六時に目覚めたときは意識が軽く冴えたような感触だった覚えがあるが、二度寝をしてしまい、そうするとむしろ起き上がるのが難しくなり、それだから今日も結局十時半まで眠ってしまった。そうめんを煮込んで食べた。一年前の日記を読み返した。五千六百字も書いていることにまず驚いた。文章自体は糞みたいなもので予想していたほどひどくはなかったが自意識の開帳がひどく鬱陶しく、残しておく価値があるかというとそんなわけはなかった。昨日話したTさんは自分の軌跡は残しておくべきだということを言い、それにはもちろん同意するところがあるが、過去の文章は残すに値する最低限のレベルにすら達していないのが事実であり、今となってはあんなものを嬉々としてつづっていたおのれが信じられない。二〇一二年の日記は既にすべて削除した。あれらはまごうことなき塵芥だったので躊躇はなかった。二〇一三年の日記はそれよりはいくらか書けているので今現在の心情としては正直迷うところだが、あと一年書いたらすべて削除する心づもりでいた。実際にどうなるかは一年経ってみないとわからないが、むしろ一年後にはそれらをゴミであると言って躊躇なく切って捨てるくらいの実力を身につけていなければならないのだ。
Mahalia Jackson『Gospels, Spirituals, & Hymns』を流しながらギュスターヴ・フローベール/渡辺仁訳『ブルターニュ紀行 野を越え、浜を越え』の第九章を読んだあとにガルシア=マルケス『族長の秋』の冒頭六頁目から十一頁目までを音読した。それから久しぶりにベースを弾いた。クロマチックフレーズやLed Zeppelin "Good Times Bad Times"のリフをひたすらくり返したあとにMiles Davis "If I Were A Bell"に合わせて弾いた。一時半になると上階へ上がって皿を洗い風呂を洗い洗濯物を取りこんだ。銀色の物干し竿に陽光が反射して長いあいだ風雨にさらされて表面にできた細かなでこぼこが浮き彫りになった。赤いきつねを食べたあとにキャベツをざくざくと大雑把に切ってドレッシングをふりかけて食べていると母が帰宅し、彼女が買ってきたおにぎりとシュークリームをもいただいた。
中村八大『Ace 7 Must Collection』を流しながらフローベール『ブルターニュ紀行』を読んで読了した。午後三時前だった。昨日買ったCDをインポートし、先日図書館で借りたCDのクレジットを記録しつつUA『KABA』を流すと冒頭の"モンスター"が驚異的に格好良くてしびれた。ここ最近聞いた歌もののなかではまちがいなく一番のあたりだった。それでyoutubeでもUAの映像を見、関連動画に出てきたFishmansなども見てから昨日買ったCDのクレジットを記録していると四時を過ぎたので風呂に入った。
マフラーをつけなくても凍えないくらいの夕方だった。ちょうど一週間前の火曜日の散歩中に黄色い巨大風船を見かけた場所ではまだ電気工事をやっていた。トラックの後部からロボットの巨腕を思わせるゴンドラが伸びて電柱にぴったりとくっついている下をこわごわと通った。
裏通りに入ってすぐのところでも道路工事をやっていた。こちらを止めたガードマンがすみませんこの先工事をやっていて通れないのでそちらの道にまわって、と言い終わらないうちに作業員の一人がもう通れるよ、と言ったので迂回をする必要はなかった。通り過ぎたうしろからガードマンがすみませんでしたと謝るのが聞こえたがそんなに恐縮するようなことではなかった。道の脇のスペースに入ろうとするトラックをよけながら歩いていくとすれ違った作業員がひどく間延びのした声で、おらーい、おらーい、と叫んだ。
前方から自転車に乗ってきた少年が塾の生徒だと気づいた。見つめていると向こうも気づいて、家こっちのほうなの、と驚いた。一度すれ違ったあとにうしろから追いかけてきた彼を見ればひどく軽装だったので、お前寒くねえのかと尋ねると、だってここうちだもんと指してみせた。まだわりと新しい家でこじんまりとした感じはあるが、きちんと調った趣があったので、いい家じゃんと言って別れた。
女性二人と女児を肩車した男性が別れるのを見た。女児は肩の上で手を振りながらばいばーいとくり返した。彼らと向かう方向が同じだったのでしばらく並び歩いたが、男性は舌足らずな女児を真似たいくらか気色の悪い声で受け答えをしていた。突然女児が、あ、お星さまだあ、と叫んだ。本当だ、と男性が答えた直後、二人は声を合わせてきーらーきーらーひーかーる、と童謡を歌いはじめ、その声が暗く静かな午後五時半の道に場違いめいて響き、笑いそうになった。
一時限のみだったが忙しく立ち働いた感のある労働だった。スーパーによって母から頼まれたものやキャベツやジンジャーエールを買ってから帰った。買ったものを袋に詰めるテーブルの上に家庭教師会社の広告パンフレットがあったので一部持ち帰った。兄が大学時代に登録していた会社だった。どの頁にもカラフルな文字や写真がところ狭しと詰めこまれ、それらが目にも鮮やかというよりは情報過多の感が強かった。帰宅して夕食をとった。豚汁を三杯も食べたあとに買ってきたジンジャーエールを飲んでふくれた腹に苦しみながら風呂に入った。ニュースで中国の一部地域では家庭で鶏をしめる風習が残っているとやっているのを見て保坂和志『未明の闘争』に山梨の祖母の話としてそんな記述があったと思いだしていると、我が家でも母が子どものころはやっていたと言う。ひいおじいさんというのが母の曽祖父なのかこちらにとっての曽祖父なのかわからなかったが、その老人が手ずから殺していたらしかった。「よく覚えてないけど、なんか熱湯に入れてたんじゃないの」と母は言った。「とても見られなかったよ、気持ち悪くて」
風呂から出るとMarco Mendoza『Live For Tomorrow』を流しながらCDをインポートし、クレジットを記録した。十一時ごろになってBGMをThelonious Monk『Solo Monk』に変え、日記を書いた。いったいいつまでこの生活を続けられるのだろうかと不安になった。答えはわかりきっていた。今から一年も経てば何らかの決断を下さなければならないはずだった。残り一年では少なすぎた。たかが一年など光のように過ぎてなくなってしまうにちがいなかった。
川は穏やかに流れ、薄青く伸びる雲の色を映しだしていた。ほとりに盛り上がる丘の斜面に街は広がっていた。整然と積み上げられた石の上に建てられた家々はみな一様に瓦屋根をかぶり、川に面した張り出しからは埠頭に停まる二隻の木船が見下ろせた。無人の船は笹の葉のように細長い体と低い屋根を持ち、時折り風が起こす静かなさざなみに揺られていた。細い桟橋の足下では野菜を洗う人々の姿がそこここに見られた。岸に近い浅瀬では苔むした川底の緑と映りこんだ木々の緑とが混ざり合い、陽光が落ちると深緑色の水面がきらきらと輝いた。
狭く重なりあうようにして建てられた家々のあいだをのぼってゆくと石畳の通りに出た。道の片側には隙間なく家々が立ち並んでいたが、もう片側には城砦のなごりをとどめる石壁が人間の頭より高くそびえていた。長い年月を経て茶色く変色した石壁はある箇所は削れ、ある箇所は崩れていたが、古い時代の堅牢さをなお保っていた。道の脇には何をするでもなくただ座ったり、歌を歌ったり、野菜や着物や細々とした細工品を売る人々がいた。蛍草の形をした電灯が灯るまでもうしばらくの時間があった。
青い帽子をかぶったその農夫は荷車を引いていた。年のころは六十というところだろうその額には深い皺が刻まれていたが表情に苦悶はない。背後の車には体の大きさの何倍にも膨れ上がった量の枯れ草が積み上げられ、車体が見えないほどだったが、彼はそれを苦もなく運んでみせていた。折り重なる枝葉の褪せ切った茶色を除けばそれは羽を大きく広げた孔雀が悠然と行進してくるようにも見えた。