読めていないしやはり読まなきゃだめだとおもってブランショの『文学空間』を手に取りひらく。あおむけになったからだの顔のまえに両手でかかげつつ、主にかかとで太ももをほぐしながら読む。わたしは死ぬことができるのか? というテーマの箇所で、ドストエフスキーの『悪霊』のキリーロフ(自由意志による自殺によって神の不在とにんげんの自律性を証明しようとする)について論じられたりするのだが、このへんのはなしはまえに(……)くんにちょっと聞いたり、あと西谷修の『不死のワンダーランド』中でもとりあげられていたとおもうので、たしょうおぼえがある。ただブランショの記述はやはり晦渋もしくはあいまいで、「死」という概念ひとつとっても箇所によってそれがどういう死のことを言っているのか微妙にちがっているようで、いちおうおおまかにはにんげんがそこでおのれの自律性をあかすための自由意志による死と、もっと本質的なというか、そこでわたしが不在となる純然たる他者としての死とで二項的にわけられてはいるとおもうし、死が純然たる他的なものなのだったらそこでこのわたしはむしろ死ぬことができない、だから死ぬことができないこのわたしはいわば不死であるというはなしなのだとおもうけれど(その論点を敷衍してバタイユとかレヴィナスとかとならべつつ現代の文明や社会や医療などについて論じたのが『不死のワンダーランド』だったはず)、読んでいてそのあいだがわかりやすく区別できるような記述になっていないのでむずかしい。
 あとそういえばNotionにつくっている日記記事の下部、本文のしたには区切り線をもうけたうえでいままで「就床 - 離床」もしくは「就床 - 覚醒」、「支出」、「収支」という三つのメモ欄をつくって、日ごと睡眠を計量記録していたのだけれど、きょうの記事をつくったさいにこれももういいかなとおもって削除した。これでメモは「支出」と「収支」のみになった。一年か二年くらいまえまではそれらにくわえてもっとこまかく、読んだ本やページとか、聞いた音楽とかもメモしていて、神経症的な記録癖と管理欲求がみえていたのだが、だんだんもういいかなとゆるくなりつづけていまにいたっている。ちなみにメモ欄のさらに下部にはもうひとつ区切り線をもうけて、進行中にとどまっている短歌とか詩片とかもメモされているが、これはさいきんぜんぜん取り組んでおらず、ただいつか取り組もうとおもってまいにちの記事にうつしているだけである。読んだ本の書抜きをしたときにはさらにそのしたに区切り線をもうけてそこに記している。
 寝床から再度起き上がったのが一一時半ごろ。椅子について脚をちょっとさすってから瞑想したのだが、やはりしびれてながくはつづかない。二〇分強。左足がしびれるのはあぐらの姿勢が右足を左のうえに乗せるかたちだからだ。足首あたりをほんとうはもっと揉んでおくか、あるいはもっと屈伸をしておいてからやったほうがよいのだろう。とはいえからだはかなりすっきりしており、鳩尾とへそのあいだとかだいぶやわらかい。瞑想をして姿勢を解いたあとはうしろにもたれて足のしびれが治るのを待ち、それから食事へ。サラダとレトルトのカレー。食べながら(……)さんのブログを読む。九月六日分。食べ終わるのとほぼ同時に一日読み終え、洗い物へ。まな板や包丁などはサラダをこしらえたあとカレーを用意しているあいだにもう洗ってあった。食器を洗うまえにカレーのパウチをゆすぐのだけれど、ゆすいだところで内部に付着したのこり滓はそうも取れない。すこしもったいなくもあるし、ほんとうは湯煎したほうがよいのだろうなとおもう。こういう洗っても取れない汚れものはプラスチックゴミに出すのではなくて燃えるゴミにしてしまってよいと、地元ではそういうルールだったし(……)でもそうだとまえに(……)さんが言っていた気がするのでそうだとおもっているのだが、それで合っているのだろうか。食器をさっさとかたづけるときょうは勤務があるからそんなに余裕はないがやっぱりたしょう音楽を聞くかという気になったので、アンプにつながっているものをイヤフォンからヘッドフォンに替えて、Joshua Redman, Brad Mehldau, Christian McBride, Brian Bladeの『LongGone』をまた聞くことにした。"Long Gone", "Disco Ears", "Statuesque"の三曲。二周目を聞いてみれば、いやいいよな、すばらしいよな、と。聞いていてきもちのよい演奏で、とくにやはりBrad Mehldauのソロがおもしろいというかよい。Paul Bleyなんていうなまえをおもいだしたりもするが、あそこまでアウトに寄ってはいない印象。Paul Bleyもぜんぜんちゃんと聞いたことがないのでわからないが。二曲目はJoshua Redmanのソプラノソロがきもちよく、二日前にもふれたけれどブロウをせず、ほぼひたすらに八分音符のつらなりできっちりはめていきながらながれる構築を取っており、それを単調といえなくもないが、これは詰めこみ的なブロウにながれず禁欲をまもった点をこそ評価するべきなのだとおもう。
 そのあとEvans Trioもやはり"All of You"一曲だけでも聞いとくかとおもって、テイク3をえらんだ。ピアノとベースによるイントロからテーマにはいる瞬間にほんのすこしだけぐぐっと凝縮して吸いこむような溜めがあるのがテイク3の冒頭の特徴である。今回聞いてみるとこのテイクはわりとわかりやすいというか、それこそよくいわれるインタープレイ的な、対位的な調和をやっているテイクかもしれないなとおもった。LaFaroのうごきかたや、Motianのさしこみかたにもそれを感じ、だからうえで聞いた現代のひとたちが卓越しきっている緊密な相互的調和にちかいような気がする。ただそのばあいでもやはりEvansの一定性というのはきわだっていて、EvansがじぶんのペースをひたすらたもちつづけているそこにたいしてLaFaroとMotianが、そのときどきの気分とかなにやらによってちかづいてみたり合わせてみたり、はなれてみたり、じぶんのやりたいことをやってみたり、というのがこのトリオのやりかただったのかもしれないとおもった。おれはおれで勝手にやってるから、おまえらも自由に好きにやれ、と。だから平等な三位一体といわれるこの三者だけれど、厳密にはかんぜんに対等というわけではなく、やはりEvansがリーダーだという部分がのこっているような気がする。ただしそれは、Evansがこのトリオの中心だということではない。Evansは中心にはいないのだけれど、ただなにか、ほかのふたりがちかづこうとしてもちかづききれないところにいる。そうしてLaFaroのソロだが、当時これをやって、受け入れられると、理解されるとおもっていたのだろうか? という感触をやはり得る。Motianのシンバルとスネアのさしはさみによる刻みだけをバックにして、旋律感もはっきりしきらないような速弾きをガシガシやるとき、LaFaroはかなり寄る辺ない位置でそれをやっていたような気がする。足もとのたしかでないその寄る辺なさに踏み出してはいったんもどり、また踏み出してはもどるといううごきのなかで、すこしずつまだ見ぬ場所をひろげようとしているふうに聞こえる。その果敢にたいしてしかしここではEvansが、めずらしくと言ってよい気がするが、バッキングによって寄り添うすがたをみせている。ソロの終盤でピアノはかなりしずかに、ひそやかな感じでまず長音のコードを置きはじめて、じきにカードをとりあげてめくるような二連構成のフレーズに展開し、さらにその間隔をせばめて、四分の四拍子と交差するリズムですこしずつ上昇していく。ここでEvansは、そのほかのたいていの時間とはちがい、あきらかにLaFaroのほうを向いて、かれをサポートしている。ときならぬその寄り添いにまた感動して泣いてしまった。
 音楽を聞くと一時一五分くらいだったとおもう。それからきょうのことをここまで書いて二時半。シャワーを浴びたり、豆腐を一個だけ食ったり、アイロンをかけたりしたい。いいかげん放置してある私服のシャツとかも始末しなければならん。


     *


 椅子から立ってからだを伸ばしたり屈伸したりして、ついでにさきほど食った豆腐なんかのプラスチックゴミも始末してしまい、さらについでに床をすこし掃き掃除した。扉のほうから椅子のしたまで大雑把に。三日前に掃いたばかりなのにもうまた髪の毛がたくさん落ちていて、じぶんもそろそろ禿げはじめているのか? とおもってしまうレベルなのだが、まあこんなものなのだろう。たぶんまだ禿げはじめてはいないはず。シャワーを浴びるまえに豆腐をひとつだけ食べることに。毎食サラダに豆腐をつかっているので消費がはげしく、もうあとひとつしかのこっていない。そのほかの食べ物も豊富とはいえない。このあいだ実家に行ったときに母親がもたせてくれたピーマンとかナスとかがわるくならないうちにつかったほうがよいので、それらを炒めて醤油かけて米といっしょに食うくらいの調理はひとまずしたい。だがそのためには油がないのだった。椀に入れた豆腐に鰹節や生姜や醤油をかけて食べているあいだは(……)さんのブログをのぞき、するとおもしろいはなしが書いてある。おもしろいというか、九月九日付の以下の部分で語られていることはめちゃくちゃよくわかるなとおもった。じぶんにもこういうことあるなと。パソコンでもろもろのログインのパスワードを打つときとかにそうなることが過去たまにあった。あと実家にいたころ、帰ってきたときに玄関の鍵を逆にまわしてしまってあかない、とか。こういう、ふだん意識もせずにこなしている習慣的な動作にあるときとつぜん狂いが生じるということを、なにかしら不穏なものとして古井由吉もなんどか書いていたはずだ。

しかし共同住宅の住人同士としては、刹那的一時的と言い切れない程度には短くない時間を、壁越しフロア越しで半共有するところもあり、それはもっぱら生活音というか、人々の声によってだけど、小さな子供のいる家の独特なやかましさ、活気というのがあって、ああ今日も賑やかだなと、開けた窓の外からうっすらと聞こえてくる子供たちの声や物音で感じられるものが、それが五年とか六年とか経過したら、高い声を張り上げてやかましかった子供の声が気づけば聞こえなくなっていて、ある日突如としてエレベーターの前に、ぬーっと異様に背の高い高校生がいて、まさかあれがしばらく前まできゃーきゃー騒いでたあの子かと、見えないところで急速に成長している不気味さに、ほとんど野の雑草を連想させるほどの生命力、ならびに万年相変わらずな生活を続ける我が夫婦とはまるで異なる時間感覚のギャップの大きさを感じさせられたりもする。

話が飛んだけど、開錠番号を知って以来、鍵は使わずにオートロックの数字ボタンに連続で押下すると、開錠の音がしてドアが開くわけで、その番号を以降今まで、おそらく十年以上は打ち込んでいるわけだが、この開錠番号を打ち込む所作が、完全に自分の身体レベルの記憶になっていて、パネルの前に立てば無意識にでもそれを打ち込めるのだけど、たとえば今こうしてこの文章を書きながらそのことを思い浮かべたとき、ではその番号は何か?と自分に問うとき、信じられないことだけど、それをはっきりと意識にのぼらせることができない。もし番号を言ってみてくださいと尋ねられても、いま答えられないのだ。そもそも3×3だか4×3だかで並んだあのボタン番号のレイアウトが、どんな感じだったか、それを視覚イメージで思い浮かべられない。あの並びに対して、決まった所作でだだだっと打ち込む、それで鍵が開く、それだけの記憶しか保持していないので、それが数字で何番の連続なのかを、今まで一度も意識・自覚したことがないのだ。意識していなくても身体がおぼえている、自分のなかのそのようなレベルの記憶のひとつがそれだ。

で、さらに言えば、さすがにこういうことは後にも先にも一度だけなのだけど、ある日のことだけどふいに、その開錠番号を忘れてしまったことがあったのだ。もちろん正確に言えば、番号を忘れたのではなくて、パネルの前で、決まった所作でだだだっと打ち込む一連の行為、その「感じ」を忘れたのだ。その行為を支えていた安定感、その行為を担う身体の安定性、それを基盤にして稼働していたはずのあるサービス。。それらがふいに、意識から飛んでしまった。どこからどこまでを、どのくらいのスピードと間隔で打ち込んでいたのかを、とつぜんド忘れしてしまって、完全にその場で立往生してしまったことがあった。

このときのかすかな焦りと、…いや大丈夫、どうにかなる、ちょっと冷静になれば絶対に思い出せる、、と自分に言い聞かせたあの気持ちは、今でも思い起こすことができる。数字や文字列を思い出すのよりも、きっと容易だと思ったのだ。あの所作、あの一連のルーティン、あの確定された機械的な行為の感覚だけを、思い出せれば良かったのだから。

いったんその場を離れて、周囲を散歩しながら、つとめて冷静さを取り戻し、何事もなかったかのように再度マンション入り口に戻ってきた。リラックスした気分でパネルの前にたち、自分がいつものような自分の身体をここまで運んできたことをどこかに言い聞かせながら、あらためて開錠操作をこころみた。

鍵は開いて、いつものように自分はマンション内部を自室まで急いだ。心のどこかに、すごい、よく開けられた、なぜ開いたのだろう、奇跡的じゃないかとの思いが、抑えがたく湧き上がってきそうだったのを、どうにか無視して、無理にやり過ごして、平然とした態度を装っていた。それはいつもの行為で、それによってドアが開錠されるのは、当然のことでなければいけなかったからだ。

 九月八日付のベルクソンのはなしもおもしろく、さいごの一段落、「もちろんこれ以上、もっともらしいことは書けないのだ。「つまりこうである」という話ではない。そもそもベルクソンとは「つまりこうである」型の話をしているわけではないだろう。あえて言うなら、とにかくひたすら「今ここ、この状態」をあらわそうとしている(「現在」は無いと言いながら…)、だとしたら僕はそこに、強く興奮するのだ」というのにとりわけ目がとまった。
 豆腐を食ったあとはつかった椀や箸をさっと洗ってかたづけ、服を脱いで全裸に。肌着だけではなくハーフパンツも洗うことにしてニトリのビニール袋に入れておき、収納スペースから下着やフェイスタオルを出して椅子のうえに置く。窓辺にかけてあったバスタオルもハンガーからはずしてたたみ、椅子の背にかける。そうしてタオルを持って浴室へ。まず髭を剃る。いったん浴槽内にはいり、壁にとりつけてあるシャワーから水を出して、それで顔を洗ったり髪を濡らしてうしろにかきあげたりする。そうして鏡のまえへとまたぎ越してもどると、シェービングフォームを手に取って顔に塗る。顎のあたりなどよくすりこんでおき、Gilletteのカミソリでもみあげの位置からあたっていく。あからさまに毛のない頬や額なども剃ってすっきりさせておき、ひととおり剃りおえるとカミソリをゆすいで、じぶんの顔はまた浴槽内にはいってシャワーで出した水で洗った。じきにそれがあたたかくなってくるのでそのまま湯浴みへ。ボディソープは素手に取ってちょっと泡立て、そうしてからだをこすっている。からだを洗った時点でいちどながすか、そのままあたままで洗ってしまっていっぺんにながすかはときどきによる。肉体をきよめると扉をあけてフェイスタオルで身を拭き、さいきんはここでしばらく立ったまま静止することもおおいがこのときはわすれたので、かわりに室を出て足拭きマットのうえで静止した。ここでいまなんか訪問があったらめんどうくさいなとおもったがありはしない。水滴が肌のうえをながれていき、だんだん皮膚から水気がすくなくなっていくのをしばらく感じ、それからバスタオルで身を始末。服を切ると机上のタップにドライヤーをつないであたまを乾かし、すると三時半すぎだった。瞑想。三時四〇分から一五分。いや、ちがうな。シャワーを終えたときはまだ三時半前だったのだ。それからワイシャツをいちまいアイロンかけしてから瞑想したはず。そのあと身支度をととのえても時間がすこしだけ余ったので、うえの(……)さんのブログの引用にふれたところまで日記を書き足し、それで四時一五分にいたったので出ることにした。パソコンを落とし、Mobile Wi-Fiも電源を切って、リュックサックを背負い、扉の脇からマスクを一枚取ってつけるとそとへ。通路端の開口部から雲混じりながら晴れている水色空がみえる。階段をおりて道に出て、左に向かいだせばあたりに陽の色もよく射している。公園の滑り台には子どもたちが数人群がり、てまえの入り口そばではふたりの男児がそのさわぎにくわわらずはなしていた。右折すると正面は西、路地はひかりでつらぬかれ、日なたがあたりにひろがるとともにひとみにもかがやきがさわり、左右に停まっている車のボディが引き締まった光球をのせて道のおちこちにきらめきをしこみ、すすむにつれそのきらめきの位置は変わって、郵便バイクもその脇をとおれば各部を光点が痙攣しながらすべっていく。目は絶えず細めざるをえない。止まってくれた車に礼を向けながら通りを渡ってさらに裏へ。みあげれば空は水色、雲もまぶされて襤褸のようにひっかかってもおおかたはさわやかな青がまさり、雲の混ざりによってかえって洗われたような磨かれたような、澄み切っていないのにまろやかなつやのようなものが生まれていた。とちゅうの一軒で、敷地を囲む木製の、塀というか壁のようなもののまえに、丸太をふたつに割られたような木片がたくさんずらりと立てかけられていた。なにとはなしにちょっと異様なというか、小脇にかかえるくらいの木片なのにキノコの群れをおもわせるようなところがあったが、その壁の内のせまい庭に生えている木を斬ったなごりだろうか。あるいは、この家は先日二階に木製のバルコニーめいたスペースを増築していたので、その作業の関連で出たものなのか。小公園をすぎるともう路地の出口も間近、右側は庭木や垣根のあるようなむかしながららしい一軒家が、左手には駐車場のおもてがかためられているような、新興住宅風のよりあたらしい戸建てがならび、宙にはひかりがとおってアスファルトには水めく日なた、緑の葉がはなつあかるみはうつくしく、すでに死後の景色のような、目のまえの光景がとおい過去の記憶のような、そんなひかりの横断歩道を渡って細道をまっすぐ行くあいだ、雲をかけられながらもものともしない太陽がまぶしく、陽射しは熱いし汗も湧くけれどさわやかで、なによりもおだやかな大気の午後四時だった。
 駅にはいり、階段通路を通って向かいのホームへ。きょうのからだはよくやわらいでおり緊張はほぼ感じない。ホームを踏んで人中にはいっても腹のあたりに検知されるものがない。携帯とイヤフォンを出してFISHMANSの『ORANGE』をながしだした。そうして目を閉じたまま立位に待って、頬をかすめるながれも生まれ、まもなく電車が来れば目をあけず耳をふさいでいても気配はあきらかで、目のまえをとおりすぎる一瞬には顔をひっかけていくような空気の跳ねが生じる。乗った口の脇でふりむくと、無人となったベンチのうしろの壁が西陽を受けて全面黄色いようにあかるんでいた。(……)まで揺られ、この時刻は乗り換えに余裕があるので降りると向かい側にうつってホーム端をべつの階段口へ。そこからのぼり、フロアを行き交うひとびとのなかに混ざりつつ、身の緊張をさぐってもやはりほとんど変化はない。緊張や不安がこわいのにわざわざそれをさぐってしまうのは、不意打ちをおそれるがゆえの管理性向で、すくなくともその存在を認知しておけば見えないところから急にやられて恐慌することがないというわけだろう。トイレに寄って小便を捨てた。手を洗って、ハンカチをつかいながら出て、電車を降りてホームからあがってきたひとびとが過ぎていくまえで止まって手を拭き、それから下りると(耳には"忘れちゃうひととき"がながれていて、ホームに下りると線路のむこうにうすめられた水色の空がひろがっており、とおくのレールに陽炎が立つような立たないような微妙な熱気の、この曲がよく合うような日だなとおもった)電車に乗った。いちばん端に着席。向かいはいつも年齢のよくわからないカップルがいるが、きょうはさらにもう一組、高校生くらいの(制服を着ていたかどうかおぼえていないのだが)カップルもいる。瞑目して静止。発車していこうしばらくのあいだはやはり緊張がないとはいえない。からだのうちに違和感がちまちま起こるし、喉に圧迫感が生まれもする。ただそれはとおくにあるような、かなりちいさなものである。しかし、二粒飲んだ薬の作用とやわらいだからだがなければ、これがもっと迫ってきて苦しいのだろうなとおもわれた。それであまり音楽に耳も行かなかったし、からだがよりしずまればあとにはねむくなってきてたいして聞くでもない。(……)に着くよりまえにイヤフォンを外し、耳をさらしながら静止に待つと、降りて駅を抜けた。ここでは雲がもっと多くて太陽もそれに固着して白い。また勤務前にちょっとひとまわり歩くかとおもった。それで裏路地にはいり、ぶらぶら行って、抜けて右折するときょうはおもてまで行かずとちゅうの路地にはいってすすむ。もうよほどあるいたことのなかった道である。子どものころによく風邪を引いて世話になっていた(……)があり、そのまえに停めた車のそとにギャル風の若い女性がもたれて、なかにいる子どもをあやすような感じだった。通りのなかに一軒、こんなカフェできてたんかという、こんな町でわざわざ小癪にもあたらしぶった店があったが、去年職場を去っていった(……)先生が、あっちのほうのカフェではたらくことになりました、来てください、とか言っていたのがもしかしたらこれかもしれない。
 勤務中のことはあとにまわして帰路をさきに書く。職場を出たのは一〇時二〇分くらいで、きょうも(……)まであるくことにした。そのまえに公衆トイレに寄る。入り口前にはバイクから降りた若い男がけらけら笑いながらなかまひとりとはなしており、ぶらぶらうろうろするのでうしろから行くこちらが進路をふさがれるようなかたちになった。はいって用を足すと、洗った手を拭きながら出てきて、駅前の自販機でアルフォートなんかちょっと買い、それから徒歩へ。街道に出て南側を東進。とくにみるべきものもない表通りだが、さびれた町のことでひともすくなく、車がとぎれて虫の音だけがひびく時間もおりおりあって、そのしずけさがなによりなじむ。飲み屋のたぐいももうしまっているが、一軒だけ通りに面したガラスのむこうで年嵩があつまって談笑しており、ここの店はさいきん夜に通るたびいつもそうなっている。そのへんの常連があつまる場なのだろう。東南のほうには月が出ており雲がかりの夜空に暈を茫漠とひろげて、円周先端はわずかに赤らんだ黄色い封じのなかであいまいに白いのがまさしく目玉の様相である。暈がそんなようすだから雲はおそらくぜんたいにうすく混ざっているのだろうが、西かたをふりむけば青みもそれなりにふくんで見える。ひたすら車道沿いをあるきながら浴びる風に、しずかな夜道をこうして歩くというのは、曲がりなりにも実社会ではたらいてきた身のよどみ、よどみなどといっては無礼に過ぎるけれど、ひとのあいだにはいって浴びたことばのにぎわいやら表情やら、身にまといついてべたつく澱のような意味とちからの残存を、風に洗われ落としていくかのような感じだとちょっとおもった。踏切りを越えると二度折れれば駅の口だが、きょうは反対の口から行ってみようとそのまま直進した。すこしまえから駅前マンションの灯が家並みのむこうに望見されており、南を向けば空が、北を向けば闇と化した丘しかみえないこの町ではそんな高さのつらなりもすくなく、オレンジめいたひかりが二列縦にざーっとならんでいるのが滝のようで、最上で各方の角を赤色灯がいくつかかざっているのもおもむきがあった。道沿いにもうひとつ高いマンションがあってそれもちかくに見ればなかなか威容で、地元のくせに(……)で降りたときにみるあちらのものにも負けないくらいで、横幅や住むひとの多さはあちらのほうがまさっているが、縦にながい灯の整然としたならびや、規格化されておなじかたちがいくつもつながっている非常階段や各階の外観をみるに、どこかおもちゃめいていて、いかにも建造物、ひとの手によってつくられたまさしく近代の建造物だなと、そんな感をつよくした。いままでまったく知らなかったが(……)前の(……)は二四時間営業だった。
 駅舎の階段にはいる直前、フェンスや柵のむこうに電車がちょうど来たのが見えたが、走る気力もなし、つぎと見送ってだらだら行き、ホームにはいるとベンチで水を飲みながらちょっと待ったあと、先頭のほうに出ていった。こんな時間の先頭車両でもふたりひとがいて、ひとりはこちらと入れ違いに降りていった。着席すると瞑目にひたすら休む。(……)までほぼ目を開けず。意識もうしなわなかったし眠気というほどのものもなかったが、疲れてはいるのでたしょう精神はゆるかったらしく、虚構的な物語風のヴィジョンを眼裏に見はしたようだ。ただしそれはすぎればもうおもいだせない。(……)に着くと降りて階段をのぼり、(……)線へ。すでに一一時半前である。(……)行きの最終が行くところで眼下のホームでは駅員がライトをもちながら呼びかけており、走れば間に合うが気力なしだからもういいやつぎで行こうと階段をくだりはじめたところ、エスカレーターを行く女性を駅員は待って、最終です、お乗りになりますかとまだ待ってくれたのでそれならと小走りに乗りこんだ。扉際で立って待ち、(……)で降りると帰路へ。駅前細道を行っていると背後から来る足音が高くはやく、抜かしたのを見ればワイシャツにスラックスで黒いリュックサックを片方だけかけて背負ったサラリーマンで、帰りがこんなに遅いのにずいぶん軒昂なのか足取りはおおきくすばやくて、出口で曲がっておそらくスーパーに寄ったようだった。そのあとから来たもうひとりもやはり見ていればスーパーに寄っていって、すでに一一時半で、こちらなどとちがってたぶん正職なのだろうから勤務もながかったはずなのに、それでも帰りに買い物に寄る気力があるのかとおもった。裏道を行きながら我が身にひるがえってみると、五時半くらいにはたらきはじめておおむね一〇時までだから労働としてはたかだか四時間半、ドア・トゥ・ドアでかんがえても四時二〇分から一一時四〇分として七時間二〇分にすぎない。良心的な職場にあたった公務員の実労働時間よりもすくないくらいなのだが、そんなこちらは疲労のためにさすがに寄っていく気は起こらない。黙々とあるいて帰るとしかし、今夜は勤務後のわりにいくらか文を書けたのは事実だ。とはいえやはり昼間に書くのとでは軽さがまったく違うから、無理をせずにさっさと休むか、起きているならものを読んだほうがいいなとおもった。あたまが重いから文もなかなか出てこないし、目を閉じてからだをとめて待ってもことばではなく眠気のほうが来てしまう。食事中は(……)さんのブログを読んだ。以下の箇所に、なるほど、こういう西洋人もいるわけだなと。

 (……)中国ではいろいろ旅行したのとたずねると、北京、上海、広東などに出向いたという。本当は去年政府の支援で新疆に旅行する予定だった、covid19のせいで延期になってしまったが、現地の様子をリポートするという趣向のものだった、と(……)は続けた。あ、きたな、と思っていると、ほら、アメリカやほかの国がいろいろ現地のことをいろいろ言っているだろう? でもじぶんは新疆は十分うまくやっていると思う、そういう現実をちゃんとリポートしたいんだ、みたいなことをいうので、マジで典型的なパンダハガーだなと内心苦笑せざるをえなかった。ちなみに(……)の奥さんである(……)はminorityらしい。何族であるかは聞かなかったが。

 またしたの箇所には、いい親じゃないか、ずいぶんまともな親じゃないかとおもった。

 (……)(……)は国際関係学部の授業も担当しているわけだが、そうした学部にすら最近ではagressiveなことをいう学生がいるといった。たぶんペロシの台湾訪問を受けて、米国といますぐ戦争せよと息巻いていた学生がいたのだろう。じぶんはそういうとき、すべての国の人々は基本的にpeaceを愛している、まずはそう考えるべきだと学生に言っている、みたいなことを(……)はいった。また、娘からはあのひとはいい人なのか悪い人なのかという質問を受けることがあるので、そういうことをぱっと見で判断することはできない、そのひとがどういう行動をとるのかをゆっくり観察してはじめて判断を下すことができるのだと教えるようにしているみたいなことも言った。(……)は(……)から日本人は悪者なのかと質問を受けたことがあるといった。そういうものの見方はしないようにと毎回強調して教えていると続けたのち、女性を平等に扱うようにという話も同じくらい強調しているといった。(……)もこの方針に同意した。日本でもそれは深刻な社会問題になっているよとこちらは受けた。


     *


 あとは勤務中のこと(……)
 (……)


―――――

  • 「ことば」: 11 - 15
  • 「読みかえし1」: 395 - 399
  • 日記読み: 2021/9/12, Sun.

 イマージュの散乱、射映の揺らめきを〈語られたこと〉においてとらえ、それになまえをあたえること、つまり「命名すること」が、存在者の同一性を「指示」し、意味を「構成」する。ことばとはそのかぎりで「名詞の体系」にほかならない(61 f./76 f.)
 そうだろうか。感覚は揺れうごき、感覚的経験は移ろう。その感覚的次元につきしたがっているかぎり、言語もまたたんなる名詞にとどまりうるであろうか。そこでは、ことばとは「むしろ動詞の異常な増殖」(61/76)となるのではないか。動詞 [﹅2] であるのは、感覚的経験がまさに刻々とかたちをかえるからであり、動詞が異常 [﹅2] に増殖 [﹅2] するのは、その(end198)移ろいには休止も終止も存在しないからである。あるいは、こうもいえるのではないだろうか。

 感覚的質がそこで体験される諸感覚は、副詞的に [﹅4] 、より正確にいえば、存在するという動詞の副詞として響くのではないか。
 このように、諸感覚を〈語られたこと〉のてまえでとらえることができるとするならば、諸感覚は他の・もうひとつの意味作用を顕わにするのではないだろうか [一文﹅] (*ibid*.)。

 「感覚的生」とは「時間化」であり、「存在が存在すること」(essence de l'être)である(*ibid*.)。その感覚的な生にあって諸感覚は、「存在するという動詞の副詞」となる。どういうことだろうか。「他の・もうひとつの意味作用 [﹅12] 」とはなにか。順を追って、論点をすこしだけ具体的に考えてみよう。
 感覚的諸性質はたんに「感覚されたもの」ではない。それは同時に「感覚すること」でもある(56/70)。とりあえず「情動的な状態」(*ibid.*)については、ことがらはあきらかであろう。喜ぶことと喜ばしいものはわかちがたい。ひとは喜ばしいものを喜び、悲しむべきことを悲しむ。つよい情動を感じる [﹅3] ことと、感じられた [﹅5] 激しい情動は区別できな(end199)い。情動的な状態は感じられるものであると同時に感じることである。
 感覚的性質一般についてはどうだろうか。痛みにかんするベルクソンの例をとってみる [註114] 。右手でもったピンで左手のゆびさきを突きさしてみる、としよう。まず接触感があり、やや遅れて鋭角的な痛覚があって、鈍重な痛みの拡散が生じる。このそれぞれの段階にあって感じられているのは、ゆびさきに刺さったピンの感覚 [﹅5] であるのか、それともピンが貫いたゆびさきの感覚 [﹅7] なのか。痛みを感覚する [﹅4] ことと、感覚される [﹅5] 痛みとはこの場面でもわかちがたい。ここでも「なにごとかが対象と体験とに共通している」(56/71)。
 ベルクソンの例は、継起する感覚がかならずしも質において連続的ではないことを示していた。(おおきくは痛みとして括られる)ピンもしくは [﹅4] ゆびさきの感覚は、刻々と推移し、質を変容させる。ふくまれている論点をはっきりさせるために、べつの場面で考えなおしてみよう。触覚を例にとる。暗闇のなかを壁づたいに手さぐりですすんでゆく、としよう(廣松渉の挙げた例 [註115] )。歩をすすめるにつれ、感覚の変容が感じられる。壁の亀裂と凹凸にそって、手のひらの感覚が移ろい、入れ替わってゆくことだろう。
 確認しておきたい論点が三つある。第一の論点は、ベルクソンによる例のばあいと共通である。ゆびさきに感じるざらついた壁 [﹅6] の感覚は、壁に触れたゆびさきがざらつく [﹅9] 感覚でもある。ざらつきを感覚することと、感覚されるざらつきは不可分である。第二の(end200)論点が、さきの引用の理解にかかわっている。壁はところどころ脆く、場所により窪みがあるとしよう。感覚し・感覚される「諸感覚」はここでは「副詞的に [﹅4] 」あたえられる。「より正確にいえば」、感覚があたえる副詞はすべて「存在するという動詞の副詞」として響いて [﹅3] いる(前出)。壁はときどき「柔かく」感じられ、ときおり「凹んで」感じとられる。壁は「ぐにゃりと」存在 [﹅2] し、「抉られて」ある [﹅2] のである。――最後に、最大の論点がのこる。「印象が時間化する」こと、自己差異化する [﹅7] ことのうちに「存在するという動詞」(既引)があらわれる。「感覚的生」とは「時間化」であり「存在が存在すること」であった(同)。ここで存在する [﹅4] とはなんであり、時間が時間化する [﹅8] とはどのようなことなのか。
 さきの例にもどる。私の掌につぎつぎと、壁の起伏が感じられる。ここで起伏は副詞的に [﹅4] 感じられ、壁は「突き出て」存在 [﹅2] し、「窪んで」ある [﹅2] 。そのばあい、壁の感覚はおなじ [﹅3] 感覚として継起し、しかもことなって [﹅5] ゆく。同一のものが差異化している。つまり「感覚的印象が、異なることなく異なって、同一性において他のものとなっている(autre dans l'identité)」(57/71)。――同一性における差異化のありかは、副詞が不断にえがきとる。あるいは、動詞としても表現される。壁は掌を押しかえし [﹅5] 、ゆびを引きこむ [﹅4] 。壁はそのとき凹凸である [﹅3] 。壁に起伏が存在する [﹅4] 。このある [﹅2] 、存在する [﹅4] 、という動詞そのものはなにを示しているのであろうか。(end201)
 動詞「ある」を修飾する副詞が示すのは、とどまるところのない感覚的変容のさまである。これにたいして、Be動詞がえがきとっているのは、「感覚が現出し、感覚され、二重化されながらも、みずからの同一性を変化させることなく変容する」過程そのものである。この変化なき変容 [﹅6] である「時間的変容」が、「時間の時間化」、つまり時間が時間であるということであり、「存在するという動詞」なのである(60/75)。存在する [﹅4] (*essence*、もしくは「存在する [﹅4] という語の動詞的な意味」をつよく示すために、正書法からの逸脱をデリダに倣ってあえて犯すとすれば、ess*a*nce avec *a* [註116] )とは、時間が時間化する [﹅8] ことである。時間の時間化とは、同一性そのものの変容、同一性の自己差異化なのだ。
 カントの超越論的感性論ふうにいえば、時間とは、それをあらかじめ(ア・プリオリに)考えることで同時性と継起とがはじめて意味をもつにいたる「純粋な形式」である [註117] 。個々の感覚は継起する。だがしかし、継起する感覚の質の変化それ自体が時間ではない [﹅2] 。時間とは継起ということがらそのものであって、それ自身は継起し変容しながら、しかも変化しない [﹅2] 。存在すること [﹅6] が、時間であることそのものであるとすれば、感覚的経験があかす、それぞれの存在者から区別された存在そのものとは「時間的な奇妙な痒み」(61/76)にほかならない。だからこそ、時間 [﹅2] (の時間化)と(存在者の)存在 [﹅2] はさしあたり解きがたい謎なのである。――静まりかえった夜の闇のなかで、家具がわずかに軋む。(end202)それはほとんど「無声の摩滅」である。いっさいは「すでに質料を課せられて、生成」し、時のなかで「剝がれ落ち、みずからを放棄して」ゆく。すべての〈もの〉は、ほんとうは(色が輪郭をはみだし、輪郭にとどかない、デュフィの絵画のように)じぶんとそのつどずれて [﹅3] おり、みずからと重ならず、たえず移ろっている。時間とはだが、よりとらえがたく「形式的」な、「すべての質的規定から独立の、変化も移行もない《変容》」なのである(53/67)。

 (註114): Cf. H. Bergson, *Essai sur les données immédiates de la conscience*, 155ème èd., PUF 1982, p. 31 f.
 (註115): 廣松渉『世界の共同主観的存在構造』(勁草書房、一九七二年刊)一三九頁参照。同書は、講談社学術文庫(一九九一年刊)で再刊されているほか、『廣松渉著作集』第一巻(岩波書店、一九九六年刊)に再録されている。言及した論点は、それぞれ、文庫版では二〇二頁、著作集版で一四四頁以下。
 (註116): E. Lévinas, De la déficience sans souci (1976), in: *De Dieu qui vient à l'idée*, p. 78 n. 1. 講義録にも「存在が存在する [﹅2] こと」(l'ess*a*nce de l'être)とある。Cf. E. Lévinas, Dieu et l'ontothéologie, in: *Dieu, la mort et le temps*, Grasset 1993, p. 147.
 (註117): I. Kant, *Kritik der reinen Vernunft*, A 30-32/B 46-48.

 (熊野純彦レヴィナス――移ろいゆくものへの視線』(岩波現代文庫、二〇一七年)、198~203; 第Ⅱ部、第二章「時間と存在/感受性の次元」)

     *

一二時一三分離床。瞑想。天気は水っぽいような、かすみがちの曇り。窓をあけて目を閉じれば風がやわらかくながれこんできて涼しさと外気のにおいが身に触れる。座っているあいだ、虫の声や物音のあいだに草のささやきめいたひびき、もしくは空間がところどころぽろぽろ剝がれ落ちるような音が生まれだしたので、雨が降ってきたなとわかった。(……)

     *

(……)米同時テロから二〇年でバイデンが式典に参加して演説し、団結こそが米国のちからだと述べた由。ページをめくっていくとうしろのほうに、単身者の記者(五七歳男性)がコロナウイルスにかかったときのことをつづり、どういう状況になるかどういった点にこまるかを述べた記事があった。感染がわかったのは七月のあたまあたりで、それまで食事はつねにひとりで取っていたし会食も避けていたので感染経路は不明と。毎日体温をはかっていたところそれが三八度を越え、たまに世話になっていた近所の医者に連絡して徒歩ででむき、PCR検査をすると陽性が出たと。そこで保健所に連絡がいき、自宅隔離かホテルかという選択肢を提示され、ひとりもので自宅にいたときに容態の急変がこわかったのでホテルを選んだ。ただ、受け入れ態勢がととのうまでのあいだは自宅待機しなければならない。このひとは前々からそなえて保存食を備蓄しておいたといい、レンジであたためれば食べられるようなそれを食ってしのいだ。熱は変わらず三八度以上がつづき、頭痛もあって料理をするような気力も起こらないので、レンジですぐ食べられるものがあって良かったと。それで待機しているうちにしかし症状が悪化してきたので、保健所に相談すると医師の判断で入院となり、はいったのが七月九日、退院は一六日目の二四日だった。あいだ、発熱、頭痛、下痢の症状がつづき、肺炎も見つかってただ息を吸うだけで胸が痛いという状態になって、中等症Ⅱと診断されたらしい。退院後はしばらく在宅勤務をして、いまは職場に復帰していると。こういった経験からひとりものが感染したときにこまりそうなこととして、食事の確保や日用品の用意などを挙げていた。このひとのように備蓄をしておくのが良いと。また、外出もできなくなるので、買い物などに行ってくれるひとをあらかじめ見つけておくと安心と。おなじひとりものの仲間と協定を組んでおくという手もある。このひとのばあいは大学時代からずっとつづけているサークルの先輩が近所にいて、差し入れをしてくれたのが助かったという。ほか、入院のさいに必要な品々もあらかじめ買っておかないと困るし、また気力を保つために気晴らしは大事だけれど多くの病院はWi-Fiをつかえないので、スマートフォン電子書籍とか好きな音楽とかを入れておくと良いということだった。

     *

上階へ行ってアイロン掛け。窓外は石灰水をわずかばかり注入されたような色合いで、雨が降っているのかいないのかよくわからないもののたぶん降ってはいなかったとおもう。山はしかしビニールの膜を一枚かけられたように色がうすれている。もっとてまえの川沿いや近間の樹々は、大気があかるくないせいもあろう、ならぶ緑に差異はほとんど見受けられず、風もないようで群れてやすらぐ鈍重な平原の動物のように不動の斉一性にしずまっている。聞こえる音は居間の端に吊るされた洗濯物に焼け石に水にもならない微風をおくる扇風機のひびきや、大気をつたわってくる近所の子どもの声くらい、母親はソファでタブレットかなにか見ていたが、じきに天麩羅をやるといって台所にはいり、そうすると油がはねる泡立ちの音もくわわった。