2019-08-01から1ヶ月間の記事一覧
宇野 この問題を考える際、先ほどの小野塚先生の力の問題というところから入るのがわかりやすいかなと思います。私は政治学が専門ですが、入門的な政治学の講義の初回に言うのは、いつも暴力と権力はどう違うかということです。基本的な発想として、暴力(フ…
酒井 「なるべくしてなる」という目的論的な主張は、言語学に限らず進化論においても見られますが、何ら科学的な裏付けをもちません。現存種が進化の「結果」に見えようとも、それは単なる偶然の産物かもしれないのに、すべては結果に向かっているように見え…
中島 酒井先生が編集された『芸術を創る脳――美・言語・人間性をめぐる対話』(東京大学出版会、2013年)では、芸術家の方と対談もされていますよね。 酒井 その本の最後の章で、日本画家の千住博さんが明快に仰っていますが、芸術は人間そのものであり、「生…
酒井 たとえば人間は道具を使いますが、道具を使える動物は他にもいるのではないか、という議論があります。チンパンジーは枝や石を使って虫や木の実などを食べることが知られていますから。しかしそうした例は、道具や知能を表面的な尺度でとらえたために起…
私は、人間はどんな場合にも、人間としてのみかかわりあうべきものだと考えます。そのばあい私たちを結びつける真実の紐帯となるものは、その相互間の安易な直接的な理解ではなく、それぞれの深い孤独をおたがいに尊重しあうことであると考えます。そのよう…
死んだというその事実から 不用意に重量を 取り除くな 独裁者の栄光とその死にも われらはそのように 立会ったのだ 旗に掩われた独裁者の生涯は 独裁者の死と いささかもかかわらぬ 遠雷と蜜蜂のおとずれへ向けて ひとつの柩をかたむけるとき 死んだという事…
窓のそとで ぴすとるが鳴って かあてんへいっぺんに 火がつけられて まちかまえた時間が やってくる 夜だ 連隊のように せろふあんでふち取って―― ふらんすは すぺいんと和ぼくせよ 獅子はおのおの 尻尾[しりお]をなめよ 私は にわかに寛大になり もはやだれ…
ぼくらは 高原から ぼくらの夏へ帰って来たが 死は こののちにも ぼくらをおもい つづけるだろう ぼくらは 風に 自由だったが 儀式はこののちにも ぼくらにまとい つづけるだろう 忘れてはいけないのだ どこかで ぼくらが 厳粛だったことを (『石原吉郎詩集…
さびしいと いま いったろう ひげだらけの その土塀にぴったり おしつけたその背の その すぐうしろで さびしいと いま いったろう そこだけが けものの 腹のようにあたたかく 手ばなしの影ばかりが せつなくおりかさなって いるあたりで 背なかあわせの 奇…
霧のある夜がとりわけて 自由だとはいわぬ 君らにどこで行き遭おうと 君らと僕らのけじめはないし 告発の十字砲火で みごとに均らされたこの町では 人があるけば どこでも大通りだが まれには まともな傷口が それでも肩ごしにのぞくとなると 霧のある夜と …
右手をまわしても 左手をまわしても とどかぬ背後の一点に よるひるの見さかい知らぬげに あかあかもえつづける カンテラのような きみをふりむくことももう できないのか ふりむくことはできないのか なんという 愚鈍な時刻のめぐりあわせが ここまでおれを…
デメトリアーデは死んだが 死ななくたって おんなじことだ 唐がらしよりほかに あかいものを知らぬ愚直な国で 両手いっぱい 裸の風を 扼殺するようなかなしみは どのみちだれにも かかわりはないのだ (『石原吉郎詩集』思潮社(現代詩文庫26)、一九六九年…
なんという駅を出発して来たのか もう誰もおぼえていない ただ いつも右側は真昼で 左側は真夜中のふしぎな国を 汽車ははしりつづけている 駅に着くごとに かならず 赤いランプが窓をのぞき よごれた義足やぼろ靴といっしょに まっ黒なかたまりが 投げこまれ…
にんげんの耳の高さに その耳を据え 肩の高さにその肩を据えた 鉄と無花果がしたたる空間で 林立する空壺の口もとまでが 彼をかぎっている夜の深さだ 名づけうる暗黒が彼に 兵士のように すぐれた姿勢をあたえた 夕暮れから夜明けまで 皿は適確にくばられて…
充足理由律(Principle of sufficient reason) 「どんな出来事にも原因がある」「どんなことにも、そうであって、別様ではないことの、十分な理由がある」という原理。すなわち、どんな事実であっても、それに対して「なぜ」と問うたなら、必ず「なぜならば…
しかし、この構造には、重大な問題がある。それは、――「バベル問題」と呼んでもいいのだが――人間の自然言語はひとつではない、ということ。われわれ人間には、たくさんの(しかしけっして無限ではない)異なった言語があり、それぞれの個別の人間は、そのう…
「人間とはなにか?」――古いふるい問いである。人間はいつでも「人間とはなにか?」と問うてきた。だから、「人間とはなにか?」という問いへのもっともシンプルな(?)答えは、「人間とは『人間とは何か?』と問うことをやめない存在である」ということに…
小林 モラルというところに話が来てしまったとなると、わたしが考えるのは、中島さんの専門分野かもしれないけれども、やっぱり「道」みたいなことかな。「心の語り方」という始めの問いに戻るとして、「心」とは何? となると、「魂」と「精神」と「意識」…
小林 ビッグバンが起きたとして、その時点からこの宇宙では、時間が一方向的に流れ始めるわけですよね。これはエントロピーですよね。エントロピーが増大していくというのは一方向性の規則で、なおかつこれは、奇妙なことに、プランク定数という不連続性の値…
小林 最近、ジム・アル=カリーリ/ジョンジョー・マクファデンの『量子力学で生命の謎を解く』(邦訳、SBクリエイティブ、2015年)という本を読んでいたら、単なる比喩ですけど面白いことが書いてあった。それは、道ばたにラジオが落ちていた。ラジオを知ら…
尾藤 ある意味単純化して言うと、われわれの記憶の容量というのは限定されているわけです。それから時間も限定されている。起きている時間は限られていますので。そうすると、有限の経験の空間の中で、どういう情報を自分が生き延びるために貯蔵して、それを…
科学の意義、テクノロジーとの関係の仕方、広がる格差、予想もつかないほどの政治状況の変化、超高齢化、医療化する社会、地球の持続可能性、復興する宗教、望ましい未来の社会等々の、差し迫った現実的な課題にどう立ち向かうのか。東大EMPはこうした課題解…
わずかな風の動きにも敏感に反応して漂いつづける白銀の綿毛は視界のあらゆる方向にあって、それは目の錯覚のような、それでも前髪に触れ鼻先を掠めるたびに払いのける動作を繰り返さずにはいられないのだった。見晴らしのある側にはむかし海と島々だったと…
シブレ山の石切り場で事故があって、火は燃え難くなった。 大人たちがそう言うのを聞いて、少女のトエはそうかそうかと思っただけだったが、火は確かに燃え難くなっていた。まったく燃えないという訳ではないのだが、とにかくしんねりと燃え難い。すでに春で…
蓮實 そうなんですけどね。フーコーがやっぱりフランスが最も上質な部分において生産しうる人かというと、これ、正直いってぼくはいまだによくわかりませんけれども、〈新哲学派〉みたいなものが出てくるってことは、これ、よくわかっちゃうんですね。つまり…
村上(……)今日のわれわれの科学の源流を遡ったときに、十七世紀が直接的なオリジンになっている。従来の図式からいえばそれで済むわけですが、今日それで済まなくなってきているのは、これもごく単純な話になりますけど、十七世紀に生きていた連中というの…
ところでそのデリダが〈エクリチュールの学〉として構想する〈グラマトロジー〉、それは単に文字言語としてエクリチュールを復権させようとするものではないが、しかし差し当たり、〈生きた音声言語[パロール]〉によって〈死んだ言葉〉として排除され、単な…
――クローデルにおける《音声言語[パロール]》の荘厳化には、その対部というか、あるいはアルトーにならって《分身》と呼んでもよいようなもの、それを己れの《外部》として排除していく何物かがあって、それをあなたに倣って《エクリチュール》と呼ぶことは…
清水 モデルニテとニーチェというのは、つまりこういうことだと思う。近代性[モデルニテ]というものの問題性、袋小路性、苦しみ、複雑さというもののどうにもならなさは、われわれが近代性のなかに生きているという事実と切りはなせない。近代性というものが…
渡辺 マルクスの『資本論』は、誰でも言うように、勧善懲悪のメロドラマであり、十九世紀通俗小説の骨格でしょう。フロイトは、『オイディプース王』でギリシア悲劇までいく。ニーチェはそこも突き抜けちゃう。始めに清水さんがニーチェを詩人だと言ったのは…