2021-07-01から1ヶ月間の記事一覧

2021/7/31, Sat.

「家は、大地、大気、光、森、道路、海、川といった匿名的なものから撤退したところに位置する」と、レヴィナスはいう。ひとはつうじょう道路のまんなかに、あるいは川の流れのただなかに〈ねぐら〉をもうけることはない。ここまではよい。レヴィナスはさら…

2021/7/30, Fri.

〈すみか〉とはなによりもまず〈ねぐら〉である。ひとはすみか [﹅3] で横になってくつろぎ、さらには無防備に〈眠り〉につく。眠ることは、〈始原的なもの〉が接している、匿名的な「夜の次元」(151/212)からの解放であり、撤退である。――眠るときにこそ…

2021/7/29, Thu.

現にある私は、衣服を身にまとうことで、かろうじて身体の境界を外界にたいして確保しているにすぎないのではないだろうか。私は私の衣服を〈所有〉し、それを身につけることで、〈始原的なもの〉のなかでわずかに自己をたもっているといってよい面がある。 …

2021/7/28, Wed.

未来は、繰り延べと引き延ばし [﹅5] という意味をもっており、それをかいして労働 [﹅2] は、未来の不確かさとその危うさを統御し、所有 [﹅2] を創設しながら、分離を家政的な非依存性として描きだす。このためには、分離された存在はみずからを集約し、表…

2021/7/27, Tue.

〈始原的なもの〉は、しかしそのようなしかたで視覚的に領有しつくされることもありえない。〈もの〉はいまその前面しか見えないとしても、他の無限の面が原理的には呈示されうる。〈もの〉は視覚的に無限に領有されうる、のかもしれない。だが、とレヴィナ…

2021/7/26, Mon.

〈もの〉はつねにある背景のもとにある。もの [﹅2] が〈もの〉としてあらわれるために、つまり〈もの〉がそのかたちをあらわし、輪郭を浮き立たせるためには、背景としてのその地平が、あるいは「ある環境」(un milieu)が必要である。「〈始原的なもの〉…

2021/7/25, Sun.

身体とは「〈私〉がそれによって生きざるをえない他性そのものを乗りこえてゆく」しかたである。身体である私は〈息をする〉ことで大気を摂取し、〈食べる〉ことで世界を同化してゆくからである。私は、私ではないものをそのときどきに身体へと摂りいれなが…

2021/7/24, Sat.

ひとは、「大気」を吸い込み、日の「光」を浴び、さまざまな「風景」を目にし、それを愉しみながら生きている。より正確にいえば、それら「によって」(de)生きている。たんに呼吸することでさえ、大気を享受することである(cf. 154/216)。 ひとは、しか…

2021/7/23, Fri.

ひとにとって、さしあたり・たいていはあたえられている世界、私のまえにまずひらかれている世界は、デカルト的な物心二元論によって枠どられた、たんなる「延長」する〈もの〉の世界ではなく、近代科学が描きだす、客観化され数量化された対象の世界で(end…

2021/7/22, Thu.

(……)この稿があきらかにしたいのは、いわば「プロレタリア」であることへのレヴィナスのまなざしにほかならない。じっさい、私はこの身のほかになにものももたず [﹅8] に、この地上に生みおとされる。〈私〉はもともと存在という鎖いがいになにも所有して…

2021/7/21, Wed.

この世界においていまだ「正気であること」が、「真なるもの」にたいしてなおひら(end11)かれていることであるならば、「戦争の永続的な可能性」こそが見てとられなければならない、とレヴィナスはいう(5/14)。存在することは、「存在のただなかにある」…

2021/7/20, Tue.

レヴィナス自身は、倫理を「構築」しようとしたのではなく、たんにその意味を「探究」しようとしたにすぎないとしても [註10: E. Lévinas, Éthique ét Infini. Dialogues avec Philippe Nemo, Fayard 1982, p. 85.] 、レヴィナスの探究する倫理は、いやおう…

2021/7/19, Mon.

そうした比較研究は、もっとも極端な場合――もっとも滑稽でもあるのだが――、二つの文化あるいは二つの哲学の「代表者」を直面させて議論させ、相互におのおのの特殊性について問いかけさせるという幻想によって成立している。こうした態勢が、一般に、紋切型…

2021/7/18, Sun.

このような仕方で、現代の同じ社会空間のなかで二つの思想世界を関係づけることは、中国ではほぼ不可能である。中国のナショナリズムは激越な反伝統主義だからだ。国民党から毛沢東政権に至る一世紀のあいだ、知的エリートや政治的エリートは、中国の遅れを…

2021/7/17, Sat.

(……)近代哲学は一九世紀末に、激越な敵対関係(たとえばフランス哲学対ドイツ哲学)によって分割された国家哲学というかたちで現われたのであり、近代初期の日本や中国の知識人たちは、そうした哲学を前にして困難な選択を迫られたのである。ヨーロッパの…

2021/7/16, Fri.

教育に目を向ける最初のステップは、自分たちの生活の異質性、自分自身からの疎外状態、必要であると公言しているものの必然性のなさを観察することである。第二のステップは、人間の異質性そのものの真の必然性、外向性の機会をつかむことである。 (スタン…

2021/7/15, Thu.

カベルがソローに見出す日常経験の現象学において、去ることを通じた世界と自己の緊密性の回復は、自己の内部と外部の双方において「隣人関係」を築くことである。それはたんなる同一化としての結合関係ではなく、あくまで隣にあるという関係、懐疑主義の「…

2021/7/14, Wed.

欧米の哲学者たちには、自己のミラー・イメージとして以外には、「日本」「アジア」という文脈が不在である。日本からすれば、相手には自分が見えていない。哲学における「自分の不在」は、西洋近代に触れた日本の哲学者たちに途方もないコンプレックスを与…

2021/7/13, Tue.

ウィトゲンシュタインが哲学を反省の営みと見定めたことは、彼が哲学の諸問題を一種の病とみなし、哲学という活動をそうした病に対する治療行為とみなしたことと結びついている。『論考』にならって言うならば、哲学の問題とは言語の限界(語りえぬもの)に…

2021/7/12, Mon.

スピノザが哲学の可能性の条件として表現の自由を主張したのは『神学・政治論』のなかでであった。この本はしかし、一六七〇年に出版されると、たちまち発禁処分を受けてしまう。哲学を神学から明確に切りはなし、哲学は神学的な権威とは関係なく自由に展開…

2021/7/11, Sun.

ヴォリンガーは、『ゴシックの形式問題』(一九一一年、邦訳名『ゴシック美術形式論』)の終り近く「スコラ派の心理」と題した章で、ある問題について古代教父からはじまって同時代にいたる数多の論者の回答を列挙検討したあげく、自身の結論はかならずしも…

2021/7/10, Sat.

トマスは肥満体型で明朗な性格、すこしももったいぶるところがなかったといわれる。伝承によれば、けれども、ときに長く沈黙し、またある時期からは放心と落涙の発作を繰りかえした。一二七三年十二月六日、聖ニクラウスの祝日、いつものようにミサを捧げて…

2021/7/9, Fri.

一〇九五年に、教皇ウルバヌス二世が聖地エルサレムの奪還を訴える。翌年から一二七〇年までつづいた、十字軍のはじまりである。結果的に教皇権の衰微へとつながることにもなった十字軍の遠征は、トマスの世紀には、のちに「十三世紀ルネサンス」とも「十三…

2021/7/8, Thu.

『ペリフュセオン』は全五巻からなる。創造し創造されない自然については第一巻で、創造され創造する自然は第二巻で、創造され創造しない自然は第三巻で論じられたうえで、第四巻と第五巻が、創造せず創造されない存在をあつかう構成となっている。偽ディオ…

2021/7/7, Wed.

フランク王国に生まれ、のちにサン=ドニ(フランス語で聖ディオニシオス)修道院の院長ともなった、アルクイヌスの弟子のひとり、ヒルドゥイヌスが、ギリシア人修道士の協力を得て偽ディオニシオス文書の翻訳をこころみている。のちにカール二世の需 [もと]…

2021/7/6, Tue.

メロヴィング朝末期、フランク王国のキリスト教文化は衰微し、修道院の世俗化もすすんでいた。父王ピピンの意志を承けて、カール大帝は、政治的にも文化的にも、キリスト教国家の再建をめざす。「正しく生きることによって神に嘉せられようと欲する者たちは…

2021/7/5, Mon.

アリストテレスによれば、「善とは万物が希求するものである」(『ニコマコス倫理学』第一巻第一章)。つまり「存在するすべてのものは善さへと向かう」。かくして、「存在するものは善いものである Ea quae sunt bona sunt」。存在するものは、分有によって…

2021/7/4, Sun.

「デ・ヘブドマディブス」と通称される、ボエティウスの小論をとり上げてみよう。正確にいうなら、『デ・ヘブドマディブス』(「七について」という意)と題する、失われたボエティウス自身の著作があり、その疑問点を挙げた助祭ヨハネスに応えて書かれた書…

2021/7/3, Sat.

現代存在論のひとつの源流ともなった論文のなかでクワインは、数学基礎論における三つの立場、すなわち論理主義、形式主義、直観主義のそれぞれを、中世哲学における実在論、唯名論、概念論の三者に引きくらべている。ホワイトヘッド型の論理主義なら、たし…

2021/7/2, Fri.

そうではないように思われる。アウグスティヌスにとって問題であったのは、過去、現在、未来の、時間の三次元を有するかぎり、「私の生は分散である」ことである。生は、「ためいきのうちに」過ぎ去ってしまう。「私は、秩序を知らない時間のうちに分散して…