2014/3/22, Sat.

 起きられるか自信がなかったが問題なく七時半に起床して、久しぶりに朝食らしい時間に朝食を食べた。やわらかいサバの煮つけをご飯と一緒に口に含むと、甘じょっぱさが米を包み、ふっくらと溶けて非常に美味だった。途中から母がブロッコリーをゆではじめて、弾力のあるそれをまだあたたかいまま食べることができた。部屋に戻り、Derrick Hodge『Live Today』を流しながら昨日に引きつづきCDのデータを記録し、整理しよう――とはじめたところで早速上階から呼び出しがあり、行ってみれば床の間の掛け軸を外してくれという。わりと大判のそれはもともとうちにあったものだったか、それとも寺のほうから借り受けたものだったのか、ふくよかな仏の姿が描かれていてなんとなくやんごとない。上がってきたのだからとついでに髭を剃った。電動髭剃りというものをいまだに使ったことがなくて、いつもは風呂に入るときに一緒に剃ってしまうが昨日は忘れていた。肌が弱いので剃刀負けをして鼻と上唇のあいだに赤い点がぽつぽつと生まれた。はやめにと思って寝間着からワイシャツと礼服のズボンに着替えてようやく作業をはじめた。しかし時間は少なく、『Live Today』と『Ellington At Newport 1956』の二枚を記録したところで歯を磨いて上着を着た。祖母の四十九日の法要の日だった。
 まっさらな青空を飛行機がゆっくりと横切っていくと陳腐だと思いながらもやはり魚のイメージが思い浮かんだけれど、米粒大の機体に陽が反射してそれ自体がひとつの光点となるのを見てそんな比喩はどうでもよくなった。信じられないような思いがした。地上何千メートルか知らないが、そこまで視線をさえぎるものはなにもなく、車の前面に跳ねるのと同じ光があのはるか彼方からこの小さな瞳に届いているのだ。空気が揺れるごうごうという音は泳いでいく飛行機のあとを追うように、少し離れた空から響いてきた。父が墓を磨き、息子がまわりを箒ではいて掃除を終えると、K.Hさんと奥さんがやってきた。それを皮切りに続々と人が集まり、みな鯉がいる池のそばに集まってなんとなくのまとまりをなしていた。父方の祖母とO.Sさんが一緒にやってきた。Sさんと会うのは前回会ったのがいつだったか思い出せないほど久々だったけれどそれに気づいたのはのちのことだった。不思議だった。柔和な笑みは変わっていないし、特に老けたところも見受けられなかったからだろうか? そう、いつ会ったのか思い出せなくても、彼の顔はどういうわけか明快な記憶として保存されていた。その記憶と目の前の顔との齟齬がなかったために、再会までの長い歳月に思いいたらなかったのだ。
 十一時から坊さんと一緒に経を読み、焼香をして、骨壷を持って墓へ移動した。並ぶ人々のあいだを姿勢を低くして忍者のように素早く動く業者の人が線香を配ってくれた。墓のかたわらで僧侶の親子が経を読み、親戚連中が線香を供えていくなか、おじいさんのときは暑くてねえ、と母が言った。覚えていた。お坊さんの頭が汗かいて光ってて、と母は笑った。それも覚えていた。墓誌に彫られた戒名のなか、いまは祖母のものだけが真新しく白いが、やがて他の名前と同じ色にくすんでいくのだろう。みんなで会食をした。たいして親しくもない親戚とべらべら話すようなこともないけれど、正面に三鷹に住んでいるZさんが座っていたので気まぐれに、このあいだ太宰の墓見てきたんですよ、全然普通の墓で見過ごしちゃう感じですね、向かいには森鴎外の墓もあってこっちのほうが立派でした、と言うと、そういう方面に興味があるのか、と聞かれた。どう答えるか困りながらも、まあ小説ばかり読んでますね、日本より海外文学ですけど、とかなんとかつぶやいたら隣に座っていたKさんが、英米文学とか、どういうの、と聞くので、ヴァージニア・ウルフとか、と言えば、よく知らないなあ、と笑ったあとに、ホーソーンとか、モームとか、などと言ってくる。まずもって海外文学は英米だけではないのだけれど、この人はよく知らないが多少インテリらしく、中途半端な知識をひけらかすわけではないが開示しなければすまないみたいなところがあることには以前から気づいていた。別にこんな場で文学の話などしたいわけではないし、その後はぽつぽつとどうでもいい話をしたり黙ったりして終宴をむかえたけれど、隣に座っていたYさんが、うしろで盛り上がっている旦那さんに向かって、お父さん、もう帰ろうよお、と声を上げたのは笑った(その後もしばらく食事はつづいたのだが)。このおばさんも昔は活気ある人だったのに、何の病気か知らないが身体を壊してからは、その笑みが、まわりの人々に世話されることを常に申し訳なく思っているような弱々しく卑屈めいたものに変わって、足だけでなく手指もうまく動かないようで隣で食事にもいくらか難儀しているからお汁の蓋を外したり、皿を手元に持っていったり、帰りに車いすに移動するときは体を支えた。Yちゃんが池の前でぼけっと日向ぼっこするのもわかる陽気で、この青空と陽光のもとではすべてのものが輝き、玉砂利の上でふと振りかえった母の見慣れた顔でさえ、過去の思い出を目の前にしているような奇妙ななつかしさをともなって見えるのだった。
 何をしたわけでもないが妙に疲れていた。茶を飲んでゆっくりしていると頭の重さに耐えかねてテーブルの上に突っ伏した。これはだめだ、布団で寝ようと思いながらもその場を動く気になれず、そのままいくらかうとうとしてから立ち上がり、やはり寝よう寝ようと思いながら風呂を洗っているとしかし身体を動かしているあいだに目が覚めてきて、寝ている暇などない、とおのれを叱咤してCD整理作業にとりかかった。『Mingus At Carnegie Hall』を流しながら机の上にあったCharles MingusのCDを記録し、Led Zeppelin『Coda』を流しながらやはりZeppelinのCDも二枚記録して机上のCDはあらかた片づいたけれど、Mingusの七枚組ボックスが残っていて、さすがにこれはつづけてやる気にはならなかった。そもそもこんな馬鹿丁寧に、曲目とか作曲者とか録音日時とかスタジオとかエンジニアの名前とか記録しておく必要があるのか? そんなことはAllMusicにでもまかせておけばいいのではないか? もう気力も尽きかけていたが、明日また立川図書館へと行くつもりなので、そこで返さなくてはならない三枚だけは最後に終えた。疲れを慰めるためにThelonious Monk『Solo Monk』をかけようと思いながらトイレに行き、出ると上階から呼びかけられて兄の部屋のカーテンを閉めてくれと言われた。薄暗い部屋はカーテンを閉めればさらに暗くなったが、片隅においてあるエレアコが目についてベッドに座って暗がりのなかでOasis "Married with Children"を弾き語った。
 『Solo Monk』を流しながら七時半までかけて昨日の日記を完成させるあいだ、茶の残り香と空腹がまざって車酔いのような気持ち悪さを発生させた。気分を落ち着けるために先に風呂に入り、夕食をすませ、Gal Costa『Hoje』を流しながら『肝心の子供』を読み終わった。再読しつつまず感じていたのは以前の印象よりも物語していたなということで、エピソードで進んでいくところや、冒頭である時点を先取りしておいてから直後に遡って語っていくやり口が『百年の孤独』に似ていないと言えないこともないのかもしれないが、文章自体はとりたててマルケスに似ている感触はなく、もっとも違う点はおそらく内面の扱い方で、磯﨑はマルケスよりもはるかに人物の内面に寄った書き方をして、自由間接話法(という用語を日本語に使うのは正しいのか知らないが)もふんだんに用いる。もうひとつには啓示が意外とさらりと書かれていたということで、三九から四三頁の風景から啓示に向かっていく場面はおそらくこの小説のなかで最大の見せ場のひとつと考えられるが、方向づけはなされているものの、啓示の瞬間にむかって緻密に組み立てていくという感じではなく、啓示そのものもあまり強く書かれてはいない印象を受けた。最後に細かいところだけれど気になったのは、七九から八〇頁の次の一節だった。

 こう仮定することはできないだろうか。ビンビサーラは物心ついたときから以降もうまもなく臨終を迎えるいまに至るまで、途轍もなく長い、ひとつながりの文章をしゃべり続けている。途中には話題の転換や逸脱、休憩が入ることはもちろんあるにしても、彼がいま語っている事柄は常に、なんらかの形でそれ以前の話を踏まえたものにならざるを得ないのだから、それは長い長い一本の文章を語っているのと同じことではないか。だが、そこでラーフラは思い直した。これは人生の時間が途切れなく続いていることのたんなる言い換えに過ぎない。彼はふたたび人間の人生が過去でできていることに思い当たった。どんな時間でも過ぎてしまえば、人間は過去の一部分を生きていたことになるのだけれど、ここで不思議なことは、今このときだっていずれ思い返すであろう過去のうちのひとつに過ぎないということなのだ。だから、という繋がり方はラーフラにもうまく説明はできないのだろうが、ビンビサーラもまた生き続ける、彼が話し続ける限り死ぬこともない。

 最後の文の「という繋がり方はラーフラにもうまく説明はできないのだろうが、」という挿入が余計ではないかという気がして、というのは、読者への目配せめいているというか、これがあることによって論理の飛躍に説明を加えることになっているようで、飛躍の唐突さ、強さみたいなものをいくらか弱める結果につながっているのではないかと感じた。