2014/3/19, Wed.

 九時ごろ目を覚ました重苦しい意識が寝足りなさを訴えたのは、昨夜、労働の行き帰りの情景だけを書いておこうととりかかったら予想外に時間がかかって眠るのが二時過ぎになってしまったためで、そのためにウルフ『灯台へ』を読み切ることもできなかった。昼寝と同様の甘美さを持つ二度寝を経て正午過ぎに起きて、チャーハンと豚汁を食べた。豚汁には野菜の甘さがよく出ていて、一杯飲むと自然にもう一杯のおかわりを誘った。食べながらおのれの日記を読みかえして感じたのは、やはり言葉を尽くすところと尽くせないところの差が激しいということで、風景の描写などはかなり力を入れて組み立てることができるけれど、日常の生活の細々としたことなどはどうしても場面としてつくり上げられないのだ。その点をどうしていくのかが今後の課題のひとつだろう。
 Steve Lacy & Mal Waldron『At The Bimhuis 1982』を流してウルフ『灯台へ』をとうとう読み終わり、そのままちょっとした感想文をまとめはじめたけれど、意外と時間がかかってしまい、図書館にむけて家を出るのは午後三時半となった。雨は降らないようだがはっきりとしない天気で、空気に寒々しい灰色が久々に戻ってきたものの、冬のにおいはもはや戻らず、ジャケットを着るだけで充分な気温だった。この時間の電車のなかは山帰りの高年でいっぱいで、例の複雑なにおいが立ちこめて鼻孔に侵入し、またこのときはipodの電池が切れていたため、鳥の鳴き声のようなかん高い声と鈍重な牛のような低い響きを電車の走行音が囲んでつくった混然としたざわめきをさえぎる手段がなかった。乗り換えれば先頭車両は平和そのもので自分以外には男性がひとりしかおらず、向かいの小学校で低学年の子どもたちがバスケットボールの真似事をし、嬌声を上げるのを微笑ましく眺めた。扉を閉めて停まっていると驚くほど静かで、自分の吐息や咳払いが思いのほか大きく響き、また、離れているもうひとりが立てる衣擦れやため息もこちらに届いてきて、たがいにひそかに意識し合うような狭く閉じた空間があった。
 図書館ではこの二週間ほとんどまったく読めなかった『失われた時を求めて』の第三巻をもう一度手に持ち、CDはGreatful Dead『Anthem of the Sun』、Fritz Reiner - Chicago Symphony Orchestra『Dvorak: New World Symphony and other orchestral masterworks』にした。それらを借りたあとに座席に座って、ウルフ『灯台へ』の書きぬき箇所を確認したが、書きぬきたいと思う場所はほとんど、最初に読んだ五か月前にすでに書きぬいてあった。感想文に少し手を加えると、書けていなかった十七日と十八日の日記を完成させた。六時を過ぎていて、八時までいるつもりだったけれど読書をするには自室が一番だし、やることはやったので帰ることにした。何も借りないつもりだったけれど帰る前に棚を見ているとやっぱり借りたくなるもので、というよりは席を立ってちょっと見ていくかと思った時点ですでに自分に借りることを許していたような気もするが、結局阿部公彦『小説的思考のススメ』、ロラン・バルト『批評と真実』、磯﨑憲一郎『肝心の子供』を借りた。
 夕食後に小澤征爾が指揮したドヴォルザークの「新世界より」を流したけれど、クラシックではじめて格好いいと思ったのがこれで今のところ一番聞いているのもこれだろうがやはり格好いい。つづけてSerge Chaloffを流しながら阿部公彦『小説的思考のススメ』を三分の一ほど読みすすめ、気まぐれに保坂和志のサイトを訪れて樫村晴香阿部和重との対談を読んでから床についた。