2021-04-01から1ヶ月間の記事一覧

2021/4/30, Fri.

自分の書いたものを読みかえしていると、それぞれの作品の構成そのもののなかに、〈成功した/失敗した〉という奇妙な分裂が見てとれるように思う。ときおり、幸福な表現すなわち幸せな海岸があって、それから沼地や岩滓もあるので、彼はそれらの分類整理を…

2021/4/29, Thu.

社会的言説やひどい社会的方言が集まる伏魔殿においては、二種類の傲慢さを、すなわちレトリック支配の恐るべき二形態を区別することにしよう。〈支配〉と〈勝利〉である。「ドクサ」は、勝ち誇(end231)ってはいない。支配することで満足しているのだ。ド…

2021/4/28, Wed.

言葉が観念をみちびいてゆくような言述はどれも、(価値的な判断からではなく)「詩的である」と言うことができる。もし、あなたが言葉の誘惑に屈するほど言葉を好きになれば、シニフィエを示すことや著述をおこなうことという掟から身を引くことになるだろ…

2021/4/27, Tue.

きわめてささいなものであろうと、いかなる事実にたいしても質問をくわえたくなる、という常に変わらぬ(むなしい)情熱がある。〈どうして〉という子どもの質問ではなく、意味をたずねる古代(end226)ギリシア人の質問である。いかなる事物も意味に身をふ…

2021/4/26, Mon.

主観的に言って、「政治的なこと」とは、倦怠そして/または悦楽をたえず生じさせる源だと思う。しかも、それは〈実際には〉(つまり政治にかかわる人の傲慢さにもかかわらず、という意味であるが)、どこまでも多義的な空間であり、終わりのない解釈にめぐ…

2021/4/25, Sun.

〈プチブルジョワ〉。この述語は、いかなる主語にも張り付いてしまう可能性がある。この災難をだれも逃れられない(当然だ。本だけでなくフランス文化全体がそれを経由しているのだから)。労働者にも、管理職、教師、反体制学生、活動家、友人のXやYにも、…

2021/4/24, Sat.

このような矛盾をあなたはどのように説明するのか、どのように黙認できるのか。哲学的には、あなたは唯物論者のように見える(この言葉があまりにも古めかしく聞こえなければ、であるが)。倫理的には、あなたは分裂している。すなわち、身体にかんしては快…

2021/4/23, Fri.

自分に注釈をつけるとは。なんと退屈なことだろう。だからわたしには――遠くから、とても遠くから――現在の時点から、自分を〈ふたたび - 書く〉以外に方法がなかったのだ。つまり、本や、主題や、回想や、テクストに、べつの言表行為をつけくわえることである…

2021/4/22, Thu.

(……)主体の〈裏をかく〉ことが重要なのだとすれば、〈戯れる〉ことはむなしい方法であり、その方法によって追求していることとは逆の効果さえもたらすということだ。戯れの主体は、このうえなく堅くしっかりしている。ほんとうの戯れとは、主体を隠すこと…

2021/4/21, Wed.

「ある夜、バーの長いすでうつらうつらしていると……」。つまりこれは、タンジールのその「ナイトクラブ」で、わたしがしていたことである。わたしはそこですこし眠っていたのだ。さて、つまらない都市社会学によると、ナイトクラブとは覚醒と行動の場だとい…

2021/4/20, Tue.

彼の仕事は反歴史的ではない(すくなくともそう願っている)が、いつも頑固に反生成的である。なぜなら「起源」とは、「自然」(「ピュシス」)の危険なかたちだからである。「ドクサ」は、打算的(end207)な悪用によって「起源」と「真実」とをいっしょに…

2021/4/19, Mon.

三、しかし、彼自身が言語活動の主体であるならば、彼の闘いが直接的に政治的解決になることはありえない。なぜなら、ステレオタイプの不透明さを見出すことになってしまうだろうからだ。したがって、闘いは黙示録のような動きをとることになる。すなわち彼…

2021/4/18, Sun.

プルーストにおいては、五感のうちの三つの感覚が思い出をみちびきだしている。だがわたしにとって、響きのよさよりも結局は声のきめの点で〈よい香りのする〉声の場合はそうなのだが、それをべつにすると、思い出や、欲望、死、不可能な回帰といったものは…

2021/4/17, Sat.

(……)社会論理学的な分析(一九六二年)のなかに、まるで匂いのある夢のように次の文を入れることには、快感のようなものがありはしないだろうか。「野生のサクランボ、シナモン、バニラ、シェリー酒、カナダの茶、ラベンダー、バナナ」[訳注216: 「社会学…

2021/4/16, Fri.

「中性」とは、能動性と受動性の中間なのではない。むしろ、往復運動であり、善悪とは無関係の揺れ動きであり、ようするに、二律背反の反対のものだと言ってもいいだろう。価値(「情熱」の領域から生じるもの)として、「中性」は、社会的実践によって教条…

2021/4/15, Thu.

(……)たとえば、〈新品の/新規の〉の対についてはこうである。「新規」は良いもので、「テクスト」のもつ幸福な動きである。体制的に後退の恐れのあるいかなる社会においても革新は必要なことだ、と歴史的に認められているのだから。だが「新品」は悪いも…

2021/4/14, Wed.

自然なものという幻想は、たえず告発されている(『現代社会の神話』でも、『モードの体系』でもそうだ。『S/Z』においてすら、デノテーションは言語活動の「自然」に転じると語られている)。自然なものとは、物質の「自然」の属性とはまったくちがう。そ…

2021/4/13, Tue.

ひとりの作家の語彙には、つねにひとつのマナ - 語があるべきではないか。その語の意味作用は、燃えるようで、多様で、とらえがたく、ほとんど神聖なほどであり、その語を用いれば何にでも答えられるのだという幻想をあたえてくれる。その語は、中心から外れ…

2021/4/12, Mon.

彼が好んで用いる言葉は、しばしば対立関係によって一対になっている。対になった二つの言葉のうち、彼はひとつに賛成で、もうひとつに反対だ。たとえば、〈生産/生産物〉、〈構造化/構造〉、〈小説的なもの/小説〉、〈体系的なもの/体系〉、〈詩的なも…

2021/4/11, Sun.

生涯ずっと、わたしは政治的にくよくよしてきた。そのことから結論する。わたしが知った(得た)唯一の「父」は、政治的な「父」だった、と。 ひとつの〈単純な〉考えがあって、しばしば頭に浮かぶのだが、はっきりと言ったことはいちどもない(おそらく〈愚…

2021/4/10, Sat.

〈卑俗さ〉とは慎みぶかさを侵害することだと仮定するならば、エクリチュールは卑俗になる恐れがたえずあるのだ。わたしたちの(現在の)エクリチュールは、(すこしばかり)何かを伝えること(解釈や分析に身をさらすこと)を望むなら、やはりレトリック的…

2021/4/9, Fri.

彼の書くものには、二種類の大げさな語がある。ひとつは、たんに使いかたがまずいだけのものである。曖昧で押しつけがましい語であり、いくつものシニフィエの代わりをするのに役立っている(「決定論」、「歴史」、「自然」など)。わたしは、それらの大げ…

2021/4/8, Thu.

「目まいと吐き気」の混ざったミシュレの偏頭痛とはかなり違って、わたしの偏頭痛は鈍いものである。頭が痛いことは(とてもひどかったことは一度もないが)、わたしにとっては、自分の身体を不透明で、頑固で、縮こまって、〈崩れ落ちた〉ものにする方法、…

2021/4/7, Wed.

わたしは、たんなる〈頭痛〉という意味で〈偏頭痛〉と言うくせがある(おそらくその言葉が美しいからだろう)。言葉は不適切ではあるが(なぜなら痛いのは頭の片側だけでないからだ)、社会的には適切な言葉である。ブルジョワ女性や文人の伝説的な特性であ…

2021/4/6, Tue.

一九五九年に、フランス領アルジェリアにかんして、あなたは「である」という動詞のイデオロギー的分析をおこなっている。「文」とは、この上なく文法的な対象であるが、あなたがタンジールのバーでのできごとを語るのにも役立つのである。また、あなたは「…

2021/4/5, Mon.

「ドクサ」が語り、わたしにはそれが聞こえるが、その空間にはいない。いかなる作家もそうであるように逆説の人であるわたしは〈扉のうしろに〉いる。わたしもその扉を通りぬけたいと思う。語られていることをこの目で見て、その共同体の場にわたしも参加し…

2021/4/4, Sun.

ドクサとは、一般的な意見であり、〈何でもないかのように〉繰りかえされる意味である。それはメドゥーサだ。見る者を石に変えてしまう。すなわち、メドゥーサとは〈明白なもの〉ということである。だがそれは、ほんとうに見られているのだろうか。いや、見…

2021/4/3, Sat.

この本は「告白」の書ではない。不誠実だということではなく、今日のわたしたちは昨日とは違った知をもっているということだ。その知は、つぎのように要約することができる。わたしが自分について書くことは、けっして〈最終的な言葉〉にはならない、という…

2021/4/2, Fri.

彼の〈思想〉は、現代性と、さらには前衛と呼ばれるもの(テーマ、歴史、性、言語)となんらかの関係をもっている。だが彼は、自分の思想に抵抗している。彼の「自己」、つまり理性的な凝固物が、たえず抵抗するのだ。この本は、一連の思想によって作られて…

2021/4/1, Thu.

(……)文学の対象として、世界は逃れ去ってゆく。知識のほうは、文学を見捨てている。文学は、もはや〈ミメーシス〉[芸術的な模倣]でも〈マテシス〉[普遍学]でもなく、ただ〈セミオシス〉[記号連鎖]、つまり言語の不可能性の冒険にすぎない。ようする…