2020-09-01から1ヶ月間の記事一覧

2020/9/18, Fri.

(……)日常語では、あることをこうむることに快楽を覚える者(そうでないとしても、ともかく、このこうむることの共犯者である者)を定義するのに、かれはあることを「自分にしてもらう」(ただ単に、あることがかれにたいしてなされる、ということではない…

2020/9/17, Thu.

恥ずかしさにそっくり相当するものが、まさしく、近代哲学において自己触発と呼ばれ、カント以降、時間と同一視されるのが習いとなっている主体性の原初的構造に認められるとしても意外ではない。時間が内的感覚の形式、すなわち「わたしたち自身とわたした…

2020/9/15, Tue.

二十世紀の倫理は怨恨[ルサンチマン]のニーチェ的な克服をもって始まる。過去にたいする意志の無力に抗して、いまでは取り戻しようもなくかつてあったものとなってもはや欲することができなくなってしまったものにたいする復讐心に抗して、ツァラトゥストラ…

2020/9/14, Mon.

他人の代わりに生きているがゆえの罪の意識が生き残り証人の感じている恥ずかしさについての正確な説明になるかどうかは、まったくさだかではない。まして、生き残って証言する者が無実ではあっても、生き残りである以上、罪を感じなければならないというベ…

2020/9/13, Sun.

現代における死の零落について、ミシェル・フーコーは、政治用語を使ってひとつの説明を提示している。それは死の零落を近代における権力の変容に結びつけるものである。領土の主権という伝統的な姿のもとでは、権力は、その本質において生殺与奪の権利とし…

2020/9/12, Sat.

じつは、『存在と時間』では、死に特別な役割が託されている。死は決意の体験であり、「死に向かう存在」の名のもとに、おそらくはハイデガーの倫理学の究極の意図を体現している。というのも、人間は、おしゃべり、あいまいさ、散漫からなる日常の非本来性…

2020/9/11, Fri.

正直な知性が示す無理解にはしばしば教えられるところがある。プリモ・レーヴィは難解な作家を好まなかったが、パウル・ツェラーンの詩には惹かれていた。本当には理解できなかったにしてもである。「難解に書くことについて」と題された短いエッセイのなか…

2020/9/10, Thu.

証言のうちに証言不可能性のようなものがあることは、すでに指摘されていた。一九八三年、ジャン=フランソワ・リオタールの著作『ディフェラン〔文の抗争〕』があらわれた。それは、ガス室の存在を否定しようとする論者たちの最近の主張を皮肉まじりに取り…

2020/9/5, Sat.

「責任(responsabilità)」という語の起源をなす spondeo〔請け合う〕というラテン語の動詞は、「ある者(あるいは自分自身)のために、ある者の面前で、あることの保証人となること」を意味する。したがって、婚約の場面で、父親が spondeo という文句を口…

2020/9/3, Thu.

一九八三年、エイナウディ出版社はレーヴィにカフカの『審判』の翻訳を求めた。『審判』については無数の解釈がおこなわれているが、いずれも、それの政治的予言としての性格(絶対悪としての現代の官僚機構)、あるいは神学的な性格(裁判所は知られぬ神と…