2020-11-01から1ヶ月間の記事一覧

2020/11/30, Mon.

デリダによれば、精神分析的な三角形の問題は、それが正しくない数の項目を含むということではなく、それが上首尾な弁証法的調停や欲望の調和的な正常化――すなわち、止揚[﹅2]〔Aufhebung〕――の可能性を前提にしているということである。オイディプス的三幅…

2020/11/29, Sun.

ここでの問題は、明らかに、2という数のステイタスに関わっている。二人の対抗者、もしくは両極的な対立者の対決が、いつも同時に、逆発・空発を引き起こすとすれば、その理由は、2がきわめて「風変わりな〔odd〕」数〔これはむろん、奇数という意味でもある…

2020/11/28, Sat.

二、ラカンはテクストに何を取り残したのか[﹅18]。この反論はそれ自体が二重的である。デリダはまず、彼〔デリダ〕がポーの「デュパン三部作」と呼んでいる他の二つの物語との関連から「盗まれた手紙」を考察していないとして、ラカンを批判する。また、デ…

2020/11/27, Fri.

したがって、それぞれの人物が次に行うべきことを決定するのは、個々の主体の性格でも、手紙の内容でもなく、グループ内における手紙の位置である。手紙が意味の単位(シニフィエ[﹅5])としてではなく、ある種の効果を生み出す単位(シニフィアン[﹅6])と…

2020/11/26, Thu.

[エドガー・アラン・ポー「盗まれた手紙」の]いずれの対話でも、すべての言葉が読者に忠実に反復されているように見えるため、語り手は彼の物語をもっぱら直接的な引用によって提示したと思われるだろう。要約の可能性が期待された時でさえ――例えば、警察が…

2020/11/25, Wed.

読者はこうした一連の前置きに付き合わされるにつれ、盗まれた手紙という主題の繰り延べがいかに伝染的になりうるか、ということに気づき始めるかもしれない。しかし、これら三つのテクストをどのように提示するかという問題はさらに深刻である。というのも…

2020/11/24, Tue.

なすことなく知ろうとする試み自体が行為として機能しうるように、裁定は常に顕在的な行為であるという事実が、その認識的な窮状にさらにもう一つ解決不能な問題を付け加える。ヴィアが指摘するように、「最後の[﹅3]審判」ではいかなる裁定も生じえないため…

2020/11/23, Mon.

先に述べたように、多くの批評家によれば、ヴィア艦長の機能は物語の「単純化しすぎた」アレゴリー的対立の中に「曖昧性」を挿入することにある。だが、ヴィア艦長は同時に、最も激烈な批評的かつ危機的な対立を引き起こしている。換言するなら、彼は相反す…

2020/11/22, Sun.

ヴィアが引用や暗示によって「絶対的なもの」――軍隊的なものに対立するもの――を名指しているならば、それは、裁定を可能にする二者択一的な参照の枠組みが自然と国王ではなく、むしろ二つのタイプのテクスト的な権威――聖書と〈反乱法〉――であることを示唆し…

2020/11/21, Sat.

とはいえ、ヴィアの裁定は殺人行為である[﹅3]。ヴィア艦長は話す代わりに殺人を犯すビリーとは違い、まさに話すことによって殺人を犯す読み手なのだ。ビリーは言葉の無能力さによって人を殺めるが、ヴィアは修辞の能力や洗練によって人を殺す。ヴィアの場合…

2020/11/20, Fri.

一方にバッド/クラガートという形而上的な葛藤、他方にヴィア艦長の読み。両者の対立を引き起こす根本的な要素は一語で要約できる。歴史である。純朴な読み手や皮肉な読み手は、言語に絶対的・無時間的・普遍的な法(動機づけられたものとしての記号、もし…

2020/11/19, Thu.

ビリーの読みの方法が、すべてを額面どおりに受け取ることにあるとすれば、クラガートのそれは、あらゆるヒナギクの下に人捕り罠を見ることにある。これは明白だと思われる。ところが、その実践においては、いずれの方法も厳密に支持されてはいない。純朴な…

2020/11/18, Wed.

マラルメが最も頻繁に省略する、あるいは別形に活用させる動詞が être であることは、決して偶然ではない。マラルメの統辞法的革命は、言語の認識論的ないしは存在論的な機能を脱中心化することに帰着する。多価的な主張、脱中心化された主張、あるいは失敗…

2020/11/17, Tue.

私たちが探しているその統辞法のコペルニクスとは、言うまでもなく、みずからを「深く綿密な統辞法の実践者[原注5: Letter to Maurice Guillemot, quoted by Jacques Scherer, L'Expression littéraire dans l'œuvre de Mallarmé (Paris: Droz, 1947), p. 79…

2020/11/16, Mon.

(……)詩句〔vers〕とは、その語源〔versus(……に対して、……に背を向けて)〕が示唆するように、リズムや脚韻において、旋回を実践することである。それはまさに、言語の倒錯的なあり方――すなわち、単純な代替の追求を裏切る〔失望させる〕こと――によって余…

2020/11/15, Sun.

私は諸々の意図から出発した、人々が――彼らは文体が中立的なものだと想像しているのだが――文体に関し、己の表現が飛び込みによって暗くなることも、また、ほとばしるはね返りでずぶ濡れになる〔溢れ輝く〕こともないよう望むように。すなわち、法則である代…

2020/11/14, Sat.

とはいえ、網膜に与えられる、表面[﹅2]とほとんど分離できないその下で[﹅2]、何かある煌めき[﹅3]が不安を与えなかったとしても、――疑念を呼び覚ます。そこで、読者の中でも悪賢い連中は、話を中断せよと要求し、この内容はまさしく理解不可能だなどと、生…

2020/11/13, Fri.

言葉の論理が発言者と発言とのある種の不連続性を全面的に回避不能にすることは、まさにそれを回避しようとするオースティンの試みによって事実上証明されている。というのも、彼が「純然たる行為=遂行〔mere doing〕」を名指すために使用する用語、芝居性…

2020/11/12, Thu.

(……)マラルメの詩学で革命的なのは、「対象」を排除していることより、むしろ、己を空虚化する非直観的な意味の装置を、まさにこうして体系的に構築していることである。マラルメのよく知られた晦渋さは、明白なものをくねらせ曖昧にすることにあるのでは…

2020/11/11, Wed.

(……)「ある種の行為遂行的発言は、舞台上の俳優によってなされたり、詩の中に導入されたりすると、独特の仕方で[﹅6]空虚になったり、無効になったりする[原注18: J. L. Austin, How to Do Things with Words (Cambridge, MA: Harvard University Press, 1…

2020/11/10, Tue.

(……)このように、行為遂行的発言が本来的に自己 - 指向的な言語行為であるなら、それを生成することは、世界の中に新たな指向対象を同時に生成することである。これはだが、指向対象という概念を根本的に変換させることに等しい。というのも、もしそうなら…

2020/11/9, Mon.

(……)明白なことだが、行為遂行的発言と単なる発話行為を区別するには、行為遂行的発言の特性に関するさらなる条件づけが必要とされるだろう。というのも、オースティンみずからが問いかけているように、「われわれはどんな言葉を発する時でも、「何かを行…

2020/11/8, Sun.

換言するなら、散文詩と韻文詩のあいだの切断・修正作用は双方向に[﹅4]際限なく働いている。二つのテクストの各々が、他方の口実、すなわち前 - テクスト〔pre-text〕なのだ。いずれのテクストも他方に対する優先性を主張できない。つまり、〔切断・修正の…

2020/11/7, Sat.

このように、常套句的な花(黒いチューリップ、青いダリア)から常套句的な国(〈宝〉の国)に、故郷の港である「おまえ」から異国の岸辺である「おまえ」に向かうこの詩的な旅は、すべてがおなじみのクリシェの範囲内で行われている。つまり、修辞的な移動…

2020/11/6, Fri.

しかし、この「寓意的な花」のテクスト性は、『悪の華』への指向に限定されるものではない。というのも、この比類のない花は、単に新しい、あるいは二番煎じのボードレール的修辞によって構成されるどころか、よく知られた二つの別の文学作品の名――アレクサ…

2020/11/5, Thu.

こうした引用のコラージュから浮かび上がるメッセージは確かに単純なものではない。だが、それはまさに等価システムを永続させるプロセスにおいて[﹅23]そのシステムを超越する、という共通の方法を通じて、疑いなく、〈詩〉と〈資本〉の類似性を示唆してい…

2020/11/4, Wed.

この詩で言及されている「照応(物)」という概念は、ボードレールの時代に実際に流通していた芸術的隠喩観を体現している。スウェーデンボルグ〔スヴェーデンボリ〕からスタール夫人まで、そしてシェリングからコンスタン司祭まで、照応(物)という考えは…

2020/11/3, Tue.

(……)「私の子、私の妹」という冒頭の訴えでは、親密さ〔familiarity〕が家族性〔familiality〕と合致している。つまり、望まれている二つの隣接存在の結びつき(「一緒に暮らす」)は、発生論的類似性という自然記号のもとに置かれている。隔てられた二つ…

2020/11/2, Mon.

(……)フォンタニエが述べている[ところによれば](……)、隠喩が[は]「一つの概念を、それよりもさらに強烈でよく知られている別の概念のもとに提示すること(原注7: Pierre Fontanier, Les Figures du discours (Paris: Flammarion, 1968), p. 99.)」であ…

2020/11/1, Sun.

このように、散文詩「旅への誘い」における料理への言及が、詩的コンテクスト内への小説的あるいは写実的コードの侵入を示すとするなら――むろん、「詩的」が何を意味するかは依然不分明のままだが――、いわゆるこのコードの闘いの中で、いったい何が「叙情的…