2022-04-01から1ヶ月間の記事一覧

2022/4/30, Sat.

ソ連では自由な言論などあり得ず、新聞雑誌には政権を礼賛する記事ばかりで不都合なことは一切書かれていなかったというオーウェルの『一九八四年』そのままのイメージもあるだろう。しかし、このイメージはソ連の実情に即していない。確かに時代を下るに連…

2022/4/29, Fri.

政策に関する人々の手紙や投書は日常的にも多数送られていたが、人々の意思表示が組織的に鼓舞された際には、数量は増え、内容は一層多岐にわたった。一九五九年に組織された、七カ年計画の目標数字をめぐる全人民討議では、九六万八〇〇〇以上の集会に延べ…

2022/4/28, Thu.

こうした例は、他にも様々な局面で見ることができる。社会主義計画経済の原則からは、(end192)私的な生産やサービスの提供は限定的なものにとどまるべきであり、住民への商品やサービスの提供は主に公営サービス企業や協同組合によって担われることになる…

2022/4/27, Wed.

一九五〇~一九六〇年代は、全体として見れば国はなお貧しく、食糧不足や住宅不足は深刻で、人々の生活は楽ではなかったが、豊かさを実感できる面もあり、徐々に良い方向へ向かっていると感じられた時代であった。戦勝の余韻やスプートニク打ち上げの成功な…

2022/4/26, Tue.

ソ連と国境を接しているアフガニスタンでは一九七八年四月のクーデタで共産主義建設を目指すタラキ政権が発足し、ソ連はこれを社会主義革命と認めていた。ところが一九七九年九月にタラキが殺害され、アミンが政権を掌握した。ソ連は、アミンがアメリカ合衆…

2022/4/25, Mon.

ソ連が工業化と軍事大国化を比較的短期間で実現することができた理由の一つには、ソ連が石炭、石油、天然ガス、金、ダイヤモンドといった埋蔵資源に恵まれた国であったことが挙げられるが、豊富な資源の存在は、資源とエネルギーの節約やコスト削減の意識を…

2022/4/24, Sun.

スプートニク・ショックやキューバ危機を受けて米ソが競って核戦力を増強した結果、一九六〇年代末頃には米ソは、どちらが先制核攻撃を仕掛けても、相手の報復攻撃によって仕掛けた側も壊滅的な打撃を受ける相互確証破壊の状況となったと見られている。この…

2022/4/23, Sat.

一九七〇年代には石油価格が上昇し、ソ連は石油の輸出で多くの外貨を獲得することができた。ソ連製よりは質の良い東欧諸国の製品や、西側諸国の良質な製品の輸入が増やされて、日用品はある程度入手しやすくなったが、質の劣るソ連製品は売れなくなった。計…

2022/4/22, Fri.

一九六八年一月にチェコスロヴァキアでドゥプチェクが共産党第一書記に就任し、改革の動きが始まった。四月には共産党が「行動綱領」を発表し、政治と経済の改革が本格的に検討され始め、検閲制度が事実上廃止された(「プラハの春」)。数十名の著名人らが…

2022/4/21, Thu.

少し遠回りになるが、体制のこの特徴について確認しておこう。計画経済が確立して以後のソ連では、国家計画委員会を中心に連邦政府が計画を作成し、二〇から三〇程度ある工業部門別の省がこの計画を執行した(連邦全体を直接管轄する全連邦省と、共和国に置…

2022/4/20, Wed.

先に述べたように、ソフホーズとコルホーズではそこにいる農民の待遇に違いがあったが、一九六六年にはコルホーズに対しても保証賃金制(ソフホーズの労働者・職員について職種ごとに定められた賃金を基準として、コルホーズ員に対して毎月現金での賃金支払…

2022/4/19, Tue.

革命後レーニンが電化を強く訴えたため(レーニンは「共産主義とはソヴェト権力プラス全国の電化である」と定式化した)、一九二〇年代には農村でも水車などによる発電で電灯(「イリイチのランプ」)が灯されたところが少なくなかった(ヴラヂーミル・イリ…

2022/4/18, Mon.

一九六二年にフルシチョフは、核弾頭の搭載が可能で合衆国本土を射程に収める中距離ミサイルをキューバに配備することを決断した。合衆国のキューバ侵攻を抑止するとともに、米ソ間の核戦力バランスを少しでも均衡に近づけることを狙ったと見られる。 一九五…

2022/4/17, Sun.

ミサイル・ロケットの開発能力を誇示しつつ、フルシチョフは軍縮を訴え、一九五九年一~二月に開かれた第二一回党大会では次のように述べた。ミサイル技術でわれわれが優位にあるときに、米英仏に提案する。原子兵器、水素兵器、ミサイルの実験、生産、使用…

2022/4/16, Sat.

第二次世界大戦後アメリカ合衆国と対峙し競争していたソ連は、現実の国力では合衆国に大きく劣っていた。その差がとりわけ際立っていたのが、軍事力、特に核戦力においてであった。合衆国が大戦中に原爆をすでに実用化し、広島と長崎に投下してその強大な破…

2022/4/15, Fri.

コルホーズ(集団農場)とソフホーズ(ソヴェト農場、国営農場)は、同じく集団化された農業経営でありながら、そこにいる「農民」の待遇は大きく異なっていた。ソフホーズの「農民」は、「国営農場の労働者」として国内パスポートを給付され、賃金が保証さ…

2022/4/14, Thu.

フルシチョフらの世代はもちろん、「六〇年代人」もこの時点では基本的に資本主義に(end131)対する社会主義の優位性やソヴェト体制の正しさを確信していた。この確信と楽観は、本来の社会主義へと立ち戻ろう、さらには共産主義を実現しようという意識を強…

2022/4/13, Wed.

第一次ロンドン交渉に臨む前に、日本政府は、歯舞と色丹の二島返還を国交回復の前提条件としていた。しかし、一九五五年八月九日にソ連がこの二島の引き渡しを提案すると、日本は四島返還を要求するようになった(アメリカ合衆国政府は、歯舞・色丹は北海道…

2022/4/12, Tue.

一九五五年にはフルシチョフとブルガーニンは、インド、ビルマ、アフガニスタンを歴訪した。今やブルガーニンはマレンコフに代わって首相となっており、党と政府のトップが揃って一カ月もアジアへ外遊したのである。中国がアジアで独自の外交を展開し始めた…

2022/4/11, Mon.

スターリン批判は、ソ連の圧力を背景に社会主義陣営を形成し「小スターリン」的な指導者が統治していた東欧諸国にも大きな衝撃を与えた。一九五六年一〇月にはポーランドで新ソ政権を批判する集会が開かれ、暴動につながった。これを受けて、ソ連の指導部に…

2022/4/10, Sun.

一九五六年二月に開かれた、スターリンの死後初めての大会となる第二〇回党大会は、新指導部の下での変化をはっきりと示した。大会では、政治と社会全般の民主化、勤労者の参加の拡大、西側との平和共存の可能性(スターリンが主張し続けた戦争不可避論の事…

2022/4/9, Sat.

テロルの大規模な発動に対する人々の不安が高まるなかスターリンは脳の発作で倒れ、一九五三年三月五日に死去した。これによりテロル発動の危機は去ったが、スターリンは、テロルの恐怖で人々を支配しただけの暴君ではなかった。スターリンの死が報じられる…

2022/4/8, Fri.

第二次世界大戦全体での戦死者は、非戦闘員も含めて五〇〇〇万人から六〇〇〇万人(あるいはそれ以上)とも言われるが、ソ連の死者・行方不明者はその半分近い二六〇〇万人から二七〇〇万人と推計され、うち一八〇〇万人程は民間人だったとされる(ちなみに…

2022/4/7, Thu.

(……)国民の最低限の生活を支えるうえで重要な役割を果たしたと考えられるのが、コルホーズからの穀物調達であり、これを基に一九四一年七月半ばから導入されていった配給制度であった。 とはいえ、軍への食糧供給が最優先されたため、都市の住民に対しては…

2022/4/6, Wed.

しかしスターリンは、ドイツとの戦争は避けられないとしてもヒトラーとの交渉によって今しばらく回避できると考えていたようだ。スターリンは、ドイツに対して宥和政策を採り続けたイギリスに不信感を持ち、ドイツとソ連の戦争をイギリス政府が望んでいると…

2022/4/5, Tue.

ソ連がドイツと不可侵条約を結んだもう一つの理由として、満洲国境付近を中心として、北東アジアにおいて日本との関係で緊張が高まっていたことがある。 日本の関東軍は一九三一年九月の満洲事変によって満洲全域の占領に乗り出したが、日本がシベリアへも兵…

2022/4/4, Mon.

ドイツでヒトラー政権が成立したのち、基本的にはソ連は、英仏と結んでの対独集団安全保障の確立を求めていたと言ってよいと思われるが、相互の根深い不信と利害の食い違いとからソ連は英仏と結ぶことを諦め、ドイツとの間で不可侵の約束を取りつける道を選…

2022/4/3, Sun.

この間ソヴェト政権は、やはり国際連盟への加盟が認められていなかったドイツと接近し、一九二二年四月に両国はラパロ条約を結んだ。ソ連とドイツは経済・軍事協力をおこなうようになるが、ドイツは欧米諸国へと接近し、一九二五年には英・仏・伊・ベルギー…

2022/4/2, Sat.

ソヴェト政権は世界革命に生き残りを賭けていたことから、諸国の共産主義者に働きかけ、共産主義インターナショナル(第三インターナショナル、コミンテルン)を一九一九年三月に創設した。コミンテルンはモスクワに本部がおかれ、各国の共産党や革命運動を…

2022/4/1, Fri.

一九三六~一九三八年には、第一~三次のモスクワ裁判など、かつては党と政府の最高幹部であった人々を被告とする「見世物裁判」が開かれ、被告全員が有罪とされた。軍の最高幹部たちも軍事裁判にかけられ、処刑された。一九三七年八月からは国民全般を対象…