2014/3/8, Sat.

 七時以来何度も目を覚ましたが起床には至らず、結局またも正午を過ぎて、出かけていた母が帰ってからようやく寝床を抜けだした。稲荷寿司、わかめと卵の入った汁を飲み、食後、電話をかけた。地元の祭りの会に入らないかとの誘いを断るためで、母がメモしておいた携帯電話の番号に連絡してみれば、一声目から笑いのまじった声でなにかをつぶやいたかと思うと、携帯の番号ってさあ、通信用と通話用のものがあって、通信用だと通話に使えないんだよねえ、などと話しはじめる。なにを言っているのだこのおっさんは、と怪訝に思いながら相手を確認し、こちらも名乗ると、すぐさま向こうの態度は改まって、知り合いとまちがえていた、と弁解された。せっかくお誘いいただいたのに申し訳ないんですが、自分のほうでやりたいこと、勉強というか、に時間を使いたいもので、お断りの電話を差し上げました、と述べるあいだ、相手は、あ、そうですか、あ、そうですか、とくりかえし相槌をうち、特に引きとめられることもなく電話はつつがなく終わった。
 澄みわたった晴天に誘われて歩くことにした。新調したスニーカーの出番が早速来たが、ズボンも柄で靴も柄とあっては接続が悪く、やはり無地のシンプルなものを選ぶべきだったと先日の後悔が蘇った。風はあったものの時が止まったような青空からそそぐ陽射しが冷気を中和した。市街の上空に、上部が盛りあがって下部がまっすぐに伸びた、帽子のような雲が一片浮かんでいて、それを見ているとサン=テグジュペリ星の王子さま』の記憶がかすかに呼び起こされた。先の降雪からひと月は経ち、普通に歩いていれば白砂を踏むことはなくなったけれど、家の奥まった陰にはまだしつこく砂利混じりのかたまりが残り、それを掻きだして道端の日向に落とす人が見られた。建設中の家屋根にひとり座った人足が叩く槌の音が通りにこだました。その家の前面には何に使うのか、ひとりでは運ぶどころか一ミリ動かすことすらまず無理だろう岩塊がごろごろと並べられていた。蕎麦屋の駐車場に猫がいるのを見つけて今朝方見た夢を思い出した。夢というよりはまどろみに紛れて見た幻覚のようなもので、寝ているこちらの両脇から黒猫が二匹寄り添い、顔に当たる毛のくすぐったさが現実の質感を持って感じられたのを覚えていた。児童遊園と名づけることすら大げさとも思えるほど小さな、ブランコと滑り台しかないような公園がこれもまた小さな社に併設されていて、少女二人とその母がバドミントンをして遊んでいた。かたわらには祖母の姿もあった。幼い妹がうまく羽根を飛ばすことができず、見当違いの方向にふわりと落ちると、三人はみな不満の声を洩らしながらもしかたなさそうな笑みを浮かべた。不意に左を向いたのは声が聞こえたからだったのかそれとも視界の端に姿をとらえたからだったのか、通りの反対側で裏道から出てきた自転車の三人のうち、二人が生徒だった。首を向けたまま足は止めず、右手を軽くふると、こちらと認識した一人が無言で頭を下げた。以前は床屋だった店が喫茶店になっていることにその真ん前を過ぎてはじめて気づいた。ガラス窓の向こうに女性四人が寄り合い、声は聞こえなかったけれど身ぶりでそのかしましさが伝わってきた。元の床屋はと言えば、対面に場所を移したらしかった。立ち止まってメモを書いていると、かしゃん、という金属音が聞こえて、ほとんど意識せずに首を左へ向ければ向かいの家の戸口にまたしても生徒がいて、陽光に照り映える赤い自転車をともなってこちらを見つめていた。よう、と声をかけ、お前んちそこなの、と問えば、この春で中学にも上がる歳のわりに幼さの残る少年は無言でうなずいた。それほど大きくはなくとも格調ある木造の二階建てで、過保護に甘やかされ、金もいくらかそそがれて育てられてきたらしいという以前からの少年の印象とあいまって、あるいは旧家なのかもしれないと推測した。照れくささから笑みが出た。彼にこちらの行動の意味などわかるはずもないが、熱中している姿を見られた羞恥からその場で書きつづけるのはためらわれて歩きだした。この時点で通常十五分もかからぬ道のりを三十分はかけて歩いており、何かあるたびにこうして立ち止まってメモをとっていては、いつまで経っても目的地である市中央図書館には着かないと思われた。それでもいいかという気もした。波状に押し寄せる尿意が膀胱を刺激し、危機感を覚えたのでひとまず近くの図書館分館に寄ることにした。トイレは電気が消されておりわずかに外光が入りこむのみで、暗いなかでももっとも暗がりにある隅の小便器で用を足した。ついでに書架をのぞいた。中央図書館では六巻までしか棚に出されていない『失われた時を求めて』がこちらでは全巻出ているという、ホームページで検索したときに得た情報を実地で確認した。中央図書館と比べるとはなはだ貧弱な蔵書で、気になったのはアレホ・カルペンティエール春の祭典』、アントニア・ホワイト『五月の霜』くらい、他に完訳クローニン全集というのが二十五巻揃っており目を引いたが知らない名前だった。
 図書館を出ると、線路をはさんで駅の向かいにある小学校のほうに折れた。校庭の隅のほうでゼッケンを着けた子どもたちが赤や黄のゴムバットを持ってボールを叩いたり、サッカーボールを蹴ったりしていた。数は二十から三十のあいだというところで騒がしく叫ぶけれど、甲高い声はグラウンドの広さにまぎれて消えていった。石段の上には母校の校舎が昔と変わらぬ白壁を陽にさらし、その背後からは森の木々が雑多に顔を出していた。校門の脇を細道に入り、線路沿いを歩くと、右手に発着する電車の駆動音やアナウンスの音が静かな昼下がりの大気に響いた。敷地の一番端にある小さな野原には昔花壇があってヒマワリが咲きほこっていたり、あるいはサツマイモなんかを授業で育てていた記憶もあるけれど、今ではほとんど平らにならされており、雑草混じりの土のなかにほんの小さな赤い葉や青の花が見られ、隅には梅の木が一本立って桃色と紅のあいだのような色を灯していた。花を見上げると視線は枝のあいだを抜けて、裏山のグラウンドへと上がっていく人影が木々の隙間にのぞいた。坂を上がって線路の上を渡り、左手に折れてまた細道に入った。前から歩いてきたふさふさとした茶毛の犬は線路脇に生えた草が気になるようで、飼い主が引き離してもまたすぐににおいを嗅ぎに戻ってしまうのだった。二箇所の踏み切りがユニゾンになりきらない不安定な和音を響かせると、ごとごとと音を立てて電車が通りすぎた。人の少ない車内は光をたたえて水槽めいた緑色に包まれて、同時にガラス窓には周囲の家々が鏡像となって浮かびあがった。細道を抜けると街道に出た。赤信号の横断歩道で角に目を向けるとパンジーの花壇が目についたがその黄色や紫の花はいくらかしおれて力なく垂れ下がり、むしろ背後に立つ名も知らぬ植えこみのまだらな赤や桃色の花のほうが鮮やかだった。巨大なトラックがぎりぎりというような音を立てて目の前を曲がっていくと、鈍色の車体が陽を受けて銀の光を宿した。焼き鳥屋の隣りではショベルカーが出張って解体作業が進んでいたが、建物は瓦礫となってもはやそこに何があったのかはわからなかった。
 先の分館と中央図書館のあいだにある別の分館を訪れた。隣接する体育館からは竹刀を打ちあう音や長く伸びる掛け声がざわめきとなってもれ聞こえた。図書館というよりは図書室というくらいの小さな部屋で、無機質な灰色の棚のあいだに立っていると、本を読みとるときの機械音、それにつづいてPCが立てるシステムサウンドが受付から聞こえてなつかしく感じた。中央図書館にはない音だった。ここでも事前の情報通りカフカ全集十二巻の存在を確認した。七巻目の日記をいつか読まなくてはならなかった。他に東山魁夷全集があり、また、手塚治虫名作集二十巻および傑作選集十八巻も目についた。
 寄り道を終えていよいよ一応の目的地として設定した市中央図書館に向かいはじめた。消防署に並ぶ消防車は原色の赤を輝かせ、建物の脇で消防員が迅速な動きで訓練に勤しんでいた。中学校の前を通り過ぎながら目をやった遠くの空は晴れ渡り、こんな日に飛行機雲が出来ないわけがなかった。本日三つ目となる図書館を訪れてalamaailman Vasarat『Songs from Vasaraasia』と『The Best of Wilko Johnson Vol.1』と、気まぐれに哲学の棚を見て対談本で軽そうな中沢新一國分功一郎『哲学の自然』を借りた。出ると高度を落として視界の隅に入りこんだ太陽がまばゆくて目を伏せた。帰りの電車内にその光が射しこんで床の上に出来た影は電車が曲がるにつれてゆっくりとかたちを変えていき、その上にまた家や木の影が重なって影絵の交錯が生まれた。一時間ほど前に歩いて電車を眺めたその道を今度は反対に電車内から眺めていた。
 家の最寄り駅で階段を昇ると森の上に浮かぶ太陽が真正面に来て直視できなかったけれどその近くをひとすじ流れる飛行機雲がオレンジに染まっているのは見えた。帰宅して空腹だったので阿部公彦『詩的思考のめざめ』を読みながら食パンを二枚とお茶漬けとキャベツを食べた。ほどよい下半身の疲労が足下のストーブが送る暖気をつれて立ちのぼると満腹のこころよさとまざって甘美な眠気を呼んだ。知らぬ間にテーブルに突っ伏してしばらく眠っていた。起きた直後は頭に重さが残っていていっそのこと部屋でもう休んで夜通し活動しようかと思ったけれど意識がだんだん晴れてきたのでとどまった。
 山下洋輔『Sparkling Memories』、Aerosmith『Honkin' On Bobo』を流して阿部公彦『詩的思考のめざめ』を読み終わり、風呂に入ったあとに豚汁を二杯食べ、Aerosmith "Crazy"を思い出してyoutubeで聞いてからAnn Burton『Blue Burton』を流して借りたCDのデータを記録した。高校のころはわりと聞いたHelloween『The Dark Ride』がなぜかなつかしく思い出されてyoutubeで流しながら日記を書いたけれどアルバムが終わるまでに書き終わらず、その後は無音で一時までつづった。