2020-12-01から1ヶ月間の記事一覧

2020/12/31, Thu.

(……)シーバースが展開するのはレトリックを使用してもレトリカルに終わることもなければ政治的[ポリティカル]に走ることもない、あくまで倫理的批評を再考しようとするスタンスと呼べるだろう。 その姿勢は、古代から倫理的批評の歴史を説きおこす第一章か…

2020/12/30, Wed.

たとえば、詩人が詩論を書く。詩論の形式を採って、美学的尺度について書く。これは、めずらしいことではない。前世紀にはポウの「詩の原理」(一八五〇年、死後発表)が人間の認識能力を「純粋知性」「審美眼」「倫理意識」の三つに区分し、詩は何よりも美…

2020/12/29, Tue.

我々はテクストの修辞法を読んでいるのか、それとも我々の読みの性格自体がテクストに修辞的な顔を与えているにすぎないのか? それとも、それらはまったく同時に起こっているのか? 修辞的読解をめぐるこのようにパラドクシカルな問いは、もちろんド・マン…

2020/12/28, Mon.

ポスト記号論及びポスト物語学としての脱修辞学が、精神分析と密接な関わりを持つことには、多言を要すまい。記号の無意識を探り、語りの効果を探る批評――それはまさに、フロイトが臨床医として実践した言説の形であった。分析医は患者を読む。症例というテ…

2020/12/27, Sun.

不完全な言語がたまたま存在するのではなく、言語とは当初より不可避的に不完全であり、その欠損をおおい隠す衣装として修辞形式が存在すること。ただし、そのような修辞形式があまりにも所与のものとなっているため、我々は日常、たとえば「椅子の脚」とい…

2020/12/26, Sat.

たとえば、本書全体の祖型として第一部第一章に置かれた「脱修辞化の事故――ワーズワス『序曲』第五部『書物』にみる字義的/修辞的読解の限界」(初出一九七九年)を一読してみよう。ワーズワスの「書物」のセクションは、なるほどチェイスが述べるとおり、…

2020/12/25, Fri.

比喩操作、それが政治であるとするならば、マザーの時代を支配した最高のメタファーは「父」であった。父権制は、神権政治でいう敬虔をいちばん巧みに表象する比喩体系だ。これが、出発点である。しかし、一七世紀から一八世紀へ、中世的時代から啓蒙主義時…

2020/12/24, Thu.

アメリカの父祖、ピルグリム・ファーザーズ。だが、一七世紀以後アメリカを実際に築いてきたのは、ピューリタンそのひとというよりもピューリタンの修辞法だった。ペリー・ミラーやアーシュラ・ブラムによる伝統的なピューリタン研究が聖書予型論[タイポロジ…

2020/12/11, Fri.

南北戦争を契機に、女性作家ばかりか女性読者も増大しはじめたアメリカ。識字力転じて知的能力の増進に関しては、もちろん一八二〇年代から勃興した市場経済と、一八五〇年代を境にテクノロジーが桁外れの進展を遂げ、印刷技術によって書物の大量生産が、鉄…

2020/12/10, Thu.

ポール・ド・マンやシンシア・チェイスによるなら、ひとつの言語表現(たとえば「椅子の脚」や「山の顔」)が、まさにナチュラルな現実として受け入れられるのは、そのメタファーが「濫喩[キャタクレシス]」「死んだ隠喩[デッド・メタファー]」に基づきなが…

2020/12/9, Wed.

さらに[キャシー・]デイヴィッドソンは、こうした書物の循環構造に注目し、書物の生産と同時に読書もまた生産されるのだというパースペクティヴを明かす。たとえば文学教育用にはいかにも素っ気ないデザインの作品テキストが配布されるが、同じ作品でも、た…

2020/12/8, Tue.

一九九〇年代末の教科書的な記述に沿うなら、少なくとも新批評から読者反応論批評へ至る理論的な発展において、書き手がおり、彼ないし彼女の生み出す文学作品があり、それを受容し精読/誤読/脱構築する読み手がいるという基本的な構図だけは、いささかも…

2020/12/7, Mon.

しかし、(精神)分析の行為が、みずからが分析を行おう(結び目を解きほぐそう)とする構造を反復するものという形でしか、アイデンティティを有しないのであれば、精神分析は常に――すでにみずからが検討するテクストの中に入れ子構造化されていて[﹅11]〔m…

2020/12/6, Sun.

だが、ラカンは、ファルスにそれよりもはるかに複雑な定義を与えている。というのも、女性の定義が「愛の関係において、自身がもたないものを与える〔もの〕」であるなら、女性がもたないものの定義はペニスだけに限定されないからである。ラカンはこの議論…

2020/12/5, Sat.

ボナパルト[「マリー・ボナパルトによるエドガー・アラン・ポーの生涯と作品に関する精神 - 伝記的な研究」]の場合には、まさにマントルピースと女性の身体の類似性が、手紙のファルス的機能を導き出していた。ファルスは比喩的表象のモデルとなる、現実的、…

2020/12/4, Fri.

「盗まれた手紙」は「文学」と署名されている、とデリダは述べている。手紙の内容――〔本来〕われわれに見ることが許されている唯一のもの――は別のテクストの中にある、つまり、手紙の意味の場は手紙の中にではなく、それとは別の所にある。そうした意味のコ…

2020/12/3, Thu.

これまで見てきたように、デリダが文学テクストの枠組みを問題化できるのは、自身が「エクリチュールの舞台」と呼ぶもののおかげである。彼はこの表現を、以下の二つの意味で使用している。 一、全面的にシニフィエへと変換されることに対して、テクストとい…

2020/12/2, Wed.

枠組みは実際、鼓膜や処女膜と並んで、一連の逆説的な「境界線事例」の一つである。デリダは最近そうした事例をとおして、空間的な論理が理解可能性と結びついた時の限界について検討を加えてきた。ラカンもまた、結び目の論理による「新たな幾何学」を案出…

2020/12/1, Tue.

しかし、デリダ側のこの過度な単純化が、盲目さ、見過ごし、誤謬によるものでないことは確かである。ポール・ド・マンが、デリダの同様なルソー論について述べているように、問題は、「そのパターンが面白すぎて、わざとらしい[原注10: Paul de Man, Blindne…