2014/2/21, Fri.

 起きた直後は夢のなかで聞いたジャズファンク的な曲がはっきり耳のなかに残っていた。台所には鍋に入った味噌汁しかなかったので卵を焼いて食べた。食事中から佐藤亜紀『小説のタクティクス』を片手に持って読みはじめ、部屋に戻ってからも引きつづき読んだ。音楽はBranford Marsalis『Four MFs Playin' Tunes』をかけた。午後一時過ぎになると上階へ上がって、戸棚を開けるとどん兵衛カレーうどんがあったので湯を注いで食べた。二時に佐藤亜紀『小説のタクティクス』を読了し、母が帰宅した音を聞いたのでまた上階へ上がってタオルをたたみ、風呂を洗った。アイロンをかけると三時になって、それからPablo Casals『J. S. Bach: Cello Suites』を流しながら日記を書いた。時間があまりなかったので焦って三十分で書いた。四時をむかえて風呂に入ったが、最中、のどに何かがつかえているような感覚がつきまとっていた。出て、歯磨きをしながらミシェル・レリス『幻のアフリカ』を十頁読んだ。
 紺色に白いラインが入ったジャージを脱いでワイシャツを着た。ボタンは第二ボタンから下へと順にとめていった。スラックスをはいてチャックをしめ、腰回りの内側にあるボタンをとめ、それからベルトをしめた。金具を通す穴は五つあるうちの四つ目だった。ネクタイは何本かあるが実際につけるのは二本のみで、ワインレッドの地に斜めにストライプが入っているものと、水色の地に格子模様があるもののうち、後者を選んだ。格子模様はクリーム色と茶色の細い線が斜めに交差して菱型状にできており、ひとつの格子のなかを見ると、水色と銀めいた灰色の糸が交互に配置されてこちらも微細な格子模様がつくられている。ベースとなっているのは水色だが、光が当たる角度によってときに銀色の印象が強くなり、そうするといくらかメタリックに見え、ざらついているふうにも思えてくる。
 薬は飲んだものの体調はあまりよくない。のどには変わらず異物感がまとわりついており、首を囲んでいるワイシャツとネクタイが息苦しさを増した。母が買い物のついでに送るというので車に同乗した。だるさと眠気に体をまかせて目を閉じた。スピーカーからはセンチメンタルなピアノとR&B特有ののっぺりしたリズムと息の多い甘ったるい歌声が流れ、うんざりした。若い女性の感傷を誘うためだけにつくられた音楽、母のどうでもいい話、がたがたという走行音、振動、それらすべてが敏感になった精神の糸をはじき、苛立ちを起こした。街道はようやく両側通行になっていた。車道にはみ出ていた雪は歩道のきわに寄せられ、しかしそこにまだうず高く積まれ、薄汚れている。道の両側にずっと続くそれを見て母は、すごい光景だねとかなんとか言ったらしかった。駅前のパン屋のそば、車道の端の雪のきわにとめて、母はパンを買いに行った。つらいものだった。体調が少し崩れただけで生はつらくなる。しかもそれは特別に何があるわけでもない、異常というには大げさすぎるほどの、体と精神に注意をはらっていない者ならば見過ごしてしまうほどの、違和感でしかなかった。そんなわずかな恒常性のほつれをとりあげて一人で気を滅入らせていた。母が戻ってきたので入れ違いに扉をあけて教室へとむかった。体が重く、わずかな距離をゆっくりと歩いた。うしろで女性の二人連れが、街路樹の根元が白く埋まっているのを見て、雪がこんなに降ったんだね、と声をあげた。
 こちらからいかなくとも生徒たちは向こうから話しかけに来る。笑みもこぼれるが、それは愛想笑いだったのか、彼女らの生気がこちらにうつったのか。とはいえ準備中も息苦しさはとまらず、薬を追加した。梅核気と呼ばれる、何もないのにのどにつかえがあるような感覚は知ったもので、不安障害の初期にしばらく付き合ったことがあった。薬がきいたようで、授業がはじまるころには平静になっていた。平静な心のうちに、ふわりとやわらかいヴェールに包まれているような心地よさがあった。ダウナー系のドラッグをキメるともっとこうなるのだろうか、あるいは、酒を飲んだことはないが、酩酊の感覚というのはこういうものなのだろうか。ふわふわとした感覚のなかに立ちつくして生徒が問題を解くのを待った。今日は受験直前ということで生徒数も多く、教室をいっぱいに使って例外的に五十席が置かれていた。そのほとんどすべてが埋まっていた。教師一人につき生徒三人プラスアルファとして、六十五人ほどの人間がこの教室にいるのだった。教師の説明する声、生徒の応える声が混ざり合って大きなざわめきと化した。休み時間の喧騒などはすさまじいもので、そこらじゅうで人声が渦をなしていた。しかしそれでも授業中には、誰の話し声もせず、紙をめくる音と用紙に文字が刻まれる音しかしなくなる瞬間があった。次の瞬間にはもう、どこからか湧きだした声が声を呼んで空間に満ちているため、それはほとんど奇跡的な空白の一瞬だった。あの瞬間だけは教室にいた六十五人の誰も口を閉じ、のどをふるわせずにいたのだ。
 労働はつつがなく終わった。電車で帰った。身を切る寒さの夜だった。前かがみに席に腰掛けて音楽を聞いていたら、左側に人の気配がした。見ると、生徒が二人いた。二人でこちらが聞いていた音楽をあてはじめた。じゃあ俺、バンプ、お前は? じゃあ俺は、QueenQueenいいね、Queen好きだよ俺、昔よく聞いてた。驚かれた。洋楽聞くんですか、歌詞わかるんですか。歌詞なんて聞いちゃいない。結局こちらが何を聞いていたのかはうやむやになった。Brad Mehldauなんて彼らに言ってもしかたがなかった。
 夕食は米、納豆、豚汁、野菜炒め、ソーセージパンだった。食べながら一年前の日記を読み返した。信じられないほどつまらなかった。一年前の二月二十六日も一年前の日記を読み返していた。風呂に入ってからノートにメモをして寝た。
 入浴を終えて台所に出ると、なかば無意識に水道に手が伸びて、その行動によって渇望に気づいた次の瞬間にはコップに水が注がれていく音がした。唇にひやりとした感触があたった直後、冷たさが口内に侵入し、のどは無抵抗に二度、三度と動き、自然と息をついたと同時に胸に清涼さが広がった。