2014/4/10, Thu.

 光のように薄く引きのばされた雲が山の上に帯をなして走っていた。あちらでは満開の桜はこちらではすでに花を落とし、清々しいほどの白よりむしろ、生えはじめた葉の緑と花がらの紅色が混ざりあったそれのほうが春らしかった。陽の光は透明なまま空間をただよってパーカーの内側に入りこみ、汗をにじませた。駅のホームで日記を下書きしている指先になにか触れて目を上げると雨の粒が視認され、上空には灰色の雲もあったが、ほんの二、三滴だけ落ちてあとは消えた。Bill Evans Trio『Portrait In Jazz』を聞いた。高校生の下校時間とあって電車内には女子高生の一団がそこここに座り、それを逃れるように先頭車両に行けばこちらは男子高校生が向かいあって我が物顔に座席を占領し、彼らがのばした足のあいだを通って一番前の席に座った。むかいには足を組んだまま眠っている男がいた。耳と唇の色が濃く、顔も全体に赤みがかっているのは胸元に持ったビール缶のせいらしかった。酒が入っていても目的の駅に着くと目を覚まし、バッグを自分の右手に置いて一息入れるとゆっくり立ち上がり、まだ半分寝ているような目つきで降りていった。電車内では高校のころのことをそろそろ小説に書くべきだとそのことばかり考えていた。
 Patricia Barber『Verse』とBill Frisell『Look Out For Hope』を早々に選んだあとはロックの棚を眺めて『1969 Velvet Underground Live with Lou Reed』に決めた。そのあと本を借りるつもりもなかったはずが、足が美術のほうへ向いて色々と見たあげくに結局は四冊も借りてしまった。図書館を出て日記を下書きしているとビルのあいだを風が吹きぬけ、いつの間にか緑の葉をつけた街路樹を揺らした。風は強く、叩きつけるように吹き、ともすれば身体をよろめかせるほどだった。本屋へと足が向いた。車道に沿った高架歩廊から見下ろすと、傾きはじめた陽の光が道を淡く彩っていた。本屋ではクラシックの本や美術の棚などを見つつもなにも買わなかった。欲しい本を買えるほどの金がなかった。
 悪魔のように目が大きい男とすれちがった。単に大きいだけではなくて全力をもって見開いているように顔がこわばっていた。エスカレーターを降りるとホームには妙に人が多かった。電車が遅れているらしかった。端を通って先のほうへ行き、人の隙間に身体を落ちつけた。隣には地味な色のギターケースを地面に立てている男がいた。Godinとあった。視線をのばすと、驚くほど明るく透明な光を受けたビルがあり、彼方の空は青のなかにわずかな菫色を含んでいるようだった。磯﨑憲一郎『往古来今』をリュックから取りだして読みはじめ、電車に乗ってもつづけた。扉際に陣取れず、顔を上げても落ちていく陽は見えないが、家屋根や窓ガラスのことごとくにオレンジの光が姿をあらわすのを見た。前にいる女性は胸元に携帯を引き寄せ、片手で画面をしきりにつついていた。茶髪のショートカットで顔は伏せぎみの見えないが、首元の皮膚がかさついて色が濁っていたのはアトピーらしく、しばしば手をやってはこすったりおさえたりしていた。
 改札を抜けたと同時に光が目を刺した。彼方に入り陽がぽっかりと浮かび、窓際に立つ女性や出口でティッシュを配る男の顔をぼんやりと赤く染めた。手にさげた小奇麗な紙袋とは不釣り合いに男性の外見はくたびれていて、髪はぼさぼさ、目には生気がなく、ティッシュを女性に渡そうとする様子にはいくらか悲壮なところさえうかがわれた。左手にあらわになった太陽に照らされて雲のふちはオレンジの光を帯び、色が溶けあって紫の層をつくると、残りは青くたなびいていた。夕陽をちらちらと見ながら歩くとまぶたの裏に光が残って、まばたきする一瞬のたびに緑色の点があらわれた。
 Vaclav Neumann & Czech Philharmonic Orchestra『Dvorak: Slavonic Dances Op.46 & Op.72』とClaudio Abbado『Debussy: Pelleas et Melisande-Suite』を借りることにした。新着図書にはロベルト・ボラーニョ『鼻持ちならないガウチョ』とゼーバルト『鄙の宿』があった。(……)でも本を借りたしまだ手をつけていないものが二冊あって読みきれるとも思わないが、とりあえずボラーニョは借りておくことにした。それから小説の参考のために柴崎友香をなにか借りようと思ったが、ぱらぱらとめくった感じ、『ビリジアン』と同じような書き方の作品はないようなのでまたの機会にした。代わりに高橋源一郎『さよなら、ニッポン』を借りることにし、貸出機のテーブルに本とCDを置いて4と押すが、三つまでしか借りられないと出て冊数の超過に気づいた。ボラーニョをもどすことにしたのは単に高橋をもどすためにまたフロアを歩くのがわずらわしいだけだった。図書館を出るとすでに陽は沈んで、紫色の淡い煙がわずかに太陽の痕跡をとどめているのみだった。