十時に起きた。鍋のなかでかたまったビーフシチューをとかして食べた。Tさんと昼食だからそれだけにした。『1969 Velvet Underground Live with Lou Reed』を流して、(……)で借りた三枚のCDの情報を記録した。Bill Frisellが"Remedios the Beauty"という曲をつくっていた。白いシーツに包まれて空の彼方に消えてしまった小町娘のレメディオスのことだった。歯をみがきながら『族長の秋』を読んだら胸がどきどきした。いつもそうだった。家を出るまで三十分もないのにギターを弾いてすぐに置いた。誰かと合わせたかった。前にスタジオに入ったのがいつか思いだせなかった。水色のうすいパジャマのまま腕立て伏せをして、何度も屈伸した。ひざを曲げるたびに骨が鳴った。外がくもっていたから、シャツの上にジャケットをはおった。タオルを入れにベランダに出たら空気に湿りけがあった。
家を出たころから少し陽が射してきた。雲はうすくて、でも空は白かった。駅前の桜はもう葉っぱで、その隣の木にうっすら桃色の花がひらいていた。満開で、わた菓子みたいにふっくらしていた。手がしびれているみたいなじわじわした感触があった。起きたときから気づいていた。爪のつけ根からはじめて手全体をもみほぐした。ホームの花壇の土にユキヤナギが散らばっていた。雪よりも小さかった。電車のなかで持ってきたプルーストを読む気にならなかった。目をつぶって音楽を聞いていた。Pat Metheny Unity Groupだった。車いすの人が駅員の助けを借りずに乗ってきた。小さくジャンプするみたいに前の二輪を浮かせて入り口の段差をこえて、びっくりした。
(……)はいつだって人が多い。土曜日だからなおさらだった。こんなに多くの人たちのひとりひとりに時間のあつみが宿っていると思うと不思議だった。ビルのガラスに写った自分の姿にも宿っているはずだった。風はほとんどなくて、街路樹のまるい葉がゆらゆら揺れた。ホテルの横の広場の木が花をつけていて、立っている歩廊の近くにのびていた。薄紅色より濃いピンクの花びらが四枚で、中心の実みたいなもののまわりを白いすじがかこんでいた。ホテルの石の壁は光を反射して、白い空がそのなかにとじこめられた。
CDをかえした受付の女の人はきびきびした動きで、唇が暗くて赤かった。松永貴志『Today』をえらんだのはドラムがEric Harlandだからだった。Elis Regina『Essa Mulher』をえらんだのはボサノヴァを知りたいからだった。あとひとつはなにも知らないけれどなんとなく目についてTape『Revelations』にした。写真集の棚を見てまわって、『エドワード・スタイケン モダン・エイジの光と影 1923―1937』と、長倉洋海『人間交路』と、『ロベール・ドアノー Retrospective』を借りた。リュックに入れたら一気に重くなって、人間を背負っているみたいだった。トイレにいって鏡を見ると顔が青白かった。左手も変に白かった。人の群れのなかを駅までもどった。街だなあと思った。町ではなくて街だった。歩廊から駅前広場に入るところで犬や猫に支援をたのんでいる人たちがいた。いつもいる女の人がいた。鼻が高い人だった。声を聞いたのははじめてかもしれなかった。澄んだ細い声だった。駅に近いところで盲導犬支援の募金をやっていた。この人たちもよくいた。壁画前に行くと、Tさんはもういた。やせたけれど顔色はよくなっていた。駅ビルの一番上にいった。どの店も人が並んでいた。少し待ってお好み焼き屋に入った。おしぼりはぬるかったけれどお好み焼きはおいしかった。久しぶりに食べた。水がなくなるとすぐにつぎに来てくれた。Mさんの話をして、世の中おかしいと思った。
喫茶店にいこうといった。図書館にいく途中の(……)のカフェは満員だった。もどってLOFTのむかいのカフェに入った。レジカウンターには何人も人が並んでいてあいていないと思ったら一階が二席あいていた。二階も見にいってあいていないから降りたら、一階の席はとられていた。激戦区だった。ファミレスにいこうとTさんがいった。モノレールの線路が通る下の広場にあった。いくと、窓際にずらりと並んで座って待っているのが見えた。(……)は人が多すぎた。しかたないから広場を歩きはじめた。IKEAができたんですよ、とTさんがいった。
「IKEAってなんなの?」
「わからん」
家具屋だと聞いたことがあった気がした。よくわからないけれどいくことにした。広場はたくさん人が歩いていて、その人たちもIKEAにいくみたいだった。空は白と灰色で、雨が降りそうだった。チューリップが咲いているそばで小さな女の子が母親とじゃれあっていた。スピーカーを持ってきて音楽を流しているDJみたいな人がいた。IKEAが見えてきた。青と黄色の原色で、ばかでかかった。壁に大きな紙がかかっていて、家が楽しくなる、とか書かれていたからやっぱり家具屋で、でもすごく大きいからモールみたいになっているかもしれないし、カフェぐらいありそうだったから歩きつづけた。
祭りみたいな人出だった。入って左側にドリンクバーみたいなものがあって、みんな紙コップを持ったりソフトクリームをなめていたけれど、人が多すぎてせまかった。奥もとにかく人が多くてなにがあるのかよくわからなかった。右側のエスカレーターで二階にあがった。エレベーターの前をすぎて、家具の展示も素通りして、通路をとおってレストランカフェにいった。だだっ広くてそこが全部うまっていた。顔を見合わせた。かえろう、とTさんがいった。この人たちはほんとうにみんな家具を買いに来たり見に来たりしたのかわからなかった。
風が吹くなかを歩いてもどって、駅正面の通りにあるカフェバーみたいな店に入った。ジンジャーエールをTさんにたのんだけれどジンジャーエールはなかったからココアを買ってきてくれた。昔の話とか人間形成の話をした。日記を書くようになって自分ががっしりしたといった。
「自分は自分だし、みたいな感じになりました」
「Fさんはそういう感じするわ」
「だからどういう席でも黙って座っていられるようになりました」
東山魁夷の話もした。Tさんは少し前に国立近代美術館にいった。残照っていう作品があってめっちゃでかいんですよ、といった。前に借りた作品集で見たことがあった。最初のほうにのっていたから初期の作品で、たしかまだ少しごつごつしていたやつだと思った。クレーの作品もひとつあったといったから、近いうちにいくと決めた。
駅の前で別れてから買い物を思いだしてビックカメラにいった。母校の制服を着た高校生とすれちがった。電気屋は空間が全部白くてまぶしかった。変な明るさだった。ヘッドセットを買って帰った。電車のなかでは少し日記の下書きをして眠っていた。知らないうちに頭が下をむいていて何回か目をさました。地元につくと駅の電灯の光がかすんでいて、雨が降っていた。
風呂に入って、夕飯を食べた。駅の桜の横に咲いていた花のことを母に話したらハナミズキじゃないの、といった。携帯で調べたら、それは(……)のホテルの横に生えていた花だった。じゃあ八重桜だというから調べたらそうだった。花びらが紙花みたいに重なって咲くのを八重咲きというと知った。食べ終わると九時で、テレビで『長いお別れ』がはじまった。ナレーションが余計で、いきなりはじめればいいのに、と思って、それでドラマはオープニングをつくって、これからはじめますよ、とわざわざいうと気づいた。音楽はけっこうよくて、たぶん大友良英あたりだと思った。最初のシーンで建物から走って出てきた女の人の怒った声が不自然だった。皿を洗いながらそこまで見た。
自分の部屋にいって日記の下書きをした。一時間半かかった。まだ昨日の日記も書いていなかった。昨日のことは下書きしなかったからもうおぼえていなかった。すぐ書き終わって、歯をみがきながら『族長の秋』を読んだ。HさんとSkypeで話してから寝た。