2014/3/21, Fri.

 八時に目ざめたときにそのまま起床することも不可能ではなかったが、まぶたの重さからしていま起きてもどうせまた眠ることは知れていた。だから二度寝の誘惑には何の疑問もなくしたがったけれど、それにしても正午前まで寝てしまうとは。しかし昨夜は結局寝るのは三時近くなっていたはずだから当然でもある。日記を書いたあと、何をしたのかもよく覚えていないくらい無為な時を一時過ぎまで過ごして、床には入ったものの一向に眠くならず、一度トイレに立ったときはもう二時を過ぎていただろうか? そのとき薬を飲んだのだったか否か、そんなことは忘れてしまった。直近までそのなかにいたはずの夢の世界は泡のように消えて、そのくせ古井由吉の家に泊まったという一度目の夢はひとかけら残っていた。かたまった目やにを指でとるとちくりと痛みが走り、長く眠ったせいか腰と背骨のあいだがきしんだ、眠るのにも疲れなくてはならないとは。
 階段を上がるとテーブルに母の姿はなく、ノートと空になった湯のみがひとつ置かれていた。ベランダへ続く窓が開いていて気配を感じたのでそちらに目をやってはっとした。干されたタオルやシャツのあいだに見える母の姿が一瞬、祖母に見えたのだ。背格好はちがうし、真っ白なダウンジャケットなど祖母は着なかった、それなのに、うつむき気味に手元に目をやっている、その顔の角度が背中を丸めた祖母の幻影を呼び起こしたのはやはり親子ということだろうか。うどんを食べながらあらためてまじまじと見つめてみれば、母は歳をとるにつれて、こちらの知っている祖母の面影に近づいているような気もしてくる。顔のまわりにゆるくウェーブを描く髪はまだしもボリュームを残し、歳のわりに頬はふっくらとしているようだが、しっかりと化粧をしていても、表面にあらわれる細かいしわまでは隠しきれない。目はいくらか赤く血走り、また黄みがかっていて、それを指摘すると疲れを訴えた。今日は休みだから六時半まで眠れたが、それでも人が来ると思って気が気ではないし、やらなければならないことはいくらでもあって自分がやるしかないのだから、と言ってみせるが、優先順位をまちがっていると思えるその義務感に、しかしこちらの神経症の起源を見るような気もする。茶を飲みながら磯﨑憲一郎『肝心の子供』を読みはじめた。一度目に読んだのは昨年の八月で、記憶は遠くなりつつももっと精度の高い文章だという印象を持っていたが、もちろん丁寧に書けてはいながらも意外とそこまでかちかちにはまっているわけではなかったと感じるのは、三宅誰男『亜人』の圧倒的な密度を経験したあとだからだろう。いくらも読まないうちに階下で扉の閉まる音がし、父が階段を上がってきた。昨夜遅くまで、それこそこちらが寝つくころまで酒を飲んでいたことを母がなじるが、酒のせいなのかまだ眠たげに目を細めてうめき声をあげる男の顔はたしかに情けないものではあった。急須に湯をそそいでいるとインターホンが鳴って母の恐れていた来客がやって来た。さすがに寝間着ではばつが悪いのでそのまま逃げるように部屋に退散した。
 日記を書いてから明日の法要で着る礼服のズボンにアイロンをかけたが、しわなどほとんどなかった。母はこたつに足を入れて座布団の上にごろりと横になった。父は書類をいじっていたが、窓際に立って歯磨きをしはじめた。かけ終えて電車の時間を調べると五分ほどしか猶予がなかったため急いで部屋に戻って準備をした、といってもシャツと上着を着て、本やCDをリュックに入れ、薬を飲むだけである。出る間際に寝転がっていた母が、やっぱり寝られないよ、うとうとしてたら電話がかかってきた、と声を上げたので、またうとうとしなよ、と言って家をあとにした。少し前から曇り空が晴れてきて、南半分はまだ厚い雲に覆われているけれど、林の隙間から見える空は真っ青だった。家を出た瞬間に意識したのは静けさで、風にかさかさと揺れる葉の音と、それを踏みしめる自分の足音しかなかった。林のなかには小さな蝿が発生して足下を飛びまわり、射しこむ陽光がそれらのたかる朽ち木を白く包んだ。駅の階段を上がると向こうの道に若い集団がいて、何人かは高そうなカメラを持っていた。三脚を抱えたひとりの男を中心に何事か話し合うと歩きはじめた。その姿を横目にホームを先のほうまで歩いていき、ハンチング帽をかぶった黒人の横を通った。あんな人がこのあたりにいただろうか? 振りむくと、彼は陽射しのなかに立ちつくしてホームの向かいにある桜の木のあたりをじっと眺めているようだった。顔は見えなかった。西から突風が吹いてめくったページがばたばたと踊り、ノートが手からすり抜けそうになった。
 今日も多くの人が山歩きに行っているだろうが、二時前ではまだ電車に帰りの集団は乗っていなかった。南の空では変わらず雲が広がり、その断面が陽に照らされて光った。Bill Evans『You're Gonna Hear From Me』を聞いて、図書館の駅で降りると、ホームを小さな鳥が歩きまわっていた。なんというのだろう? 後頭部から背中にかけて黒く、対照的に腹は真っ白で、そのあいだはどちらともつかずまだらになり、尾羽は筆ですっとはらったように身体から伸びている。歩いているときは鳩のように頭を前後に動かすが、走りだすとなぜか頭の動きが止まるのは筋肉の使い方がちがうのだろうか。そんなことはどうでもいいけれど、図書館ではOmar Sosa『Calma』が新着にあったのでそれと、やはり気に入った曲から広げていくのがいいだろうということでIstvan Kertesz & London Symphony OrchestraDvorak: Symphony No.8 / Symphony No.9』を借りた。新着図書は二日前に見たばかりでほとんど変わりはないが、古川日出男の新作らしい本をひらいてみると戯曲で劇作家としての一面を知ったが、それよりも表紙のイラストが気になって裏表紙をめくってみると池田学という名前があった。注視したわけではないしいろんなものがごちゃごちゃと書きこまれていて全体として何を書いているのかわからなかったが、どことなく近未来的な雰囲気があった。プルーストも読みたいけれど磯﨑憲一郎ももう一度読みかえしたいという欲求があって、とりあえず『往古来今』を借りたのはこれが磯﨑ではじめて読んだ作品、すなわち読んでから一番時間が経っている作品だからだ。自動貸出機のテーブルに本とCDを置き、右手の開口部にカードを読みこませ、モニターで三と数を入力し、つづけて貸出ボタンを押すとなぜかエラーが出てしまい、再度カードを読みこませてもエラーになるばかりなので、左手のカウンターにいた若い女性にすみません、と呼びかけた。長い茶髪で眼鏡がいくらか理知的な印象を与える美人だった。こういうわけで、と画面を示すと、多少いじってくれたけれど直らないようで、あちらの貸出機のほうでやっていただけますか、すみません、と言うその声が必要以上に恐縮した響きを持っていて、こちらがかえって申し訳ない気持ちになった。問題なく借りて図書館を出ると、高架歩廊の床面に陽が反射してまばゆく、目を細めて下を向いた。すると靴ひもがほどけていることに気づいた。しゃがんで結んでいると、がしゃがしゃという音がしきりに聞こえるのでなにかと左上を見上げると、ローカルデパートの壁面に縦断幕(という言葉はあるのだろうか?)をとりつけている金具が風に揺れて音を立てているようだった。ああやって金具が弱っていき、いつか突然外れて落下する日が来るのだろうか。
 電車のなかではずっと下を向きながらノートにメモをしていて、気づけば(……)に着こうとしていた。左前に座っていた男が待ちきれないように立ち上がって扉前に陣取った。毛がふわふわしたような上着でリュックを背負い、イチローにやや顔が似ていることもあってスポーツマンらしい印象で、体のうずきをおさえるように腰に手を当て少しのけぞってみせた。到着するとすぐに早足で出ていったその姿には力がみなぎっていた。
 歩くこちらの横を電気屋の袋をさげた男、ミニスカートで足をさらした少女、ピンクのクマの顔をしたバッグを肩にかけた女児、杖をついてやっと歩く老婆、特徴ある人も特徴ない人も、さまざまな人間が通りすぎていく。あらゆる人間の類型がここにいるのではないか? 両耳に聞こえるシンバルがずいぶん活気あるリズムを刻みはじめたことに気づいた、と、右から流れるピアノが呼応するように音を詰めこんで勢いを増していく。このアルバムの"Someday My Prince Will Come"ではどういうわけかBill Evansは饒舌で、普段の彼らしくもないその弾き方が好きだった。ビルにはさまれていると風はそこまででもないが、視線の先、歩道橋の上では遮蔽がなく誰も髪を乱しているなか、少女たちはそれすらも楽しみに変えてしまい笑い声を上げたようだった。ビルの陰から出て差しかかってみると左手から激しく風が吹きつけ、そちらを向けばちょうどモノレールが通っていくところで車両には茶色いキリンのイラストが描かれ、過ぎたあとにひらけた空は青く、雲が散らばっていた。図書館へと向かう歩廊の上、ひっきりなしに風は吹いて右手に顔を出す裸木の頭が揺れ、また、左に見える抽象的な造型、曲線の先に洋梨のようなダチョウの卵のようなものがくっついているその線がしなり、通りがかったサラリーマンが目を見開いていた。雲間から洩れる光は常緑樹に降りそそいで葉の表面に白い点を宿らせ、揺れるとまるで花が咲いているかのように見えた。
 Thelonious Monk Quartet with John Coltrane『At Carnegie Hall』、Chico Hamilton Quintet with Eric Dolphy『The Original Ellington Suite』、Chick Corea『Chillin' In Chelan - Chick Corea Five Trios Series No.3』の三枚をさっさと借りて気まぐれに棚を眺めまわった。クレーの手紙、デュシャンの書簡、エゴン・シーレの日記と手紙、セザンヌの手紙、ゴーギャンの手紙(それにしてもみなよく手紙を書くものだ!)、そしてファン・ゴッホの書簡全集全六巻があった。音楽のほうにも足をむけてみれば、サイードアドルノの評論があり、吉田秀和全集があり、しかしもっとも気になるのは武満徹全集で、手にとってみると裏に記されている表題が、「音、沈黙と測りあえるほどに」とか「音楽の余白から音楽を呼びさますもの」とかいちいち格好いい。振りむいたうしろには日本文学の全集が並べられ、なによりも金子光晴全集が気になる。音楽の棚をつづけて見ると、シューベルトの手紙、モーツァルト書簡全集がなぜか三巻目のみ、シューマンブラームスの書簡、グールドの大きな伝記、バーンスタイン自伝、ピアソラ自伝、『回想のジョン・ケージ』など興味はつきず、ポピュラーミュージックのほうではジャズの伝記が意外と少ない印象だったがそのなかにサン・ラー伝があったのは、こんな本が出ているのはまだしも邦訳されているのか、という驚きがあった。デレク・ベイリーの本を買ってくれないだろうか? ところで先の全集の棚の横には漫画が集められていて、大島弓子自選集かヨコハマ買い出し紀行かを借りようかとも迷ったけれど、結局は向かいの棚から高橋悠治カフカ/夜の時間』、フルトヴェングラー『音楽ノート』、『歌の翼、言葉の杖 武満徹対談集』を手に持ってしまい、こうしてまたプルーストが遠ざかるわけだが一体どうしたことか? 読みたくないのだろうか。いや、この世におもしろそうな本がありすぎることが悪いのだ。国立科学博物館のレストランでMさんが言ったことを思い出す、人生五百年くらいあればなあ、そんで、最初の百年は小説、次の百年は音楽、とかできたらええのに。
 歩道橋を渡らず、映画館の横を右に折れたところで下におりた。道に出ると沈みはじめた太陽がまっすぐ目を刺した。高度を落として地を撫でるように放たれた光が背中に宿り、陰が増えたぶん、陽のなかにいると余計にあたたかいようにも思われた。ディスクユニオンに行こうと思いついたのは図書館でブルースディスクガイドみたいな本をぱらぱらとめくっていたときで、自然な思いつきというよりは、図書館に寄っただけで帰るのもなんとなく退屈だ、とすでに四時は過ぎたというのに感じている自分にたいして無理やり用事をつくってやったようなものだった。やめておいたほうがいいと一方で思っていたのは行けばまた金を使ってしまうに決まっているからだ。どういうわけか財布に一万五千円も入っていたのもまずかった。Mさんと会った日にも新宿でCDを買ってあれからまだ十日くらいしか経っていないのだ、三枚かせいぜい五枚におさえよう、と交差点で信号を待ちながら言い聞かせてみるけれど、そんなたったいま取ってつけたような決意が通用する場所ではない。実際店に入れば、ブルースを見に来たというのにそこに行くまでにあるジャズの新着棚で立ち止まってしまい、すぐに二枚拾っている。ジャズはそこでストップして、多いとはいえないブルースのCD群を隅から隅まで眺めまわした。Buddy Guyがやはり有名で比較的数も多いしなぜか安いので、四枚拾った。Stevie Ray Vaughanはブルースではなくてロックのほうに置かれていて、ライブ盤と『Texas Flood』を拾った。その他に五枚拾って計十三枚、七千円を費やして外に出たときには、充実感もあったものの、欲望をおさえきれなかったときの苦い味がわずかにまさっていた。棚のあいだにいるときの自分は一体なにに導かれているのだろう? なにが欲望をあんなにもかき立てるのか? 大きめのビニール袋を左手に下げて交差点を渡ると、右手につづく車道の向こう、ビルの合間にひらいた空間にすっぽりおさまった落日が視界を白く染めた。渡りきれば陽は隠れて、寒々しいビル陰のなかを駅まで歩いた。『肝心の子供』を読む電車のなか、気づかないうちに夕方は進んで、ふと目を上げれば窓外は水槽のなかにいるような薄青さだった。地上が空と同じ色に染まる時間に、彼方では最後の光がいままさに地平の向こうへ逃げていくところだった。地元の駅で降りたころには空から光が失われるとともに地上との均衡も破られ、空気は青さを通りこして夜にむかいはじめていた。
 夕食後、Fritz Reiner & Chicago Symphony Orchestraの「新世界より」を流したが小澤征爾のものとどう違うのかまったくわからない。メモする時間がなかった図書館から帰宅までのことを、明日になれば忘れてしまうと先に日記につづった。またCDを買ったことだし、棚の上に積まれているやつらを片づけなくてはならないが、片づけるにしてもデータをすぐに参照できないといけないのでEvernoteに記録しておく必要がある、というわけではじめたわけだがこれにも時間がかかるものだ。最初に手にとったMarcos Valle『Samba '68』のせいでボサノヴァの軽さが恋しくなったからFritz Reinerを中断してこちらに変え、終わるとボサノヴァつづきでAntonio Carlos Jobim『The Composer of Desafinado, Plays』を流してひたすら曲目とかパーソネルとかその他諸々を記録した。Craig Taborn『Junk Magic』のジャケットのアートワークがわりと好みで、Stephen(Steve) Byramという人らしいが、世には才能のある人間が腐るほどいるものだ。十時をむかえたのでさすがにヘッドフォンをつけてBrandon Ross『Costume』を聞きながら作業を続行し、途中から棚よりもまずは机の上だと思ってそちらに移行したが、十一時半までかけてもその半分ほどが片づいたに過ぎず、先は長い。明日が比較的早いこともあってさっさと寝ることにした。PCのモニターを見つめながらじっと座ってずっとカタカタやっていたせいか、身体にも頭にも疲労があってこれはすぐに眠れそうだなという感触だった。横になって電気を消して『族長の秋』を無声音でぼそぼそとつぶやいて覚えているところまでつぶやき終わるとすぐに意識が溶けていった。