2014/3/4, Tue.

 ベッドから立ち上がった瞬間に揺れた頭の重さで水が足りないことがわかった。コップについだ水をあられもなく飲みくだしているあいだは息がつけず、一口ごとに冷たさが身に染みわたっていくその過程は水をとりこみながら水に溺れていくようでもあった。食事を終えて部屋へ戻り、暖かな外の風景に誘われるように窓辺のベッド上に座った。すでに天頂をまわった太陽はその光を部屋のなかに直接射しこむことさえないけれど、畑の下草が含む緑は明るみを増し、景色には朗らかな春の色味があった。隣家の庭で紅梅が花をつけはじめていた。小鳥がせわしなく枝にとまってはまたすぐに飛び立っていった。プルーストを読んでいればあっという間に時間は過ぎた。Bill Evans TrioのあとにEric Harland『Voyager: Live By Night』を流して久方ぶりにストレッチをし、ダンベルをいくらか弄んだ。
 わずかに傾斜した坂の地平を眺めれば三月だというのに陽炎が立つのを知ったが、その向こうからしだいに大きくなってくる車を見ていると、その鼻先がともすればこちらに向いて車道をそれてくるのではないかという不安とすら言えない妄想が一瞬よぎる。車線いっぱいの幅を持つ大型トラックが後方から何台も連なり、一層激しい風切り音とともに影がこちらの足下をかすめていけばいくらか身の縮むような心地もする。破壊的な馬力を持った鉄のかたまりのそれぞれが整然と並んで平然と通りすぎていくことがほとんど奇跡のように思えてならないときがある。実際にはこのよどみない流れの十全さがどこかで破られない日は一日だってない。その現場におのれが居合わせること、それこそむしろ奇跡に近い確率かもしれないが、しかしどうして招かれざる奇跡が起こらないなどと言えるのか? いつか起こるに決まっている、それどころかいま不安を抱えること、それ自体が未来の悲運を引き寄せてしまう、そんな気がするのは、不安障害患者時代の論理の名残りである。
 いっそあけすけなまでの晴天に白雲が数滴垂れ流れているのは冬のそれと変わりはなくとも、空気に鋭さはなくなり、丸みをおびた柔らかさが代わりに身を包んだ。そこここで白と紅の梅花がひらきはじめていた。前からやってきた大柄の女子小学生にどことなく以前の塾生の似姿を見つけた。彼女は十五歳、こちらは二十歳だった。こちらが二十四になったいま、彼女は十九である、そう考えるとそのあいだに思ったよりもひらきの印象がないことと同時に、まだ二十をこえてから四年しか経っていないことに気がついた。まだ四年だ。今まで、もう、だとばかり思っていた。そうではなかった。まだ二十四、まだ二十代のなかばをこえてすらいない。三十まではまだ六年もある。六年! 不思議なことだが、そう考えてはじめてみずからの若さを自覚した。時間は無限にあるわけではないけれど、吹けば飛ぶほど重みのないものでもない。
 仕事がなければ労働は長く感じる。寒風が吹く帰路だったが、大股で歩けば身体は容易に熱をおびた。ふくれた腹を抱えて風呂に入ったあとにプルーストを読むつもりが、PCの前に座ったことで怠惰がはじまった。