2014/2/15, Sat.

 歯を磨こうと廊下を洗面所に向かっている視界の端に白いものが映った。レースのカーテンをとおして外を見ると、厚く積もった雪がうすぼんやりと光っていた。常ならば重苦しく沈黙した闇はこの午前二時には白く明るみを帯びた静謐さに満ち、いまだはらはらと降りつづく雪は街灯のつくる光の円をとおるひとときだけ浮かび上がり、すぐにまた夜のなかに消えていった。
 七時に目覚めるも二度寝して、そこからはおそるべきことに十一時半まで眠りつづけた。直前までたしかに見ていた夢を覚えていられないことにどことなく損をした気分になりながら、素麺を煮込んで食べた。母はベランダの雪かきをしているようで、足音や雪が落ちるくぐもった振動が空気を伝わってきた。
 十二時過ぎから外に出た。勝手口を出たところの通路ではいたるところで屋根から細い水の糸が垂れ、フードをかぶったジャンパーがびしょびしょになった。上着を替えてから家横の細い坂にとりかかったが、幅一メートル、長さは十五メートルにも満たないだろうわずかな区画を除雪するのに一時間かかった。雪は少なくとも腰下まで積もっていた。近所の家屋根を見ると、先日の大雪よりも積もっているのではないかと思われた。雪かきは全身運動で腕や脚も疲れるが、とりわけ腰が筋肉痛になることは不可避で、終わったあとに排便をするために便座に腰掛けるとはやくも痛みをともなっていた。家の前の通りは地元の建設会社がショベルカーを駆り出して片づけてくれた。向かいの家の右横、祖父が生きていたころ彼の車がとめられていた空き地には、雪の重みに耐えかねた木が倒れており、そのまわりには先日から残るかたまりの上にさらに雪が重なって盛り上がり、いびつなオブジェをつくっていた。白く染まった林のなかを、舌打ちのような短い鳴き声を発しながら小さな鳥たちが飛びまわって、雪原で元気に遊ぶ子どもたちを連想させた。
 午後一時を過ぎて家に入り、ふたたび素麺を食べた。葬式で飾られた果物籠のなかから母がメロンを切ってくれた。こたつで二時まで休んでいると、鈍重な兄はここにきてようやく起き出して、雪のせいか二時半には閉まってしまうというクリーニング屋に歩いて行った。曇り空がいくらか晴れて屋根の雪融けは加速し、したたり落ちる滴が雨音めいて絶え間なく響いた。
 aiko『暁のラブレター』を流しながら図書館で借りたCD二枚のデータを記録し、その後Hさんの『惑星探査隊』を読んだ。四時になってBGMをBenny Goodman『The Famous 1938 Carnegie Hall Jazz Concert』に変えてさらに読みつづけたそのあいだ、特にストレスを感じていたわけではないがボトルのなかのガムを大量に消費し、緑茶で洗われた胃がぐるぐると音を立てた。五時まで読んだあと、六時過ぎまでギターを弾いた。それから再度Goodmanをかけながらプルーストを二箇所書きぬいて七時をむかえた。Lionel Hamptonのたたみかけるようなフレーズを聞いて彼のアルバムを集めたくなった。
 いくぶん気色の悪い空腹は空腹と呼ぶには渇望がともなわず、文字通りただ腹のなかが空いているだけで、餃子やらを食べる夕食の最中も、吐き気とはちがうが飲みこんだものが勝手に戻ってきそうな離人感があったものの、それは不安障害が勢力を保っていたころに慣れ親しんだ感覚でもあり、そもそも発症して以来あったのは嘔吐への恐怖だけで実際に吐いたことは一度もないことを思えば今さら慌てるものでもなかった。一時期は「吐き気」「吐く」「嘔吐」などという単語そのものを見るのもおそろしく、その不安がまた実際に身体症状を呼んだものだった。
 食後ふたたびHさんの小説を読み、Goodmanが終わってBenny Green『Blue Notes』を流していくらもしないうちに風呂に入った。温泉の素でも入れたのか、浴槽のなかは白濁していた。汚れが目立たない湯から目をこらして髪などをすくっていると、今まで生きてきて温泉に行った記憶がないことに気づいた。眉間に指をつきつけられたときのようなむずむずした感触があった。端的に目が疲れているのだったが、私見では視神経の疲労と意識の曖昧さには密接な関連があって、このときも頭にもやがかかったようだった。閉じたまぶたの上から両手の指先を静かに重ねて深呼吸をした。しばらくして目を開けると、水気が残ってぼやけた視界に電灯の薄橙色がにじんだ。
 風呂から出たあとはまたHさんの小説を読みはじめ、『Blue Notes』が終わって一分もしないうちに読了した。"Moanin'"でのBenny GreenはあきらかにBobby Timmonsを模倣していた。Hさんにメールを送ってから『Horace Silver and the Jazz Messengers』を流し、プルーストを読んであったところまで書きぬきをすませた。十時を過ぎて、Gary Burton, Pat Metheny, Steve Swallow, Antonio Sanchez『Quartet Live』を聞きながら日記を書いた。