2014/2/2, Sun.

 昨夜日記を書いたあとは、Miklós Perényi『Britten / Bach / Ligeti』を流しながら布団のなかで『古井由吉自撰作品 二』をいくらか読み進めた。昼間眠ったというのに十二時前にもなればまた眠気が頭をもたげ、それにしたがうこともやぶさかではなかったがしかしここで眠ってはもったいないという気持ちがまさった。からになりかけた胃のうずきを感じ、カップヌードルカレー味を食べ、珍しくニコニコ動画を逍遥していたら風来のシレンを一フロア六十秒以内でクリアするという縛りをもうけてプレイしている動画を発見して、軽い気持ちで見てみたらこれがやたらにおもしろく、気づくと三時近くをむかえていた。
 母が失踪したらしい夢を見て十一時にも近い時間に目を覚ました。いくらか夜更かししただけで身体と精神の調和は崩れ去る。起きてからしばらくは常に斜めにかしいでいるような上体の感覚と、肩になにかがとりついているかのような重さがあった。カレーを食べた。父の姉だか妹だか忘れたがおばが家を買ったと母から聞いた。家を買うには月々どれくらい金を払わなければならないのかと尋ねると、七、八万だろうとの答えがあった。七、八万といえばこちらの月収である。一生無理だ。
 食事中曇り空が晴れて、透明な白光に染まった景色のなかに雨が降っているのが見られた。しばらく眺めていたかったが晴れてきたからといって母がカーテンを閉めてしまった。食後には起き抜けで血がめぐりきっていないためか妙な寒気があり、また、胃液があがってきているということはないだろうが感覚的にはそのようにも感じられる粘っこい酸味が喉の奥にたまった。後頭部から膝の下までまとわりつく重さもあった。Gentle Giant『Playing The Fool』を流しながらガルシア=マルケス『族長の秋』の冒頭七頁目を三回音読した。それからストレッチをし、腕振り運動をし、音楽を流したまま呼吸三十回分のあいだ瞑想をした。
 透きとおった陽射しが空気を白く包みこみ、木々は光のヴェールをかぶっているように見えた。今日の陽気ならばいくらか厚ぼったいピーコートではなく、薄めのダッフルコートで充分だろうとの判断は当たりだった。駅のホームを歩いていると目の前にカラスがあらわれた。近くで見てみると意外と大きい体をしており、一抱え分はあった。こちらから逃げるように歩を進め電線に飛び立ったその姿をしばし眺めた。くちばしは太い鉛筆の芯のように光沢を持ち、黒く濡れた背中の羽には木の皮が重なりあっているかのような無骨さがあった。突然、音も動きもなく、糞を落とした。乾いた白い点がホームに転がったが小さくて遠目には判別できないほどだった。線路におりてしまったので別れて、今の観察をノートにメモをしようとしたところで致命的なミスを犯したことに気づいた。メモノートを忘れたのだった。
 車中では明確な息苦しさを感じた。深くゆっくりと呼吸をしても酸素がまわっている気がしない、久方ぶりの予期不安の感覚だった。薬を追加した。Virginia Woolf, Kew Gardensを聞き終えて、Bill Evans Trio『Portrait In Jazz』に音楽を変えた。今は音楽が必要だった、それもあまり激しくなく、なおかつ外界の音をきちんと遮断してくれる音楽が。電車内に物理的に閉じこめられているという認識は不安をあおるものではあるが、そもそも不安がなければ閉鎖感覚を意識することはない。どちらが先かという問題は微妙だが重要ではなく、一方が生じれば相乗的に他方も加速していく。そこから逃れるためにさらに音楽に閉じこもることは自らをより狭い領域に追いつめているようにも見えるが、しかし実際にはここで逆転が起こる。物理的な空間を離れた精神は音楽という媒質を獲得し、そのなかに溶けこみ、ほとんど一体化し、無限の広がりにたゆたうことになる。周囲の世界が感覚されることはほとんどなく、残るのは意識と音楽が溶けあった海のような空間のみだが、ここにおいて危険なのは、夾雑物がないぶん剝き出しのものとして精神世界が表出してくることだ。この日は眼を閉じてからしばらくのあいだ、重く海底に沈んでいるような感覚のなかで、黒一面の背景に白字で「家庭内暴力」などのネガティブな言葉がスクロールしていく映像が浮かんだり、「人間は水をとらずにいるとどのように衰弱していくのか」などと問う声がくり返し聞こえもした。しかし行程のなかばを過ぎたあたりから浮上しはじめ、水中を静かに漂うような軽い安定のあと、水面に浮きあがって目を覚ますと不安は消えていた。ちょうど(……)の一駅前だった。
 図書館ではまずNUMBER GIRL『NUM HEAVYMETALLIC』、Otomo Yoshihide's New Jazz Quintet『Live』、Kim Kashkashian『Bartók / Eötvös / Kurtág』を借りた。それから先日訪れた際に発見していた大型本のコーナーでMilt Hintonが撮ったジャズメンの写真を眺めたり、写真集を吟味したりしたが大型本を借りるのはやめて、普通の棚に戻り、とりあえず『ドアノー写真集2 子どもたち』を借りることは決めた。それからはその周囲の美術関連の棚をひたすら眺めまわり、セザンヌがいいか、ミレーがいいか、マネかあるいはモネか、ターナーは見るべきだろう、レメディオス・バロも見たい、ジャコメッティはないのか、などと迷ったあげく、美術出版社から出ている『Antonio López』と、西村書店のアート・ライブラリーというシリーズのダグラス・ホール/前田富士男訳『クレー』、そしてやはり岩波アート・ライブラリーのハーヨ・デュヒティング/後藤文子訳『パウル・クレー 絵画と音楽』を借りることに決断した。図書館を出たのは閉館時間の十分前で、いつの間にか二時間近くこもっていたらしかった。
 ビルの窓に写った空の色が洩れ出して空気は水中めいた薄青さに包まれ、地平線の彼方には薄紫色の膜が広がっていた。高架歩廊を歩いて駅前広場に出たとき、赤々と燃える落日が連なる建物の上空に見え、立ち止まってしばらく眺めた。人々は太陽に眼を向けることなく、向けたとしても歩みを止めることなく一瞬後には前を向き、右に左に歩き去っていった。図書館を出たときから気まぐれでイヤフォンを外していた。連絡通路に充満した人声が意味のなさないざわめきとなって身を取り囲み、その上を滑っていく駅員のアナウンスが唯一明瞭な声として聞こえた。帰りの車内ではほとんど眠って一瞬で地元に着いた。夜に移り変わる直前の藍色の空にひどく細い月が浮かんでいた。
 カレー、大根とシーチキンのサラダ、昨夜から残っている汁という夕食をとり、風呂に入ったあとは、Duke Ellington『Live at the Blue Note』を流しながらHさんの『惑星探査隊』を十頁読み進めた。明確におもしろいが、どこがどうおもしろいのかはわかっていない。それから借りてきたCDを早速インポートし、クレジットを記録したあと、Duke Ellington『Hi-Fi Ellington Uptown』を流しながら日記を書いた。