2016/7/10, Sun.

 もはや寝覚めの瞬間のことを覚えていないが、記録によると一一時に起床したらしい。多分晴れに寄った天気だったのではないか。起床時の瞑想をさぼって上がっていくと兄も起きていて、ソファに巨体を預けながらタブレットを操作しており、その傍らに母親がいた。父親は外で立ち働いているらしい。こちらは前夜の残り物で食事を済ませて、その後新聞を読むか携帯でウェブを回るかしていると、正午が近づいて母親と兄も食事にしようという雰囲気になった。それで蕎麦を茹でて天ぷらを作るとか母親が言っているので、こちらも台所に立って、母親が流し台の桶に茹でた蕎麦をあけたところから仕事を引き継ぎ、いくらかぬるぬるしている麺を流水に晒した。何度か水を取り替えたあとに一杯分ほどの大きさに丸めながらざるに上げると、その頃にはフライパンの油も温まり、粘りのある衣のなかに青じそが投入されていたので、それを揚げに掛かった。跳ねる油を裸の上半身に受けないように注意しながら、青じそいんげん、人参、ジャガイモの順に、つまみ食いをしつつ揚げていき、もうそろそろ終わるところでアイロン掛けに移るために母親にバトンを渡した。兄がもう食いはじめているその脇で、炬燵テーブルの上にアイロン台を用意し、シャツやらズボンやらエプロンやらハンカチやらの皺を伸ばして、おそらく一二時半頃には下階に帰ったのではないか。蕎麦茶を飲みつつ、八日と九日の新聞から記事を写して、それからこの日の新聞も読んだと思う。それでもう一時半あたりに到ったのかもしれないし、あるいは新聞に加えてインターネットを回るか何かして時間を使ったのかもしれない。歯ブラシをくわえながら上に行って、いわゆる歴女を回答者に集めたクイズ番組をちょっと見た覚えがあるが、その時点で一時四〇分かそこらだったはずだ。その後、ベッドに一旦移って、浅井健二郎編訳・久保哲司訳『ベンヤミン・コレクション1 近代の意味』を五ページほど読み、それから運動をした。腕立て伏せに腹筋運動、この日はさらにスクワットもごく軽くだがやっておいて、汗を拭きにまた上に行ったのが二時頃だっただろう。母親と兄も電気屋に行くから、出掛けるなら送っていくと言われて、暑気のなか徒歩を選ぶのが躊躇われたので甘えることにした。それで部屋に戻って着替えをして、荷物もまとめて居間に行き、ソファに座って母親の支度を待った。そのうちに兄とこちらは先に玄関の方に行って、こちらは外で待つことにして家を出たが、するとちょうど風が林を渡って漣めいた音を立てているところだったので、道路の縁から見上げた。どこを見ても動いていない箇所がなく、葉の一枚一枚が緑の微粒子のように揺動して、空間の表面が波立って震えているなかに、木々の高いところには陽射しが掛かって明朗な色が浮かび、緑のなかに雫のような白点が加えられていた。少し離れた視界の端からは、鶯の音も落ちる。しばらくそれを眺めて、今度は隣の敷地の縁にある大きめの石の上に乗ってバランスを取りながら、雲が薄く引かれて水色になった市街の上空のほうを見た。兄は既に車のなかに入ってエンジンを掛けており、そのうちに母親も出てきたので、車に移って出発した。まずはこちらが投票を済ませるために、地元の自治会館である。坂を上っていって、自分も通ったところだが駐車場になっている保育園で下ろしてもらい、通知葉書を片手にぷらぷらさせながらすぐ近くの会館に入った。上がってすぐ正面、多分畳敷きだったような気がするが、子供会やら自治会やらで何かしらの催しをすることもあるはずの、そこそこの広さの一室に投票所が設けられ、右側に長テーブルが置かれてスタッフがおり、反対側の壁際には立会人が並んで座っていた。葉書を渡して、まず都道府県ごとの選挙区用の用紙を受け取って、入り口側、仕切りで区切られた台の上で、前に貼られたリストを見ながら候補者名を記入した。それを銀色のいかにも頑丈そうな投票箱の細い口に入れて、次は比例代表の紙をもらい、次は奥のほうに置かれた台の上で同じように記入し、もう一つの箱に入れた。左右に会釈してお疲れ様でしたの声を受けながら退出し、強い陽射しのなか車に戻った。それで今度は図書館へ、こちらは隣の母親と雑談しながら兄に街道をひた走ってもらい、館のすぐ傍で下ろしてもらった。夕方には都内に帰るだろう兄と大した別れの挨拶もせずに礼を言うだけで下り、館に入って、母親に頼まれた本を返却した。階を上がって新着図書を見たあと窓際に出るのだが、当然空いていないのでさっさと出口に戻って、駅を通り抜けてハンバーガーショップに行った。ジンジャーエールを注文して席に就き、書き物を始めたのが記録によると三時二〇分頃である。まず自宅を写す時にも聞いていたHughes-Turner Project『HTP: 2』を流して、次にGonzalo Rubalcaba Trio『At Montreux』、あとはHank Mobleyを『Roll Call』、『Dippin'』、『Soul Station』、『Workout』と移行させていったが、文を綴っているあいだに音楽など大して聞こえはしない。途中、シェーキを飲む時にもそうなることが多いのだが、何も食わずに空っぽの胃のなかに炭酸を受け入れたためか、内臓に不快感がわだかまって、空気が喉元に上がってきた。食道のあたりが空気で膨らまされているかのようで、きしみが背中にも響いて、結構苦しいのだ。難儀しながら前日の記事を綴っていると、こちらの席の前を通った人が、過去の同僚だと気付いた。トイレから帰ってきて、こちらの隣、肩あたりまでの高さの仕切りを挟んだ向こうに座っている。あちらも気付いているらしい雰囲気があったが、話しかけてこないので一旦放置して、六時半前に前日の記事を最後まで片付けた。前日に一時も書くことができなかったので、六〇〇〇字を頭から記すことになった。それでイヤフォンを外し、背伸びをしてから、隣の相手に話しかけた。パニック障害で職場を離れる前の同僚だから、六、七年前の話である。昨年、前の上司の送別会でも確か顔を合わせたと思うが、久しぶりですと挨拶して、こちらは休みだと言うと、高校教師の相手は、野球部の応援に行ってきたところだと言う。それでまたこれから、PTAの親睦会がある。忙しいと受けて、まだ塾で働いているのかと言うのに肯定し、小説を書きたいから親元に置いてもらってフリーターをしていると説明した。仕事はどうかとか生徒はどうかとか適当に問い、魚を獲るようにひょいひょいとポテトをつまみながら相手が話すのを聞き、六時四五分頃になると、七時からだからそろそろ行かなきゃと相手は言って、連絡先を交換しておこうと提案してきた。特段連絡する機会もあるまいと思われたが、断る理由も特にないので、相手の携帯に一度発信し、SMSで来たメールに付されたアドレスを登録した。相手が去ってからこちらのアドレスも送っておき、この日の記述は翌日の自分に任せることにして、村尾誠一著『和歌文学大系25 竹乃里歌』の書き抜きを始めた。バッテリーが危うそうだったので音楽を止めて進め、七時四〇分過ぎに終えて、帰宅することにした。明治書院のハードカバーを脇に抱えながら退店し、駅の反対側に出て、ブックポストに本を返却した。西南の空に爪の切れ端のように細い三日月が朧に出ている。歩廊の上から電車が来るのが見えたので、小走りに駅に入って改札を抜け、ホームに下りて乗った。Bill Evans Trioを聞きながら揺られて、降りるとちょっと乗り換えを待って、座って他人のブログを読みながら最寄りに着くのを待った。降りて歩きだすと、しゃっくりが始まった。まだ内臓の不調が続いていたのだ。酔っ払いのような自分の頓狂なうめきが夜気に響くのが少し恥ずかしいので、耳を塞いだまま坂を下りて行った。横隔膜のあたりを親指で押してほぐしてみたりもするのだが、大して効果はなく、口内には急速に唾が溜まっていく。それを吐くと、こういう時にはいつもそうだが、液体の割合が高くて粘りが少なく、重みに従ってまっすぐ素早く落ちて、唇とのあいだに糸も残さないのだった。しゃっくりを止められないままに帰宅すると、ねぐらに帰ってベッドに寝転んだ。八時半頃だった。それで九時二〇分あたりまで身体を休めて、横隔膜の痙攣もなくなってから食事に行った。サバやら天ぷらの残りやら味噌汁やらを食うのだが、やはり何となく胃が苦しみがちなようだった。一〇時になると入浴に行って、髭を剃って出てくると一〇時半、この日一度も瞑想をしていなかったので、室に帰ると枕に座った。一〇時三八分から四八分、それから『Blue Murder』を流して、クロード・レヴィ=ストロース/川田順造訳『悲しき熱帯Ⅱ』の書き抜きをした。とにかく溜まっている書き抜きを終えないといけないのだが、ほかに知人の論文と『失われた時を求めて』一巻も控えている。以前よりもノートにメモされるページの数が増えて、必然時間が掛かり、読書のペースは遅くなって今では月に読めるのがせいぜい六冊程度になっているのだが、仕方ない、書き抜きをしないわけにも行かない。打鍵しながら蕎麦茶を飲むと、喉の奥のあたりが敏感になっていて、ほんの軽くだが焼けるような感触があった。となると、上がってきて唾に混ざっていたあの水っぽい液体は胃液なのだろうかとも思うのだが、しかしそれにしては酸味がまったくなかったので、何なのかよくわからない。零時半頃まで書き抜くとインターネットに繰りだし、途中で自慰もして、二時を迎えた。それからベッドに帰って『ベンヤミン・コレクション1』を読み、歯磨きも済ませて三時まで読み、就寝前の瞑想をさぼって消灯した。



村尾誠一著『和歌文学大系25 竹乃里歌』明治書院、二〇一六年


   春雨

 春雨のしのぶが岡にぬれてさく桜をいづる傘の上の花

  (313; 1730; 明治三三年=一九〇〇年)
◯しのぶが岡―現在の上野の不忍池周辺。◯桜をいづる―桜並木を出てきた。そこで散った花が傘の上に乗っている様子。

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 霜解の下駄の跡多き古庭に萩の芽もえて春雨のふる

  (313; 1731; 明治三三年=一九〇〇年)
◯萩の芽―萩も春に芽吹く。春の季語。子規の句にも「足の立つ嬉しさに萩の芽を検す」などがある。

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 霜おほひの稾とりすつる芍薬の芽の紅に春の雨ふる

  (314; 1739; 明治三三年=一九〇〇年)
芍薬キンポウゲ科多年草。牡丹と同属で、牡丹に似た紅または白の大きな花が咲く。中国原産。花期は初夏だが春には芽が出る。▽微細な情景に着目。

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 玉飾る高殿更けてたき物の匂に曇る春の夜の月

  (317; 1754; 明治三三年=一九〇〇年)
◯玉飾る―美しく建物が装飾された様。◯春の夜の月―霞に朧に曇る月が焚き物の香で曇るように見える。

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 君が倚[よ]る朱[あけ]のおばしま小夜更けて雪洞[ぼんぼり]の火に桜散るなり

  (317; 1756; 明治三三年=一九〇〇年)
◯おばしま―欄干。◯雪洞―柄をつけた小さな行灯。▽妖艶な遊里の夜の部屋に桜が散りかかる。

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 夕日影照り返したる山陰の桃の林に煙立ちけり

  (322; 1786; 明治三三年=一九〇〇年)
◯桃の林―正徹にも詠まれ江戸時代にも作例がある。「山里にあさでかけおくはつきより桃の林とさける花かな」(正徹・草根集)。◯煙立ちけり―急に夕日に照らされた桃の花が煙のように見える様子か。▽題、「桃花」。桃源郷をイメージする。

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 花散りて葉いまだ萌えぬ小桜の赤きうてなにふる雨やまず

  (337; 1879; 明治三三年=一九〇〇年)
◯赤きうてな―赤みをおびた花の散った後の萼。花の細部まで観察が行き届く。

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 くれなゐの二尺伸びたる薔薇の芽の針やはらかに春雨のふる

  (343; 1918; 明治三三年=一九〇〇年)
◯くれなゐの―花ではなく茎の色。◯針やはらかに―春雨に濡れる棘の繊細な描写。▽写生的な歌境の達成の一首とされる。

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   五月二十一日朝、雨中庭前の松を見て作る

 松の葉の細き葉毎に置く露の千露もゆらに玉もこぼれず

  (354; 1979; 明治三三年=一九〇〇年)
◯五月二十一日―この日は朝から歌会が催され、即景の歌として詠まれる。◯千露もゆらに―たくさん置いた雨滴も揺らぎながら。実景の観察に基づく万葉的な表現。「ゆら」は、正しくは、物が当たって鳴る音の擬音という。「足玉も手玉[ただま]もゆらに織る服[はた]を君が御衣[みけし]に縫ひもあへむかも」(万葉・巻十・二〇六五・作者未詳)。

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 松の葉の葉毎に結ぶ白露の置きてはこぼれこぼれては置く

  (354; 1980; 明治三三年=一九〇〇年)

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 青松の横はふ枝にふる雨に露の白玉ぬかぬ葉もなし

  (355; 1983; 明治三三年=一九〇〇年)
◯ぬかぬ―貫かない。松の細葉に置く露を貫くと見立てる。

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 ホトヽギス其一声ノ玉ナラバ耳輪に[ママ]ヌキテトハニ聞カマシ

  (357; 1996; 明治三三年=一九〇〇年)
◯耳輪にヌキテ―その玉を糸で抜いて耳輪にすること。「ほととぎす汝が初声は我にもが五月[さつき]の玉に交へて貫[ぬ]かむ」(万葉・巻十・一九三九・作者未詳)などに学んだ発想。

     *

夕餉したゝめ了りて、仰向に寝ながら左の方を見れば、机の上に藤を活けたる、いとよく水をあげて花は今を盛りの有様(end396)なり。艶にもうつくしきかなとひとりごちつゝ、そゞろに物語の昔などしぬばるゝにつけて、あやしくも歌心なん催されける。斯[この]道には日頃うとくなりまさりたれば、おぼつかなくも筆を取りて

 瓶にさす藤の花ぶさみじかければたゝみの上にとゞかざりけり

  (396~397; 2232; 明治三四年=一九〇一年)
◯『墨汁一滴』四月二十八日。

     *

暑き苦しき気のふさぎたる一日もやうやく暮れて、隣の普請にかしましき大工左官の声もいつしかに聞えず、茄子の漬物に舌を打ち鳴らしたる夕餉の膳おしやりあへぬ程に、向島より一鉢の草花持ち来ぬ。緑の広葉うち並びし間より七八寸もあるべき真白の花ふとらかに咲き出でて、物いはまほしうゆらめきたる涼しさいはんかたなし。蔓に紙ぎれを結びて夜会草と書いつけしは口をしき花の名なめりと見るに、其[その]傍に細(end428)き字して一名夕顔とぞしるしける。彼方の床の間の鴨居には、天津の肋骨が万年傘に代へてところの紳董[しんとう]どもより贈られたりといふ樺色の旗二流おくり来しを掛け垂したる、其のもとにくだりの鉢植置き直してながむれば、又異なる花の趣なり。此[この]帛に此花ぬひたらばと思はる。

 くれなゐの旗うごかして、夕風の吹き入るなべに、白きものゆらゆらゆらぐ、立つは誰ゆらぐは何ぞ、かぐはしみ人か花かも、花の夕顔

  (429; 2391; 明治三五年=一九〇二年)
『病牀六尺』九月五日。◯夜会草―ユウガオの別名。▽子規最後の歌。


 (……)トラックは何時間もかかって、人間が僅かに手を加えた斜面を攀じ登る。こうして私たちは、マト・グロッソのシャパダ〔台地〕の高い方の縁に出る。ここから北へ、緩やかに傾斜しながらアマゾン河地帯まで一千キロに亘って拡がる大高原「シャパダウン」が始まる。(end19)
 そこに開けているのは一つの別世界だった。乳緑色の荒い草は、砂岩質の岩の表面が風化して出来た白や薔薇色や黄土色の砂を、十分に覆い隠してはいなかった。植物といっては、厚い樹皮や光沢のある葉や棘で、一年のうち七ヵ月続く乾燥から保護された節くれだった木が、疎らに生えているくらいのものだった。だが、この荒涼としたサヴァンナが庭園に変わるのには、何日か続いて雨が降るだけで十分なのだ。草は緑になり、木々は白や薄紫の花で覆われる。それでも相変わらず、広大さの印象があたりを支配している。地面があまりに一様で、傾斜があまりに微かなので、地平線は数十キロにわたって何の障碍もなく延びている。朝から同じ風景を眺めて半日走り続けるのだが、それは前の日に通過したのと同じ風景であり、こうして、目の前に見ていることと思い出されることとが混り合い、動きがないという感じが執拗に私たちに取り付いてしまうのだ。大地がどれほど遥かに拡がっていようとも、それはあまりに単一であり、空の中の非常な高みにある遠い地平線を雲と取り違えるほど、大地は凸凹を欠いているのである。幻惑に充ちた風景は退屈を感じさせるどころではない。時折トラックは、縁のない浅い流れを渡る。水流は、台地を横切るというより、水浸しにしている。それはあたかも、この土地――世界で最も古く、中生代にブラジルとアフリカをつないでいたゴンドワナ大陸そのままの残片なのだが――があまりに若く、河がそこに河床を穿って流れるだけの時間がなかったかのようだ。
 ヨーロッパは、模糊とした光のもとに明確な形を提示する。ここでは、われわれ伝統に捉われ(end20)ている人間から見ると、空と大地の役割が入れ替わっている。乳様に棚引いているカンポ〔原野〕の上方で、雲がこの上もなく突飛な構築物を造りあげている。空は形と容積を具えた領域であり、大地は太古の柔らかさを保っている。
 (クロード・レヴィ=ストロース川田順造訳『悲しき熱帯Ⅱ』中央公論新社(中公クラシックスW5)、二〇〇一年、19~21; 「21 金とダイヤモンド」)

     *

 或る社会は、死者をそっと休息させておく。定期的に敬意を捧げられることによって、死者は生者を煩わすことを差し控えるのである。死者が生者に会いに来るとしても、間をおいて、しかも予定された機会に来るのである。そして、死者の来訪は生者に福利をもたらすものであって、死者はその保護によって、季節の規則正しい再来や農作と女性の豊饒を保証する。まるで、死者と生者のあいだに契約が結ばれてでもいるかのように、すべては運ばれる。死者に捧げられる然るべき供養の報いとして、死者は彼らの住処を離れず、生者との一時[いっとき]の出会いも、常に生者の利益への慮りに充ちている。世界に広く見出される民間伝承の主題の一つである「感謝する死者」は、よくこの関係を表わしている。金持の主人公が、埋葬に反対している債権者たちから、(end67)一体の死骸を買い取る。彼は死者を正式に埋葬する。死者は恩人の夢に現われて一つの成功を約束する。ただし、この成功によって得られた利益が、彼ら二人のあいだに公正に配分されるという条件で。事実、主人公は、超自然の力をもつ彼の保護者の助けによって、一人の王女を数々の危険から救い、たちまち王女の愛を得る。死者と共に、それを享受すべきであろうか? だが、王女は魔法にかけられているのだ――半ば女性だが、半ばは竜もしくは蛇なのである。死者は彼の権利を要求する。主人公は要求に従う。この忠実さに満足した死者は、自分の取り分として呪われた部分を除いてやり、人間に戻った花嫁を主人公に与える。
 こうした考え方に、もう一つのものが対置される。これも民間伝承の主題の一つが明らかにしているもので、私はそれを「企む騎士」と呼ぶことにする。主人公は金持ではなく、貧しい。彼は全財産として麦を一粒もっているのだが、企みによって、それを一羽の雄鶏と、それから一匹の豚と、次には一頭の牛と、次には一体の死骸と取り換えるのに成功する。とうとう彼は、死骸を一人の生きた王女と交換する。ここでは、死者は対象であって、登場人物でないことが分かるであろう。取引の相手ではなく、嘘や計略が幅をきかせる、投機をやってのける手立てなのである。或る社会は、死者に対してこの種の態度をとる。社会は死者に休息を与えず、死者を動員する。時として、それは語義通りの動員であり、例えば、死者の徳や力を身につけたいという願いに基づいた食人や死体嗜食の風習がそれに当たる。威信を競い合う関係に置かれている社会のよ(end68)うに、象徴的な動員の場合もある。そこでは、競争に加わっている者は、絶えず死者に向かって、敢えて言うなら「救いを求め」ざるをえない。そのようにして彼らは、先祖を引き合いに出し、系譜を偽りもして自分たちの優越を正当化しようと努めるのである。こうした社会では、そうでない社会以上に、人々は、彼らがいいだけ利用している死者のために、社会の平安が乱されているのを感じている。死者は、うるさく付き纏われたお釣りを社会に返しているのだ、と人は思っている。生者が死者を利用しようとすればするだけ、死者は生者に対していっそう気難しく、喧嘩腰になるのである。しかし、第一の場合のように公正な分配をするにせよ、あるいは第二の場合のように度外れの投機をするにせよ、そこに支配的に働いているのは、死者と生者との関係において、結局「二人で分け合う」ことになるのは避けられないという考え方なのである。
 こうした両極端の立場のあいだに、移行型を示している様々な態度がある。カナダの西海岸のインディアンやメラネシア人は、儀式の中で、祖先を彼らの子孫に有利な証人にしようとして残らず引き合いに出し、比べるのである。中国やアフリカの或る種の祖先祭祀では、死者は個人としての人格をもち続けるが、それは幾世代かのあいだに限られている。合衆国南西部のプエブロ族のあいだでは、死者は直ちに死者としての人格をもたなくなるが、幾つかの特殊な役割を分担する。死者が無感覚で無名の存在になるヨーロッパでさえ、民間伝承は、死者には二つの種類があるという信仰によって、別の死者観のあり方の痕跡を保っているのである。それによると、自(end69)然な原因で斃れた者は保護者としての先祖の一群を形づくっているが、自殺した者や暗殺された者、呪い殺された者などは、禍いをもたらす嫉み深い精霊に姿を変えるのである。
 今、西洋文明の進化に考察を限ってみれば、投機的な態度は、死者と生者の関係の契約的な把握の前に次第に消滅してゆき、後者が、福音書の「死者は死者をして葬らしめよ」という文句にうたわれているとみられる無関心に、席を譲ったことは疑いを容れない。だからといって、この進化が普遍的な形に対応すると推定する理由は、少しもないのである。むしろ、すべての文化は二つの方式を漠然と意識のうちに抱いていて、その一方に重点を置きはするが、迷信じみた行為によって、もう一方についても保証を取り付けておくことを決して怠ってはいないのである(第一、われわれ自身も、信仰や無信仰をはっきり表明している一方で、それを行ない続けているのである)。ボロロ族や、私が例として挙げてきた他の民族の独自な点は、彼らが二つの可能性を自分たちのうちにはっきり認め、二つの可能性の各々に対応する信仰と儀礼の一体系を作り上げているということ、さらには、二つのものを融和させる望みを抱いて、一方から他方への移行を可能にする仕組を作り出していることにある。
 もし私が、ボロロ族にとって自然死は存在しない、と言ったとすれば、私は自分の考えを十分に言い表わしたとは言えない。彼らにとっては、一人の人間は一つの個体ではなく一つの人格なのである。人間は社会学的な宇宙の部分を成している。集落は、物理的宇宙と隣り合って、全き(end70)無窮のうちに存在しており、物理的宇宙そのものも、他の霊魂をもった存在――天体や気象現象――から成っている。このことは、実際に、或る村が(耕地の消耗のために)同じ場所に三十年以上留まることは滅多にないという、かりそめの性格をもっているにもかかわらず言えるのである。従って村を成しているのは、土地でも小屋でもなく、すでに詳述したような或る一つの構造であり、その構造をすべての村が再現するのである。宣教師たちが村の伝統的な配置を妨げることによってすべてを破壊することも、このようにして理解できる。
 動物について見ると、彼らの一部、とくに魚と鳥は人間の世界に属しているが、或る種の陸棲動物は物理的宇宙そのものである。このようにしてボロロ族は、彼らの人間としての姿を、或る魚(その名で彼らは自分たちを呼んでいる)の姿と、アララ鸚鵡(その姿になることで、ボロロ族は輪廻のひと巡りを終わる)の姿とのあいだの移行形と看做している。
 ボロロ族の思考が(この点では民族学者と同様に)自然と文化との基本的な対置によって支配されているとするならば、デュルケームやコント以上に社会学者である彼らにとって、人間の生命は文化の系に属するということになるだろう。自然死だとか反自然死だとかいうことは意味を失ってしまう。事実においても建前としても、死は同時に自然であって[﹅6]しかも反文化的[﹅4]である。つまり、一人の先住民が死ぬ度に、彼の近親者だけでなく社会全体が被害を受けることになるのである。自然が社会に対して科[とが]を負うべきこの損害は、自然の側に「負債」を生じさせることに(end71)なる。「負債」という言葉は、ボロロ族における根源的な観念の一つである「モリ」の観念を、かなりよく訳出していると言える。住民が一人死ぬと、村は集団で狩りを催すが、これは死者の属していない方の半族に委ねられる。自然に向けてのこの討伐行は、大きな獲物を一頭、なるべくならジャガーを一頭仕留めることを目的にしており、その毛皮、爪、牙は死者のモリを成すことになる。
 (67~72; 「23 生者と死者」)

     *

 北部には、猫とジャガーの交配から生まれた山猫[ガト・ヴァレンテ]がいるなどと聞かされても、私はどうしても本気にできなかった。しかし、或る相手が私にしてくれた次のような話の中には、心に留めておくに値する何かが恐らく含まれているのではないかと思われる。たとえそれが、所詮は荒野[セルタウン]の生活から生まれた型通りのお話でしかないとしても。
 パラグアイ河の上流に臨む西部マト・グロッソの町、バラ・ドス・ブグレスに、蛇に嚙まれた傷を治す田舎医者[クランデイロ]が暮らしていた。彼はまず、患者の前膊をスクリーという大蛇の歯で突き刺す。それから彼は、地面に小銃用の火薬で十字を描き、それに火を付けて煙の中に患者の腕を差し伸べさせる。最後に、木綿を少し取り、アルティフィシオ(石の発火道具で、布を解して角型の容器に詰めたものが火口[ほくち]になっている)でそれを焦がし、カシャーサに浸して患者に飲ませる。それで終りである。
 或る日、トゥルマ・デ・ポアイエロス(イベカクアーニャという薬草の採集人の群れ)の親方が、この治療の場に居合わせた。親方は医者に、次の日曜まで手下の男たちが来るのを待って欲しい、連中はきっと一人残らずこの予防接種をしてもらいたがるだろうから、と頼んだ(料金は一人五ミルレイス、一九三八年のフランス通貨にして五フランである)。田舎医者は承知した。(end127)
 土曜日の朝、バラカウン(共同小屋)の外で犬が吠えているのが聞えた。親方は手下の一人に様子を見に行かせた。それは一匹の怒ったカスカヴェル〔がらがら蛇〕だった。親方は、田舎医者にこの動物を捕えるように命じた。医者は拒んだ。親方は怒って、捕えなければ手下の予防接種はさせない、と言い渡した。田舎医者は仕方なく蛇の方に手を伸ばし、嚙まれ、そして死んだ。
 この話を私にしてくれた男は、彼もこの田舎医者に予防接種をしてもらい、その後、医療効果を調べるために蛇に嚙ませてみたが、何ともなかった、と話してくれた。もっとも――と彼は付け加えた――、それは毒蛇じゃなかったんだが。
 私がこの物語を書き写すのは、それが、ブラジルの内陸に生きる庶民の思考を特徴づけている、辛辣さと素朴さの混合――悲惨な出来事について語っていながら、それをまるで日常の些事のように扱っている――をよく表わしているからである。一寸考えただけでは馬鹿げて見える、この結論の意味を取り違えてはならない。この物語の語り手は、後に私がラホールで招かれた夕食の席上、アハマディ派の新イスラム運動の指導者から私が聞いた話と同じような論法を用いているのである。アハマディ派の人々が正統派から分離したのは、とりわけ歴史の過程で救世主を自称した人々(その中にはソクラテス仏陀も数えられていた)は、すべて本当にその通りだったのだという確信によるものであった。そうでないとすれば、神は彼らの不謹慎を罰したに違いない、というのであった。(end128)
 同じようにして、ロザリオで私に蛇の話をしてくれた男も、田舎医者に喚び出された超自然の力は、もし医者の呪術が本物でなかったとしたら、普通は毒をもっていない蛇にも毒をもたせることによって、医者を裏切ろうとしたに違いない、と恐らく推論したのであろう。医療は呪術と看做されていたから、この男も同様に呪術的な次元で、だが、曲りなりにも実験的な方法で医療の真偽を確かめてみたのである。
 (127~129; 「25 荒野で」)