2014/2/17, Mon.

 起きた瞬間から逃げていく夢に手を伸ばしてみても、つかまえられるのは断片未満の漠とした印象のみだった。つながらないかけらをもてあそびながら上階へ上がると、両親がいた。今日まで休みだった。米、納豆、味噌汁、インスタントな鶏肉の朝食をとった。
 與那覇潤『中国化する日本』を三分の一読んだが、このような本に時間を使わなくてはならない今の状況そのものが苛立たしく、義務感でどうでもいい本を読むことほどつまらないことはなかった。
 車のなめらかな輪郭に反射して散った光の雫の一片が目に飛びこんできた。汗をかきながらも雪は晴天に負けずに形をとどめ、一車線となった道路の脇にうず高く積まれたかたまりは、ところによってはほとんど背の高さまで達していた。車は狭い道を海中の魚めいて左右に動いたり、雪の列のあいだにわずかにあいた待避所のような空間に控えたりしながら行き違った。
 この雪では医者だって人は少なくすぐ終わるだろうと思っていたら見こみ違いで二時間かかった。重い沈黙に包まれているのが常の心療内科ではあるが、今日は明るく談笑する中年女性や、駐車場の雪かきをしてきた、と受付の女性にさわやかに語る初老の男性などがいた。しかし彼らのうちにも、例えば表情のこわばりだったり、いくらか焦点のずれた瞳のように、どこか危うさを見出してしまうのは場所がそうさせるのだろうか。名前を呼ばれたときの各々の反応、押し黙っていたり、かぼそい声で答えたり、どもったり、元気よく返事をしたり、それらは他の場所で目にすればどうということはないものだが、心療内科の待合室においては彼らが示すどのような挙動であっても、やはりここに来る人間であると思わせるような場所の力というものがあった。
 待っているあいだは『族長の秋』を読んだ。一生をかけてもこのような小説は書けないだろうと容易に確信できるほどの作品だった。昨年の夏にこの小説に出会って人生を狂わされた。迷宮に引きずりこまれてしまったのだ。ひどくおもしろいが、休みをはさみながらの一時間半で一章、四十頁しか読み終わらなかったところを見ると、やはり体力のいる小説ではあった。
 薬局を出ると、薄暮れにむかいはじめた午後五時の空気は寒々しく、マフラーを巻き直した。両親の車と合流して、ローソンストア100と個人経営の八百屋で買い物をしてから帰った。八百屋はともかく、ローソンストアでは物流の麻痺で野菜やパンなどはなくなり、空の棚が並んでいた。
 容易に進まない車のなかで感じた疲労と気持ち悪さが帰ってからもいくらか残っていたが、空になった腹がそれをおさえこんだ。空腹が最高のスパイスとはよく言ったもので、たいして豪華なおかずもなかったのに、ローソンストアで売れ残っていたメンチ、小松菜の和え物、米、納豆、味がひどく薄い卵とわかめのスープ、それらのすべてが非常に美味だった。The BeatlesBeatles For Sale』『Help!』と流しながら今日のことをノートに下書きしてから風呂に入った。加速する食欲にまかせてローソンストアで売れ残っていたチョコプリンとヨーグルトを食べると茶を飲み過ぎていたこともあってかすかな吐き気も感じたが、体重を量ってみるとそれでも55.2キロにしかならなかった。
 Tony Malaby Trio『Adobe』を流しながらプルーストを読み、一箇所書きぬいてから日記を書いた。