2021-12-01から1ヶ月間の記事一覧
きのうの記事はかなりみじかめに、うまく短縮して書けた感があってよろしかった。三〇〇〇字くらいにおさまったもよう。まいにちそのくらいの分量でいければかなり楽だし、ほかのことにも時間をつかえていいかもしれないなとおもった。ともかくもまいにち書…
いま一月三日の午後八時半で、さきほど夕食まえにこの前日、二九日の記事を書いたのだけれど、なるべく簡易的に行こうなどと言っておきながら終わってみれば六〇〇〇字だかそのくらいは書いたもようで、この日の記事はもっと絞って最低限にしたい(というこ…
カントの挙げる趣味判断の「第三の契機」は関係のカテゴリーとかかわっている。第一批判のカテゴリー表で示される「関係」の項は「内属と自存(実体と偶有性)」「原因性と依存性(原因と結果)」「相互性(能動者と受動者のあいだの交互作用)」の三つをふ…
快適なものにかかわる趣味、「享受」をめぐる趣味はかくて「感官趣味」とも言われる。これに対して、美しいものにかんするそれは、「反省趣味」と称されることもできるだろう( [KU] 214)。美に対する適意にともなう快は「たんなる反省から生まれる快」であ…
カントが「趣味判断の第二の契機」としてとり上げるのは、その「量」である。質の契機としてあきらかとなったとおり、「いっさいの関心を欠いている」趣味判断にとって「適意の対象」(end19)となるものが美しいといわれる。ところで、或るものに対するだれ…
純粋な趣味判断の対象、つまり美しいものは、快適なものともよい [﹅2] ものともことなっている。美しいものにかんする判断、「純粋な趣味判断」においては、およそ対象の「現実存在」は問題とならず、そこにはほんのすこしの関心も混入していてはならない(…
[『判断力批判』] 第一章の第一節「趣味判断は直感的なものである」をカントはつぎのように説きおこす。念のため引用しておく。 或るものが美しいか否かを区別するために、私たちは表象を、悟性をつうじて認識のために客観に関係づけるのではない。むしろ(…
子守唄 もう休む時間だ。とりあえず もう十分興奮を味わったはず。 夕暮れ、そして宵のはじめ。部屋の あちこちで明滅を繰り返す蛍たち、 開いた窓に満ちていく深く甘美な夏の気配。 これらに思いを巡らせるのはもうやめて、 わたしの息づかいに、自分自身の…
朝の祈り 太陽だけでなく、地上が それ自体で輝き、目にも鮮やかな山々では 白い炎が躍り、 早朝の平らな道は かすかに光を放っています。この景色は わたしたちを反応させるためだけに あるのでしょうか、あるいは 地上の有り様に心を打たれて、 あなたの感…
赤いヒナゲシ 精神がないって なんて素晴らしいこと。感情―― ああ、それなら持っています、それは わたしを支配するもの。 わたしは天にいる 太陽という主人のために 自分を開きます、彼の存在自体のように 燃え立つ心を 見せるために。 心以外の何がここま…
野の花 あなたは何をいっているの? 永遠の命が欲しい? あなたの持っている考えが 本当にそれほど魅力的かしら? もちろん あなたはわたしたちを見ることも聞くこともしない。 あなたの皮膚についた 太陽のしみ、黄色いキンポウゲの粉。わたしは あなたに話…
ヤコブの梯子 [※] 地に縛られていたら 誰だって天に行くことを 望むでしょう? レディ、 憧れのあまり、あなたの庭に顔を出した わたしの無作法をお許し下さい。わたしは あなたの求めていた花ではありません。けれど 男と女が 惹かれ合うように、わたしも …
一一時一五分ごろ覚醒。深呼吸して四五分ごろ離床。コンピューターをつけておいて水場へ。もどってくると、さくばん(……)から”(……)”の動画を確認してほしいとメールがはいっていたので視聴し、LINEにコメント。そうしてうえへ。快晴。気温もけっこうあり…
作(26:40): 「個体とははかなさからのおくりもの窓はいつでも雲にやさしい」 (……)の結婚式の日。一一時半の電車で行く予定だったのでアラームは八時半。九時すぎに離床。瞑想をした。食事をとったりなんだりするともう一〇時すぎで、猶予がない。一六日…
この日は休日。おおかたは前日のことをつづるのについやしたはず。ほか、「読みかえし」ノートはわりと読み、翌日の準備をした。ワイシャツにアイロンをかけておいたりとか、ネクタイをとりだして礼服とひとところにまとめておいたりとか、その程度のことだ…
書抜きのストックがなくなってしまってやばい。 この日は祖母の葬儀で山梨まで行ってきた。一〇時ごろに出る予定だったので余裕をもって七時半にアラームをかけておいたのだが、けっきょく起床は八時半。瞑想もサボる。飯を食ったりもろもろすませたり身支度…
志賀直哉と藤枝静男、そして安岡章太郎という三人の作家の「作品」を読みおえたいま、なにがなされねばならないだろうか。読みおえた [﹅5] といっても、もちろんそれは、読むことがとりあえず中断されたというにすぎないし、またここに提示された読み方だけ…
実際、『流離譚』の物語は、嘉助がどんな気持でそれに参加したのか皆目わからない「天誅組」の五条代官所焼打ちを語るあたりから、ほとんど嘉助の姿を見失っている。もちろん「武器取調方」というかなりの要職にあった嘉助のことだから、「天誅組」をめぐ(e…
彼は、一年ぶりにこの外界から遮断された病院を訪れたその翌朝から、「頸にホウタイを巻いた白い半ズボンの男」の存在に気づいている。男は、「甘酸っぱい臭い」のたちこめるこの重症病棟では何か曖昧な特権性を享受しているようにみえる。「軍隊なら内務係…
シジュフォスは、周知のごとく、滑りおちてくる岩塊を絶えず支えていることに、その生の条件を見出している。また、わが国の明治以後の伝統的な小説の主人公たちは、崩れ落ちた岩塊の下敷きとなった作家自身の、その敗北の意識を、心境的な [﹅4] と呼ばれる…
それにもかかわらず、性懲りもなく安岡の言葉との戯れを反復してしまうのは、その「遁走」の論理が、まさしく弱者の居なおりとか、その場かぎりのとりつくろわれた延命策ではなく、まさに、読む [﹅2] という理由のない彷徨と、その体験に身をゆだねる漂泊者…
「川」は、「家系」や「巨木」にも増して豊かに「分岐」の劇を演じてみせる。作品『欣求浄土』には、水源との遭遇を直接の目標として家を出る彷徨は認められないが、すでに諸々の交通機関の乗り継ぎが彼の軌跡を幾つかの「分岐点」で折りまげているし、また…
『欣求浄土』とは、作品の言葉が持つ重さと存在感とを、その最も聞きとりにくいつぶやきやささやきに至るまで、それとは異質の環境に譲り渡そうとする試みにほかならない。だが藤枝は、いつもながらの思い込みから誰もが現代文学の特異な相貌を彫琢する手段…
――ああ何てここは暖いだろう、と彼は溜息をつくように思った。これからは、もう父や兄や姉の云うことを何でもよく聞いて、素直に、永久にここで暮らせばいいのだ。 藤枝にしてはめずらしい安手な感傷が語調を犯しているこの文章には、まるでそこで暮すことが…
[『家族歴』において] 「昭和十二年秋、父は遂に脳溢血の発作によって倒れ、中二日おいて、意識不明のまま六十三歳の生涯を了った」という言葉についで、父の手で「先祖代々之墓」と書かれた納骨堂の「窪み」へと滑りこんでゆく「私」の記憶が語られている。…
『土中の庭』の冒頭で語られる父の断片的な記憶は、その背景となる田園風景のときならぬ変容ぶりによって、作品『欣求浄土』の最も美しいページをかたちづくっている。「金剛石も磨かずば」という昭憲皇太后の御歌が、「金玉」を磨く歌だと「一人合点で思い…
その夢は、『或る年の冬 或る年の夏』のそれに続く部分に明瞭なかたちをとってあらわれてくる。左翼の非合法的な活動にごく曖昧なままかかずらわり、「オケラ」の一人として警察に挙げられた留置場でのことである。 ――調べが済んだ次の夜、彼は夢精し、それ…
そこで、書かれつつある言葉を読むという姿勢から、独特な幾つかの用語法がこの書物に導き入れられることになる。それは、前著『夏目漱石論』いらい一貫したものだが、実はここにおさめられた三篇の試論の方が執筆時期は早いものなので、とりわけ「安岡章太…
このことから言えるのは、メディアとは物理的、化学的、あるいは物質的に定義できるようなものではなくて、〈メッセージ〉や〈情報〉を運ぶために記号を帯びた状態が成立していることを指して、「メディア」と呼ばれている。つまり、メディアが成立するため…
学校は、フーコーが「ディシプリン」と呼んだ規律・訓練によって生徒を均質化し、従順で生産的な主体を塑型するということを行うわけですけれども、同時に、すべての学校(end185)は同じような形でディシプリンを行うわけではありません。どの学校にも「校…