2014/2/5, Wed.

 昨夜日記を書いたあとはLed Zeppelin "Since I've Been Loving You"を引きつづき聞きながら頭を振った。ライブ盤の演奏も聞いたが、Led Zeppelinというバンドは本当に魔術めいた輝きを放つ集団で、御三家として並び称されるDeep PurpleBlack Sabbathが彼らは彼らでそれぞれに完成したサウンドを備えていながらもあくまでハードロックの枠内にとどまっているのに対して、Led Zeppelinはハードロックという枠ではとらえきれない広がりと完成度を誇っているように感じられ、だから高校時代あれほど熱中したロック系のCDをほとんど売ってしまった今になっても、このバンドのアルバムは棚のどこかに残っているし、折にふれて聞くごとにまだ集めていない作品も聞くべきだとの思いを新たにくり返すのだった。
 九時半に起床した。二日前に痛めつけた両腕の筋肉痛が昨日から持ち越されて残っていた。米、すき焼きの残り、サラダ、豚汁を食べた。雪降りが過ぎた翌日の朝は穏やかに晴れていて、屋根を覆う雪が瓦葺きに沿って白い畝をつくり、宝石でも埋まっているかのようにところどころ小さな光を放っていた。木や屋根から融けはじめた雪のかけらがぱらぱらとはがれ、地面に降り立つと、陽光のもとで動きを止めた大気をわずかに震えさせた。まだ外の景色を目にしない寝床でその音を聞いたときは猫の足音を連想したのだった。近所のベランダで、すでに仕事を引退したらしい初老の男性が雪かきをふるって勢いよく雪を落とし、その脇では入園もまだすんでいないほどの幼子がはしゃぎながら小さなスコップで雪をもてあそんでいた。
 Virginia Woolf, "Kew Gardens"をわずかに訳したあとは昨日と同じくギターを弾いた。やはり以前よりも弦が固く感じられ、特にチョーキングをしたときはその重さが指に食いこんで目的の音程にまで正確に到達できないこともしばしばあった。ソロを歌う快楽の一方でコードを鳴らす喜びというものがたしかにあって、最近はどちらかといえば後者に傾きがちな手指だったから今日も昨日と同じフレーズを弾きつづけたが、コードをきちんと鳴らすということはそうそう簡単なものでもないのだった。
 Richie Kotzen『Get Up』を流しながら『古井由吉自撰作品 二』を読んだ。正午を一時間ほど過ぎて外を見ると雪がだいぶ融けて鈍く光る屋根瓦がのぞいていた。柚子の木の天辺、つややかな緑の葉に支えられている白いかたまりは、天頂に達した太陽に照らされ、ぽたり、ぽたりと滴を垂らし、融けはじめた雪片は薄く弱くなり、やがて密集を保てなくなった一部が分離すると、あとはなし崩し的に葉の隙間から滑り落ちていく、そんなようすを想像していると、小さな黒い影が風のように視界を横切り、一瞬遅れてはっと気づいたが、鳥の姿をとらえることはできなかった。
 Kim Kashkasian『Bela Bartok: Concerto for Viola and Orchestra』を流して読書を続けていると、母が部屋にやってきて、戸口のところで呆れたような苦笑を浮かべ、手違いがあったかもしれないから現場にもう一度行ってくると告げた。その表情はまた、自分自身に呆れることに倦んだというような疲労をにじませており、今にも精気の混じったため息が口から洩れそうだったが、彼女はそれを飲みこんで、二時になったら洗濯物を入れてくれ、と言い残して出かけていった。その言葉にしたがって二時にベランダに出ると、雪はなかば融けており、柵の影のなかに残ったものも雪というよりは散乱した薄い氷のかけらになっていて、消えてしまうまでは時間の問題らしかった。洗って干したばかりと見える母の仕事着のズボンは表面は乾いていながらも、奥に残った水気に寒さが入りこんで冷たくなっていた。
 阿部薫『Solo Live at Gaya, Vol.3』を流しながら読書を進め、四時になる十五分前まで書き抜きをした。風呂に入りながら言葉や表現について散漫に思考した。どうやら古井由吉の書きぶりはひとつの目指すべき理想となりうるらしかった。出て、出勤の準備をしてからKew Gardensの訳を読みなおしていると、はまりきっていないところが気になってしかたがなく、何度も読みかえしていると、はまっていると思われていたところにまで自信がなくなってきて、いじったり戻したりしているうちにいくらか余裕のあった出勤前の時間が消え去っていて、慌てて家を出た。白波が立ったまま固まった川面のように凍りついている駅のホームに足をのせ、Kew Gardensを聞きながら電車に揺られ、職場に着いて準備をはじめるまでのあいだも言葉を頭のなかでこねくりまわしており、どうも一度こだわりはじめると脳内で延々と続く回転運動がはじまり、自分で止めようにも止まらず、エネルギーを失って自然に止まるまでにも時間がかかるため、労働という強制力によって思考が断ち切られるのはこの場合はありがたかった。
 ハロウィンでもないのにお菓子をくれと要求してくる女子二人に、引きかえに勉強をがんばることを約束させてグミやチョコを買ってやった。効果のほどは定かではないし、そう頻繁にたかられても困るけれど、たかが三百円程度で大げさに喜んでくれるのだったらそれはそれで悪くはないだろうと思われた。これ買って、と一人が指さす先にはバレンタインデーの文字がうたわれたチョコが並んでおり、いやそれ俺もらうほうですからね、と突っこみながら、そうかもうそんな時期なのか、と今さらな認識を持った。ついこのあいだ何の感慨もなく年が明けたと思ったらもうひと月が過ぎたのだ。自転車を押して隣を歩く十五歳の少女がもし同じように感じていたとしても、それはこちらの感覚とはかけ離れたものにちがいなかった。二十四をもむかえると、冗談めいて流れてゆく日々のはやさに対する驚きにもいくらか慣れてきた。隣の少女はいつだって馬鹿みたいに騒いで瞬間瞬間を楽しみつくすかのように生きているのだった。凍てついた夜の空気のなかで声はいくらか落ちついた響きをまとっていたが、その顔には教室にいるときと変わらない笑みが浮かんでいた。