2016/7/1/, Fri.

 七時台のあたりから何度か目を覚ましていたようである。意識が明らかになってきたのは九時台に入ってからだが、その頃はまだ一面曇っており、カーテンをひらくと窓が白く染まっていながらも、その白さが結構な眩しさをはらんでいて目に染みた。九時半になってようやく身体を起こし、部屋を出た。それより少し前にインターフォンが鳴って誰かが来たのは認識していたが、階上から声が聞こえて、それが隣家の老婆だとわかった。洗面所で顔を洗い、用を足してから室に戻り、瞑想をしているあいだに老婆は帰ったらしく、母親が大きな声で礼を言いながら送るのが聞こえた。九時四六分から五九分まで座ってから上がっていくと、母親は抑えた声で、また来たよ、と言った。前日に何か届けに来たのだが、その日は母親は旅行で不在だったので、この朝に再訪したということらしい。どこに行ったのかとでも訊かれたのか、どこだっていいじゃんねえと母親は眉をしかめるような声で漏らした。その声音が自分は、非常に嫌いである。先ほどまではきはきとした明るい声で歓待していたかと思いきや、相手が去ると聞こえないところで暗い愚痴を吐くその二面性というか、欺瞞めいた振舞いが癇に障って、だったらあんなに丁重なようなふりをしなくたっていいではないかと思うのだが、しかし人間、そんなに黒白はっきりと割り切れるものではないのだろう。程度の差はあれ同じようなことは誰だって、おそらく自分だってやっているはずである。とはいえ、わざわざ自分の感情を言葉に込めてこちらに聞かせて、不快感の共有を図ってくるのはまことに鬱陶しく、うんざりさせられるものである。もう何年も、たびたびうんざりさせられてきたので、最近ではうんざりすること自体に慣れて、一度うんざりしてもすぐに忘れることを覚えた。結局、出掛けた先を尋ねられて辟易するというのは、家のことを放りだして遊びに行っているというような自己呵責があって、他人の言動もそこを突いてくるように感じられるという、およそくだらない自意識過剰の産物だとこちらには見えるのだが、そんなことを言ってもどうにもならないので、黙って食事の用意をした。卓に就いてものを食べ、新聞をひらいて読んだ。おそらくこの月頭で契約が正式に切り替わったようで、読売新聞は姿を消して、朝日だけしかなかった。記事を追うと既に一一時、皿を片付けて、蕎麦茶を持って部屋に下り、インターネットを回ったり記録を付けたりしたのち、書き抜きを始めた。Ella Fitzgerald『Newport Jazz Festival Live at Carnegie Hall』を流して、ロラン・バルト石井洋二郎訳『小説の準備』から二箇所抜くと正午前、その頃には晴れ間が見えていた。歯磨きをしてベッドに移り、寝転がりながら村尾誠一著『和歌文学大系25 竹乃里歌』を読んだ。七時間眠ったわりに眠気が湧いて、妨害されながら一時半頃まで読書をして、腕立て伏せと腹筋運動をすると、上に行って肌を拭いた。そして風呂を洗い、下階に戻って着替えをして、荷物をまとめると枕の上に腰掛けた。一時五五分から二時五分まで瞑想をして、瞼をひらくとちょっと窓外を眺めた。梅の木の枝先が水面に乗るようにかすかに上下に揺らぐのみで、空気に動きは乏しく、窓際には温もりが漂っていた。その枝葉の奥に覗く斜面の紫陽花は、見る限りまだ褪せはじめてはいないようで、青く丸く佇みながら薄陽を受けていて、そこから焦点を身近に引き寄せるとその同じ色で、顕微鏡で見た微生物のような埃汚れが窓ガラスを全面埋めているのが露わに見て取れた。それでリュックサックを持って階段を上がり、居間に行くと、立っているだけで軽く火照ったような感触が肌にあって、空気の熱が知れた。二つのテーブルの上に窓が白く溶けて映りこんで、気温計は三〇度を指している。窓外では山に陽が当たって、薄色の砂を被ったようになっていた。出発して陽のなかに入ると、重い暑さである。リュックサックが背に接して熱を溜めるのが煩わしくて、手持ちの小さな鞄が欲しいなと思った。クラッチバッグという名称は、先日の友人との服屋巡りで初めて知ったものである。手ぶらの軽さを知って以来、出掛けるのにもなるべく軽装がいいと望まれて、先の日には今すぐに買うつもりはなくともどんなものがあるのかと見分したのだったが、コンピューターと本が入るくらいのやつを一つ買ってもいいなと本格的に思われた。坂を抜けると、液体じみた光が額のあたりから斜めにぶち当たって顔を覆い、肌に染みこむようだった。街道に出ると、Brad Mehldau『Highway Rider』を聞きはじめた。裏通りに入ったところでも西から陽に晒されて、顔を横にちょっと傾けるだけで目の底を貫くように視界を覆うその熱に思わず倒れやしないかと感じたほどだが、頭ではそう思っても実際不安はなく、身体のほうは揺らぎもせずに姿勢を保っているのだから、丈夫になったものだと考えた。風呂に入っているのとほとんど同じような感触のなかを歩いていくのだが、これでも空に雲は群れていて、陽の勢いがすべて解放されているわけではないのだから、夏の盛りが思いやられる。雲間に覗く青は思いのほか夏めいて濃いようで、その下で森も緑の色素を隅から隅まで充実させていた。既に三時前、下校する小学生たちのあいだを抜けて駅前まで行くと、この日はおにぎりを作るのを忘れてきたので、コンビニに入った。それでおにぎり二つを買ってから職場に行き、奥の席に就いて汗が引くのを待ちながら、コンピューターを用意した。書き物を始めたのがちょうど三時頃である。Ella Fitzgerald『Newport Jazz Festival Live at Carnegie Hall』の続きを流して、前日の分をつつがなく済ませると三時半過ぎだった。この調子なら本を読むための時間がたくさん残るぞと、喜び勇んでこの日の分に入ったところが、こちらは意外と掛かって、切りを付けると四時半直前だった。とはいえ、一時間は残っている。買ってきたおにぎり二つを食べながら、『竹乃里歌』を読んだ。流していたElla Fitzgerald & Louis Armstrong『Porgy & Bess』を止めてイヤフォンも外してしまい、コンピューターを片寄せて正岡子規の歌を追った。この日は以前よりも一つ席をずらして壁際の場所に就いたのだが、それだけで授業を行っている同僚の声がよほど薄くなり、意味が捉えられないくらいになったので、音楽で耳を塞がずとも集中することができた。五時半まで一時間読んでから、自分も働きはじめた。それで退勤がいつも通り九時半過ぎである。尾骶骨に小さな痛みを感じながら横断歩道を渡り、駅前ロータリーから裏道へ入った。特段大きな感覚的刺激を拾うことなく歩いているあいだ、散漫な物思いをしていたはずだが、歩いている最中に自分が何を考えていたのかということは、いつもまるで思いだせないものだ。それで夜道を渡って自宅に帰り着くと、父親もちょうど帰ってきたところらしく、風呂へ入る支度をしていた。手を洗って自室に帰ると服を脱ぎ、汗に濡れた肌着も剝ぎ取ってパンツ一枚でベッドに転がった。そうして『竹乃里歌』を少々読んでから上に行ったのが一〇時半頃だった。夕刊をところどころ読みながら、冷やしうどんに角切りにして揚げたジャガイモを食べた。食器を処理してからソファに座ると、炬燵テーブルの上に葉書があって、コンサートの優待券が当たったと母親が言う。八神純子塩谷哲のものだったので、塩谷哲ではないかと言うと、有名なのと問われたので、それなりにとか何とか答えた。小曽根真ともどこかで共演していたはずである。大学時代に立川図書館でそのリーダー作を借りて聞いたことがある。もはや記憶の彼方に飛び去ってしまったその音楽は、純ジャズというよりはどちらかと言えばフュージョンにやや寄った作風だったような印象があるが、また卓越した技量を示していたような感触もかすかに残っている。それで少々興味を惹かれて見に行きたいと思ったが、その日は友人との会合日だったので断念せざるを得なかった。それから風呂に入り、出てきたのがおそらく一一時半頃だった。蕎麦茶を持ってねぐらに帰り、コンピューターを用意してインターネットをぶらりと回ったあと、ブログに前日の記事を投稿した。そしてそのまま自分の日々の記録を、日付を一つずつ遡りながら読んでしまい、気付けば零時二〇分を迎えた。『竹乃里歌』を読まなければというわけでコンピューターを閉じ、歯磨きをしてからベッドに身体を横たえた。眠気は遠いようだった。たびたび身体を起こしてガムを噛んだりしながら読み進めて、午前二時に達する間際にすべて読み終えた。そして用を足してきてから、ちょうど二時から瞑想を始めた。カーテンを閉じてはいたが、網戸になった窓の外から川音がよく聞こえる夜である。左耳はその響きを、右耳は壁時計のかちかち刻む音を、交互に聞くようにしているうちに、窓外が随分静かだなと気付いた。夜鷹はいつも三時頃から鳴きだすのでこの日もまだ不在だが、プロペラめいた散文的な虫の音がない。耳を寄せてみると、これも回転性だが色気のない前者とは違って、やや澄んだような、多少は青みをはらんだような秋の虫を思わせる声が、下草の奥にでもいるのか低みから引っ込み思案に薄く鳴いていた。しばらくしてから目をひらくと一三分、アイマスクを付けて消灯した。それほどの睡眠欲も感じていなかったが、寝付くのに苦労はしなかったらしい。