七時台のうちに一度覚めてすぐにまた寝入り、もう一度覚めると、布団の下で身体が、足の先のほうまで汗に覆われていた。すぐさま布団を剝いでジャージの裾も引きあげて肌を外気に晒して、汗が引くのを待った。それが八時四〇分頃だったはずである。はっきりとした覚醒だったのでここを機に睡眠を終わらせることができたが、まだ起きあがらず、携帯を取って寝床の上でだらだらとした。それで九時二〇分頃になってから洗面所へ行って、戻ってくると瞑想を行った。前夜の二時前から雨が降りはじめて、その名残りの曇天がまだ続いており、ひらいた窓から入る空気は肌寒いほどのもので、布団を腕の半分くらいまで掛けながら呼吸を繰り返した。九時二八分から四〇分まで座ったのちに上に行くと、母親は既に仕事に出ており、家中は無人だった。焼いた卵とハムを米に乗せて食事として、食後に居間のテーブルに就いたまま新聞を読んだ。室に帰ったのが一〇時半前である。涼気のために窓を閉めることができたので、Miles Davis『Four & More』を、遠慮せずにスピーカーから流し、まず前日の新聞の記事を写したあと、この日の新聞のものも写してしまった。そしてさらに、ロラン・バルト/石井洋二郎訳『小説の準備』からも二箇所書き抜きをして、すると一一時半頃だっただろうか。ベッドに倒れて、村尾誠一著『和歌文学大系25 竹乃里歌』を読みだし、一時間くらい経つと、隣室に入ってギターを弄った。そろそろ書き物をしなくてはと思いながら上階に行き、先に昼食を取ることにして、兄夫婦の結婚式の引出物として送られてきたレトルトのカレーを温め、米に掛けた。それを食って皿も片付けると、コンピューターに急須と湯呑みを部屋から持ってきて、蕎麦茶を飲みながら、日々の作文を始めた。BGMには前日聞いて気に入られたので、『Elis Regina In London』をまた掛けた。前日の記事は書くことが少なくて、一一〇〇字ほど足して総計二五〇〇字、仕上げたのは二時二〇分頃であり、それから入ったこの日の分もほとんど書くことがなくて、九〇〇字ほどでさっさと現在時に追いついた。二時四〇分である。そうして、風呂を洗うのを忘れていたので浴室に行き、浴槽を擦って流すと戻ってきて、自室に帰った。それでちょっと歌を口ずさんだようで、音楽プレイヤーの履歴には記録が残っている。それから歯磨きを済ませ、ベッドに転がって『竹乃里歌』を読みはじめた。例によって眠気に苛まれて、身に纏わりつくものを散らそうと、途中身体を起こしたりもしながら読んで四時半、ここ最近では珍しい、暖房を点けたくもなるほどの涼気だった。蕎麦茶の温かさが恋しがられたので、 ベスト姿の仕事着に着替えると、本とメモノートを持って上に行き、居間のテーブルに就いて正岡子規の歌を追いながら茶を啜った。出勤前の僅かな時間をそのようにして過ごし、二杯を飲むと便所に入って用を足し、そうしてガムを一つ噛みながら出発したのが五時を少々回ったところである。玄関を開けるとちょうど道の向かいに、近所の婦人が犬を連れていたので、こんにちは、と挨拶した。後ろを向いて鍵を閉めながら、行ってらっしゃいと掛かる声に、はいと返事をし、それから階段を下りてポストを覗くと、郵便物があったため、再度扉の前に戻って閉めた鍵をひらいた。手のものをなかに放っておいて、ふたたび鍵を掛けて出発し、この日も荷物は何も持たずに手ぶらの格好で、身軽で気楽な気分で坂を上っていった。ワイシャツの上にベストまで着ていて、それで体感は適温となる涼しさで、何の重さも抵抗もなく身に馴染んで時折りかすかにひやりとする空気が肌に良かった。それほど籠った曇天ではない。テーブルクロスめいたぱりっとした白さが全面に敷かれて、その色だけを見るとそれなりに明るさの感触があるのだが、しかしその上に、たっぷりの水で溶かされた薄墨の色が染みだして諸所を汚していた。街道を渡ると、Blankey Jet City『C.B.Jim』を聞きながら行き、裏通りに入った。そして、ポケットに両手を突っこんで悠々とした風情で歩いていく。途中、道に広がって談笑しながら歩いている女子高生たちの、一番端にわずかに空いたスペースを通り抜けようとしたら、反対側を向いていてこちらに気付いていなかった一人が、仲間に知らされて振り向き、ぶつかりそうになったのに気付いてびっくりしていたようだったので、そちらに会釈をして抜けた。そうして進んでいき、職場に着くと挨拶をして靴をスリッパに履き替えた。それで奥に進もうとすると、上司が後ろから、今日もそれで来たんですねと、こちらが何も身に帯びていないのを見て掛けるので、非常に軽装備で来ましたと笑って受けた。そうして準備をして労働、終えて九時半に職場を出ると、すぐ正面に高校生が二人いて、女子のほうがやはりこちらの軽装を見て、手ぶら、と驚くので、いつも歩いてくるから、と言った。じわるわ、と言うのに、なぜか自分も大笑いしてしまい、それからちょっと交わして去り、夜道に入った。疲れはそれなりだった。こんなことを言うと世の尋常な勤め人には罵倒されてしまうのだろうが、と考えながら、これほどの短い労働でもわりと疲れるし、何よりやはり面倒くさいと自分で自分の気分を萎えさせ、読んで書くだけで生きられたらいいのに、と再三の叶わぬ希望をまた虚しく思って、歩いて行った。街道に出ると、個人商店の脇の自販機で、スプライトのペットボトルを買った。それを唯一の荷物として片手に提げ、残りの道をたどり、帰宅したのが一〇時頃だった。父親も既に帰ってきて風呂に入っている最中で、居間に見えない母親のほうは、手を洗って階段を下りていくと寝室のほうから出てきて鉢合わせた。おかえりと言うのに受けて、自室に帰り、服を脱いで下着姿になると例によってベッドに寝転んだ。それでしばらく『竹乃里歌』を読みながら身体を休めてのちに、瞑想をした。目をひらくと既に一〇時四五分である。ジャージを履いて上に行き、フライパンの麻婆モヤシを米の上に掛けて丼を作り、そのほかジャガイモの味噌汁や大根の煮物を卓に並べた。テーブル上に、コーラの注がれたコップがあったのは、母親が飲んだ残りらしい。買ってきたスプライトを氷の上からコップに注いで飲みながら、コーラのほうも口にした。それで食事を取り、ペットボトルも空にすると、炭酸を多く取りこんだためかひどく腹が張って、苦しいようになった。皿を洗うとちょっと休んで、腹のあたりが軽くなってきてから、風呂に行った。風呂場では、浴槽の縁に後頭部を預け、狭いので足を伸ばしきることはできずに、足の裏を壁に当てながら、両手を湯から出し、瞑目して疲れを癒やした。風呂を出て蕎麦茶とともに室に帰ると、零時一八分だった。インターネット各所を確認したのち、ベッドに移って、『竹乃里歌』をひらいた。それで一時半を過ぎると、性欲を解消することにして、コンピューター前に立ってポルノを閲覧しはじめ、射精してのちもだらだらとして三時を迎えた。洗面所で手と性器を洗ってきてから、ベッドに帰り、また少々読書をしたあと、就寝前の瞑想をした。三時二四分から三七分と、少しだけ長めに行って消灯、暗闇のなかで身を横たえた。
1) 死について書かれうること、それは死ぬということ[﹅7]である――そして死ぬということは、長い時間のかかることでもありうる。死ぬことにまつわるさまざまなエピソード、段階、移行過程を、プルーストはみごとに語っている。私が言いたいのは、まるで具象の根っこに向かって行くかのように、彼がそのつど具体的な補足を重ねていったということだ : シャン = ゼリゼでの軽い発作 : 〔壁を染める夕陽の〕赤さ、〔母の〕口に寄せられた祖母の手 ; 病気のあいだは、フランソワーズが苦しむ祖母の髪をとく場面、等々。なぜそれは真実[﹅2]なのか(そして現実的[﹅3]であったり写実的[﹅3]であったりするだけではないのか)? 具象のこうした徹底性が、やがて死にゆくもの[﹅9]を示しているからだ : 具体的であればあるほど、それは生き生きする、そして生き生きすればするほど、それは死んでいく ; 日本語で言ううつろい[﹅4]である → エクリチュールによって与えられる、一種の謎めいた付加価値[﹅4]のようなもの。
2) 死ぬのは祖母である。彼女の死は、言説の流れでいえばちょうど真ん中にあって、事実上それまでに書かれてきたことを連結している : コンブレーの庭以来、こぞって祖母の肖像を描くことに寄与してきたすべてが、真実の瞬間を立ち上がらせるこの種の卓越した具象、激しい情動、哀れみ、「同情」といったものにあずかっている → 『失われた時を求めて』第一篇、10頁以下〔『スワン家の方へⅠ』、鈴木道彦訳、集英社、1996、33頁以下〕 ; そこから心理学的肖像を描くことができる : 彼女は自然が好きで、教育的観念をもっ(end184)ており、家族の中では独自の存在で、「へり下った心をしており」、等々。しかしこうしたことのすべては退屈である(挙げてみても退屈であろう)、私が彼女とのあいだに有している比類のない繋がりを説明するものではないから ; この繋がり=非常に微小だが、私にとっては悲痛なものだ ; またしても絶対的な具象 : 〔大叔母が〕祖母の夫にコニャックを飲ませるとき : 「可哀そうに、祖母は部屋にはいってきて、〔コニャックなどなめるのはやめてくださいと、〕懸命に夫に頼むのだった」 ; 「祖母は、悲しそうながっかりした表情で、それでも微笑しながら、また外に出て行ってしまう」 ; 「祖母の美しい顔の、皺の刻まれた褐色の頬、年をとってまるですき起こされた秋の畑のようにほとんど薄紫色になり、〔外出のときは半ば上げられた小さなヴェールで隠されている〕その頬」、等々。こうしたことのすべては、ある意味で最初から(12頁)彼女がやがて死ぬ[﹅8]ことを物語っているのであり、庭での身体の具象は、病に冒されて死にゆく身体のそれと同じものなのだ : 頬も髪も、同じ素材でできているのである。
(ロラン・バルト/石井洋二郎訳『ロラン・バルト講義集成3 コレージュ・ド・フランス講義 1978-1979年度と1979-1980年度 小説の準備』筑摩書房、二〇〇六年、184~185; 「結論」; 「移行」; 4) 何性、真実; 2) プルースト : 真実; 1979/3/10)
*
(……)<読む快楽[﹅4]>から<書く欲望[﹅4]>へと移行するためには、強度[﹅2]の差動装置を介入させなければならない(モワレの科学、強度の科学) ; 問題なのは「読む喜び[﹅4]」ではない。これは書店の看板にでも使えそうな陳腐な表現だ(こんな看板を掲げた書店が実際にあるにちがいない) → こうした喜びは、読者のままにとどまって書き手に変貌することのない読者を生み出す≠エクリチュールの生産的な喜びは、また別の喜びである : それは歓喜であり、法悦[エクス・ターズ]〔自分の外に出ること〕であり、変容であり、啓示であり、私がしばしば悟り[﹅2]と呼んできたものであり、振動であり、「回心」である。たとえば、シャトーブリアンの短いテクスト(『墓の彼方の回想』)を、私はけっして説明したいとは思わないし、注釈したいとも思わない(もちろんしようと思えばできるが) ; それは私の内に言語活動の眩惑を、快楽の熱狂を生み出すのだ ; それは私を愛撫する[﹅9]のであり、この愛撫が、このテクストを読むたびに効果を生み出すのである(最初の快楽の更新) : まるで永遠の、神秘的な白熱状態のように(それはいくら説明してもしきれるものではない) ; これは愛の欲望[﹅4]が本当の意味で満たされた状態だ、というのも私は自分の欲望の対象であるこのテクストが、他の無数の可能性の中から現れて私の個人的な欲望にぴったり適合したことをよく知っているのだから ; 別の誰かがこのテクストを、私がそれを欲しているように欲する保証はまったくない : つまり愛の欲望は主体の好みに応じてばらばらなのであり、だからこそ誰にもチャンスがあるのだ、だって私たちがみな同じ相手を愛してしまったとしたら、どんなに苦しいことだろう――私たちにとっても、その相手にとっても! 書物(end222)についても書物の断章についても同じことである : 欲望の散種というものがあるのであって、他の書物を産出することへの呼びかけやチャンスがあるのはこの限りにおいてである ; 私の<書く欲望>は、読書行為そのものから来るのではなく、個別的な、特定的[トピック]な読書行為から来る : 私の欲望の特定性[トピック] → 愛する相手との出会いにおけるのと同じことだ : 出会いを決定するのは何か? 希望である。いくつかの読まれたテクストとの出会いから、<書く希望[﹅4]>が生まれるのだ。
(222~223; Ⅰ. 書く欲望; 「歓喜」; 1979/12/1)