覚めるのは一〇時を回る頃になった。最近の日々のなかでは比較的早い時間に眠ったのだが、頭痛のためか、かえって長く眠ることになった。しかもすぐに身体を起こさず、しばらくまどろんだあと、さらに携帯を持ってだらだらとウェブを回り、一〇時台を通り抜けて一一時に入った。そうしてようやく起きて、洗面所に行ったあとに戻ってくるとなぜか隣室でギターを弄ってしまい、それから自室で瞑想、一一時三二分から四二分である。窓のほうからかすかな暖気が肌に伝わって、爽やかな様子だった。それから上に行き、母親に挨拶して、台所に素麺が茹でてあったので、汁を用意した。自治会か何かの用事で出かけていた父親も、ちょうど帰ってきたところだった。冷凍されていた天ぷらも熱して卓に就き、新聞をひらいて読みながら食べた。食後に父親が買ってきた醤油団子を、母親と分け合って食べ、卓上にあった食器をすべてまとめて片付けて、蕎麦茶を持って室に下りた。一二時半頃だっただろうか。前日の新聞をひらいたのだが、特に写したい記事も見当たらなかった。そうするとこの時間で何をすればいいのだろうかと立ち迷うようになって、さっさと外出に向かえば良かったのだが、しばらく無駄な時間を過ごしてから、書き抜きをするかと決めた。ロラン・バルト/石井洋二郎訳『小説の準備』である。Edward Simon『La Bikina』をヘッドフォンで聞きながら、一時頃から三〇分ほど打鍵した。そうして次に、ベッドに寝転がって、村尾誠一著『和歌文学大系25 竹乃里歌』を読み、二時を回ってから閉じて、服を着替えた。帽子を被り、薬を一粒飲んで上がり、風呂を洗ってからアイロン掛けをして、出発したのがもう三時に近い頃だった。坂を上っていくと、陽射しもなく空気に動きもあるが、じっとりとした大気の質感で自然に汗が滲んだ。街道に出ると、Blankey Jet Cityのベスト盤を流しはじめ、裏通りをてくてく進んでいった。ぴったりと嵌まる目的地が見つからないのだが、ひとまず立川に出るつもりだった。Brad MehldauとFred Herschの新譜が欲しかったのだ。あるいは中古CD屋に行って、Richie Kotzenの近作や、Paul MotianやAntonio Sanchezなどの参加作を探してもいい。しかしどちらにせよ、金を使うのが勿体ないと思う気持ちもあった。書き物をするだけならば、図書館か、ハンバーガーショップで済むのだが、図書館は日曜日で席が空いてなかろうし、ハンバーガーショップも前日行ってまたこの日も行くのは、何となく煩わしいようで、別の場所に行って気分を変えたい欲求があった。それでとりあえず立川に行くことは行って、喫茶店で書くだけは書いて、CDを買うかどうかはそのあとにしようと考え、駅に着くとちょっと待ってから来た電車に乗った。車内では村尾誠一著『和歌文学大系25 竹乃里歌』を読み、立川に着くともう四時である。改札を抜けて人波のあいだに出ると、早速帰りたいような気分が湧いた。広場の植えこみを囲む段には、若者が多数腰掛けており、参院選の候補者のポスターを示した掲示板の前には、車椅子も含んだ老人たちが数人集まって、指差しながら話をしていた。歩廊からエスカレーターを降りたところで、脇の車道に公明党の候補の選挙カーが差し掛かり、ひらいた窓から助手らしき人間がにこやかに顔と手を出していたが、道を歩いていた親子連れ三人のうちの母親と、もう一人、高年の女性がそれに向けて手を挙げ振り返していた。といって、おそらく支持者というわけではないだろう。喫茶店に行き、階を上がり、カウンターの一席にリュックサックを置いた。それで飲み物を買いに行こうとしたところが、トレイを持って席を離れ、退店に向かうカップルがいたので、彼らの発ったあとの、室の角の一席に入り直した。それでグレープフルーツジュースを買ってきて席に就き、コンピューターを取りだすのだが、背後のテーブルに集まっている女性たちの話し声が、ひどく騒がしい。河に大きな石を投げこんだ時に立ちあがる水柱のように、突発的に跳ねあがる笑い声がとりわけ頭に響くようで、また喫煙室に行き来する人々が後ろを通るのすら煩わしく、わざわざ人の多い場所に出てこなくてもよかったのではないかと、後悔した。日曜日というのは、まったくもって行き場のない曜日である。家には両親がおり、街には群衆がいる。イヤフォンを付けてEdward Simon『La Bikina』で耳を塞ぎながら、ただ静かに一人になれる場所はないのかと自問したが、自分の手の届く範囲には見つからないようだった。この時代にあっては、孤独の安息さえも、金で買わねば手に入らない、贅沢な特権物なのだ。それで四時半前から、文を綴りはじめた。『La Bikina』は録音レベルが低いようで、雑音を十全に防いでくれなかったので、終わるとRobert Glasper Experiment『Black Radio』に移した。前日の記事は五時二〇分頃仕上げて、それからまもなくすると、波が引くように店内から人が減っていき、周囲のテーブルはほとんど空になった。音楽は『Black Radio 2』に繋げながらこの日の分を書いて、六時一〇分過ぎに切りを付けた。それから、レヴィ=ストロース/川田順造訳『悲しき熱帯Ⅰ』の書き抜きに取り掛かった。文を画面に落とし、さらに他人の文章も写しているうちに、目に疲労が染みはするが、いつの間にか気分が平静に落ち着いているのを感じた。Robert Glasperが終わったあとは音楽を、Egberto Gismonti『Solo』に移したが、店内のBGMが聴覚に混ざるのが気になったので、音量の大きいEldar『Virtue』に変えた。それで八時過ぎまで打鍵して、切りの良いところまでたどり着くとコンピューターのバッテリーが乏しく、画面がブラックアウトする寸前だったので、帰ることにした。退店して、CD屋に行ってもいいのだが、足がそちらを求めずにまっすぐ駅に向かった。人の熱気と風が空気に混ざって、ぬるさと涼しさのあいだを瞬間ごとに往復する、心地良い夜だった。駅に入ってホームに下り、ベンチに腰掛けて『竹乃里歌』を読みながら電車を待った。電車が来ると、立って待っていた人たちが我勝ちに乗りこんで行って、端の席を取れなかったので、扉際に立った。そしてBlankey Jet City『C.B.Jim』を聞きながら読書を続け、着くと乗り換えて少し待ち、最寄りに降り立った。電車を出た瞬間に、立川よりも涼しさの勝っているのが感じ取られた。駅を出て、途中、参院選の掲示板前に立ち止まって、ちょっとポスターを眺めながら、夜道をたどって帰宅した。父親は飲み会に出掛けていて、母親が一人で居間のソファに座り、韓国ドラマを眺めていた。自室に下りて、窓を開けて瞑想したのが、九時三九分から四六分までである。そうして居間に上がり、ジャガイモとハムの炒め物をおかずに米を食うと、母親が風呂に入っていたので一旦室に帰った。知人のメールに、まだ返信をしていなかった。短くまとめて受けようと思っていたところが、書くことを思いついてしまったので、文を画面に落としはじめて、一〇時半頃に入浴に行った。メールの内容を考えながら湯を浴び、頭と身体を洗い、一一時頃に出てくると、蕎麦茶を飲みながら返信の続きを綴った。零時にはコンピューター前を離れたかったところが、しかし思考をいまのうちにすべて言葉にしておきたいとの欲求が勝って、結局一時半まで掛けてひとまず完成させた。翌日推敲するつもりでまだ送らず、ベッドに移って『竹乃里歌』を読んだ。二時を回ると眠ることにして、瞑想である。胡座をかいて瞑目で静かに呼吸を繰り返しながら、耳の届く空間の縁に帯を成す川音を聞いていると、窓の外で、おそらくカラスだと思うが鳥が突然、濁点まみれのひどくざらざらした音色で、盛った猫のような鳴き声を立てたのでびっくりした。遠くと近くに二匹いるようだった。場所をだんだんと移しながら、しばらくのあいだ何度も繰り返し鳴いて、やがて声が届かなくなって、こちらも瞑想を解いた。時計は二時二四分、瞑想の時間を手帖にメモして、そして消灯である。
e) こうしたすべてのことにもかかわらず、文をひとつの人工物[﹅3] artefact とみなすことは可能である(cf. 後述箇所、最後の問題)。
メモ書きに戻ろう → ラテン作家たちは三つの連続する動作を行なった : 1) ノターレ[﹅4](メモをとる)。2) フォルマーレ[﹅6](書いておく――最初に浮かんだことだけでもいいし、非常に詳細なプランだけでもいい)。3) ディクターレ[﹅6](常に人前で読まれるためのテクストを書く) → メモ書き[﹅4](私が思い浮かべるような)においては、ノターレ[﹅4]とフォルマーレ[﹅6]の圧縮がある : ノタチオ[﹅4]の唯一の確実な点は、(よく練った)文を構想する(想像する、思い描く、作り出す)ことだ。(ディクターレ[﹅6] : 訂正文となったもの : タイプ書きへの移行という形で客観化すること)。
手帖[﹅2]の概念(たとえば、仮想の作家の手帖)の意味するところはただ、重要なのは必ずしも目ではなく(私はペンカメラの例を出したが、この喩えは誤っている)、ペンなのだということである : ペン - 紙(手) → 手帖=観察 - 文 : ちょっとした手の動きから、見られかつ文にされたもの[﹅12]として生まれるもの。
ここにひとつの「哲学的」問題がそっくり見られる : 人間主体はただ「話す」ものとして、ことばを話せるもの[﹅9]として定義される : ということはつまり、それは話すことしかできないということ、いつも話してばかいくらりいるということだ ; 生きること、それは話すことである(外的にであれ、内的にであれ)。無意識の水準では、生と言語を対立させてみても意味がない : われ話す、ゆえにわれあり(何者かが話す、ゆえにわれあり) → しかしさまざまなタイプの人間から成る集合の中には、教育によって、感性によって(社会階級によっても)、文の領域[﹅4]である文学の刻印[﹅2]を受け取っている人々がある → この水準で見れば、最も能動的で、最も自発的で、最も真摯で、さらに言えば最も野蛮な意味にお(end171)いて生きること、それは私たちに先立って存在するさまざまな文の生の―ー私たちの内にあって私たちを作っている絶対文の―ー諸形式[﹅3]を受け取ることである → 区別すること : 書物のように話すこと≠書物として、テクストとして生きること。
したがって、文学的あるいはテクスト的想像界[﹅15]とでも呼べるものを研究してみる余地があるだろう(しかもこれは広大な分野になるだろう、「良い」文学にはいっさい限定されないのだから) : 「想像力」(冒険する子供たちのようにお話を作り出すこと――あるいはファミリー・ロマンスのテーマ)が問題なのではなく、文[﹅]を媒介として自我[モワ]のイメージを形成することが問題なのだ → ファンタスムと文の関係 : たとえばエロティックな(あるいはポルノグラフィー的な)テクストの問題、エロティックなファンタスムの(ファンタスム化された実践の)文[﹅] : サドと文、従属節。
→ 最も危うい、最も取り返しのつかない意味において、その生が(文学的な)文によって形成され、造形された[﹅9](遠隔操作された)登場人物の原型は、ボヴァリー夫人である ; 彼女の好みも嫌悪も文から来ているし(修道院での読書とこれに続く箇所を見よ)、彼女は文によって死んだ(この場面全体がフラゼオロジーの場面であると言えるだろう――弁論術でいう意味〔美辞麗句を駆使した雄弁〕ではなく、むしろ辞書の見出しの最後にある、よくできた文のちょっとしたコーパスという意味において)。
私たちは――全員とは言わないが――多くがボヴァリー夫人である : 文がファンタスムのように(そしてしばしば人を惑わせる幻影のように)私たちを導いて行く。――たとえば、私はヴァカンスのタイプをひとつの文に従って決める[﹅3]ことができる : 「二週間、モロッコの浜辺で、魚とトマトと果物を食べながら静かに過ごす」。これは地中海クラブそのものだ、まさしく[﹅4]文学的である食事の計画(エピクロス主義)を別にすれば。幻影として、文はそれ以外のすべてを廃棄し、否認する : 天気、退屈、小屋のわびしさ、夜の人けのなさ、人々の(end172)俗っぽさ、等々を。それでも私は切符を買うだろう → こんなふうに言ってもいい : 文の生産者として、作家は誤りの名人なのだと ; しかし作家は免疫ができている ; 幻影を自覚している ; インスピレーションを受けて[﹅13]はいても、幻覚にとらわれて[﹅8]はいない ; 作家は現実と想像を混同せず、読者が代わりにそれをする ; プルーストはヴェニスや聖堂に関するラスキンの文によって「幻覚にとらわれた」かもしれない ; だが、彼はこの幻覚を言述[﹅2]した : ラスキンはただ彼にインスピレーションを与えただけである → とはいえ同時に、幻影からじかに[﹅7]、文学的な文は導入的な役割を果たしもする : それは導き、教えるのだ、まずは欲望を(欲望とは学ばれるものである : 書物がなければ欲望もない)、次いでニュアンス[﹅5]を。
私が文――絶対文、文学の貯蔵庫――について計画しているこの一件資料は、その未来の問題を提起しないかぎり完全にはならないところだし、実際ならないであろう。というのも、文とはおそらく永遠ではないからだ。すでに風化の徴候は見られる : a) 話し言葉の中で : 構文の喪失、言葉の埋没、重複、従属節の位置のずれ → 話し言葉のフランス語を記述しようと思ったら、おそらく新しい工夫が必要だろう ; b) 書かれた文章の中で : 「詩的」テクスト、前衛的テクスト、等々 : 措定命題の(中心化された意識の)破壊、言語の「法則」の破壊 → 絶対文の芸術家にして形而上学者であるフロベールは、自分の芸術が滅ぶべきものであることを知っていた : 「私は<……>現在の読者のために書いているのではありません。言語が生きつづけるかぎりこれから現れるであろうあらゆる読者のために書いているのです」。私はこの言葉が好きだ、謙虚であ(end173)り(「これから現れるであろう読者」)、悲観的とまではいかないが現実的であるから : 言語は永遠ではないだろう、そして言語はフロベールにとって、文体ではなく(一般にはそう思われているが、じつはフロベールは美しい文体の理論家ではない)、文なのだ → フロベールの「未来」が脅かされているのは、彼が描く内容の歴史的性格、時代遅れの性格のせいではなく、彼が自分の運命を(そして文学の運命を)文に結びつけたことによるのである。
文の未来 : そう、これは社会の問題なのだ――ただしどんな未来学も扱っていないが。
(ロラン・バルト/石井洋二郎訳『ロラン・バルト講義集成3 コレージュ・ド・フランス講義 1978-1979年度と1979-1980年度 小説の準備』筑摩書房、二〇〇六年、170~174; 「結論」; 「移行」; 3) 文の形をした生; 1979/3/10)
(……)一九二八年頃には、様々な学科の一年目の学生は、二つの種類というより、ほとんど別個の二つの人種と言ってよいようなものに分けられた。一つは法科と医科の学生で、もう一(end77)つは文学と自然科学の学生である。
外向的と内向的という言葉は、およそ陳腐ではあるが、恐らく、この対照を表現するには最も適当であろう。一方には、「若者」(民俗学が伝統的に、この言葉を年齢階級の一つを指すのに用いているような意味での)、騒々しく無遠慮で、およそ最低と思われる俗悪さと手を握ってでも世の中を安全に渡ろうと心を砕き、政治的には極右(その時代の)を志向している「若者」。そしてもう一方には、今からもう老け込んでしまった青年たち、慎重で、引っ込み思案で、一般に「左傾」しており、彼らが成ろうと努めているあの大人たちの仲間に今から数えられるべく、苦行している青年たちがあった。
この差異を説明するのは、それほどむずかしいことではない。第一の、一定の職務を遂行する準備をしている青年たちは、学校というものもこれで終りであり、すでに社会の機能の体系の中で占めるべき地位を確保されていることに、彼らの言動によって凱歌をあげているのである。高等中学校[リセ]の生徒という未分化の状態と、彼らがそれに就くことを予定されている専門化した活動との中間の状況に置かれて、彼らは自分たちを欄外余白のようなものとして感じており、一方の条件にも他方の条件にも適合する、矛盾した特権を要求するのである。
文学や自然科学の学生にとってお極りの捌け口、教職、研究、または何かはっきりしない職業などは、また別の性質のものである。これらの学科を選ぶ学生は、まだ子供っぽい世界に別れを(end78)告げていない。彼らはむしろ、そこに留まりたいと願っているのだ。教職は、大人になっても学校にいるための唯一の手段ではないか。文学や自然科学の学生は、彼らが集団の要求に対して向ける一種の拒絶によって特徴づけられる。ほとんど修道僧のような素振りで、彼らはしばらくのあいだ、あるいはもっと持続的に、学問という、移り過ぎて行く時からは独立した財産の保存と伝達に没頭するのである。未来の学者にとっては、目標は、宇宙の長さと同じ尺度によってのみ量られるべきものである。それゆえ、彼らに向かって、君たちもまた社会に参加しているのだと言ってきかせるくらい偽りなことはない。彼らが参加していると思い込んでいる時でさえ、彼らの参加は、あらかじめ定められたものを受け容れることにあるのではなく、その定められたものの機能に自分を同化させることにあるのでもなく、それに伴う一身上の幸運や危険を背負い込むことにあるのでもない。彼らが参加していると言う時、それは外から、あたかも彼ら自身はその一部を成していないかのように、与えられたものを判断することなのである。彼らの参加とは、結局は、自分が責任を免除されたままで居続けるための特別な在り方の一つに過ぎない。この意味で、教育や研究は、何かの職業のための見習修業と混同されてはならない。隠遁であるか使命であるということは、教育や研究の栄光であり悲惨である。
一方では職業、他方では使命と隠遁のあいだを揺れ動くどっちつかずの企て――それは常にどちらか一つでありながら、どちらの性質も帯びている――というこの二律背反の中で、民族学は(end79)確かに特別席を占めている。民族学は、この第二のもののうち、最も極端な形を示している。彼自身人間的であろうと欲しながら、民族学者は、人間というものを、或る社会、或る文明に固有の偶発的なものから抽象するのに十分なだけ、高くそして隔たった視点から認識し、判断しようと努めるのである。民族学者の生活と仕事のもつ諸条件は、長い期間、民族学者を彼の属する集団から物理的に抜き取ってしまう。彼が身を曝す変化の激しさによって、彼は一種の慢性の故郷喪失症にかかる。もはやどこへ行っても、彼は自分のところにいるという感じがしなくなる。彼は心理的に不具者になってしまっているのだ。数学や音楽と同様、民族学は稀にみる純粋な天職の一つである。人はたとえ教えられなかったとしても、自分で自分のうちにそれを発見することができる。
個人的な事情や社会の情勢に加えて、純粋に知的な性質の動機も挙げなければならない。一九二〇年から三〇年という時期は、精神分析の諸理論がフランスに弘まった時期であった。これらの理論を通じて、静的な二律背反――合理的と非合理的、知的と情緒的、論理的と前論理的といった、私たちがそれらをめぐって、哲学や論文や後には講述[ルソン]を組み立てることを教えられた二律背反――は、結局は無意味な遊戯にすぎないということを私は学んだ。まず私は、「合理的なもの」の彼方に、より一層重要でより肥沃な、もう一つの範疇が存在するのを知った。それは、「意味を表すもの[シニフィアン]」という範疇で、「合理的なもの」の最も高度な存在様式である。それにもかか(end80)わらず、私たちの習った諸先生は、その言葉を口に出すことさえしなかった(恐らく、フェルディナン・ド・ソシュールの『一般言語学講義』よりも、ベルクソンの『意識に直接与えられたものについての試論』について考えをめぐらすのに忙しかったためであろう)。ついで、フロイトの著作は、私に、これらの対立は実際に対立しているのではないということを啓示してくれた。なぜなら、外見は最も感情的な振舞い、合理的なものからは最も遠い行動、前論理的とされている表現こそが、同時に、最も豊かに「意味を表すもの」だからである。ベルクソン主義――それは、様々な存在や事物を、一旦、粥のような状態に還元してしまった上で、それらのものの言うに言われぬ本性をよりよく取り出そうとするのであるが――の信条や不当前提〔結論において証明されるべきことをすでに仮定した前提のこと〕の代りに、私は、存在や事物は、その輪郭――存在や事物相互の境界を明らかにし、それらのものに、理解しうる一つの構造を与えるような輪郭――の明確さを失わないままで固有の価値を持ち続けうる、ということを知った。認識は、断念や物々交換の上に成り立っているのではなく、「真の」様相、すなわち、私の思考が所有しているものと符合するような様相を選び取ることのうちに存しているのである。それは、新カント派の学者が主張するように、私の思考が事物の上に、或る不可避の制約を及ぼすからではまったくなく、むしろ、私の思考がそれ自体として一つの対象だからである。「この世界に属するもの」として、私の思考は、「この世界」と同じ性質を享けてい(end81)るのである。
とはいうものの、私が同世代の他の人たちと共に辿ったこの知的進化は、子供の頃から、強い好奇心が私を地質学の方へ押しやっていたという、私自身の特殊な事情にも彩られている。私は今でも、私にとって最も懐かしい思い出のうち、ブラジル中部の前人未踏の地帯での、あの無謀な行動の思い出よりも、ラングドックの石灰質高原の断面で、二つの地層が接している線を追いかけた思い出の方を大切にしている。それは、散策とか、単純な空間の探検とは全く違ったことであった。準備された目をもたない観察者にとっては、何の一貫した意味ももたないであろうこうした探索行も、私の目には認識というものの視覚化された姿や、認識の差し向ける困難や、それから期待できる歓びなどを示してくれるのである。景観の全体は、最初見た目には、人がそこにどのような意味を与えることも自由な、一つの広大な無秩序として現われる。しかし、農業にとっての損得の配慮、地理上の出来事、歴史時代、先史時代を通じてのもろもろの変転などの彼方に、すべてを繋ぐものとしての峻厳な「意味」があり、それが、他のものに先行し、命令し、そして、かなりの程度まで、他のものについての説明を与えるのではないだろうか。この蒼ざめ、混沌とした線、岩の残片の形や密度の中にある、しばしば知覚しがたいような差異が、現在私が見ているこの不毛な土地に、かつては二つの大洋が相次いで存在したことを証明しているのである。過去の痕跡を手掛りとして、数千年の停滞の跡を辿り、急斜面や地滑りの跡や、藪(end82)や耕地などのあらゆる障害を越えて、小径[こみち]にも柵にもお構いなしに進んで行く時、私は、意味を取り違えて働きかけているように見える。ところで、この反抗は、支配的な一つの意味――恐らく見極めにくいであろうが、しかし、他のそれぞれの意味は、その部分的なあるいは変形された置き換えであるような、支配的な一つの意味――を取り戻すことを、唯一の目的としているのである。
時として、奇蹟が生ずることがある。隠れた亀裂の両側に、異なる種の植物が、それぞれに適した土壌を選んで、隣り合って緑も鮮やかに生えていることがある。渦巻の複雑さを共にした二つのアンモン貝が、数万年の隔たりを、こうした彼ら独自の遣り方で証拠立てながら、二つ同時に岩の中に見分けられることがある。その時、空間と時間とは境を失って、俄かに融合してしまう。現在の瞬間に生きている多様さが、歳月を並置し、それを朽ち果てないものとして定着させるのだ。思考と感受性は新しい次元に到達する。そこでは、汗の一滴一滴、筋肉の屈伸の一つ一つ、喘ぐ息の一息一息が、或る歴史の象徴となる。私の肉体が、その歴史に固有の運動を再生すれば、私の思考はその歴史の意味を捉えるのである。私は、より密度の高い理解に浸されているのを感じる。その理解の内奥で、歴史の様々な時代と、世界の様々な場所が互いに呼び交わし、ようやく解り合えるようになった言葉を語るのである。
私がフロイトの一連の理論に接した時、それらの理論が、地質学が規範を示している方法の、(end83)個々の人間への適用であるように思われたのは、まったく自然なことであった。どちらの場合も、研究者は、見たところ到底人の理解を許しそうもない現象の前にいきなり立たされるのである。どちらの場合にも、彼は込み入った状況の含む諸要素の一覧表を作り、それを評価するために、感受性、勘、鑑識力といった彼の資質の繊細な部分を精一杯働かせることを求められる。それでいて、或る現象の総体に導き入れられる、一見不適当とも見える秩序は、偶然のものでも恣意の産物でもないのである。歴史家の取り扱う歴史とは異なり、地質学者の対象とする歴史も精神分析学者のそれも、物的世界、心的世界の基礎を成している幾つかの属性を活人画[タブロー・ヴィヴァン]に幾らか似た遣り方で、時間の中に投影しようとするのである。私は今、活人画を引合いに出した。確かに、「仕草で表された諺」の遊びは、一つ一つの身振りを、時の持続の中での、時間を超えた幾つかの真実の展開として解釈しよう、という企てを素朴な形で表わしている。諺は、こうした幾つかの真実を、道徳的な面で具体的な姿に引き戻して示そうとする訳だが、他の領域では、これらの真実は、まさに「法則」と呼ばれるのにふさわしいのである。これらすべての場合に審美的な好奇心を呼び起こすことが、私たちが認識に造作なく到達するのを可能にするのである。
(クロード・レヴィ=ストロース/川田順造訳『悲しき熱帯Ⅰ』中公クラシックス、二〇〇一年、77~84; 「6 どのようにして人は民族学者になるか」)
*
人間が昇る太陽より沈む太陽に注意を払うのも、そのためなのである。曙光は人間に、寒暖計や気圧計や、文明化されていない人々にとっては月の満ち欠けや鳥の飛翔、あるいは潮の干満などの補いになる指示を与えるに過ぎない。ところが日没は、人間を高め、彼らの肉体が今日一日その中を彷徨った、風や寒暖や雨の思いがけない移り変りを、神秘な形象のうちに集めてみせるのである。意識の文[あや]もまた、空に拡がった綿のような、これらの形の中に読み取ることができる。沈んでゆく太陽の光で空が明るみ初める時(丁度、或る種の芝居で開幕を告げるのが、お定まりの床を三回叩く音ではなく、脚光を突然照らすことであるように)、小径を辿っていた農夫はその歩みを止め、漁師は舟をもやい、未開人は消えかけた火のそばに蹲って瞬きするのである。回想するということは人間にとって大きな悦楽であるが、しかし記憶が克明に甦るだけその楽しみが増すというわけではない。苦しみをもう一度体験したいと思う人はほとんどいないであろうが、しかし彼らも、それを回想してみたいとは思うからである。追憶は生そのものでさえあるが、(end97)しかし本質を異にしたものである。だから、太陽が吝嗇な天人の投げた小銭のように、穏やかな水の磨かれた面[おもて]に向かって落ちて行く時、あるいは太陽の円盤が山の頂きを歯のように縁を刻まれた堅い葉の形に切り取って行く時、とりわけその時に、人間は、怪奇な映像の束の間の変転のうちに不透明な力や蒸気や稲妻が示しているもの、その暗黙の葛藤を、人間が自らの内奥に、一日のあいだ漠然と感じ取っていたものを見出すのである。
(97~98; 「7 日没」)
*
十七時四十分、空は西の方で、一つの込み入った構築物に乱雑に塞がれているように見えた。その構築物の下側は完全に水平だった。まるで水平線の上方に、或る理解しがたい浮力が働いたために、いやむしろ、目に見えない厚い水晶板が挿入されたために、海の一部が引き剝がされでもしたかのようだった。頂きには、不安定な堆積、膨れ面をしたピラミッド、凍りついた沸騰が、何か転倒された重力とでもいったものの作用で天頂に向かって懸かり、垂れ、雲の姿を装った刳形[くりかた]といった趣きを呈していた。しかし、雲が光沢を帯び、木を刻んで金泥を塗った浮彫りを想起させていた限りでは、刳形に似ていたのはむしろ雲の方かも知れなかった。この太陽を隠蔽した乱雑な堆積物は、時折閃光を発しながら暗い色調を帯びて次第に背景から浮き上がって行き、そのあいだ、堆積物の上部で火花が飛び交っていた。
さらに上の空では、柔らかな金色の錯雑が、質量のない、純粋に光だけの織物に似た糸の縺れへと、解きほぐれつつあった。
水平線を北へ辿って行くと、それまでの主題が微かになり、上昇して雲の弾け散ったものになっているのが認められたが、その遥か後方には、頂きを沸騰させた、もっと背の高い一本の柱が姿を現わしていた。太陽――まだ見えなかったが――に最も近い側では、光が、この沸き立つ頂(end100)きの凹凸を力強い縁[へり]で縁取っている。更に北の方では、この凹凸も消え失せ、光沢を失った平たい柱だけが海の中に基部を浸していた。
南でも同じ柱が出現していたが、巨大な雲の板が、あたかも宇宙の巨石遺物のように、支柱の煙る頂きの上に据えられているのだった。
太陽にきっぱりと背を向けて東の方を眺めると、ここでは、縦に引き伸ばされた雲の積み重なりの群れ二つが、光の気紛れで逆光を受けてでもいるかのように浮かび上がって見えたが、その背景をなしていたのは、薔薇色や紫色や銀色に、真珠母のように輝いている、乳房と腹の膨れ上がった、だがすべて気体で出来ている砦であった。
このあいだに、西の空を塞いでいた天の岩礁の背後で、太陽が徐々に姿を変えつつあった。太陽の落下が進むたびに、その光線のどれか一本が不透明な塊りを破るか、さもなければ自らのために通路を切り開いて進むかしたが、光線の通る道が描く軌跡は、光線が迸[ほとばし]り出る瞬間、その障害物を、大きさと光の強さの異なる同心円を重ね合わせたものの形に切り取るのであった。時折、光は握りこぶしのように縮こまり、それを覆い包んだ雲のマフからは、もう、せいぜい一本か二本の、きらきら光る強ばった指が突き出てくるのが精一杯だった。あるいはまた、火照った一匹の蛸が、蒸気の洞穴から進み出てはまた引っ込むのであった。
日没には、はっきり区別できる二つの段階がある。初めのうち、太陽は建築家だ。これに続く(end101)少しのあいだ(太陽の光線が屈折しており、直接射しても来ないあいだ)だけ、太陽は画家になる。太陽が水平線のかなたに姿を消すが早いか、光は弱まり、刻々複雑さを増す見取図を出現させる。白昼の光は遠近感のある眺望の敵であるが、昼と夜とのあいだには、幻想的な、そして、束の間の生命しかもたない構築物のための場が存在するのである。夜の闇と共に、すべては再び、見事に彩られた日本の玩具のように平たいものになってしまう。
十七時四十五分、第一段階の下絵が描かれた。太陽はすでに傾き、しかしまだ水平線に触れてはいなかった。雲の構築物の下側に現われた瞬間、太陽は卵黄のように崩れ、まだ懸かったまま離れきっていない形象を光で汚すかに見えた。この輝きの横溢は、すぐ隠遁に席を譲る。日輪の周辺は輝きを失い、大洋の上限と雲の下限とを隔てているこの虚空の中に、ついに今しがたまでは眩しくてそれと見分けられなかった蒸気の山脈が、今では尖った暗い姿を横たえているのが認められた。それと共に、初めは平たかったこの山脈が体積を増していった。堅く黒い微粒の数々がさ迷っていたが、それは、水平線から空へ向かって緩やかに上昇して行く赤っぽい巨大な板――それは色彩の段階の始まりを告げていた――を過[よぎ]っての、意味のない移動であった。
少しずつ、夕暮の深い構築が折り畳まれて行った。一日じゅう西の空を占めていた塊りは、金属質の一枚の薄板に圧[お]し延ばされてしまったように見えたが、この薄板を背後から照らしていたのは、初め金色で、次いで朱色になり、さらに桜桃色になった一つの火であった。すでにこの火(end102)は、徐々に消え去りつつあった捩[よじ]れた雲を、溶かし、磨き、そして小片の渦巻きの中に取り上げようとしていた。
無数の蒸気の網が空中に生まれた。これらの網は、あらゆる方向に向かって――水平にも斜めにも垂直にも、そして渦巻形にさえも――張られているように見えた。太陽の光線は、傾くにつれて(丁度、絃楽器の弓が倒れたり立ったりしながら、様々な絃に触れるように)、蒸気の網の一つ一つを、その各々が気紛れに専有しているかのように思われる色調で光らせた。光る番が来ると各々の網は、糸状のガラスの明晰さと、的確さと、脆い堅さとを示した。一方で、少しずつ網は溶解して行ったが、それはまるで、隈なく炎に満たされた空中に曝されていたために網の材質が過熱し、色は暗くなり、個々の区別が失われて薄い布に似た拡がりになって行くかのようであった。この拡がりはだんだん薄くなって視界から消えたが、代わって、それまで隠されていた、編まれたばかりの新しい網が見えるようになった。最後にはもう、曖昧な、互いに入り混った幾つかの色調しか存在していないように見えた。こうして、グラスの中で初め重なり合っていた、色も密度も異なる幾つかの液体は、見たところ動かないままでいながら、徐々に混り合い始めるのである。
この後では、空の遠く隔たったあちこちで、数分、時には数秒毎に変転を繰り返すように見える景観を、逐一辿って行くことが極めてむずかしくなった。東の方では、日輪が反対側の水平線(end103)を侵蝕し始めるや否や、それまでは見えなかった雲が、極めて高いところで、酸味を含んだ赤紫の色調のうちに一挙に姿を整えた。それは現われたあと急速に発達して、細部や色調における豊かさを増して行った。それから、確かで緩やかに動く雑巾の働きでそうなるかのように、水平方向に右から左へと、すべてが消え始めた。何秒か後には、残っているのはもう、煙る砦の上方で空の屋根を葺いている、端正な石瓦だけであった。砦は白と灰色に変って行き、一方、空は薔薇色に輝いていた。
太陽の側では、単調で曖昧なセメントになった先の柱の背後に、一本の新しい柱が立ち昇っていた。いまでは、炎を噴いているのは新しい柱の方であった。その赤い放射が弱まった時、それまでまだ自分の役を演じていなかった天頂のさまざまな色の集合が、ゆっくりと体積を獲得した。その下側の面は金泥を塗り、きらめき、少し前まで火花を散らしていた頂きは栗色に、すみれ色になった。同時に、その集合の組織が、顕微鏡下にでもあるかのように眺められた。その集合の肉付きのいい形を、無数の繊維が骨格のように支えているのが分かるのだった。
もう、太陽の直射光はすっかり消えてしまっていた。空には、薔薇色と黄色のものしかなかった――小海老、鮭、亜麻、麦藁。しかも、この慎ましい豊かささえもまた、消えて行くのが感じられた。空の風景は、白と青と緑の色調のうちに再生しつつあった。しかし、水平線の片隅のそちこちは、まだ束の間の、しかし独立の生命を享受していた。左手の方で、微かな一枚のヴェー(end104)ルが、神秘的で、混り合ったさまざまな緑色の、ふとした気紛れでもあるかのように、突然姿を定めた。これらの緑色はまず濃厚な赤、次いで暗い赤、次いですみれ[﹅3]、次いで木炭色へと順々に変わって行き、とうとう、ざらざらの紙の上をかすった木炭筆の不規則な痕跡に過ぎなくなってしまった。その背後では、空はアルプスの風景のような黄緑色をしており、柱は厳格な輪郭を保ったまま、相変わらず不透明であった。西の空では、水平方向に並んだ黄金の細かい縞が、まだ一瞬きらめいたが、北の方は、もうほとんど夜になっていた。乳房の盛り上がった砦は、石灰の空の下の白っぽい突出物であるに過ぎなかった。
夜が昼にとって代わる、決まりきっていながら予見できない、その過程の全体ほど神秘的なものはあるまい。そのしるしは、突然空の中に覚束なさと苦悩を伴って現われる。夜の湧出が、様々な形の中からこの掛替えのない機会のために選び取る形を、誰も予測できないであろう。理解できない錬金術によって、各々の色は、その補色への変身を遂げて行くのだが、これがもしパレットの上だったら、同じことをするのに、どうしてももう一つ、絵具チューブを開けなければならないだろう。しかし、夜にとっては、色の混合には境界がない。というのも、夜は偽りの見世物の幕を上げようとしているのだから。夜は、薔薇色から緑色へと移って行く。だがそれは、幾つかの雲が強烈な赤色に染まり、そのことによって確かに薔薇色だった空を緑色に見せかけているのに、私が注意しなかったからなのである。もっとも、初めの薔薇色は、私が気付かなかっ(end105)た新しい色の、度を越した鋭い力に抗しきれなかったくらい蒼ざめた色合をしていたし、金色から赤への移行は、薔薇色から緑色への移行に比べたら意外さの度合が少なかった。だから夜は、まるで人を欺くように忍び込んで来るのである。
こうして夜を、黄金色と紫色の景観を、その陰画――そこでは、熱い色調が白と灰色で置き替えられた――で取り換え始めたのである。夜の板は、海に似た景色を海の上方に徐々に拡げて見せた。大洋の姿をした空の前に張られた、この巨大な雲の幕は、平行に並んだ半島の形に自分を解[ほぐ]して行った。まるで、平坦な砂浜が海の中に何本もの矢のように伸びている様を、機体を横に傾けて低く飛ぶ機上から眺めているようだった。残光は雲の尖端をひどく斜めから打ち、堅固な岩――それらもまた、他の時には影と光で彫琢されていたのだが――を思わせる凹凸の外観を雲に与えており、それが幻想を肥大させていた。あたかも、太陽が、その煌[きら]めく鑿を斑岩や花崗岩の上にはもう振るう力がなく、ただ柔らかい水蒸気の部分にだけ、衰えながらも前と同じ様式を保って働かせているかのようだった。
空が自分を拭い清めて行くに従い、海岸の風景に似たこれらの雲を背景に、砂浜や潟や無数の小島や砂州が現われるのが見えた。無気力な空の大洋は砂州を侵し、解体しつつあるその平坦な拡がりを狭江[フィヨルド]や沼で蝕むのだった。これらの雲の矢を縁取っていた空は、それ自身が一つの大洋であるように見せかけていたし、海は空の色を反映するのが常だったから、この天の絵は、そ(end106)こにもう一度太陽が沈むはずの、遠い一風景を再現していたことになる。だが一方、この空中楼閣から逃れるためには、遥か下の方にある本物の海を眺めるだけで十分だった。海はもう真昼の燃えさかえる板でもなく、夕食の後の優雅な縮れた水[み]の面[も]でもなかった。ほとんど水平に射してくる陽の光は、漣の、光に向かった面だけしか照らし出さなかった。波の反対の面は、もう真っ暗だった。こうして水は、金属を彫ったように、明確で崩れない影のついた浮彫の姿をしていた。一切の透明さが失われていた。
その時、もう習わしになりきっている、だがいつもながら知覚できない突然の移行によって、夕暮は夜に席を譲る。すべてのものは、自分の姿が変わってしまっているのに気づく。不透明な空では、残光に照らされた最後の雲が、水平線とその上方では生気のない黄色に、天頂に近づくにつれて青色へと移りながら散らばっていた。だがたちまち、それらは痩せ細り、病み惚[ほう]けた影のようなものに過ぎなくなる。まるで芝居が済んだあと、照明の消えた舞台で、まだ装置を支えている柱のようだった。そのとき人は、装置の貧弱さや脆さや、それが仮初[かりそめ]のものだったことなどを突然目のあたりに見て、それらが本物の幻想を与えていられたのも、それらの本性によるのではなく、照明や遠近法のちょっとした企みに過ぎなかったのだ、ということを悟るのである。つい先刻まで活き活きとしており、刻々形を変えていただけになおのこと、今それらのものは、大空の直中[ただなか]で、もう変わることのない痛ましい姿に凝固してしまっているように思えるのだっ(end107)た。だが、次第に深まって行く空の暗さは、まもなく、それらのものも空に溶け込ませてしまうはずであった。
(100~108; 「7 日没」)