めずらしく七時半に起きた。キッチンの狭いシンクの上には皿に焼き鮭が三つ重ねてあって、それ以外におかずになるものは見当たらなかった。ごぼうがなぜかゆででざるにあがっていたが、そのままなんの加工もされていなかった。冷蔵庫をのぞくとパックに唐揚げが残っていた。納豆が目について久々に食べることにした。食事をしながら磯﨑憲一郎『往古来今』をわずかに読んだが、食べながら本を読むのは行儀が悪いという以前にただ難儀で、本をひらいておくために食事はしにくいし、頻繁に皿のほうに目を移すために読書はしにくく、どちらも中途半端になってしまうのだった。
Joe Zawinul『Faces & Places』を流して昨日の日記をつづり終えると九時半前だった。もともとフュージョンと呼ばれるジャンルが(アコースティックなジャズに比べて)あまり好みにはまってこないことにくわえて、Zawinulの無国籍フュージョンみたいな音はそのなかでも特にいまいちぴんとこず、決して悪くはないけれど退屈したのでCarpentersのベスト盤にBGMを変えた。そうして三宅誰男『亜人』ボット化をすすめた。当然ながら蟹の場面の完成度を断片化することなどできるはずもないが、ここを読むためだけであってもこの作品を入手する価値はありすぎるほどにあった。これに比類するものとして思い当たるのは『族長の秋』の彗星の場面くらいだし、言葉の緊密さ、読者を高まる緊張感に惹きこみ引っ張っていく流れの強靭さでいえばそれをも上回っているとも思われた。すべての小説を書く人間、小説を愛する人間はここを読むべきにちがいなかった。
Eric Harland『Voyager: Live by Night』を流し、ベッドの上でストレッチと腕立て伏せの姿勢をくりかえして身体をほぐした。ティッシュを一枚敷いて手の爪を切ってから今度は実際に腕を曲げては伸ばし、上体をあたためると『族長の秋』を音読した。リビングに上がってシャツやエプロンにアイロンをかけ、時間がはやいので風呂はわかさずにシャワーを浴びた。歯磨きしながら「キュー植物園」の訳を確認していると、例の神経質なこだわりが出てきてモニターの前から動けなくなりそうだったが、強引に断ち切って出勤した。
茫漠とした白さが折り重なって空全体を埋めていた。薄く褐色がかったコンクリートの上に、空より透きとおった白さの桜の花びらが泡のように散らばっていた。断ち切ったはずの思考は容易に断ち切れず、九分八厘くらいは完成したと思われる冒頭の段落、終わりの一文がはまりきらず、右手に傘を、左手に手さげかばんを持ち、心中でぶつぶつと反芻しながら歩いていると、名前を呼ばれた。元生徒だった。落ちたと聞いていたが二次募集で受かったというので安心した。別れてからも思考をつづけ、どうやら解決策らしきものが見えた。
帰宅して五時ではまだ米も炊けていないが、食パンを焼いて昨日切ったキャベツのあまりとともにさっさと夕食をすませた。Kew Gardensの朗読音源を流してシャドーイングした。Art Pepper『Live at the Lighthouse 1952』のノイズたっぷりの音をバックに『失われた時を求めて』第四巻を読みすすめた。
風呂に入ろうと洗面所の電気までつけたものの、寝間着を忘れたことに気づいて部屋に戻ると、この少し前から感じていたけれど、ギターをとにかくかき鳴らしたいという欲望が一気に噴出して、the pillowsなんかを流してコードを鳴らし、歌い、終わっても衝動はおさまらず、ピックを持った人差し指がこすれて痛むのもかまわずに、弦よはじけよとばかりに狂ったようにかきむしった。それから風呂に入って、入浴前にちらりと眺めたテレビで演歌を歌っていたものだから、youtubeで"天城越え"と検索し、出てきた動画をいくつか視聴した。
十時をまわってようやくKew Gardensを訳しはじめた。音楽はMasada『Live In Sevilla 2000』を選んだ。Mさんとやりとりしながらすすめているといつの間にか日付が変わっていて、どういうわけかはじめるころからあらわれていた脚の筋肉痛がいや増すばかりだったので眠ることにした。二時間かけて四文くらいしかすすんでいないのは異常だった。とりあえずこんなものだろうという訳をつくってさっさと先にすすむということができず、わかっている単語でも英英辞典まで使っていちいち意味を調べ、おのおのの順序、節のつなぎ方などを考え、自分にとってもっとも好みの日本語を模索してしまうのだった。日記を書くときよりもはるかに言葉にこだわっていた。