2016/6/20, Mon.

 九時を回った頃に目が覚めた。悪夢めいたものを見たらしい。高校かどこかの教室で、クラスメイトから疎外されるような類のものだった。細かい部分は忘れてしまったが――記録するにあたってはその細部が面白いはずだったのだが――、周りの同級生たちが論理的・因果的にまったく理解できないような言語使用をしてこちらを迫害したはずで、まるで人間ではないものが中途半端に人間のふりをしているような、その怪異じみた得体の知れなさの感触がわずかに残っていた。外は、白に近い、淡青の空である。眩しさに瞳を慣らして、ちょっとうごめいてから身体を起こし、洗面所に行って顔を洗うとともに用を足した。戻ってきて瞑想をしたあと上に行き、風呂を洗ってから卵を焼いた。味噌汁や大根の煮物や酸っぱいサラダとともに食事を取り、他人のブログを読んで一〇時を回ったあたりで室に帰った。蕎麦茶を飲みながら諸々の記録を付けたり、インターネットを回ったりしたのち、以前のメールアドレスを覗くと、哲学をやっている知人から久しぶりに連絡が来ていた。最近始めたというブログを教えてくれていたので、ちょっと覗き読みしてからブックマークしておき、そうして一一時近くから書き物を始めた。普段は出先で集中して書くのだが、この日は人と会う予定があったので、その前にできるだけ仕上げてしまおうというわけだった。Duke Ellington『Ellington at Newport』を流して綴り、無事に出発までに間に合って前日の記事を仕舞えることができ、この日の分もさらに書いて一一時五〇分、そろそろ出る時間だった。服を着替えて荷物をまとめ、上階に行って出発した。この頃には空に晴れ間があって薄陽が射していたはずで、熱が身体の周りに漂って囲むのを、抱きしめられているようだと思った記憶がある。街道に出て聞きはじめた音楽は、Antonio Sanchez & Migration『The Meridian Suite』だったはずだ。しかし大して耳に意識を寄せもせず、この日会う知人が書いた小説のことや、また話にあがる予定のローベルト・ヴァルザー『盗賊』のことなどについて、散漫に思考を巡らせながら裏通りを進んだ。ほとんど汗だくになって駅に着くと発車間際の電車の先頭車両に乗り、レヴィ=ストロース川田順造訳『悲しき熱帯Ⅱ』を読みはじめた。組んだ脚の上に新書サイズの中公クラシックスを置きながら読んでいたが、路程の半分ほどまで行ったところで眠くなったので、本をしまって左側にもたれた。そうして立川である。大方の客が出るのを待ちながらまどろみから覚めた頭を整え、降りて階段を上がった。便所に行ってからホームを替えて、空いていたので席に座れて、また読書をした。音楽はこの時既に、B.B. King『Live at the BBC』か、その次の『Live at the Regal』かに移っていた。それで中野まで文字を追いながら過ごし、降りると乗り換え、大学時代もよく使った通路をたどって、総武線の番線に上がった。人はいない。空は雲が浸透して、ミルクをふんだんに混ぜたカフェオレめいて香るように柔らかな淡青で、その下を中央線の橙色が差しこまれた電車ががたがたと、視界の先に伸びて進入していき、直後に東西線青い車体も地下から出てきて、より大きく固い音を立てて入線した。広々とした空気に身を晒していると、まもなく電車がやってきたので乗り、また本を読んで到着を待った。代々木で降りると、ちょうど待ち合わせの二時頃だった。西口にいる、と相手からメールが入っていた。本を小脇に持ち、ホームを歩いて通路に下りると、そちらは別の口に行くほうだったので、またホームに上がって反対側に戻り、目的の改札に到着した。壁を背にして立っている相手の姿は、水色の薄手のシャツにショートパンツと、非常に夏らしい涼やかな装いだった。近づいていって挨拶し、このあいだ会った時は休みだった店に行ってみましょうかとなって、歩きだした。手に持ったレヴィ=ストロースに相手が触れるのに、面白いですよと返しながら歩いて、通りを渡って裏路地に入った。狭い道をうごめく通行人に、車が容易に通り抜けられず苦慮しているなかを進み、ウラジーミル・ナボコフの小説と同名の店に着いた。ややくすんで艶は落ちているが、正面のガラスの枠がどぎついような赤に塗られた外観である。入って、四人掛けのテーブルを占め、カウンターに立った。若い女性の隣に、アジア系の褐色の顔があるのは、メニューにスリランカカレーがあるところでは、彼の国の人なのだろう。日本語がわりと使えるようで、こちらがジンジャーエールを頼んでから、ランチメニューを見て迷っていると、ジンジャーエールはランチのセットには含まれないことを指摘してきたので、ひとまず飲み物だけにした。それで席に就いて向かい合い、もう六月も終わりですねとか何とか交わしたあと、ローベルト・ヴァルザー『盗賊』の話を始めた。どんなことを話したのかは、忘れた。面白かったというところでは当然一致して、その後多少分析的なことを述べた。その時に、語るほうと語られるほうのどちらが主なのかわからない、むしろこの盗賊の物語の存在は語り手の饒舌なお喋りの単なる口実であるかのようだというようなことを言い、さらに、記述の何らかのあり方が、語り手と盗賊の同一性の曖昧さと対応しているように見える、というようなことを、その場で思いついて述べたはずなのだが、それがどういうことだったのか自分でもその理路が思いだせない。その次に、『フェリクス場面集』も非常に面白かった、特に個人的にはフェリクスが梟に向けてひたすら独白している場面が最高だったというようなことをさらに話した。店内には、天井近くの角に取り付けられたスピーカーから、The BeatlesやらThe Rolling Stonesやらの曲が繰り返し掛かっていた。途中で相手の小説の話になり、感想を述べたあと時計を見ると、三時一五分頃だった。それからまた『盗賊』の話に戻って、この盗賊の物語は非常に断片的に語られている上に、そのそれぞれが秩序を持って連関していないから全然覚えられない、そもそも事実関係の細部がひどく曖昧で、申し訳程度の大枠しか把握できないようになっている、この物語を時系列順に整序しようとしても、できないように書かれているのではないか、戦略などなく、ほとんど手癖だけで書かれているように見えるが、長く書き継いだ末にただ書くだけでこんな風になったのだとしたら、やはりすごいものだとか交わした。ほかに天邪鬼的な詭弁だとか逆説的な論理の使い方が頻出するということも話したのだが、会話の途中、こちらが声を出している時に、すぐ近くの席に座っていた女性二人のうちの一方が、我々のテーブルのほうを振り向いてじっと見つめるような様子をしているらしいのを、視界の端でとらえ、それと同時に周囲に会話がないことが意識されて、自分の声が沈黙のなかに妙にくっきりと響いているような感じがした。何だろう、文学について意気揚々と語っているのを、変な奴だとでも思われているのだろうかと考えながらも、実際にはこちらを見ているのではなくてただの自意識過剰だろうとも思ったのだが、しかし妙な空気は漂い続けているようで、向かいの相手もそれを感じ取ったのだろうか、視線を落として恥ずかしげにはにかみ、いささか歯切れ悪くもごもごとものを言っているように映った。そのうちに女性が顔を前に戻して、あちらでも会話が再開したのだが、あの瞬間は一体何だったのかよくわからない。話が途切れた合間に、どこか行きますかと相手が言って、どこかありますかと受けながら、入口のガラスの向こうに髪を染めた若者たちが行き交うのを眺めてみたりもするのだが、結局決まらずにそのまま居座って雑談を続けた。相手が六時から横浜で用事があるというので、五時には出ましょうと言って話し続けているあいだに、嫉妬とかするんですかと、妙なような質問をされた時があった。嫉妬というのは、文章関連なのか、それとも恋愛についてなのか、と訊いて、どちらでもと言うのに、文章のほうだとあまり嫉妬と言える類の感情を覚えた記憶はないと答えた。うらやましいと思ったり、それこそヴァルザーのように書きたいと思ったりは当然するけれど、どちらかと言えばそれよりも、自分とは違う分野の人のほうを、自分が知らない面白さをたくさん味わっているのだと考えて、もっと強くうらやましく思う、と述べ、音楽とかと相手が添えるのに肯定し、ほかにも演劇とか美術とかと加えた。それから、恋愛のほうは経験がないので、と茶化して笑ったあとしかし、いままでで唯一女性に惚れて好意を告げた数年前の機会のことを取りあげて、その時意中の人には恋人がいたのだが、しかしあの時もそれほど明確に嫉妬をしたような記憶はないな、付き合えないということはわかっていたし、自分の気持ちがすぐに冷めるだろうとも思っていたので、と話した。それからまた小説の話をしたなかで、相手が、日用品のような小説を作りたいと言ったのが、印象に残っている。生活のなかで日常的に使うもののように、気軽にちょっと手に取っては断片的に読んで味わうことのできるような、というようなことを話すのを聞いて、こちらのほうもそれはいいなと思ったのだった。それで五時を迎えて退店すると、始まったばかりの夕暮れ時に、西陽がまだ輝きを保って高層ビルの立つ空に浮かび、粉のような橙色の光が通りに射しこんでいる。道を行きながら見上げると、青さは澄んで明瞭だった。駅に入って番線を分かれる前に互いに挨拶し、便所に寄ってからホームに上がった。山の手で新宿に行き、乗り換えると、疲れが際立った。おそらく行きに、夏の陽射しのなかを汗をかきながら歩いたためである。それで扉際でややうとうととしながら、Bill Evans Trio『The Complete Village Vanguard Recordings, 1961』を聞き、立川で降りた。乗り換え先の発車が間近で、これは間に合わないなと思いながらだらだら歩いて、エスカレーターでホームに下りていくと、間に合いはしたが、電車が結構いっぱいになっている。座って眠りながら帰りたいからと見送って、ベンチに座ったが、このホームから出発する電車、つまり座れる電車はしばらく来ないらしい。それだったら立川の街に出てCD屋でもうろつくかと思った。Fred HerschやBrad Mehldauが新譜を出しているはずである。それに腹もまったくの空で、ラーメンでも食べたい気分でもあった。しかしうろつくとどうしても金を使ってしまうので、迷いながらも、とりあえずラーメンだけは食べることにしよう、そのあとのことはまた考えようと決めて、階段を上がった。ところが改札前の空間まで来て、六時かと時計を見たところでまた足を止めて、通り過ぎていく人波のなかで迷った挙句、空腹は水でも飲んでおけばよかろうと帰宅することに決断して、またホームに降りた。立川発の電車ではないので座れなかったが、その頃には眠気も大方散っていた。結構混むもので、リュックサックを足のあいだに置いて席の前に立ち、音楽を聞きながら待った。目の前の扉際には、黒人の巨漢が二人並んでいる。一人は爪楊枝を口にくわえて髭を生やした眼鏡で、もう一人は半袖のシャツから出た左腕にタトゥーを施していた。二人が話している時に、イヤフォンを外して会話を盗み聞きしようと試みたのだが、どちらも声が低く、つぶやきのように喋っていたこともあって、全然聞き取れなかった。到着すると降りて乗り換え、最寄りから夜道をたどって、帰宅したのは七時頃である。室で服を脱ぐと疲労のためにベッドに転がって、他人のブログを読むかレヴィ=ストロースを読むかしたのだと思う。瞑想は怠けてそのうちに食事を取りに行って、風呂にも入って、出たのがメモによると八時半過ぎだった。下着一枚で扇風機の前に座って、NHKの『鶴瓶の家族に乾杯』に竹中直人が出ているのを眺めた。それから室に戻り、窓をあけるためにカーテンをひらくと、満月が我が身を包む雲も巻きこんで、燃え立つような朱色を広げてぼやけていた。相変わらず疲れていたので、また寝転がって携帯電話で他人のブログを読み、その後、コンピューターの前に移って、知人への返信を考えた。ちょっと綴って、一〇時前からロラン・バルト石井洋二郎訳『小説の準備』の書き抜きを一箇所することにした。蕎麦茶を注いできて口を潤し、Duke Ellington『Ellington at Newport』をバックに文章を写したが、七ページ分あったので時間が掛かり、終えると既に一一時前だった。新聞を持ってきて歯を磨きながら読み、その後ふたたびメールの返信を考えたのだが、うまく書けないので中途半端に中断して、インターネットに逃避した。それが零時半頃だったはずだ。そこから二時過ぎまでワールドワイドウェブを逍遥し、その後ベッドに移って『悲しき熱帯Ⅱ』を読んだ。瞑想だけはしようと、二時四七分から始めて一〇分間座ったのち、消灯した。