2016/7/7, Thu.

 九時頃だったのかと思うが、母親が部屋にやってきて、出掛けることを告げた。行き先を聞いて市役所と言うのは、前日にも聞いていたが、手伝いをしている障害者支援の団体で売り出しがあるらしい。午後に雨が降るらしいから洗濯物を早めに入れてと言うのを受けて、ふたたび眠った。乱れた薄布団から出た腕に、じりじりとするような白い陽射しが当たって、暑い朝だった。繋がっているのか繋がっていないのか定かでない細切れの夢を見ながらまどろみ続けて、一〇時半頃にようやく意識がこちらの支配下に戻ったので、窓のほうに視線をやって瞼をこじあけようとした。それに一五分くらい掛かって頭がやっと冴えてきたのが一〇時四五分、まだちょっとごろごろしてから起きて、洗面所に行った。そして用を足して戻ってくると、瞑想である。枕の上に尻を乗せて背すじを伸ばしながら呼吸を一〇分ほど、一一時一三分に目をひらいた。時間をノートにメモしてから、窓外をちょっと眺めると、空は水彩画の淡く滑らかな水色のなかに、かすかな皺が寄っている箇所の一つもない。折れ曲がった手のひらのような棕櫚の葉に陽が宿って白さを塗り、その輝きのなかで葉脈の筋が隠されるどころかかえって明らかになって、その棕櫚の向こうから横に広がる梅の葉は、太陽の快活さに喜ぶというよりは辟易するかのように浅緑に乾いてくしゃりと身を曲げていた。視線を手近に巻き戻すと、よほど小さな虫でなければ通れぬ網戸の目に光の微細片が極小のビーズとなって引っ掛かり、青空を背景にして上から下へと星屑のように雪崩れているのだが、塩粒のようなその星々はこちらの頭が僅かに動くに応じて一瞬で宿りを移していくので、白昼の窓に生まれた天の川はまさしく現実の川のように、一刻ごとにうねってその流れを変化させるのだった。それから、上階に行き、残り物の天ぷらを温めると同時に、卵とハムを焼いた。それぞれを卓に並べて就くと、食べながら携帯電話で他人のブログを読んだ。ものを食べて体温が上がったために汗も出たのでシャツを脱ぎ、新聞をひらいて読み、のちに写す場所にボールペンで鍵括弧を付け、そうしているうちに正午が過ぎたはずである。食器を洗うと、次に風呂を掃除した。さらにもう正午を回ったから良かろうとベランダに出て、タオル類を取りこんでからもう一度外に出て、裸の上半身を空気に晒した。何ものにも妨害されない光がじりじりと肌の全面に貼り付いて、さらに皮膚の下に染みこんでいくような感触が心地よいようで、こういう時にはいつも、ヴィンセント・ファン・ゴッホが書簡のなかで、夏の陽射しに晒されると活力が湧いてきてぼくはヒースの野原を画布を抱えて歩いていくことができる、というようなことを(非常に不正確で曖昧な記憶だが)言っていたのを思いだすものだ。太陽の刺激には、何かしら精神を興奮させるものがあるような気もしないでもない。少々汗腺をひらかせてから室内に入り、タオルを畳んだ。そうして室に帰ったのが一二時半頃だっただろうか、コンピューターを点して、二日前に中途で止めた新聞記事の写しを再開した。Richie Kotzen『Break It All Down』を流して歌いながら、五日の新聞からいくつか、それに前夜に読んだ六日の夕刊からも写しておき、すると一時二〇分かそこらである。それから参院選の情報を求めてインターネットを検索し、さらに自民党憲法改正案とその解説をしているサイトを途中まで読み、それで二時を回った。ベッドに移ってマルセル・プルースト/鈴木道彦訳『失われた時を求めて』一巻をしばらく読んで、腕立て伏せと腹筋運動をしてから、肌を拭きに上がっていったその居間の空気が、下階と比べるとひどく温まっていて蒸されるようだった。制汗剤ペーパーを使って汗を拭き取り、階段の途中に明らかに存在している暖と涼と二つの断層の境をくぐり抜けて、自室に帰ると着替えをした。袖のやや短い純白のシャツに、先日買ったLevi'sのスカイブルーのズボンを合わせ、荷物をまとめると上階に行った。電車までまだ時間があったので出るまで読書をしようとソファに就いたのだが、座りこんだその表面も熱を持っており、背を預けると生暖かさに包まれるのが、人間の身体の上に乗って人体と直接接しているかのようだった。それでしばらくプルーストを読んで三時過ぎに出発、一時は雲が湧いて陽が陰っていたが、その頃にはまた射しはじめていた。道を行っていると、一人暮らしの近所の老婦人が胴の長い犬を連れて戸口に現れたので、横からこんにちは、と挨拶をした。それで行ってらっしゃいと受けて進もうとしたところが、いまから、と疑問の声が続いたので、身体を斜めにしてもう一度背後に向き直り、今日はお休みなんですよ、と告げた。続けて、暑いですけど体調は大丈夫ですかと訊くと、相手は愛想笑いのように小さく声を立ててみせる。お身体に気をつけて下さい、と残して、再度の行ってらっしゃいを受けて歩きだし、林のなかの坂道を上って駅に行った。ホームに立つと、汗だくだった。屋根の下でシャツの背をぱたぱたとさせながら、線路の向かいを眺めると、段の上に作られた畑の敷地の一番手前に、黄色とピンクの花が灯っている。黄色は嵩が小さめの向日葵である。紅の色も混ざったような濃いピンク色のものは、名前がわからないが、茎が長く天に向かって伸びたその先にひらいている。茎はその両側の随所に葉を付けているために、縦に伸びる輪郭線がたびたび突出してはへこんで、不揃いな小石を積みあげた高い塔のように見えるが、その塔は柔らかく、風に揺らされて傾いても決して崩れずに先端の花を支えているのだ。電車が来る時刻になるとホームの先のほうに歩いていき、染み渡るような木々の緑色を眺めながら乗りこんだ。Thelonious Monk『Solo Monk』を聞きだしてしばらく、降りると向かいの先頭車両に乗り換えて、席に就くとプルーストを取りだした。それで車内では読書、平日の昼間とあって人も少ないので、途中から足もとのリュックサックを隣に移し、脚を組んでその上に本を乗せて読んだ。立川に着くと降りて、便所に寄ってから改札を抜けた。広場に出て左のほうを向き、黄色いシャツで署名活動か何かしている男がいるなと見ていると、胸のあたりが何かにぶつかって、驚いて顔を戻すと黒い髪を後ろに結わえた女性に、ちょうど横から衝突していた。離れて、そこそこの衝撃だったのだがこちらを向かず何も言わずにもう一人の女性と去っていく後ろ姿に、すみませんと声をほうってから、喫茶店に向かった。店内は空いている。二面を壁に接した席に荷物を置き、アイスココアを買って戻ってきて、コンピューターを灯すと四時一五分である。Thelonious Monk『Brilliant Corners』を掛けて、書き物に入った。前日のものを済ませたのは四時五八分だった。次にThelonious Monk Quartet with John Coltrane『At Carnegie Hall』を流し、この日の分に入ったが、意外と手こずって切りが付いたのが六時一五分である。それから、村尾誠一著『和歌文学大系25 竹乃里歌』の書き抜きを始めた。店内は冷房がよく利いていて少々寒いくらいだった。ノートに記されたページをひらいて、並んだ短歌のなかのどれが自分の琴線に触れたものだったのかと読み返すあいだ、腕を組んで少しでも体温を集めようとしながら、和歌を写していった。七時一六分になると流していたThelonious Monk『Live at The It Club』の一枚目が終わって、音楽を変えなくてはならないが、聞こえはじめた店内BGMの旋律の繰り返しに覚えがあって、聞いているとまもなくThe Beatlesのカバーだとわかった。確か『Sgt. Pepper's Lonely Hearts Club Band』に入っていたなと、MonkからThe Beatlesに変えて打鍵を続け、ノートに記されたページ番号の列の右端まで解消されたところで、こんなものだろうと作業を終えることにした。『竹乃里歌』に関して残っている書き抜き箇所は、あと一列半強である。冷房のために便意を催していたので、便所に行って糞を垂れ、席に戻ると七時五〇分、退店した。何かしら、手持ちのバッグを買うつもりでいた。それで駅ビルを訪れ、ひとまず二階の、このビルの男性物を扱った服飾店のなかではやや価格帯の高い店に入って、先日友人と訪れた際に見つけておいた革製のものを見分した。二つ折りになる柔らかいタイプのものなのだが、手持ちと言ってこのくらいの大きさはないとコンピューターに加えて本など持ち運べないなというくらいのもので、周囲にあるほかのものは小さい。ひとまず置いてエスカレーターを上がっていき、男性物のいくつか揃ったフロアに降りて回っていくのだが、やはりどれもサイズが足りない。とりあえず先ほどのものを試してみるかというわけで、下階に戻って店に入り、小太りの男性店員に声を掛けて、このバッグだがなかにものを入れてみてもいいかと許可を取った。勿論と返されたので、手近の椅子を利用してリュックサックのほうからコンピューターと、『失われた時を求めて』一巻と『竹乃里歌』を移したが、それで容量としては満杯、薄々気付いていたが、このようなタイプの薄い鞄を使うには自分の荷物は多すぎるらしい。そこで店員が、お客さん、入れるのはガジェットとかですよねと言って、ガジェットなどという単語を口にしたことは生まれてこの方なくその正確な意味も知らないのだが、適当に肯定すると直後、こっちのほうが良さそうですねと少し大きめの別のバッグを持ってきてくれた。僕もこれにパソコン入れて持ったりしてますと体躯の大きい相手は押しの強さが自然に表れている声音で勧めるのだが、しかし、少々内側の隙間が増えたのみで似たり寄ったりといった感じである。二二〇〇〇円ほどするものらしいのを、何がどうしてそうなるのかわからないが、一四〇〇〇円ですねと店員は電卓を示して売りこむが、保留でと受けて、礼を言って店を出た。結局、ハードカバーの本を二つ持ち歩くような生活形態を変えることなしには、軽い鞄は使えないのだと遅れ馳せながら理解して、それでは今度はもう少し大きめのトートバッグを探しに行くかとふたたびエスカレーターに乗った。長年馴染みのリュックサックのスタイルに、飽きていることには飽きているのだ。上階に行くとフロアをぶらぶらと回って、一つの店に入り、先ほども見かけてはいた牛革のトートバッグ一一〇〇〇円を調べていると、金がかったくしゃくしゃの髪の若い店員が寄ってきたので、なかに入れてみてもいいですかとまた許可を取った。詰め物を取りだしてコンピューターに本二冊を移すと、当然容量的にはちょうどいい具合である。見た目のわりに朴訥な感じの店員と話しながら片手に提げてみたりして、柔らかく滑らかな革の質感も色合いも気に入られはしたが、果たしていまこれが本当に必要なのだろうかと迷って、魔法の言葉「保留で」を口にし、礼を言って退店した。その後も回りながら、雑貨屋めいて諸々扱っている店に入り、バッグが揃えられた棚の前に立って、頭上から下ろして見分していると、すぐ近くのレジの前にいた女性店員が話しかけてきた。リュックサックにもう飽きてきたんですよ、それに最近は背中が暑いんですよねなどと話して、相手がそこに並んだバッグ類を分別して説明してくれるのに適当に応じた。なかに一つ、パッチワーク模様になっている革製トートバッグがあって、明るすぎない黄を基調にした色の組み合わせが鮮やかなのを、パンチが利いてますね、これに挑戦する勇気はないですねとか口にはしながら、その実わりと気に入られたのだが、一四〇〇〇円である。欲しければ買ってもいい額ではあるが、そこまでの欲望も感じなかったので、魔法の言葉「保留で」の三度目を口にして、女性には礼を言って店をあとにした。すると時間は八時四五分頃、ビルの閉まる九時も近いし、帰ることにした。ビルを出て改札内を歩きながら、バッグはいまは買わなくてもいいなという気分になった。そもそも背が暑く汗をかくから何だと言うのか、リュックサックをトートバッグに替えたところで暑いのも汗をかくことも変わりはないのだ。そんなに金のある暮らしをしているわけでもなし、新しいものを買うのだったら困り切ってからでいいなと思い、一一〇〇〇円だの一四〇〇〇円だの使うのだったら、ムージルの伝記の三巻なり、マラルメ全集なり、Brad MehldauとFred Herschの新譜なりに充てるべきだと結論が出たので、この夏もリュックサックのまま我慢することにした。そうして電車の最前に乗り、そこそこ混んだなかで『Solo Monk』を聞きながら立っていたが、そのうちに左の車掌室との区切り壁に寄りかかれると気付いたので、そこに移り、プルーストを取りだした。それで読んで地元に着くと、本を小脇に抱えたままちょうど来ていた電車に乗り換え、またちょっと読んでから降りた。本をリュックサックにしまい、耳もとのMonkのソロピアノに意識を寄せて、歩調をのろのろ緩めながら駅を抜けた。そのまま音楽を聞きながら夜道を行って、自宅にたどり着くと玄関の扉を引いたが、なかでフックが引っ掛かっていてひらかない。母親は風呂に入っていた。勝手口のほう、浴室の窓の外から事情を知らせると、ちょっと待っててと言うので、そのあいだにいまは何もない隣家の敷地に踏みこんで、沢のあたりの暗闇を眺めた。蛍が見えるかと思ったのだ。しかしあるのは木々に守られた暗がりのみ、それで道路を渡って林に接した我が家の借り地にも入って、黒々と光の届かない闇を眺めたが、やはり何も見えない。沢とも言えないような小さく細い水路の上を飛び越して、また家横に戻り、先ほどの位置よりも下りてより沢に近づいてみたが、何か気のせいのような明かりが視界の端にあるかと見えるのは、まさしく気のせい、目の錯覚で、なぜなら視線を移すとそれに応じて付いてくるからだ。蛍を見るのは諦めて玄関に戻り、なかに入って室に帰ると服を脱ぎ、ベッドに転がってプルーストを読みはじめた。残り僅かだったので読み終えてしまいたかったのだ。ご飯を食べないのかと母親が天井を鳴らすのも無視して読了し、書き抜き箇所を手帳にメモして、上がっていったのがおそらく一〇時四〇分かそのあたりである。野菜を豚肉で巻いた料理をおかずに米を食い、味噌汁も飲んで、残り物の肉じゃがなども平らげて、風呂に入ろうという頃に父親が帰ってきた。先に飯を食うと言うのでこちらは入浴に行き、出てくると一一時半、蕎麦茶とともに室に戻りながらも茶は一旦放置して瞑想をした。それが一一時三六分から四五分である。入浴後とあってまだ身体が熱を持っており、裸の背中から湯気が立っているのが見えるのではないかというほどに肌が温かさに覆われていた。窓外の近くから回転性の虫の音が立つのを、以前はプロペラのようだと書いていたが、この時耳を寄せているとぜんまい仕掛けのおもちゃの音に似ているなと新たな比喩が浮かんで、そう思ってみるとまさしく、鳴き声が唐突に、何の前触れも見せずにただ短い最後の吐息だけを残して沈黙するその力尽き方もぜんまい仕掛けのそれのものだし、音が絶えてからしばらくしてまた鳴きだすのも、遠くに籠る川音のみが聞こえる空白のあいだに、まるで闇のなかで誰かがぜんまいを回して動力を吹きこんでいるかのようなイメージが浮かぶのだった。瞑想を終えるとコンピューター前に立ってインターネットに繋ぎ、携帯電話会社のサイトを訪れて、料金プランについて調べた。いわゆる「ガラホ」でなくとも、スマートフォン用に段階型定額サービスがあるのを発見し、シミュレーションをしてみると現在より遥かに安くなったので、これに変えようと決めた。それで自分の契約情報ページにアクセスし、プラン変更フォームに移って手続きをすると、既に零時を回って一〇分頃だった。あとは二時まで読書をしようとコンピューターを黙らせて、しかし英語も触れなくてはとGabriel Garcia Marquez, Love in the Time of Choleraを取った。三〇分を復習だけに充てて前線は進めず、その後、浅井健二郎編訳・久保哲司訳『ベンヤミン・コレクション1 近代の意味』を読みはじめた。冒頭の「言語一般および人間の言語について」から早速難しく、ほとんど理解ができない。二時前になると湧いてきた眠気を、立ちあがってガムを噛むことで紛らせ、さらにもう少し読んだのだが、結局一五ページ程度しか読み進められないままに終わった。その後、二時二〇分から三〇分まで瞑想をして、就寝した。



村尾誠一著『和歌文学大系25 竹乃里歌』明治書院、二〇一六年


 寝ぬ夜半をいかにあかさん山里は月出づるほどの空だにもなし

  (71; 350; 明治二四年=一八九一年)
自筆本になし、「かけはしの記」による。◯空だにもなし―山が迫っていて空が極めて狭い様子。▽木曾の須原での作。

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 風にだに匂ひを残せ梅の花ちりての後も人かとはなん

  (77; 380; 明治二五年=一八九二年)
◯風にだに―せめて風にでも。◯人かとはなん―人が訪ねて来てほしいが。願望を示すが、訪ねてくる人がいるか疑問の意も含む。語法的には「人やとはなん」とあるべきか。▽菅原道真の「こち吹かばにほひおこせよ梅の花主なしとて春を忘るな」(拾遺・雑春)を意識か。

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 谷深みそこともしらぬ山鳥の声のこだまにちる桜哉

  (77; 384; 明治二五年=一八九二年)
◯そこともしらぬ―明確な地理を失う様。古典和歌でもよく用いられる表現。◯山鳥―「山」を言い掛ける。◯声のこだま―山鳥の声が山彦となり聞こえる様子。その声の中を桜が散っている情景。

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 夕立のはるゝ跡より月もりて又色かゆる紫陽花の花

  (80; 396; 明治二六年=一八九三年)
◯月もりて―雲が途切れた所から月光が射す様。◯又色かゆる―紫陽花は花の色を変えて行くので七変化とか八仙花などと呼ばれる。ここでは、月光に照らされて色が変わる様。自筆本「かゆる」の「ゆ」を消さずに「ふ」を傍記。

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 朝日さす寝ざめの窓に影見えて花ふみちらし鶯のなく

  (82; 409; 明治二六年=一八九三年)
◯影見えて―鳥の姿が見える様。▽結句はほぼ同じ大きさで二行割で、「鴉なく也」を並記するが、情景としては鶯が妥当であろう。古典和歌でも「わが宿の花ふみしだく鳥うたむ野はなければやここにしも来る」(古今・物名・紀友則)、「鶯の花踏みちらす木[こ]の本はいたく雪降る春べなりけり」(万代集・春下・紀貫之)などの例がある。

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 みちのくの夕風あれていづる月にこがね花ちる沖つ白波

  (82; 411; 明治二六年=一八九三年)
◯夕風あれていづる月―強い夕風に雲が押し流されて月が出た様。◯こがね花ちる―波が月の光を受けて金色になって砕ける様子。大仏建立のための砂金出土を祝った大伴家持の「天皇の御代栄えむと東[あづま]なる陸奥山に金[くがね]花咲く」(万葉・巻一八・四〇九七)も意識する。

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 枯芝に霜置く庭の薄月夜音ばかりしてふる霰かな

  (124; 526; 明治三一年=一八九八年)
百中十首。歌頭に鳴雪撰を示す「鳴」を朱書。歌脚に丸印。◯枯芝―晩秋から初冬の風景。◯薄月夜―雲がかかりぼんやりと月が見える夜。◯音ばかりして―降っている様は見えないが、霰が草葉の上に音を立てて降る。

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 高楼[ドノ]の翠簾[みす]たれこめて春寒み飛び来る蝶を打つ人もなし

  (126; 536; 明治三一年=一八九八年)
百中十首。歌頭に鳴雪撰を示す「鳴」を朱書。◯翠簾たれこめて―何らかの事情で部屋を閉め切っている様。「たれこめて春のゆくへも知らぬ間に待ちし桜もうつろひにけり」(古今・春下・藤原因香)を念頭にするか。◯春寒み―春が寒いので。気候が不順な様。

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 飼ひおきし籠の雀を放ちやれば連翹[れんげう]散りて日落ちんとす

  (127; 542; 明治三一年=一八九八年)
百中十首。歌頭に徒然坊撰を示す「徒」を朱書。◯飼ひおきし籠の雀―『源氏物語』若紫巻で、幼い紫の上が、「雀の子を犬君[いぬき]が逃がしつる。伏籠の中に籠めたりつるものを」と言う場面を連想させる。◯放ちやれば―ここでは、放生の意図によるものか。▽自筆本では「連翹の花に」を墨滅訂正。色彩的に鮮やかだが、「散りて」であれば、春が闌けた様が表現される。落日も遅い。

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 文写す窓の紅梅咲きそめて紅うつる薄様の上に

  (137; 607; 明治三一年=一八九八年)
◯文―ここでは古典籍。◯紅うつる―紅梅の色が書写する紙に映発する様。

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 雨乾く薄紅梅の夕日影又照り返すカナリヤの籠

  (137; 608; 明治三一年=一八九八年)
◯カナリヤ―黄色い鮮やかな鳥。夕日に映える。日本では江戸時代から飼育。▽複雑な色彩が表現される。

     *

   臥龍

 梅園に老い行く年を臥す竜の爪もあらはに花まばらなり

  (149; 688; 明治三一年=一八九八年)
臥龍梅―竜が臥すように地を這うように伸びた梅の古木。駿河清見寺など各所に見られる。◯花まばらなり―花の数が少なくなってしまって枝を見せるようになった様。

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 墓原の梅吹き散らす夕風に柩[ひつぎ]を送る笛の音[ね]ぞする

  (154; 718; 明治三一年=一八九八年)
◯墓原―広い墓地。▽各感覚の複合した風景を詠む。

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 若菜摘む裾わの田居の古川に鶴脛ぬれて春の水満つ

  (164; 783; 明治三一年=一八九八年)
◯裾わの田居―山の麓の田。「筑波嶺の裾わの田居に秋田刈る妹がりやらむ黄葉手折らな」(西本願寺本万葉集・巻九・一七五八・作者未詳)。◯鶴脛―鶴の脛は長い。

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 一枝の桜を瓶にさしておけば硯の水に花ぞ散りける

  (165; 791; 明治三一年=一八九八年)
◯一枝の桜―子規のもとへ届けられた花のついた桜の一枝。▽書斎(病室)の小宇宙的な世界。

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 五月雨は遠山鳥のしだり尾の長尾の雫絶ゆる間もなし

  (178; 872; 明治三一年=一八九八年)
◯遠山鳥のしだり尾の長尾の―雨の長く続き雫が落ち続ける様の序詞的表現。「あしびきの山鳥の尾のしだり尾のながながし夜を一人かも寝む」(拾遺・恋三、百人一首柿本人麻呂)。自筆本は「かけのたれ尾のしだり尾の尾末」の本文傍記。「にはつ鳥かけのたれ尾のしだり尾の長き心も思ほへぬかも」(西本願寺万葉集・巻七・一四一三・作者未詳)。

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 都路はともし火照らぬ隈もなし夜の埃の立つも知るべく

  (206; 1059; 明治三一年=一八九八年)
◯ともし火―街灯。◯夜の埃―細くて夜目には見えない。

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 椎の樹に蜩鳴きて夕日影なゝめに照すきちかうの花

  (214; 1106; 明治三一年=一八九八年)
◯夕日影―夕日の光。古典和歌でも詠まれる。「ひぐらしの鳴くや木末の夕日影いとはや秋の色ぞ見え行く」(伏見院・伏見院御集)。◯きちかうの花―桔梗の花。夏の景物。

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 雨になく庭の鶯そぼぬれて羽ばたきあへず枝移りする

  (233; 1221; 明治三二年=一八九九年)
◯羽ばたきあへず―雨に濡れて羽が自由に動かない様を微細に捉える。◯枝移り―枝から枝に移ること。「梅が香ぞ寝覚めの床にかをるなる今鶯や枝うつりする」(俊恵・林葉集)。

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 蠶飼[こがひ]する木曾の山里五月[さつき]来て桑の実赤し鳴くほとゝぎす

  (242; 1279; 明治三二年=一八九九年)
◯蠶飼―カイコを飼うこと。◯桑の実―桑の実と時鳥の取り合わせは古典和歌世界のものではない。

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 椎の木の木末[こずゑ]に蟬の声老いてはつかに赤き鶏頭の花

  (256; 1368; 明治三二年=一八九九年)
◯蟬の声老いて―蟬の声がだんだんに聞こえなくなる様。◯鶏頭の花―鶏頭の花(厳密には葉)は晩夏から色づきはじめ秋に真赤になる。

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 名残りなく野分は晴れて倒れ伏す萩に朝日の胡蝶飛ぶなり

  (260; 1393; 明治三二年=一八九九年)
◯野分―台風。◯晴れて―台風一過の晴天。▽王朝女流文学でも見られる台風の翌朝の描写を意識するか。「萩、女郎花などの上によころばひふせる、いと思はずなり」(枕草子)。朝日に照らされる蝶は独自の取り合わせ。

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 露草の朝露重み枝たれて野川の泥によごれてぞ咲く

  (264; 1421; 明治三二年=一八九九年)
◯露草―ツユクサ科の一年草。夏に藍色の花が咲く。◯朝露重み―朝露が重いので。◯野川―野を流れる小川。

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 首もなく手もなくなりて道のべの仏はもとの石にぞありける

  (267; 1444; 明治三二年=一八九九年)
◯道のべの仏―路傍に置かれた石仏。◯もとの石―石仏を石の仏性を引き出したものと見る。

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 仏たつ道のべ柳落葉してそなへし菊にしぐれふるなり

  (275; 1495; 明治三二年=一八九九年)
◯仏立つ―路傍の石仏。◯落葉して―柳も落葉樹である。

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 人去りて上野の山は暮れにけり茶店の旗に桜ちる鐘
 
  (281; 1533; 明治三二年=一八九九年)
◯人去りて―上野は当時も花見の名所。◯桜ちる鐘―桜が散る中に鐘が響く様子の凝縮された表現。

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 森深み山鳥啼きてたまたまに人に逢ふさへ淋しかりけり

  (293; 1605; 明治三三年=一九〇〇年)
◯森深み―森が深いので。◯人に逢ふさへ―本来深山で稀に人に会えば里心地になるが、それまでも飲み込んでしまう静けさ。

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 千はやぶる神の木立に月漏りて木の影動くきざはしの上に

  (296; 1621; 明治三三年=一九〇〇年)
◯千はやぶる―「神」を導く枕詞。◯きざはし―神社の階段。