2014/6/21, Sat.

 五時半にアラームが鳴って目ざめた。リビングにはまだ誰もいなかった。窓の外はあいまいな明るさで、太陽が雲に隠れていた。たしか卵を焼いた。たしか野菜スープがちょうど一杯分残っていた。食べていると、目の前のテーブルにぼんやりと光が投げかけられていることに気づいた。後ろを向くと、カーテンの向こうに白い太陽が浮かんでいた。
 八時前には出なくてはならなかった。時間がないから日記は帰ってきてから書くことにした。かわりに『失われた時を求めて』七巻を読んで、読み終わった。ミシェル・レリス『幻のアフリカ』も読んだ。歯をみがいて、ワイシャツとスラックスに着替えた。ネクタイはつけなくてもいいと昨日メールが届いたけれど、なんとなくつけることにした。上の洗面所で石鹸のにおいがする液体をからだにふりまいた。すぐ横を通ったときににおいが強いんじゃないと母にいわれたけれど、いつも風に流されてまぎれるからたぶん大丈夫だった。
 土曜の朝だから地元の駅はほとんど人がいなかった。もう少し出勤姿があると思ったけれど、自分だけだった。Walter Smith Ⅲ『Live In Paris』を聞いた。降りてホームの先のほうに行って乗り換えを待っていると、同僚がやってきた。いっしょに行くのかどうか一瞬迷って、いっしょに行く流れだと判断して、イヤフォンを外した。あいさつしてあついな、とかなんとかいったら、やっぱりネクタイをつけているんですね、といわれた。同僚はいまは外していた。迷ったからまわりに合わせることにして持ってきたといった。ずいぶん時間がはやいというと、現地で迷いそうだからはやめに来たらしかった。道がわからないから会えてよかったといった。こっちもなんとなくしかおぼえていないけれど、複雑な道のりではなかった。同僚はまだ入ったばかりだから、はじめての研修でおおげさに不安がっていた。こっちは朝から出かけるのは面倒だとばかり思っていた。
 適当な会話をして三鷹まで行った。同僚はこっちが大学時代に働いていたときは生徒で、中学二年だった。去年こっちがもどってきたときは高校三年で、この春に大学に受かって生徒から講師になった。前回三鷹に来たのは三月で、風が吹いてまだ寒かった。今日は陽が照っていて暑かった。まだ朝だから駅前は人が少なかったし、並ぶ店もひらいていないものが多かった。まっすぐ行って適当なところで曲がれば行けるから、といった。そういうところ嫌いじゃないです、といわれた。
 迷うこともなく無事について、三時間研修を受けた。
 前回行った古本屋に今日も行くつもりだった。コンビニでおにぎりを三つとみかん味の水を買って、入り口のごみ箱の横でたったまま食べた。古本屋は隣の隣だった。時間をかけてほとんど隅から隅まで回った。日本文学と海外文学の並びは二度見た。読みたい本は色々あるけれど、買いたい本となるとそこまでなかった。ロレンス・ダレルが書いた現代詩についての本が気になった。文芸誌「海」の古い号がたくさんあって、蓮實重彦の「物語批判序説」が載った号は買おうか迷ったけれど買わなかった。ゼーバルトの『アウステルリッツ』の原語本があったけれどドイツ語は読めないし、三千円くらいした。古井由吉『円陣を組む女たち』だけ買った。六五〇円だった。途中で立ち寄った女の親子連れの母親のほうが、ゲゲゲの鬼太郎の絵本があるとかなんとか騒いで、その本かわからないけれど一冊買っていた。
 暑かった。駅までもどるあいだ、すでに足が疲れてからだが重かった。喫茶店で休むのを面倒だと思うくらいの気力はあった。駅前のデパートに入って用を足した。トイレのある階に本屋があったから少しだけ見た。エスカレーターを囲む通路の途中に、みすず書房法政大学出版局の復刊本が並んでいた。レヴィ=ストロースのなにかがあった。タイトルは忘れた。「言語・数・貨幣」みたいな、それは柄谷行人だけれど、三つの言葉を並べたやつだった。『存在と時間』のでかい注釈書があって、一万二千円だった。ヘーゲルの伝記があった。あとは忘れた。隣には桜桃忌といって太宰の命日だから著作が揃えられていた。
 駅の反対側に出て、もうひとつ知っている古本屋にいった。店の前にある百円の棚を長い黒髪の女性が眺めていて、風が吹いて髪が揺れた。右側の文庫が集まった棚は女性が見ているから、左側の棚を眺めた。井上光晴の小説がいくつかあった。前回この本屋に来たときにこの人の全詩集を買った。なかに入ると、少しStyle Councilみたいな、ジャズとソウルとポップスを混ぜた感じの音楽が流れていた。なめるように見てまわった。古井由吉がたくさん集まっていた。日本文学の棚は比較的古いものばかりで、初版本も多かった。小島信夫の『月光』と『釣堀池』は前回来たときに買おうかどうか迷った。中上健次『鳳仙花』があった。島尾敏雄のヨーロッパ紀行があった。これはさっきの本屋にもあった。俳句・短歌はまだ手を出せない。詩は知らない人ばかりだった。瀧口修造がいくつかあった。平出隆のきれいに包装された二巻本があって、四千円くらいだった。批評や思想系は現代思想がいろいろ集まっていた。フィリップ・アリエス『子供の誕生』が少し欲しかったけれど高いからやめた。フーコーの単行本が並んでいて、『性の歴史』が一から三まであった。海外文学に特にこれというものがあったかおぼえていない。デザイン系の画集だか雑誌だかが並んだ一角に馬鹿でかいアンディ・ウォーホルの日記が置いてあった。千ページくらいあった。高いと思ったら裏に五百円のシールが貼ってあって、ほしくなって少し迷ったけれどやめた。パウル・クレーの書簡集もほしかったけれど高いからやめた。無限のなんとかいう黒い本も上下巻で置いてあった。ダリの日記があった。幻想文学の棚を見ているときに、高齢のおじさんにあついね、と話しかけられた。無言でうなずいた。こんなに暑いのにきちんとネクタイをしめていてえらいとかなんとかいわれて、いやいや、と笑った。おじさんはビールを飲んできたとかなんとかいっていた。フランクな人で店の外にいた女の人にも話しかけていたし、たぶん他の人にも話しかけていた。若い店主の人と三島由紀夫が死んだ年がどうのこうの、とかしゃべっていた。
 とりあえず古井由吉『白髪の唄』は買うことにして、蓮實重彦『表層批評宣言』も手元に置いて、全体を見てまわったあとでまた古井由吉に戻ってきた。全集に入ったり復刊されていないかをいちいちアマゾンで検索して調べて、『陽気な夜まわり』『親』『明けの赤馬』『魂の日』を追加した。たぶん全部初版本だったけれど、特に初版に興味はない。あとツァラ詩集が千円だったからそれも買うことにして、レジに持っていった。全部で四八〇〇円だった。一万円出した。いま五千円札を切らしていて、と千円でおつりが来た。出て、店の前でみかん味の水を飲んだ。もう一度百円の棚を見て、さっき見ておもしろそうだった辻邦生『嵯峨野明月記』も買うことにした。百円だから箱の角が茶色く薄汚れていた。
 四時前だった。前回もたしかこのくらいの時間になった。あの日は店を出て駅に向かうあいだに見た空が数時間前よりもうすく透きとおったように感じて、傾きはじめた陽の光が道路脇に停まった配送業者のトラックにぶつかって側面がまぶしい銀色に輝いていた。今日の空もたぶんあの日と同じような淡い色で、あの日よりも雲は多いけれどうすいからまだ明るくて暑かった。足首が痛くてひどく眠かった。帰りの電車は途中で座れたから助かった。座ってすぐに意識がなくなった。
 帰ってからも眠った。五時半くらいに眠って起きるともう部屋は暗くなっていて、七時半だった。あがって素麺を食べた。風呂をはさんで前日の日記を書いた。細かく下書きしたからだいたいそれを写すだけだったけれど、八千字弱あったから時間がかかった。そんなに書いたのは久しぶりだった。夕方に寝たから日付が変わるころになっても眠くならなくて、上にあがってカレー味のカップラーメンを食べた。深夜のリビングで蓮實重彦『表層批評宣言』を読んで、三時くらいに眠った。