2016/7/13, Wed.

 長くまどろんだあとに意識がやや晴れて、白い空を眺めてから時計に目をやると、一〇時一〇分だったのを覚えている。それから布団を身体の上からどかして、しばらくごろごろしたのち、一〇時半に床を抜けた。洗面所に行って顔を洗ったり用を足りたりしてきてから、枕の上に帰って瞑想、一〇時三七分から四八分までである。目を閉じて座っていても、頭こそ振れないが、眠気がほどけていかずにかえって内に籠って身体中に浸透していくようだった。確かこの瞑想中に、雨音が始まったはずだ。終えて上へ行くと、卵とハムを焼き、前夜のジャガイモの残りを温め、即席の味噌汁も用意して卓に就いた。新聞を中途半端に読みながら食べたあと、居間の椅子から動かずにだらだらとしているうちに一一時半を過ぎ、一二時近くにもなったのではないか。皿を洗ったあとソファに座りこんで、テレビに映る三分クッキングを眺めた。非常に気怠く、気力が湧かず、このままふたたび眠りたいような感じがした。牛肉とアボカドにプチトマトを合わせた炒め物ができあがっていくのを見ながら、前日分の記事はそれほど書き足すこともないから、今日はさっと部屋で書いてしまい、ごろごろしながら本を読んでから手ぶらで出勤するかと考えた。それで風呂を洗いに立ちあがって、その後蕎麦茶を持って自室に帰った。インターネット各所を確認したあと、一二時半頃から前日のことを記しはじめたのだが、前夜と同じようにまたしても途中でJeff Beckの演奏動画を眺めてしまった。色々と見ているうちに、関連動画に二〇一六年のRitchie Blackmore's Rainbowのライブ映像が現れた。Ritchie Blackmoreが昨年、来年六月にRainbow名義で欧州公演を行うつもりだ、曲目はRainbowやDeep Purple時代のものとなると述べたことは先日知ったのだが、いざBlackmore当人が魔法使いめいて背の高い帽子を被り、仏頂面でステージに立って往年の曲を演じているのを見ると、本当にやったのかと驚かざるを得ない。七〇を越えた老人が "Highway Star" やら "Burn" やら "Spotlight Kid" やらやっているのだからよくやると思うが、さすがにギターソロ部分は再現できず、お粗末なものである。とはいえファンは彼自身が、まず間違いなく最後の機会になるだろうが、ふたたびRainbowとして姿を現し、全盛期の名曲群を披露してくれただけで大喜びだろう。それにしても、Jimmy PageやらEric ClaptonやらRitchie Blackmoreやら、いまや七〇代に差し掛かったクラシックロックの英雄たちの近年の姿形と演奏を見るにつけ、そのなかでJeff Beckの凄まじさが際立ってくるものだった。Led ZeppelinDeep Purpleの方面と音楽形式が多少違うことは違うが、しかし七〇を過ぎていながらあれほど鋭利かつ繊細にエレクトリックギターを鳴らせる人間は、ほかに見当たらない――年齢を条件に入れなくとも、それは同じだが、まったくの衰えを見せていないのが驚異的である。古井由吉みたいなものだろう。それで一時四〇分頃になってブラウザを閉じ、Evernoteの記事に戻って、前日の分をひどく簡単にさっと仕上げてのち、普段通りならばこの日の分にも取りかからなくてはならないはずだが、面倒がられたのでメモを取るだけに済ませた。雨は降り続けており、振り向くと窓外の空気に乳白色が混ぜこまれて濁っていた。棕櫚の葉の端から雫が断続的にこぼれ落ちて、それに打たれた下の葉が素早くお辞儀をするように軽く震えては止まるのを繰り返していた。その後、ベッドに転がって読書、浅井健二郎編訳・久保哲司訳『ベンヤミン・コレクション1 近代の意味』を少し読んでから、身体を動かし、そして上階に行った。母親の作ってくれたサンドウィッチを食べるのだが、卓に就いて南窓のほうに目をやると、外がひどく白いなと思われた。そしてその白さが、窓のすぐ外に浮かんでいるかのように、近い。輪郭線こそ消えてはいないが、山は石灰水めいた大気の内に封じこめられて表面の陰影を失い、それより手前にある川向こうの家屋根も川沿いの林も、合わせて同じ一つの平面に均されたかのようだった。ソファに座った母親はタブレットをいじっていたようだが、そのうちに眠いと言って、頭を後ろに預けて大口開けながら死体のように眠っていた。食事を取ってから室に帰り、午後三時を回ると書き抜きを始めた。マルセル・プルースト/鈴木道彦訳『失われた時を求めて』の一巻である。ひらいた窓から拡散性の雨音が響き、そのなかから車の扉を閉めるくぐもった音が伝わってきた。じきにFairport Convention『Live at the LA Troubadour』を流しはじめて進めていたが、フォークロック調の音楽からの連想で、Robert Plantも近年はフォーク調だったり民族音楽風のものだったりをやっているのではなかったかと思いだした。それでまたしても動画を閲覧したのだが、歌声もそれほど弛緩しているというわけでもなく、良い歳の取り方をしており、ワールドミュージックの楽団風にアレンジされた "Black Dog" など見る限り、面白そうなことをやっているようだった。その後書き抜きに戻って打鍵を続け、四時を回ると、出勤前にごろごろとしたかったので、ベッドに帰ってまた『ベンヤミン・コレクション1』を読んだ。同時に両の脹脛を膝でよくほぐしておき、四時四五分ほどになると、外出の支度に掛かった。制汗剤ペーパーで肌を拭ってからワイシャツを着て、細いネクタイを締めて鞄は持たずに出発した。雨は続いていたので傘を持ったが、大した降りではなかったので、広げずに歩きはじめた。玄関のすぐ外でも空気は霧がかって、煙いようになっていた。坂の途中、木の間から覗いてみても林に縁取られた川に靄が溜まって、普段は露出している川面が少しも見えなかった。犬の散歩をしている近所の婦人と二言三言交わしながら道を行き、街道に出て少し行くと、向かいの家の戸口で老人が二人、麻柄を燃やし、盆の迎え火を焚いている。そこを過ぎ、タイミングを見計らって渡ると、Antonio Sanchez『Live In New York』を流すとともに、傘をひらいた。裏通りを行くあいだも二軒、迎え火を見かけた。軽く歩いていって職場に着くと、すぐに働きはじめた。退勤は例によって九時半過ぎである。出が一緒になった同僚二人とちょっと立ち話をしてから別れ、裏通りに入ったところで、傘を忘れたことに気付いたので職場に戻った。もはや不要のものを片手に提げて、生温い夜気のなかを行き、表に出ると自販機でジンジャーエールのペットボトルを買った。両手を塞いで歩いていき、帰宅すると室内の空気がひどく蒸し暑かった。手を洗って部屋に下り、それほど疲れもなかったので下着一枚になるとすぐに瞑想を行った。一〇時一五分から三〇分まで一五分間、この日のことを思い返したりしつつ座ると、上に行き、食事を皿によそった。鶏五目ご飯や、炒めた茄子などである。それでものを食べたが、父親の見ていたテレビがどんなものだったかはまったく覚えていない。入浴するのは多分一一時二〇分頃になったのではないか。浴室に入ると窓ガラスに白く小さな影があって、ヤモリではないかと気付いた。ガラスの向こう側に貼り付いて、天地を逆に、腹を見せていた。こちらの入ってきた気配や、風呂の蓋を開ける音などに感じて細かく動く。あまり驚かせないようにしながら湯を一杯浴び、浴槽に入ると窓に近づいて目を寄せたのだが、磨りガラスのために粘土めいた白さの朧げな体がひくひくと、かすかに収縮するのがわかるだけだった。そのうちに窓の角に尾だけを残して止まったので、つんつんとガラスのこちら側を叩いて逃がしてやり、見えなくなると湯のなかに座った。湯浴みを終えて室に帰ると、多分もう零時を過ぎていたはずである。書き抜きをするか新聞を写すかで迷いながら、どちらにもさっさと取り掛かれずにインターネットを回って時間を使い、結局一時近くなってから前日の夕刊から記事を写しはじめた。Fairport Conventionの続きを流し、それが終わるとFaith Pillow『Live 1981』に移した。それで一時半を迎えたのちは、怠惰の虫に負けて電脳の海に繰りだし、ポルノを見て下半身から精を抜きつつ大海をうろついて、三時である。寝床に移って『ベンヤミン・コレクション1』を読んでいるうちに、意識が細かく途切れるようになるのだが、その一回一回に必ず何らかのイメージや夢の断片が伴い、しかも目を覚ますとともにそれらは例外なく溶けて消えた。三時四〇分を迎えてもう眠ろうと瞑想を始めたが、とても覚束なく、姿勢を保つことができないので、五分で終えて明かりを消した。



 長いあいだ、私は夜早く床に就くのだった。ときには、蠟燭を消すとたちまち目がふさがり、「ああ、眠るんだな」と考える暇さえないこともあった。しかも三十分ほどすると、もうそろそろ眠らなければという思いで目がさめるのだった。私はまだ手にしているつもりの本をおき、明りを吹き消そうとする。眠りながらも、たったいま読んだことについて考えつづけていたのだ。ただしその考えは少々特殊なものになりかわっている。自分自身が、本に出てきたもの、つまり教会や、四重奏曲や、フランソワ一世とカルル五世の抗争であるような気がしてしまうのだ。こうした気持は、目がさめてからも数秒のあいだつづいている。それは私の理性に反するものではないけれども、まるでうろこのように目の上にかぶさり、蠟燭がもう消えているということも忘れさせてしまう。ついでそれはわけの分からないものになりはじめる――転生のあとでは前世で考えたことが分からなくなるように。本の主題は私から離れてゆき、もうそれに心を向けても向け(end21)なくてもよいことになる。と、たちまち私は視力をとり戻し、まわりが真っ暗なのに気づいてすっかり驚くのだった。目に快く穏やかな闇、だがおそらく精神にとってはいっそう快く穏やかな闇――というのもこの闇は精神にとって、原因もなしにできたわけの分からないもの、本当にあいまいな何かに見えるからだ。いったい何時になったのだろう、と私は考えるのであった。汽車の汽笛が聞こえ、それは遠く近く、森にさえずる一羽の小鳥の歌声のように、たがいを隔てる距離を浮き彫りにしながら、私の心のなかに、寂しい野原の広がりを描きだしていた。その野原を一人の旅人が、次の駅へと急いでいる。そして新しい土地や、慣れない行動や、いまなお夜の静けさのなかで心につきまとう見知らぬ家の灯火のもとでつい先ほど交した歓談や別れの挨拶、あるいは近づく帰郷の楽しさなど、こういったものが彼の心をかきたてるので、いまたどっている細道は、今後も彼の記憶に深く刻みこまれることになるのである。
 私は自分の頬を、枕の美しい頬にやさしくよせるのだった――幼年時代の頬のような、まろやかで新鮮な枕の頬に。時計を見るためにマッチをするのであった。やがて十二時だ。それは、どうしても旅行に出かける必要のできた病人が、見知らぬホテルに泊まることになり、発作を起こして目がさめたときに、ドアの下からさしこむ一条の朝の光を見つけて喜ぶ瞬間である。助かった、もう朝になったんだ! じきに従業員が起きてくる、ベルも押せるし、助けにもきてくれる。楽になれるという希望が、苦しみに堪える勇気を病人に与える。ちょうどそのとき、彼は足音を耳にしたような気がする。足音は近づき、そして遠ざかる。ドアの下からもれていた朝の光は消(end22)えてしまった。十二時だ。いまガス灯を消したところだ。最後の従業員も行ってしまい、こうしてひと晩中、薬もなしに苦しみつづけなければならないのだ。
 私はふたたび眠ってしまう。そしてたいていの場合、もはやときおりほんの一瞬短く目ざめるだけで、それもわずかに羽目板の乾いて割れる音を聞いたり、目を開けて闇の万華鏡をじっと見つめたり、あるいは意識にちらりとさしこむ薄明りのおかげで、家具や部屋、要するにすべてのものが浸っているこの眠りを味わったりするだけの時間にすぎない――私はその全体の一部にすぎず、なんの感覚もないそうした全体にたちまち自分も融けこんでゆく。あるいはまた眠りながら、永遠に過ぎ去った幼いころの一時期に楽々と追いついて、大叔父に巻き毛を引っぱられはしないかといったような他愛もない恐怖感、その巻き毛が切られた日――つまり私にとって新時代の始まった日――以来、消え去っていた恐怖感をふたたび見出すのであった。私はこの巻き毛が切られた事件を、眠っているあいだはすっかり忘れており、大叔父の手を逃れようとしてうまく目をさましたとたんにふたたび思い出したのであるが、それでも用心して、夢の世界に引き返す前に、枕ですっぽり頭を包んでしまうのだった。
 (マルセル・プルースト/鈴木道彦訳『失われた時を求めて 1 第一篇 スワン家の方へⅠ』集英社、一九九六年、21~23; 書き出し」)

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 私たちをとりまいている事物の不動性は、ひょっとすると、その事物がそれであって他のものでないという信念、つまりそれらを前にしたときの私たちの思考の不動性によって、押しつけられているのかもしれない。(……)
 (25)

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 渦を巻いて錯綜するこういった思い出は、かならず数秒で消えるけれども、そのときよく私は、ちょっとのあいだ自分の居場所があいまいになり、そのあやふやな状態を作りだすさまざまな想定を互いに区別することもできなくなってしまう――ちょうど本物の馬が走るのを見るときには、映写機が次々と映し出す馬の位置をばらばらに切り離すことができないように。それでも私は、かつて実際に住んだ部屋の一つを、ときにはまた別の一つをと、少しずつ思い出してゆき、しまいには目がさめたあとで長々と夢想をつづけるあいだに、すべての部屋を思い起こせるようになった。冬の部屋、そこでは寝るときになると、枕の端や、毛布の襟や、マフラーの一端、ベッドの縁、「デバ・ローズ」紙の一部など、およそ雑多なもので巣をこしらえ、最後にはあくまで鳥が巣を作る技術を頼りに、これらをいっしょに塗りかため、その巣のなかに首をちぢめてもぐり(end27)こむのである。その部屋では、凍てつくような寒さの日になると、戸外から隔てられていると感じるのが喜びになり(海鳥が、穴の底の大地の熱に包まれたところに巣を構えるように)、また、ひと晩中暖炉に火の気の絶やされることもないので、暖かくけむい空気に包まれて眠ることになるのだが、ときどき燃えあがる燠火に照らしだされるその大きな空気のマントは、いわば形をなさない奥まった場所[アルコーヴ]か、部屋そのもののなかにうがたれた一種の暖かい洞窟であり、燃えたつ地帯であって、しかも部屋の隅や、窓に近かったり暖炉と離れていたりして冷えきったところから、顔にひやりと風が吹きかかって、その熱の輪郭はゆれ動いているのである。――夏の部屋では、生温い夜とひとつになりたいと思うのだが、半開きの鎧戸にもたれかかった月光が、その魔法の梯子をベッドの足許にまで投げているので、眠るといっても戸外同様に、光の先端で微風にゆれているシジュウカラのように眠ることになる。――ときにはそれがルイ十六世時代の様式の、とても明るい部屋になり、最初の晩から私はたいして寂しいとも思わなかったほどだが、そこでは軽く天蓋を支える小柱が、じつに優雅に左右に離れてベッドの位置を示し、その場所を確保しているのだった。ときには逆に狭くはあるが天井がとても高く、二階にも達するくらいにピラミッド型にえぐられて、部分的にマホガニーの張られた部屋になり、そこに足を踏み入れるやいなや、私ははじめてかぐ防虫剤[ヴェチヴェール]の臭いですっかり気分を悪くしてしまい、紫のカーテンの放つ敵意と、こちらのことなど眼中にないかのように大声でわめている柱時計の、人を人とも思わない無頓着さとを、思い知らされるのである。――またそこでは四角ばった脚をした異様で非情な姿見が(end28)部屋の一隅を斜めにさえぎっており、静かに充実した私のいつもの視野のなかに、思いもかけず生傷をぱっくりとあけているのだった。――またそこでは思考が、正確に部屋の形そのものになり、この巨大な漏斗[じょうご]のてっぺんまで満たすべく、何時間ものあいだばらばらになったり、のび上がったりしながら、数々の眠れないきびしい夜に堪えてきたのであり、一方そのあいだ私はベッドに横になり、目を上げ、耳をそばだて、鼻孔をこわばらせ、胸をどきどきさせているのだが、いつかこの部屋に慣れるにつれて、習慣がカーテンの色を変え、柱時計を黙らせ、斜めにおかれた残酷な鏡にも憐れみの気持を教え、防虫剤の臭いを完全に追放しないまでもそれを気にならなくさせ、そして天井を著しく低く見せるようになるのであった。習慣! この巧妙な、だがひどくのろまな調整者は、最初は何週間も私たちの精神を、一時的な仮の調度のなかで苦しめる。しかしなにはともあれ精神は、この習慣を見出せば大喜びなのである。それというのも精神は、もしも習慣がなくなって、自分の持っている手段だけに頼るようになると、一つの部屋を私たちの住めるようなものにすることもできないであろうから。
 (27~29)

     *

 ぎくしゃくした馬の歩みのままに、恐ろしい企みを秘めたゴロが、丘の斜面を暗い緑のビロード状にしている三角形の小さな森から出てきて、哀れなジュヌヴィエーヴ・ド・ブラバンのお城に向かってぴょこぴょこと進んでゆく。その城は一本の曲線によって区切られているが、その曲線とは、実は幻燈の溝に滑りこませた枠のなかにはめられている楕円のガラスの縁にほかならない。つまり城の一角だけが見えているのであり、その城の前面にある荒野では、青いベルトをしたジュヌヴィエーヴが夢想にふけっている。城と荒野とは黄色だが、見るまでもなく、私にはその色が分かっていた。というのは、枠にガラスをはめる以前に、ブラバンという名前の金褐色の響きが、その色をはっきりと示していたからである。ゴロは一瞬立ち止まって、大叔母が声高に読み上げる口上に悲しげに耳を傾け、それを完全に理解したような顔で、従順に、だが一種の威厳を保ちつつ、台本の指示どおりの身ぶりをする。それから前と同じくぎくしゃくした足どりで遠ざかってゆくのだった。そして何ひとつ、ゆっくりと馬を進める彼をとめることはできない。幻燈を動かすと、ゴロの馬はどんどん窓のカーテンの上にまで進んでいって、カーテンの襞のところでふくれ上がったかと思うとその凹みに下りてゆくのが見えるのだった。ゴロの身体それ自体も、乗っている馬と同じく超自然的なもので、遭遇するいっさいの障害物、いっさいの邪魔物を受け入れ、骨か何かのように自分の体内に入れてしまうので、たとえそれがドアの把手であっても、ただちにそれに身を合わせ、その上にはっきりと赤い着物が、あるいは彼の蒼白な顔が、(end31)浮かび上がるのだが、それはいつも同じように上品で憂愁をたたえながら、しかもこのように背骨が歪んでもいささかの苦痛も示さない顔なのであった。
 (31~32)

     *

 このような庭のぐるぐるまわりが夕食後に始まると、祖母を家のなかに戻らせる力を備えたものは一つしかなかった。それは――ひとまわりするたびに、祖母がまるで蛾のように、周期的に小サロンの明りの前に連れ戻され、その小サロンではちょうどカルタテーブルの上にリキュールが出ている、といったときに――大叔母がこう叫ぶことだった、「バチルド! ご主人がコニャックをあがるわ! とめなさいってば!」 実をいえば大叔母は祖母をからかおうとして(祖母は、父の家庭のなかにあまりに異質な精神を持ちこんでいたので、みなが彼女のことを冷やかしたり、いじめたりするのだった)、祖父がリキュールを禁じられているものだから、わざわざそれをほんの少し飲ませたのである。可哀そうに、祖母は部屋にはいってきて、コニャックなどなめるのはやめてくださいと、懸命に夫に頼むのだった。祖父は腹を立てて、かまわずにひと口飲み下す。すると祖母は、悲しそうながっかりした表情で、それでも微笑しながら、また外に出て行ってしまう。それというのも、祖母はとてもへり下った心をしており、とても優しい人柄なので、他人に対しては深い愛情を抱き、自分自身や自分の苦痛などは軽視するという態度が、その眼差しのなかでうまく調和して一つの微笑となっていたからで、そこでは多くの人びとの顔に見られるものとは異なって、皮肉は自分自身にしか向けられておらず、私たちみなに対しては、まるで目で(end34)接吻を送っているようだった。その目は、祖母の可愛がっている人びとを見るときに、その眼差しで熱烈に愛撫しないではいられないのである。祖母に対して大叔母の加えるこの責苦や、祖母がリキュールグラスを祖父の手からとり上げようとしても無駄で、空しく懇願するけれどもはじめからあきらめて弱気になっている光景は、何度も見ているうちにやがて慣れっこになってしまう類いのことであり、しまいにはみなも笑いながらその様子を眺め、それが迫害には当たらないことを自分に納得させるために、すすんで陽気に迫害者の側についてしまうのである。しかし当時の私はその光景にぞっとするあまり、大叔母をひっぱたいてやりたい気がしたくらいだった。けれども、「バチルド、ご主人がコニャックをあがるわ! とめなさいってば!」が耳にはいるやいなや、卑怯さにかけてはすでに大人だった私は、大人になったが最後だれしもが、他人の苦悩と不正を目撃するときに行なうことをやったのである。つまりそれを見まいとしたのだ。私は家のてっぺんに上がって行き、屋根裏の勉強部屋の隣にある小部屋で声を上げて泣き出すのだが、そこには臭気止めのアイリスがにおい、また壁石のあいだから外にのびた野生の黒スグリが花のついた枝を半開きの窓からさし入れて、この小部屋を香りで満たしているのだった。本来は特別な下[しも]の用途にあてられていた部屋、昼間はそこからルーサンヴィル = ル = パンの城跡の塔まで見えるこの部屋は、おそらく鍵をかけられるのがそこだけだったためだろう、私にとっては長いあいだ、侵すべからざる絶対孤独を要求するすべての仕事、すなわち読書、夢想、涙、官能の快楽のための、隠れ家になっていた。なんということだろう! 私は知らなかったのだ、午後の、ま(end35)た夕方の、絶え間のないあの庭歩きのあいだに、祖母にとっては夫のわずかばかりの不養生よりも、私の意志の弱さ、ひ弱な身体、それらが未来に投げかける不安などの方が、はるかに悲しく心配の種だったのであり、斜めに空に向けられたまま何度も私たちの前を過ぎてゆく祖母の美しい顔の、皺の刻まれた褐色の頬、年をとってまるですき起こされた秋の畑のようにほとんど薄紫色[モーヴ]色になり、外出のときは半ば上げられた小さなヴェールで隠されているその頬の上には、寒さのためか、それとも何か悲しい思いのせいか、心ならずもこぼれた一滴の涙がいつも乾きかけているのであった。
 (34~36)