2014/3/30, Sun.

 疲れていたけれど律儀にストレッチをこなすくらいの気力は残っていて、ベッドに入ってからも『族長の秋』をぼそぼそとつぶやいたが全身に重力がかかるように薄く広がった疲労のなかで意識は薄れていき、途中で声が出なくなっていつの間にか眠っていた。ひどい寝坊をして起きたのは十一時過ぎ、寝る前の疲れをそのまま持ち越したような身体のかたさがあった。口のなかがねばねばした上に下唇の裏に二つもできた口内炎が乾いて、なめるだけで痛みを発して苛ついた。チャーハンとスープを食べながら日記を読みかえし、磯﨑憲一郎言うところの「世界の盤石さ」を感得したかのような恍惚体験をした九月四日の記事だけは残して、それ以外は十月後半まで削除することにした。無批判きわまりなく自意識の発露そのものみたいな堕落した自分語りからだんだんと脱却していることは見てとれるけれど、まだ残しておくほどの質には達していなかった。昨日に引きつづいてJobimを流しながらプルーストの書きぬきを進め、つづけてArt Blakey Quintet『A Night at Birdland』を再生して一時半に作業を終えると、図書館で借りた二枚のCDの情報を記録してからBGMをくるりに移してそのまま昨日の日記を書いた。くるり『言葉にならない、笑顔を見せてくれよ』を聞きながら書き終えたのが三時前で、ついでに今日の日記もここまで書いた。メモノートの残りがいつの間にかかなり薄くなっていて、(……)に行ってまた買ってこなければならないことに気づいた。
 風呂場の扉をくぐった瞬間から漂白剤のにおいが鼻を刺して、浴槽の脇においてあるカビ取り剤が活躍したらしいとわかったけれど、その成果はわからず、見慣れたくすんだ浴室の壁だった。窓を細めにあけると清涼な外気が流れこんで、薄靄の動きが激しくなった。湯につかりながら柴崎友香『ビリジアン』のような空気の小説をひとつ書きたいと思いついた。あの軽さと淡さのままもう少し細部に入っていくようなものが書いてみたかった。出て、昨晩アイロンをかけるよう言いつかっていたことを思い出し、しわのついたワイシャツ四枚を片づけた。歯を磨いて洗面所の鏡の前で薬を飲んだとき、口を少しあけただけで下唇の中央にある口内炎が見えることに気がついた。赤い唇のなかでそこだけグロテスクに白く、見ているせいで余計に痛みが増すようだった。
 雨はやみ、首を傾けると青空が見えはじめていた。頭上では均質な灰色が一面に広がるばかりだけれど、南に目をやれば、彼方に向かって巨大なひとつひとつの雲が色を暗めながら段になって連なっているのが見て取れ、それらが一体となって這うように、山の上へのしかかるように西へと動いていた。林に入るとカラスがけたたましく鳴き、盛ったような猫の声も聞こえた。光の射しはじめたほうへ林のなかをのぼり、細い道から抜けだすと、雲間から太陽があらわれ出ていて、アスファルトは薄く雪が積もったように真っ白だった。おとといはまだ大半がつぼみだった桜は見事に花開き、ほのかな薄桃色を帯びた白い明かりが隙間なく灯った様子はそれこそ木が雪をまとっているようで、まわりを囲む空気の水っぽい青がそこだけ濃く見えた。薄灰色の大気を割って西空から射した光は、いまだつややかに濡れる家屋根や、水をはじいて乾くのを待つ車のフロントや、涙のような草露のことごとくに宿り、電車が進むにつれて光もそれらの上を滑るように流れていった。西陽のなかを白髪の老婦人が歩くと、うしろでくくったその髪の黄みがかったすじまであらわになり、耳から揺れる金色のイヤリングがちらちらときらめいた。デパートの壁には太陽が手を伸ばして空を映し出し、その手が窓にまで達してやわらかな光が広がると、透きとおった緑のガラスと青空が溶けあって、風に揺れる木々を映すさわやかな夏の川めいた色に染まった。
 ジャズのCDはあらかた借りてしまい、ロックも同様、邦楽にはあまり興味がわかないとあっては、必然足はクラシックのほうへと向いた。はじめて気に入ったのがドヴォルザークだからこの作曲家をとにかく知ることにして、今日もGeorge Szell & The Cleveland Orchestraが交響曲第八番をやったものと、かの有名なHerbert von KarajanがWiener Philharmonikerを指揮して同じく八番にくわえて九番をもやった音源を含むアルバムを借りることにした。四月いっぱいでプルーストを読み終わりたいなどとひと月前は思っていたけれど現状を考えるに無謀な望みで、『失われた時を求めて』は一冊ずつ借りて毎日少しずつ、ゆっくり読んでいき、その一方で他の作品にも手を伸ばすことに決めた。新着図書には変わらず黒田夏子『感受体のおどり』があったが、まずは芥川賞をとったやつからにしようと『abさんご』を手に取り、そして近年の古井由吉も何かしらのヒントを含んでいるような気がしていたので、『蜩の声』も借りた。学習席に座ってフルトヴェングラー『音楽ノート』のわずかに残っていた断章を読み終わり、その後におさめられている論考はまたの機会を待つことにした。『歌の翼、言葉の杖 武満徹対談集』を読みはじめた。ふと顔を上げると紺色のパーカージャケットをはおった若い女性が目に入った。歩き方ひとつとってもすらりとした姿形が流れるようにきれいで、棚の前にしゃがんでなめらかな髪を片手でおさえ、首をわずかにかしげた姿はゆったりとやわらかさをたたえていた。
 飲み会を終えて帰宅するのは日付が変わってからになった。昼間に茶を飲みすぎたのか食欲がなく、ジンジャーエールを飲んでサラダを食べただけで満腹どころか腹痛がしはじめ、その後はほとんど何も食べずに生姜の香りがする炭酸水をちびちびとやっていた。それでいて帰宅をすれば空腹を感じてカップ麺を食べているのだから自分の身体がわからなかった。文学の勉強をしたくてフリーターをしている、いずれは小説を書きたいと思っていると発表すると、同僚の一人が、いとこに小説家がいるんですよ、文藝賞をとったんです、などと言い、文藝賞ってあの文藝賞かと思いながら告げられたその名前を帰宅後検索してみると、たしかに芥川賞候補にもなっているような作家で驚いた。