2014/3/25, Tue.

 六時に目覚めても起きるのは九時になった。朝食をとって、昨日の日記を片づけた。いいかげんな態度でしか書けなかったことは情けないが、その日の日記がきちんと書けるか否かというのは日記を書くそのときではなくて、一日を過ごしているあいだにすでに決まっている。何かを見たり何かをしたときに、頭のなかで言葉が生まれているか、いわばその場で下書きができているか、それがポイントだけれど、どうしても言葉がやってこない日というのもまたある。日記を書いたあとは地元の図書館で借りた二枚のCDの情報を記録し、寝間着からジャージとジーンズに着替えた。床を見ればほこりがそこかしこにたまっていて、射しこむ光のなかにも塵が浮かび、服を広げる動きで舞い踊った。あさましいありさまではあるけれど、掃除をしている時間はない。Charles Mingus『Tijuana Moods』『Mingus Dynasty』と流しながら窓際で『失われた時を求めて』第三巻を読みはじめた。はじめのうちは白い光が本の上に反射して目を細めていたけれど、近づいた瞼がそのまま閉じ合わさり、しばらくうとうとしてから覚めるともう陽は窓枠の方へ後退していた。ちょうど手前を棕櫚の木にさえぎられていて見にくいが梅の木が満開で、横に広げ出た細い枝の先まで花がいっぱいについていた。音楽が終わったのを機に上階に上がり、風呂を洗い、仏壇の花の水をとりかえた。仏壇の手前にはさむように置かれた二つの花瓶には黄色と白の菊の花が刺さっており、持ち上げると漢方薬のようなにおいが漂った。細長い壺形のものは持ちやすいが、ガラス製の花瓶はどっしりと重く持ち手もないので手が滑らないよう気をつかった。時計を見ると十二時で、家を出るまであと一時間半しかなかった。再度プルーストを読んでから風呂に入った。浴槽から立ち上がった湯気の柱はやがて崩れて浴室全体に広がり、鏡や時計の表面を曇らせ、かたちをなくした湯気の動きを窓から入りこむ光が照らしだした。磨りガラスには外の木や空の色が淡く広がって、その向こうから鳥の声が聞こえてきた。鳴き声はほとんど一匹のもので、フレーズを変奏していく音楽家のように、ひとつの鳴き方をはじめては三、四回繰りかえして別の鳴き方に移るというふうにして多彩な鳴き声を披露し、それが途切れるわずかなあいだ、他の鳥も呼応するように控えめに鳴いた。
 陽射しが首すじをあたためて熱が体全体に広がっていくと前髪に隠れた額や背中がうっすらと湿り気を帯びたようで、時折り穏やかに吹く風が心地よかった。こんな陽気の日に労働に向かうなんて人間の本性に対する裏切りだとしか思えなかったが、いい天気だいい天気だと空を見上げてばかりいたらいつの間にか職場に着いていた。
 空いた一時限のあいだに図書館に行った。Michael Hodges『Oracle』とくるり『言葉にならない、笑顔を見せてくれよ』を借りた。新着図書には黒田夏子『感受体のおどり』があって、以前も見かけていたけれど今回冒頭を少し読んでみた感じこれは多分おもしろい本だろうと思われた。丸山健二『千日の瑠璃』も以前見かけていてやたらでかい本だという印象しかなかったが、こちらもめくってみたところ、「私は~~だ」からはじまり末尾に日付が記されている二ページが一日分で、それが「私」の視点を変えて(ハードカバーだと上下巻で)千日分集められている、そういう小説らしく、これはこれで魅力的に思われた。下階はまだそれなりに人がいたが上階は静かで学習机を埋める人も残りわずか、足音や人の動く気配が何の抵抗もなくフロアを伝っていった。帰り際、文学論や文芸批評の類いが集まっている棚をじっくりと眺めたが驚くほど読みたくなる本が少なくて、せいぜい松浦寿輝丸谷才一高橋源一郎あたりはまあ読んでおいてもいいかと思った程度だった。
 帰宅して夕食をとって風呂に入ればもう十一時を過ぎていて、日記を書く気にもならずうだうだしつつも、寝る前に英文を書こうと高橋悠治カフカ/夜の時間 メモ・ランダム』の一節を訳しはじめたがそう長くもない一段落に時間がかかってしまい終わるのは零時半を過ぎた。