2021-09-01から1ヶ月間の記事一覧
可視的なもの、つまり現前するものと不可視的なものとをへだてる、「ほとんど透明な隔たり」によってへだてる「皮膚」とは、「現前からの退引」であり「自己じしんの退引の痕跡」であった(三・2・2の引用)。若さを漲らせる肌もそれゆえ、同時に「皺の刻ま…
「隣人の顔」は「再現前化」を、私の現在に回収されることを逃れる。顔は「現象することの欠損そのもの」である。「顔の開示」はたしかに「裸形」であるが、しかし「かたちをもたない」(141/169)。つまり、目にみえる [﹅5] かたちをもっていない。ことば…
愛されるものがなお若さの盛りにあることも、原理的には事情をなにひとつかえることがない。若さが若さであるのは、それが失われてゆく若さであるからである。あるいは、若さすら移ろい、過ぎ去った若さであり、「当の若さのなかですでに過ぎ去った若さ」(j…
すこしだけ遠まわりしておく必要があるとおもわれる。〈倫理〉を他者の現前と規定する、『全体性と無限』の視点を『存在するとはべつのしかたで』のレヴィナスは撤回し、現前のかわりに痕跡についてかたりだすことになる。このことにかんしては、デリダのレ…
愛撫される皮膚は、生体の防御壁でも、存在者のたんなる表面でもない。皮膚は、見えるものと見えないもののあいだの隔たり、ほとんど透明な隔たりである。〔中略〕〈近さ〉の測りがたさは、認識と志向性において主観と客観が入りこむ接合とは区別される。知…
〈近さ〉とは「融合」ではない(137/165)。物理的距離が消滅し、さらに一方の身体が他方の身体に侵入したとしても、他者が他なるものとして消滅するわけではない。〈近さ〉とは、かえって「同時性」と「共時性」を「断絶」する差異をふくむ(136/163)。他…
〈近さ〉とは、しかしなんだろうか。〈近さ〉は第一に「幾何学的に」測られるものではない。空間的に近接 [﹅2] していることそのものが〈近さ〉なのではない。「主体は空間的な意味に還元不能なしかたで〈近さ〉にまきこまれている [註164] 」(129 f./157 …
1 身体であることにおいて、主体は皮膚的な界面の内部 [﹅2] に閉ざされているかに見える。だが、身体は外部 [﹅2] からの不断の侵襲に曝されている以上、この内部は内部たりえていない。あるいは内部であることがただちに外部に反転することを意味している …
存在するとは他なるもの、「存在からの剝離」についていえば、とはいえレヴィナスも注意しているように、プラトンのパルメニデス篇もまた「存在を欠いた〈一〉」を問うていた(21/29)。〈一〉は他のいっさいとなにものも共有していないことにおいてまさに〈…
〈存在するとは他なるもの〉がさしあたり他なるもの [﹅5] であるといわれているかぎり、それはこのような非存在、すなわち無であり、けっきょく一箇の差異であるか、あるいは部分無(le néant partiel)であるようにみえる。つまり、存在するとは他なるもの…
パルメニデスは、存在は存在するとかたりうるのみであると主張しながら、同時にそれは存在したのでもなく [﹅2] 、存在するであろうということでもない [﹅2] とかたっていた。これはとりあえず奇妙なことがらにみえる。ある [﹅2] をかたりだす局面で、すで…
享受はいわば「享受の享受」(118/143)であった。味わうとは、味わうことを味わうことである。享受はいわば「自己言及的」である [註139] 。享受としての感覚は、だが、「傷つきやすさ」を条件とする。他方、享受がそもそも可能であることが逆に「感受性が…
感受性の次元にあって、感覚するとはそのつど「留保 - なしに - すでに供されて - しまって - いること」(un avoir-été-offert-sans-retenue)である。諸感覚をつうじて世界にたいして開かれているかぎり、感受性は「防御帯」をもっていない。「感受性とし…
視覚は見られるものを、聴覚は聴かれるものを「愛撫」する。「接触」はおしなべて「存在へと曝されていること」(128/154)なのだ。見ることができる眼は、同時に [﹅3] 、強烈な光線に射抜かれる器官でもなければならない。先天性の視覚障害者の開眼手術の…
だが、「感性的なものが固有に意味することがら」を、脱 [﹅] 感性化されたことば、知 [﹅] をかたどる用語でえがきとることはできない。それは、「享受や傷といったことばで記述されなければならない」。どうしてだろうか。まず「享受」(jouissance)とい…
不断に移ろいゆくものが、〈なにものか〉としてとらえられ、変移してゆくものの同一性が構成される。その同一性 [﹅3] こそが、〈語られたこと〉が告げる意味 [﹅2] であった。「同一化」はこうして、「これをあれとして」了解し、宣言する。存在者にかんす…
レヴィナスは、「ソクラテスがソクラテスする、あるいはソクラテスはソクラテスであるとは、ソクラテスが存在するしかた [﹅3] である。述定は、存在すること [﹅6] の時間を理解させ・響かせる(fait entendre)(72/88)と主張する。「ソクラテスはソクラ…
カントは「直観における存在の純粋な露呈 [﹅14] 」に直面しながら、主体の自発性を「概念化」のうちに見ている(210/244)。カントはしかも、存在の露呈が時間の時間化とむすびあっていることをも見ていたといってよい。カントのいう「再生の総合」はじっさ…
イマージュの散乱、射映の揺らめきを〈語られたこと〉においてとらえ、それになまえをあたえること、つまり「命名すること」が、存在者の同一性を「指示」し、意味を「構成」する。ことばとはそのかぎりで「名詞の体系」にほかならない(61 f./76 f.) そう…
いっさいの〈もの〉の発見は、それが、存在することの時間という、この光――あるいは、この響き――のうちに挿入されることに依存している。〈もの〉はその質において発見されるが、その質は、時間的である体験のうちで発見されるのである。存在が示されること―…
1 いっさいの存在者は、それが存在者であるかぎりでは、〈なにものか〉としての同一性 [﹅3] をそなえたものとしてあらわれる。そのときどきの射映が揺らぎ、対象のアスペクトが変位し、イマージュが移ろったとしても、そのおなじ [﹅3] 〈あるもの〉は変容…
現にある [﹅4] 〈もの〉は、やがて過ぎ去って [﹅5] ゆく。建物はほどなく朽ち果て、樹々は倒れ、石すらも風化する。いっさいは消滅する。時々刻々と同一性を喪失してゆく。すべての〈もの〉がやがてそこへと消滅してゆく次元を(『全体性と無限』のレヴィ…
真理とは「存在の露呈」である(前出)。いいかえれば、「真理」とは「存在がみずからに曝されていること」である(100/122)。これは考えてみれば奇妙なことがらではないだろうか。存在することはなぜ真理であることでもなければならないのか。つまり、存在…
1 一九五一年に発表された小論でレヴィナスは、他者との「共同相互存在」、すなわち「他者と共に存在すること」(l'être-avec-autrui)をも存在論的に了解しようとするハイデガーを批判して、存在論の優位に異をとなえている。さしあたり、この小文の論点の…
この世界のいっさいが、一瞬一瞬、創造と破壊を、生誕と死滅とを反復している。「諸瞬間はたがいに差異なくむすびあっているのではない」(前項の引用 [E. Lévinas, Totalité et Infini, p. 316. (邦訳、四三七頁以下)] )。この [﹅2] いまと他の [﹅2] …
時間は過ぎ去る。忍耐 [﹅2] として生起するこの総合が――それは、深遠にも受動的と呼ばれるのであるが――、老いることである。その総合は、年月の重みのもとで炸裂し、現在から、すなわち再 - 現前化から不可逆的に引き剝がされる。自己意識のうちにあるもの…
2 前項の末尾にひいた引用 [『時間と他者』] にもどる。――レヴィナスは、まず「時間」は「孤立し単独な主体にかかわることがら」ではない、とかたりだしていた。時間がとりあえずはむしろ内面的で主観 [﹅] 的な現象としてとりだされることを前提とするかぎ…
ことこまかに確認するまでもなく、問題はフッサールにあってすでに顕在化していた。現象学的還元によって獲得された超越論的自我は、世界の客観性という問題のまえで、他 [﹅] の我 [﹅] 、つまりおなじく超越論的な、ひとしく・ともに世界の意味を構成する…
「共時性」への執着が「戦争」を生む。他者の共時化への欲望は「闘争」への欲望である。「平和」にあっては、それがたんに「交換と交易」へとかたちを変えるにすぎない(15/20)。――そのように説く文脈で、レヴィナスはつぎのように書いている。とりあえず論…
見てきたように、「原 - 歴史」をめぐるメルロ=ポンティの思考が、つまり「ただひとつの世界に共現前する肉体的諸存在者」(一・2・1末尾に既引)という発想が斥けられるのは、他者と私とはけっして共現前 [﹅3] するものではなく、他者にたいする不可避の…