2014/2/6, Thu. - 2/10, Mon.

 五日の夜に帰宅して夕食を前にしたときに、今日もなんとか帰ってこれた、というつぶやきが自然に口をついた。険しい道を通ってきたわけでも帰路に妨害があるわけでもないのにそんなことを思ったのは、どうやら無事に帰れない日がいつかは来るだろうと前提しているようだった。不安障害が心臓神経症を新たな友人として伴いはじめ、胸の痛みに眠れぬ夜にも慣れてきたころ、一瞬のちには心臓が誤作動を起こしているかもしれないという恐怖は、自分はいつかこれでもって死ぬだろうという無根拠な確信へと変わっていた。祖母が倒れた夏からは脳出血がそこに加わった。いずれにせよ、ある日突然発作的に死ぬにちがいない、しかもそれは自宅ではなくて外出中に起こるのだという黙示録じみた考えを抱えており、馬鹿げた迷信だとわかってはいながらもそれを捨てきることができないのだった。
 入浴をすませて十一時半も過ぎると一日の疲労が腰のあたりに重く沈んでいたが、日記を書かないうちは眠る気になりそうもなかった。日の終わりに文章をつづることでもってその日一日を完結させているような気がした。日記を書き終わるまではその日は終わっていない、だから翌日まで日記を書かないと、前日を持ち越しているような気がするし、書き終わったときには今日もまた無事に一日を終わらせることができたという安堵を得るのだった。
 二月六日は十時からはじまった。起きた瞬間から妙に肩にこりがあった。米、納豆、味噌汁、餃子の残りを食べながら日記を読み返していると、保険会社から電話があって、その女性の口調はひどく丁寧で、一分の隙もなく完璧につくりあげられた声にはある種機械的なものすら感じた。こちらが年齢を告げると、息子さまでいらっしゃいましたか、失礼いたしました、とまったく動揺も見せずに言い、また電話をすると残して切れた。Led Zeppelin『House of the Holy』を流しながら『古井由吉自撰作品 二』を読み、十二時過ぎに読了した。やはり肩のあたりに流れがとどこおっているような重さがあった。
 母からメールが入っているのに気づいた。今夜あたり危ないと病院から連絡があったとのことで、こちらも電話をしてみると、母の声は意外と悠長で、今すぐかけつけるというような焦りはなく、夕刻、医者に薬を取りにいったあとで病院に寄ってみると言う。だからバイトも休まなくていいよ。しかしそんな余裕があるのか? まだ大丈夫だと思うよ、今夜って話だから、と母は根拠なく繰り返したが、こうしている今も危ないのではないか――いつどうなるかわからないと言われながらも一年以上命をつないできたが、そのあいだ着実に祖母は弱っていった。倒れた当初はいくらかまだ言葉も発したものの、やがて声が出なくなり、口を動かすこともなくなり、単なるうなり声すら消え、ついにはこちらを見ているその瞳に認識の色は認められなくなった。その一年と半年を通じて、少しずつ祖母を看取ってきたのだ。今となっては焦りも動揺もなかった。来るべきものが来るのだと感じた。もし自分が中学生の相手をしているあいだに起こることが起こっても、しかたがないと覚悟を決めた。とはいえ、やはりその瞬間はそばで見守っていてやりたいものだった。
 白雲の広がるなかを母の車に乗って労働へ向かった。午後八時に終了したあと、母に連絡をして、待つあいだにコンビニでみすず書房の『ヴァージニア・ウルフコレクション 壁のしみ 短篇集』から「壁のしみ」「キュー植物園」「幽霊屋敷」の三篇をコピーした。出るとほとんど同時に母がむかえに来て、いったん家に戻って着替えてから病院へ向かった。車中でYさんが買ってきてくれたおにぎりやパンを食べて、昼前から何も食べていなかった腹をなぐさめた。
 車をおりて空を見上げると月も星も見えない暗夜だった。林の闇にまぎれてうごめく黒い影はどうやら狸らしかった。祖母は一目でもうだめだとわかった。顔はぱんぱんにむくみ、左目は閉じ、右目もほとんどあいておらず、わずかに見える瞳も焦点があっておらず動くこともない。まなじりに赤くにじんだ血のせいで目は余計に細くつりあがって見え、狐の面を連想させた。透明な緑色の酸素マスクでつないでいる呼吸は荒く、たんがからむとのどの奥でごぼごぼとくぐもった水音が鳴り、どこか獣の息づかいめいて聞こえた。看護士が壁に設けられた汚物吸入器に管をつないで口や鼻から挿入すると、容器のなかに赤くにごった液体がたまった。痛ましい色だった。
 仕事の疲れというよりは待つことの重みでだんだんと眠気に抗しきれなくなり、十時半過ぎに三人で控え室に下がった。病棟と控え室のある棟はパスワード式の扉で分かたれており、空気環境がととのっている病棟とはちがって、控え室以外にも従業員の待機室や食堂がある棟は、一歩踏み入れるだけで身体の芯から冷えるような冷気に包まれていた。誰の気配もなく、鏡に何かが映ってもおかしくないような寒さがあった。控え室自体は稼動音のうるさいエアコンがごうごうと息を吐いて暖まっていた。一か月前にもここで眠ったのだった。電気を消してまどろんでいると、一時間もたたないうちではないかと思われたが、母とYさんが出ていったのがわかった。それからも浅い眠りをしばらくつづけて目覚めると一時四十五分だった。
 病室へ戻ったがどうにも身体が重くて椅子に座りながらうつらうつらし、他の三人も同様だった。祖母ののどを見つめた。息を吐くとのどが引っこみ、吸うとふくらんで、その動きに合わせて酸素マスクもくもってはまた晴れていく。表情はもはや動かず、目も閉じて、今や生命の証左はわずかに収縮と膨張をくり返すのどの動き以外になくなった。持参したプルースト失われた時を求めて』の一巻を読んで気をまぎらわせつつも、生気を奪われているような意識の重さに耐えかねて、廊下の壁のへこみに設けられた座席に窮屈な姿勢で眠りながら朝をむかえた。

 K.Hさんがやって来たころには、祖母の呼吸は前夜の荒さをひそめたかわりに弱々しくなっていた。しばらくは静かな息がつづくが、たんがからむとぜいぜいとあえいで、一度大きくのどを動かしてどうにか飲みこむとまた落ち着いていく、そんなことをくり返していた。十時過ぎからようやく目が覚めてきてプルーストを読んでいるとI.Yさんがやって来た。彼女が買ってきてくれた昼食を交代で控え室に下がって食べた。美しい晴天で、背後の窓から射しこむ正午の光に当たりながらおにぎりを食べた。こうした場に集まってなされるのはやはり昔話で、過去を語るK.Hさんの口から「イデオロギー」などという横文字が出てきたのにはびっくりしたが、職場の労働組合の長をつとめていたことがあるらしかった。その彼が言うには、のどが動いているうちは大丈夫だということだった。ああやってのどちんこが動いているうちはな、あれが止まっちまうともうだめなんだ。
 午後二時を過ぎて、HさんとYさんを送りながら父と一度帰宅した。二人とも風呂に入ったが、疲れのせいか時間がかかってしまい、しびれを切らした母からメールや電話が届いた。四時半過ぎに戻ると、祖母はもうかなり危なくなっていた。呼吸はさらにゆっくりと弱々しくなり、透明な酸素マスクがくもらないほどだった。それまで平静を保っていたが、いよいよというときは自然に目が濡れるものだった。
 次第にのどの動きが小さくなってきた。首の側面の血管がひくひくと動いており、それが何回か脈打つごとに息継ぎのようにいびきめいた息が入り、その間隔がどんどん長く、そして吐息は小さく短くなっていき、ついに呼吸が止まると、しばらくして脈打っていた血管の動きもなくなった。午後六時十分だった。医師が来て、聴診器を胸に当て、ペンライトで瞳孔を調べて、十八時十三分です、と告げた。
 しばらく顔を見ながら涙にくれたあとに控え室に下がった。空腹だった。おばあさんが死んでも腹は減るものだ、とつぶやくと、その言葉でまた泣けてきて瞳を濡らしながらおにぎりを食べた。遺体の清掃が終わるまで待機し、八時十分ごろ葬儀社の人が到着したということで地下に下りていった。祖母の顔はきれいに白くなっていた。長い二日間だった。
 若い男性と中年の男性の二人組が運んでくれた。彼らの仕事は遺体を安置するまでで、その後のことは別の会社に頼むべく連絡すると、今からやって来るということになった。病院の帰りから別行動をして必要なものを調達していた父から連絡が来て、車をぶつけられたと聞かされた母はひどく動揺していた。あとで聞くと電話をしているまさにそのあいだに目の前でぶつけられたということで怪我はなかった。その直後にも電話が来て、母がとるとすぐに切れてしまった。振り返った彼女は不安気な様子で、なんか、俺だけど、電話してみた、とか言ってたけど……とつぶやいた。すぐにまた電話が鳴ったので、妙な夜だ、祖母は亡くなり、父は車をぶつけられ、まさかオレオレ詐欺でもあるまいな、と取ってみると、兄の声だった。会社の固定電話から電話したが調子が悪く、音声がはっきりしなかったということだった。忙しい夜だった。仏間をいくらか片づけ、父が帰宅し、午後十時を過ぎると葬儀社の方が到着した。そこから零時半まで話し合いがつづいた。葬儀というものは何から何まで金がかかるものだった。
 
 二月八日は十時過ぎに起きてリビングへ上がるとK.HさんとYの夫婦がすでに集まっていた。Yのおばさんは何年か前よりも顔色が悪く、明らかに生気が失われていた。祖母に線香をあげてから、連中が話しているあいだ、豚汁に味をつけたり洗い物を片づけたりした。
 正午前に親戚連中が帰ってしばらくすると、Yちゃんが来た。赤紫色のウインドブレーカーとリュックで降りしきる雪をものともせずに来たらしかった。一緒に雪かきをしたが、掃除したあとから積もっていくのできりがなかった。未明から降りつづく雪は先日のものよりはるかに強く、地上のすべてを白く覆った。風がないため体を動かしていれば思ったほど寒くはなかったが、路上には少なくとも靴がすっぽりうまるくらいは積もっていた。柔らかく軽い雪で、スコップでかくよりもむしろ箒ではいたほうがはやいくらいだった。隣家の勝手口に通じる階段を掃除しているとTさんがあらわれて、祖母の顔を見たいというので連れていった。九十三にもなるのに傘もささずにひょいひょいと歩くので見ているこちらがはらはらしてしまった。雪をはいてくれた礼だといって千円いただいた。
 茶を飲みながらゆっくりと過ごし、近所のYさんをむかえて葬儀について話し合い、三時半にYさんとYちゃんが帰宅したあとは特別にやるべきこともなくなり、ようやく自由に過ごせる時間を得たものの、どういうわけか日記を書こうという気にならなかった。ノートに記録はつけているが、このぶんではもしかしたら祖母の葬儀が終わるまでは書き出すことができないかもしれない、むしろそのほうがいいだろう、と直感が告げたのでその通りにするつもりだった。
 本を読む気も何をする気も起こらず、午後七時まで兄の部屋から発掘されたDSで風来のシレンを遊んだ。おそらく目の疲れから来る意識の拡散があったが夕食をとるといくらか回復した。夕食後も風呂をはさみながら無為に過ごした。プルーストやHさんの文章の感触を思い浮かべたがどうにも読む気にならなかった。十時半過ぎになってVirginia Woolf "Kew Gardens"を訳しはじめ、何だかんだで一時過ぎまでつづいたが、おそるべき牛歩で、本に換算して一頁分も進まなかった。
 
 二月九日は十時半からはじまった。雪降りが過ぎたあとの気持よく晴れた空だが、近所の屋根の上に、ぱっと見たかぎりでもさらに十センチ以上の雪屋根が覆いかぶさっていた。これほど降った冬は物心がついて以来記憶になかった。足元から冷気が立ちあがるような底冷えがあった。腕や腰に昨日の雪かきの名残りである筋肉痛が残っていた。ここ数日、腹筋が以前よりわずかだが厚く、固くなっていることに気づいたのだけど原因はわからない。食欲がとどまることを知らないのもその一因なのかもしれず、この日の最初の食事は米、納豆、チキンに加えて豚汁を三杯食べた。しかし、昨日量って55.4キロだった体重は、このときに量ると54.2に減っていた。一日で1.2キロもの変動はいささか激しいのではないかと思われた。
 道の両側にうず高くかたまりが積みあげられ、褪せた色の草も今は見えず、常緑樹も白い衣をまとい、いつもの景色が一変していた。近所のTさんのおじさんに出会った。こんにちは、と声をかけると、挨拶を返しつつも誰だか訝っているような顔があったので、それだけで通りすぎてしまおうかとも思った瞬間、こちらの顔に得心する様子が認められ、Fです、と重ねると、ああ、と吐息をもらし、手にもっていたバケツを置いて、どうもこのたびは、とお辞儀をしてみせるその動作のひとつひとつがゆっくりで、口調もいくらかもごもごとしており、もしかしたらいくらか頭の働きが弱くなっている、端的にぼけているのかもしれないという印象を持ったのは、昨日、近隣のなかで世話役を頼むことになったYさんが来て話し合っていたときに、Tのおじさんについて、今となってはそのような含みもあったのではないかと思えるような発言が聞かれていたからで、小学生の時分など通りかかるごとにいくらか話したりしてかわいがってくれた人物が、そのように老いに侵食されているのを見るのは切ないものがあった。祖母は亡くなった。自分は二十四になった。誰も老いて死んでゆく。
 自治会館の門の脇では盛り上がった雪にホースで水か湯をかけて融かそうとしている青年がいた。投票をすませて、最寄りからひとつ先の駅まで歩きはじめた。街道はまだ雪かきが進んでおらず、歩道の少なくない部分が埋まっていてときには車道に出ないと歩けないし、露出しているところも申し訳程度の細い道で、しかも随所に雪解け水がたまっており、出掛けにYさんがびしょびしょになってもいい靴じゃないとだめだよ、と言っていた意味がわかったが、裏通りのほうが歩きやすいだろうと踏んで曲がってみると案の定で、立ち並ぶ民家のあいだを抜ける裏道は近隣住民の勤勉さによって通りの真ん中にしっかりと道がひらかれているし、残っている雪も、表通りで歩行の邪魔をしている、靴が埋まるような柔らかいものとはちがって、時折り通る車にうまい具合に踏み固められており、中途半端に融けているよりもむしろ歩きやすかった。老いも若きもスコップを持ち出して声をかけあい、互いに嘆き、なぐさめ、十数年ぶりの大雪に畏敬を示している、そのなかを歩いた。駅についてしまえばこちらのものだと思っていたら、階段を下りて数歩目で踏み出した左足を濡れて滑りの増した床にとられ、傾いていく身体から思わず伸びた左手が地につくと同時に右前方に滑っていった足がとまって完全な転倒には至らず手首も痛めなかったとはいえ、頓狂な声をあげて醜態をさらしてしまったその原因は靴で、数ヶ月前からこちらの足を包んでいるのはかつて兄が懸賞で当てたものを未使用のまま譲りうけたいくらか厚めの革靴で、見た目には冬らしいもののそれなりに年季の入った代物であるから端のほうはもうだいぶすり減っていてこのような日に履くとリスクを高める呪われた装備なのだがしかし他に履く靴もなかった。
 図書館はこの雪にもかかわらず、あるいはこの雪だからこそなのかともかく盛況で、人が多いところにはやはり変な人間もいくらかは集まるわけで数日前にも見かけた独り言の男性がおり、今日は煙草のにおいはいくらか薄れていたが相変わらずうめくような声をあげてぶつぶつつぶやきながら髪を丹念に櫛でとかしていた。CDには新着資料が多く入っていて、ジャズではWayne Shorter『Without A Net』(持っている)やRobert Glasper Experiment『Black Radio』(売った)が目につき、ロックのほうではJimi Hendrixの未発表音源らしきものやRolling Stonesのアルバムがいくつかあって多少は聞きたい欲求を刺激されたものの、より惹きつけられたのはクラシックで、新着にも細かくは忘れたが気になるものがいくつもあったし、独り言の男性が隙間から見える位置にあるクラシックの棚をじっくりと検分しているとあれもこれもおもしろそうに思えて、特にグレン・グールドの一連のバッハ作品の録音や小澤征爾が指揮で武満徹の曲をやりなおかつ高橋悠治が参加している作品などが気になりつつも最終的にはGary Karr『Basso Cantante』を借りることにしたが(もう一枚は『Buena Vista Social Club presents Ibrahim Ferrer』)クラシックには詳しくない自分がこのコントラバス奏者の名前を知ったのはRay Brownのウィキペディア記事で、晩年の彼がKarrに手ほどきを受けたという事実を知って以来気になっており、クラシックに興味を持ちはじめているこのタイミングで彼の作品を発見できたのは僥倖であった。
 新着図書で気になったのはデイヴィッド・リンゼイアルクトゥールスへの旅』(文遊社はほかにイヴリン・ウォーアンナ・カヴァンも気になる)、丸山健二『千日の瑠璃 下』(ひどく厚い)、いとうせいこう『未刊行小説集』、加藤哲郎『日本の社会主義』(岩波現代全書)、ル・クレジオ『隔離の島』、中里介山大菩薩峠 都新聞版 第一巻』、中村昇『ベルクソン=時間と空間の哲学』(講談社選書メチエ)などだが、それらはチェックしただけで素通りして『失われた時を求めて』の五巻目を借りたもののまだ一巻すら読み終わっていない。
 図書館の座席に座って今日これまでのことをノートに記録しようと思ったが、慣れない雪上歩行に妙に下半身が疲労していたし、喉が乾いていたこともあって、どうせなら図書館向かいのローカルデパート内の喫茶店――ここには一度だけ入ったことがあって、その日は九月か十月か忘れたが秋ごろの月頭、もしかしたらまさに一日だったかもしれず、アイスココア一杯で何時間か粘りながら谷川俊太郎『東京バラード、それから』を読んでいると雨が激しく降りはじめ、雷も鳴っていたのを覚えているが、なんとなく誰かに会いたい気がしてS.Hに連絡すると了承されて午後七時頃から駅前の大衆居酒屋に入った我々は薄暗い店内で安いがまずくはない刺し身などを食べながら芸術家・批評家・学者(研究者)という三区分の話などをしたものだったがまだ自分が考えていることを人に話すということに興味があったし日記にも少なからず思考を書いていたあのころとはちがって最近ではもう思考を書くことにはほとんど興味がわかず自分が何を考えているのか書いてもあまりおもしろくないしそれだったらそこらへんの一本の木のほうがはるかにおもしろいわけでそれは思考を書くのに適切な書き方が見つかっていないということでもあってそれが見つかればおもしろく書けるようになるのかもしれないがひとまず最近の自分の嗜好は思考よりも明らかに感覚に向かっていて自分が何を考えているかよりも自分が何を感じているかのほうがより深遠なものを含むように思われることもあり言語にならない世界の具体性を具体性のまま執拗に追求していく力がほしいという思いは古井由吉を読む前から持ってはいたものの古井由吉を読んだあとではさらに加速されるのも道理で古井由吉およびムージルのラインは自分が文章を書きつづけるにあたってひとつの軸となるのではないかという予感を新たにしたのはともかくS.Hがクマが好きだということを知ったのもこの日でやつは当時のユリイカの最新刊であったクマ特集号を鞄から出してみせたのだった――に入ろうと向かってみると行き場のないご老人たちで満員だったので断念し、ひとまず地元の駅に戻って駅前に唯一あるファストフード店に入ろうとしてみるとここも満員だったので断念し、駅前にわずか三つある喫茶店のうちひとつは閉店したと聞いていたし、残る二つも見てみるとシャッターが閉まっていて完全に諦めて帰ることにした。
 帰路は途中まで表通りを歩いたが、駅周辺は歩道に道がひらかれていて容易に歩けた。道の向かいで雪かきに精を出している塾の生徒を見つけて手を振った。この雪で人々はみな連れ立って外に出て協力しながら雪かきをし、また日曜日とあってか駅へと向かう人通りも多く、そのなかにきれいに化粧をした若い女性が少なからず目についたのも空気に華をそえていて、かえって普段よりも町に活気があふれているように見えた。駅から離れるとまだ開拓されていない雪道があらわれたので右に折れて裏道に入ることにした。その角の自販機で缶コーヒーを買った。ひどく久々に飲んだ微糖コーヒーはたいしてうまくもないが、飲みながら歩いていると、ふと、視覚や聴覚などの身体感覚やあるいは瞑想中などに起こる精神感覚についてはそれなりに書いてきたが、味覚というものをきちんと書いたことがないのではないかという気がした。裏通りは行きよりもさらに雪の解体が進んでいてほとんど歩行に困難はなかった。白壁がくすんだ市営の集合住宅の前を左に曲がるとふたたび表に出るが、この市営住宅には小中の同級生であるOが住んでおり、往路に裏道に入るときにこのOが近隣の女性と立ち話をしている横を通った。小学校二年生から四年生くらいのときはわりとよく遊んでいて家に行ったことも何度かあったとはいえこちらのことはもう忘れているだろうと思いつつ、通り過ぎたあとに振りかえるとOも同じタイミングでこちらを振りかえっていて目が合った。彼が「この道路のところまでやっちゃえばもうね」などと言いながら立っていたそのすぐ脇にローカルなコンビニがあり、ここは小学校四年生のちょうど今時分、当時我が家の向かいに住んでいたK.Yと祭りの帰りに立ち寄ったときに、店の親父に「何も買わないなら出て行け」と怒鳴られたことがあってそれ以来入ったことがないのだが、コーヒーの空き缶を捨てるために店の脇に並ぶ自販機の前にいくとジンジャーエールが売っていることにはじめて気づいてしまい、買って帰ることにした。
 時刻は午後三時半だった。いまだ何ものにもおかされず静かにたたずんでいる雪原が西陽に照らされると、その表面が青い影で点々と色づき、きめの細かい肌のようなかすかなおうとつが浮き彫りになった。林道に射しこむ木洩れ陽が風とともに路上をなでると、雪融けの水に光が宿って濡れたアスファルトは黄金色にきらめいた。
 帰宅して空腹をなぐさめていると弔問客が来訪した。Mさんだった。彼女は近所なので昔から顔を合わせる機会が多く、まだいくらか会話も成立したが、つづけて来たTさんのほうになると面識はほとんどなく、向こうも申し訳程度にこちらの存在にふれるのみなので端的に手持ち無沙汰で、いかなる場でもただ黙って座っていることができるという持ち前のスキルを発揮しつつ彼女の手の動きをずっと見ていた。わずか数秒でも手がじっと止まっているということはなく、膝をなでてみたり、カーディガンのすそを直したり、ハンカチをもてあそんだり、それを目元に持っていったり、頬をなでてみたり、髪をいじったり、もちろん会話に合わせてひらひらと動かしてみたりと実にさまざまな動きをしているものだった。ついでにソファに前傾姿勢で座った父の手も見てみると、組んでひとところに置かれてはいたが、揉み手をするようにいくらかさすっていた。
 午後五時になってようやく解放されて、部屋でノートに今日のことをつづった。昨日は葬儀が終わってから日記を書きだそうと思っていたが、メモをとっていると書きたい欲求が高まってきて、今日の夜には書くかもしれないと思われた。ギターを弾いてRichie Kotzenを流して歌い狂うと七時で、つづけて風来のシレンをやっていたらあっという間に九時近くになっていて愕然とした。風呂に入ってシチューを食べるともう十時で、ジンジャーエールで重くなった腹を抱えながら、Pierre Fournierのバッハ無伴奏チェロ組曲と『The Postmarks』を流して日記をつづった。八日の分まで書いて日付がまわっていた。
 
 二月十日は九時半に起きてシチューを二杯食べてから雪かきをした。客が車をとめるだろう駐車場の雪を沢に落とし、家の横にあるもうひとつの駐車場の車まわりもいくらか片づけた。Tさんのおじさんおばさんや親戚の連中が来たので持ち前の存在感のなさを発揮して黙って茶を入れたり洗い物をしたりした。午後一時前にはI.Yさん、Y.Hさん、Yさんが集まり、父がむかえに行ったTのおばさんも湯灌がはじまった直後にやって来た。
 湯灌師は親子ほど歳の離れた男性と若い女性の二人で、男性のほうは目が細く、悔やみの言葉を述べるときや儀式の説明をするときはその目がさらに細くなって目尻もいくらか垂れて、いかにも死者を悼んでいるような表情を容易につくれる顔立ちだった。女性のほうは落ちついた物腰であまり喋らず、黙々と仕事をこなしていた。湯灌というものは簡略式としては体をふくだけのことが多いようだが、見ていると大きな黒塗りの風呂桶が持ちこまれ、そこに張った板の上に遺体を横たえて、タオルで覆って身体が見えないようにしながら洗っていった。親戚連中は大きな風呂桶に驚き、あんなのは見たことがないね、などと言って一時騒然とし、それに触発されて母もいくらかおろおろと動揺していたが、式自体はつつがなく進んだ。
 まず木桶に水を半分入れてからそこに湯を足してぬるま湯にする逆さ水というものをつくり、それを我々が順番に遺体にかけていった。かける際は左手で柄杓を持って足元から上体へとかけていき、「もどる」ということが葬儀ではタブーとされているので胸元で水をかけきってしまわなければならないのだが、Y.Hさんはいくらか鈍くさい人で説明を聞いていなかったのか戻そうととしてしまい、湯灌師に止められてもまだよくわからなかったようで、父は苦笑していた。
 それから湯灌師の二人がシャワーで洗いはじめた。玄関外にとめた車から二つのホースが伸びており、ひとつはシャワーから湯を出すためのもの、もうひとつは風呂桶から使われた水を回収しているものだという。「やっぱり亡くなった方を洗うのに使った水ですからね、嫌な人もいるでしょう、そこらへんに捨てちゃ問題になりますから、全部回収して会社に戻ってから捨てるんですよ」。女性は身体のほうを担当し、男性は洗髪を行った。それに使う洗剤も専用のものらしかった。「眠っているみたいだね」とか「首がまだやわらかそうだ」などという言葉があがった。そうして洗浄が終わってからまた順番に、タオルで顔をふいていった。ふくといってももちろんこすることはできず、全体を少しずつ押さえるのだった。水をかけるときにしてもこのときにしても、女性はみな何かの言葉を祖母にかけたが、三人いた男性のなかでは唯一父だけがやわらかな声で話しかけていた。自分は声を出さなかった。看取るときも黙って粛々と見守った。
 祖母がまた布団に寝かされ、白装束を着せられ、顔に化粧がほどこされはじめたのをしばらく眺めてから、美容院にむかった。いいかげんに髪がぼさぼさだったので式の前に切っておきたかった。美容院には近隣の老人がた(隣のTさんなど)もよく来るらしいので誰か祖母の知り合いがいるかと思ったが、祖母がなくなりまして、と言ったときの反応からすると、先客の二人はどちらもちがうようだった。Iさんはねぎらってくれた。祖母の最期や式のことを話して午後三時過ぎに切り終わった。店の前に雪が散らばっていて老人には危なかろうと思われたので、立てかけたあったスコップでいくらか掃除しておいた。
 帰宅するとK.HさんとK.Mさんが増えていた。団子や稲荷ずしを食べて茶を飲んでいると四時前に坊さんが到着した。菩提寺の住職と、やはり仏門に入って二、三年前から一緒に仕事をしている息子と二人でやって来た。枕経が行われた。読経というのは眼を閉じて聞いていると意外と心地よいもので、よく通る声が二人分合わさると高音から低音まで倍音を豊かに含んだふくらみのある響きが部屋を包み、二人だけではなく四人くらいで読んでいるようにも聞こえた。経自体は十五分程度で終わり、そのあいだに順番に小さな箱で焼香をした。僧侶が帰ってからしばらくすると親戚連中も帰りだし、午後五時には最後に残ったYさんも家を発った。
 今日のことをノートに記録して午後七時をむかえ、風呂と夕食を終えるとFred Hersch Trio『Alive at the Vanguard』を流しながらガルシア=マルケス『族長の秋』を冒頭七頁目まで音読し、日記を書きはじめた。Herschが終わるとGary Karr『Basso Cantante』にBGMを変え、ヘッドフォンから流れる弓弾きの音に耳を傾けながら書きつづけ、日付が変わるころからTさんとスカイプでチャットをした。音楽はIbrahim Ferrer、James Farmと移っていき、二時からUさんとKさん、その直後にHさんも加わって話はつづいたが、自分は三時をむかえると先に失礼させてもらった。