2014/4/20, Sun.

 Patricia Barber『Verse』を流して昨日の日記を書いたら二時になった。歌をうたいたかったからscope『自由が丘』をかけてうたって黒田夏子abさんご』を書きぬきした。音楽でメールに気づかなかった。三通入っていて、母からで、全部たけのこをとろうと書いてあった。長靴をはいて外に出た。家の右前に借りている土地があって、昔は祖父が車をとめていた。竹林に接していて、林のふちで近所のSさんがたけのこをとっていた。ふたつうちにくれた。隣のTさんから借りたくわを受けとって林をのぞいたけれど、見あたらなかった。自治会の会合にいっていた父がちょうど帰ってきた。斜面を少しのぼってみてもほとんどない。竹を次々につかんでのぼっていくと子どものころを思いだして、でももう子どもではなくなったから少しこわかった。父もあがってきて、子どもみたいにひょいひょいのぼるからこっちがひやひやした。頭を出していたのをひとつだけとってもどった。根元のほうに紫色のぼつぼつした粒がうめこまれていて、ぞわぞわするほどグロテスクだった。
 Bill Charlap Trio『Distant Star』を流して書きぬきをまたはじめた。受け身が多いことに気づいて、そうすると客観的になるというか、距離が生まれることにも気づいた。むすびを読んだら自然と涙なにじんだ。小説というものはどうしてこうもおもしろいんだろうと思った。まだまだ読める。それから図書館のCDの情報を記録して、CDを借りすぎじゃないかと思った。本も読めていなかった。それなのにまた図書館にいくことにした。ジャージから着がえて上にあがるとお客さんがいた。見おぼえのあるようなないような夫妻で、Yさんだよと母がいった。兄の同級生の家だった。兄の同級生の弟とは小学校五、六年のころ少しなかがよかった。旦那さんのほうはほとんど会ったことがないけれど、子どもと顔が似ていた。奥さんは図書館の職員だった。これからいこうとしていた中央図書館ではなくて、反対側の山のほうにある分館で、昔は母の車に乗ってたまにいった。漫画があってよく読んでいた。スラムダンクをはじめて読んだのはたぶんそこだった。いまも職員をしているのかは知らなかった。祖母の葬式のことを話していたからあいさつだけして家を出た。気分がうわむくらしい薬だけ飲んで、安定剤は飲まなかった。
 暗くて灰色の四時半だった。電車は山帰りの人たちでいっぱいで、入った途端ににおいと熱気がせまってきた。扉のまわりに小学生があつまっていた。電車がゆれて女の子が身体によりかかってきて、見おろすとふくれっつらをしていたから笑った。電車が遅れていて、おりたホームは人の列ができていた。逃げて先頭にいった。なかなか電車がこなくてみんなうろうろしたり、あきれたみたいに笑って電話をかけていた。ホームのむかいの小学校では子どもたちがサッカーをやっていた。そこからはなれてフェンスにひとりでもたれている女の子がいた。屋上のむこうにある森は新緑だった。Danny Grissettを聞いていたら思ったよりも待たずに電車がきて五時には発車した。席に座って日記を下書きした。
 空はほとんど全部白かった。山のほうはだんだん青くなっていて、山がその青さを吸っていた。おなかがすいていたから寒かった。群像をぱらぱらめくった。大江健三郎賞の発表とか、古井由吉の小説とか、大西巨人追悼とかがあったけれど、蓮實重彦の映画時評だけ少し読んだ。映画を見たいけれどまだ手が出せなかった。CDはなにも知らないけれど『Lord Newborn & The Magic Skulls』と、ドヴォルザークシューベルト弦楽四重奏が入っているやつにした。本は柴崎友香『ビリジアン』を借りて、あと一冊は黒田夏子『感受体のおどり』は重いから別のを探した。海外にしようと思った。棚の前で立ったりしゃがんだりするとふらふらした。安定剤を飲んでいないからだった。頭に熱がこもって、肩もこっていた。もう一冊は結局イヴ・ベルジェ『南』にした。文学に興味を持つ前になんとなく借りて、全然読めなかった。小説を読みはじめて何か月かしてからまた借りて、やっぱりわからなくて、読みおわる直前でやめてしまった。今度は読みきる自信があった。借りて階段のほうにいくと、老人が静かな図書館なのに鼻歌をうたいながらあがってきた。
 隣のデパートのスーパーにいった。日曜日だからいつもよりうるさかった。売り子の声があちこちから響いた。バナナを売る人がうまくて舞台の上で演劇しているみたいだから、おばさんがのせられて買っていた。お茶とチョコを買った。レジの前の人はかごいっぱいになるくらい買っていて、茶髪でショートカットの女の人でうつむいていたから、はやくしろと思っているだろうなと思っているみたいだった。
 Lord Newborn & The Magic Skullsのライナーノートを読んでいるとヘッドフォンがこわれた。右側のスライドさせてサイズを調節するところがはずれた。ヘッドバンドから出ているうすい板をくわえるみたいに接合していたところが口をあけていた。押したらかちりとはまってとじるけれど、広げるとまたあいてしまって、セロテープをぐるぐる巻いたら、一応とまった。
 おなかが減って意識がふらついた。薬を飲んでいないから余計だった。そういう日はいつも夢のなかにいるみたいでうまく息ができなかった。夕食をすませて少しは落ちついて、風呂に入っているときもつねに気をつけていた。『Jeff Beck's Guitar Shop』を流して、『失われた時を求めて』の五巻目を読んで一箇所書きぬいた。あたらしくつくる予定のブログタイトルを考えて、ゲーテの格言の原文を探したり、過去に読んだ本からの引用を見かえしていたらあっという間に十一時をすぎた。こんなことをしている場合ではなかったし、作品を書いてから考えればよかったのに、楽しくて茶をついでまた考えた。So What?というブログ名はなにも考えずに決めた。きっとそのころ『Kind of Blue』をよく聞いていただけだった。日記だから"Come Rain or Come Shine"のほうが合っている気がしてきた。