2014/2/12, Wed.

 夢。
 地方から東京に出てきた女性と親密な関係になった。ショートボブの黒髪がたまご型の輪郭を包みこみ、顔の小ささに不釣り合いな大きさの黒縁眼鏡は、理知的な印象を与えるよりはむしろ、そのアンバランスさでもってやわらかな丸みをきわだたせていた。ふわふわとした雰囲気をまとっていて、道を歩いていると急に立ち止まって何の変哲もない街路樹をじっと見つめだす、そんなことがよくあった。そのとらえがたさは世間ずれした美大生らしくもあったが、それだけではなくて、風に吹かれて消えてしまうような存在の稀薄さがあった。画材や作品集が乱雑に散らかり、壁に名も知らぬ芸術家の肖像写真が貼られている狭い部屋で汗をこすりあわせているときだけ彼女の実在がたしかに感じられたが、夜が明けて部屋をあとにし、気怠い早朝の光のなかを歩きはじめると、華奢な身体の手触りが薄れていって、自分が抱いた女は本当に存在していたのだろうか、とアパートを振り返ることが常だった。

 零時を回ってすぐにハーヨ・デュヒティング/後藤文子訳『パウル・クレー 絵画と音楽』を読了した。図版が収録されていた作品のなかでは「パルナッソス山へ」という点描画の大作がもっとも印象に残った。美術館に行きたくなった。ふと思い立って地元の市立美術館を訪れたのはまだ暑い夏の盛りのころだった。美術については何もわからなかったし今もそうだけれど、縦横に流れる筆の軌道や重ねられた絵の具の襞を見ているだけでおもしろかった。自分以外に客はいなかったから気兼ねすることもなくゆっくりと見て回った。盛夏ではあったが涼しい風が吹いて歩いてかえった帰路に伸びた草を揺らしていた。
 外には白の色が強く、家々はいまだ帽子をかぶっているが、その下の瓦もいくらか見えはじめ、彼方の山はくすんだ深緑を取り戻していた。隣家の屋根から張り出した雪の先端には小さな氷柱ができ、それをつたって絶え間なく落ちる雪解け水が下階の屋根にあたって音をたてた。昨夜もまた夜更かしをしてしまったから頭は重かったし、身体のほうも何かに乗り移られているような違和感があったが、食後に茶を飲みながらTheo Hobson "Why Christianity was the wrong civil religion for Rousseau"(http://www.theguardian.com/commentisfree/2014/feb/10/christianity-wrong-civil-religion-rousseau)を読んでいるとしだいに薄れていった。
 ダグラス・ホール/前田富士男訳『クレー』を読み終わって三時半をむかえた。前出のハーヨ・デュヒティングの本では図版の大きさが一定でなくてかなり小さくのせられているものも多かったが、こちらの本は多くの作品にA4サイズの一頁を使っているので見やすく、ありがたかった。それなりに大きいサイズで見るとやはり印象も変わってくるもので、「パルナッソス山へ」以外にも気になるものが色々あった。写真に撮ってPCに保存しておこうと思って母のカメラを持ってきてみたり、その撮影がうまくいかないのでインターネットで検索して出てきた画像データを収集しておくという次善策を出してみたりもするのだが、どちらにしても本に載っている写真より色調が激しく劣ってしまい、結局本のクオリティで見たければ本を手元に買っておくしかないという当たり前の事実を認識してあきらめた。
 つづけて『現代スペイン・リアリズムの巨匠 アントニオ・ロペス』を文章はほとんど読まずに図版だけ順番に眺めていった。非常に細密な写実画を描く人で、細部の描きこみが半端でなく、マドリードの街並みを描いた風景画ももちろんすごいのだけど、一番衝撃を受けたのは「トイレと窓」という作品で、何の変哲もないバスルームの一画を描いたもので汚れや染みなども忠実に描出されており、また、窓の細かなドット模様の精密な描写には感嘆せざるを得ない。どうということもない身のまわりのものであってもそれ自体そのままで描くに値するという姿勢には非常な共感を覚えたが、それはそれでまた疑問や問題もある。美術作品を見ると、おのれの文章表現についてあらためて考えさせられることに気づいた。すべての芸術はつながっている。
 自分が出ていってどうなるものでもないとはいえ、客の応対を両親にまかせていることにいくらかのうしろめたさを感じていたため、五時を過ぎると上階へ上がって夕食をつくろうと申し出た。カレーをつくることにした。はるかヨーロッパから帰宅した兄にからくしてくれと言われたが、ルーが中辛と甘口ではどうにもならなかった。いざつくり出そうかというところでインターフォンが鳴り、近所のNさんがやってきた。地元の保育園の園長をやっていた人物で、両親はN先生と呼んでいたが、自分が在園中にそうだったのかは覚えていない。足が悪いらしかった。線香をあげ終わるとリビングの椅子に座って父と話をはじめたが、祖母の話よりは自身のからだのことが主で、本人は世間話のつもりだろうが、しだいに愚痴めいてきた。しかし哀れげな様子はなく、大きな声でぺらぺらとよくしゃべる人だった。その後ろ姿を時折りちらちらと眺めながら皮をむいて野菜を切った。仕事があるというのは楽なことだった。座る場所を奪われた兄などは所在なさげに突っ立っていた。
 つくり終えると風呂をすませて食事にした。カレーというものは誰がどうつくっても少なくともそれなりの味になり、それなりの味でもおかわりをしたくなるもので、ここ数日おさえの効かない食欲にまかせて三杯目を皿によそったが、数口食べると突如として食欲が消えていることに気づいた。ふくれた腹と吐き気に対する不安をなだめながらなんとか食べ終えた。最後のほうは本当に味を感じず、部屋に戻ってもしばらく苦しかった。
 Dianne Reeves『I Remember』を流しながら私的読書年表を作成し、Rafael Kubelik - Czech Philharmonic Orchestra『Smetana: My Country』をヘッドフォンで聞きながらHさんの『惑星探査隊』を六九頁まで読んだ。
 美術への扉がひらかれつつある日だった。文学だけでも無数の作品が存在するが、美術や写真、音楽など他の分野においてもまた無数の作品が存在し、それぞれの人間がそれぞれの世界を描き、つくっている。芸術というものはなんて豊穣な営みなのだろうかと思われた。死ぬまで退屈せずにすみそうだった。